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それから夏侯秋は張飛と共に砦で暮らすようになった。 人見知りせず誰にでも気さくに接する秋は、砦の部下たちともすぐに打ち解け仲良くなった。 張飛が出掛ける時は笑って見送り、帰って来た時は一番に出迎えた。 時には夫婦で遠乗りに出かけ、川に遊びに行ったりもした。 既に秋という美酒に酔っているせいか、張飛が口にする酒の量は減り 日頃彼の酒癖の悪さに悩まされている部下達はやれやれと胸を撫で下ろしたものだった。
毎日があっという間に過ぎていった。 張飛がかつて口にした通り、秋はいつでも家に帰れたがそうする事はなかった。 ただ一度、夜遅く馬で自宅へ行き、黙って留守にしてごめんなさい、 達者で暮らしているから心配しないで欲しい――という文面の書と 自分の簪を門の傍に置いてきただけだった。
その晩も秋は張飛と牀を共にし、水関で呂布と戦った時の話をせがみ 黒目がちの瞳をきらきらさせて武勇伝に聞き入っていた。 そのうちに船を漕ぎ出す秋を張飛が自分の腕枕で寝かしつけるのもいつもの事だった。 二人は未だ夫婦のするべき事――房事に及んだ事はなかった。 外見とは裏腹に妙に初心な所がある張飛とて、女を抱いた事がない訳ではなかったが 無垢な秋を汚してしまうような気がしてずっと躊躇っていた。
(いずれ時が来るまで待ちゃあいい、こうやって二人でいるだけで充分だ)
張飛は安心しきった様子で眠る秋を穏やかな表情で見つめる。 ふと、桃の花弁のような唇がかすかに動き、小さく言葉を紡いだ。
「……ん……おじ様……」
秋は寝ながらものを言う癖があり、度々無意識のうちに口にする名だった。 張飛はそれを妻に言う事こそなかったが、ずっと気になっていた。 ひょっとして、そのおじ様とやらが自分をを紹介できない理由なのだろうか――とも考えた。 そういえば秋を連れて帰って以来、彼女は一度も実家に帰っていないようだ。 秋の背負う事情を聞けないのがもどかしかった。 一騎当千の豪傑といえども、目に見えず正体すら分からないものが相手ではどうしようもなかった。 せめて明日もこの笑顔が曇る事のないように、と願い張飛は秋を守るようにそっと抱き寄せた。
同じ頃。 夏侯家は秋の失踪に大騒ぎになっていた。 ただちに官渡の戦線に早馬が飛ばされ、使いの者が差し出した書を開いた途端 夏侯淵の顔色が変わった。
「この書と共に秋様の簪が……」
渡された花の細工がついた簪は、姪が十三歳になった祝いに夏侯淵が贈ったものだった。 使いの者が言うには――書には「探さないで欲しい」とあったがそういう訳にもいかず 何度も家人総出であちこち捜索した。 残された書が脅迫の文面ではなく、秋自ら綴ったものという点から駆け落ちの線も考えたが 手がかりすら見つからず落胆していると、使用人の一人が市場で妙な噂を聞いたと言う。 あの張飛によく似た偉丈夫が、小さな娘を連れて馬に乗っているのを見たというものだった。 当然眉唾ものの情報だったが、もう一人がそういえば……と噂を口にした。 最近、怪しげな連中が山奥の砦に立て篭もり、そこには役人や旅人も恐れて近づかないという。 それを率いている滅法強い大将が張飛ではないか、という噂だった。 捜しているのは秋であって張飛ではなかったが、もしかするとその張飛と思しき男が 秋を攫ったのではないか――という線が浮上してきた。 街から離れた山の中なら人目にもつかないし、まして人が近づきすらしないのだから 隠しておくには絶好の場所だろう。
