掌編 〜女は己を説ぶ者の為に容づくる〜

 

―伊珠の場合―

(※デートの前か何かと思ってください)

伊珠の自室に見知らぬ女が居た。
浅葱色の絹衣を纏い、ゆるく波打つ髪を高く結った女はこちらに背を向けて化粧をしている。
部屋を間違えたのだろうか、それとも侍女を雇いでもしたのかと夏侯惇は戸惑ったが
戸を閉める音に振り向いたその顔はまぎれもなく伊珠だった。

「元譲さま」
「……ああ、伊珠、お前だったか」
「……おかしいですか? この格好は……」

うまく化けるものだな、見違えたぞと感心する情人に照れたように微笑む。
よく知ったその笑顔も髪型が違うだけでずいぶん印象が変わって見える。
真っ直ぐな髪に青い女官衣のいつもの格好よりも、仕草のひとつひとつが艶やかに思えた。

「申し訳ありません……身支度に手間取っておりまして」
「構わん、気が済むまで続けろ」

伊珠が自分の為にどんなふうに装うのか見たかったが、その繊手は化粧の途中にも拘らず
鏡を伏せてしまった。
鏡に姿が映るのを嫌う自分に気を遣っているのが分かり、部屋を出ようとする夏侯惇の背を
涼やかな声が止めた。

「元譲さま、紅を引いて下さいますか?」



向かい合い、紅を差さない素のままの唇に触れる。
伊珠が目を閉じているのは、見られていてはうまく引けんと夏侯惇が言ったからだった。
口付けを待つようなその表情も、指先にかかる吐息も妙に気恥ずかしく
伏せた長い睫毛がかすかに震える様を見るたびに、紅を引く武骨な指先が乱れた。

「うまくいかんな……」
「いえ、こうして下さるだけでよろしいのです」

伊珠はそう言って夏侯惇に口付け、悪戯っぽい笑顔を見せた。

「どうせすぐ落ちてしまいますから」


―秋の場合―

きっかけは本当に些細な事で、兵達の口さがないお喋りがたまたま秋の耳に入ったという
ただそれだけの事だった。

「……やっぱり俺は甄姫様だな!」
「お前なんか眼中にないに決まってんだろうが馬鹿、やっぱり伊珠殿のように清楚さがねえと」
「でも伊珠殿は盲夏侯と懇ろだって聞いたぞ、噂だけど」
「そういや女の護衛で一番小さいの、あの人名前何つったっけ……夏侯淵将軍の護衛の」
「ああいたっけそんなの、問題外じゃねえ子供だし」
「まあ、甄姫様や伊珠殿と比べるのも気の毒だけどな〜」
「ハハハハ! 違えねえ」

「……………………!!!!」

女としての矜持をいたく傷つけられた秋は、眼の奥に業火を燃やして街へ繰り出し
小遣いをはたいて紅白粉やら眉墨やらを買い求めた。
(あんな人たちに何て言われても悔しくないんだから、おじ様の為にきれいになるんだから!)
鏡を睨んで生まれて初めて紅を差したはいいものの、心の荒れが指先に現れているのか
何度やっても人を食ったような唇にしかならず、秋の眼に涙が浮かんだ。

「何やってんだ、秋」
「おじ様……」

潤んでぼやけた景色の中で、夏侯淵は苦笑しながら秋の口元を拭った。
見かけによらず器用な厳つい指で差された紅は秋の唇をほのかに彩り、艶を添えた。
触れる手のあたたかさに、むきになっていた自分が恥ずかしくなり、秋は化粧道具をそっと仕舞った。
少女が愛しいひとの為に再び紅を差すのは、まだ先のことである。

 

 

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