カムイの地に吹き荒れる吹雪が嘘のように静まった、とある冬の夜。
狩ってきたらしい兎を手にしたオイナの戦士が自身の家に帰宅した時、
そこには既に先客が待ち受けていた。
雪白の体毛に朱で隈取りを刷き、
彼女の相棒曰く『ぽあっとした』顔でキナの上に丸くなり……。
なんとも暢気で幸せそうな顔で惰眠を貪っているオオカミの名を、アマテラスと言う。
一見すればどうにもこうにも間の抜けた顔をした狼……
もしくは犬にしか見えぬ顔つきではあるが、その実体は、泣く子も黙る太陽神………
世界を普く照らす慈母である。
………………慈母である、はず……なの、だが…………。
恐らく、この家を強襲した際に食い散らかしたのであろうオオウバユリの団子やら、
火棚で燻していた鮭やら獣肉やら……。
オキクルミがせっせと蓄えていた冬季間の蓄えの残骸に囲まれて眠る姿は、
ごくごく普通のケモノにしか見えない。
…………敢えて人外らしいところを上げるとするならば、
長い冬を楽々乗り越えられるだけの量があった保存食料を食い散らしたにもかかわらず、
少しも膨れていない胃袋と食欲の強靭さ、であろうか…。
半ば呆れたような困ったような様子で顔を覆っていた仮面を外したオキクルミが、
何とかアマテラスの食欲の魔の手から逃れた保存食料を集め始めた。
きつく塩をして長く燻した鮭の身や鹿肉、熊肉は、
固く塩辛過ぎたせいか彼女のお気には召さなかったらしい。
また、干されて固くなったオントゥレプアカムも、
幾つかが多少齧られた程度で、その大部分は手付かずで残っていた。
概算してみると、今、炉辺でくぅくぅと眠っている大神が食べたのは、
保存処理してから日の浅いものであったらしい。
その証拠に、浅く塩をしただけであった鮭の身や、昨日仕留めて火棚で燻していたまだ柔らかい兎の肉、
幼馴染が朝に作って持ってきてくれたラタシケプの残りは見事に食い尽くされていた。
嫌な予感に襲われた戦士がチセの外を眺めれば、屋外で凍らせておいたルイベすら見えなくなっている。
深く深く溜息をつきながら、英雄は暢気に眠る大神を眺めやった。
彼の家の食料を食い散らかした白い悪魔は、そんな彼の視線に気付くことなく平和に暢気に眠りこけている。
その悪びれのなさにもう一度大きな溜息をつき……英雄は、食料整理をする手を再び動かし始めた。
火棚にもう一度鮭や肉をかけ、オントゥレプアカムはもう一度火棚の上戻して、
今狩ってきたばかりの兎の肉も、下処理を済ませた分を囲炉裏の上に干し、
そして、今食べる分の肉を串にさして火で焙る。
「まったく……………………お前はオレの家を食料庫だと勘違いしているのではないか……?」
細々とした雑事を終え、ふぅと息をついた戦士が隣に腰を下ろしても、大神が目覚める気配はまるでない。
それどころか、彼女の眠りはどんどん深くなっていくようにすら思えてしまう。
ぴすぴすと鼻を鳴らしながら、狼の姿をとる大神は、暢気にごろりと腹をみせた。
どうやら、心底安心し切って眠っているらしい。
散々に食い散らかされた蓄えをどうやりくりしていくかを憂いつつ、
オイナの戦士は傍若無人な大神を眺めて呆れたような困ったような唸り声を出した。
キナの上で身体を丸め、アマテラスは心地よさそうに眠っている。
彼よりも二回りは小さく華奢な身体は、柔らかでしなやかでふっくらと丸みを帯びていて、
一見しただけでは妖怪共と互角に渡り合えるほどの力があるとは思えない。
だが、その小さな身体が一度激情に突き動かされれば、
何よりも恐ろしい神罰になりえることをオイナの戦士は誰よりも良く知っていた。
事実、彼は大神の技を身体に受け、そしてまた、この大神と共に魔神に挑んだことさえある。
今までの出来事をふつふつと脳裏に思い浮かべた戦士の耳に、不意に牙を向く風の音が飛び込んできた。
外の寒さを思い出したのか、揺らぐ炎に薪を放り込んだ戦士が、思い出したように周囲を見回してみる。
今、彼の目の前で眠っている存在は、そうは見えなくても『神』であり、
人界の寒さなどは問題にならないことはよくわかっていた。
…………だがしかし、いくら火の傍にいるとはいえ、いくら獣の姿をしているとはいえ……
敷物の一つも敷かず、掛け物の一つも掛けずに眠る大神の姿は、見ているほうが寒くなってしまいそうだ。
しかも、眠っている彼女自身が雪白の身体の持ち主であるため、
否応なしに今も外を吹き荒れる吹雪が思い起こされて、ますます寒さを増していきかねない。
…………もっとも、この厳寒の時期に半袖のアッケシを平気で着ているアキクルミが、
人の事をどうこういえた義理ではなかったけれども……。
この安らかな眠り邪魔をするのも気の毒だが、風邪を引かせる方が可哀想であろう。
何度目になるのかすらわからぬ溜息をつき、首を横に軽く振りながら半獣の戦士は眠る大神の肩に手をかける。
その途端、眠る狼の弾力と温もりが男の掌に伝わった。
火の傍にいるせいでぬくまったのか、それがもともとの体温なのかはわからなかったものの、
それでも、柔らかな肉と毛皮が、彼女を起こそうと揺する戦士の力を拒絶するかのように優しく押し返してくる。
そのえもいわれぬ快感に我知らず表情を緩めつつ、戦士は尚も神の身体を揺すり上げた。
「……………アマテラス………寝るなら布団で眠れ………………おい、アマテラス……」
「………………………………………………きゅぅ……」
本来であれば気安く名を呼ぶことすら恐れ多いのであろうが、
共に戦った連帯感からか、いつもこうして訪れる大神への親近感からか…戦士の唇が容易く大神の名を紡ぐ。
だが、一方の大神から返ってくる返事は適当なもので……。
戦士はこれはもう駄目だとアッサリと悟った。
これはもう完全に脳が寝ているモノの返事だ、と……。
やれやれというように頭を振り、大儀そうに腰を上げた戦士の身体が見る間に獣に変わっていく。
布団の上で、という提案を受けてもらえぬのであれば、自身が布団代わりになればいいとでも判断したのだろう。
獣に変じた姿のまま、もう一度大きく息を吐くと、戦士は大神の身体を包み込むようにして寝そべった。
不意に加わった温もりを察知したのか、大神はクルルと小さく喉を鳴らし、戦士に鼻面を摺り寄せる。
邪気なく甘えてくる大神に、半ば呆れたように瞳を眇めつつ……
それでも、どこか嬉しそうな様子で、戦士は大神の真白き頬にペロリと舌を這わせた。
ひくひくと動く白い耳に、柔らかな曲線を描く背中に、薄く頼りない肩口に…。
宥めるように、労わるように……戦士は大神の毛並みを撫で付ける。
それは傍目から見れば、仲の良いい兄妹にしか見えない、なんとものほほんとした光景であった。
ふと気がつけば、外の吹雪も少しは収まってきたようだ。勢いを弱めた風の音を聞きながら、暖かな日の傍で太陽を抱いて眠るなど、それはもう至上の贅沢であり至上の時間であろう。
眠る太陽の背に顔を埋めれば、日溜まりの香り、青空の気配がした。