その出来事と前後して、袁紹軍は客将の関羽に二将を斬られ、勢いを失い陣を移していた。 曹操率いる軍も許都に一時帰還し、折りよく休戦状態となったのは不幸中の幸いであった。 もし戦がさらに激化していたら、将たる夏侯淵が戦線を離れる事などとても不可能だっただろう。 夜を日に次いで一足先に帰還した夏侯淵は、疲れも見せず件の砦へと向かった。 今のところはそれが唯一、行方不明の秋の手がかりとなる場所だった。 事と次第によっては荒事も考えられるため、兜も取らず武装したままである。 馬上で夏侯淵は考える。 砦の男が張飛というのは恐らく間違いないだろうと、自らの直感が告げていた。 しかし、張飛の存在と秋の失踪がどういう線で繋がるのか。 攫われたのか、自分の意思での事なのか、それとも全く関係がないのか―― 秋が何を思って姿を消したのかは分からないが、せめてもう一度可愛い姪の顔を見たかった。 そして、もし奴が自分達への復讐のために無力な娘を狙ったのだとしたら ――その行為を死で償わせなければなるまい。
「てめえのような三下風情が、この俺様を呼びつけるたあ恐れ入ったぜ」 「その三下に蹴散らされたのはどこのどいつだ?ああ?この飲んだくれが」
砦の前で二人の豪傑は睨み合っていた。 二人は距離を置いて立っていたが、眼光だけで相手を殺しかねない凄まじい気迫に 張飛の部下たちも間に割っては入れず、遠巻きに見守るしかなかった。 四半時前――砦に到着した夏侯淵は手始めに城壁の見張りを弓で射落とした。 兵の誰何の声に堂々と名乗りを上げ、大将を出せと要求した。 はいそうですかと素直に出てくるわけもなく、曹操軍の将とはいえ単騎と甘く見た兵どもを 十数人も地に伏せた後、やっと出て来た男はまぎれもなく燕人張飛だった。 夏侯淵は早速本題に入った。
「とぼけんなこの野郎、うちの姪っ子かっ攫ったのは分かってんだよ」 「姪っ子だあ?」
もちろん張飛はそれが妻の秋だとは露知らず。 こいつの姪っ子ねえ、きっと同じ体型で顔もひどいに違いないぜ、お気の毒……と 秋本人が聞いたら憤激しそうな事を考える。 ともかく全く覚えのない事なので、知らねえなあと素直に答えた張飛だったが 夏侯淵がそれで良しとするはずもない。 一触即発の空気を破ったのは城門から駆け出してきた少女の声だった。
「翼徳さま!!」 「秋!! 馬鹿野郎、出てくるなって言ったろ!! こんな野郎に見つかったら何をされるか分からねえぞ!!」
張飛は妻の身を案じ、安全な城の中に戻れと促すが秋は聞かなかった。 夏侯淵の姿を認めると、張飛が聞いた事もない声音でその字を口にした。
「妙才おじ様……」
それで張飛は全てを理解した。 家に帰れない理由、明かせない素性、秋の寝言で呼ばれる名。 自分が見初めたこの娘は夏侯淵の姪、ひいては曹操の身内だったのだ。
夏侯淵は秋の姿を久し振りに見た。 やつれてもおらず、怪我をしている様子もない。ひどい扱いを受けていたのではないようだ。 それどころか、どこかの姫君のような華美な刺繍の衣装に身を包んでさえいる。 姪が無事だったことに夏侯淵は安堵し、秋を手招きした。
「……秋、お前が無事で何よりだ。帰んぞ」 「あっ、てめえ何言ってんだ人様の嫁に!!」 「嫁……だとォ!?」
張飛の発現に夏侯淵は目の前が真っ暗になった。 そうだ、この獣のような野郎が可愛い秋を目の前にして何もしていないわけがなかったのだ。 どんな辱めに遭わされたか、想像する事さえ痛々しい。 夏侯淵は愛しい姪を汚した目前の憎い男に殺意を滾らせた。
「あーその通りだよ。この俺様が初めての男になったわけだ」 「……今なら宮刑で勘弁してやる、その薄汚ねえ手を秋から離せ」 「おじ様は知らねえだろうがな、秋は閨じゃあ俺様を寝かせねえぐらいの好き者なんだ。 ゆうべだって何度もせがんで来て、一晩中離さな 「離せっつってんのが分からねえのか!!この下衆野郎!!」
下がってろ、と秋を手近の部下に預け、張飛は夏侯淵の棍を蛇矛で受け止める。 容易く頭蓋を砕く威力の一撃は、張飛の怪力を持ってしても重く感じるほどだった。 もちろん張飛は同じ牀で寝ていても、本当に秋に手を出したわけではなく 夏侯淵を激昂させようと調子に乗って事実を紛らわしく表現しただけだ。 秋は部下の手を振り解き、二人に向かって大声で叫んだ。
「や め て ――――――!!!!!!」
可憐な唇からは想像もつかないほどの声量に辺りの枝葉は揺れ、傍にいた部下は耳を押さえた。 夫と叔父が一瞬動きを止めたのを見て、秋はさらに言葉を続ける。
