ミルディンは1人、フィダック城の屋上で剣を構えていた。
日が傾き、空に赤みが差してくる中、城の中庭では大規模な攻城戦の演習が行われていた。
威勢のいい掛け声とともに剣や槍の空を切る音が絶え間なく聞こえてくる。
つい先日、ヴァレリアの正統なる王位継承者、ベルサリア王女から王都ハイムへの進軍が宣言され、城は活気に満ちていた。
再三にわたるベルサリア王女からのバクラムの最高権威・ブランタ・モウンへの和平交渉の提案は全て破棄された。
昨日の正午、遂に解放軍はバクラムへ宣戦を布告したのだった。
誰もが高揚した表情をしている中で、ミルディンの気持ちは晴れなかった。
もう数ヶ月前から心にもやが掛かったような状態だったが、原因ははっきりしていた。
(剣が重い…体が重い…全てが重く感じる…)
あらゆる重みに耐えきれず、ミルディンは剣を取り落とし、硬い石の床の上に膝をついた。
そのままうつ伏せに倒れこむ。もう二度と、立ち上がれない気がした。
朦朧とした頭で、ミルディンは今朝のカノープスとの話を思い出していた。
「お前なぁ、いつまでそんなツラでいるつもりだ?」
突然の詰問に、ミルディンは顔を上げた。
客間の一室で傷んだ剣の手入れをしている最中だった。
「いきなり何を言うのですか、カノープス」
「だから、いつまでそんな譜抜けた顔をしてるんだって言ってんだよ」
窓際の壁に寄りかかり、腕組をしたカノープスが窓の外に目をやりながら言い放つ。
「そのように人の顔を言うのは失礼だと思いますよ」
「俺が言いたいのはそういうことじゃねえよ、この優男。お前の顔にケチでもつけたら
俺の顔がお前のファンの女にボコボコにされるだろうよ」
「それは見ものですね」
「…冗談はもういい。分かってるだろ」
「………」
ミルディンの顔から笑顔が消え、剣を磨く手が止まる。
「俺たちがこの島に来た目的を忘れたのか?
あれを取り返すまで、ゼノビアには戻れない。」
「…それまでに何が起きても動じることは許されない。
そういったのは団長でしたね」
再びミルディンの手が動き出した。
「大丈夫ですよ、カノープス。ギルダスのことなら…」
「ならなぁ、何で昨日はセリエの言葉を流せなかったんだ?」
「………」
「お前はまだ若い。ランスロットが行方不明になり、ギルダスが死んだことを
自分の未熟さのせいだと思いたくなるのもよくわかる」
「だがな、俺たちは国王の命でここにいる。
例えこの地で絶え果てることになろうとも、果たさなければならないことがあるだろ」
カノープスが窓を開けた。客間の明かり取りのためか
守りを固めた堅固な城にはあまり見られない大きな作りの窓だった。
「ギルダスはいろいろ軽いヤツだったが、そのことはよく分かってた。
だから命を呈してデニムを守ったんだ」
「………」
「なのに、お前がそれで腐っててどうするんだって話だよ。ギルダスは――」
「…分かってますよ」
剣を磨き続けながらミルディンがカノープスの言葉を遮った。
剣はもう十分すぎるほど磨かれ、窓から入る光を跳ね返していた。
「…ならいいけどな」
そう言い捨てて、カノープスは開け放った窓から身を投げた。
姿は見えないが、遠ざかっていく微かな羽音が耳に届いた。
「………」
剣を磨く手が止まり、磨き上げた刀身に映る自分が目に入る。
その瞳は虚ろにミルディンを見返していた。
ミルディンが屋上でトレーニングをしているのとほぼ同じ頃――
ベッドに横たわり、天井を見つめながらセリエは悶々としていた。
セリエはデニムの申し入れを受け解放軍に参加し、システィーナとオリビアの二人の妹、
また元同志であるフォルカス・バイアンと再会を果たした。
更にバクラム軍に寝返ったシェリーと和解し、再び姉妹全員が無事に父と顔を合わせることができたことを
一度信仰を捨てたセリエでも神に感謝せずにはいられなかった。
その一方で、ヴァレリア解放戦線の仲間の多くが暗黒騎士団の手に掛かったことを悔い
自らの非力さを責め続けていた。
戦場にいる時は忘れることができた。
が、戦いが終わり一人になると、自責の念がこみ上げてくる。
何故彼らを助けられなかったのか。何故彼女らを守り切れなかったのか。
鬱々とした気持から抜け出せないでいた。
そのせいだろうか、昨夜酒場であのような騒ぎになってしまったのは…
