*本文の著作権は1013、c・カーター氏及び 20thFoxに帰属します。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <Cigarette Girl> by akko 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  サイドテーブルに手を伸ばすと、彼女は煙草を一本取り出した。  ベッドのクッションに身を横たえ、それに火を点けて、ふかす。  不味い。  吸い始めたばかりの頃の、喉の奥にへばり付くようないがいがしさこそなくなっていたが、煙を 吸い込んだ時の、吐き気にも似た気分の悪さだけは変わりようがない。彼女は黒い煙が肺の中を満 たしていくのを虚ろな目で味わった。  「やめろよ。」  傍らから声が聞こえてきた。  「ベッドでのことの後に煙草が似合うのなんて、娼婦ぐらいなもんだぜ。」  彼女と同じようにシーツに身を包み、クッションに肘をついて余韻に浸る男。たくましそうに見 える胸板以外、顔も腕もどことなく貧相に見えるその瞳には、艶っぽい満足感が浮かんでいた。  彼女は男を一瞥したが、すぐに顔を背けた。  「・・・娼婦で結構。」  そして、薄暗い部屋の中で微かに浮かんでいるのが判る煙を、ぼんやり見つめた。  疲労感、倦怠感、そして不自然な満足感が煙のようにまとわりついている。彼女はそれを追い払 うように煙を吸い込み、吐き出した。肺が一呼吸ごとに黒く汚れていくのを表すかのように、部屋 の中は白い霞で濁っていった。  一本吸い終ると、彼女はおもむろにベッドから這い出た。  「もう行くの?」  「仕事だもの。」  臆することなく裸体で立ち上がり、部屋中に散らばっている衣服を一つ一つ身に着けながら答える。 もう何回となく繰り返している行為だ。  「次はいつ会おうか?」  「さあ、いつでも。」  「じゃあ今夜。」  彼女はブラウスのボタンを止める手を休め、振り返った。  「――――今夜ですって?」  方眉を吊り上げながら彼女は言った。男は肘を付いたままニヤッとした。  「嫌かい?」  「いいえ、ただよく体力が持つなと思って。」  「体力じゃないよ。気分の問題。」  そう言ってニヤニヤしながら自分を見つめる男に、彼女はほんの一瞬、憎しみを抱いた。そしてそ れを隠すために――――あるいはそれを態度で示すために――――再び背をそむけるとパンツにブラ ウスの裾を押し込み・・・もう一本、煙草に火を付けたい衝動を押さえ込んだ。  「気乗りしない? それとも予定でもあるの?」  「いいえ」  彼女はジャケットを羽織ながら言った。  「じゃあ8時にいつものところで。」  そして髪を簡単に手で梳きながら、再び男に視線をやった。彼はさっきまでと全く違わぬ姿勢で、 彼女が身支度を整えているのを眺めていた。  「――――判ったわ。」  男から目をそらすと――――二度と振り返ることなく――――彼女は荷物を取り上げ、ドアに向か った。  「じゃあね、ダナ。」  「じゃあね、フレッド。」  フレッドの見送りにおなざりな返事を返すと、スカリーは部屋を後にした。  「おはよう、モルダー。」  「やあ、おはよう。」  いつもの挨拶を交わすと、スカリーは奥の続き部屋にある自分の席に腰を下ろした。  彼女の憂鬱な一日が始まった。窓のない部屋に閉じこもり、報告書を作成し、資料の整理をする。 取り分けた事件もなく、久しぶりにたまっていく一方のデスクワークを片付けるチャンスができた のはいいが、それも2日目ともなると流石に嫌気がさしていく。特に寝不足の体と疲労のたまった 思考回路を引きずって出勤した今朝は、一日が永遠に続くような気分にさえなっていた。  体がだるい。  頭がぼんやりする。  それに・・・  彼女はポケットに忍ばせたカルチェの箱を、無意識に指でなぞった。  「どうした? 今日は一日寝て過ごすか?」  相棒の声に、彼女は自分がうとうとしていたことに気がついた。  「あ・・・あらやだ、ごめんなさい。」  彼は自分のデスクを覗き込むように見ていた。  その視線に咎めるような色はなかったが、彼女は慌てて身をつくろった。  「別にいいって。」  モルダーはからかうように言った。  「ていうか、寝ててくれるとありがたいな。いい加減、14,5の小僧をしかりつけるような口   調で怒られるとやる気がなくなるからさ。僕の好きなように整理ができないし。」  「あなたの好き勝手になんかさせられないでしょ?」  スカリーは内心ムッとして言った。  「そんなことさせたら、整理するどころか手元にあるものまで無くなるじゃない。私だってこん   な言い方はしたくないけど――――」  「判った、ごめんよママ。」  モルダーはお手上げのポーズで言った。  「何だかカリカリしてるな。それに朝から居眠りなんて珍しいじゃないか。どうせ今日もデスク   ワークなんだから、具合が悪いなら休めよ。」  彼の気遣いの言葉を聞いた瞬間、彼女は足場のないような感覚に襲われた。さっきと同様、彼の 台詞には攻めるような調子は含まれていなかった。しかしそのことに、たまらない居心地の悪さを 感じる。  「・・・大丈夫よ、単なる寝不足だから。」  昨日読んでいた論文があまりにも面白くて・・・彼女はとっさにそう続けるかどうか悩んだ上で、 を止めた。聞かれてもいないのに下手な言い訳するなんて不自然だ。そんなのは、聞かれてもいな いのに朝まで男といたことをカミングアウトするようなものだ、と。  「寝不足のときはあれがいいぜ、3軒先の地下のコーヒー屋。ランチはあそこにしよう。」  「ええ? 冗談じゃないわ。あそこのなんて、炭焼コーヒーっていうより炭じゃない。」  「スカリー、どうしても君は僕の味覚を信用していないみたいだな。」  「この世で一番信用できないのは、ずばり、あなたの味覚だわ。」  そうして二人は、ランチに何を食べるのかを真剣に話し合いながら、それぞれの仕事に取り掛か った。  男との情事で彼女が始めに得たのはスリルだった。  