「…いたぞ、バクラムの女だ!」
その叫びを合図に、女が木立の中を駆け始める。次の瞬間、その姿が深緑の間に溶け込むように見えた。木々の緑が確かな意志を
もって同じ色の衣を纏った女を覆い隠そうとしているとさえ思えるほど、その光景は神秘的なものとしてこちらの目に映った。
そして、山道を駆ける女の足取りは意外なほどに力強い。これが大地の加護というヤツなのか、と思わず感心させられてしまう。
「バカ、声がでけえ!気づかれちまったじゃねえか!!」
となりにいる、名も知らぬごろつきの一人が己を叱責した。…お前などの知ったことではない。実のところ、その気づかせる、
意識させることこそが狙いなのだ。追われる者が最も恐れるものは追う者の不断の意志。それをわざわざ伝えることに
意味があるのだから。
「…いいから追うぞ!」
「おお!!」
いきり立った荒くれ男たちの声が己に続いていく。その猛々しさに一瞬、魔獣の群れを率いているような錯覚に陥りそうになるが、
ロクに統制も取れていないごろつきやならず者の群れに過ぎないこいつらに、それほどの力などあるはずがない。だが、威勢が
いいだけの見掛け倒しで一向に構わないのだ。こいつらは己の書いた筋書きを具体化する舞台装置の一つに過ぎないのだから。
そういう意味でこの野卑極まりない咆哮の連なりは、中々の効果を上げているはずだった。
「おーい、もう逃げられねえぞぉ!」
「待ってよぉ〜、1万ゴートちゃーん!」
この女に1万ゴートの賞金がかかっているなど、食い詰めたならず者どもを駆り立てるためのでたらめに過ぎなかった。
だが、それなりの額を前金として渡しておいたおかげで、連中は疑うどころかすっかりその気になっている。
元手のかかる法螺話だったが、追われることに強固な理由や裏づけがあるということが逃げる者にそれなりの心理的効果を
与えるということを考えると、やっておかなければならないことだった。
不意に女が立ち止まり、意を決したようにこちらへ振り返った。気圧されるように追跡者の群れも足を止める。
女はきっと鋭い視線を向けながら両手を天にかざし、何かを口ずさんでいる。あたかも、何かに祈りを捧げるように。
「チャンスだぞ!さすがに疲れたみてえだな!」
「祈っても助かるわけねえだろうが!!」
やれやれ…、この愚劣極まりない連中には、あの女が何をしているかはわからないらしい。ほどなくして異臭とともに
地面から毒々しい霧が吹き上がり、視界を遮るようにしていた。
「うわあッ!」
「…な、なんだあ!?」
地に眠る醜悪な妖精の息吹…!予想に反して足元からではなく、やや前方から吹き上がっている。力がここまで及ばないのか、
あるいは煙幕のような効果を狙ったのだろうか。いずれにしても見なれぬ光景に対して、さっきまでの威勢が嘘のように
この連中はひるみきって足を止めていた。
そこに己はためらいもなく突っ込んでいく。そして無事であると、連中に示して見せた。
「ただの虚仮脅しだ!俺を見ろ、何ともないぞ。急げ、女が逃げる!」
「…お、おお!!」
異様な光景に一瞬怖気づいた男たちも、威勢を取り戻して我先にと続いていく。
「う……、うえええッ!」
「んぐああああ!!」
だが、蚊遣りの煙に巻かれた虫たちのように、荒くれ者どもはうめき声をあげながらばたばたと倒れていった。…これでいい。どうせ
貴様らの出番は間もなく終わる予定だったのだからな。むしろ、後始末の手間が省けたというものだ。あの女が何者なのか、
知ることもない。己だけが何故無事なのかも、わかるまい。バクラム一の魔術師との異名を取る相手に手ぶらで挑むほど
こちらは愚か者ではないのだ。敵を知り、己を知れ…。もっとも、死にゆく貴様らには何の教訓にもならないわけだが…。
女は振り返り、追跡者たちの最期を確認しようとしていた。亡骸の山に佇む者の姿を見るや否や、一目散に駆け出し始める。
しかし、その足取りは確かに今まで以上に軽やかだった。…あの女には追っ手をほぼ壊滅させたかに見えるのだろう。だが、