「しっかし、ホントいい男よね〜」
シェリーがグラスをテーブルに叩きつけるように置きながら言った。
ハイムへの進軍が宣言されたその日の夜、血気盛んな解放軍の戦士たちは町中の酒場に繰り出し、酒を煽っていた。
それは戦いへの不安と緊張から逃れるためでもあった。
セリエ、シェリー、システィーナの三人は町の片隅の酒屋で酒を飲み交わしていた。
といっても、いつも飲みすぎるシェリーをシスティーナが監視し、
さらにその二人の妹に近づく卑しい者はいないかとセリエが目を光らせていたのだが。
彼女らの座るテーブルのすぐ近くにゼノビアのカノープス、デネブ、ミルディンが囲むテーブルがあり、
シェリーの視線はミルディンをとらえていた。
シェリーだけではない。隣の解放軍の女性陣も、酒屋の娘も、
ほぼ全ての女性の目がミルディンに釘付けだった。
彼が微笑するたびに、隣のテーブルから黄色い声が上がった。
「シェリー姉さんもああいうのがタイプなのね、意外だわ」
「何よ。私を隣にいる女たちといっしょくたにしようって言うのぉ?」
「はいはい違いますー。それより飲みすぎよ、姉さん」
セリエもミルディンを見ていた。彼女がボード砦で暗黒騎士に襲われた時、
彼は有翼人のカノープスとともに真っ先にセリエの元に駆け付け、敵から身を守ってくれた…らしい。
敵の術にかかったセリエはあまり覚えていなかった。
暗黒騎士団を撃退した後、セリエが礼を述べても、彼は何も言わずにほほ笑むだけだった。
それまで殺伐とした環境にいた彼女に、その笑顔は妙に心に残った。
本当に久しぶりに、心からの安堵を覚えたのだった。
しかし、今セリエが盗み見ている微笑はボード砦で見たものとは全く異なっていた。
表面上は変わらないが、瞳が笑っていない。どことなく冷たく、憂いに満ちていた。
「まぁ男はやっぱり顔よね、性格はその次よ、次」
「そう?私はそこまでいいとは思わないけどなぁ…」
「あんた、そういえばフォルカスくんは?一緒にいてあげなくていいのぉ?」
「ち、違うわよ!フォルカスは今バイアンに付き合ってるから、その後で―」
「その後?その後どうするのよ。ん?」
「もーっ、シェリー姉さん!!」
顔を赤らめて抗議するシスティーナの声が聞こえたらしい。
ゼノビアの一行が一斉にこちらを見る。
「あらぁ?4姉妹ちゃんお揃いで…って、水の末っ子ちゃんは??」
「バカ、お前、ここは酒場だぞ」
「せっかくだし、アタシたちと一緒に飲みましょ、ネ?」
隣の女性陣の恨めしげな視線を浴びながら、姉妹たちは席を移動した。
シェリーが素早く空いていたミルディンの横を陣取る。呆れながらシスティーナがその隣に座り、セリエが続く。円卓を六人の男女が取り囲む。
咳払いをして、システィーナが口を開いた。
「みなさん、何の話をされていたの?」
「そりゃこっちが聞きたいけどな、お嬢さん」
カノープスがニヤニヤしながら冷やかし、他の四人もクスクスと笑う。
システィーナの顔が再び真っ赤になった。
「私の話なんてどうでもいいです!からかわないでください!」
「悪い、悪い。そんなに怒るなって」
「そうよ、女たるもの堂々としてなきゃネ、一番上のお姉さんみたいに?」
「全くだ。まだまだだな、システィーナ」
セリエの言葉に全員が吹き出した。システィーナも笑った。
周りの客もかなり酒が回ってきて、狭い酒場に怒声が飛び交いだした。
「ゼノビアの皆さぁん、ここヴァレリアの酒は口に合いまして?」
シェリーが甘ったれた声を出しながらグラスを口に運ぶ。
「そうだな、ここのも美味いが、ゼノビアの名酒には勝てないかな」
「こんなこと言ってるけどカノぷ〜ったら飲み過ぎて、うまく飛べなくなったことがあるのよ〜」
「うるせー!余計なことを言うんじゃねーよ!」
「…飲み比べるほど飲む暇がないのです、これだから」
大げさにため息をつくミルディンに、シェリーがにじり寄る。
「あら、じゃあ飲んでみる?ここにあるとびっきり上等なシェリー酒を…」
「姉さん!!」
システィーナの声は酒場の喧騒に飲み込まれた。
ミルディンが笑いながらシェリーの空いたグラスに酒を注いだ。
「それでしたら、喜んで樽一杯飲もうとする男がいましたけどね」
「なぁにそれ、やれるもんならやってみろって感じだわ」
