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第五幕
夏侯秋、不思議な竹簡を紐解き また伊珠、千里行の後を追う
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(今日は不思議な事があったな〜)
調練の後自宅に戻った夏侯秋は湯浴みをし、汗と埃を落としていた。 謎の翁から渡された竹簡は今、文机の上に転がしてある。 あの後すぐに集合の銅鑼が鳴ったので開くことができなかったのだ。
(妙才おじ様が帰ってきたら言おうっと)
調練でできた擦り傷に湯が沁みて痛かったが、大好きな叔父の事を考えるとそれも気にならない。 引き取られる前からずっと夏侯秋は叔父を慕っていたが、 それが親族に対する情とは違う色を帯びている事に彼女は気付き始めていた。 ――余所にお嫁になんて行きたくない、いつまでも妙才おじ様のお傍にいたい――
(もう少し大きくならないかなぁ……)
夏侯秋はまだ成長過程にある自分の胸をしげしげと見つめた。 甄姫殿ぐらいでなくてもいいから、もっとここに肉が欲しいなと思う。 そんな事を考えているうちに湯冷めしそうになったので、夏侯秋はあわてて体を拭いて服を着た。
自室に戻るとさっそく、何と書いているのかなと翁の竹簡を開いてみた。 読めない字や意味の分からない所もあったが、好奇心のままに読み進めてみると 竹簡の中身は、誰かに宛てた書簡でも手習いでも物語でもないと分かった。 男女の交合について書かれていたのだった。
「うわあ…………」
夏侯秋ははじめて覗く世界に圧倒された。 淡々とした説明からすると、艶話というよりは房中術の仕方を記したものらしい。 とはいっても、まさか男の人と女の人がこんな風にするなんて…… 口付けをしたり抱きしめたりというのは知っているが、これに書かれている事は もはや夏侯秋の理解の域を超えていた。 大変な物を押し付けられてしまったと夏侯秋は焦ったが、たぶんあの翁は二度と姿を見せないだろう。 何故かは分からないがそんな気がする。 どう処分しようかと悩んだ末、とりあえず他の竹簡の中に紛れさせることにした。 偽兵の計ですよ、と郭嘉軍師の真似をしてみる。 ひと安心するにはしたが、夏侯秋の小さな胸はまだどきどきしていた。 自分があんな事をしたわけでもないのに、何だか妙に恥ずかしい気分だった。
(みんな、あんなとんでもない事してるのかしら……)
なぜか夏侯淵の顔が浮かんできて、秋は一気に頬を紅潮させた。 おじ様はした事あるのかな……あの優しい手で触れられるなら悪い気分はしないだろうな、とも思い 夏侯秋はひとりで照れていた。
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「不思議な事もあるものだな」
翌日になっても曹操は何度も首をひねっていた。 蜜柑消失事件の真相は結局分からずじまいであったが、傍らの伊珠には下手人の目星がついていた。
(師匠……どういうおつもりですか)
自分が曹操のもとで働いていることへの警告だろうか。 それならこんな回りくどい意味のない事などせず、もっと直接的な手段をとるはずだ。 そういえばずいぶん師匠と会っていないな、と思う。 神仙の感覚からすれば一瞬だが、伊珠は人の身故に少しさびしく思う。
「時に伊珠、夏侯惇の様子はどうだ、泣かされたりしていないか?」 「えっ」
いきなり夏侯惇の話を振られ、伊珠は慌てて羽扇を取り落としてしまった。
「夏侯将軍は……と、とてもお優しい方です」
白皙の美貌が恥じらいに薄く染まっている。 そんな伊珠の様子が可笑しかったのかくく、と曹操は笑った。
「優しい、か……お前の気持ちにまるで答えぬあたり、相当に無情な男と見えるがな」 「そんな事はありません!」 「違うのか。ではあいつの方も満更ではないのだな?」
