十六の歳で学園を卒業した三郎と雷蔵は、その手に卒業証書を携えたまま二人で不破の家へ赴いた。
卒業の目出度き日を祝うべく迎え出た両親に、二人は大事な話があると云う。その二人を差し置いて両親も同じく雷蔵に大事な話があると言う。両親はそれは上機嫌で幸せそうな笑顔であった。
両親はこの吉日に雷蔵を家の跡取りとするべく、そのお披露目をする積もりで兼ねてより準備を重ね、今日という日を心待ちにしていた。
二人を祝う宴が催されるにさきがけて、三郎と雷蔵は挨拶があると両親の部屋を訪れた。改まって何事かと顔を見合わせて驚く両親は、幼かった雷蔵の大人びた振る舞いに成長を見て顔を綻ばせながら相まみえた。
しかし対座した最愛の息子の口から出た言葉は、両親にとって思いも寄らぬ事であった。
「父上、母上。私は三郎を義兄とし、共に生きて行くと決めました。この心に揺らぐ処はございません。」
はっきりと雷蔵が両親に伝えると父はギッと三郎を睨み大声で罵り吐け、母ははらはらと泪を落とすばかりであった。それでも二人の決心が如何に堅いかを知ると、甲斐のない事を知り、親子の縁を切ると申し伝えて二人を家から追い出した。
後に母は語るが家を出てゆく二人の後ろ姿は、飛翔する白鷺のように伸びやかで幸福に満ち充ちていた。二人は追い出されたのではなく、自分たちの方が置いて行かれたような気持ちであったと言う。
「雷蔵、終わったか?」
「もうすぐ最後の爆発が起こる・・・ああ、あれだよ。これで水路は全部潰した。」
「上出来だ。撤退するぞ。」
遠く砦を望む樹上で黒い影が二つ並んでいた。
三郎と雷蔵である。
家を出て後、街に貸家を求め共に暮らしていた。贅沢ではないが大切な者と寄り添い生きるのは二人にとって至上の幸せであり、また贅沢でもあった。一つだけ不満を漏らせば隣家との壁が近すぎて、夜は雷蔵に手ぬぐいを咬ませ無ければならないと言うことぐらいであった。
作戦の完了を見届けて雷蔵が樹から飛び降りると同時、轟音と共に地面が光り弾けた。
飛び降りた場所に埋火が仕掛けてあり、雷蔵が知らずそれを踏んだのだ。
三郎があっと声を出す間もなく、雷蔵の身体は木の葉のように吹き飛ばされ地面に叩き付けられた。
三郎はあわてて駆け寄り雷蔵を肩に担ぎ上げ、爆音を聞きつけた敵方が来ぬ前にそうそうにその場を立ち去った。
次に雷蔵が眼を開けたとき、其処は見知らぬ部屋であった。
深く息を吐いて身を捩ると、身体全体がずきずきと疼く。どうやら自分は爆風で吹き飛ばされ地面に叩き付けられた、その時の打ち身の痛さだろう。イタタ・・・と小さく声を上げると、側に着いていた三郎が無表情のまま雷蔵をのぞき込んだ。
「あ、三郎。良かった、君は無事か。」
嬉しそうに自分の身より三郎の心配をした雷蔵に、三郎は呆れた顔をした。三郎の横にはもう一人、見覚えのある人物が座っていた。
忍術学園の校医、新野である。
「新野先生、お久しぶりです。此処は学園ですか。」
「久しぶりですね不破君。此処は学園ではありませんよ、大木先生のお宅です。」
そう言ってにっこり微笑む新野は、雷蔵に薬湯を勧めた。薬湯を飲み終わると直ぐに、新野は雷蔵の身体について話し始めた。
「さて、不破君。君の身体のことで早速確認しなければなら無いことがあります。腕は動きますか。まわしてみて下さい。」
雷蔵は新野に言われたとおり腕を肩からゆっくりと回す。打撲による痛みと長く眠っていたためかぎしぎしと痛む。
「それでは足を・・・。不破君、これは感じますか。」
新野は指で雷蔵の左の足の裏を突ついた。くすぐったがって雷蔵は笑いながら大丈夫と答えながら指を動かしても見せた。
「右はどうですか。不破君、感じますか。」
雷蔵はしばらく黙っていた。足の指は僅かに動くが足の裏に感覚がないのだ。
