*本文の著作権は1013、c・カーター氏及び 20thFoxに帰属します。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ミルフィーユをふたつ> by akko 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  この小さなカフェはいわば、彼女だけの秘密の場所だった。  とあるランチタイムに、たまには何か別のものを味わおうと職場近くを一人で徘徊している時に 偶然見つけたこの店は、パリにあるカフェテラスを模した、小さなコーヒー屋だった。店そのもの も小さい上に質素な看板しかないので、気をつけて歩いていないと見落としてしまいそうなほどの 店。でも、だからこそ秘密の隠れ場にするのにちょうどいい場所。ここでは、誰にも邪魔されずに 立ち止まることができる――――。  彼女がドアを押して中に入ると、轢きたてのコーヒー豆の芳ばしい香りが鼻腔に触れた。  最後に来たのはだいぶ前になるが、この不思議と心落ち着かせる香りと、時間がそこで止まった かのような雰囲気だけは変わりようがない。彼女はここで、一人でくつろぐのが好きだった。時間 に空きが出来た時や一人でゆっくりとコーヒーを味わいたい時、彼女は必ずここへ来る。今まで友 人であれ同僚であれ、誰かを伴って入ったことはただの一度もない。  ここは彼女を、彼女の生活に結び付ける、全てのものから守る唯一の砦だ。  彼女がいつもの――――店の一番隅で、窓から外の通りが眺められる場所――――に腰を下ろす と、店の主人が注文を取りにやってきた。  「お久しぶりです、ミス。」  白髪で、いくらか上品に見える初老のマスターは嬉しそうに言った。  彼は誰にでもそうなのだが、常連が久しぶりに店に足を運ぶととても機嫌よさそうにしてくれる。 彼女がこの店をひいきにするようになった理由のひとつだ。  「本当、ご無沙汰しちゃったわ。」  彼女もそれに習ってうっすらと笑みを浮かべた。  「ここのとこ出張と残業の繰り返しで・・・コーヒーを飲む暇すらないなんて、最低の人生だわ。」  「そんなことを言ってはいけませんよ。」  主人は上機嫌のまま言った。  「成すべき仕事があるのは、人生の喜びです。」  「ま、それもそうだけどね。」  彼女が主人を見上げながら苦笑すると、彼もそれに習った。  気さくな風にしながらも、必要以上に多くは語らない。私はきっと、彼のそんなところが気に入っ ているんだわ。彼女はつくづくそう思った。彼女がこのカフェに来るのは一人でゆっくりしたいから だ。しかも彼女は他人に自分のことをべらべら喋るのが好きではない。それなのに、ずっと傍にひっ つかれて近況をあれやこれやと聞かれてたりしていたら、きっと二度とこなくなっていただろう。  「では、今日はコーヒーを飲むぐらいの暇があったのですね。」  「相棒がね、ここのとこ缶詰めだったから、昼休みぐらい外の空気を吸って来いって。」  「ほう、それはいい相棒ですね。」  「いつもこうなら、いい相棒なんだけどね。」  彼女が肩をすくめると、彼はくすっと笑って見せた。  「さて・・・ご注文は?」  「そうね――――エスプレッソをお願いするわ。」  主人はにやっとした。  「では、あれですね。」  「ええ、あれを。」  彼女もそれににやっとして見せると、主人は軽く会釈してカウンターへと去っていった。  主人が奥に引っ込むと、スカリーはふうっと、溜息とも深呼吸ともつかない息を吐いた。  身体が重い。  頭がぼんやりする。  僅かに視界に入る陽の光が、黄色くにごっているように見える。  全てはこのところの多忙のせいだ。  出張、捜査、検死、会議、報告書に始末書――――果てしない輪廻の輪にとらわれたかのようにそ れらは続く。そんな自分の仕事もままならない状態で、相棒と共に、FBIが総力をあげて取り掛か っている誘拐事件の捜査チームに駆り出されてから早や数ヶ月。彼女と相棒の仕事は幸いにも局内で もこなせるプロファイルや科学捜査がほとんどだったが、それでも最後に休みを取ったのが一体いつ だったのかすら覚えていないほどの多忙ぶりだった。そう言えば、この昼休みで久しぶりに青空を見 たような気がする。日の出前の出勤ばかりだった上、局内のラボや地下室で夜を明かすこともこのと ころ稀だったからだ。  仕方ないことだとは思う。  私だけではない。世の中、自分よりも大変な思いをしている人間は沢山いる。何よりこうしている 間にも、自分をランチに送り出してくれた相棒が局内を所狭しと駆け回って働いているのだから文句 のつけようもない。  でも・・・  彼女が自分でも知らずの内に眉間をもんでいると、マスターが盆を抱えて戻ってきた。  「ミス、そのしぐさはやめたほうがいい。」  彼はエスプレッソのデミカップを彼女の前におきながら言った。  小さなカップからは、細い湯気が数本、濃い香りと共に立ち昇っていた。  「まだ早すぎますよ。」  「まあ、いやな人。」  スカリーが優しく睨みつけると、マスターは肩をすくめた。  「では、本日のラインナップを・・・」  そして大き目のトレイを彼女の前に差し出した。  彼女の心が一瞬にして輝いた。  そこに乗ってるのは、この店一番の自慢、“自家製”を売りにした数種のミルフィーユだった。  スカリーは人並み程度にはケーキは好きだったが、その中でもこの店のミルフィーユには格別の思 いを寄せていた。さくっとしてて、信じられないほど香ばしいパイ生地は、脳髄まで味が伝わるほど 力強く、ほんのりラム酒を加えてあるクリームは一瞬にして舌を溶かす。ミルフィーユを注文する時 の飲み物が必ずエスプレッソコーヒーなのは、そのインパクトに負けずに合わせることのできるもの が他にないからだ。  「残念ながら、今日はこれしか残っていませんが。」  「これだけって・・・こんなに残っていれば悩むには充分だわ。」  