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第一幕 夏侯淵、遠縁の姪っ子に悩まされ また夏侯惇、羽扇の女官と出会う
許都のとある邸宅の裏庭。 一人の少女が弓の稽古をしていた。 娘に似つかわしくない行いではあるが、射形はなかなか様になっている。 的に向けて弓を引くその顔はまだあどけない。精々15やそこらであろうか。 切り揃えた前髪の下、黒くつぶらな瞳が照準を合わせる。 的は自作のものらしく、不恰好ではあるが 矢の痕が無数に刻まれており、相当使い込んだものらしい。 果たして矢は的の真ん中を見事射抜いた。
「やったあ!」 「なかなかのもんだな」
背後からの声に少女が振り返る。 曹操軍にその名を知られた奇襲と弓の達人・夏侯淵だった。
「お帰りなさい妙才おじ様!」
夏侯淵のあたたかい手が少女の頭を撫でる。
「もう稽古はそのへんにして飯にしようや、秋」 「うん! すぐ用意するね!」
この愛嬌に満ちた夏侯淵の笑顔が少女は大好きであった。 少女の名は夏侯秋。 夏侯の一門に生まれるが、去年両親が流行り病で急逝し叔父にあたる夏侯淵に引き取られた。 養っている夏侯淵になついているのはいいが、婦女が嗜むべき歌舞音曲よりも 弓の稽古のほうが好きなようで、暇さえあれば狩りに野山を駆け回るなどしている。 日に日に女らしくなり、もう誰かに嫁いでもおかしくない年頃だというのに。
(まったく、誰に似たんだかなあ…)
自分のことは棚に上げて悩む夏侯淵であった。
「そうだ。おじ様明日から戦に出るのよね?」 「おうよ。俺が帰るまでしっかり留守を守ってくんな」 「あ、それはだめ。だってあたしも行くんだもの」 「……はあ!!?」 「これ、見て」
秋が差し出した竹簡を広げると、墨痕黒々と『夏侯秋 夏侯淵将軍ノ護衛武将ニ就任』とあり、 ご丁寧に戦の出立の日時まで記されていた。
「……何かの冗談だよなあ?」 「殿の軍で護衛の募集してたの。採用してもらったから明日からおじ様と戦うわ」 「そんなこたあまず俺に相談してからにしろ!!」 「だって、妙才おじ様ここの所ずっとお家に帰らなかったんだもの」 「それにしたって何でこんな真似しやがった」 「おじ様の側にいたくて…」
夏侯淵は頭痛を催しそうになった。 確かに自分の眼から見ても秋は弓が達者だが、戦場で使い物になるかと言うと正直怪しい。 うちの殿のことは惇兄と同じくらいに信頼しているが、それでもこの人事はあんまりだ。 採用するからには秋の事を見込んでいるのだろうが、認められて嬉しいような悲しいような複雑な気持ちである。
「ね、いいでしょう?妙才おじ様」
大きな瞳に星を煌めかせ、かわいく上目遣いにお願いする。 駄目と言って家に閉じ込めてもついていくぞ――とその眼は語っていた。 いつもの彼の陽気さに似合わぬ仕草でがっくりうなだれ、夏侯淵は長い長いため息を吐いた。
「……おじちゃん情けなくて涙が出てくらあ!!」
*****
そして、ちょうど同じ頃。
「はじめまして、夏侯将軍」
丞相府の一室に呼び出された夏侯惇―隻眼の鬼将軍―を出迎えたのは若い女の声だった。 高くもなく低くもない、涼しい秋風のような穏やかな声。 すらりとした肢体を青い道衣に包み、羽扇を持った女が曹操のそばに控えていた。
「本日をもってあなたの護衛に任ぜられました、伊珠と申します」 「……どういうことだ孟徳、護衛の話など聞いていないぞ」
