腐肉に突き刺さった断罪の矢。どれ程理由を挙げようと、言い訳にもならない。  
考えたくなかった。認めたくなかった。  
――そして気が付くと私は、シャシャなしでは眠れなくなっていた。  
 
 
 
 
   
 酒場の喧騒が心地いい。  
時折寄ってくる男共は冷笑で撃退し、ひとり静かに杯を傾けていた。  
さすが王都、場末の酒場とはいえ質が違う。  
カラリと揚げられた肉に各種フルーツ、ちょっとつまむつもりが  
あまりの美味しさについ手が伸びる。  
普段なら深酒の頃になっても、今夜は料理のおかげでゆっくりと酒を楽しむことが出来た。  
 
 だから、多少不愉快なことがあっても怒らない。  
たとえ目の前で、むさい騎士がナンパにしくじる様を延々と見せられても、だ。  
クルミを投げたのは、身内からせめてもの情けだと思って欲しい。  
クルミは狙い違わず後ろ頭に当たり、邪魔されたギルダスは顔をしかめながら  
こちらへと歩いてきた。  
 
「…何すんだよ。お前さんが投げたら洒落じゃ済まんだろうが」  
「そう?騎士って随分と繊細なのね」  
「そりゃそうさ。あ〜、モニカちゃんが逃げてく……」  
「…少しは、私に感謝しなさいね」  
「何を?邪魔してくれやがってありがとう、ってか?」  
「醜態を止めて下さってありがとうございます、よ!」  
 
 一瞬顔を見合わせた後、お互いぷっと吹き出した。  
違いねぇやと笑いながら、彼は私の隣に座る。  
そして追加の酒を注文し、断りもせず私の皿をつまみ出した。  
 
 カウンターに並ぶ奇妙なふたり。  
剣士特有の武骨な彼の手に、苦い追憶が甦る。  
こんな何でもないことにまで引きずって、本当に馬鹿だ。  
 あんなに美味しかった酒が、今は何故か苦い。  
 
 彼の前に注文の酒が置かれると、私達は簡単な乾杯をした。  
 
「いやー、お前さんも人が悪い。見てたんなら声かけろよ」  
「だから声をかけたじゃない」  
「クルミでな。他の奴にはやるなよ。本当に洒落にならん」  
「……そんなに痛かった?」  
「ああ。バイアン爺さんなら昏倒ものだ」  
「自重するわ。でも色ボケた頭には丁度良かったでしょう」  
「可愛い顔して相変わらずキツイな」  
 
 苦笑しながら杯に口付ける彼。  
どれだけ下卑に振舞おうとも、育ちの良さを隠せない。  
それはとても魅力的で、彼に想いを寄せる娘がかなりいる。  
付け上がるので、本人には決して教えたりはしないが。  
 
 私は曖昧な笑みを貼り付けて苦いシャシャを飲み下す。  
空の杯をカウンターに叩きつけ、もっと強い酒を注文した。  
 
 隣の彼は微かに顔をしかめるも、何も咎めない。  
ただ皿をつまみ、杯を傾け、冗談を口にするだけ。  
 気を遣われているのは重々承知。  
だがあからさまに心配するリーダーや、見ぬ振りを決め込む気障な騎士よりも  
遥かに居心地が良かった。  
 
 だから気が付いたら私は、思った以上に杯を重ねていた。  
 
「うぃー、さて。そろそろ帰るか……ってアロセール?」  
「…ん〜〜…まだ飲み足りないのよぅ〜…」  
「おいッ!潰れるなよ!」  
「へぇ〜きよう……このくら〜い……」  
 
 彼が随分と慌てた声でがなっている。  
何だか可笑しいの、と頬を緩めたところで私は意識を手放した。  
 
 ゆらゆら、暖かい。  
ぼんやりと目を開けると、すぐ横には癖のある短めの金髪。  
 
 ああ、もう逢えないと思ったのに。私を責めに迷い出てきたの?  
腕を伸ばして彼の頭を抱きしめる。  
髪に口付けを落とし、小さくごめんなさいと呟いた。  
 
「おう、起きたか?」  
「………?…」  
「謝るのもいいけど、手を離してくれや。これじゃ前が見えない」  
「…あ……、えーッ!?」  
 
 腕の中の頭は記憶のものより色が濃く、頬には髭があり。  
どこをどう見てもギルダス以外の何者でない。  
しかも私は、腰の下に彼の左腕をまわされ担がれていた。  
 彼の吐息が、胸に当たる程近い。  
 
