喪った血と共に躯の力と熱も削がれて白野威は瞼を挙げることも億劫だった。  
それでも戦いの興奮の残る神経は、  
ひたひたと歩み寄る足音と気配に否応無く反応した。  
近寄ってきたのはオイナ族の戦士が姿を変えた、  
禍々しいまでの力を秘めた巨きな蒼い狼だった。  
百年後の自分と共にコタネチクを地に引きずり降ろし、止めを差そうとしたその時、  
モシレチクと争いながらその場に現れた北の地の戦士を見て、  
白野威は痛ましさに胸を打たれた。  
ひとかたならぬ力を持ちながら制すること叶わぬ故の焦燥、  
臆病な傲慢と高い矜持が産み出す孤独、  
凄惨なまでに己を省みない姿。  
今この時もナカツクニの何処かで自分を待ってくれている盟友を思い出させた。  
自分の帰りを待っているであろうその盟友には済まなかったが、この戦士を死なせたくなかった。  
傷付き倒れた自分を気遣って差し出された戦士の手も傷を負っていた。  
大丈夫だと伝えたくてその傷付いた手を舐めた。  
相棒の天道太子イッシャクと別行動の今、自分の意思を代弁してくれる者は居ない。  
幽門の向こうに残してきた相棒と友の顔が思い浮かんだ。  
友はその身に持つ予言の力でこの顛末を知っていたのだろう。  
己は今此処で果てるのではない。  
自分が身を置く時の流れの中では、友と自分が百年間待ち続けた英雄が宿命の戦いに向かわんとしているはずだ。  
 
紅い鬣の頚を下げて、蒼い狼が呟くように言葉を発した。  
「俺に詫びもさせずに死んでくれるな。」  
唸りに似た低い喉声が哀願の響きを帯びていた。  
巨きな躯が寄り添ってきて、蒼く長い冬毛に柔らかく包み込まれた。  
冷えた躯に暖かく心地好かった。  
誰かと体温を分け合う事などタカマガハラを出てから久しく無かった。  
されるがまま蒼い狼に体重を預けた。  
「この闘いを勝ち抜いてカムイの地の平和を取り戻せば春が訪れる。  
傷が癒えるまで留まって春のカムイでのもてなしを受けてくれ。春のカムイは美しいぞ。」  
白野威は再び薄く眼を開けた。  
守護神を象った神面と緋色の瞳が間近にあった。  
蒼い狼は春のカムイを語り続けた。  
雪を割って咲く金色のクナウ(福寿草)、  
チキサニ(春楡)の淡い芽吹き、  
小さな葉を撫でる柔らかな春風。  
唄うように流れ始める河、沢の畔に見付けた芽吹きの翠が地面を被い尽くすと、やがてあらゆる花が一時に咲き乱れる。  
光景が目の前に繰り広げられていくかの様な語り口は、この狼がどれ程この地を愛しているかを強く感じさせた。  
語り掛けてくる低い声を遠いものに聞きながら白野威はかりそめの微睡みに墜ちた。  
 
朧気な意識の端で他者の気配が自分の毛皮の根本を蠢く感触にイッシャクを連想したが、  
湿った気配に舌だと気付いた。  
傷口の周囲にこびりついた血の塊を注意深く門歯で砕き、  
周囲の剛毛を固めている血糊をほぐし、  
薄く弾力のあるしなやかな舌が、傷に障らぬ様、慎重に動いて舐め取ってくれていた。  
浄められた下毛がふっくらと膨らむと暖かさが増した。  
薄く眼を開けると、躯の傷を改め終わった蒼い狼の桜色の花びらのような舌が、  
鼻面から目頭に向かって、規則的に幾度か動かされた。  
其処に傷が在るわけではなく、一連の動作の終了を告げる仕草だと解った。  
最後に口吻の端と鼻の頭を小さく一舐めされて、  
心地よさについた吐息に気付いたのか、気遣わしげな緋色の瞳に覗き込まれた。  
白野威は再び眼を閉じた。  
この後、たとえどんな運命が待っているにせよ、  
この戦士を死なせずに済んだことを深く安堵した。  
百年の後にこの戦士と自分は再び見(まみ)える。  
その時に自分はこの戦士の事を覚えているのだろうか?。  
白野威が強張った前肢を伸ばすと蒼い狼の前足に触れた。  
微かに頭をもたげて上を向くと鼻面がかろうじて顎に届いた。  
蒼い狼の頚から肩にかけて豊かに生える長い紅の鬣が白野威の純白の頭に掛かった。  
鼻面を微かに蒼い狼の顎に擦り付けて、  
白野威は百年後の自分がこの蒼い狼の仮面の下の真情を思い出せるよう願いながら、再び浅い眠りに墜ちていった。  
 

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