「あたし、そろそろ帰るね」  
 
散乱するノートやルーズリーフ、そしてプリント類を一まとめにしながら、桜子は立ち上がった。  
小さなテーブルの向かい側に座った杉が、ぽかんと口を開けたまま、その姿を見上げて言う。  
 
「泊まってかねーの?」  
 
「いい。明日朝から授業だもん。それに朝練あるし」  
 
かき集めた勉強道具をしまい込み、脇にあったスポーツバッグを持ち上げる。  
どうやら柔道着が入っているらしい。  
部活の後、そのままここ、杉のアパートに来たので、ずいぶんと大荷物だった。  
 
「じゃ、ありがと」  
 
「おいおい、ちょっと待てよ」  
 
「何よ」  
 
追いかける杉に、桜子は玄関の前で振り返った。  
すぐには口を開こうとしない杉の言葉を黙って待つつもりはないらしく、  
その場にしゃがみ込んで、いそいそと靴を履きはじめた。  
 
「何よってなあ。まさかこのまま帰る気か?さんざん人に手伝わせておいて?  
 こっちだって試験期間中なのに、お前がやばいっていうから手伝ってやったのにだぞ?」  
 
一気にまくし立てる杉を尻目に、桜子は立ち上がり、スニーカーを履いた足のつま先を、  
トントンと床に叩きつける。それからやにわに口を開いたかと思うと、  
 
「スケベ!教えてる間中そのことばっかり考えてたわけ!?」  
 
ぴしゃりと言い放った。  
 
「そりゃあ…」  
 
杉は言葉に詰まる。  
はっきり言ってしまえばその通りだったからだ。  
同じ東京都内とはいえ、毎日柔道で忙しい桜子とは、そう頻繁に会えはしない。  
そして会うだけならまだしも行為に及ぶとなると、数えるのも嫌になるくらいのご無沙汰ぶりだった。  
当然、杉の欲求不満は限界に達していた。  
だから、試験勉強のサポートを、という今回の桜子の申し出は杉にとっては願ってもないチャンスだったのだ。  
相変わらず試験の直前になって慌て、とうとう泣きついてきた桜子の頼みを、  
1も2もなく引き受けたのは、当然下心もあってのことだ。  
黙ったまま腕組みしてむすくれる桜子に、どう返そうか悩んだ末、杉はいっそ開き直ってみることにした。  
 
「おう、その通りだ、何が悪い」  
 
「え?」  
 
その判断は案外と間違っていなかったらしく、桜子は虚を衝かれてたじろぐ。  
こうなると俄然、状況は杉にとって有利になった。  
すかさず、しめたとばかりに畳み掛ける。  
 
「つきあってんだから別におかしかないだろ?それでなくとも会うの自体久々だってのに。  
 それとも何か、そんなに俺とやるのが嫌か」  
 
「やっ、やるとか言わないでよっ!」  
 
「じゃあどう言えば満足なんだよ!」  
 
声を荒げる桜子に倣って、つい大きな声をだしてしまったことに、杉は即座にはっとなる。  
狭い玄関先で口論をしていても埒は明かない。  
かといって、いまさら下手に出る気はさらさらなかった。  
何せ今日はただ単に事に及ぶだけではなく、更なる目的が杉にはあったのだ。  
こんなところで諦めるわけにはいかなかった。  
 
「…わかった」  
 
そのとき、桜子が小さくぽつりと言った。  
うつむいたまま、蚊の鳴くような声だったが、杉の耳にはたしかに「わかった」と聞こえた。  
心の中でガッツポーズをとりつつ平静を装っていると、  
 
「そのかわり、一回だけだからね!!」  
 
桜子は真っ赤な顔で杉を睨みつけ、荷物を降ろし、履いていた靴を脱いで、再び室内に引き返す。  
その後を追いながら、杉は次なる作戦の展開を頭の中で整理していた。  
桜子はというと、ベッドの上にちょこんと座り、指をせわしなく動かしている。  
杉が隣に腰を下ろすと、隣の肩が少し緊張したのが見て取れた。  
今の状態でさえ構えられているのに、どうしたものかと気を揉んだが、  
杉はいたって穏やかに、世間話でもするように切り出すことにした。  
 