「えッ、何で、ギルダスいるのッ!?」  
「何でも何も……あんまりうるさいと放り出すぞ」  
「いや、だって」  
「酒場で飲んだくれて潰れた。今は宿に帰る途中」  
「……もしかして、世話かけた?」  
「明日の晩メシおごりな」  
 
 ニヤリと笑う彼に、恥ずかしさが盛大に込み上げる。  
私は慌てて降りようとすると、やんわりと止められた。  
 
「もう着くから、このまま担がれとけ」  
「…悪いわね」  
「いいって。役得だ」  
 
 おずおずと彼の首に腕をまわす。  
逞しい肩、硬い腕。片手で私を抱えて少しのブレもない。  
 こうして荷物のようにとはいえ、男性に抱かれたのは何時以来だろう。  
もう思い出すのが困難な温もりが、今この確かな熱に消されてしまいそうで。  
 
 なんて、浅ましい女。  
心の中で吐き捨てると、程なくして私達は宿に到着した。  
 
 簡素な部屋の中は星明りしかない。  
相部屋だったはずのクレリックは、連日飲み崩れる私に気を遣い  
最近ではどこか別の場所で休んでいるようだった。  
 そんな無人のベッドを、彼は意外そうにすがめた。  
 
「何だ。サラはいないのか?」  
「きっと今頃誰かの相談にでものってるのよ。あの娘、お人好しだから」  
「ふーん。ま、いいけど」  
 
 手前のベッドにふわりと降ろされる。  
たわむ布団が非難するかのように冷たい。暖かな彼の腕が、離れていく。  
 
 
 嫌、だ。   
 
 私はきっと、今夜も眠れない。  
あのひとの冷たい死の感触から、逃れることなど出来ない。  
 助けて。罵られてもいい。今はこの腕を、離したくない。  
 
 私は首にまわした腕に、力を込めた。  
 
 
「……どうした?」  
「…このまま、傍にいて」  
「滅多なことを言うんじゃない。今日はもう遅いから休め」  
「どうせ眠れないわ。無茶なこと言ってるって解ってる。でも」  
「アロセール」  
「お願い……あなたのその腕を貸して」  
「…………駄目だ。離すんだ」  
「いやッ!」  
 
 引き離そうとする彼の手に、何故だか涙が溢れてくる。  
私は頑是ない子供のように髪を振り乱してしがみついた。  
 
 深夜の密やかな攻防が、ベッドを艶っぽく軋ませる。  
こぼれた涙が彼の肩に染みを作る頃、ようやく私達は力を抜いて見つめ合った。  
 
「酷い顔。美人が台無しだ」  
「…放っといて」  
「なぁ、野暮なこと聞くが…その涙は、俺のせいではないんだろ?」  
「……何よ。何が言いたいの」  
「いや、あの騎士も悪い男だな、と思ってさ」  
「――――ッ!」  
 
 驚きと怒りで一瞬息が止まる。何を言ってるの、この男。  
私が苦しんでる理由は、そんな綺麗なものじゃない。  
もっと醜悪な、自己憐憫なのに。  
 
 反論しようと開きかけた唇は、武骨な指に抑止された。  
 
「お前さんは良くやったじゃないか。なのに何故自分を責める」  
「……解りきったことを…」  
「いーや、解らないね。……理由は、彼を自らの手で屠ったから?」  
「ええ」  
「道を違えたまま、別れてしまったから?」  
「ええ」  
「…今もまだ、彼を求めているから?」  
「……ええ。そうよ、その通りよッ!」  
 
 性懲りもなく涙が溢れる。  
いい加減に止まれ。醜態を晒し続けるな。  
心の罵倒はまるで効果がなく、私は強く唇を噛みしめた。  
 彼の手が頬を包み、ゆっくりと涙を拭っていく。  
もう、目を開けることすら叶わない。  
彼の目を見てしまったら、きっと全てを吐き出してしまいたくなる。  
 
「あーあ、こんなに泣かせて……罪な男だな」  
 
 あの騎士は、と微かに囁いて、彼は私のまつげに唇を寄せた。  
 
 思いの外柔らかな唇と、まわりを覆う髭がくすぐったい。  
私が涙をこぼす。流れる前に彼が軽くキスをして拭う。  
何度も繰り返される度に、身体が軽くなるのを感じていた。  
 
