あの夜、火勢に煽られ、火の粉を天高く舞い上げて轟音とともに瓦解する楼閣から  
辛くも脱出した秀康と茜は、今は洛外の山寺に身を潜めていた。  
 片腕に茜を抱きかかえ、押し寄せる幻魔を薙ぎ払い、秀康は夜陰に乗じて  
道なき道を駆け抜けた。  
 天海と浅からぬ縁があると聞く住職は、仄々と夜が明けだした頃に  
総門を叩いた、焼け出されて煤と血に塗れた二人を拒むことなく招きいれてくれ、  
離れの庫裏を仮初の宿にあてがった。  
 謀反人に等しい自分たちを匿うことが追っ手に知れれば、住職も  
同じ罪に問われるというのに、それとなく必要なものを揃え、  
黙って世話をしてくれる住職の態度が秀康にはありがたかった。  
 今、秀康にとって一番気がかりなのは、茜のことだった。  
 寺に来た当初の茜は自分を守るようにして身を丸め、床から起き上がることもなく、  
食事も秀康が勧めねば一切口をつけなかった。  
 やっと体を起こすようになったと思えば、生き生きと輝いていた目には  
力がなく、部屋の中で閉め切られた白い障子をぼんやりと日がな一日眺めている。  
 宗矩から受けた屈辱を思えば当然だと秀康は思った。女子として、  
最も辛い痛手を負ったのだ。あの日、あのときの茜の姿を思い返すだけで、  
体の芯が冷えるような怒りに囚われる。  
 だからこそ、秀康は茜の回復に心を傾けた。女手があれば  
もっと親身に茜を世話することができるだろうが、せめて自分が  
出来る限りのことはしてやろうと心に堅く決めた。  
 そんな秀康の真摯な介抱が報いたのか、もう体の傷はほぼ癒えて、この頃は  
短い会話も交わすようになった。  
 もう暫らくすれば旅立つことが出来る。  
 しかし―――――――――と秀康は深く考え込む。  
 果たして再び幻魔との戦いの場に連れ戻すことが、十兵衛の為の最善だといえるのだろうか。  
 
 夜半、秀康はふと目を覚ました。  
 もしもこの場所が知れてしまった場合の幻魔の夜襲を想定し、彼は  
床を延べることなく、毎夜刀を片腕に抱き、部屋の壁に背中を預けて眠っていた。  
「・・・?」  
 部屋の中を見回す。異常は見当たらない。  
 だが微かに項の辺りの皮膚がざわめくような、なんともいえないものを感じ取り、  
立ち上がって障子を開け、廊下へと出た。  
 冬も深まった今、虫の音は絶えて久しいが、清冽な夜の気配は一切乱れることなく、  
深山の夜は静かだった。  
 ふと秀康は隣の部屋を見た。  
 障子の一部が開いていた。  
 秀康の目が見開かれ、音を立てて障子を開け放つ。部屋の中に茜の姿はなかった。  
 秀康はすぐさま地面に飛び降り、駆け出した。床に乱れた様子はなく、  
また隣室に居た自分に気づかれることなく拐かすことはありえない。  
「十兵衛、何処だ!」  
 総門の閂は下ろされていた。厨や本堂にもおらず、住職は  
今夜は麓の檀家の弔いに出ている。  
 人の気配のない寺を探し回った秀康は、本道と母屋とを繋ぐ渡り廊下から、  
空を見上げた。夜よりもなお濃い黒い稜線。  
(まさか・・・山か!?)  