「まぁ、こんなん飲んだら腹壊しそうだけどな」
「なによぅ、鳥に飲ませる酒なんて一適もないわよ!」
「て、テメー言わせておけばっ…!」
「カノぷ〜、女の子に向かってそんな言葉使っちゃダメよ?」
「シェリー姉さんも、もう飲んじゃ駄目よ」
賑やかな談笑が続いていたが、セリエはミルディンの目が相変わらず笑っていないことに気がついていた。
それどころか、さっきより一段と冷たくなってしまったように見える。
ミルディンの言った男が誰なのかは分かっていた。
セリエ自身は会ったことはないが、その男についての話はいくつか小耳にはさんでいた。
ゼノビアから訪れた五人のうちの一人で、暗黒騎士団のライム侵攻の際に命を落とし、
変わり果てた姿で自分たちの前に立塞がった、とデニムは心底辛そうに語った。
その話を思い出しながら、セリエはミルディンに対して
だんだんといら立ちが募ってくるのを感じた。
「まぁ、その男がシェリー酒に口をつける前に、私がグラスをひったくるけどな」
少し挑発的な声をかけた。
ミルディンは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「どうでしょうか?そう簡単に酒を手放そうとする男ではありませんよ」
「ならばそいつはかなりのやり手ということか?」
「そうですね、女性随一の槍使いである貴方でも、苦労するでしょう」
自分でも理解できない怒りが込み上げ、感情に任せた言葉が口を切る。
「それはそれは、ぜひともお手合わせ願いたいな。生きていたらの話だが」
ミルディンが黙ってグラスに口をつける。そのグラスは空だった。
酔いつぶれたシェリーの隣で、システィーナが不安そうな目で二人を眺める。
デネブは髪に手をあてて面白そうに二人の顔を交互に見比べ、カノープスはミルディンじっと見ている。
これ以上その話をするのはやめろと言っているようだった。
「しかしこの戦乱で倒れたところからすると、その程度の男だったということだな」
セリエの一言に、酔っぱらってぼんやりとしているシェリー以外の全員が固まった。
酒場はいよいよ騒がしくなり、あちらこちらで大きな笑い声がおこる中、
このテーブルだけ空気が凍りついてしまったようだった。
しばらくして発せられたミルディンの声は、氷水のように冷たかった。
「…そうかもしれませんね、しかしその男は他者を守るために戦い、命を落としました」
「やめろ、ミルディン」
カノープスの言葉を無視して、ミルディンがセリエを見据えて続けた。
「…どこかで仲間を皆殺しにされながら、一人だけ助けられた女と違ってね」
セリエは手にしたグラスを床に思い切り投げつけた。
グラスが砕け散り、賑やかだった酒場は一瞬で静まり返った。
誰もが振り向き、聞き耳を立てた。
「…貴様、それは私のことを言っているのか?
あそこでただ一人生き残った私のことを?」
「姉さん…」
システィーナが泣きそうな顔でセリエをなだめた。
「セリエ、落ち着いてくれ。ミルディン、お前はすぐにここから出ろ。今すぐにだ」
「まだ飲み足りないのですがね…」
ミルディンが立ち上がった。肩を震わせるセリエをちらりと見て、鼻で笑った。
その瞬間、セリエが勢いよく席を立った。
テーブルの上のグラスが倒れて中身をぶち撒け、派手な音を立てて床に落ちた。
一気に酒場がどよめく。
テーブル越しにミルディンに掴みかかろうとしたセリエを、システィーナとカノープスが
すんでのところで抑えた。隣の席から悲鳴が上がった。
「待て、貴様!今の言葉をもう一回言ってみろ!!」
血相を変えて、セリエが叫んだ。
「姉さん!やめて!」
「おい!ミルディン!何考えてんだ!!」
ミルディンは何も言わずに席から離れ、酒場を出て行った。
「待て!!!」
抑えていた二人の腕を振りほどき、わめきながら外に飛び出した。
が、店に入ろうとしていたフォルカスと衝突し、セリエはばったりと倒れた。
すぐに立ち上がり後を追おうとするセリエをシスティーナが捕まえ、
状況のよくわからないフォルカスも加勢し二人がかりで抑え込んだ。
地面に抑え込まれたセリエはしばらくの間逃れようともがいていたが、
次第におとなしくなり、動かなくなった。
「セリエ姉さん…」
「……う、うう、ううう…」
システィーナが声を掛けると、セリエから涙交じりの声が漏れ出した。
