ハイム城の屋上で感じる風が、ヴァイスは好きだった。
花のようにどこか甘い香りのする春の風は、柔らかく頬を撫でて過ぎ去っていく。
そうすると、苛立ちや心の棘が消えていき、荒れていた気が治まるのを感じるのだ。
これを発見したのは戦後の処理に忙殺されていた、女王ベルサリア・オヴェリスが即位して
初めての春を迎えた二年ほど前のことだった。
ほんの少しだけサボタージュしたくなり、見咎められない場所をと思って
屋上に登ってみたのがきっかけである。
以来、精神的な疲労が溜まったり何か嫌なことがあると、春でなくとも
ヴァイスはこの癒しの空間を訪れるようにしていた。
(嫌なこと、か。俺も成長しねえなァ)
うんざりと嘆息し、遥か下方に目を落とす。
あの石造りの道を白い馬車がゆっくり駆けていったのは、一時間くらい前だろうか。
日も暮れている今は、時を計るものが周りに見当たらない。
ゆえに正確な時間はわからないが、なんとなくそんなものだろうと思った。
中に乗った由緒正しき家柄の男は、どうせへそ曲がりな俺なんかとは正反対の好青年なのだろう、とも思う。
今日は夕食を兼ねた、ベルサリア女王の見合いが行われていた。
彼女はまだ若い。結婚を考えるのはまだ先でも良さそうなものだ。
が、先王亡き後の泥沼の紛争は跡継ぎの不在も一因となっており、ゆえに側近たちは
女王の結婚と後継者問題に今から神経質になっていた。
実際に縁談が持ちかけられるようになったのは国の情勢が落ち着いてきたここ最近のことだし、
女王本人の気持ちもあって、こうしてきちんとした見合いにまで行き着くケースはまだ少ない。
とはいえ、やがては恒例になるかもしれないこの行事が、ヴァイスは気に食わないのだった。
「馬鹿か俺……無理だっつうに」
ただでさえ高嶺の花だったのに、女王となってからはさらに手の届かない存在になってしまった。
付き合いが長いとはいえ、たかが庶民出身の男が王の座につけるものではないし、
解放軍で活躍したといっても何か肩書きがあるわけでもなかった。
コンプレックスを抱きやすい性格には、どうしてもこれらの悪条件が気になってしまう。
女王には、その立場に相応しい相手がいる。そして、それは決して俺ではない――理屈はわかっている。
が、長年の恋心は理屈だけで簡単に諦めのつくものではなかった。
誰にも言えない悶々とした想いを抱え続けるのは、なんと苦々しいものだろうか。
「何が無理なの?」
物思いに耽っていたせいか、人の気配に気づいたのと同時にそんな声をかけられ、ヴァイスは眉根を寄せた。
誰のものか一発でわかる、清らかな高い声。聞かれたくない人に、聞かれたくない独り言を聞かれた。
思わず息が詰まったが、動揺を悟られないよう振り向かずに返す。
「べつに。大事に大事に育てられた名門のお坊っちゃんに、鬼みたいな女の旦那が務まるもんかなと思ってさ」
「ちょっと、どういう意味!?」
「ほら、もう軽くキレた」
「誰のせいよ、もうッ」
ややカジュアルなワンピースドレスに薄手のカーディガンを羽織った、女王ベルサリア――いや、
カチュア・パウエルと呼ぶほうがヴァイスはしっくり来るのだが――がヴァイスの隣に立った。
小さく息を吐き、壁に手をついて空を見上げる。
「暗い空ね」
「夕方ごろから、少し曇ってきたからな」
「せっかく星を見ようと思ったのに」
そう言って口を尖らせるカチュアは、ごくごく普通の若い女性の顔をしている。
王だとか国を正しい方向に導かねばとか、そういう気負った仮面を外した彼女本来の表情だ。
近しい者しか見ることのできないその横顔に、ヴァイスは充足感を覚える。
「……で? どうなんだ」
「何が?」
「最近の調子なんか聞いてると思うか? わかってんだろ」
なんだかんだで、やはり気になる。
けれどカチュアの顔はまともに見られず、ヴァイスはあさってのほうを向いてぶっきらぼうに尋ねた。