 もしそうだとすると厄介だ。不吉を煽るかのように、山の竹林が  
風にざわめいてざざざと揺れた。ざざざ、葉摺れの音が大きく木魂し、  
山の陰が一層大きくなった。  
 狼狽する心を押さえつけ、秀康は寺院の裏へと回った。そこで秀康は  
茜の姿を見つけ出した。  
 水浸しになった井戸端で、白い寝巻き姿のまま、茜は倒れ伏していた。  
 茜を抱き上げ、秀康は言葉を失くした。全身ずぶ濡れになった茜は  
白蝋のような顔色で、がちがちと歯の根の合わぬほど震えていた。この時期に  
水垢離など、正気の沙汰とは思えない。  
 急いで茜を部屋へと連れ戻し、濡れた着物を剥いで体を拭い、  
新しい寝巻きを着せる。ありったけの夜具を被せ、火鉢に炭を放り込んだ。  
 かんかんに炭を熾して部屋を暖めて、やれるだけのことをした秀康は、  
褥の直ぐ傍に腰を下ろし、気を失ったままの茜を覗き込んだ。  
 血色は先程よりもましになったが、唇は真っ青だ。  
 何故気付いてやれなかった、と秀康は迂闊さを悔いた。  
 暗闇の中、一人井戸の冷水を被り続けた茜の心情を思うと  
耐えられなかった。体の傷は癒えようと、茜の心は秀康が思っていたよりも  
深く穴を穿たれて、いまだに鮮血を流し続け、茜を蝕み苦しめ続けていたのだ。  
自分は茜の表層しか見えていなかった。  
 握り締めた拳が震える。あのときと同じだ。所詮俺は無力なのか。  
 寒行を自分に強い、何度も水を浴びながら、  
こいつはなにを思っていたのか――――――――。  
 心細げに濡れそぼつ、闇に押し潰されそうな茜の後姿が浮かび、  
眉間に拳を当てて項垂れる。  
 微かな呻き声が聞こえ、秀康はハッと顔を上げた。茜が苦しそうに  
眉根を寄せて、荒い息をついていた。  
 
 少し躊躇ってから、秀康は茜の右手を握った。氷のように冷え切った手に、  
せめて自分の温もりを移してやりたいと思った。ぎゅっと握ると、  
心なしか茜の眉間の険が薄らぎ、安らいだように見えた。  
 すっぽりと包み込むことが出来る、小さな手だ。それに続く手首も、  
腕も、少女の骨格全てが華奢で  
その背中に負うにはあまりにも酷なことが多過ぎる。  
 たとえ気休めでしかないとしても、茜が引き摺り込まれている眠りに  
魘されることがないように、秀康はその手を握り続けた。  
 一刻ほどそうしていただろうか。  
 泥のように重たく纏わり付く睡魔を引き剥がし、茜はゆるゆると  
瞼を押し上げた。目に写るのは既に見慣れた天井の木目だった。  
 井戸から汲み上げた水を何度も浴びて、心身に凍みる寒さも無視し続けて、  
段々と体が痺れて寒いという感覚もなくなって・・・記憶はそこで途切れていた。  
 首をめぐらせ、秀康を見つけ出す。  
「・・・・・・アオ兄ぃ」  
 掠れた声で呼ぶと、秀康は少し強張った、だが安堵した表情で「ああ」と答えた。  
アオ兄ぃはオレに付きっ切りだったんだと、茜は申し訳なく思った。  
本当に、迷惑や心配ばかりかけている。  
「熱、出てないか?そうだ、喉渇いてるだろ。水を持ってこよう」  
 黙ったまま、茜は秀康と繋いである自分の手に視線を移した。  
「ああ・・・悪い。触れられるの、嫌だよな」  
 茜は小さく前髪を揺らした。  
「ううん・・・アオ兄ぃなら、平気だ」  
 事実だった。手から伝わる秀康の体温に、言い様のない安らぎを感じた。  
 不思議だ。あんな奇禍に遭ったからには、男に恐怖と拒絶を抱くのだろうに、  
茜は秀康には一切そんな感情を持たなかった。  
 自分を決して傷つけないでくれるという絶対的な信頼と安心感が  
そうさせるのか。  
 だが、それにいつまでも甘え、秀康に寄りかかることに、茜は罪悪感と、  
怒りに似た不甲斐なさを感じる。  
「・・・水垢離で願掛けは止めておけ。体に悪い」  