一晩かけてベッドの上で偽りの愛を交わし、ドアの前で別れ、素知らぬ顔で出勤する。行き交う 職員、同僚の捜査官、いつもと変わらぬ風景、顔。でも誰も知らない。私がつい一時間前まで、男 と絡んで乱れていたことを。  “それ”と自分が対面するのは、大抵トイレの鏡やよく磨かれたガラスを覗き込む時だった。何 気なく鏡に目がとまると、そこには自分の知らない女がいる。微妙に吊り上った眼、ほんの僅かの 乱れが見える髪、いつもより少し濃い目に紅が差された唇、そして胸元や項に残る、男の微かな体 臭と安ホテルのシーツの埃――――それが自分だと気付く度、彼女の胸はスリルと羞恥心でときめ いた。こんな娼婦みたいな顔で、さっきまで仕事をしていたんだ。上司や同僚の捜査官と顔を突き 合わせたり、知り合いの事務員と廊下ですれ違ったりしていたんだ・・・  それは一種のエクスタシーだった。男と会っている時の自分と、職場でIce Queenの仮面をかぶ って働く自分とのギャップ。そしてその仮面をいづれ誰かに剥ぎ取られるのでは、という不安。 それらは彼女にとって最高の媚薬となり、彼女はいつしか行為そのものより、そのスリルとときめ きからくるエクスタシーに酔いしれ、情事にのめりこむようになっていった。愛してもいない男と 関係しているという罪悪感ですら、単なる媚薬のスパイスでしかなくなっていた。  しかし・・・  「あのさ、いつもならこれを言うのは君の仕事なんだけどさ、」  スカリーははっと目を覚まし、その拍子に画面の角に頭をぶつけた。  「―――イタッ」  こめかみのあたりに鈍い痛みが走り、彼女は慌ててそこをさすった。  どうやら、先週の出張報告書を打ち込みながらまた居眠りしていたようだ。彼女の両手はキー ボードの上に置かれ、画面は指で抑えたままだった“t”の字の意味のない羅列で埋め尽くされ ていた。  自分のそのありさまに唖然としていると、モルダーが言葉を続けてきた。  「机に座ってるだけじゃ、片付くものも片付かないぜ。」  彼女は顔を真っ赤にして小さくなった。  そして彼のほうは見向きもせず――――頷くことさえしないで――――“t”の字をディレイ トし始めた。  「本当に大丈夫か? そう言えば、前にもこんなことあったじゃないか。」  彼女の神経が張り詰めた。その時もフレッドと会った翌朝のことだった。車での出張の最中、 助手席で眠りこけ、気がついたら目的地に着いていたのだ。その時は、モルダーに4時間近く 運転させたことを除けば、仕事に支障をきたすこともなかったのだが・・・  「・・・単なる寝不足よ。」  彼女はモニターを見ながら同じ台詞を繰り返した。  「やっぱり今日のランチは3軒隣だな。それが嫌なら不摂生はほどほどにしろよ。」  彼女は彼を軽くにらみつけた。  しかしそれを面白がるように、彼は続けた。  「誰だって睡眠は必要だってことだよな、スカリー。医者だって捜査官だって人間なわけだし。   本を読みたいとか、エロビデオ観たいとか、夜遊びした言ってのはみんな思ってることだけ   ど、身体を壊すぐらいやっちゃまったら――――」  モルダーの台詞が終わりかけたその時、彼女の身体にある衝動が走った。それは、吐瀉物のな い嘔吐だった。彼女は顔を真っ青にして立ち上がると、口を抑える代わりにうつむいて、モルダー の横を肩で風を切って通り過ぎた。  「ちょっと、眠気覚ましをしてくるわ。」  そしてそう言うと、オフィスから出て行った。    彼女が向かった先は、階段の地階寄りの踊り場だった。部署同様、位置的にも場末にある彼女の オフィスへと通ずるそこは人通りもほとんどなく、その代わり、灰皿と安いナイロンのソファーが 置かれただけの、簡単な喫煙所になっていた。  スカリーはソファーにどかっと腰をおろすと、カルチェの箱から一本取り出し、火を点けてふ かした。  肺一杯にたまった煙を一気に吐き出して壁に背をもたれると、つかの間、頭にまとわりつくもや もやした重りが剥がれ落ち、身体全体が軽くなったような気がした。  まるで、悪夢から開放されたような気分だ。  右手からは、細くて白い煙が一本、天井に向かって長く伸びていた。  こうして煙草を片手にぼんやりしていると、決まって思い出すのはあの時のことだ。  14歳の夏、初めて煙草を吸ったあの日――――  家中の人間が寝静まったあの夜、母親のバッグから盗み出した一本の煙草。単なる好奇心から 始まった、小さな冒険。  真っ暗なポーチで吸った煙草の味は最低だった。容赦なく彼女を襲う、吐き気とめまいと息苦 しさ。彼女はしかし、嗚咽を上げそうになるのを必死になってこらえた。声を聞きつけて、家の誰 かが起き出してきたら、私は必ず殺される。パパかママに見つかったら、ベルトを鞭代わりにして 私を死ぬほど叩くに違いない。「ダナ、なんて悪い子なの、なんていけない子なの!」  でも、  このスリルがたまらない・・・  それは幼い彼女にとって、最高のドラッグだった。  親に内緒で煙草を吸っていた瞬間があんなに輝いていたのは、それがいけないことだと知って いたからだ。スカリーは幼き日を思い返した。そして、そんな罪悪感からくるスリルに酔ってい た日々の内に、いつしか煙草を吸う事は、自分の意識の中で一番の大罪になっていたのかも知れ ない。彼女はこの2ヶ月の間に増えた煙草の量を漠然と数えた。  煙草を吸いたくなる時の気分はいつも同じだった。  罪の意識を消すためには、それに勝る罪悪感で自分を覆ってしまうのが一番いい。  スカリーがフレッドと会ったのは3ヶ月も前だったろうか。久しぶりの休暇で友達と飲む約束 をしていたのだが、バーに着き一杯頼んだ直後に、キャンセルと謝罪の電話が入った。彼女は仕 方なく、一杯飲んだら帰るつもりでいたのだが、そんな時、男が声をかけてきたのだ。  言ってみればもののはずみだった。その男と取り分けて話が弾んだわけでもなく、楽しいひと ときを過ごしたわけでも、ましてや酔いつぶれていたわけでもないのに――――記憶が正しけれ ば、彼女は最初の一杯と、フレッドが奢ってきた一杯だけしか飲んでいなかった――――成り行 きは、二人を同じベッドに裸で寝かせていた。