従弟の問いに曹操は人の悪い笑みを浮かべ、経緯を手短に語った。 戦で大将を護衛する役割の兵は消耗が激しく、入れ替わりも頻繁に行われるため 曹操軍でも度々兵を募っている。 もちろん並みの腕ではつとまらない為、粒よりの人材が求められるが その中でも伊珠は変り種であった。 後宮の女官の一人であったが、自ら兵として戦いたいと志願したのだ。 彼女には道術の心得があり、特に傷を癒す術に長けているという。 武芸や戦術に長けたものは升で計るほどいるが、このような能力を持つ者は珍しい。 その能力を買い、曹操は自ら伊珠を護衛武将として取り立てたのであった。
「というわけだ」
護衛武将とは武芸の腕だけではなく、それぞれ大将を援護する技に秀でているものであるが 道術で以って傷を癒す能力とは夏侯惇にも初耳だった。 しかしこんなか細い女が俺の護衛に取り立てられるとは… 降将である関羽を優遇している事といい、孟徳の行動は時々理解の範疇を超える。 当の伊珠は夏侯惇の思惑など知らぬげに、穏やかに微笑んでいる。
「折角の稀有な珠、みすみす錆付かせるのは気の毒というものよ」 「こんな女を戦場へ駆り出すほうが気の毒だ!何を考えている!!」 「これは伊珠の方がわしに願い出た事だ。お前に詰られる筋合いはないわ。 惇ならば受け入れるだろうと思ったのだがなあ、わしの見込み違いであったか」
夏侯惇は言葉に詰まった。 そうだ、うちの軍にも一人でも多く人手は必要なのだ。 ただでさえ今は袁紹との戦に臨む重要な時。 孟徳ともあろう者が、ただの酔狂で女を戦場に出すわけがない。 ここは伊珠を見出した孟徳の目を信じるほかないようだ…
「…あす明朝出立する。支度をしておけ」 「そうか、よろしく頼むぞ夏侯惇。 初陣励めよ、伊珠」 「有難うございます、曹丞相、夏侯将軍」
ひとつ脅かしてやろうと、恐ろしく凄味のある隻眼で伊珠を睨みつけた。 怯えて曹操に辞任を願えばそれでこの女は戦に行かなくて済む、という 夏侯惇なりの屈折した思いやりであった。
「言っておくが…使い物にならんと分かった時は、すぐに出て行ってもらうぞ」 「はい、よろしくお願いいたします、夏侯将軍」
怖じ気づくと思ったが、返ってきたのは後宮仕込みの艶やかな笑みだった。 その笑みが頭から離れず、夏侯惇は部屋を出るまでどうにも居心地の悪い思いを味わった。
第二幕 夏侯秋、初めての戦場に心はやり また伊珠、隻眼の猛将に心奪われる
*****
官渡の地。 曹操軍と袁紹軍との雌雄を決する戦は数ヶ月に渡って続いていた。 長期戦の常として、遠征の身である曹操軍は兵糧の問題に悩まされており、 炊事を手伝う夏侯秋も、日に日に食料が不足している事は身にしみて実感していた。 そんな折、敵軍から寝返って来た将の一報が陣中を騒がせた。 ――敵の生命線である兵糧庫は烏巣にある―― 焼き討ちすれば袁紹軍の士気はガタ落ち、しかし罠という可能性もある。 曹操はこのチャンスに賭け、夏侯淵を奇襲に向かわせた。
烏巣へ!!
闇を切り裂くが如く、夏侯淵率いる一軍は夜の中を駆ける。 その中には夏侯秋の小柄な姿もあった。 彼女も曹操軍を象徴する青い戦袍を纏っていた。 丈の短い上衣に手甲と脛当てをつけた、戦闘に適した装備である。 腰には矢筒を下げ、夏侯淵のものよりは小ぶりな弓を携えている。
(妙才おじ様…凄い!!)