 茜の目を見つめ、秀康が言った。「お陰でこっちの肝も冷えたぞ」冗談口ではなく、  
至極真面目な、真摯に茜の体を気遣ってくれている秀康に、  
何も応えることが出来ないでいるのが歯がゆかった。  
 
「違うよ。オレ、願い事なんかないんだ。ただ・・・」  
 衝動に駆られて危うく口走りそうになったところで、口を噤む。  
これ以上は喋るのが憚られた。それは茜が抱え込んでしまった暗部だった。  
「ただ、なんだ?」  
 その先を促されはしたが、茜は黙り込んだままだった。  
 しかし心の中では激しく逡巡していた。打ち明けるには自分の  
醜悪な暗部を晒さなければいけない。  
 聞かせてしまったら、きっとアオ兄ぃに軽蔑される。茜にはそれが  
恐ろしかった。  
 だが、懸命に自分を支えてくれている秀康に口を閉ざし続けることは、  
途方もない背信行為にも思えた。  
 自然と唇が震え、秀康に包まれている茜の手が拳を形作った。  
 茜の尋常でない様子を察した秀康が穏やかに言った。  
「言いたくないのなら構わないんだぞ」  
 その一言が、かえって茜の背中を押した。一息にぶちまけた。  
「禊ぎでこそぎ落としたかった。オレの汚れを」  
「・・・そんなことを言うな。自分を貶めてどうする」  
 だが、労わりの言葉は要らなかった。  
 茜が目の眩むほどの憎悪を持っているのは、宗矩と、自分自身だ。  
「アオ兄ぃ。汚いのは、オレの、宗矩の下で喘いだこの女の体だ・・・っ!!」  
 茜はそう吐き捨てた。宗矩に力任せに犯され、蹂躙された。それだけならまだしも、  
この体は確かに肉欲を貪ったのだ。  
 敗北してもまた立ち上がればいい。だが、相手の足に縋り付いて  
命乞いをすることは許されない。それはあまりにも惨めで無様だからだ。  
 剣士としての潔癖さと、娘の無垢が、あの悪夢のときに味わった屈辱を  
どうしても封印することができないでいた。  
 だが秀康は茜に断じた。  
「体が必ずしも常に心に従うとは限らない」  
 まだこういった機微に幼い茜にどう言って聞かせれば良いのか分からなかったが、  
茜の自虐はただいたずらに傷を抉り深めてゆくばかりだと、その無意味さを  
説こうとした。  
「止むを得ない場合もままある。・・・お前の心は宗矩を全く  
受け入れていなかっただろう。お前が感じたものは、本当の男と女の交合に得るものとは  
全然違う非なるものだったんだ」  
「じゃあ、ほんものはどんなもんだって言うんだよ!アオ兄ぃ!!」  
 
 上掛けを跳ね上げ、片肘を突いて半身を起こした茜が叫んだ。その声には、  
所詮そんなものは詭弁だと吐き捨てる響きがあった。たかが卑しい情欲、  
どれだけ言い繕ってもどんな違いがあるというのだ。  
 秀康が言い放った。  
「俺は今からお前に口づける」  
 全く唐突な申し出に、秀康を睨みつけていた茜の目が丸くなり、  
あまりの突飛さに滲みかけていた怒気も散じた。  
「なに言ってんだよアオ兄ぃ・・・」  
 呆気に、というよりどんな表情を出せばいいのか分からないという  
茜の顔だった。  
「嫌なら言え」  
 短く言うや否や、包んでいた茜の手をするりと離して腰を上げる。  
自分に近づく秀康を、茜はぼんやりと見た。「ふざけるなよ!」と腕を突っぱねて  
その体を押しのけるという選択肢も充分あった、また  
それぐらい実行に移す猶予はあった・・・いや与えられた。それなのに、  
何故か否もうとは思わなかった。  
 茜の頬を秀康の両手が包んだ。温かい掌に、茜は自然と目を閉じた。  
 二人の唇が触れ合った。薄い皮膚の触れ合った部分から、そっと  
お互いの体温を確かめ合うような口づけだった。  
 重ね合わせても、それ以上深くなることはなく。  
 秀康はゆっくりと顔を離した。自分の胸に茜の頭を抱き寄せて、  