別れ際、電話番号を交換するまで、お互いの名前 すら知らないままだった。  それ以来、二人は気が向いたら寝るというコンビニエンスな関係を続けていた。頻繁に会うこ とはなかったが、忘れかけていた頃にフレッドから電話があれば、仕事の用事でもない限り、彼 女は必ず彼の誘いに応じていた。こんな関係を持つなんて、自分を貶める行為だ――――始めの 頃こそそんな戸惑いもあったが、それが、健康な肉体と健康な欲望を持った男と女が出会ってし まったのだから仕方ないという開き直りに換わるまで、大して時間はかからなかった。  そして、その関係からくるスリルに快感を覚え始めた頃からだった。彼女が突然、煙草を吸う ようになったのは。  銘柄に関しては無知も同然の彼女が箱のデザインだけで選んだカルチェは、少女の頃吸ったそ れと変わらずひどい味だった。しかしその本数は、自分でも気が付かないほど緩やかにではあるが、 日増しに増えていった。フレッドと逢引をする度に一本、また一本と確実に・・・  あの男と会うのを“いけないこと”だと思ったことはなかった。  お互いに、都合のいい相手、ぐらいの認識で寝ているのだから、いつ関係が破綻しても惜しく はない。だったらせいぜい“今”を楽しもう――――その程度の割り切りを、自分にもフレッド にも許して、この気楽な関係を楽しんでいるはずだった。  それなのに、煙草の量は増えるばかり――――  もしかしたら、単なる考えすぎかもしれない――――彼女は再び煙を吐き出しながら思った。 人間の嗜好が突然変わるのはよくあることだ。ましてや、成人してから煙草を吸うのは初めて ではない。この数週間でカルチェをポケットに忍ばせていないと不安で歩くこともできなくな っているのは、単にニコチン中毒になりかかってるからかも知れない。  でも、それならなぜ煙を見る度に、幼い日の自分が目に浮かぶのだろう。真っ暗なポーチで 一人、スリルを楽しんでいる、もしくは、見つかったらどうしようと恐怖におののく自分が。  彼ですら、目の前で吸っていても何も言ってこないのに・・・   一本吸い終わってオフィスに戻ると、モルダーは自分のデスクで仕事をしていた。  スカリーが静かに中に入ると、彼はそれにも気がつかない様子で黙々と出張報告書を打って いる。彼女はそれを横目で一瞥すると、続き部屋に足を運んだ。  「スカリー、」  突然、モルダーが呼び止めた。  振り向くと、彼はモニターから目も離さずにデスクの引き出しをごそごそやっていた。  「これを・・・」  そう言って彼は引き出しの中からスカリーの方へ放ってよこした。  「スキナーの部屋からかっぱらってきた。あの人は使わないからな。きれいだろ?」  彼がどうでもいいガラクタのように放ってよこしたのは、安っぽいオフィスによくありそう な、ガラスの灰皿だった。  「一日に何度も踊り場とここを行ったりきたりしてたんじゃ仕事はかどらないだろ? こっ   ちも気が散ってしょうがないし。ただ、吸う時は換気してくれよ。僕まで吸いたくなるか   らな。」  「あ・・・でも・・・」  「大丈夫、女だから吸わないほうがいいとか、そんなつまんない事を言い出すような男じゃ   ないよ、僕は。」  そう、有無を言わさぬ調子で言うと、彼は――――結局スカリーのほうには目も向けようと しないまま――――仕事に戻った。  彼女は下手な言い訳も出てこないまま唖然と立ち尽くした。  一体何を意図してこんなことを・・・彼女は彼の後姿に限りない孤独を抱えた。思いやりの ある態度でもなければ当てつけとも思えない口調。しかしそれは明らかな拒絶だった。自分の 言動から感情を締め出すことによって、彼は彼女の存在そのものも自分の外へ追い出していた。  一体今更何で? この3ヶ月近く、喫煙に口をはさむつもりならいつでも機会は会ったのだ。 一たび出張にでもなれば車の助手席でも吸ったし、ランチ後のダイナーでふかした。それに踊 り場で見られたことだって・・・・  ・・・いや、違う。彼女の脳裏に、その度々の彼の横顔が蘇った。  言わなかったのではない。それ以前に、私を見ようともしていなかった・・・  カルチェの箱を取り出す時、それを口にくわえて火をつける時、彼の横顔は僅かに、引きつ るように歪んでいた。その時彼は、自分の視界から彼女を締め出そうと苦しんでいたのだ。視 界にすら入れようとしていないのだから、当然口出しなどするわけもない。  彼は私を、無視していたのだ・・・・  「あ、あの・・・モルダー、」  「あん?」  「吸ってもいいの・・・?」  またしてもこちらを見ようともしなかったが、彼女は彼が皮肉な笑みを浮かべるのを感じた。  「君に禁煙しろなんていう権利ないだろ?」  「で、でも、何で急に・・・?」  「言っただろ、お互いに仕事はかどらないんじゃ困るって。僕だってデスクワークは嫌いだ   けど、そろそろ無関心じゃいられないと思ったんだよ。」  「無関心って・・・?」  「所詮は君の身体だから、どこで肺を汚そうが勝手だってこと。」  スカリーの心が凍りついた。  それは、今まで感じてきたスリルが、単なる羞恥心に変わった瞬間だった。  彼女はこの時初めて、はっきりした形で罪を意識した。  彼は初めから私を責めていたんだわ。私を拒絶することで。  そしてそれを口に出して言われることを、私は恐れていたんだわ・・・  彼女は煙草の量が増え続けた原因を、悟ったような気がした。  彼の前では、仮面などつけていないも同然だったのだ・・・  「そうそう、無関心じゃ居られないと言えば・・・」  最後に彼は、振り返るとこう言った。  今度は、彼女の視線を真正面から捕らえていた。  「いい加減、明日は違う服着て来いよ。流石に煙草臭いぞ。」    スカリーが待ち合わせ場所――――フレッドと初めて出会ったバー――――に着くと、彼は 既にカウンターに座っていた。  「遅かったね。」  「ごめんなさい、残業になっちゃって・・・」  彼女は嘘をついた。