一連の騒ぎを酒場にいる客全員が黙って見物していたが、
一人、また一人と話し始め、再び酒場は騒がしくなった。
酒屋の娘があわてて床にこぼれた酒をふき取り、割れたグラスの破片を拾い集めた。
「…若いなー……」
道端で泣き声を上げるセリエを見ながら、カノープスがしんみりと呟いた。
「年寄りのカノぷ〜には理解できないかしら。青春よ、せ・い・しゅ・ん?」
「お前に言われたかねえよ!それにありゃぁ青春とは言わないだろ…」
椅子にどっかりと座りこんで、カノープスがため息交じりに呟いた。
「ったく、ミルディンの奴…」
酒のこぼれたテーブルに突っ伏して、
何も知らないシェリーが気持ちよさそうに寝息を立てていた……。
――その後どうなったかは、あまり記憶にない。
システィーナとフォルカスに支えられてこの部屋に戻り、押さえられない怒りに任せ一人で酒を飲み、
気が付いたら朝になっていた……という情けない自分に昨日のミルディンに対する以上の嫌悪感を抱く。
(もう、失った仲間のために泣くのはやめようと誓ったのに)
窓の外を眺めると、日は傾き薄い赤に染まりかけた空がどこまでも続いている。
城に目を移すと城壁のそばに僧侶の集団が見えた。
セリエは遠目から輪の中心にオリアスと話すオリビアの姿を見とめた。
(オリビア……)
自分と十歳近く年の離れた一番下の妹は賢く、いつも冷静で、決して泣き言を言わなかった。
セリエたち三人の姉がフィラーハ教団から離れた時も、率先して団員たちの混乱を静めるために尽力したと、
和解した教団の幹部に聞いた。
(その後父上まで出ていかれて、実質家族全員を失ったのに、
あの子は一人で教団をまとめていた…私達が帰ってくると信じて……)
僧侶たちは話しを中断して、城から現れた人物に深々と頭を下げた。
ブレザンス神父が二人に歩み寄った。
(神父様も辛い過去をお持ちなのに、先頭に立って治療にあたっていらっしゃる……
オリアスも、実の父に兄をあのような姿にされたにも関わらず、いつも優しい笑顔で皆を気遣って……)
誰もが心に深い傷を抱きながら、それを表に出すことなくこの戦争の終結を求めて戦っている。
その傷を隠せない自分にセリエはため息をついた。
(――彼、彼は私と同じ。傷を隠しきれていない)
セリエはミルディンと再会した朝を思い出した。
解放軍に入隊した翌朝、セリエは作戦会議の前にボード砦の件で礼を言おうと
窓の外を眺めるミルディンの背中に声を掛けた。
『あの時はありがとう。改めて礼を言うわ』
ミルディンが振り向いた。その顔はセリエを見て、にこやかに微笑んだ。
『…礼には及びません。あなたが無事でよかった』
その時の笑顔に違和感を覚えた。かつて自分を絶望の淵から救ってくれたあの暖かみは影を潜めていた。
それは悲哀すら感じさせるほど、弱々しい笑顔だった。
後にシスティーナから、彼がガスガスタンの悪名高い屍術師二バスの手により死霊と化した相方を、
自らの手で葬ったと聞いた。その時に彼もまた、心に大きな傷を負ったに違いない。
彼は自分と同じで、今でもその過去に囚われている。
(彼を見ると、まるで情けない自分を見ているよう。だから――)
「…最低だな、私は」
セリエは外にいる僧侶達から目を離し、体を起こしベッドから降りた。
大きく伸びをすると、身体中の関節がみしみしと音を立てた。
(まだ、間に合うだろう)
髪を整え、壁に立て掛けた薄紅色の槍を取り、セリエは部屋を後にした。
中庭の演習の熱気は最高潮を迎えていた。
石床に倒れてからかなり時間が立っていたが、ミルディンは仰向けに寝転がったままだった。
日は暮れて、空は夕日に赤く染まっている。あまりの赤さに視界全てが赤みがかって見えるほどだ。
(…不吉な、しかし美しくもある)
ぼんやりと考えていると、床からかすかな振動が伝わってきた。
それと共にコツコツという足音が耳に入る。
足音は真っ直ぐにこちらに向かってきて、ミルディンの頭の手前で止まった。
目をあげると夕日に赤く染まった艶やかな黒髪に縁取られた、
端正な作りの顔がこちらを見下ろしていた。
槍を携えたセリエが口を開いた。
「武器を投げ出したまま寝転がるのが、ゼノビア流の休憩なのか?」
ミルディンが気だるそうに体を起こす。
「…何かご用ですか?」
