※注意※
・史実であった「張飛が夏侯淵の姪っ子お持ち帰り事件」を元にでっちあげた話
・夏侯淵の姪=二夏侯×護衛武将に登場した夏侯秋
・でも話の辻褄が合わなくなるので 二夏侯×護衛武将とは別物の話


小さな人影が夕暮れの森の中を歩いていた。
年端も行かぬ少女であったが、いずれ美しく開く花の蕾に似た可憐さがある。
彼女の名は夏侯秋。
去年両親が死去して、叔父にあたる夏侯淵に引き取られた。
先日官渡へ遠征に出かけた夏侯淵に留守を任され、今日も朝から家事を手伝い
日課である薪取りに森の中に入ったというわけである。
遅くならないうちに帰らないと、と思い夏侯秋は少し危ない近道を選んだ。
薪を背負わせた馬の手綱を引き、急ぎ足で獣道を進む。
すると、目と鼻の先におかしなものを見つけた。
真っ黒い毛に覆われた、小山のような………
その生き物が熊だと理解したのと、熊が立ち上がって夏侯秋に吼えかかったのとほぼ同時だった。

「きゃあああーーーーー」

夏侯秋は仰天してその場から脱兎の如く逃げ出した。
縄張りに踏み込まれて気が動転している熊は、息を荒げて後を追いかけてくる。
なんとか振り切ろうと夢中で駆けていた秋だったが、遂に木の根に躓いて転んでしまった。
――ああ、もう駄目!!
秋の細首に鋭い爪がかかろうとしたその時。
鈍い光が一閃し、熊は背後から頭を一突きにされていた。

「危なかったなあ」

恐る恐る見上げると、八尺はあろうかという虎髭の大男が夏侯秋を見下ろしていた。
一太刀で熊を仕留めた男は、何でもないように蛇矛を振って血を払い落とした。
『八百八屍将軍』『万人敵』『燕人張飛』
劉備を長兄、関羽を次兄とする三義兄弟の末弟――万夫不当の漢。
張飛の名は、曹操軍の将である夏侯淵を叔父に持つ秋の耳にも届いており
すぐにこの男がそれであると分かった。
だが――張飛がなぜここにいるのか。
曹操軍に城を急襲され、三義兄弟は散り散りになったと聞いている。
今や劉備の行方は知れず、関羽は曹操に降り客将となっているが……
そこまで考えて、夏侯秋ははっとして頭を下げた。

「あ、ありがとうございます。助かりました」

礼を欠かさないのはさすが良家の子女と言った所か。
夏侯秋はまだ震える膝を励まして立とうとしたが、顔をしかめてその場に膝をついた。

「あ、痛っ……」
「どうした?」
「脚を……」

さっき躓いた拍子にひどく挫いてしまったらしい。
立つだけでも足首は痛み、まともに歩く事などできそうにない。
乗って来た馬も熊に驚いて逃げてしまい、どうやって帰ろうか秋は途方に暮れた。

「良かったらよ、俺の砦に寄ってくか? もうじき暗くなるし泊まってけよ」
「え、でも……」
「明日お前の家まで送っていってやるから。な!そうしろよ」

夏侯秋は張飛の提案に戸惑った。
互いの立場を考えると、ここで別れて全てを忘れるべきだと分かっていた。
しかし夏侯秋はこの男に興味を抱いてしまった。
何となくだが、自分の大好きな叔父に似ているように思えたのだ。
叔父と似ている人なら自分を悪いようにはしないだろう、と妙な理屈で秋は頷いたが
それはあながち間違っているとも言えなかった。
あるいは女の第六感で張飛の本質を見抜いていたのかも知れない。

「じゃあ……お言葉に甘えて」
「よっしゃ、決まりだ!」

張飛は大層屈託のない様子で嬉しそうに言い、夏侯秋を軽々と肩に担ぎ上げた。
秋はつぶらな眼を瞬かせながらも、あの燕人張飛と知り合いになったなんて言ったら
妙才おじ様や殿はどんな顔をするかしら、と思って微笑んだ。

張飛は生まれて初めての感情に浮き足立っていた。
景色がどこまでも鮮やかに見え、微かな風さえも心を躍らせる。
肩に伝わる温かさと柔らかさが愛しくて堪らない。

「お前、名は何てえんだ?」
「秋といいます」
「秋か。俺は張……」
「存じています。張翼徳さまでしょう?」
「ええ!知ってんのかよ」
「有名ですもの」
「いや参ったなあおい!」