本当は、今夜ここに来るべきかどうかどうか悩んでいたのだ。  「マティーニでいい?」  「ええ」  スカリーは無表情のまま隣に腰を下ろすと、フレッドは彼女の代わりにバーテンダーに注文 した。  彼女の心が刹那痛んだ。  この男の、さりげない気配りや優しさには心底感心する。おそらくそれは、この男が生来持 っていたものなのだろうが、あのような出会い方をしてしまった彼女には、そのひとつひとつ が下心の表れのように感じられて仕方ないのだ。  もしこの男と、友達としてやり直せたら・・・  「ダナ、もしかして痩せた?」  「え?」  マティーニのグラスをスカリーに渡しながら、フレッドは言った。  「そんな、今朝別れたばっかりじゃない。」  「昨日から言おうとは思ってたんだよ。ひょっとしたら、恋やつれ?」  「まさか・・・」  「じゃあ、こいつのせいかな?」  言って、フレッドはスカリーの手元を指差した。  スカリーは自分でも気が付かないうちにカルチェを取り出して、火をつけようとしていた。  「煙草吸ったぐらいじゃ痩せないわよ。」  そう言って彼女は、煙草に火をつけてふかした。  「全く、君って女は・・・その尊大なところが可愛げなんだから困るよな。」   スカリーはそれを、眉ひとつ動かさずに聞いた。その、自分の女なんだと言わんばかりの 言葉に、内心吐き気をもよおした。  「さあ、どうする?」  「どうって?」  彼女の聞き返しにフレッドはにやっとした。決まってるじゃないか、そんなの――――顔が そう言っていた。  「もう少しここに居ても構わないし、腹減ってるなら食事のできる店に移ろう。それでなけ   れば・・・」  彼女は、フレッドの言葉に嫌気がさす自分を理不尽だと思った。  酒か、食事か、ベッド・・・二人の間には初めからそれしかなかったはずだ。そして、この 男にそれ以外のものを与えなかったのは、他ならぬ自分だったはずだ。  「お腹減ったわ。」  「じゃあ場所変えよう。さっき良さそうな店見つけたんだ。給料出たし、今夜は奢るよ。」  「でも、もっと飲みたい。」  「じゃあ、その店でワインでも・・・」  「それに、もう部屋にも行きたい。」  「・・・え?」  そこまで聞いて、フレッドは初めてスカリーの異変に気がついた。  見やると、彼女はこっちに視線をやることもなく、無表情にカルチェを吸っていた。  「ダナ・・・?」  呼びかけても、まるで気がつかないかのように彼女は振舞っていた。  「一体どうしたんだ? 何がしたいんだ?」  その問いに、カルチェをはさむ彼女の指がはたと止まった。  正直なところ、彼女は何をしたいのかわからなかった。昼間の一件で、フレッドと寝たいとい う気持ちの大半は吹き飛んでいた。それでもここへ来たのは、やはり昼間の一件があったからだ。 彼の言う通り、私がどこで何をしようと勝手のはずだ。そんな反発が彼女の中で生まれ、悩んだ 挙句、ほとんど勢いでここに来てしまっていたのだ。  「君に任せるよ。ここで飲むならもう一杯オーダーするし、食事に出たいなら案内する。それ   に、早く済ませて帰りたいのなら、それでも構わないよ。」  寛大なフレッドの態度が鼻につく。この男のせいではないのに・・・。  「フレッド、」  一本吸い終わり、吸殻を揉み消すと彼女は口を開いた。  「今朝言ったわよね。私と会うのは気分の問題だって。」  「あ、ああ・・・」  「それは私と会いたいって気分? それとも、単にしたいってだけ?」  「そのどっちもだよ。」  「私と寝て、楽しい?」  唐突な質問に、フレッドは一瞬戸惑った。  「――――楽しいに決まってるじゃないか。だからこうして会ってるんだろ?」  「どうして楽しく感じるの?」  「どうしてって・・・君はとても魅力的だし、かしこいし・・・」  「魅力的でかしこいですって?」  スカリーは自嘲の笑みをもらしながら言った。  「こんなルーズな関係を自分の許せる女が魅力的でかしこいだなんて、本当に思ってるの?」  「嘘を言ってるつもりはないよ。それにルーズな関係っていうけど、こういうのって相性の問題   だって、前に二人で話したじゃないか。君と僕はたまたまこういう関係があってるってことだ   よ。恋人でもなく、単なる友達でもない、自由な関係さ。」  「あなたは――――そう割り切っているわけね。」  「君もな。」  その通りだ。彼女は思った。そうやって自分を納得させ、職場での秘密の楽しみを謳歌していた のだ。  勿論、彼の前でも・・・・  彼女はカルチェに手を伸ばすと、新しい一本に火をつけた。  「ダナ、今日に限ってどうしたんだい?」  「別に・・・ただ考えていたの。どうして私たちは寝るんだろうって。」  「楽しいだけじゃ不満?」  「そんなことはない・・・とは思うの。」  彼女は指にはさんだフィルターを弄んだ。  「今だから正直に告白するわ。実は私、あなたと寝ることより楽しいことがあったの。私、職   場では――――当然のことだと思うんだけど――――あなたのような友達が居ることは秘密   にしているの。でも、人間関係がとてもタイトな場所だから、いつかあなたとのことがばれて、   悪いうわさが流れるんじゃないかって怯えていたわ。でも、その怯えっていうのが・・・」  「単調な日常に非日常を持ち込めるのが楽しい、ってことだろ?」  スカリーは頷いた。  「つまり僕は、そのトリガーってわけだ。」  「・・・ごめんなさい。」  「いいよ、気持ちはわかるよ――――って言うより、少し安心した。」  彼女は驚いてフレッドに目をやった。信じられないことに、男は本当に安心しきった顔をしていた。  「僕と一緒に居る間、君が本当に楽しんでくれているのか、実は心配していたんだ。そんな楽しみ   方でも、つまらなく思われているよりよっぽどいい。」  そして彼女にウインクすると、こう続けた。  「僕だけ楽しんじゃ、不公平だろ?」  彼女はそれに、背筋をぞっとさせた。  