彼女は目を輝かせながら言った。  「幸い今日は、一番人気のショコラ・ミルフィーユが残っています。それとも新作のマーマレード・   ミルフィーユはいかがでしょう? 定番のストロベリーも・・・」  「困ったわ、どれも本当に一番美味しそうなんだもの。」  悩む自分を満足そうに眺めるマスターに、スカリーは言った。  「でも決めなきゃね、ランチタイムが終わっちゃう――――これをいただくわ。」  そう言って彼女は、真っ白にパウダーシュガーのかかったものを指差した。カスタード・ミルフィ ーユだ。  マスターはかしこまりましたと言うと、トレイのサンプルを下げ、やがて白い大きな皿に乗った ミルフィーユを運んできた。   そして彼女のデミカップにそれを添えると、ごゆっくりどうぞと頭を下げて、再び奥に引きこもっ た。  なんて綺麗な白だろう・・・  マスターが去った後、スカリーは何をするでもなく満足そうにミルフィーユを眺めた。  こうしていると、ここのところの自分がどれほど美しいものに縁がなかったのかを思い知る。こん な、ケーキの粉砂糖にさえ感動して――――  ――――でも仕方ないわね、仕事だもの。  シンプルながら清潔感と存在感の漂うそれは、口に入ることもなく彼女の心を慰めた。握ったフォ ークで軽くミルフィーユの表面をつつくと、その部分のパウダーシュガーが剥がれて、白い皿の上に こんもりと積もっていった。  その白を一通り眺め終えると、彼女は一思いにナイフを入れ、ボロボロと崩れる中から形の残った 一片を口に運んだ。  ――――彼女の下から脳髄にかけて、幸せが走った。  パイ生地のバターの風味とふんわり柔らかなカスタードクリームの感触が、交じり合いながら口の 中でふわっと広がり、その直後に、さわやかで上品な甘味が全神経を支配する。それはこの方法以外、 このミルフィーユ以外では決して得ることのできない快感だ。  なんだか救われたような気持ちだ。彼女は思った。この数ヶ月の多忙から来る倦怠感も、じっとり と濡れた綿のようにまとわりつく疲労も、地下室に閉じ込められっぱなしだった圧迫感も、この一口 が全て拭ってくれたような気がする。彼女は我を忘れたかのように一口、もう一口とミルフィーユの 破片を頬張っていった。    形が残っているものを拾い尽くし、エスプレッソを口に含ませて苦味を楽しむと、彼女はほっと息 をついて、背もたれに寄りかかった。  目の前には、昼下がりの穏やかな通りが広がっていた。  元々往来の激しいところではないが、時間が時間なだけあって人もまばらな路上。その代わりにそ の場を埋め尽くす冬の青空と、お日様の輝きをたっぷり吸い込んだ空気。  なんだかとってもいい気持ち――――彼女はその路上の景色を眺めながら思った。  さっきのミルフィーユの名残りだろうか、こうして理由もなくぼんやりしていると不思議と心地よ くなってくる。  例えるなら、恋人の胸に抱かれているような温かさ、そしてそのまま時間が止まったかのような錯 覚。彼女を包むコーヒーの香りや陽だまりのある景色は、そんな、久しく忘れていた感覚を呼び覚ま す。  彼女は刹那、まどろんだ。  ずっと、こうしていたいな・・・  この気持ちいいままで・・・  ――――でも、  捜査は?  まどろみの中での自問に、彼女ははっと目を覚ました。  目を開くと、飲みかけのエスプレッソとミルフィーユの残骸が顔面に迫っている。  彼女は慌てて顔を上げた。  そしてさっきまでの美しい姿など見る影もない茶色い粉々を改めて見下ろすと、ふっと自嘲した。  そうね・・・  私には成すべき仕事と、持つべき義務があるのだ。  忙しいということはつまり、考える時間を亡くすことだ。  自分が一体何をしているのか、何のためにしているのか、そしてそもそも自分はどんな存在なのか と言うことを・・・  スカリーはそんな状態でいることが決して嫌いではなかった。というよりも、そんな風に忙しくし ている自分が好きだった。休む間もなく身体を動かしていると「生きている」と言う実感が湧いてく る。よそ見もせずに後ろも振り返らずに突き進んでいると、自分がそこに「いる」という手ごたえを 味わえる。そんな風にひとつのゴールにたどり着くたびにすぐまた次のゴールへとがむしゃらに進ん できたのが、いままでの彼女の人生だ。なんな疑問も持たず、疑問を持つ時間も持たず・・・  彼女が今休暇も睡眠も返上して行っている科学捜査は、必ず犯人検挙と囚われの身となって怯える 被害者の救出に繋がるだろう。仮にそうならなくとも、今後のための資料ぐらいにはなるはずだ。ど の道、彼女の仕事が無駄になることは決してない。それはいいことだ。自分にも他人にも誇っていい ことだ。  でも・・・  たまにこうして立ち止まる度、己が視界に入る度、こう自問してしまうのだ。  一体これを、いつまで続けるのだろう・・・?    今手がけている事件はいづれ何らかの形で決着はつく。しかし彼女の仕事がなくなるわけではない。 事件が解決して週末が開ければまた事件。そして再び出張と捜査。またもや、休む暇なくひとつのゴ ールに向けて全力疾走する日々が始まる。生きている実感以外、何もない生活。あまりの多忙にそれ すら麻痺してしまえば、何も感じなくなってしまう人生――――  今の自分はまさにそれだ。ただ仕事があるから動いているだけの機械。粉砂糖の白さに慰められ、 偽りの安らぎに救いを求める哀れな生き物。それが今の私・・・  彼女は例えようもなく淋しくて、とりのこされたような不安を覚えた。  そんな空しい者になってまで走り続け、私は一体何をしようとしているのか・・・・?    彼女がエスプレッソをもう一口すすると、舌から喉にかけて嫌な酸味が広がった。コーヒーはすっ かり冷めてしまっていた。    ――――大変、もうこんな時間だ――――!  何気なく時計を見やって、スカリーは焦った。  一体ここでどのくらいぼんやりしていたのかしら? そろそろ戻らなくては、科捜チームの他のメン バーや地下室の相棒が飢え死にしてしまう。