「もし……あくまでも、仮定の話だが」  
「…………」  
「もし、俺がかの騎士だったらな、」  
「…全然似てないわよ。図々しい」  
「おう、憎まれ口叩けるんならもう大丈夫だな」  
 
 唇を離し、添えていた手が私の頬を横につねる。  
抗議をしようと重い瞼を開くと、皮肉に歪む口と優しい眼差しが目に入った。  
 
「ん、まあ喩え話だ。俺が彼なら……やっぱり主君を捨て置けなかったと思う」  
「…どうだか」  
「心外だな。とにかく騎士ってのは、そういう人種なんだ」  
「…馬鹿ね」  
「馬鹿だな」  
 
 つねった手に指を絡めると、反対側の腕でふいに強く抱きしめられた。  
彼の力強い鼓動が、肌を通して響いてくる。  
 
「だが俺なら、主君の過ちを正そうと足掻いただろう。結果あの悲劇を回避できた、とは  
 口が裂けても言えんがな」  
「…………ッ」  
「仕方がなかった、で済むことじゃない。だが事実はどうあれ…アロセール。  
 お前はひとりの男を救ったんだ」  
 
 背中にまわされた腕に、力が入った。  
 
「全ての尊厳を踏みにじる魔のくびきから。己が心を引き裂いてまで  
 解放してくれた女に、俺なら一生頭が上がらない」  
「……死んだら、上がる頭なんてないでしょ」  
「…ほんっとにこのお嬢さんは……。まあ、そこが可愛いのかな」  
「ギルダス?ボケるにはまだ早いわよ」  
「だって俺に涙を見られて拗ねてんだろ?可愛い可愛い」  
 
 抱きしめたまま頭を乱暴に撫でる彼。髪が盛大に乱され、私は少し息苦しかった。  
 
 彼を見上げれば、穏やかな笑みに何処か悪戯めいた光が混ざっている。  
何となく。本当に何となくだが、嫌な予感がした。  
 
「よし。その可愛さに免じて、今日はお前さんが寝るまで傍にいてやろう」  
「……う、うん。ありがと…」  
「でも俺はあんまり気が長くないからな。変なことになる前に、ほらさっさと寝る」  
 
 勢いよく布団を剥いで私を押し込み、手早く布団で簀巻きにする。  
大きな蓑虫になった私の横に、彼はどさりと身体を横たえた。  
 
 
 
 
 しばし訪れる沈黙の刻。  
ふと先程の言葉が気になって、私は彼に問いかけた。  
 
「ねえ、ギルダス」  
「何だ。まだ眠れないのか?」  
「さっきの『変なこと』って、何?」  
 緩やかに頭を撫でていた手が、ぴたりと止まる。  
怪訝に思って見つめると、不自然に顔を逸らされた。  
 
 心なしか、彼の耳が赤い。  
 
「ギルダス」  
「………だから、その、…あれだ」  
「ひとりで完結しないで。何?」  
「だから、…『腕を貸す』だけじゃ済まなくなるってことだよッ!察しろそれ位!」  
 
 さっきまでのしたり顔は何処へやら。  
いい歳した大男が赤面して叫ぶ様は……私は、変なのかもしれない。  
 
 とても愛しい、と思った。  
 
 簀巻きの上部をくつろげ腕を出す。  
熱を帯びる彼の頬に触れると、判りやすく緊張が走った。  
 
「あなたまさか、私の言葉をそのままに取ってないでしょうね?」  
「…そのままでないと、まずいだろ」  
「どうして?私そんなに魅力ないかしら」  
「そういう問題じゃない。なぁ、頼むから人をあまりからかうな」  
「からかってなんかない。でもそう頑なに拒絶されると、ちょっと傷つくわ」  
 
 少し困ったように微笑むと、彼はみるみる眉根に皺を寄せた。  
さっきは散々泣かされたのだから、これ位の意地悪は許して欲しい。  
私は身体をごろりと転がし、彼の身体と密着させる。  
そのままよじ登るように彼の上に跨り乗った。  
 