カチュアもまた、足元に視線を落として小声で答える。話しにくいのだろう。
「……結婚する気もないのにお見合いしたって、どうしようもないのにね」
カチュアが縁談に乗り気でないのは、単に結婚願望がないわけではないとヴァイスは思っている。
ずっとカチュアを見つめてきたヴァイスだから、カチュアが誰かを思っている様子にも気づいていた。
その想い人までを知ることはできなかったが、おそらく弟に違いないだろう。
あの極度の姉弟愛なら、実は血の繋がりがないと知った瞬間に恋愛感情に変化してもおかしくはない。
「ま、仕方ねえだろ。お偉いさんってのは大変だなァ」
「……ね、ヴァイスはどう思う?」
「あン?」
今度はヴァイスが首を傾げた。
「何が」
「好きじゃなくても、国のためとか世継ぎのために……私が結婚したら、どう思う?」
嫌に決まっている。
片思いの相手に、恋愛感情もない者と契りを結ばれたら誰だっていい気はしないはずだ。
しかし、ヴァイスはどこか遠くの宙に視線を彷徨わせたまま「さあな」と呟いた。
自分はこの問題に言及する立場にない、と言わんばかりに。
「そんなの、俺がどうこう言って……」
「こっち見なさいよ」
静かな叱責が飛ぶ。さほど大きくない声には、不満というより寂しそうな色が混じっていた。
「こういう質問に答えるときくらい、人の目を見て話しなさい。あなたの悪い癖よ」
「……うるせえや」
カチュアの顔を見れば、きっと冷静でいられなくなる。
背中に視線を感じても、ヴァイスはあえて無視し続けた。
「お前が誰と結婚しようが、俺にゃ関係ねえッ。
好きな野郎のことばっか考えてないで、自分の結婚問題くらい自分で何とかしろよッ」
背後の彼女がぴくりと動揺したのが、なんとなく気配でわかる。
ああ、やはり焦がれている奴がいるのだ、と今さらながら確信した。
「好きな……って」
「どうせデニムだろ? よかったな、本当は弟じゃねえもんなあ」
今度は気配を探るまでもなかった。
一拍の間を置いてから聞こえた笑い声に、ヴァイスは何事かと振り返る。
彼女は心底おかしそうに、口元に手を添えて笑っていた。
「……なに笑ってんだよッ」
真剣に話をしていたはずなのに。むっとして尋ねる。
だって、と未だ笑ったままカチュアは言葉を紡いだ。
「デニムは弟よ? たとえ血の繋がりがなくても、父さんに一緒に育てられたんだもの。
……そっか、気づいてなかったのね」
何が、とヴァイスは困惑気味に返す。
結果的に合ってしまった目をそらせずにいると、カチュアはにこりと微笑んだ。
「私が好きなのは、ヴァイス。あなたよ」
「……何の、冗談だよ」
「女の子の真剣な愛の告白を、あなたは冗談に思うわけ?」
信じようとしないヴァイスだが、カチュアに気分を害した様子はない。優しい笑みを崩さずに続ける。
「私が女王に即位してから、あなたはずっと傍で支えてくれた。ううん、もっと前から……解放軍で戦って
いたころから、デニムや私を支えていてくれたわよね。なのに私、まだちゃんとお礼を言ってなかったわ」
ね? と、少し恥ずかしそうに上目遣いに見られ、何も言えなくなる。
こんな目でこんなふうに見られたことが、今までにあっただろうか。
彼女がこちらを振り向いてくれればいいのに、と夢見たことは何度もあった。
それがいざ現実になると、逆ににわかには信じがたくて。
やはりこれは夢なのではないかとさえ思えて、ヴァイスは固まってしまう。
「――ありがとう。あなたが大好きよ」
「……カ、チュア……」
そんなヴァイスの胸に、カチュアは飛び込んだ。
春風とは違うほのかに甘い香りが、ふわりと漂う。
カチュアが、自分を好きだと言ってくれた――喜びと驚きに固くなる腕で、ヴァイスはぎこちなく
その体を抱きしめた。
「俺も……お前が好きだ。ずっと好きだった……!」
今まで言いたくて、しかし躊躇し、結局言わずに呑み込んできた言葉。