こちらは生かしておく必要のない小道具を自分で始末する手間を惜しんだに過ぎないのだ。とりあえず、追われる者の恐怖と
疲労は十分に味わったはず…。これで第一幕は終了ということとしよう。
頂に近づくにつれ、樹木の丈が低くなるのはここがかつて炭鉱だったことの名残だろうか?その低い背丈の木々の間から
山にへばりつくように建つ廃墟の群れが垣間見えてくる。この先にあるのは、かつての虐殺の痕をそのままに留める街。我らが主に
とっても、因縁深い街…。
大神官モルーバ・フォリナーとの会談を終えた主から、急ぎの任務があるとのことで突然の呼び出しがあった。
着慣れた装束で大理石の敷かれた神殿に立つと、滑稽なほどに目立つものだ。多くの者は単なるニンジャの一人として
気にも留めはしないが、ごく一部、我らの存在を知る連中からの蔑みの視線。まったく…いつものことだが、任務のため
ハイムやバーニシアへ潜入しているときの方が、まだ孤独を感じずにいられる…。
崇高な理想を抱く立派な心掛けの連中には、我らの存在がひどく目障りであるらしい。まあ、確かに無理もないことだ。
我らのしていることは、解放軍の掲げる理想からはあまりに遠い。情報収集などと言えば聞こえはいいが、その本質は
単なる密偵に留まらず、破壊工作や謀略の実行者であり、捕虜に対する拷問者でもあった。つまり、彼の暗黒騎士団と規模こそ
違えど、本質的にはなんら変わりがないものだ。言わば、我らの存在自体が解放軍における矛盾であり、現実なのだ。
まさに与えられた名の通り、栄光に満ちた解放軍の『影』だった。
…なぜか、今に限ってひどく心がささくれ立つ。立派なことを唄いながら、所詮は大勢で血を流し合うことでしか物事を動かせない
連中に、大仰に説いてやりたくなってしまう。権謀術数は時として、無血で時代を動かす力を持つのだ、と。
「…閣下、お呼びとのことですが」
「来てくれたか…」
この主だ…。年端も行かぬ、だが確かにこの島の運命を左右するに足る実力を備えたこの少年。初めは義務というより、
純粋な好奇心からだった。軍を統べる自らが野心を持たないという約束を、裏切られることに馴れたこの島の民衆に
向け確約したとき、時勢は彼を中心に動き始めた。そして、その瞬間から彼は無垢であり続けなければならなくなった。
少しでも保身の動きを見せたとき、民衆の期待は『やはり、お前もそうなのか?』という疑いの視線に変わり、やがて
ロンウェー公爵のように時代への生け贄として捧げられてしまうだろう。
現実を知らぬ子供の戯言だと冷笑とともに眺めていたものの、愚直なほどに自分の言葉に殉じようとする彼が
さすがに哀れにもなってきた。取り繕うのは上辺だけでいいのだと、この少年に囁いてやりたくもなった。民衆の前では
もっともらしいことを説きながら、裏で欲しいままに振る舞うのが政治の本道なのだと教えてやりたかった。まったく、
見ていられない…。そんな思いが続くうち、いつからだろうか?この少年が汚れるかわりに自分が汚れてやればいい…、
そんな似合いもしない思いさえ抱いてしまっていたのだった。
「早速だが…シェリーさんのことで、相談がある」
「ハイムに帰還する前に、秘密裏に始末しろと?」
「冗談はよせ!」
冗談のつもりなどはない。第一に優先される選択肢を口に出したまでだった。シェリー・フォリナーには明らかに
投降の意志はないのだから。ハイムに帰してしまえば、再びこちらにその恐るべき牙を向けるだろう。だが、この主が
それを拒絶することくらいも容易に予想はついている。そして、迷うことなく予想通りの答えを返す主の潔癖さを確かめられた
ことに安堵していた。まだ、汚れてはいないな、と…。
「では、急ぎ捕縛いたしましょうか?」
「それ、なんだが…。あの人は今、とても頑なになっている。実の父親をあんな風に扱い、姉妹の言葉にすら
まったく耳を貸さなかった…。今捕らえて、解放軍の指導者という立場で無理矢理会ってみたところで