この男にはプライドってものがないのか? その程度の楽しみを女に与えることで、本当に満足して いるなんて・・・彼女の中に、男に対する軽蔑が生まれた。  「――――それよりダナ、そろそろどうするか決めよう。時間ばかり過ぎちゃうよ。」  「え? ええ・・・」  戸惑いを見せる彼女に、男は苦笑した。  「決められないのなら僕が決めるよ。ダナ、行こう・・・」  そう言ってフレッドが彼女の指に触れた時だった。  その部分から彼女の脳にかけて電気のようなショックが走り、同時に、昼間聞いた彼の台詞が蘇 った。  ――――所詮は君の身体だから、どこで肺を汚そうと勝手だよ――――  「イタッ、イタタッ、ダナ!」  苦痛の悲鳴に、彼女は我に帰った。  自分でも知らないうちに、彼女は自分の手にかけられたフレッドの手首をつかみ返し、ひねって締 め上げていたのだ。  自分でも驚いて手を離すと、フレッドは腕をさすりながら、戸惑いと非難の入り混じった視線を投 げかけた。  「ごめんなさい、ついうっかり・・・」  「う、うかっりって・・・」  「折角だからもう一杯飲みましょう。」  彼女がそう言うとフレッドは――――腕をさすったまま――――にやっとして見せた。  「何だ、そうならそうと言ってくれれば・・・マスター、これと同じのを。」  「スコッチをダブルで。」  フレッドがスカリーの空になったグラスを指差しながら言うと同時に、彼女は叫んだ。頭の中には、 さっきの台詞がそのまま残っていた。  ――――所詮は君の身体だから・・・勝手だよ――――  そう、全ては私の勝手。煙草の吸い過ぎで肺ガンになっても、男と情事を重ねて自尊心を失っても、 あの人には一切他人事。勿論酒を飲みすぎて急性アルコール中毒になっても――――。  蘇った言葉に彼女は突然黒い怒りを覚え、とっさにスコッチと叫んでいたのだ。  そして目の前にグラスが置かれると、それを手にとって一気に半分もあおった。  隣では、フレッドがあっけに取られて一部始終を見ていた。  「ダナ・・・そんな飲み方身体に悪いよ。」  「私の身体を気遣ってくれるの?」  「当たり前じゃないか。」  「私と寝てる関係だから?」  その台詞に、フレッドの心にも怒りの炎がつくのを彼女は感じた。  「ダナ、何てことを言うんだ。」  「男なんて、そんなもんじゃないの?」  「本気で怒るぞ。」  フレッドは怒りを燃やしながらも、慎重に言葉と口調を選んで感情の流出を抑えていた。  「ええ・・・できればそうしてもらえないかしら。」  スカリーもそれに習い、ひと息吸って怒りを締め出すよう努めた。  「私さっき言ったわよね。お腹も減ったしお酒も飲みたいしベッドにも行きたいって。そのひとつ   ひとつは全部本当だけど、ごめんなさい、私、これ以上あなたとそれをするわけにはいかないの。」  フレッドの表情に、絶望の影がさした。  「ダナ、それは一体どういう・・・」  「私・・・もう耐えられる自信がなくて・・・小さな悪戯が見つかって、いつ親に叱られるか怯える   子供のような気持ちで職場にいるのが・・・。今まで、あなたに話したことはなかったけど、私の   仕事は・・・その・・・何よりも信頼が第一で・・・こんなことで・・・自分の自堕落のせいで   ・・・それを失うわけにはいかないのよ。それに・・・」    ――――いい加減・・・煙草臭いぞ――――  彼女の心に鋭い痛みが走った。  あの時の彼の視線が頭から離れない。無表情で、刺のように鋭い眼差し。そして、全てを見透かし ているような瞳。  彼女は彼――――モルダー――――の視線をそらす為に目を伏せた。  「でも、さっきはそれが楽しかったって・・・」  「ええ、初めのうちは何より楽しかったわ。でも、そんなのも楽しめたのは最初だけ。その後は   ――――自分との騙し合いだったわ。」  そう、そして私は自分を騙すために、煙草を吸い始めたのよ・・・・  「じゃあ、僕たちは終わり・・・?」  「おそらくね。」  二人の間の空間が沈黙で凍りついた。お互いにとって、辛い、刺すような沈黙だった。  灰皿からは、煙が一本弱々しく立ち昇っていた。  「・・・君の事を忘れられる自信がない。」  フレッドの言い分に、彼女は嘲るような笑みを浮かべた。  「愛してもいない女を?」  「ああ、愛してもいない女でもだ。」  「私たち、自由な関係だったはずよ。」  「だからこそ、だよ。」  「そう・・・」  スカリーは半分残ったスコッチのグラスを取ると、少し舐めた。  一つの関係の破綻、それは、膨大なエネルギーと激しい苦痛を必要とする。たとえそれが、どんな 関係であろうとも。  「いくつか、聞いてもいい?」  スカリーはそれに、いいとも悪いとも言わなかった。  「君、恋してるだろ。」  彼女の体温が僅かに上昇した。そして同時に、ある一人を心に意識して胸を痛めた。私と彼の関係 こそ、自由であるはずなのに・・・  「・・・答える義務はないわ。」  「どうやら君はその台詞が好きみたいだね。」  フレッドは苦笑しながら言った。皮肉っぽく聞こえないように気をつけてるのが、よくわかる口調 だった。  「知り合ってから、何度それに誤魔化されてきたことか。でも、今夜は誤魔化されないよ。」  優しくも頑とした意思の感じられる口調に、スカリーは追い詰められた。心の奥には、あの時の彼 の台詞、眼差しがべっとりとこびり付いたままだった。  「・・・答えたくないの。」  「怯えなくていいよ。僕はそれで君を責めようなんて思ってない。ただ、知りたいだけなんだ。」  「答えられないわ。」  「ダナ、あまり深刻に考えないで。」  「いいえ、駄目なの。ごめんなさい、私帰るわ。」  そして彼女はフレッドに背を向けて立ち上がると、逃げるようにその場を去ろうとした。しかし、  「待って!」  男は去り行く彼女の腕を荒々しく掴み上げた。  鈍い痛みが、腕から脳にかけて伝わった。痛みは彼女の中に怒りと恐れを生み、次の瞬間には彼女 の理性を数本切っていた。  スカリーは掴まれた腕からフレッドを振り払った。