 さて、どうする?どうしてくれよう。  
 
 彼は更に赤面し視線を彷徨わせる。  
その様は、有体に言って挙動不審だった。  
指を滑らせ頬から首筋、胸へ。  
襟元にぶら下がる革紐を引き抜くと、しゅっと小気味いい音がした。  
 露わになる胸。微かに生える胸毛が汗でじっとりと光る。  
それに口付けようと屈んで……屈みきる前に彼の手で額を掴まれた。  
 
「…仮にも女性に、アイアンクローはないんじゃないの」  
「うるせぇ何しやがるッ!」  
「何って、服脱がしてキスし」  
「皆まで言わんでいい!」  
 
 近付こうとする私。離そうとする彼。  
力が拮抗し、ぐぐぐっと額が嫌な音を立てた。  
 正直、物凄く痛い。  
相手が一回り以上年下の女なのに、この仕打ちはあまりにも大人気ない。  
そして、私も。  
 
 まだ自由になる両手で彼の上着を掴み、思いっきり捲り上げる。  
厚みのある筋肉が隙なく覆う身体。  
薄い胸毛が下半身へと線を描くように流れていた。  
 
 セクシーだなぁ、とぼんやり思う。  
彼と思うがまま痴態を繰り広げたら、束の間でも楽になれるだろうか。  
そんな考えが頭を過ぎる程、私は彼の半裸に参っていた。  
 
 服が落ちてこないようぐしゃぐしゃに巻き上げる。  
片手で彼の妨害が入るが、そんなものは気にしない。  
すっかり顕わにさせた後、更にズボンの紐に手をかけた。  
 
 彼は、もう半狂乱で喚いている。  
でも悪いわね。止める気はさらさらない。  
紐の結び目が意外に固く、焦れったくて苛々する。  
もたついてたその瞬間、私は両手首を拘束された。  
 
「やッ!ちょっ、ギルダス!?」  
「だぁーもう!おイタはいい加減にしろよッ!」  
 
 掴まれた手首は前に引かれ、私は勢いよく彼の右隣に倒された。  
あっという間の形勢逆転。  
彼は腰の上に跨り、私の両手首を背中へまわした。  
きゅっと締まる感覚がある。どうやら先程解いた革紐で縛ったようだった。  
 
「!やだッ、ちょっと何してるの!」  
「こうでもしないとお前また襲うだろ!」  
「…………何よ」  
「おう。何か言いたいことでもあんのか?」  
「……痛いし、重い。…………ギルダスの意地悪」  
「うッ……だ、でもな」  
「…勃ってるくせに」  
「〜〜〜ッ悪いか!仕方ないだろ!」  
 
 体重がかかり過ぎないよう、気をつけてくれているのは解る。  
だが、尻に当たる硬い存在を隠せてはいなかった。  
 
「……そりゃあ、俺だってなぁ…」  
「?…………あッ」  
 
 ふいに彼の指が背中を撫で上げる。  
首に辿り着くとまた下へ滑り、そのまま執拗に肩甲骨の形を確かめた。  
思わず漏れ出でる嬌声。油断していた背中は、無防備に反応を返した。  
 
 彼がゆっくりと覆い被さってくる。  
重なり合う身体。触れる熱。それらが、一気に理性を吹き飛ばした。  
 
「…ん……ぁ…ッ」  
「ん、どうした?急にしおらしくなって」  
   
 唇が髪を掻き分け、耳を甘噛みする。  
熱くて湿った舌が耳朶を嬲り、言葉で私を追い詰めた。  
背中を弄る指が、脇腹へと移る。そして焦らすように上へとうごめいた。  
 その先を触れられたら、もう止まれない。  
怖れと期待で身体を震わせると、もう片方の指が私の唇に侵入してきた。  
 
「………やっ、…だめ……」  
「……ってそんないい声で啼くな。冗談だ」  
 
 悩ましく攻め立てた手と唇が、呆気なく離れていく。  
後に残るのは千々に乱れる鼓動だけ。  
恨みがましく横目で彼を睨むと、冗談が冗談でなかったことが見て取れた。  
 荒い息のまま彼は腰から降りて、私の横に再度寝そべる。  
布団を被せ直し、私の頬にかかる髪を掻き上げた。  
 
