「我が人生最悪の日々」(東谷×こずえ)  
 
低いエンジン音に気付き、東谷千明は目を覚ました。  
頭が重い。  
先程まで喧騒の居酒屋にいたはずなのに、いつの間にやら辺りは静かになっている。  
 
「でね、せっかくだから明日は海でも行こうって千尋が。」と女の声がする。  
「ああ、あの夏行けなかったしな。」と男の声―――。  
 
(そっか、オレ同窓会で潰れて。)  
それで小林健吾の車のお世話になっているのだ、と思い当たる。  
かろうじて薄目を開けると、同じく寝てしまった坂上こずえの姿があった。  
 
(情けねぇな、おい)  
頭を起こす気力もなく、東谷は再び目を閉じた。  
 
月の始めに彼女に振られた。  
内定を蹴って高校の体育教師を目指すと言ったら、応援されるどころか「信じられない」とばっさり切られた。  
ショックから立ち直りかけたところで、彼女が男と腕を組んでいる現場に遭遇したのが週の始め。  
そして今日、初恋のマドンナ・向井ゆりに逢えると喜び勇んで出掛けたクラス会で、彼女がすでに既婚者だと知った。  
 
まるで月に三度も失恋した気分でいたら、こずえに掴まりひたすら飲まされ、今に至るというわけで。  
酔いが抜けてくる程、自分の醜態が思い出されて「穴があったら入りたい」気分だ。  
 
運転席と助手席では、そんな彼の気も知らないカップルが暢気な会話を繰り広げている。  
「明日早いし、泊まってくか?」  
(随分とさりげないな、おい。)  
「うん。最初からそのつもりで母に話してるから。」  
(最初から…って!親はそれでいいのか?)  
「吹雪、水着は?」  
(あーもう、普通に呼び捨てだし。小林のヤロウ…)  
「アンタん家に置きっぱよ?ほら、こないだ海に行ったときのまま。」  
(半同棲かよ!)  
当人たちには普通の会話なのだろうが、失恋モードの自分にはやたらと癪に触る。  
 
大体、小林健吾という男はいつもそうだ。  
身長がそう変わらないのに、何かがあるといつも頼りにされるのは彼。  
スポーツ関連のイベントで注目されるのも、女子からきゃあきゃあ騒がれるのも彼。  
東谷がゆりに振り向いてもらえなかった時も、気付けば好きな女・小林吹雪を振り向かせモノにしていた。  
実力以上の力を発揮し彼女と同じ国立大に入り、同窓会では彼女をきちんとエスコートしてあらわれる。  
でもって、酔い潰れたクラスメイトを送って帰るという任務をきっちりこなす。  
彼女にばっさり振られ、酔い潰れ果てた自分とは雲泥の差だ――。  
「ちっくしょー…」  
 
思わず漏れた独り言に、助手席の吹雪が振り向いた。  
「あ、東谷起きたの?大丈夫?」  
はい、と清涼飲料水の入ったペットボトルが渡される。  
ごくごくと飲み干すと、頭が少し軽くなった。  
どうやら外は駅前らしく、車はノロノロ進んでいる。  
 
「坂上ん家に先に着くから、お前はしばらく寝てろ。」  
前を向いたまま健吾が発した一言が、なぜか癇に障った。  
「いや、俺はここでいいよ。駅すぐだろ?」と、シャツの襟元を正す。  
「坂上もオレが送っていくからさ。2人はもう帰りなよ。」  
 
なんともタイミングよく目を覚ましたこずえの腕を掴むと  
危ないだの、せめて最寄駅までだの引き止めようとする小林達を制して車を降りる。  
呆れ顔の健吾に「ちゃんと送るんだぞ」と釘を刺され、またムカっときた。  
(お前は自分の彼女の心配でもしてろよ!)  
大人げないとはわかっているが腹が立つのは止められず、半ば怒ったまま駅に向かって歩き出した。  
 
足元がおぼつかないこずえを腕につかまらせ、駅に向かって歩く。  
歩き出したうちこそ意識をしっかりさせていたが、さすがに飲みすぎたらしい。  
10分ほど歩いたところで「苦しい」と呟くと、彼女は道端に座り込んでしまった。  
 
これはまずい。  
しかし小林達の前でカッコつけた手前、呼び戻すわけにもいかない。  
見る見るうちにこずえの顔色は悪くなっていった。  
「吐きそうなのか?」「タクシー呼ぶか?」と声をかけるが、黙って首を横に振るばかり。  
(どうしろってんだよ…とりあえず休めるところは…)  
辺りを見回した東谷の目に、お約束の場所が飛び込んできた。  
お城然としたその建物には、どぎついピンク色の文字でこう書いてある。  
「ホテル・ラブキャッスル」と―――。  
 
(愛の城かよ!)  
安直すぎるネーミングに突っ込んでいる場合ではない。  
ままよと覚悟を決め、こずえを担ぎ上げると彼は城に突入した。  
 
部屋に入るとベッドに彼女を座らせ、吹雪にもらったペットボトルを持たせる。  
「どこが苦しいんだ?」と聞くと、こずえは黙って胸元を押さえた。  
どうやら吐き気はないらしい。  
(とりあえず締め付けてるのはまずいよな―――)  
悪い、と謝るとこずえのシャツのボタンを外しにかかった。  
まずは一番上、そして2つ目・・・。  
3つ目のボタンを外したとき、東谷の目に胸元の素肌が飛び込んできた。  
ブラに包まれた、柔らかそうな双丘がゆれる。  
 