そして驚きにスキのできた男の顔を視界に捉え ると、そこに一発、強力なパンチを食らわせた。  数センチ宙を舞い、何本かのストゥールと共に床に倒れるフレッドの身体。その強烈な音に、彼女 は今、自分が何をしたのかを思い知った。  驚きに、自分に注目を集める客と店員。ストゥールと共に、潰れたまま伸びているフレッド。彼女 の顔色が、青から白に変わった。  そして非難に変わりつつある周囲の視線とその惨状から逃れるために、彼女はそそくさとその場か ら逃げ去った。  煙草はもう、3本目を吸い終わろうとしていた。  その先端に灯る火が、薄暗い部屋で赤々と輝いている。まるで醜い蛍のほうだ。きっと、前世で 何かひどい悪事を働いて、こんな醜い姿に作り変えられてしまったに違いない。彼女は思った。  スカリーは自分の部屋に戻り、カウチに横になって、煙草を吸っていた。キッチンからの光がか ろうじて差し込んでくる部屋では、煙が目に付くことはあまりなかった。テレビでは何やらトーク ショーが放映されていたが、彼女は見ていなかった。  彼女は煙を吸い、そして吐き出しながら、巨大な自己嫌悪と戦っていた。  医者失格・・・公僕失格・・・・  市民を守る立場にありながら怪我を負わせ、ましてやそれを放置するなんて・・・  暴行傷害、器物破損、もうどうにでもなれ。  彼女がしかし一番気を負っているのは、フレッド自身のことだった。  自分が立ち去った後、彼が店の中でどれほど恥をかいたのかと思うと、申し訳なさに胃のあたり がきりきり痛んでくる。たとえどんな相手であれ、あんなひどい仕打ちをしていい理由はないのだ。  私なんか、消えてなくなってしまえ――――今まで、これほど自分を呪ったことはなかった。全 て私が悪いんだ。あの日あの夜、もっと自分に理性を強いていれば、フレッドの誘いにさえ応じて いなければ、彼を傷つけることも恥をかかせることもなかったのだ。それに、あの人から無関心を 装われることだって・・・  今にして思うと、なんと取り返しのつかないことをしてしまったことか。フレッドと逢引きする ようになった当初は、傷つくのなんて自分の身体と自尊心だけで、他人を傷つけることもないもな いのだから、それでいいと思っていた。しかしそうではなかった。自分のその傲慢さはフレッドを 傷つけ、自分の心を傷つけ、あの人の信頼までも傷つけた。時間でも巻き戻さない限り、それら全 てを修復することなど不可能だ。  彼女は短くなった3本目を揉み消すと、すぐさま4本目に手をつけた。吸いすぎで、既に頭はガ ンガン痛くなっていたが、そうでもしないと気を紛らわすことができなかった。  テーブルの上に置いた携帯が、けたたましく鳴った。  心がひきつけを起こした。取らなくても相手は判っている。判決を言い渡される罪人のような気 持ちで、彼女は電話に出た。  『ひとつ聞き忘れたことがあってね、電話したんだ。』  フレッドの声はいつもと変わらない、優しい口調だった。彼女はそのことに、なおさら罪を意識 した。  『君の職業って、格闘家?』  「ごめんなさい・・・まだ痛む?」  『ああ、かなりね。』  フレッドは電話口から笑ってみせたが、スカリーは笑うことができなかった。  『大丈夫、訴えたりしないから。顔が腫れたおかげで明日は会社休めるし。そうそう、店のスト   ゥール、全部無事だったよ。』  彼女はその気軽なものの言い方に、フレッドの心の広さ、包容力を感じて愕然とした。こんなこ とになって、初めて失ったものの大きさに気付かされる。彼女は喪失感に打ちひしがれた。  「本当に・・・ごめんなさい。」  『いいって、僕も愚かだった。格闘家だって知ってりゃ、初めから声なんかかけなかったんだし。』  嫌味を含むこの言葉に彼女は傷ついたが、同時に気が楽にもなった。全てを受け入れられて許し てもらうより、少しぐらいなじってもらった方が精神衛生にはいい。  『ただね、やっぱりどうしても聞きたいんだ。さっきの答えを。』  突然気軽さが消えたフレッドの口調に、スカリーは身構えた。  「フレッド、どうしてそれにこだわったり――――」  『僕が知りたいのは――――』  男は、彼女を制して言った。  『――――僕は“彼”の代わりだったのかってことさ。』  スカリーは言葉を失った。  今まで、そんな風に考えたことは一度もなかった。にもかかわらずこんなことを言われるなんて、 これ以上の侮辱があるだろうか。  彼女は一瞬、自分を汚れたもののように感じさせる彼に憤った。が、次の瞬間、それは彼女自身 によって打ち消された。  ――――この人も真剣なのだ。ここで私がイエスと答えたら、汚され、侮辱されるのはこの人に なるのだから――――  彼女は大きく深呼吸をして気持ちを整えると、はっきり言った。  「いいえ、“彼”の代わりなんていないもの。」  それから一瞬ためらった後、こう付け加えた。  「勿論、あなたの代わりもね。」  『・・・ありがとう。』  電話口から、彼女は彼の安堵を知った。  『たとえ嘘でも嬉しいよ。』  「嘘じゃないわ。」   『おかげで君と終われそうだ。』  「私たち、少し浅はかだったわね。」  『そう思う?』  「少なくとも、私はね。だってこんな関係、止めたくなったらいつでも止められると思ってたん   だもの。でも実際は・・・」  二人の間に、束の間沈黙が流れた。  『ダナ、実は君に話してないことがあるんだ。』  先に沈黙を破ったのはフレッドだった。  『実は僕も、君とは終わりにしなければと思ってたんだ。』  その言葉を聞いて、スカリーは見捨てられたような淋しさを覚えた。女って身勝手な生き物だわ。 自分が見捨てるのは許せても、男が自分を見捨てるのは許せないなんて・・・  「・・・いつからそんな風に?」  『正確には・・・そう、昨日、君とバーで会った時かな? 今までもそうだったんだけど、君は   会う度にきれいになっていくから正直困ってたんだ。愛してもいないのに、君を手放せなく   なるんじゃないかって。・・・それを決定的にしたのが昨日さ。言っただろ? 痩せたんじゃ   ないかって。