乱世の奸雄にはお見通しだった。伊珠はすっかり照れて俯いてしまう。 女官に就任した頃は常に冷静で、優雅な態度を崩さなかった伊珠がこんな風になるとは。 全く夏侯惇の奴も罪なことをする…と曹操は思った。 執務室から退出した後、ふと伊珠は気付いた。 今日は調練場にも丞相府にも夏侯惇の姿が見えない。 一体どこに……まさか急病?それともお怪我? 嫌な予感がする…と廊下を歩いていると、文官たちの話し声が聞こえた。 ――客将の関将軍が丞相に暇乞いをし、出奔した―― 伊珠の頭脳はこの二つの出来事を瞬時に繋げ、そこからひとつの結論を導き出した。 それは伊珠が感じていた嫌な予感のさらに上を行くものであった。
「夏侯将軍……!!」
伊珠は知らず駆け出していた。 関羽が劉備の元に帰り、曹操の災いとなるのを危惧した夏侯惇は いっそその前にと処罰覚悟で関羽を斬りに行ったに違いない。 しかし相手も軍神と呼ばれるほどの漢。簡単に首をとられはしないだろう。 よくて相討ち、あるいは―――― 早馬を飛ばしながら、どうか間に合ってと伊珠は祈り続けた。
第六幕
夏侯淵、秋の寝言に応え また夏侯惇、涙する伊珠を慰める
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翌日、夏侯秋は調練の最中もあの竹簡が気になって仕方なかった。 いつも以上に身を入れて調練に臨んでいたが、忘れることは出来ず 結局帰宅した後、もう一度竹簡を開いてしまった。 ゆうべは途中まで読んで放っていたが、その先にはもっと凄い事が書かれていた。 女性が触れられて悦ぶ所や、逆に男性を悦ばせる仕方、 交わるときの体位、うまく子を成す為の心得など… 全て読みきった時には頭がくらくらしていた。 こんなに大変な事をしなくちゃいけないなんて…… 精神的にも肉体的にも疲れた夏侯秋はそのままうとうとして、知らず眠り込んでしまった。 竹簡を机の上に出したままで。
「おーい秋、帰ったぞ……っと」
夏侯淵が部屋に入ると、秋は薄暗い中で文机に突っ伏して眠っていた。 傍らには竹簡が広げられている。 おお読書か、感心感心と覗き込んでみると、それは全く意外なものだった。
「うおッ、何じゃこりゃあ」
本文に散りばめられた数々の陰語や注釈から、これが男女の営みについて書かれた物だとすぐに分かった。 秋のやつ、こんなものを一体どこで…いや、そういう事に興味を持つ年頃なのだろうか… 一人で混乱している夏侯淵をよそに、秋は小さく寝息をたてている。 夏侯秋の唇がかすかに動いた。むにゃむにゃと何やら呟いている。 耳を寄せて聞いてみると、それは何とも他愛のない寝言だった。
「……妙才おじ様……大好き……」
夢でも見ているのか、無邪気な寝顔で自分の名を呼んでいる。 名前なら今まで何度も呼ばれているはずだが、そのどれとも違った切ない響きに 夏侯淵は胸が締め付けられるような気がした。 一回りも年下の姪っ子が自分に寄せている思いに薄々気付いてはいたが、 秋をひとりの女として見る事を躊躇っていた。 もし一線を越えてしまったら、きっと止められなくなってしまう。 だが――こんな夢の中の呼び掛けに応えてやるぐらい、かまわないだろう。
「俺も好きだ、秋」
そう囁くと、硬い髭が耳にちくりと触れ夏侯秋の体が震えた。 秋を起こしてしまい夏侯淵は内心慌てたが、すぐにいつもの表情に戻った。
「んん……、おじ様……? お帰りなさい……」 「秋」 「えへへ……いい夢見てたの。おじ様が私のこと、好きだって言ってた」
その言葉に夏侯淵はたまらなくなって、秋を抱きしめた。 太い腕の中で秋は少し身じろぎしたが、すぐにおとなしくなった。
「……夢じゃねえ、本当だ」 「…………」 「本当にお前が好きだ、秋」 「…………」 「だから、もう戦には出て欲しくねえ。お前に何かあったら、俺は……」 「おじ様……」
叔父のいつになく神妙な様子に夏侯秋は何も言えなかったが、いきなり突拍子もない行動に出た。 夏侯淵の首に両腕を回し、口付けたのだ。 技巧も何もない拙いものだったが、それでも秋としては想いを伝えようと一生懸命だった。 柔らかな唇を押し付けられて、夏侯淵の元々丸い目がさらに大きく見開かれる。 初めての口付けは永遠とも思える一瞬のうちに過ぎた。