彼女は白い皿のミルフィーユの残骸を――――我ながら 下品だと思いつつ――――フォークでかき集めて口に押し込むと、急いで身支度を整えた。  そしてカウンターの主人を呼ぶと、伝票を持ってくるように促した。  「もうお戻りですか?」  「ええご馳走様。美味しかったわ。」  「本当にお忙しいですね、商売繁盛、結構なことです。」  主人に代金を渡しながらスカリーは苦笑した。確かに儲けがあるのはいいことだが、彼女の商売が 繁盛しているのが結構なことなのかは甚だ疑問である。  「じゃあ、また寄らせてもらうわね。」  「お待ちしております。お仕事頑張ってください。」  スカリーは主人の最後の気配りに笑顔で反応すると、店の扉に向かった。  しかし立ち去りざまに店内を見回し、ふと、歩みを止めてしまった。  彼女の視界に、薄明るい店内でとりわけ輝く一角が飛び込んできたのだ。ケーキのショーケースだ。  彼女はケースの中を覗くと、その虜になってしまった。  さっき主人が見せてくれた色とりどりのミルフィーユが、その中で整列していた。黄色いマーマレ ードにも茶色いショコラにも、盆の上のものとは違って綺麗なセロファンや可愛らしいリボンでラッ ピングがほどこさえている。マーマレードにはピンクのセロファンのドレス、ショコラには真っ白な リボンの髪飾り、そしてストロベリーには薄いブルー・・・・それらがケース内のトレイにちょこん と乗って並んでいる様は、まるで着せ替え人形のダンスパーティーだ。  スカリーの頬が自然と緩んだ。  「どうです? 可愛らしいでしょ。」  それを見つけた主人が、スカリーに声をかけてきた。  「ええ・・・」  彼女はそれらに見とれたまま言った。  「とても・・・印象的だわ。」  言いながら、彼女は自分の美意識の低下、表現力の貧弱さを嘆いた。  しかし主人は、そんな気の利かない台詞にも機嫌をよくしてくれた。  「孫娘の趣味でしてね、時折店に手伝いに来ると、こうして飾って帰っていくんですよ。」  今まで他人のことをあれこれ聞かない分自分のことも話さなかったマスターの言葉から、スカリー は彼の上機嫌の理由を悟った。  「どうですか? お持ち帰りもできますよ。よろしければ・・・」  「え?」  そう言われて驚きながらも、彼女は自分の欲求に気がついて頬を赤らめた。  「・・・そういわれたら困っちゃうわ。今日注文しなかったものに、ただでさえ未練たっぷりなの   に・・・」  「少しサービスいたしますよ。お目をとめてくださったお礼です。」  「それはとても嬉しいけど、それ以外にもね、いくつか問題が・・・」  「ミス・・・」  今度は主人がスカリーを睨みつける番だった。  「どんな問題があるのかいくつかは想像がつきますが・・・食べたいときに食べたいものを食べら   れるのも、人生の喜びのひとつですよ。」  その一言で、彼女の心が決まった。  店の外に出ると、昼下がりの穏やかな陽射しが身体中に降り注いだ。彼女は背伸びをしながら大き く息を吸い込んで、冷たさが少し和らいだ空気を胸いっぱいに取り込んだ。  あれから再び悩んだ挙句、結局マーマレード・ミルフィーユとショコラ・ミルフィーユを買い上げ ていた。どうしてもひとつに選べなかったので、ひとつは相棒にという言い訳の元、ふたつ買ってし まったのだ。ラッピングを気に入ってもらったのがよほど嬉しかったのか、主人はひとつ分の代金し か請求してこなかった。  ちょっと乗せられすぎたかしら・・・右手にあるケーキの箱の重さに彼女は思ったが、それはすぐ に訂正された。  ま、いいか。たまには彼に何か買って帰ってあげよう。ランチタイムの電話番を、自ら引き受けて くれたのだもの・・・  彼女は再び時計を見ると顔をしかめた。  ミルフィーユに足をすくわれてすっかり遅くなってしまっている。局内にさっきまでの自分の同じ ように軟禁状態のままでいる相棒のことを思うと、罪悪感で胸のあたりがきりきり痛んだ。  ・・・でも、もうしょうがないわね。今更じたばたしても遅刻は一緒だもの。それなら急いで帰る のはやめにしよう。  彼女はしかし、溜息ひとつでそう開き直った。  そのとたん、妙に肝が据わり、不思議な開放感が心と身体を軽くするのを感じる。  ――――大丈夫、仕事も何も、ほんのちょっとぐらい忘れてみたって――――  久しぶりに、歩いてみよう。  優しい陽射し。  心地良いぐらいに冷たい空気。  時折、前髪をそっと撫でて行くように通り過ぎる風。  今、私を囲むもの――――  そのひとつひとつに彼女は目を細めてよろこんだ。冷たい空気が頬をかすめる度、自分の揺れる前 髪が陽射しに映えて見える度、何ともいえない気持ちよさに包まれる。  そう言っていいのなら、エクスタシー。  そこにある全て――――空気、空、陽射し――――が私を溶かし、私と街を同化させる。私と空気 の境界線がなくなっていく。私が風景に溶け出す。陽だまりの一部になる。ただよう。空に帰る。天 にも昇る。そう、それは・・・  ・・・現実逃避ね。  彼女は一瞬そう思ったが、それでもこの快感に身を任せるのをやめなかった。  だってこれは、遠い昔に失くしてしまっていたものだから。  自分の中に、たくさんの感情がいっぱい詰まっていた頃には、普通に感じ取ることができたものだ から。  やっと取り戻せたものだから。  彼女はふと、泣きたくなった。  なんて素敵なことなんだろう。  “感じる”ことができるって・・・  「・・・さん、よォ奥さん。」  突然誰かが彼女に声をかけてきた。  感覚の世界にどっぷり浸っていた彼女は、その不意打ちに身体をびくっと震わせて足を止めた。  「そう、あんただよ、別嬪さん。」  「え? 私?」  彼女はまだ覚めきらない脳で必死になって思考をめぐらすと、そんなマヌケな声で答えた。  「何があったか知らねえけど、どうだい一本、気が晴れるぜ。」  