それを口にすると、カチュアが嬉しそうに笑って顔を上げた。
そうして見つめ合い、自然に唇を重ねる。
夢ではないと、そのあたたかな感触が教えてくれた。
「……ねえ、もう一度訊くわ。
私が世継ぎのために好きでもない人と結婚したら、あなたはどう思う?」
「嫌だ」
今度は正直に、きっぱりと言い切った。
やっと思いが届いのに、ほかの男に取られるなど絶対に嫌だ。
もう彼女を離すまいと、強く強く抱きしめる。
「……そうなる前に、お前を俺のものにしたい」
心臓の鼓動が馬鹿に速くなる。
たとえば体力の続く限り全力疾走したとしても、ここまで心拍数は上がらないのではないだろうか。
落ち着け、とでもいうように緩く風が吹いたが、あまり効果はなかった。
「して」
囁くような声が、ヴァイスに訴える。
背中にまわった細い腕にも、彼を求めるように力がこもった。
「私をあなたのものに、して」
ぼっと体が熱くなった。
希望など持てないと思っていた事態が、急転していく。
感動と、戸惑いと、興奮と、緊張と。
一気に押し寄せたそれらすべてに心を揉みくちゃにされながら、ヴァイスは頷いた。
そういうわけで、カチュアを連れて部屋に戻ってきたはいいが。
(……どうしたもんかな)
改めて考えてみれば、すごい台詞を言ってしまったものだ。
ヴァイスは窓際に立って外を眺めながら、そわそわと腕を組みなおしたり頭を掻いたりしていた。
見慣れたはずの自分の部屋にいるのに、今だけは妙に落ち着かない。
むしろベッドに腰かけているカチュアのほうが冷静なくらいで(少なくともヴァイスにはそう見えた)、
照れているようではあるが静かに微笑んでいた。
「ヴァイス、屋上が好きなの? 暇なときはいつもあそこにいるじゃない」
「ん、まあ……いつもってわけじゃねえけど」
カチュアの手招きが視界の端に入って、ヴァイスも少し戸惑いながらベッドに腰を下ろす。
すぐ隣に彼女がいることが嬉しくもあり、なんだかむずがゆくもあった。
「探したのよ。部屋にいなかったから、きっとあそこだろうって思って」
「探した?」
「うん。……お見合いの人ね、優しくていい人だったんだけど……
でもやっぱり、あなたのほうがいいなと思ったの」
照れ隠しだろうか、膝の上に乗せた両手を開いたり握り合わせたりしながら言う。
ヴァイスはちらりと彼女を見下ろしてから、頬を掻いた。
「なあ。俺なんかでいいのかよ」
あまり自分を卑下したくはないが、つい言ってしまった。
何を今さらと、カチュアはころころ笑う。
「いいに決まってるじゃない。嫌ならこうなる前に断ってるわよ」
「いや、それはそうだけど」
「俺なんか、なんて言わないでよ。身分とか立場とか、そんなことは関係ないわ。
私はあなたが好きなんだもの、それでいいじゃない」
好き。
彼女の口から紡がれるその単語の響きに、ヴァイスは半ば陶酔しながら頷いた。
しなだれかかってくる肩を抱き寄せ、滑らかな髪を撫でる。
密着した体は、あたたかいのを通り越して熱いくらいだ。
肩に回していた手でカチュアの顔をこちらに向かせ、キスを交わす。
ん、とわずかに漏らされた吐息が艶めかしい。その艶に惹き込まれるように、彼女を求めて唇を吸う。
徐々に口づけを深くしながら、ヴァイスはやや不器用にカチュアの服を脱がしにかかった。
肩から、少しずつ露わになる白い肌。
まだ何もしていないのに、それを目にするだけでどきどきと胸が高鳴った。
「ヴァイス……」
カチュアを、そっとベッドに横たえる。白いシーツの上に長い髪が広り、細い四肢がすらりと伸びた。
晴れていれば、この裸体は月明かりに映えてもっと美しく見えただろう。
残念だが、それでも彼女の魅力は充分すぎるほどにある。
「綺麗、だな」
しばらく見惚れてから、黙っているのも変かと思って、つっかえ気味に言葉を搾り出した。
