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第三幕 夏侯秋、勝利の美酒に酔い潰れ また伊珠、重すぎる想いを持て余す
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烏巣襲撃を転機として流れは曹操軍に傾き、数日のうちに形勢は逆転した。 曹操軍はついに袁紹率いる河北軍を破り、その夜白馬城では勝ち戦を祝して酒宴が行われていた。
「妙才おじ様すっごく格好よかったー!」 「いつも格好いいだろうが、秋〜」
夏侯淵は烏巣焼き討ちの功を称えての祝杯責めに遭っていた。 隣に控える夏侯秋も勧められるままに杯を空け、気持ち良さそうに頬を淡く染めている。
「ささ、蝶々将軍も一献どうぞ」 「これは秋殿、戦場の貴女も素敵ですが酔った貴女も美しいですね」
夏侯淵との戦闘の末、曹操軍に降った将――張コウだった。 言動こそ妙だが確かな腕の彼は曹操にすぐ受け入れられ、古参の将と変わらぬ待遇で迎えられた。 夏侯淵のことを妙に気に入っており、その点で夏侯秋とも気が合うらしい。
ふと夏侯淵は、夏侯惇の姿が見えないのに気が付いた。 惇兄も大きな手柄を立てた功労者だというのに、酒宴に顔も出さないというのはどういうことだろう。 烏巣から本陣に戻ってきたら、夏侯惇が単騎で出撃したと聞いた時は本当に驚いた。 慌てて後を追い、敵陣に着いたら殿と惇兄が大勢の河北軍を相手に戦っており 間に合ったぜとばかりに自分も加わってもう一暴れしたのだった。 そういえば惇兄の側にいた護衛武将は細っこい女のくせに、羽扇で敵兵を張り倒していた。 あんな女丈夫がうちの軍にいるとは知らなかった……おっと、そういえばこいつも――。
「ううん……」 「おいおい、大丈夫か」
大分酔いが回ったと見えて夏侯秋が寄りかかってきた。 部屋に連れて行くので少しの間中座すると告げ、小柄な体を抱え上げて牀へ運ぶ。 どこも柔らかくて小さくて、とても自ら戦場に出向くようなお転婆とは思えない。 ふわりと甘い女の匂いがして、夏侯淵は知らず胸が早くなるのを感じた。 夏侯秋はそんな事など知らぬげに腕の中で幸せそうにまどろんでいる。 こんな娘に何を意識しているのだ、と夏侯淵は己を戒めた。 俺にとって可愛い姪っ子ではあるが、それだけだ。 いつか、誰かいい男と娶わせて嫁に行けば、もう弓を取るような真似もしなくなるだろう。 そう分かっているからこそ、今のごく短い時が愛しく思え、夏侯淵は秋の手をそっと握った。
「妙才おじ様、あったかい…」 「ん、そうかそうか、分かったからもう寝ろ」
人の体温に安心したのか、夏侯秋は牀に入るとすぐに眠り込んでしまった。 夏侯淵はそのあどけない寝顔にしばし見入っていたが、やがて部屋を出て酒宴に戻った。
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同じ頃。 白馬城の一室、夏侯惇とその護衛伊珠は二人きりでいた。
「では夏侯将軍、丸薬は寝る前に忘れず服用してくださいね」
夏侯惇は先日の戦で受けた傷の手当てをされていた。 さすがに敵陣への単騎突撃は生易しいものではなく、多くの傷を負ったが その度に伊珠の術が夏侯惇を癒し、敵中突破を可能にした。 大概の傷なら一瞬で塞いでしまえる程の術は聞きしに勝るもので、凄いものだと夏侯惇は感嘆したが 伊珠曰く、これは人が本来持つ傷を治す能力を前借して引き出しているに過ぎないので 後から然るべき治療を施さないと体自体がまいってしまう――との事だった。 二度手間とは面倒だな、と思わないでもなかったが体が無事ならそれに越した事はないので ここは専門家に任せておく事にした。 伊珠は夏侯惇の上衣を肌蹴させ、傷跡が薄く残る箇所に丁寧に膏薬を塗り その後丸薬を二・三粒飲ませた。 この丸薬は減少した体内の気を補い、整える効力があるらしく毎晩飲むよう言いつけられた。