(うわ―――)  
女らしいところを感じたことなど今までなかった。  
自分の好みとは正反対だと思っていた。  
しかし、目の前にコレを突きつけられて動揺しないオトコはいない。  
「東谷――。」  
辛そうな声で呼びかけられて、なんとか正気を取り戻す。  
が、彼女が口にした言葉に再び彼はぶっ飛んだ。  
「ブラ苦しいー。外して。」  
 
誘って―――いるはずはない。  
現に彼女は見るからに苦しそうで、顔色も蒼ざめている。  
しかし、何もオトコにそれを頼まなくてもいいだろう。  
(しかも昔好きだった男にさ。まったく―――)  
大体コイツは昔から、デリカシーというものに欠けているのだ。  
気にするもんかと後ろにまわり、シャツの上からブラのホックだけ外す。  
しばらく経つと、こずえの呼吸がだいぶ楽そうになったことに気付いた。  
先ほど渡したペットボトルの清涼飲料水を飲ませる。  
「汗かいて気持ち悪いだろ。たぶんバスローブがあると思うから。」  
「うん。ちょっとシャワー使ってくる。」  
こずえはそう言うと、多分ガラス透けるから向こうむいててと言い残しバスルームに消えていった。  
 
やたらと場慣れした態度に、拍子抜けする。  
(こういうところに来たことあるんだ、あの女。)  
そう思うと、なぜかがっかりした気分が胸じゅうに広がった。  
先ほど彼女の胸を見て、どぎまぎした自分がバカみたいだ。  
自分だって向井ゆりを忘れて彼女を作ったのだから、こずえにオトコがいてもおかしくはない。  
でも―――妙に心が傷付く。  
まるで失恋回数が4回になったような気分だった。  
 
バスローブを着たこずえが出てきて、どさっとベッドに横になる。  
「東谷――。ありがと。」  
背を向けているので表情は見えない。  
「今度からは自分の彼氏に頼めよ。」と、つい口調がぶっきらぼうになった。  
「んー?今いないよ。今月始めに振られちゃった。」  
 
―――え?  
あっけにとられた東谷が振り向くと、彼女は腕で表情を隠している。  
「仕事が忙しくて会えずにいたらさ、別に好きな子作られちゃったー。」  
口調はあっけらかんとしているが、傷付いているのがわかる。  
「しょうがないよね、私こんなだし。ズボラでガサツで。」  
東谷にはなぜか、声もかけられなかった。  
部屋に沈黙が落ちる。  
 
次に口を開いたのは、顔を隠したままのこずえだった。  
「東谷。ハセガワさんて覚えてる?あんた入院したとき同室だった。」  
「あの痩せたおっさん?」  
「そう。あの人、昨日亡くなったんだよね。」  
 
「あの人スキルス性の胃がんでさ。アレってすごく痛いの。  
痛くて痛くてナースに当たる人も結構いるんだけど、あの人笑ってるのよ。  
私がドジやっても『坂上さんは元気でいいね』って。で、飴をくれるの。  
『頑張ってる坂上さんにごほうび』って。  
昨日亡くなって、今朝ご家族がいらしてさ。ベッドの脇の引き出しみたら飴がいっぱい入ってて。  
これが全部私へのごほうび用だったのかーと思ったらもう、たまらなくて。」  
なんかやりきれなくて、つい飲みすぎちゃったんだよねー。  
今月入ってから、そんなんばっか。まさしく我が人生最悪の日々よ。  
 
声は笑おうとしているのに、彼女は泣いていた。  
腕で顔は隠れているけど、頬を涙がつたっている。  
同窓会ではしゃぐ姿は、彼女なりの精一杯の気遣いだったのだ。  
「明るく元気なこずえちゃん」でいたいから。皆にそう思って安心してほしいから。  
(なんて頑張り屋で、器のデカい女なんだろう。)  
東谷は、そんな彼女を愛しいと思った。  
顔を隠している腕を無理矢理外すと、ぎゅっと抱きしめる。  
「こずえ。お前すげえな。」  
すごいよ、うん。頑張ってるんだな―――。  
そう繰り返しながら名を呼び頭を撫でると、こずえは彼の胸に顔を埋めて静かに泣き出した。  
 
翌朝。  
盛大な悲鳴を聞いて東谷は目を覚ました。  
酔って泣いたまま寝てしまい、一晩中腕の中にいたこずえが状況を理解したらしい。  
 
「東谷!その、あの、アンタ…」  
「オレは何もしてないぞ。」  
「じゃじゃじゃあ、あ、アタシ…」  
「お前も何もしていない!」  
「じゃあなんで私たち?!え、ええーっ!!」  
 
この様子じゃ、昨日の事などちっとも覚えていないだろう。  
そう思った東谷は、とりあえず体をおこす。  
「そんなことより、腹減らないか?」  
そんなこと、と言われて拍子抜けしたのか、こずえより先に彼女の腹の虫が答えた。  
ホテルを出ると、近くのファーストフード店に入る。  
 
赤くなったり青くなったりしているこずえに、東谷は念を押した。  
「言っとくけど、何もなかったからな!やましいことは。」  
「わかった。信じる。」  
そう、何もなかったのだ。  
ジュースを飲みながらハンバーガーを待つ彼女が、これまでと違って見える意外のことは何も。  
 
もしも―――と彼は思う。  
もしも彼女に、自分の夢の話をしたら。  
大手企業の内定を蹴り、高校教師を目指す男の話をしたら。  
彼女は一体なんて答えるだろう。  
アイツみたいに「信じられない」と一蹴するだろうか。  
あるいは、何かオレの予測もつかないような嬉しいことを言ってくれるだろうか。  
 
東谷が覚悟を決めて、夢の話をするまであと3分。  
そしてその3分後。  
彼の人生最悪の日々は、ひとりの女の子によって人生最良の日々に姿を変える。  
 

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