カチュアは頬をほんのり赤く染めて、ありがとうと嬉しそうに頬を緩め、
「でも、言い淀んだのは何?」
しっかり指摘した。
悪戯っぽく尋ねられたので、ヴァイスもまた悪戯っぽく返す。
「いや、一応そういうお世辞も言っといたほうがいいのかなって」
「あ、ひどい。ヴァイスの馬鹿ッ」
カチュアは唇を尖らせた。
少しだけ緊張が解れたような気がして、ヴァイスは笑いながらその愛らしい唇に口づけを落とす。
「冗談だって」
女王の座に就いても、やはりカチュアはカチュアだった。
こんな他愛のないやり取りも以前と変わらず交わすことができて、それが嬉しい。
服を脱ぎ捨てたヴァイスは、カチュアの上に覆い被さった。
「優しくしてよね……私、はじめてなんだから」
「わ、わかってるよ」
声が上擦る。俺だってはじめてだよ、今だって実はけっこう不安なんだよと文句を言いたくなるが、
そんなことで言い争っても仕方がない。
ヴァイスは咳払いをして、改めて彼女の全身に視線を落とした。
ガラスのように澄んだ瞳、可憐な赤い唇。豊かに伸ばされた艶やかな髪。
無駄な肉のない、それなのにふっくらと女性らしい丸みを帯びた、均整のとれた肢体。
見れば見るほど美しくて、ため息が出そうだ。
「……カチュア……」
無意識的に名前を呼ぶと、彼女は恥ずかしそうに目を細めて、そしてゆっくり瞼を閉じた。
彼女は自分を待っている。ヴァイスはごくりとつばを飲んだ。
内心は恐る恐る、けれど表面上は冷静さを装いながら、裸の胸に手を伸ばす。
「んッ」
カチュアの肩が、ぴくりと震える。
はじめて触れた女性の乳房は、思った以上に柔らかなものだった。
それなのにしっかりとした弾力があって、確実に押し戻してくる。
今までに経験したことのない、何ものにも代えがたい甘美な感触。
(すっげ……)
感嘆の一言は胸中に留め、ヴァイスはカチュアの胸を弄り続けた。
最初は優しく、というよりも腫れ物に触るような手つきだったが、愛撫はだんだんと激しさを増していった。
比例するように、カチュアの息も荒くなっていく。
もっと、もっと彼女の乱れる姿が見たい。
ヴァイスの指が豊かな胸の、ある一点に向かって伸びた。
「……ッあ!」
自己主張を始めている桃色のそこをつまむと、カチュアが一際甲高く喘ぐ。
ヴァイスはどきりとして手を止めた。
「あ、えっと、悪ィ、痛かった……か?」
「んんッ……ちが、う……の」
カチュアは弱々しく首を振る。瞳を潤ませて恥じらう姿が、なんとも愛らしかった。
「違うから、や……やめないで……」
やめて、なら考えものだが、やめないでと言われればヴァイスに否はない。
再び胸を弄りながら、唇をカチュアの身体に這わせていく。
額に、頬に、首筋に、鎖骨に。唇は少しずつ下っていき、最後に右胸に辿り着いた。
カチュアの官能的な喘ぎ声に後押しされるように、唇で突起をつまみ、舌でなぶり、夢中で貪る。
もう片方の胸は、空いている手で執拗に撫でまわした。
「カチュア……」
「あ……あッ、やあ、ヴァイス……もっと……!」
ヴァイスに身を任せ、先を先をと懇願するカチュア。
そんな姿を見ていると、不思議な優越感に浸る。
考えてみれば、優位に立っているのはいつも向こうだった。
たった二つの年齢差は意外に大きく、子どもの頃はいつもヴァイスがカチュアを見上げていて。
やがて身長で追い越しても、しっかり者の彼女が相手では一向に敵わなくて。
そして、今やカチュアは一国の主である。
男として情けなかったが、ここに来るまでどうあがいても立場をひっくり返せなかった。
それが今は、多少不格好ながらも自分が彼女をリードしているのだ。
愛を乞い、行為の先をせがみ、自分の愛撫でこんなにも乱れる憧れの人。
全身がぞくぞくとして、いっそう思慕の情が募る。
そして、このあられもない姿を知っているのは自分ひとりだけなのだと思うと、
独占欲までが満たされていくのを感じた。