気付いていないなら言うけど、君、最後に会った時からだいぶ痩せたよ。昨日   バーで見かけた時なんか、一瞬誰だか判らなかったぐらいさ。その時の君のシルエットがあ   まりにも美しかったんで“彼女”のデートの相手に、僕は心から嫉妬したぐらいだった。と   ころが、シルエットが腰を下ろしたのは僕の隣――――その時思ったんだ。君から離れられ   なくなる前に、終わりにしなければって。』  「離れられないって、それは愛の始まりだとは思わなかったの?」  『ああ、思わなかったし、思えなかったよ。僕は・・・君を愛することはできない。』  「どうして?」  『どうしてかって言うと――――』  そこでフレッドは言葉を詰まらせた。スカリーには、彼が言葉を捜して苦しんでいるように感 じられた。  『――――君だったら、初めて会う女を簡単にベッドに連れ込むような男を、信頼して愛する   ことができるかい?』  彼女はその言葉にショックを受けたが、思ってたよりも傷つきはしなかった。心のどこかで、 その答えを予想していたのだろうと、思った。私だって、それと全く同じ理由でこの人を愛する ことなどできはしないのだろうから。  「そうね・・・あなたの言う通りね。」  『愛してもいないのに他の男のものにしたくない――――片想いより、辛くて苦しかったよ。』  「でもそれじゃあ何故、今夜会おうなんて言ってきたの?」  『あれは・・・一種の賭けだったんだ。』  フレッドは少し悪びれるように言った。  『終わりにしたいと思っても、勇気がなかったんだ。その・・・』  「もったいなくて?」  『ああ。』  スカリーが言い難い言葉を代弁すると、彼はばつが悪そうにした。  『君とのセックスはとても刺激的だったよ。君みたいに頭が良い上に官能的な女なんて、僕は   初めてだった。だから賭けたんだ。今夜、君が僕と寝るなら、もう少しこのままでいよう。   そうならなかったら、君のことはあきらめようって。』  そして重苦しそうに溜息をつくと、こう付け加えた。  『・・・君の恋のためにも、ね。』  二人は電話越しに黙り込んだ。  灰皿の上の煙草は短くなり、赤い火がフィルターに達そうとしていた。  「・・・ひとつだけ、弁解させてもらえる?」  不意にスカリーは口を開いた。  「私、その・・・男とこんな関係を持ったのは・・・あなたが初めてだったわ。」  『判ってるよ。君は本当に真面目にできているからな。』  フレッドは慈悲とも、皮肉ともつかない口調で言った。  『僕もついでに言っておくと、こんな関係になった女は、今まで一人もいなかった。』  「次会った時には、友達になれるかしら?」  『君がブヨブヨの中年太りになっていればね。』  二人は声を出して笑ったが、スカリーは心で泣きたいのを辛うじてこらえての事だった。今ま でフレッドに言われた言葉の中で、これが一番ショックで、彼女に深い傷と悲しみを負わせた。 彼女の喪失感が、現実のものとなった瞬間だった。  『じゃあね、ダナ、お休み。』  「お休み、フレッド。」  『試合のときは教えてくれよ、花束ぐらい贈るから。』  「リング名はIce Queenよ。」  二人はまたケラケラと笑った。今度はスカリーも心の底から笑うことができた。  そうしてひとしきり笑うと、どちらからともなく電話を切った。    彼女はカウチに仰向けになると、ふうっと深呼吸して天井を見上げた。  これでひとつ区切りができた。フレッドを失った痛手は思っていた以上に大きかったし、何よ り、自分自身に対する信用がズタズタのボロボロになっていたけど、少なくとも、ここから新し いスタートを切ることはできる。  娼婦ごっこはもう終わり。  鏡の中の、挑発的で淫らな女は、肺ガンになって死んだんだ。  大切なのは、明日からの自分――――  これから熱いシャワーでも浴びて、濃い目のミルクティーを飲もう。そしてゆっくり眠って、 起きたらクリーニングから戻りたてのスーツを着てオフィスに行こう。どうせ明日もデスクワ ークだろうけど――――  今度は、家の電話が鳴り響いた。  スカリーはそれに目を向けると顔をしかめた。今度も、聞くまでもなく相手を知ることがで きる。  『スカリー、デスクワークから開放されたぞ。』  「モルダー・・・今何時だと思ってるの?」  『殺人犯は何時かなんてお構いましさ。』  スカリーは露骨に嫌そうな声で言ったが、モルダーにそれは通用しなかった。  『今から3時間ほど前、メイン州で頭部を握りつぶされたような変死体が発見された。その   傍には何なのか特定できない金属片が残されていたそうだが、現場付近に住む考古学者の   ゲドリック氏が言うには、それはオリハルコンらしいんだ。』  「オリハルコン?」  『ああ、我々の知る古代文明よりはるか昔の“超古代”と呼ばれる時代には、今の僕らより   もはるかに進んだ科学技術があったとされている。その伝来者はエイリアンだという説が   有力だけど――――オリハルコンは、その超古代文明が生み出した金属だよ。』  「要するに、オーパーツ(注釈:その地層の時代からは出土するはずのない“場違いな加工   品”の意)だというのね?」  『流石スカリー、勉強してるな。』  彼女は頭を抱えた。  折角ひとが、新しい気持ちで明日を迎えようと思っていた矢先に、このSpookyは・・・!!  「モルダー、今騒がれてるオーパーツなんて、SF小説によって誇張されたものに過ぎない   わ。」  『じゃあ水晶の髑髏は? あれは大英博物館に大切に保管までされてるんだぜ。』  「あそこにあるのはレプリカ(注釈:作者の推測である)よ。」  『いづれにしろ人が死んでるんだ。しかもゲドリックは超古代考古学の第一人者。その上、   今日整理していたファイルの中に似たようなケースを見つけたとあっては、黙って見てる   わけにはいかないよ。』  「何ですって? あなた、領収書の整理してたんじゃないの?」  『じゃあ、一時間後にはそっちに着くから。』  「へ?!」  スカリーは驚いて起き上がった。  