秋の言葉に頬を棗色に染める姿を彼の義兄が見たら何と言うだろうか。
どうやら、いや間違いなく張飛は恋をしているようだった。
世で言う「一目惚れ」など有り得ないと思っていた。
しかし実際に存在する事なのだと、張飛はたった今身をもって理解した。
しかも、まだ十五にも達していないだろう娘に。
その小さくて可憐な姿に一瞬で心を奪われてしまった。
小鳥が囁くような声、柔らかそうな頬、大きな黒い瞳。それら全てに惹かれていた。

「もうすぐ着くぜ」
「どんな所ですか」
「山の上の古い城でな。前そこに居座ってた賊を追い払って、代わりに俺達が住んでんだ。
うまい酒もあるし、手下も皆気のいい奴ばっかりだ」

楽しみ、と笑う秋に張飛も思わず笑顔になる。
雲を踏むような心地で砦に戻った張飛を手下たちが出迎えた。
軍に属する兵というよりもむしろ山賊のような出で立ちの面子だ。

「お帰りなせえ大将」
「お帰りなせえ」
「あれ、その娘っ子はどうしたんですかい」
「皆で楽しむんでっブ

下世話な事を口に出しかけた一人が張飛の鉄拳でぶちのめされた。
夏侯秋は肩に担がれたまま、やっぱり来なければ良かったかしら…と脂汗をかいていた。

「この娘は俺の大事な客人だ。皆丁重に扱えよ」

なんだか捕虜か何かに対する言い方みたい、と夏侯秋は思ったが
まさにその通りだと気付き背筋を寒くした。
張飛は曹操に壊滅させられた劉備軍の残党、そして秋は曹操軍の将の身内。
復讐の材料として人質にとられる理由は充分だった。
さっきは姓を名乗らなかったが、自分の素性が知れたらどうされるか分かったものではない。
幸い危害を加える気はないようだし、ここは明日までうまくやり過ごすのが賢明のようだ。
夏侯秋は腹を決めてよろしくお願いします、と丁寧に礼をした。

張飛は自ら秋の腫れた足首に薬を塗り、手当てをしてやった。
こんな小鹿のように細い脚でよく歩けるものだ、とまじまじと見る張飛の視線に気付き
秋は恥ずかしそうに脚を引っ込めた。張飛もばつが悪そうに赤面する。
その様子を物陰から見ていた手下達は気まずそうに互いの顔を見合わせた。
うちの大将は病気にでもなったのかと本気で危惧する者もいた。
それぞれの思惑をよそに夜は更け、砦の中では客人を迎えての酒宴が催された。
夏侯秋は今日まで酒など嗜んだ事もなかったが、張飛に勧められ初めて口にした。
意外にいける口らしく、二三杯と調子よく杯を干す間に秋の頬は見る見る桃色に上気した。
だんだん呂律が回らなくなり、黒目がちの瞳は夢見るように蕩けている。
後は勝手に飲っていろ、と手下達に言って張飛は秋を寝室に連れて行った。
残された手下達は、妙に甲斐甲斐しく振舞う大将の後姿を化け物でも見るような目で見送った。

酔ったのと眠いのとで足取りもおぼつかない夏侯秋はやっとの事で寝台に腰掛けた。
ちっとでかいけどこれに着替えて寝ろ、と張飛は自分の夜着を差し出す。
頷いて夜着を受け取った秋に背を向け、寝室を出て行こうとした張飛は衣擦れの音を聞いた。