新野が溜息を吐いて布団を捲ると、雷蔵の右足は足の甲から膝上にかけて酷くただれて今も僅かに出血が続いている。厚く巻かれた布にはうっすら血がにじんでいる。
「これ・・・・は、先生・・・・僕は・・・・・!!」
「あなたは右足で埋火を踏んだようですね。その時の火と爆風で幾ばくかの足の肉が削ぎ取られ足の腱が切れている。僅かでも指が動くところを見れば幸い神経は生きて血も通っているので腐って落ちてしまうことはないでしょう。ですが歩くことは出来ても走ることは出来ません。」
雷蔵は言葉を失った。新野の言葉は雷蔵に忍者はもう務まらぬと言い聞かせているものだった。
しかしそれ以上に驚愕し落胆しているのは三郎の方だった。
落ち度は雷蔵にあるのだが自分も気を付けておくべきだったと悔いても悔やみ切れぬ。
「先生。雷蔵はもう・・・跳べないのですか。」
「無理です。忍は足が命。怪我が治ってからは普通の人としての生活しかできません。」
無情にも新野は言い放つがそれは優しさである。自由の利かない身体で戦場に出れば、危険にさらされる度合いは高くなる。雷蔵が絶望するかも知れないがはっきりと言い聞かせ、忍の道を諦め生きながらえれば違う道も見えてくる。
永い年月を医師として生きてきた新野の親心である。
「さて、あなた方は今どこで生活しているのですか。ここから近いところで?」
「先生、学園に雷蔵の親御が来たんでしょう。残念ながらそれはお答えできません。」
「そうでしょうね。わざわざ大木先生のお宅へ転がり込むくらいですから。」
「新野先生、もし両親が学園に来たら僕は幸せだから気にしないでと伝えてください。」
「仕方がありませんね。」
新野は苦笑しながら雷蔵の行く末を案じ、三郎に薬の与え方などを丁寧に教えると大木宅を後にした。雅之助は雷蔵の床上げがすむまで三郎に畑仕事を手伝わせながら薬の面倒見ていた。
その甲斐あって、一ヶ月もすると雷蔵は三郎の肩を借りて歩けるまでになった。訓練をすれば一人で歩くことも出来そうだ。
「あと半月もすれば一人で歩けそうだな。」
「ありがとうございます。大木先生にはなんとお礼を申し上げて良いか。」
「かまわん、その分鉢屋に働いてもらった。」
「お釣りが来ますよ。」
三人は冗談を言いながら笑った。先ずは雷蔵の本復が喜ばしかった。
それから半月後、雷蔵は人の手を借りずとも歩けるまでに回復した。無理はいけないが歩くことが出来る。だが引き攣る右足は思い通りには動かず、左足に負担を掛けながら歩く。そんな雷蔵を見る度に三郎は胸を痛めた。
二人の家に還ってから三ヶ月経つが、その間三郎は一時も雷蔵から離れず生活をした。雷蔵の身体が心配であるからこそだったが、そろそろ貯えが乏しくなってきた。これからは三郎が生活を支えて行かねばならぬし、雷蔵の足を腕の良い医者に診せたい。先立つ物を手に入れるため三郎は仕事に出ることにした。
「雷蔵、俺は1ヶ月の仕事に出るが一人で大丈夫か?」
「心配ないよ、家の中のことは一人でこなせるし水汲みだって問題ない。市場も遠くないから買い物だって苦じゃないよ、僕は子供じゃないんだし。」
「直ぐ帰ってくるからな。無理するなよ、面倒なことは放っておけよ、浮気するなよ。」
「何言ってんの!ハイハイハイいってらっしゃい!」
雷蔵は追い出すようにして三郎を送り出し、その後ろ姿が見えなくなるまでずっと見送った。
だが三郎からは何の連絡もないまま、2ヶ月が過ぎていた。
季節は移り変わりいつまでも夏の袷では涼しくなってきた。かといって蓄えは疾うに無く明日の糧さえ覚束無い始末だ。
何度か仕事を探しに出ては見たものの、後ろ盾が無く流れ者の身分では日雇いの安い賃金でしか雇って貰えず、最近では不自由な足を理由に断られ続けていた。三郎と二人で暮らしていた家は家賃を払えず追い出されてしまい、今更実家へも帰れない。