三日で五百里、六日で千里と称えられた迅速な機動力を目の当たりにし、 夏侯秋は物も言えないほどだった。 行軍のあまりの速さに、ついて行くのがやっとであった。 やがて黒一色の中にぽつりと松明の灯りが見えた。
「征くぜ!!」
先陣を切る夏侯淵が兵糧庫に向けて5本の火矢を同時に射った。 光の尾を引いて飛ぶ矢が夏侯秋には流星のように見えた。 乾いた空気と風向きのせいで火は瞬時に燃え広がり、拠点は大混乱に陥った。 たまらず門を開いたのに乗じて夏侯淵達は一気に突入する。
「いいか、俺から離れるんじゃねえぞ」 「うん」
兵糧庫の焼き討ちで作戦は成功したようなものだが、 下手をして火を消し止められては逆に少数のこちらが危ない。 相手が奇襲に混乱している短時間のうちに制圧する――夏侯淵はそう考えていた。
「おじ様危ないっ!!」 「うお!!?」
いきなり夏侯秋が叫び、夏侯淵の頭上に矢を射掛けた。 紫の影が宙を飛び、一閃のもとに寸断された矢の残骸が地に落ちる。
「華麗な奇襲でした…ですが、貴方たちはここで散る運命」
襲撃者の正体は何とも妙な出で立ちの男だった。 やけに細長い体躯、華美な衣装、そしてひときわ目を引く得物の鉄爪。 両腕を翻し見得を切ると、どこから湧いたか季節外れの蝶々が辺りを舞った。
「美しき将、張儁乂とは私のこと!勝負なさい!!」
*****
夏侯惇は官渡の戦列に加わって以来、ずっと面白くない顔をしていた。
「曹丞相が関将軍を贔屓なさるのがお気に召さないようで」
伊珠が羽扇の陰でふふ、と笑う。 図星を言い当てられて夏侯惇は舌打ちをした。 面白くないといえば――この女もだ。 陣中の環境は今までいた後宮とは大違いだろうに、涼しい顔を崩さない。 一進一退の攻防が続く中、夏侯惇は曹操に従い本陣を守っていたが そんな夏侯惇をついに激昂させたのは伝令の報告だった。
―関羽が部隊を退いた―
その報を聞くなり夏侯惇は幕舎を飛び出していた。 麒麟牙を引っ提げ、黒い軍馬に跨る隻眼の猛将の前に伊珠が駆け出してきて立ち塞がった。
「お待ちください!!今単騎で出撃して何になりましょう! どうぞご自重下さいませ、夏侯将軍!」 「お前に何が分かる!!奴ごと袁紹を斬って孟徳の憂いを絶ってくれるわ!!」 「何とおっしゃっても無駄なようですわね…」
あまりの剣幕に伊珠は細い月のような眉をひそめた。
「ならば、この私も護衛として連れて行っていただきます。大将首を獲りに参るのでしょう?」 「な……」 「先ほど関将軍が顔良・文醜の二将を斬ったそうですから、敵軍の士気は落ち、統率は乱れているでしょう。 とはいえ敵本陣は大勢の兵が控えており、激戦は必至。 袁紹の元に辿り着くまでに傷を負うのは避けられませんね。 でも心配なさらないで下さい、その時のための私ですから」
水が流れるように淡々と語る伊珠に呆れるやら驚くやらで、夏侯惇は開いた口が塞がらなかった。 俺は良くてもお前の方が先に死んでしまうぞ、と言おうとしたまさにその時、 二人の目の前に飛んできた流れ矢を伊珠が羽扇で叩き落した。 優雅な手つきで軽く払っただけにしか見えなかったが、足元のへし折れた矢が何よりの証拠だった。
「いかがですか?」
夏侯惇はもう一々驚くのをやめ、黙って伊珠を自分の跨る鞍の前に引っ張り上げた。
「きゃあ!」
いきなり夏侯惇の逞しい腕に抱え上げられ、伊珠は生娘のような悲鳴を上げた。 長い裾で馬に跨る事はできないので横座りで、夏侯惇にそのつもりは毛頭ないのだろうが これでは殆ど恋人同士が相乗りするような状態である。
「お前も行くのではないのか?」 「…………………………………」
手綱をとる夏侯惇ととても顔が近い。 夜目にも白い頬に朱が差しているのを気付かれぬよう、顔を伏せてしまう。 何故か突然しおらしくなった護衛をやや不審に思いながらも、夏侯惇は馬を走らせた。
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