声をかけてきたのは、露天の花屋の主人らしき男だった。  来るときには気づかなかったのだろうか。声のほうを見やると男が一人、道端の寒空の下で花屋を 開いている。日に焼けて浅黒くなった顔に、白髪交じりのぼさぼさ頭、そんな面の下に汚らしいエプ ロンという身なりの男が、お世辞にも上品とはいえない笑顔でニタニタ笑いながら色とりどりの花に 囲まれている。  「ええ? あんたひどく辛そうな顔してんな。せっかくの美人が台無しだぜ。」  「余計なお世話だわ。」  スカリーはむっとした顔でそういい返した。我ながら不躾だとは思ったが、男の下品な身なりも嫌 だったし、何より折角のいい気分がこんな男のせいで台無しにされたのかと思うと面白くなかった。  しかし男はヒヒッと笑うと、なおも言葉を続けた。  「夫婦ゲンカ・・・ってわけじゃなさそうだな。特に理由はないけど、日々の生活に疲れてるって   ところか?」  スカリーの肩眉がすっと上がった。  この男・・・なんて不愉快な奴なんだ・・・  「そんなこと、あなたの商売には関係ないでしょ。」  「とんでもない、大有りさ。」  男はそんな彼女の心情を知ってか知らずか、声を大きくしていった。  「ほれ見てくれよ、この花をよ。」  耳障りな男の声に彼女は露骨に顔をしかめたが、そんな勢いで言われて、視線がおのずと男の指差 すほうに向いてしまった。  ――――と、彼女の眉間のしわが、少しばかりのびた。  なるほど・・・確かに立派な花だ。  黄色い薔薇に桃色の雛菊、白いユリ、赤いカーネーションにかすみ草・・・いずれも、後2,3日 ぐらいでつぼみの開きそうな状態のものばかりだ。その幼い姿とは裏腹に、どの花も茎は丈夫で、葉 は硬いまでに青々としている。よほど手入れが行き届いているのだろう。  この男が育てたのか?――――まさか! よっぽどいい市場で仕入れたのに違いないわ。  それにしても・・・後3日も待ったら、どれほど美しく咲き誇るのだろう・・・それを思った彼女 の口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。  「・・・な、ちったぁ気分よくなっただろ?」  男が下品な笑みを浮かべて声をかけてくると、彼女はばつば悪そうにむっつりとしてしまった。  そしてぷいっとそっぽをむくと、ボソッと言った。  「・・・ま、悪くはないわね。」  「だろ?」  「でも買うつもりはないわよ。」  「おっと、そいつは困ったな。」  しかし男は困るどころか楽しそうに言った。  「家じゃ、かあちゃんが稼ぎを待ってるんだよ。」  「じゃあ、他のお客を探すのね。」  「いいや、あんたに買ってもらうぞ。」  「は?!」  彼女は絶句した。  驚きで、頭が一瞬真っ白になる。ずうずうしい男の扱いには馴れてるつもりだったのに・・・  「ば、馬鹿なこと言わないでよ。」  「馬鹿はねぇだろ。あんたみたいな別嬪にはこんな花がぴったりだって言ってんだぜ。」  「それはどうも。」  彼女はしかし、こんな男のおだてには乗るまいと言い返す。  「でも、それとこれとは別問題だわ。」  「そんなぁ、頼むよ、こんなに褒めてんだからちょっとぐらい財布広げてくれたっていいじゃねぇ   か。」  「おあいにくさま、そういう手を使って花を売りたいのならもっと若くて暇そうな娘と見つけなさ   い。私はね、急いでるのよ。」  「急いでる? 嘘つけって! さっきまでぼーっとして歩いてたくせに。」  「な――――?!」  この台詞に、ここまで男との攻防戦にある程度冷静に挑んできた彼女の理性のたがが一本、プッチ ーンと音を立てて切れた。彼女のこめかみに、青筋が浮かび上がった。  「――――なんて失礼な人なの。それがお客に対する態度だっていうのかしら。」  彼女は怒鳴った。  「買わねぇんだったら客じゃねえだろ。」  男も負けずに怒鳴り返す。  「呼びかけたのはあなたよ。」  「足止めたのはあんただろ。」  彼女の身体中の血が一気に頭に昇った。  不愉快で、ずうずうしくて、理屈屋で・・・一体何様のつもりなんだ。怒りのあまり言葉も失った 状態で、彼女はどうするべきか考えあぐねた。こんな男とはとっとと別れてオフィスに戻りたいが、 このまま引き下がるのはあまりにも癪に障る。  どんな汚い言葉を投げつけてやろうか――――彼女は考えをめぐらせたが、男の言葉のほうが早か った。  「・・・いいや、悪かったよ奥さん。もう帰っとくれ。」  しかしそれは、あまりにも予想だにしなかった台詞だった。  「――――え?」  不意をつかれ、彼女は男を見やった。  背中を小さく丸めてうなだれている男は、自嘲の笑みを浮かべていた。さっきまでの下品さの代わ りのような、淋しい笑みと惨めそうな姿。彼女は別の意味で言葉を失った。  「気ィ悪くしちまっただろ。呼び止めて悪かった。」  「でも・・・」  「いいって、早く帰んなよ。急いでるんだろ?」  彼女は叱られた子供のようにびくっとなった。  さっきまでの上機嫌が嘘のように男の声は苛立ちを含んでいる。このまま立ち去るべきだ・・・心 はそう言っているのだが彼女の足は動かなかった。恐怖にも似たとまどいがそうさせなかった。彼女 はただ途方にくれてその場に立ちすくんだ。  「俺ァ、ただあんたと話がしたかっただけなんだ。」  男が口を開いた。今度は哀愁を少しばかり漂わせた、優しげな口調だった。  「気が滅入った時の常套手段さ。あんたみたいな別嬪さんと話していると気が晴れるし、もうちっ   と頑張って働こうって気にもなる。ただ、これ以上あんたの気ィ悪くしちまったらかなわねえか    らな。だから帰ってくれって言ったんだ。」  「そんな・・・」  男の突然の告白――――彼女はそれに頬を赤らめた。彼が今傷ついたのは自分のせいのように感じ、 心の片隅で罪を意識する。どんな言葉をかけてやれば、彼の傷は和らぐのだろうか?  「・・・確かに気は悪くしたけど、そんなに謝ってもらうほどじゃないわ。」  