学園を頼った所で実家に連絡が行くのは目に見えている。
「どうしよう。三郎が還ってくるまではこの街から出るわけにも行かないし。かといって行く宛はないし・・・。はぁぁ。」
雷蔵は今になって五体満足の健康な身体を羨んだ。街を歩いている自分と同じ歳の頃の若者は、みな真っ黒に日焼けし額に汗し、右へ左へ通りを歩いていく。楽では無いにしろ皆、今日の生活と明日の暮らしに一生懸命体を使い働くことが出来る。今の自分には歩くことえ侭成らず、歯痒い思いを噛み締めていた。
三郎には内緒であるが、正直体を売ることも考えてみたがそれは一瞬で打ち消した。二十歳を過ぎた自分が売りものになる筈も無し、また再び三郎に会ったときになんと言い訳をするか、またそれを聞いて貰えるかも解らない。
雷蔵は三郎に捨てられたくはなかった。
項垂れて不自由な足を引きずりながら夕暮れの暗い路地を歩いていると、不意に頭の上からヒラヒラと手拭いが舞い降りた。見上げると建物の二階から美しい顔立ちの前髪を垂らした少年がにっこり笑って雷蔵を見て手招きをしている。
「にいさん、悪いが其れを持って上がって来ては貰えまいか。」
初対面であるのに、その前に目上の者に対して随分と不躾な口を訊く者だと思いながらも、その少年の口調は不思議と人を動かしてしまう声だった。
重いのれんの掛かった建物は商家のようであったが商売物が何であるか解らない。訝しむ雷蔵の元にお歯黒を塗った女がにっこり笑って出てきて、雷蔵が二階の少年に呼ばれたと告げるとその女は先立って案内した。
二階の廊下は両方に部屋が並んでおり、酒と煙草の匂い、それにやたらと静まった中にクスクスと囁き合う声が聞こえて妙な雰囲気である。雷蔵は突き当たりの部屋に案内され、飾り気のない襖を開けると、先ほどの少年が窓辺に座り待っていた。
「わざわざありがとう。さぁ、入ってくださいよ。」
少年は雷蔵を奥に招き入れると、先ほどまで自分の座っていた場所に座らせた。そして衝立の陰から酒の膳を出し勧めるが、雷蔵は訳が分からずただ戸惑うばかりである。
「ちょっと待て、私はただこの手拭いを届けに・・・。」
「解っていますよ、僕が呼んだのですから。ああ、僕の名は清之丞と言います。以後お見知り置きを。」
「だから待て、大体此処はなんの店だ。」
「あれ、兄さん此処が何処だかも知らずに登楼したの?此処は遊郭ですよ、売り物は男ですけどね。」
「お・・・・。」
「さ、先ずは一献。」
「あの、申し訳ないが・・・。」
「大丈夫ですよ、男に興味がなくても僕がちゃんと手ほどきいたします。女と大して変わりませんし、却って女より良いとお客さんはみんな悦んでいかれますよ。」
「そうでは無くて、私は金を持っていない。今夜の寝る場所さえない有様なんだ、だから客にはなれない。」
雷蔵がそう告げるが少年、清之丞は構わず酒を勧める。なおも断り続けると今日は客が居ないので自分の奢りであると言う。
「兄さんは僕の好みだ。今夜は只で泊まっても良いですよ。どう?」
「いや、あの、なんと言うか、私は今仕事にもあぶれている状態で、ホレこの足のせいで仕事にも在り付けず難儀して居る。私は上客には成り得ないよ。」
「それならちょうど良い。運の良い事に昨日風呂焚きの爺さんがおっ死んで替わりを探していた所。なに、足が不自由でも構いやしないさ、前のは働きの悪い爺さんだったのだから。ここで待っていてくださいよ。」
清之丞は言うなり部屋を飛び出しドタドタと階段を駆け下りていった。しばらくするとまた騒がしい足音が戻ってきて清之丞は嬉しそうな顔をして飛び込んできた。
「兄さん、良いって、此処で雇ってくれるって、良かったね。それじゃ祝いに一杯。」
飽く迄も酒を飲ませるつもりである清之丞にとうとう根負けし、雷蔵は杯を手に取った。