「おじ様、翼徳さま、戦うのはやめて!!悪いのはみんな私なの!!」
秋は立ち尽くす二人の前に駆け寄り、服が汚れるのも構わずに跪いた。
「秋……お前」 「おじ様……ごめんなさい、黙って家を出て心配かけて…… でも、もう二度と夏侯家に戻ることはありません。 私は翼徳さまが好きで、翼徳さまも私をとても大切にしてくれています。 だけど、私は夏侯家の娘だから、殿と敵対する翼徳さまといっしょにはなれない、 だからお願いです、この場でどうか縁を切って下さい」
大好きな叔父と再会し、言いたい事はたくさんあったが、秋の口から出たのは離縁の願いだった。 良人と添い遂げるには、夏侯家と縁を切ってもらう他にないと思ったからだ。 秋の辛抱も純粋な思いも、愛する人同士が争うという最悪の事態を引き起こしてしまった。 幼く無力な秋にはそうする事しか出来なかったとはいえ、大好きな二人に隠し事をして 心配をかけた挙句、こんな修羅場の原因になったのは事実なのだ。 そして次はこんなものでは済まない、もっとひどい事態になるかも知れない。 涙を必死で堪え、秋は良人の方を向いた。
「翼徳さま、ずっと隠し事しててごめんなさい。 隠し通せるはずもなかったのにね……馬鹿だね、私……」 「ああ、馬鹿だ馬鹿だ、おめえは大馬鹿だ」
夏侯淵が睨みつけるのもかまわず、張飛は続けた。
「秋がどこの誰だって構うもんか。夏侯の身内だからって俺がお前をどうにかするとでも思ったか、 この……馬鹿……」
張飛の眼から大粒の涙がこぼれ、秋の手の甲に落ちた。 元来、思慮深い性質でも弁が立つわけでもない張飛だったが、それでも 今まで秋が板挟みの立場でどんな思いでいたか、痛いほどに察する事ができた。 そしてその事に気付かず、愛する秋を苦しませていた自分が心底情けなかった。 張飛の言葉に夏侯淵は秋への真心を見たが、だからと言って大事な姪を攫われて 傷物にされた事まで許すわけにはいかない。 夏侯淵はやおら張飛の胸倉を掴むと、思い切り殴り倒した。
「とっくに秋をどうにかしやがった癖に、しおらしい事をぬかすんじゃねえーーーー!!!」 「やめて!!おじ様!!」 「だがよ、こいつはお前を……その……手篭めにしやがったんだぞ!!」 「え!!?」
秋はその言葉に真っ赤になり、そんな事されてない、と消え入りそうな声で言った。 夏侯淵は秋が張飛をかばっているのかと思ったが、話を聞いてみるとどうやら 張飛にやましい所がないのは真実らしかった。
「翼徳さまはとてもお優しくて……いつも一緒に寝ているけど、そういう事は一度も……」 「……マジか」 「へっ、毎晩お話をせがんで俺を寝かせねえのは本当だけどな」
張飛が腫れた頬を押さえて悪態をつく。 最初の晩にすでに一番槍をつけたとばかり思っていた部下達は、内心驚くやら呆れるやらだった。 夏侯淵は大きく息を吐き、かつていつもしていたように秋の頭を撫でてやった。
「秋よ、お前がそんなにまで思ってるんなら止めやしねえ。 だけどよ、縁を切るって頼みまでは聞けんな。 その馬鹿野郎が戦でおっ死んだり、愛想尽かすような事があったら、いつでも帰って来い」
懐から銀の簪を取り出し、餞別だと秋の髪に差してやる。 あの晩、家の前に置いてきたはずの精巧な銀細工の花を見て、秋は涙が出そうになった。
「じゃあな、秋、幸せにな」 「おじ様……本当にありがとう……」
よせよ水臭え、と笑って夏侯淵は馬に跨った。 このまま逃がしていいものかと詰め寄る部下達を手で制し、張飛は妻の叔父に声をかけた。
「秋は俺が幸せにしてやっから、二度とお前の所には戻らねえぞ!!」 「当たり前だ!!秋を泣かせやがったら百里先からでも矢が飛んでくると思いやがれ!!」
去って行く叔父の後姿を、秋はいつまでも見つめていた。 二人の思い出の唯一つの名残のように、髪に差した銀の花が煌めいた。
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