彼女は慎重に言葉と口調を選び、そう言った。  男は背中を丸めたままヒヒッと小さく笑った。その笑みに、さっきまでの下品さがほんの少し戻っ てきたのを見て、彼女は安堵した。  「奥さん、あんたぁいい人だ。そのご立派な身なりからすると、どこぞの偉いさんの御台様か?   それなのに、こんな道端でみじめったらしく汚ねえ男に、そんな優しい言葉をかけてくれるなん   て・・・」  「そんなことないわ。」  彼女は頬を歪ませながら言った。確かに今着ているスーツはクリーニングから帰ってきたばかりの ブランド物だが、“御台様”などと呼ばれるほどのものではない。それ以前にこんな疲れきった顔を している自分を見て人妻だと思うなんて、この男にはよっぽど人を見る目がないに違いない。  「それに、惨めなのは私も一緒よ。」  「そういやあんた、辛そうな顔してたもんな。どうしたんだい、旦那に浮気でもされたのかい?」  男の質問に、彼女は静かに首を横に振った。  「・・・失ってしまっているの。」  そしてそのまま語り始めた。  「日々があまりにも忙しすぎて、めまぐるしくて・・・私は今まで、自分の義務を遂行するために   色々なものを犠牲にしてきたわ。時間、感情、思考、地位、私を私だと位置付ける全てのものを。   私は決してそれが嫌ではなかったわ。むしろやりがいを求めて進んでそれを捨ててきた。でも今   になって、ふと気がついたの。そうやって望んで自分の犠牲にしてきたはいいけど、その代償を   どこからも得ていないって。それどころか、人間として当たり前のことまで失ってしまっている    って。」  次第に口調が感情的になっているのに気がついて、彼女は言葉を区切った。  男はひたすら熱心に、彼女の言葉に耳を傾けていた。  「さっき久しぶりに青空の下を歩いていて――――本当に久しぶり。ここのとここもりっきりだっ   たから――――陽射しはまぶしいってことや空気は冷たいってことを“思い出した”の。昔は当   然のように感じることができたのに、今は思い出さなくては感じることもできない。・・・そん   な、何も得ることもできない日々を、“感じる”ことさえ引き換えにして、一体いつまで続ける   んだろうって・・・」  そこまで一気に語ると、彼女は黙ってしまった。  気がつくと語る言葉がなくなっていた。感情の全てをぶちまけて理性を取り戻し、一体誰に己をさ らけ出していたのかを思い出すと、顔を赤くした。  彼女が気まずそうに男から視線をそらすと、完全な沈黙が二人の間を凍らせた。男はどことなく辛 そうにうなだれていた。  「・・・なあ、あんた、」  ふいに、男が沈黙を破った。  「そんなに辛いんなら辞めちまえよ。」  スカリーはその言葉に、何の理由もないままカウンターパンチを食らったかのような衝撃を覚えた。  「何をしているのかは知らねぇけど、そんな大変な思いしてまでやらなきゃならねぇことなんかね   ぇんだ。辞めちまえ辞めちまえ。」  「そ、そんな・・・」  「“そんなことできない”ってか? それは何でだ? 自分の代わりがいないからか? 自分にしか   出来ないからか? そりゃあんた自惚れだよ。世の中なあ、“かけがえのない存在”なんてもの   はありゃしねぇんだ。」  あなたなんかに何が判るの――――さっきまでの彼女ならそう言い返していただろう。しかし男の 思いのほか静かな口調は、彼女の心に男の言葉を受け入れさせるのに充分すぎた。  彼の言葉は当っている。医学博士号を持った捜査官なんて、彼女以外にも有り余るほど局内には存 在する。今彼女が魂を削って担当している事件だって、彼女が突然降りたとしても、挿げ替える人員 にFBIが困ることは決してない。そしてXファイルだって・・・  「・・・そうね、」  彼女は呟くように言った。  「あなたの言うとおりだわ・・・」  それでは私は、一体何のために自分を犠牲にしてまで働いているのだろう・・・?  「・・・なぁ、奥さん、」  彼女に突然湧いた疑問を察したかのように、男は言った。  「こんな時ァ、辞められない理由を考えちゃいけねぇよ。」   「それって・・・」  「例えば俺さ。」  男はヒヒッと笑って彼女の疑問を制した。  「俺ァ毎日日の出る前から働き始め、夜家に帰るのは真夜中過ぎ。休む暇なんざありゃしねぇぐら   いの働きざまだ。しかも、そんなにして稼いでも、女房子供食わせるのが精一杯。てめえの懐に   は一銭も入らねぇんだぜ。しかもそんな生活を、一生続けなきゃならねぇんだ。」  「時々、逃げ出したくなったりしないの?」  「そりゃあ逃げ出したいさ。ガキがいるたってそこそこの年になってるし、女房だって五体満足健   康そのもの。俺がいなくたってどうにか食っていける奴らなんだ。――――なあ、そんな俺がど   うして逃げもせずに汚ねえナリで花売ってるのか、あんた判るか?」  スカリーが首を横に振ると、男は満足そうにニヤッした。  「自分を犠牲にしてるって誇りがあるからさ。」  「犠牲にしてる誇り・・・」   彼女はその言葉を、初めて聞く単語のように反芻した。実際、そんな言い回しは音にして発してみ ても、どうもしっくりこないような気がした。  「正確には“犠牲にしてまで守るものがあり誇り”だな。」  男の顔が下品な笑みに歪んだ。  「俺も今のあんたみたいに考えたことがあるんだ。何でこんなに辛い思いして働いてるんだって。   そしてそんなに辛いんなら辞めちまえばいいのに、何で辞めねえんだろうって。でも、いつまで   もそんなこと考えてたって答えなんか出やしねぇ。だから、考え方を変えてみたんだ。“俺がこ   の生活を続けている理由は何なんだ”って。」  「それで、その答えに辿り着いた、と・・・」  男は大きく頷いた。  「俺はかあちゃんとガキを食わすために自分を犠牲にしている。でも、そりゃ言い換えれば、そこ   までしてまで守るものがあるってことだ。