「私もおじ様が大好き……だからお傍にいたいの。危なくてもいい。 戦なんか怖くない。おじ様の傍で死ねるなら――」 「言うな、秋」
今度は夏侯淵の方から口付けた。まるで彼女の言葉を塞ぐ様に。 二人の影が重なり、濃密な闇に溶け込んでいく。 長い夜になりそうだった。
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夏侯惇はふて腐れたような顔で伊珠の手当てを受けていた。
「お前が来なければ、止めを刺せたものを……」
伊珠は何も言わず手だけを動かしている。 予感した通り夏侯惇は関羽を追い、関門の前で一騎討ちを挑んだ。 断じて生かしては帰さんと鬼神の勢いで斬りかかる夏侯惇と 何としてでも義兄弟の元に帰らんと、迷いのない太刀筋で応える関羽。 何十合も馬上で刃を交えていたが、危うい拮抗を破ったのは駆け付けた伊珠の声だった。 夏侯惇がそれに気をとられた一瞬の隙を関羽は見逃さなかった。 奥方の乗った馬車が最後の関門を通ったのを確認し、赤兎馬の脚に物を言わせて駆け去ったのだった。 並みの馬とは比較にならない脚力にあっという間に距離は開き、後には二騎が残された。 夏侯惇の戦袍に血が滲んでいるのに気付き、伊珠は手を差し伸べたが振り払われた。
「夏侯将軍、お怪我を……」 「余計な事をするな」
厳しい声に伊珠は肩を震わせた。
「これは孟徳のための戦ではない。私憤の戦で負った傷だ。だからお前が手当てをする事はない」 「……それでも、私はあなたの護衛です。手当てさせていただきます」 「……勝手にしろ」
二人は馬を並べて帰路に着いた。 夏侯惇の邸に着くまで、二人ともそれ以上は口を利かなかった。 牀のとなりに腰掛け、傷口に包帯を巻く伊珠に夏侯惇がぽつりと訊ねた。
「なぜあの時、俺を追ってきた」 「それは……夏侯将軍が心配で……」 「フン、全く大した忠義者だな。私憤で行動するような将など放っておけば良かったのだ」 「……………………」
伊珠の膝の上に置かれた夏侯惇の手に雫が落ちた。 一粒、二粒と春の雨のような温かな雫が手を濡らす。 伊珠は泣いていた。
「おっしゃる通りです……あなたの事なんか、放っておければどんなに楽か…… でも、あなたの傷に泣く女がここにいるという事をお忘れにならないで下さい!」
夏侯惇はいきなり泣き出した伊珠に何を言えばいいか分からなかった。 自分のせいだという事ははっきりしているが、目の前で女に泣かれるのはばつが悪い。 幼い子供のように泣きじゃくる伊珠の背中をさすり、指で涙を拭ってやった。 半ば抱きしめられるような体勢だったが、お互い意識する暇もなかった。 やがて伊珠の嗚咽が小さくなり、呼吸も落ち着いてきた。
「収まったか?」
眼の縁を少し赤くして、伊珠がこくりと頷く。
「でも……あの、もう少しこのままで……」 「む……」
伊珠が腕の中にいる事実に気付き、夏侯惇は慌てて身を引こうとしたが 拒絶するような真似をしたら伊珠がまた泣くかもしれないと思い、同じ体勢を余儀なくされた。
「さっきは……済まんな。あんな事を言って泣かせてしまって……」 「いえ、そんな」 「俺に失望したか?」 「そんな事……夏侯将軍はお優しい方です。今だってこうして下さって……」
二人の視線が空中で絡み合う。 濡れて一際艶やかに見える瞳に見つめられ、夏侯惇はどぎまぎしたがやがて腹を決めた。 お互いの手が重なり、顔が近づく。息がかかりそうなほどの距離。
「夏侯将軍、私は――」 「……字で呼べ。元譲と」
夏侯惇の声は今まで聞いた事のない熱を帯びていた。 伊珠は嬉しいような恥ずかしいような心持ちで、初めて夏侯惇の字を呼んだ。
「……元譲さま……お慕いしております」
その言葉が合図のように、夏侯惇は伊珠の唇を優しく奪った。
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