規則正しい、寝息が聞こえていた。
振り返ると見慣れた海老塚の寝顔が、ベッドの上に見受けられる。
ガキのように、無防備なその顔に、一瞬ほほえましい気持ちになった。
しばらく眺めてから、今度は手元の置時計に視線をやると、時間はすでに2時半を回っていた。
「…あと少しだな」
一夜漬けのレポートとはいえ、なかなかいい出来だった。
このぶんならあと30分もかからずに、纏め上げることができるだろう。
「…くん…」
寝返りの音と共に、背後で上がった小さなうめき声に、俺の肩は震えた。
シャーペンを持つ、手の動きを止めて、思わず固まった。
耳を塞ぎたかったが、そんなことをしても現実は変わらない。
だから今夜もまた、俺はその名を、愛する女の口から聞く。
「…巧くん…」
椅子に座ったまま、体を反転させると、海老塚はこちらに背を向けていた。
肩が上下に揺れるその間隔が、いまだ眠りから覚めていないことを知らせている。
「…ん」
また、寝返りをうち、こちらを向いた海老塚の頬に、いく筋か光る跡があった。
どんな夢を見ているのか、眉は苦悶の形に歪んでいる。
涙が枯れる、というのは嘘かもしれない。
海老塚は、あの夜―高校の卒業式の夜、見せたものと同じ涙を、もう幾度流してきたのだろう。
そして俺には、その涙を拭い去ることはできなかった。
できることといえば、ただ、こうしてもどかしく見ていることだけだ。
俺と海老塚が付き合うようになったのは、もうだいぶ前のことだった。
ずっと、思い続けていながら何も言えず過ごした日々に、終止符を打ったのは、あるきっかけからだ。
巧から電話があった。
幸せいっぱいの声で、近藤とついに結ばれたと、そう言った。
壊れ物でも扱うみたいに優しく、巧の口が近藤を語る。
海老塚には決して見せない一面だと、俺はあいつの代わりに心を痛めた。
いつまでもひきずっていていいことはない。
まるであいつのためだとでも言うような、そんな建前でもって、俺は海老塚に告白をした。
要はタイミングを、最悪の形で利用したのだ。
そう、だから。今のこの状況を、「利用されている」だなんて思う資格は、俺にはない。
実際、それからの俺は、海老塚を傷つけるようなことばかりしてきた。
何も知らない巧と近藤が、4人で会いたがるのに、何の意も唱えなかった。
それどころか、積極的に場を設けさえしていた。
仲のいい、巧と近藤を見て、諦めてくれることをどこかで期待していた。
でも、心の奥ではそんなことは無理な話だと、とうに悟っている自分がいて、
本当は、もっと苦しめばいいと、そう思っていたのかもしれない。
巧を想って嘆き、近藤と俺に対する罪悪感に苦しむその姿を、心のどこかで欲していたのかもしれない。
俺がこんなに苦しんでいるのだから、それなりの代償を支払えと、思っていなかったと言えるだろうか。
海老塚の傷つく顔を見て、俺は怒り、悲しみ、そしてほんの少しの安らぎを得ていた。
俺が初めて海老塚を抱いたのは、雨の降る夜のことだった。
ずっと想い続けた女を抱いても、湧き上がってくるのは喜びではなかった。
本当に欲しいものは、永遠に手に入らないことが、わかっていたから。
巧はいつでも、俺の欲しいものを持っていた。
中学一年のとき、同じクラスになって、いつの間にか仲良くなった。
根本の部分では正反対の俺たちだったが、それがうまく作用したのか、なぜかやけに馬が合った。
巧を柔道の世界に引っ張り込んだのも、実は俺だった。
小学校から少しかじっていて、中学でも続けようと思っていた俺の誘いに、巧は応じ入部を決めた。
はじめは当然、俺のほうが上だった。
でもどんどん、巧は常人とは違う才能を覗かせていき、あっという間にその実力は俺を凌いだ。
高校に入ってからの巧は、さらに大きな成長をみせ、いつの間にか俺などは手の届かないところまで行ってしまった。
三年、最後のインターハイ個人戦。県予選にとどまった俺は決定的に事実を突きつけられた。
俺は、巧には敵わない。
わかりきっていたことでも、それは深く胸に突き刺さった。
巧はある種の天才だ。柔道でもそう、勉強にしたってできないのでなく、やらないだけのことだった。
俺が必死の努力で補っているものも、あいつならちょっとのことで難なく越えてしまうに違いない。
巧のそばでへらへらと笑ってみせながら、その一方でいつも、俺は空虚な心を抱え続けてきた。
巧は俺の欲しいものを、すべてその手に持っていた。
柔道の才能にしても、前向きなその姿勢にしても、俺が憧れてやまないものを、あいつは持っていた。
そして、好きでしかたない、女の心も。
カタンと音がして、シャーペンが床に落ちた。その音にハッとなり、我に返る。
何気なく時計を見ると、2時35分だった。5分間も、ぼんやりと考え事をしていたらしい。
海老塚の頬はまだ濡れていた。あれからまた、新しい涙が、頬を伝ったのだろうか。
俺は椅子から立ち上がり、ベッドの横に膝をつく。
眠る海老塚の頭をそっと撫で、冷たい頬を指で拭った。
こんなことをしても意味はない。どうせまた、枯れぬ涙が彼女の頬を濡らすのだから。
それでも何かしていたかった。必要とされているのだと、そう思いたかった。
いつだったか、冗談交じりに海老塚がこう言った。
「杉くんって優しいね」
どこか寂しそうにぽつりとつぶやいたその言葉に、いたたまれなくなった。
見抜いて馬鹿にしていただけかもしれない。それでも。違うのだと叫びたかった。
俺は、こんなにも卑怯だ。
「優しくなんかないんだ」
苦笑を浮かべ、眠っている海老塚に口づけた。
かさついた唇からは何も伝わってこなかった。
そろそろ潮時なのだろう。
偽り続ける関係に、俺も海老塚も、きっと疲れているのだから。
海老塚の巧への想い。それは未来のない、恋だと思う。
でも俺には、強引に奪い去ることも、待ち続けることもできそうにない。
だったらせめて、こんなことは、早く終わらせなければいけない。
悪者になればいい。浮気をして、わざと見つかるなんていうのも、ありきたりだがいいかもしれない。
そんな安っぽいヒロイズムに酔うことくらいしか、このやるせなさから逃げ出す手段はなかった。
――神様、もしも誰かになれるなら、俺は迷わず巧を選びます
これで最後になるかもしれない寝顔を、愛しくてたまらないその寝顔を、俺はいつまでもみつめていた。