そしてそう思った時、俺ァ自分が誇らしくなったんだ。   俺には、俺の人生には、テメエを犠牲にしてまで守るものがある。何て素晴らしい、誇らしい人    生なんだって。」  彼は満足そうに言いながら、照れくさそうに頭を掻いた。スカリーはそのしぐさを、不思議と可愛 らしいと感じた。  「――――だから逃げ出さないのね。」  「正直、辛いことのほうが多いけどな。」  男はあの下品さもそのままに言った。  「だからそんな時にはこうやって美人さんつかまえて喋ったりするんだよ。こういう楽しみが出来   れば、この仕事も悪くないって思えるだろ?」  それを聞くと、スカリーは男につられて苦笑した。ここに来て、初めて浮かべた笑みだった。  “辞められない理由”ではなく“続ける理由”。私が今の仕事を、Xファイルを続ける理由――― 私には、辞めれば失うものがある。自尊心、信念、そして――――言い換えるなら、守るべきもの、 守る価値のあるもの。  今の私には、守るべきものがある――――  彼女は不意に、心が満たされるのを感じた。  「奥さん、ありがとな。」  男が言った。見やると、彼も満たされたような表情になっていた。  「俺のつまんねえ話に付き合ってくれて。」  「私のほうこそ・・・ありがとう。」  彼女は恥ずかしそうに言った。  「それにごめんなさい、さっきはあんな態度とって・・・」  「いいって、気にすんな。俺も悪かった。」  「じゃあ、私本当に遅くなるから――――」  「あ、待って。」  そのまま立ち去ろうとするスカリーを、男は呼び止めた。  「これを・・・」  そう言って彼は彼女に花を一輪差し出した。鮮やかに花を咲かせた黄色いカーネーションだ。  「金はいらねえよ。」  「でも・・・」  「貰ってやってくれよ、こんなに花が開いちまったんじゃ、どの道売り物にならねえんだ。」  スカリーはそれを聞くと安心してにっこりした。  そして男から花を受け取ると、目を細めてその見事さを堪能する。――――茎と葉の濃い緑と、 一枚一枚しっかり厚みのある黄色い花びら。それらは不思議と質量感があり、重みから命の力のよう なものを感じる。見た目の美しさは勿論のこと、その掌に伝わる力は彼女の気持ちを充分に元気付け た。  「・・・ありがとう。」  彼女は照れくさそうに言った。  「じゃ、元気でな。」  「あなたこそ。」  「頑張れよ、ミス。」  男のエールにスカリーは視線を合わせることで応えた。そして彼が下品に、しかし力強く微笑んで 見せると、彼女は足早にその場を去った。    男から貰った花をケーキの箱に差すと、彼女は小走りをはじめた。これで本格的に遅くなってしま った。もう、何を責められても言い返すことは出来ない。彼女は心の中に、相棒が怒りの形相で自分 を罵倒する様を描き、背筋をぞっとさせた。  そうして焦りながら寒空の下を走ってフーヴァービルに駆け込み、暖房のよく効いた室内の空気を もわっと全身に受けた時――――彼女はあの男が別れ際、自分を“ミス”と呼んだことに始めて気が ついた。    スカリーは見知らぬ家の戸を開けるように、そっと地下室のドアを開けた。  中は明かりこそついていたが、そこに相棒の姿は見られなかった。  彼女は複雑な面持ちで部屋に入った。面と向かって彼に謝らなくて済むと気が楽になる一方、もし かしたらあまりに帰りの遅い自分の業を煮やして食事に出てしまったのでは、と不安になる。いや、 それならまだしも、捜査に進展があったのだとしたら・・・?  しかし、彼の机の上に自分当てのメモが残っているのを見て、彼女は胸を撫で下ろした。そこには 呼び出しがあったので15分ほど席を外す旨が、大した用事ではないので心配しないようにという但 し書きと共に記されていた。  メモの最後はこう記されていた――――スキナーの頭にキスするようにとの命令だ。全く困るよ。  読みながら、彼女は思わず笑みを漏らした。彼らしいわと呆れる一方、この多忙の最中にもユーモ アを忘れない相棒に心から敬服した。  彼女はケーキの箱をメモの上に置くと、奥の続き部屋にある自分のデスクではなく、彼の席に腰を 下ろした。  そして背もたれにたっぷり身を任せて寄りかかり、いつも彼がしているように手を頭の後ろで組ん でのけぞってみた。  そこに広がっていたのは、彼の世界。  仕事場として毎日見飽きるほど見ている部屋なのに、まるで違う場所に紛れ込んでしまったかのよ うな感覚に、彼女は包まれた。  高い天井、メモ紙だらけの壁、少ししみになっているポスター・・・  角度がほんの少し違うだけで、そこは全くの別世界だった。彼女はその新鮮な感覚に背筋を震わせ ると、その世界の虜になった。  これは彼の角度、彼の視点、彼の空間、彼の世界、  私の知らない彼を、今こうして感じている――――  彼女は大きめの椅子に彼の背中を意識して、心を少し切なくした。  これは私のいる場所、守る場所、  これが私の守るもの・・・・  視線を少し落とすと、さっきデスクの上においたケーキの箱が目に入った。  シンプルでつややかな白の上に乗った力強い黄色。そこが自分の場所だと見るものに知らしめる ように存在感のある花びらは、とても美しく、気高く映った。  しかし、中に入っている食べ物のことを一転、彼女は慌てて立ち上がった。折角のミルフィーユ がこのままでは生暖かくなってしまう。彼に食べさせる前に冷蔵庫に・・・  ・・・と思って箱を持ち上げたが、そのとたん、彼女はぴくっと動きを止めた。  腕にかかるずっしりとした重みに、あの極上のミルフィーユがふたつ入っていることを思い出す。 彼女は箱を空けて中身を眺めると、欲求から来る悩みに頭を抱えた。  どっちにしようかな・・・・?  白いフリルのついたショコラ・ミルフィーユとピンクのドレスでおめかししたマーマレード・ミ ルフィーユ。頬擦りしたくなるほど愛らしいばかりではなく、その色合いが激しく食欲に訴えてき た。