 視線が絡み合う。吐息が共有される。  
互いに欲望を抱いているのに、決して重なり合わない何か。  
そのよく解らないずれに、私は切なさと安堵を覚えていた。  
 
「…何やってるのかしらね。私達」  
「全くだ。……なぁ、もう大丈夫そうか?」  
「ん、どういう意味で?」  
「うなされずに眠れそうか、って意味だ」  
「それならきっと平気。…誰かのせいで、少し悶々としそうだけど」  
「悶えて眠れない方がよっぽど健康的だ。お互い様だから、それは我慢しろ」  
 
 彼の手がぽんぽんと、子供を寝かしつけるように肩を叩く。  
その温もりに私は身体を委ね、最後の問いを彼に尋ねた。  
 
「ねえ、どうあっても私とはしないの?」  
「本音はしたい。でも出来ない」  
「それは何故?」  
「お前さんの想いが俺に向いてないからだ。そうだろ?」  
「私……ギルダスのこと、結構好きだよ」  
「それじゃ駄目だ。もっとこう、『嫁になってやる!』 って位じゃないとな」  
 
 告げられた解に仮定の自分を想像する。  
ギルダスの奥さん。何だか喧嘩の時は命懸けになりそうだ。  
 彼と一緒に歩めたら、きっと楽しいだろう。でも。  
 
「……ごめん。やっぱり、それは違う」  
「いいって。…でも残念だな〜。覚悟があるなら明日起きれない位可愛がってやったのに」  
「よく言うわ。起きれなくなるのはそっちじゃないの?」  
「うわッ、いろんな意味であながち否定出来んのが嫌だな」  
 
 大げさに顔をしかめても、眼差しは変わらず優しい。  
そんな取るに足らない会話から、彼の心遣いを感じて胸が熱くなった。  
 
 ありがとう、ギルダス。  
 
 彼の不器用な声と屈強な腕に守られて、私は何時しか眠りについていた。  
 
 
 
 
 
 
――あのひとの、夢を見た。  
 
 いつも困ったように微笑む、私が愛した彼。  
自責に囚われ既に喪ってしまった筈の笑顔が、ここにあった。  
 
 赦された訳じゃない。彼がいない現実は、決して覆らない。  
それでも、消えず残る彼の笑顔が――――私にはただ、嬉しかった。  
 
 
 誰かが、髪を梳いている。  
くすぐったさに笑みがこぼれかけると、唇に暖かく湿った何かが触れた。  
それはすぐに離れ、布団が控えめな音を立てる。  
微かに冷たい風が入り、私を包んでいた温もりが完全に去っていった。  
 
「お前さんも難儀だなぁ……。まぁ、頑張れ」  
 
 小さく、吐息のように囁かれたエールを、私はしっかりと受け取る。  
あなたのおかげで、彼の笑顔を思い出すことが出来た。  
だから大丈夫。私は頑張れる。  
 未だ眠気で動けない身体に代わり、心で精一杯宣言する。  
その返事が届いたのか、気のせいか――彼はまた、優しく頭を撫でた。  
 
 そしてふと、戒めたままの私の手首に触れる。  
固く結ばれた革紐はなかなか解けない。  
最初は私を起こさぬよう慎重に作業していたのが、だんだん痺れを切らし  
力ずくで解こうと四苦八苦していた。  
 
 格好良く去ろうとしていたのに、最後の最後でへたる彼がとても可愛い。  
このまま彼のために起きずにいようと決意した瞬間。  
 
 ギシッ、と不吉な音がしてドアが開いた。  
 
「…………」  
「…………」  
「……ギルダス?」  
「お、おうッ!サラか」  
「……何か、弁明はあるかしら」  
「ああッ!?お前、まさか変な誤解してッ、いや、待て!!」  
「見苦しいわね。ちょっと来なさい」  
 
 絶対零度の彼女の声に、私ですら凍りつく。  
彼女には、寝込みを襲うため手首を縛る不逞の騎士、と映っているに違いない。  
いつも笑みを絶やさぬ友人の怒りは、ガーディアンをも凌ぐ圧力があった。  
 
 どうしよう。私、起きた方がいいと思う?  
私の逡巡を他所に、彼女は冤罪者を問答無用で引き摺っていく。  
弁解の叫びがあまりに憐れで、さすがに心が痛んだ。  
 
 ごめん、ギルダス。  
後で皆に弁明しとくから、それまでちょっと我慢してて。  
   
 これから始まるだろう騒動に、私は思わず溜息を吐いて目を開けた。  
 
 

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