清之丞は十の頃からこの遊郭で働いている。身寄りは無く他に行く宛がなし、しかし自分に合っている商売だという。客にっこり笑って酒を飲ませて、ちょっとしどけなく涙を流してみせれば相手は同情し金を置いていってくれる。偶に気に入った相手がいれば身体を与えてやるし、嫌いな客は百回通って来ても袖にする。
店で一番売れている清之丞には店のも甘いようで、足の不自由な雷蔵を口利き一つで雇って貰えた。
雷蔵は昼間に店の少年達に文字や歌を教える傍ら店の仕事をし、夜は風呂焚きと店でごねる客を説得し穏便にお引き取り願う仕事を請け負っていた。
この穏便にと言うのは脅しすかしのようなものである。
賤しくも忍の端くれである雷蔵は、度重なる戦闘を切り抜け死地を乗り越えてきた身である。そして相方はあの三郎。彼と同等に渡り合って来た雷蔵は、敵に恐怖心を持たせる表情が出来るようになっていた。今ではそれが充分役に立っている。
今夜も客を一人、説得によりお引き取り願った後雷蔵は溜息をこぼし独り言を呟いた。
「こんなのは三郎の方がもっと上手くやれるだろうに。」
すると不意に目頭が熱くなりパタパタと涙がこぼれ落ちた。
今の今まで必死に働いて居た雷蔵は久しぶりに三郎の名を口にして、この場に愛しい者が居ない寂しさをはたと思い出した。
雷蔵は風呂焚き場に戻り、涙を流しながら薪を燃べた。パチパチと弾ける火を見つめながら三郎を想った。
なぜ彼は還らないのだろう。
命を落としているとは考えられない。雷蔵には何となく解る。
ではどうして。こんな自分に嫌気がさしたのか、他に好いた人間が出来たのだろうか、しかしそれなら彼はそのことを自分に伝えた後に去っていくだろう。となれば、やはり仕事の都合で還って来られないのだろう。どうあれ心配である。
雷蔵はぼうっとしたまま仕事を終え部屋に戻ると清之丞が居た。清之丞は客の無いときはいつも雷蔵にべったりである。そして自分を抱けと迫るのだが雷蔵は操だてしている者が居るからと断り続けている。今夜もまた同じ事の繰り返しと想像したが、いつもと違う雷蔵の様子に清之丞は心配気に訊ねた。
それに対し雷蔵は全てを話した。今まで押さえ込んでいた物が一気に流れ出たようにいつになく話し続けた。そうすることで三郎を想い出し、三郎の無事を祈る気持ちだった。
「なんだい、兄さんにそんな男が居たなんて。話聞いてるだけで僕はとても勝てそうに無いじゃないか。」
「うん、三郎は怒ると怖いんだ。ちょっと変な奴だし・・・。」
「でもさ、絶対還ってくると思うよ。そんだけ兄さんに惚れてる奴だモン、ぜーったい還ってくるからさ、安心して此処で待ってなよ。それまで仲良くしよう。」
「仲良くったって・・・・こら、そこは仲良くしなくて良いって!!」
「なんだい、ケチ。黙ってりゃわかんないってのに。」
雷蔵は少し気分が落ち着いた。
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「情けない。俺ともあろう忍が・・・・。」
三郎は捕らわれていた。
「三郎、ままはまだか。空腹である。」
「殿、しばしお待ちを。只今支度をしております故、もう暫く。」
「空腹じゃ、空腹じゃ、三郎はまろを餓死させる気じゃあ!」
三郎のいる場所は崎守城天守である。現在戦の真っ直中。城の回りはぐるりと敵に囲まれ兵糧攻めに遭いかれこれ一ヶ月半である。
崎守の城主は既に討ち死に、即座に息子である豊嗣が城主として担ぎ上げられたがまだ十歳の子供である。しかもこの城の正室、豊嗣の母は公家の出で、豊嗣の廻りについている公家出身の重臣達は戦を知らない。元からいた武家の重臣達は既に城主共々討ち死にし、今この城の中で戦の指揮を執る才覚があるのは忍の者だけである。にもかかわらず、その忍頭がもう半分呆けた爺さんではこの城の行く末は見えている。