「少し付き合ってほしい」
「……?」
「剣を受け流す訓練だ。そこら辺の雑兵では、相手にならないからな」
「…それは光栄ですね」
立ち上がり、愛剣を拾い上げる。驚くほど軽いその剣を二、三度片手で回し、しっかりと握り直す。
刀身が日差しを跳ね返し、鋭く光った。
セリエも槍を構える。夕日に赤く染まったその姿は、通り名の如く燃え上がる炎を彷彿とさせた。
「わかりました、お付き合いしましょう」
「悪いな、休憩中に」
「かまいませんよ、また直ぐに休憩にしますから。ゼノビア流のね」
二人は睨みあったまま、間合いを計っていた。
ミルディンが先に仕掛けた。セリエも素早く反応する。
鋭い金属音が屋上に響き渡った。
「…わかった、私の敗けだ。剣を降ろせ」
石床に横たわったセリエが悔しそうに呟いた。
喉元に突きつけられた剣が、ますます屈辱感を煽った。
ミルディンは無言で剣を降ろし、鞘に納めた。
日は既に沈み、夜空に仄かに輝く月と、静かに瞬く無数の星々が姿を現していた。
剣を槍で受け流す訓練が、剣と槍の真剣勝負に変わるまでにそれほど時間はかからなかった。
激闘の末、ミルディンの一撃を受け損ねたセリエが弾き飛ばされて尻餅をつき、
起き上がる間もなく剣を顔に突きつけられたのだった。
「いかがですか、ゼノビア流の休憩は」
「…それとは違う。私は武器を捨ててはいない」
「そういえばそうですね」
握られたままの槍を見て、ミルディンは大袈裟に驚いて見せた。
いつの間にか下で行われていた演習も終わったらしい。
後片付けに追われる兵士たちの声が微かに聞こえた。
「槍術に関してはあまり詳しくはありませんが、素晴らしい槍さばきでした。全く隙がない」
「…だったら、今ここで倒れているのはお前のはずだが」
自分を見下ろす男は異常なまでに俊敏で、後半のセリエは彼の動きについていくのに精一杯だった。
クスクスと笑いながら、ミルディンはセリエの横に腰をおろした。
そのまま仰向けに寝転がる。
二人は並んで石床に横たわり、星を眺めた。
「これで少しはお気に召せば良いのですが」
「…くだらない」
後片付けを終えた兵士たちが城内へ引き上げていく。
長い沈黙の後、セリエが口を開いた。
「…昨日はごめんなさい。酷いことを言って」
一呼吸おいて、ミルディンが答えた。
「謝らないで下さい。お互い様ですから」
ひんやりとした夜風が火照った二人の体を冷ました。同時に二人の心の蟠りも取り去って行く。
穏やかな時が、セリエの胸の枷をゆっくりと外していった。
「……私、嬉しかったのかもしれない。周りは皆強い人ばかりで、
私一人が過去の出来事から立ち直れないでいたと思っていた時に、貴方が現れて」
星空を眺めながら、セリエは話を続ける。
「貴方が私と同じように、過去の過ちを悔い続けているのは直ぐにわかった。
それに気がついてから、貴方を見ていると、自分だけじゃないという安心感を得る一方で、
弱い自分を見ているような気持ちになって、腹がたって…」
最後は涙声になりながら、彼女は己の心中を吐露した。
「…情けない。仲間を守れなかった自分が。その責任を背負いきれない自分が。本当に…」
嗚咽を漏らすセリエの肩に手を触れ、ミルディンは子どもをあやすようにそっと撫でた。
慟哭を上げ、隣に横たわるミルディンの体に身を寄せる。
そんなセリエをミルディンは優しく抱きしめ、小さな声で呟いた。
「自分を攻める必要はありません」
それは、自分に対する言葉でもあったのかもしれない。
セリエはミルディンの腕に抱かれて、泣き続けた。
数分後、セリエはミルディンから離れた。
涙を拭き、体を起こしてすっと立ち上がる。
「…もういいんですか」
「ええ、大丈夫よ。悪かったわね、付き合わせて」
「こちらこそ。いい訓練になりましたから」
差しのべられた手をとり、ミルディンが立ち上がった。
月明かりに浮かび上がるセリエの姿は、仄かに揺らめく蝋燭の炎のように儚げだった。
「あの……また今度、お願いしてもいいかしら」
ためらいがちに尋ねるセリエを見て、笑いながらミルディンが応じた。
「お望みなら、いつでも慰めてあげますよ」
「…そんなの、こっちから願い下げよ。訓練に付き合ってほしいって言ってるの」
「残念ですね」
話を茶化す男に背を向け、セリエは城内につながる階段に向かって歩き出した。