説得は難しいと思う。下手をすれば、舌を噛んだりしかねないかもしれない…」
「……私に、お任せいただければ」
ほんの少し、後悔の色が若き主の顔に宿る。しかし、提案は却下されることはなかった。
「…わかった。きみの考えるように、やってみてくれないか」
思うことがあったからこそ、己のような者がここに呼ばれたのだ。そのような状況を待つのではなく、
それを作れ、と言外に命じられたということだ。
「…御意」
「あ、待って!」
主が焦るように呼び止める。そこにあるのは主としての顔ではなく、泣き出したいのをじっと堪えるような、ただの少年の顔だった。
「…何か?」
「いつも、きみばかり…すまないと思っている」
「…!」
その一瞬、己の中のすっかり屈折し切った誇りが確かに背筋を正すのを感じた。
要は、シェリー・フォリナーにハイムの者どもが頼むに値せぬと知らしめ、自らの非を悔いてこちらに泣きついてくるような状況を作る、
そういうことだ。難しいことではない。苦痛を与え、思想や信念を曲げさせ転ばせることなど、容易いことだった。だが、あくまでそれは
言外のものだ。
事が露見すれば公式には、一部の急進派が暴走した結果、不幸にもシェリー・フォリナーに危害が加えられたということになる。
それで構わない。それもまた、いつものことなのだから。任務を始めるにあたって、事実とは逆に、ハイムからの救出部隊が
こちらに向かっているとの噂を流させた。完全な暗闇は人を殺す。だが、一筋の光明さえ差していれば、それに向かって人は歩もうとする。
一縷の望み、それが彼女を生きることへと駆り立ててくれるだろう。
「はあ…、はあ…ッ」
萎えかけた両脚を必死に奮い立たせていた。大地の加護もこれまでのようだな…。そこへわざとらしいほどに大きな足音を立て、
己は歩み寄っていった。この瞬間、顔に意図せぬ笑みが浮かんでしまったことに後から気づくが、それを消す必要もない。
さて、やっと向かい合えたな、シェリー・フォリナー…。実のところ、お前の顔はよく知っている。お前のその顔、
ハイムで幾度となく見ていた。いや、正直に言おう。お前の顔を、こちらから見に行っていた…と。
何度目かのハイム潜入の際に知ったことだった。他を圧する構えでありながら、破れるに任せた古い屋敷。朽ちかけたその屋敷に
ひどく興味をそそられ足を踏み入れてみると、身なりのいい若い女がたった一人でそこに暮らしていた。
小間使いがいないため、広々とした屋敷のほとんどに手入れが行き届かないでいるらしい。いや、ここの主は手入れをさせない
ために何者も踏み込ませたくないのかもしれない、そんな様子さえ伺わせた。近隣の者の噂を聞くと、そこはかつてフィラーハ教団の
最高実力者であり、亡き覇王の側近であった人間の住まいだという。そして、現在の主人である女も、その一族の者だとのことだった。
女は誰かに似ていた。ふと…風のシスティーナのことが頭をよぎる。自分のことをあまり語りたがらないためあまり広まっては
いなかったが、彼女の父がかつてヴァレリア国の中枢にいた聖職者だということの調べはついていた。さらに、彼女には
セリエ以外の姉がいるという話も耳に入れてあった。…そして知る。女の名はシェリー・フォリナー。かつての大神官モルーバ・フォリナーの
二女。他の姉妹と袂を分かち、父親の政敵であった現バクラム・ヴァレリア国の国主ブランタ・モウンの元へ下った者。投降と引き換えに、
その屋敷を取り戻したのだという。父や姉妹とともにいられることを放棄してまで、そこに何を求めたのかは己にはわからない。
そして、そんなものに興味はなかった。
惹かれたのはその表情だった。望んで得た孤独でありながら、それにどこか耐えきれなくなっている。そんな、愚かな
人間がこの都にもいた……。それだけでよかった。そんな人間を、ただ眺めていたかった。結局、都を離れる予定の日まで、
足しげく屋敷に通い、女の姿を窓の外から眺めていたのだった。