「こんな不味い薬を毎晩とはゾッとせんな…」 「何かおっしゃいましたか」 「何でもないわ!」
このいやに澄ました女と話していると調子が狂う。 全く、とぼやきながら部屋を出て行こうとして、何か気付いた風に夏侯惇は振り返った。
「おい、礼を言うぞ伊珠」
言葉の端に照れ臭そうな余韻を残し、そのまま扉が閉まる。 夏侯惇の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、伊珠は小さく溜息をついた。 心臓がうるさいぐらいに高鳴っている。 さっき見た夏侯惇の広い背中が目に焼きついて離れない。 傷に触れる指先が震えているのを気付かれなかったかしら。
(やっぱり、引き止めるなり何なりしてもっとお話すれば良かった)
ひどく初心な事を考えている自分に苦笑した。 伊珠は男を知らないわけではない。 初めに自分を抱いたのは道術の師匠だった。体内の気を制御する術として房中術を教わったのだが、 その時は「こんな事に世の男女は夢中になっているのか?」といささか疑問に思ったものだった。 快くなかったわけではない。 ただ――快かったのは、肉体だけだった。 男の手は珠のような肌に触れてはいたが、伊珠の心に触れてはいなかった。 伊珠は恋をした事が一度もなかった。 誰かを想い、慕い、愛しいと思う事は今までついぞなかった。 あの――隻眼の将に出会うまでは。
切っ掛けは本当に些細な事だった。 言いつけられて竹簡の束を運んでいる最中、うっかり廊下にばらまいてしまった。 慌てている所に夏侯惇が通りかかり、一緒に拾ってくれたのだ。 ―将軍にそんな事をさせる訳にはいかないと伊珠は恐縮したのだが― それだけでなく、竹間の束を書庫までわざわざ持っていってくれたのだった。 その様子が普段見掛ける強面とはずいぶん違った印象で、それから気になりだした。 日に日に夏侯惇の存在は伊珠の中で大きくなっていった。 夏侯惇が射抜かれた左目を食べてしまったと聞いた時には、卒倒しそうになったものだ。 本人はその事をひどく気に病んでいたが、やがて眼帯を着けて戦列に復帰した彼を見て むしろ伊珠には以前より男前が上がったように思えた。 しかし今度は左目では済まないかもしれない。戦場で怪我をして死んでしまうかもしれない。 そう思うと居ても立ってもいられず、役に立ちたくて、側にいたくて護衛武将に志願した。
(夏侯将軍……)
伊珠は今宵何度目になるか分からない溜息をついた。
第四幕 夏侯秋、神仙に邂逅し また二夏侯、女王に遭遇する
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許都に凱旋して日も経ち、夏侯秋はいつも通りの生活に戻っていた。 とはいっても、護衛武将として自分を磨くため調練には欠かさず出ているし 兵としては新米なため覚える事も沢山あるので、なかなかに忙しい日々だった。 今日も朝早くから弓の稽古に勤しんでいたが、休憩を知らせる銅鑼が鳴ったので 夏侯秋は調練場の裏手の小高い丘まで足を運び、そこで昼餉を摂った。 いつも気持ちのいい風が吹き、夕日が一際綺麗に見えるここは秋のお気に入りの場所だ。 ふと気づくと、いつの間にか傍に妙な格好の翁が立っていた。 箒のように逆立った白髪に白髯、くすんだ紫の道服を着込んでいる。
「こんにちは」 「おや、これはこれは」
夏侯秋が声を掛けると翁は隣に腰を下ろした。 何だろうこの人?と秋が疑問に思っていると、翁は懐から蜜柑を取り出した。
「食べるかね」 「え、いいんですか?どうもありがとう」
知らない人から物を貰う事に夏侯秋は少し躊躇ったが、蜜柑一個くらいならいいかと受け取った。 何故かすでに皮をむかれ、房だけの蜜柑は甘く爽やかな味でとてもおいしかった。 蜜柑を食べている夏侯秋に翁は静かに尋ねた。