「……ありがとう」
振り返らずにそう言い残して、セリエは階段を降りていった。
携えた槍の先が見えなくなるまで、ミルディンはその姿をじっと見つめていた。
王都ハイムを解放軍が制圧したその夜、ブランタの支配を解かれた市民は王女の復権を喜び、
町中が祝賀ムードに包まれていた。
中でも解放軍の戦士達は英雄と持て囃され、行く先々で嵐のような歓迎を受けていた。
そんな中、町の喧騒から逃れるかのように城内に忍び込む一組の男女の影があった。
二人は雑談を交えながら階段を登り、兵士用の小さな宿舎のひと部屋に入る。
女は窓の側のベッドに腰掛け、男が静かにドアを閉めた。
「疲れたわ、やっと休める」
「飲み足りないんじゃないんですか、途中で抜け出して」
「貴方が晩酌に付き合ってしてくれるんじゃないの?静かな所に移動しようと言い出したのは――」
「分かりましたよ」
そういいながらミルディンは棚からグラスと酒の入った瓶を下ろした。
セリエはそんな彼の動作を酒に酔ってとろんとした目で眺めていた。
黒のニットに鎧の下に身に付けているズボン。酒で鈍った頭でも、
その下にあるしなやかな筋肉に覆われた体を鮮明に描くことができた。
同時に羞恥を覚え、その想像をさっと振り払った。
フィダック城での一件以来、二人はほぼ毎晩、訓練と称した実戦さながらの真剣勝負に明け暮れていた。
結果は大抵ミルディンに軍配が上がったが、一昨日の晩はセリエがミルディンの手から
剣を見事に弾き飛ばし、白星を上げた。
その時のミルディンの苦々しげな表情を、セリエは忘れられなかった。
「そんなに飲んで大丈夫なの?今はいいかもしれないけど明日が辛いわよ」
「酒には強いので。それに、まだ今日の戦闘で切りつけられた所が痛むんです」
両手に控えめに酒の注がれたグラスを持ってミルディンはセリエの横に腰かけた。
ベッドが大きく沈む。
「明日になれば痛みもほぼとれるらしいですから、今夜はこれで誤魔化そうと思いましてね。」
セリエは差し出されたグラスを受け取り、一気に飲み干した。
「確かにリンチ状態だったものね。敵側のテラーナイト三人に囲まれて」
「いくらなんでも三対一は苦しいですよ。それに彼らはどうも苦手で…」
「私が文字通り横槍を入れなかったら、貴方とっくにくたばっ…」
突然伸びてきた右手にセリエの口がそっと塞がれた。
「やめなさい」
悪戯っぽく笑いながらミルディンが言う。その笑顔にかつての憂いは微塵も感じられない。
セリエは顔が火照るのが分かった。彼の手が自分に触れている。それも唇に。
しばらくしてその手は右の頬を滑り後ろ髪に回り、首から背中へと流れるように滑った。
そのまま強引に抱き寄せられた。
「それ以上言うのでしたら、こちらも黙っていませんよ」
耳元で囁かれて、思わず体がびくりと震える。
相手の体から伝わる心拍が余りにも穏やかで、早鐘のようになる自分の鼓動が恥ずかしくなる。
少し体を離し、ミルディンの目を正面から見据えてセリエは尋ねた。
「何をしてくれるのかしら、ひ弱な騎士さん」
燃えるような瞳にたじろぎもせず、ミルディンがさらりと答えた。
「もう二度と、そのような軽口を叩けないようにして差し上げましょう」
そう言い終わらないうちに、セリエはベッドに押し倒された。
「…ぅふう…ぅぁ…」
濃厚なキスのあと、首筋を這い回る舌の感覚にセリエは声を漏らす。
全身を撫でまわされ、セリエの体は絶え間なくびくびくと跳ねた。
「…まだ何もしてませんよ?」
「ぅ、うるさぁっ…ぃやあっ…!」
唐突にミルディンの口がセリエの右耳をくわえだ。
舌を穴に侵入させ、ねちゃねちゃと音を立てて舐め回す。
「いやぁっ!あっ、ゃ、やめっ…!」
激しく身を捩らせて抵抗しようとするが、覆い被さる体はびくともしない。
それどころか、全身をまさぐっていた手が服の留め紐を外し、緩くなった胸元の隙間から侵入してきた。
「な、何を……んっ!」
激しい詰問は唇で塞がれてくぐもった呻き声に変わった。
その隙にミルディンはセリエの紐がほどけて緩くなった服を間繰り上げ、下から豊かな胸をつかんだ。
激しく息を飲むセリエを見て目を細めながら、両手に掴んだ膨らみの尖端に人指し指で触れた。
「……!!んーっ!!!んんーっ!!」