しっとりと大人の魅力のあるショコラ、あどけなさが残るマーマレード。どちらかを彼に差し 出さなくては――――どちらかを手放さなければならないのかと思うとたまらなく苦しくなる。こ の私ではなく、彼の口に入るのかと思うと・・・  ・・・でも・・・  これを彼に食べさせるということは、彼にあの店の存在を教えることにもなるのね。私だけの秘 密の場所を・・・  そう思い至った時、彼女は心に決めた。  たまには、自分自身を守ろう。  「おう、帰ってたか。」  そう言って彼が勢いよくドアを開けて戻ってきた時、彼女はまだ彼のデスクに座っていた。  「早かったんだな、もう少しゆっくりしてきてもよかったのに。」  何故か機嫌よさそうな彼に、彼女は口元にうっすらと笑みを浮かべた。  「とんでもないわ、ごめんなさいね、私だけ出してもらって。」  「いいって。その代わり、ディナーは僕が出させてもらうよ。」  「ええ、そうして頂戴な――――それより、スキナーの用事って何だったの?」  「そう、それなんだけど――――」  彼の表情がぱっと華やいだ。  自分と同様、ここ最近多忙を極めていた相棒の顔は――――おそらく自分と同じように―――― げっそりとやつれ、目の下には大きな隈が出来ている。そんな彼の明るい表情は見ていて痛々しい 感じもしたが、それでも笑顔を見られるのはやはり嬉しかった。  彼も私を見て、同じことを思うのだろうか・・・?  「喜べスカリー、僕たちの勝ちだ。」  「え?」  「アル・ガートナーの居場所を特定できたぞ!」  「本当に?!」  彼女は身を乗り出して聞きかえした。  彼は大きく頷いた。  「君の説が正しかったことが立証されたんだ。ガートナーはやはり、レイチェル・バックマンに罪   を着せる為に、部屋に彼女の毛髪を残しただけだったんだ。」  「それでガートナーは?」  「そっちは僕らの仕事。プロファイルチーム満場一致でバックマンの山小屋が怪しいってことにな   ったんだ。それで周辺調査をさせたらビンゴ! ってわけさ。」  「やったじゃない、モルダ―!」  「ああ!」  二人は喜びのあまり、苦楽を共にして捜査にあったてきたお互いを抱擁したくなるのをぐっとこら えた。そしてその代わり、大きなくぼみのできた目で見つめ合い、互いの苦労をねぎらった。  「・・・やっててよかった・・・」  「気持ちはわかるけど、その台詞はまだ早すぎるぜ。」  彼女が気の抜けたような声で呟くと、彼はそう釘を刺した。  「これから人質救出のための特殊チームが編成される。おそらく僕らも駆り出されるだろう。全   てはこれからだ。」  「判ってるわよ、そんなこと。」  彼女は少しむくれて見せた。  判ってる、そんなこと、誰よりもよく。私の仕事はそういうものなのだから。でも、今まで死に物 狂いで走ってきたのだから、ちょっとぐらい立ち止まって呼吸を整えたっていいじゃないか。  しかし彼女のそんな思いは、彼女自身によって否定された。いいや、それは甘えだ。私の仕事も 彼の仕事も、被害者のためにならなければ、成果など上がらなかったのも同然なのだ・・・  「でもその代わり――――」  再び表情が険しくなる彼女に、彼は楽しそうに言った。  「休暇分捕ってきたぞ。」  「そうなの?!」  「ああ、呼ばれたついでに許可もらってきた。この件が全て片付いたら3日間の有給だ。」  「嬉しいわ、何より嬉しい。ルイーザを救出したら、私自身を洗濯物の山から救出できるもの。」  「僕はビデオの山だ。」  「何あなた、この忙しいのにビデオなんか撮ってたの?」  「昔好きだったドラマが再放送されててね。毎日30分、タイマーかけてるんだ。」  「よくやるわねぇ。そのマメさを、少しは書類とか領収書の整理に使えないのかしら?」  「仕事なんかに使えるかよ、もったいない。そういうものは、自分の生活を守るために使わなく   ちゃ。」  そう、いたずら小僧のように言うモルダーを見て、彼女はさっき出会った花屋の主人のことを思い 出した。  あの男とこの人は、同じ言葉を語る者だったのか・・・  「さて・・・そろそろ仕事に戻ろう。」  相棒は時計を見ながら言った。  「ええ、そうね。」  スカリーはモルダーの椅子から立ち上がって言った。  「科学捜査室に行って来るわ。今のあなたの話をもう少し詳しく聞いてくる。」  「じゃあ僕は2時30分からチームの奴らとミーティングがあるからそれまで――――」  と、そこまで言って彼は止まった。  「――――スカリー」  「なあに?」  「僕に内緒でケーキ食ったろ。」  「――――え?」  彼女は声を裏返して答えると、彼のほうに振り返った。  そこには、恨みのこもった表情をさらけ出した長身の男が、ごみ箱を抱えて立っていた。  「な、なんのこと?」  「しらばっくれるなよ。スキナーの部屋に行く前に、こんなものは入ってなかったんだ。」  言いながら彼はごみ箱の中からピンクのセロファンをつまみ出して彼女に突きつけた。セロファン の端には、マーマレードジャムがこびり付いていた。  「私じゃないわ。」  心で冷や汗を掻きながら、彼女は苦しく言った。自分で聞いていても、あまりにも滑稽な言い訳 だった。  「君じゃないなら誰なんだ?」  「知らないわよ、そんなの。」  「包装から観ると2個は食ってるな。ずるいよスカリー、片方分けてくれたっていいじゃないか。」  「だから私じゃないって。」  たかだたケーキ一個でこんなに熱くなって・・・彼女は彼を呪ったが、内緒で食べてしまった負い 目があるので強く出ることはできなかった。それにしても・・・  ・・・・美味しかった、ふたつとも・・・・  「それに大の大人がみっともないわよ。ケーキひとつでガタガタ言って。いい加減にしなさい。」  「だって僕だってたまには美味いもの食いたいじゃないか。それに食わせる気がないなら初めから   買って帰らなければいいんだ。」  「あー、じゃあ今度違うのを買ってきてあげるから。」  