「年端もいかぬ娘御よ、そなたは愛する者はいるかね?」 「???」
唐突な質問に蜜柑を噴出しそうになる夏侯秋だったが、翁は続ける。
「小生にはひとり弟子がいた。硬い冷たい珠のような輝きを持つ才女だった。 だがそれゆえに、誰も彼女の中には入って行けなかった。 やがて小生の元を離れ、弟子は人の世に戻って行った そこでどうやら、愛する者を見つけられたようだ」
夏侯秋はいつしか翁の話に聞き入っていた。
「久々に弟子を尋ねようと思ったのだが、小生が出る幕はなさそうだ」 「そうかな?お弟子さんだってお爺さんと会えるなら嬉しいんじゃないかな……」
私と妙才おじさまみたいに、と思って夏侯秋は少し頬を染めた。
「想い人がいるようだね」 「はい、大分年が離れているけど」 「良ければ役立てたまえ、小生にはもう必要ないものだ」 「え、ちょ、」
翁がどこから出したのか、夏侯秋の腕の中に竹簡の束がごろごろと落とされた。 竹簡に気をとられている間に、翁の姿は目の前から消えていた。 頭上を翔ぶ一羽の鶴に気付かず、夏侯秋はただ目を白黒させていた。
(一体何だったんだろう?あのお爺さん)
その頃丞相府では、おやつの蜜柑が皮だけ残して抜かれていると曹操が大騒ぎしていた。
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「惇兄〜」 「おお、淵か」
調練が一段落し兵達を休ませた後、夏侯淵は同じく休憩中の従兄の元にやって来た。 部隊の内情や新兵の事について話した後、姪の事を切り出した。 夏侯惇は秋とも度々会っており、淵と同じ位に彼女の事を可愛がっていたので 護衛武将に就任したと知った時には「やるんじゃないかと思っていた」と頭を抱えたのであった。
「あいつもいい年頃だし、縁談を持ち込もうと思うんだ」 「それはいいと思うが……誰とのだ?」 「まだ分からねえ。惇兄、良さそうな奴がいたら教えてくれよ」 「どうだろうな、秋はお前にえらく懐いているからな」
いつだったか、妙才おじ様のお嫁さんになるの、と言っていた声が脳裏に蘇った。 まさかな。戯れで言った事だ。本気にするなんてどうかしてる―― 神妙な顔になり足元の草をちぎり出す従弟を見て、夏侯惇は何かを察した。
「まあ、あいつはあの通りのお転婆だし、嫁の行き手がなければお前が貰ってやればいいんじゃないか」 「うう…………」
その時、埃っぽい調練場に似合わぬ優雅な姿が目の前を横切った。
「あ、甄姫殿!」 「あら、御機嫌よう」
先だっての官渡の戦いにおいて曹丕が見初め、連れて来て娶ったという美女。 その月を曇らす程の美貌と奏でる笛の音は人の心を狂わせると聞くが、 成る程妖艶でありながら気品ある女であった。
「なんでまたこんなむさい所に?」
夏侯淵の当然の疑問にふふ、と微笑みながら甄姫は言う。
「お二人の護衛の方にお会いしたくて参りました。今日はご一緒におられませんの?」
二人は顔を見合わせた。
「俺の護衛というと……羽扇の女か」 「ええ」
甄姫曰く、官渡の地で見た将を助け共に戦う女護衛の姿にいたく感じるものがあり 自分もただ美しいだけの飾り物ではなく、良人を支えるため戦えるようにならねば、と思ったという。
「同じ女として、私もかくありたいものですわ」
魅入られたようにこちらを見ている兵達に女王は妖艶な流し目をくれる。 ここのところ兵卒どもが死に物狂いで調練に臨んでいる訳を二人は理解した。 甄姫付きの護衛武将の座を狙っているのだ。 兵の士気が上がるのは喜ばしいが、大丈夫たる者そんな事でいいのだろうか……
「……俺達もうかうかしていられんな、淵よ」 「ああ、惇兄……」
二夏侯は今にも落ちてきそうなほどに青い空を見上げた。 ――遠き蒼天、極みはいずこ。
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