「なあ、今日はちょっとばかり趣向を変えてみようと思うんだが」  
 
顔を見ずとも、桜子が訝っていることは杉にとって想像にたやすい。  
だからあえて目の前の壁を凝視したまま、淡々と言葉をつないだ。  
桜子はただ、黙って聞いていた。  
 
「まあ、たいしたことじゃあないんだが…お前柔道着持ってきてるよな?」  
 
「…はっ?」  
 
「ああ、玄関に置きっぱなしだな」  
 
杉はベッドから立ち上がると、悠然と玄関に向かい、やがて桜子のスポーツバッグを手に戻って来る。  
それを下ろし、また元のように桜子の隣に腰掛けた。  
その一連の動作を逐一追っていた桜子の視線が、目の前に投げ出された自分のスポーツバッグの前で止まる。  
しばらくじっと見つめた後、次に視線を止めたのは杉の顔だった。  
 
「…何なのよ、いったい」  
 
「さて、ちょうどここにこんなものがある」  
 
すっかり我が意を得たりといった様子で桜子の疑問を無視し、杉はごそごそとベッドの下に手を伸ばすと、  
ちょっとした物入れになっているアルミ製のバスケットの中から何かを取り出した。  
「それ」が室内灯の下にさらされるにつれ、桜子の表情がだんだんぎこちなく固まっていく。  
 
「いやー、あんときから一回やってみたかったんだよなー」  
 
「柔道に関わるものの夢だな」  
 
色を失ってすっかり押し黙ってしまった桜子に構わず、杉はひとり能天気にしゃべり続けた。  
ここまで来てしまえば開き直りの境地だ。いくらでも大胆になれる。  
ちらりと視線を横にやった杉は、心ここにあらずな桜子を目の端に捕らえた。  
片手を顔の前で振ってみるが、表情どころか体全体が固まったまま動かない。  
 
「おーい、海老塚?」  
 
「さよなら!」  
 
杉が声を掛けた瞬間、弾かれたように桜子は立ち上がり、ものすごいスピードで玄関口に向かった。  
荷物は当然放り出したまま、靴を履くのもそこそこに、ドアの鍵を外しにかかる。  
 
「おい、ちょっと待てよ!」  
 
「離してよ!イッペン死ね!!このヘンタイ!!」  
 
穏やかならぬ単語が桜子の口から弾丸のように飛び出した。  
慌てて取り押さえる杉の片手を、必死にもがいて振り払おうと試みる。  
結構な力で抵抗されたため、杉は急いで両手で応戦した。  
 
「落ち着けって」  
 
「ぎゃあ、そんなもん目の前に見せ付けるなっ!!帰るっ帰るーっ!!」  
 
もう片方の手にもったままになっていた「それ」を見た桜子が、ますます激しく暴れまわる。  
そのとき手が当たったせいで、パサリと乾いた音を立てて、「それ」は床の上に落ちた。  
もはやこうなっては最終手段に訴えるしかあるまいとみて、  
杉はもがく桜子を後から羽交い絞めにしたまま、ボソッと一言つぶやいた。  
 
「あっそ。じゃあ俺が書いてやったレポート返してもらおうか」  
 
とたんに桜子の動きが止まる。  
杉は先刻、一度も受けたことのない講義のレポートを、わずかな資料だけであっさりと纏め上げてやっていた。  
目を輝かせて喜んでいた桜子の姿が杉の脳裏にさっと浮かぶ。  
予想通り、効果は絶大らしかった。  
 
「お前が一ヶ月かかっても到底書けない内容なのにな。  
 あれさえあれば優、間違いなしだっていうのに…残念だ」  
 
ゆるゆると桜子から力が抜けていくのが、杉の両腕に伝わった。  
 
「ま、俺と一緒にもう一回三年やれよ。これで卒業も同時だ。万々歳だな」  
 
「ううっ・・・」  
 
とどめとばかりに杉が言うと、桜子は力なくうなだれる。  
どうやら完全に抵抗をあきらめたようだった。  
そのまま床にずり落ちそうになる体を、片手で引っ張って立たせると、  
真っ赤な顔で悔しそうに睨みつけてくる桜子に向かって、杉は満面の笑みと共にこう言った。  
 
「やってくれるよな、柔道着ブルマ」  
 

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