『今から飛ばせば明日の朝一で現場に着く。そうすればすぐに調査を始められるだろ?』  「冗談でしょ?」  彼女の顔が引きつった。  今さっき組み立てたプランが、音を立ててガラガラと崩れ去る。心身共にぐったり疲れ、空腹 を抱えたままで朝までドライブしろというのか。  『助手席で寝てていいよ。』  モルダーは言った。  『それに、煙草吸うなら多めに持ってこいよ。途中で買う時間なんかないからな。』  一瞬、彼女の心に刺がささった。さり気なさは装われていたが、当てつけなのは彼に確認する までもなかった。“煙草臭いぞ”・・・あの時の彼の眼差しが蘇り、彼女を責め苦しめる。  「あなただけに運転させるわけにはいかないでしょ。」  スカリーはしかし、今回は目を伏せることはなかった。  「それにね、私、煙草はもうやめたの。」  『あ・・・』  モルダーは言葉を詰まらせた。  そしてたっぷり一秒黙り込んだ後言った。心もち弾んだ声で言った。  『ああ、そうなのか。』  たったそれだけの言葉になのに、彼の声からは安息が滲み出ていた。スカリーはそれに、彼の 微笑みを感じて心を切なくした。  もしかしたら、傷ついてくれていたのかした――――信頼とは、全く別の次元で。私が他の男 と寝ていたことで、心を痛めてくれていたのかしら・・・?  『いやいや、それならいいんだよ。』  「いいって、一体何がよ?」  『それに答える義務はないね。とにかく、今からそっちに向かうから、出張の準備して待って   てくれ。』  「でも待ってモルダー、一時間後なんて・・・」  突然、彼女の胃がキュっと音を立てた。こんなことなら、せめて食事ぐらいして来るんだった。 折角奢ってくれるって言ってたのに・・・  「私、夕食もまだなのよ。」  『もうこんな時間なのにか? じゃあドライブがてらどこかによって夜食でも食おう。』  「あらあなた、さっき寄り道する時間なんかないって言ったじゃない。」  『あれ? そうだっけ?』  二人は受話器を挟んで笑った。  『でも安心したよ、食欲があるようで。』  「どうして?」  『このところの君のやつれよう、尋常じゃなかったからな。』  「ええ?」  スカリーは驚いた。これで言われたのは二人目だ。最もフレッドは“痩せて美しくなった”と 表現していたが。  彼女はテーブルの上の手鏡を取ると、自分の顔を見入った。  ――――確かに、二人の言う通りだった。頬はこけ、くぼんだ目が僅かに吊り上って人相が悪 くなっている。おまけに厚みの失せた唇には、濃い目の口紅を塗りたくって誤魔化した後がある。  自分の変貌ぶりに、彼女は唖然とした。  「・・・食事はちゃんととってるつもりだったのに・・・」  『案外、煙草のせいかもな。』  「そんなまさか・・・」  『まあ、この時間じゃ大した物にはありつけないだろうけど、食うものはちゃんと食っとけよ。』  そして彼は、悪戯っぽく付け足した。  『僕はグラマーな方が好みなんだ。』  「誰があなたの好みなんて・・・」  彼女もそれに冗談っぽく言い返すつもりだった。  しかし途中で言葉を失い、黙り込んでしまった。  心が豊かに、ふくよかになるのと同時に、恐ろしいことに初めて気がついて息が苦しくなった。  私は彼を“裏切って”いたのだ。  そしてその裏切りを、彼は許したのだ・・・  『スカリー、』  彼女の苦しさがモルダーにも伝染したのか、彼は突然神妙な口調になった。  スカリーはそれに身構えた。  「何よ?」  『・・・いや、いいんだ。』  「あらそう。」  彼女がそっけなく言うと、モルダーの苦笑が受話器から漏れた。  『じゃあ、一時間後に。』  「ええ、待ってるわ。」  電話を切ると、彼女は立ち上がって時計を見た。  後一時間・・・シャワーを浴びる時間ぐらいはあるわね。  テーブルに目を移すと、赤いカルチェの箱が視界に入った。中身はまだ半分ほど残ったままだった。  ――――ベッドでのことの後に煙草が似合うのなんて、娼婦ぐらいなもんだぜ――――  この赤い箱は娼婦の証か?  いいや違う、本物の娼婦なら、こんなもの必要としないはずだ。  裏切っていることを、傷つけていることを誤魔化すための道具なんて・・・  彼女は掌のものを握りつぶすと、ゴミ箱に投げ入れた。  Bye-bye,Cigarette Girl    スカリーはそれに背を向けると、バスルームに向かった。  灰皿では最後のフィルターの先端が、赤から黒へと変わったところだった。                                   End ============================================       〜『ハリー・ポッターと賢者の石』公開記念特別付録〜           ** モルスカ・愛のお掃除劇場 **       モル「スカリー、今日も疲れたろう。オフィスの掃除は僕がやっとくから、今日はもう帰んなよ。」 スカ「あら? 何だか今日はやけに気が利くのね。どういう風の吹き回し?」 モル「そんな・・・僕はただ、たまには君に楽させてあげたいなって・・・」 スカ「信用できないわ。モルダー、この私に何か隠し事があるわね?」 モル「(ぎくっ)そ、そんな、めっそうもない!」  スカ「ますます怪しいわ。今後ろに隠したものは何? 」 モル「え?! これは・・・!」 スカ「出しなさい。」 モル「そ、そんなぁ、やめてっ!」 スカ「抵抗しないで!!」 (ばさっ。出てきたのは『特別限定版ハリー・ポッターの魔術教科書』) モル「(しくしく)僕もハリーみたいな魔法使いになりたくって・・・でも、家で練習するのが    恥ずかしかったんだぁ。」 スカ「・・・頼むから家でやってくれ。(てゆーか、この本編とのギャップは何なの??)」                                     〜終わる〜 2001年吉日、 Amanda嬢の無事完走を祈りつつ・・・ ご意見・感想・批評(いづれも好意的なもの)をお待ちしています。 atreyu0125@yahoo.co.jp