「お、認めたな、やっぱりこれは君の仕業だったんだ!」  「しーらないっと。じゃ、行ってきます!」  「あ、こら、待てって!!」  しかし、彼女はそれを気にも止めず、部屋から出て行った。  彼女の後ろでばたんとドアが閉まった。二つ分のミルフィーユでたっぷり満足した舌を追い出すよ うに。  オフィスに一人残されたモルダーは、仕方なくあきらめてごみ箱を床に戻した。  そして彼女のぬくもりの残る椅子に腰を下ろしてふうっと溜息をつくと、自分の仕事に取り掛かっ た。  デスクの片隅では、コップに刺さった黄色いカーネーションが一輪、ひっそりと、しかし雄々しく 花を咲かせていた。                               End 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜    =巻末スペシャルドキュメンタリー in Washington D.C.=    みなさま、ご無沙汰しております。新米フィルム編集係、Amandaです。 私の事、覚えて下さっていますか? 泣く子も黙る鬼ころがし(??)、あっこ監督のもとでXFのフィルム編集係として働 き始め、はや1年半が経ちました。数々のハプニングや大失敗も、今となっては 笑い話。最近では、あっこ監督の良き友人として扱われるまでに成長しました。 とは言っても、大好きなアーティストのコンサートなどがあれば、必ずと言って いいほど私が前日からチケットブース前に野宿をさせられる、というパシリ役も 兼ねているわけですが。 これまではアダルト系作品を主流に、ケーブルテレビじゃないと絶対にコード規 制食らっちまうよと言わんばかりのR-18設定をブチかまし、数多くのスタッフを 鼻出血で病院送りにしたあっこ監督。しかし今回は趣向を変え、とても微笑まし い作品を手がけられました。スカリーに人生の大切さ、人生の楽しみ方を教える という話で展開していく『ミルフィーユをふたつ』です。 ここには感じの良いマスターや、考えただけでヨダレが出そうなケーキ達が登場 します。これはきっと、お菓子が大好きなあっこ監督のお気に入りの店がモデル になっているのだろうと思った私は、自白剤を使って(ニヤ〜)そのカフェがどこ にあるのかを監督から聞き出し、先日、潜入取材をしてきたんです。 ********** 確かに、そこはとても感じのよい店だった。白を基調とした清潔そうな壁に好印 象を持った私は、にへらーっと締まりのない笑い顔を浮かべる....が、その爽や かな好印象は、私がドアを開けた瞬間、見事に崩れ去った。 「ヘイらっしゃいっっ!!」 ....へ......『ヘイらっしゃい』って?? 「あ、あのぉ〜〜....おたく、こちらのマスターですか?」 「オヤジの知り合いなん? 残念やな嬢ちゃん、オヤジは昨夜モチを喉につまら して病院にぶちこまれてなあ。今日はワシがカ・ワ・リ」 長い時間をかけて「爽やかさ」を追究してきたに違いないマスターの努力は、彼 の息子によって水の泡と化し、魚河岸をも彷彿とさせる雰囲気へと様変わりして しまった。これじゃあ「カフェ」じゃなくて「サ店」じゃん。 西部にある大学で経営学を学んだという彼の口調はバッチリ訛っている。まあ私 も日本にいた頃は関西に住んでいたので、波長が決して合わないというわけでは なかった。と言うよりむしろ、彼と私は面白いほど波長が合いまくったのだ。 「友達がここの店気に入っててな、今日はそれで来てみてん」 「ほぉ、うちを気に入ってくれてはる人がおるんか。そりゃええこっちゃ」 これに気を良くしたのか、彼はほくほく顔で私にケーキを振る舞った。 「嬢ちゃん、これ食うてみいな。栗ようさん入ったモンブラン」 「うひゃー、めっちゃ美味しいやんこれ!!」 「そやろ、天津甘栗やっちゅーねん」 ケーキの材料に天津甘栗?....まいっか。 「これもうまいで、定番やけどショートケーキ」 「いちごイケてるやん、うまいわぁ」 「厳選素材、博多のいちご〜♪」 は、博多産....マジっすか!? 「嬢ちゃん、これもいっとこか。チョコレートケーキ」 「まさかこのチョコも日本産?」 「お、よーわかったな。チョコレートは明治って言うやろぉ」 「おっちゃんとこ、親日家?」 「そや、オヤジが百恵ちゃんのファンやしな」 万事が万事この調子で、結局私は彼にすっかりノセられ、サ店....もとい、この カフェで売りに出しているケーキの全種類を制覇してしまったのだ。 「もぉぉ〜食べられへんわ、おっちゃん。めちゃウマやな、ここのケーキ」 「当たり前やろ、オヤジが苦労して建てた店やで。マズイわけあらへん」 私と完全にウマが合ってしまった彼は、再びこのカフェで会える事を願って、お 土産に10個のケーキを持たせてくれた。 おっちゃん、また来るわ。 ちなみに、この日の費用は全て監督のツケにしてあるのだけれど、あまりの恐さ に私は今も監督に切り出せないでいる。あれから一ヶ月....バレるのはいつだろ うかとヒヤヒヤしながら毎日を送っている今日この頃、なのである。 <完> 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜   =あっこ’S Word= 「あら? 何かしらこの請求書・・・  おかしいわ、接待にこんなに使った覚えはないし・・・  そもそも何なの、マロン・ド・天津とか、ガトー・オ・明治とかふざけた名前の羅列は・・・???  ――――そう言えば、あの店のショーケースがすっからかんだったことがあったわ。  気分悪くて仕事休んだ次の日よ。  あの日は、あのフィルム編集係に入れてもらったお茶を飲んで・・・・  ・・・ああ!! 伝票の日付がその日と一緒!!  や、やりやがったなぁ! あのくそがきゃぁぁぁー!!  痛てー目みしてやるぅぅーー!!」   ご意見・感想・批評(いづれも好意的なもの)をお待ちしています。 atreyu@nna.so-net.ne.jp