「うわ!! お、お前何やって」

秋は張飛がまだ部屋にいるのを別に気にした風もなく、衣服を脱ぎ捨てていた。
慌てている張飛を尻目に大き過ぎる夜着を羽織り、ころりと牀に倒れこむ。

「……おやすみなさい……」

それだけ言って、すうすうと小さな寝息をたて始めた。
張飛は溜息をついて秋に布団をかけてやった。
酔っていて前後不覚だったのか、それともまだ男を意識する事もないほど無垢なのか……
どちらにしても危なっかしいが、ひょっとして自分に気を許していたからかも知れない。
……そうだといいんだけどよ、と張飛は一人で勝手に照れていた。
ふと、秋の髪から外れて敷布の上に落ちた簪に気付き、摘み上げて月の光に翳した。
精巧なつくりの銀の花に細い光が反射して煌めく。
こんな丁寧な細工の品はそうそう手に入るものではない。
身なりや振る舞いから察するにそれなりの家柄の娘なのだろう。
名前とそれ以上の事はまだ何も分からないのがもどかしかった。
こんなに誰かの事を知りたいと思ったのは初めてだった。
秋の事を知りたいと思うほどに、張飛の中でこの娘を離したくない気持ちが大きくなっていく。
出来る事ならずっとあの澄んだ瞳で見つめて欲しい。あの可愛らしい声で名を呼んで欲しい。
うっかり潰してしまいそうで恐ろしかったが、ただ愛おしみたい一心でそっと華奢な手を握った。
張飛の無骨な手と比べると一層小さく見える手はとても温かく、生まれたての雛鳥が掌に収まっているようだった。

「……ん……」

張飛の手を誰かと間違えたのか、秋は夢の中の相手に微笑んだ。
そのあまりに無邪気な様子に胸を締め付けられ、一層庇護欲を掻き立てられた張飛は
傍らの椅子に腰を据えて秋の寝顔を見ながら夜を明かす事にした。
眠っている間に秋を手篭めにしようなどとは考えもしなかった。

やがて夜が明けた。
白くなり始めた空を鳥達の影が横切る。
秋は目を開けて、一瞬自分が何処にいるのかわからず驚いたがすぐに昨日の事を思い出した。
そうだ、今自分は燕人張飛の城にいるのだ。
薪を取りに行ったら熊に襲われて、そこを助けてくれたのがあの張飛だった。
その後城に連れて行かれて、脚の手当てをされてお酒を振舞われたのだ。
だがどうしたことか、夏侯秋にはそれから先が思い出せなかった。
ここは寝室みたいだけどいつ牀に入ったのか分からないし、ぶかぶかの夜着も着替えた覚えがない。
どうしたのかなあ……と訝しく思いながら秋は牀から体を起こした。

「ひいっ!?」

牀のすぐ傍に張飛が座ってこちらを凝視していた。
秋はたまげて牀の上を後ずさったが、張飛は置物のように微動だにしない。
恐る恐る近づいて目の前で手を振ってみても何の反応もせず、まばたきさえしない。
かすかに口から鼾が聞こえる。どうやら目を開けたまま寝ているようだった。

(……やっぱり豪傑と言われる人はどこか常人とは違うんだわ)

信じられない現象を目にしながらも、夏侯秋はなんとなく納得した。
でももう朝だしとりあえず起こさないと、と思い張飛の肩を揺らす。

「翼徳さま、起きてください」
「……おお!?」

張飛は開けっ放しの目を瞬かせ、すぐ目の前に秋がいることに気付いた。
朝の光の中で見る秋は一段と可愛らしく、思わず見とれてしまう。
わざわざ俺の事を起こしてくれるなんてまるで夫婦みたいじゃねえ?と勝手な事を考えて
やに下がる張飛だったが、秋は単に目を開けたまま寝ている様が不気味だから起こしただけだった。

(このひと、ずっとこうやって私の傍にいたのかしら)

酔っていたから心配で見ていてくれたのかな、翼徳さまは乱暴者で暴れん坊だと聞いていたけど
本当はやっぱり優しい方なんだわ、と思い秋は張飛ににっこり笑いかけた。
その微笑に蕩けそうになる張飛だったが、秋が思った事を口に出していれば嬉しさの余り飛び上がっていたに違いない。
こんな小さな少女の一挙一動が万夫不当の豪傑を翻弄しているとは誰も思わないだろう。
やがて張飛が部下に持って来させた朝餉の膳を差し向かいで食べながら、既に着替えを済ませた秋は言った。

「あんまり長い事ご厄介になってもいけないから、朝餉をいただいたらすぐに帰ります」

張飛は雲の上から地の底に突き落とされたように落胆した。
しかし脚を挫いた彼女を馬に乗せて送って行く大義名分がある為、まだ秋の傍にいられると考え直す。
それから出立までの短い時間、張飛は今までの人生においてこれほど頭を使った事がない位に考え抜き
ひとつの結論を出した。
遠慮する秋に構わず、手土産と称して馬に金銀や上等の絹を積んだのもその為であった。
二人を乗せた馬は城を出て森の中をゆっくり歩いていった。

「秋、お前の家はどのへんだ?」
「ええと、この森を出てすぐだからそこで降ろして下さい」
「そりゃいけねえ。まだ歩くのもしんどいだろうが、門の前まで連れてってやる」