目に涙を浮かべるセリエを見てミルディンは唇を離す。
人指し指は胸の先端の突起を弄んだまま。
「んー…っあっ!!いやあぁっ!んぁっ……ぁああっ!やめっ、やめてぇ…っ! 」
余りに激しい刺激に耐えきれず、懇願の叫びが漏れる。
胸への刺激がそのまま下半身への刺激に代わり、下腹が疼く。
セリエは無意識に腰を相手に擦り付けていた。
「…可愛いですね」
胸から手を離し、体を起こしながらミルディンが呟いた。
「……黙れ」
ようやく解放され、息を荒げながらセリエが言い返す。
しかしそれは弱々しい呻き声に過ぎなかった。
「まだそんなことを言っているのですか?」
そう言いながら、下着の上からミルディンの手がセリエの秘所を撫で上げる。
「ひゃんっ…!」
自分でも聞いたことのないような甘ったるい声が飛び出し、セリエは思わず口に手を当てた。
「口では嫌そうですけど、本当にそう思っているのですか?この体は…」
「ば、馬鹿!そんな…ぁっ…!」
ミルディンの中指がセリエの中に入り、蠢いていた。
少し動くだけでぐちゅり、と厭らしい音をたてる。
「ぁんっ…ぅあっ…」
「聞こえますか?」
「…お願い…ゃめてぇ……ぁっ…!」
「嫌です」
「そんっ…なぁ……ああっ!」
セリエが一際大きな声を上げた。ミルディンがもう一本指を入れたのだ。
そして先より大きな動作でゆっくりと二本の指を出し入れする。
腰の辺りがじんわりと暖まってくるような感覚に、
セリエの頭は完全に支配されてしまった。
「あぅっ……っ…なっちゃぅぅっ…」
「え?何ですか?」
「ダメ…ぉ、おかしくなっちゃぅ…あっ…!」
「おかしくなっちゃう、ですか…」
ミルディンはニヤリと笑い、セリエの耳元で囁いた。
「おかしくなった貴方が見たい」
そう言うなり、彼は指の動きを急激に早めた。
「ぃあっ!?ゃっ、いやあああああああッ!!!」
突然セリエの体が弓なりに反り、激しくびくびくと震えた。
侵入してきた指を離さまいと、溢れでる蜜とともにきつく絡み付く。
同時に信じられないほどの快感がセリエを飲み込んだ。
「ああっ……はぁ、はぁ…」
ミルディンが指を止めると快楽の波は嘘のように引いていった。
セリエは荒く呼吸をしながら、自分の上にまたがる男を睨み付けた――つもりだったのだが、
男の目には好物を目前にお預けを食らった子どもの憐れっぽい瞳にしか映らなかった。
「なかなかいい顔になってきましたよ」
「……覚えていろ……」
「ご心配なく。忘れるはずがありませんから。セリエ、貴女もね…」
ミルディンが自分のベルトに片手をかけた、その時―――
「姉さーん!セリエ姉さーん!」
セリエがガバッと身を起こした。
その勢いでミルディンの顎に思い切り額をぶつけたが、痛みを感じる余裕もなかった。
城の中に響き渡ったあどけない声が、二人を一気に現実に引き戻した。
「姉さん、寝ている人がいるかもしれないんだから静かに…」
「どこに行っても暖かいワインとふかふかのベッドがタダで提供されるのに、
こんな陰気な宿舎で寝る変わり者なんていないわよ」
その変わり者であるセリエは凍りついた。
(オリビア、システィーナ…!)
理由はわからないが、妹二人が自分を探している。
しかも話し声と足音はどんどんこちらに近づいている。
(どうしてこんな時に!!)
こんな乱れた姿を妹たちに見せるわけにはいかない。
しかし狭いこの部屋にあるのは食器と酒が入った棚と小さなテーブル、
そして今まさに二人が寝ようとしていたベッドがあるのみで、隠れられる場所はなかった。
今起きたふりをして、二人が入ってくる前にミルディンを残して先に部屋をでようか、
しかしほどけた留め紐を見て二人がなんと言うだろう。
思いきって窓から外に逃げ出そうか、しかし宿舎の窓は縦に細長く
とても人が通れる大きさではない。それにここは四階だ。
「どこにいるのかしら、セリエ姉さん。神父様が城に戻っていくのを見たと仰っていたのに」
「きっと寝てるのよ。うるさいところはあまり好きじゃないでしょ。」
(どうすれば―――)
完全に動揺したセリエは、とりあえずベッドから降りようとして足を動かした。
(セリエ!)
(え?)
ミルディンの制止も間に合わず、セリエの足が何かに当たり、ベッドから転がり落ちた。
カァ―――――――――――――ン!!!