道理で雇われた忍が多いと不審に思っていたところにこの始末。
三郎は豊嗣の食事に盛られた毒をいち早く見抜き命を救ってしまったばっかりに、護衛として側に着かねばならなくなってしまった。三郎にしてみれば自分は囚われているとしか言いようがない。
本心はさっさと帰りたい。この戦の先は見えている。仕えている城主は側近共々我が侭で頭が悪く、兵は下の者から次々と逃げていく。城を守っているのは深く掘られた壕と高い城壁ぐらいだった。
だが雷蔵のためにも貰う物を貰わなければ帰られない。この城は食料は不足しているが金はしこたま貯め込んであり、それ故重臣達も危機感がないのだろう。いざとなれば金で事を済まそうとでも思っているようだが、敵将の欲しい物は城主の首だと解らないのだろうか。
「ガキめ。落城前に締めてやろうか・・・。」
三郎は本気でそう思った。
城の廻りでは毎日小競り合いが起き、その度に兵の数は減り落城も時間の問題になってきた。生き残っているのは役に立たない重臣と僅かな兵だけ。重臣達は敵方から和平の使者を待っているがそんなものは来るはずない。
三郎もそろそろ見切りを付け金は諦め今夜にでもおさらばしようと思っていたときである、城主の母君、豊の方が三郎に近寄ってきた。子を産んだとは言えまだ若く美しい女。
その美貌で有能な男を手懐けようと目論見、戦の巻き返しと城の建て直しには三郎の能力が必要と見たのだろう。
前から気になっていた、と、三郎の胸に手を掛けしなだれ掛かってきた。
「戦は恐ろしく弱い女の妾には荷が重い。三郎、今は公に出来ぬが行く行くは、妾の夫となりこの城と豊嗣を守り立ててはくれぬか。」
『流石はもとお公家様、懐柔根回しはお得意と見える。』
見え透いた手の内にそうそう乗るわけには行かない。この手の輩の讒言に乗って仲良く手を結んでも戦が終わったらそれまで。床の中で命を落とし兼ねない。
しかしながら利用できるこの状況を逃す手はない。三郎は豊の方と手を結び戦を終わらせる方向を選んだ。
「美しい貴女と豊嗣様のためにも私に全てをお任せください。この戦、三日の後に終わらせてみせまする。」
三郎はさらりと言ってのけると、豊の方の豊かな胸に手を伸ばした。塗ったばかりの白粉の匂いがやけに鼻についた。
一日目、二日目と全く動きを見せない三郎に、しびれを切らした豊の方が凄い剣幕で突っかかってきた。しかしそれすらも口先三寸で言いくるめ、明日の早朝には答えが出ると伝えた。
斯くして三日目の朝、三郎の指示により敵武将と会見の場が持たれ、豊の方と豊嗣を同席した。武将は懐から書状を出すと、この案で同意すると言った。
「それでは、豊嗣殿、豊の方様。出立の用意は出来ておりますゆえ、どうぞ。」
そう言われて眼を白黒させているのは当の豊嗣、豊の方。
「何の事やら・・・。」
「其方から提示された和議の条件で豊嗣殿は出家、豊の方様は当方へ輿入れして頂くと。この儀が反故にされたときは二人の命を持ってして償うとされております。」
武将の見せた和議状は豊嗣の花押が押してある紛れもない本物。それを見た豊の方は金切り声を出して叫びだした。
「三郎っ!おのれ、妾を謀りおって!」
三郎は敵方から謝礼金を貰い疾うに城を出ていた。
元からの雇い主が居ない今、忍びの理はたまた人情など持ち合わせない三郎にとって目的はただ一つ、礼金を貰って帰る事だけである。
「約束通り戦は終わらせた。命があるだけ儲けモンと思うがいい。相手の殿さんは六十の爺さんだったが、どうしてどうして、俺にも引けを取らない好き者だから、せいぜい可愛がってもらえる。」
三郎は早々に城を後にし、雷蔵の住む街へと急ぎ帰っていった。
・・・つづく・・・
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