風呂上り。ベッドに寝転び本を読んでいると、二三度ノックの音がした。
本を置き、顔を上げた瞬間に、目の前のドアが無遠慮に開く。
「兄さん、入るわよ?」
言葉とともに現れたのは薫だった。
――入るわよ、ってもう入ってんじゃねーか……
あくまで形の上だけで、許可をしようがするまいが、関係ないということらしい。
さも、あたりまえといった様子でドアを閉める薫は、缶ビールを二本、小脇に抱えていた。
こういうことはもう慣れっこになっていて、怒る気にもなれなかった。
「どうした、なんか用か?」
「あら、用がなくちゃ来ちゃいけないの?」
「……そうは言ってないけどな」
「飲むでしょ?」
「ああ」
しれっとした顔ではぐらかす薫にあきれながら、缶を一本ひったくる。
タブを起こす傍ら、ちらりと顔をうかがったが、その魂胆は読めなかった。
久々の帰省だから、兄妹仲良く話でもしようというのだろうか。
一瞬考えて否定した。コイツはそんなしおらしいタマじゃない。
「今日、何でひとりで帰ってきたの?」
あれこれ考えをめぐらしていると、薫がそんなことを聞いてくる。
一瞬、理解が追いつかず言葉に詰まる。
「あー……あれだ、なんか都合が悪くなったらしくて」
「ふーん、大変ね、桜子さんも」
自分で訊いておいて、たいして興味なさげな返事をすると、薫も自分の缶を開けた。
ベッドの俺と向き合うように、脚を崩して床に座る。それを見て俺も起き上がり、ベットのふちに腰掛けた。
夏休みに入って間もない時期、一週間ほど浜松の実家に戻ることにしていた。
いつもは忙しい海老塚も、今年はなんとか都合がつきそうだと言っていたから、一緒に帰ってくるつもりだった。
だけどいよいよ明日というときに、急にキャンセルの電話が入り……しかたなくひとりで帰路につくはめになった。
ちなみに俺と海老塚は今年の春からつきあっていて、実を言うと今回、ついでに我が家に連れてくるつもりにしていた。
家族にも一応話してあったから、薫もそのことを言っているのだろう。
「ま、東都女子の柔道部じゃエース扱いだからな。しょうがないだろ」
「ふーん。……でもホントに部活なのかしら」
ぼそっと呟くような薫の一言に、思わず顔を上げる。
「案外他の人と会ってたりして」
「……まさか。あいつがそんな器用なヤツじゃないのは知ってんだろ」
さらりと飛び出す問題発言に、平静を装いつつも内心どきりとしていた。
そんなこと、本気で疑ってるわけじゃけっしてないが、実のところ不安になる要素なら十分にある。
なにせ付き合いはじめて5ヶ月近く経つのに、俺たちの間には確かなものがない。
友達が長すぎたせいもあるが、せいぜいキス止まりがいいとこの、清らか過ぎる関係だった。
「……心配?」
「……別に」
薫の目がいたずらに俺を見る。心のうちを悟られぬよう、ビールの缶を傾け誤魔化した。
視線だけはまだ感じていたが、それ以上続けようとはしないから、追求は免れたのだとほっとする。
……が、しかし。
「それはそうと兄さん……もう桜子さんとエッチした?」
「ブファッ、ゲホッゲホッ」
突拍子もないその言葉に、「噴出」という単語が相応しい勢いでビールを撒き散らした。
気管に入ったせいで苦しくなり、何度も咳をしてしまう。それどころか半ば涙目だ。
なのにこんな状況に陥れた本人はというと、「汚いわねえ」と眉を顰め、まるで他人事ののん気さだった。
「お、おまえな……なんつーことを……」
「はいはい、その様子じゃまだなのね。まったく情けないったら」
「や、だから……」
「何年もかけてようやく付き合いだしたかと思えば、今度は何ヶ月もおあずけくらってるわけ?
そんな甲斐性なしだとホントにいつか浮気されるんじゃない?」
人が戸惑っているのをいいことに、薫は好き放題まくしたてる。
止めようにもまるで聴く耳を持たない。
言ってることも図星だけに、なおのこと腹立たしかった。
「ふぅ、それにしても我が兄ながらほんっとに……」
「あーっ、もういい!!いいから黙れ!」
放っておくと朝まで続きかねない薫の小言を、かなり強引なやり方で断ち切る。
それでも効果はあったのか、しばらくは静かになってくれた。
よっぽど夢中だったらしく、自分が立ち上がっていたことに、いまさらのように気付く。
なんとなく漂う気まずさを隠すように咳払いをひとつ。俺は再びベッドに座ろうと体をかがめた。
そのとき。一瞬、ほんの一瞬だけ、薫の胸の谷間に目が行く。
白い、控えめな両胸の間に射す、黒い影。そのコントラストがやけに印象的だった。
――うげっ
見てはいけないものを見てしまったようで、慌てて首をひねり目をそらす。
そういえば薫のヤツは上はキャミソール一枚で下はショートパンツという挑発的ないでたちだ。
これは別に今日に限った話でなく、俺が家にいたころから夏はいつもこの調子だった。
やめろと再三言っても聞く耳なしで、諦めてしまってからはさして気にしていなかったのに。
さっき見た光景がちらついて、次の言葉を探し出すのに必要以上に手間取る。
一緒に風呂にも入った妹相手に、何をバカなと思ったが、
状況が状況なだけに、なんとも気まずい心持だった。
そんな俺の葛藤を笑うように、薫が視線を向けてくる。
「あーあ、ヤダヤダ。いくらたまってるからって妹に欲情するなんて」
「んなっ、だ、誰がっ……」
「……さっき見たでしょ?」
できるだけ目を合わさないでおこうと思ったのに。
次の瞬間にはもう、薫の顔が目の前にあった。
「ななな、何を」
「素直になればいいのに」
いつの間にこんな表情(かお)をするようになったのか。妖艶な目が俺を捕らえる。
囁くように呟いて、薫が俺の隣に座った。わざとなのかはわからないが、ひじに胸が当たっている。
全身から汗が噴き出るのを感じながら、ただただ黙って硬直する。
少し伸びた黒い髪が、さらりと顔を撫でた。
不思議なことに、ガキだと思っていたはずの薫からは、ちゃんと女の香りがした。
――おかしい。これは絶対におかしい。
必死に落ち着こうと努力する。
どうせまた、いつもの冗談に違いない。ただいつもよりかなりタチが悪いだけだ。
いまならまだ、ゲンコツ一発程度で許してやろう。
そんな俺の思いむなしく、薫はあろうことか俺の首に腕を回し、
一瞬思案するように宙を見たかと思うと、
「そうだ、私と練習しない?」
そんなことを言ってのけた。