夏侯秋はまずい、と冷や汗をかいた。
張飛に自分の家の在処を知られるのは圧倒的にまずい。
後で身元が割れて、夏侯家の者だと知れた日には家人にまで迷惑が及んでしまう。
できればこのまま、お互いにとっていい思い出のまま別れたかった。

「あの、翼徳さま、本当にもう大丈夫ですから」

秋の心中も知らず、張飛はなんと奥ゆかしい娘だろうと胸を熱くする。
思いがすれ違う一方の二人を乗せた馬はもうすぐ森を抜けようとしていた。
今だ、ここしかねえ――と張飛は腹を決めて秋の名を呼んだ。

「……秋、突然の話で悪いけどよ」
「はい」
「その……俺、おめえが……」
「?」
「お前に惚れちまったんだよ!!嫁に来い、秋!!」

張飛の一世一代の告白に夏侯秋は唖然とした。
惚れたの何だのと言われたのも、あまつさえ求婚されたのも生まれて初めての事で
秋はただただ驚くばかりだった。
しかし次第に時が経つにつれ、言葉の意味を理解し頬を赤くする。
かたや、張飛は気が気でなかった。
求婚しようと決めた時、それをどうやって伝えようかとずいぶん悩んだ。
彼本来の性分からして、美しい書などしたためて贈る柄でもないので
せめてはっきり気持ちを口にして伝えようと思い、こんなふうに告白したのだが
断られたらどうしようと思うと恐ろしくて堪らなかった。
それにもしかすると、既に夫や許婚者がいるのかもしれない。
張飛が生殺しのような居心地の悪さに悶えている間、秋はそれ以上の葛藤を味わっていた。
もちろん張飛の事は好きだ。夫婦になる事でどうなるかは分からないが、きっと優しくしてくれるだろうと思う。
断るなど考えられないが、求婚を受け入れればその次は張飛を家人に会わせる事になる。
素性を隠す事など出来そうになかった。
翼徳さまは私が夏侯家の者だと知ったらどう思うだろう?
いや、私一人の問題ではない。これはもっと違う次元の話なのだ。
戦や立場による対立が絡んできたら、翼徳さまとは最悪の別れ方をする事になる。
張飛と家を天秤にかけようにも、どちらも余りに重過ぎて夏侯秋の小さな胸は張り裂けそうだった。
やがて秋は人生初めての決断をし、張飛に向き直った。

「翼徳さま……私をお嫁にもらってくださるのですか?」
「……お、おう!!」
「……とても、嬉しいです」

その答えに張飛は躍り上がらんばかりだったが、秋の浮かない表情を見てまた不安になった。
どうした、もし嫌ならはっきり断ってくれていいんだぜ――とおどおどしながら訊ねる張飛に
秋はほそい首を振った。

「いえ、ただ私は翼徳さまといっしょに家には行けません……それが気になって」
「どういう事だ?」
「ごめんなさい……はっきり言うことはできませんが、翼徳さまを家人に会わせる事はできないんです だから……」
「………………」
「だから、どうかこのまま私をもう一度お城に連れて帰ってください」

張飛は秋の願いにしばし考え込んだ。
秋がもし求婚を受け入れてくれたら、その足で秋の親に会おうと張飛は算段していた。
そのために持参金として手土産をどっさり積んできたのだ。
どんな事情があって自分を家人と会わせられないのか、気にならないわけがなかったが
それを無理に聞き出そうとすれば秋に辛い思いをさせてしまうかも知れない。
戦や喧嘩で数え切れないほどの者を手にかけてきた張飛は、あちこちから恨みを買っている。
自分の存在を仇と思っている者が身内にいるとか、そんな所ではないかと思ったが
実際の事情は張飛が考えるよりも少しばかり厄介だった。

「分かった」
「翼徳さま!」
「ただよ、あんまり一人で抱え込むんじゃねえぞ
どうしても家に帰りたくなったら俺に言えよ。それが夫婦ってもんだろ?」

秋は大きな瞳を潤ませながらも、精一杯笑って頷いてみせた。
嬉しいのと辛いのとで溢れそうな涙を見られたくなくて、張飛に抱きついた。
この優しい人に隠し事をしなければならない事と、妙才おじ様にもう二度と会えないだろう事――
今とても幸せなはずなのに、小さな秋にとってはとても辛い事だった。
背中に優しく触れてくる大きな温かい手は、大好きな叔父の手によく似ていた。

 

 

 

 

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