「キャ――――――――ッ!」
城中に不気味な金属音と、甲高い女の悲鳴が響き渡った。
セリエが愕然としてベッドの下を覗くと、先ほど自分が中身を飲み干した
金属製のグラスがカラコロと音をたてて転がっていた。
「な、何よ今の音…まさか、お、おば、お化け……?」
「連日お化けに槍を振るってる姉さんが何で怖がるのよ」
「だって、いつもと状況が違うし……」
「お化けじゃなくて、何かが床に落ちた音よ。
あの部屋から聞こえたわ。セリエ姉さんよ、きっと」
セリエはいよいよ慌て、近づいてくる足音を聞きながらどうすることもできない。
足音が部屋の前で止まる。扉をコンコンと叩く音がした。
(もう、お終いだわ……)
観念したセリエを、何かが強く引っ張った。
「セリエ姉さん?」
ノックした扉をオリビアが開けると、そこには誰もいなかった。
北側の壁に食器棚が設置され、テーブルの向こうに白いベッドが見えた。
「……」
「どう?寝てる?」
「………ううん、誰もいない」
「……え?」
「やっぱりお化けだったのかも…」
「…や、やめてよオリビア…」
「……ほら!あそこに白い―」
オリビアの言葉は、システィーナの悲鳴と部屋から走って離れる足音にかき消された。
部屋から出て扉を締め、オリビアはため息混じりに呟いた。
「もう、姉さんったら…」
そして、足音は部屋から遠ざかっていった。
セリエは安堵のため息をついた。
オリビアが扉を開ける直前に、ミルディンがセリエを抱えて
音もなくベッドの下に潜り込み、シーツを引き下ろして身を隠したのだった。
目の前のテーブルのお陰で、扉の辺りからベッドの足元はよく見えなかったはずだ。
「ありがとう、助かったわ」
腰周りを抱え込まれたままなのが気になったが、とりあえず礼を言うセリエ。
しかし、ミルディンはクスクスと笑うだけだった。
床に腹這い状態で、少し動くだけで頭や背中がベッドに当たる。
身を捩ってベッドの下から這い出そうとするが、腰に回された腕は離れなかった。
「ちょっと、離しなさい。狭くてかなわないわ」
「ああ、すみません。…フフッ」
「いつまで笑ってるのよ!」
「いや、貴女を笑ってるのではありません。少し面白い話を思いだしましてね」
「…思い出し笑い?はしたないわね…」
狭いベッドの下でなんとか首を回し、ミルディンの方に顔を向けた。
「どうせ、ろくな話じゃないんだろう」
「そうですね…、昔、今と全く同じ状況に出くわしたことがあるんです、同僚の」
「同僚…?」
ミルディンがにこりと頷いた。
「ゼノビアがまだ帝国の支配下にあった頃、我々革命軍は毎日、帝国軍と戦っていました。
彼は戦争の終盤で我々の軍に加わったのですが、大胆で豪快で、女に目がない男でした」
ミルディンの顔が一瞬だけ曇ったのをセリエは見逃さなかった。
(ライムで死んだ、あの男のことか―――)
ミルディンは穏やかな調子で話を続ける。
「私は彼と同じ部隊に配属され、我々は腕を認められて部隊の指揮を任されるようになりました。
それから一緒に杯を交わす仲になったのですが、ある拠点の町で宿をとりました」
「相部屋か、なるほど」
「冗談じゃない、部屋は別でしたよ。夜更けに私は明日の敵の拠点を攻める
進行ルートの案をまとめて、確認するために彼の部屋に行きました」
「……そしたら、部屋には誰もいなかった、と」
「そうですね、ちょうどこの部屋と全く同じでしたよ。
…ベッドの足元から毛むくじゃらの足が覗いていた点を覗いてね」
「……フンッ…フフ…」
「気づかなかったふりをして部屋に戻りましたが、我ながらよく笑わずにいられたなと」
「フフフ…」
顔を見合わせて、二人は笑い合った。セリエの腰に回された腕に力が入る。
「貴女はどうですか?足がはみ出していませんでしたか?」
「大丈夫よ。それより、腕を離しなさい」
「また妹さんが戻って来るかもしれませんよ」
「そんな、いや、まさか……」
セリエが不安そうな声を漏らす。
「貴女が困っていたから隠れましたが、私は知られても構いませんし。
なんなら、私がお二人をここに連れてきましょうか?」
「なっ、そんなことしたら許さ…!」
「声が大きい」
狭いベッドの下でミルディンがセリエを抱き寄せた。
「もう少し、このままで」
「……ええ」
重ねあった唇は、すぐに離れた。
二人はそのまま、静かに目を閉じた。