まだ湿り気の残る茜の髪を撫でる。  
 目を閉じたままの茜は、されるがままに体を任せた。  
 力を抜いて身を凭せ掛ける茜に、言い様のない感情が浮かぶ。そのまま  
腕に力を込めて、強く抱き締めたいという思いを捩じ伏せて、秀康は柔らな髪を  
撫で続けた。  
 まだ駄目だ。自分の衝動に負け、機を間違えれば、また取り返しの付かない  
結末を呼ぶ。先程の口づけも、本音はもし拒まれて逆の効果を生んでしまったらと  
いう不安を覚えていた。  
 頃合だ。そろそろ引き上げねば愚かな過ちを犯しかねない。  
 秀康は細い両肩をそっと押し、自分の胸から引き離した。何か言わなければいけない、  
だが適当な言葉は見つからなかった。  
「・・・今日はもう休め」  
 そう言い置いて、立ち上がって離れようとした秀康の手を、茜は咄嗟に掴んだ。  
 
「アオ兄ィ」  
 何事かと秀康が茜を見下ろす。その目から自分のそれを逸らすことなく、  
挫けかけるのを真っ直ぐに見つめ返し、  
「知ってるだろ、オレ、今凄く寒いんだ」  
 茜はこくりと唾を飲み込んだ。どれだけの気力を振り絞っているのか、秀康を掴んだ手は  
白く関節が浮き出て小刻みに震えていた。  
「だから、今が、いい」  
 なにが、とは秀康は問わなかった。指しているものがなんであるかは承知していた。  
「今じゃないと、きっと駄目なんだ」  
 しゃがみ込み、目線を合わせる。  
「・・・良いのか」  
 それは了承ではなく確認だった。小さく頷きが返され、秀康は両手を伸ばし  
ゆっくりと少女を褥に横たえさせた。  
 静かな部屋に衣擦れの音がやけに耳につく。帯を解いて、寝巻きを脱がせると、  
秀康の目前にほっそりとした茜の裸体が現れた。初めて目にしたわけではない。  
つい先程も、濡れた着物を脱がせるために裸にさせた。だが、劣情を抱いて  
目の当たりにするのは初めてだ。  
 秀康に組み敷かれた茜は、流石に彼を見つめ続けることは出来ずに、  
顔を背けてあらぬほうを向いていた。  
 自分の作り出す影の中に全て収まってしまえるほどの華奢な体だ。  
 束ねてしまえば目立たないだろうが、こうして白い夜具の上に散っていると、  
疎らな長さになっている髪が目についた。宗矩によって切り落とされた部分だった。  
 この体を宗矩が蹂躙したかと思うと、怒りに頭が焼き切れそうになる。  
だが秀康は激しい感情を無理やり押し込め、決して面に出さないように務めた。  
茜を怯えさせたくはない。秀康は自らも身につけているもの全てを取り払い、  
お互いに一糸纏わぬ姿になって茜の裸体を抱き締めた。  
 ため息にも似た茜の吐息が耳元で聞こえた。  
 ぴったりと密着した肌越しに、別々の温もりを感じあう。  
「お前が辛いと感じたら、すぐ止めるぞ」  
「大丈夫、アオ兄ィだもん・・・大丈夫だよ」  
 
 精一杯答える茜の強張りを解すために、小さな頤をつまんで数回頬や額に軽く接吻する。  
ささやかな触れ合いに、ほっと体を少し緩めたのを見計らって、  
細い首筋に顔を埋めた。瑞々しい少女の肌の匂いが鼻腔を擽り、  
男の情欲を加速させようとするのを振り切るよう努めた。  
 滑らかな肌を唇で探り、舌を這わせる。生ぬるいものが肌を掠めた感触に  
茜がびくりと小さく慄いたが、それ以上の大きな拒絶は見せなかった。  
薄く敏感な肌を吸いながら、片手をそろそろと茜の乳房の上に被せた。  
 茜の睫毛が震える。  
 小さな膨らみは、すっぽりと秀康の大きな掌に収まった。とくとくと  
鼓動の振動を伝える、可愛らしく、充分に柔らかい胸を外側から持ち上げるように  
優しく揉む。微妙な力加減に、微かに茜がみじろぎをした。  
 秀康が顔を上げる。その顔に浮かぶ気遣いに、茜は言葉は出さずただこくりと頷いて見せた。  
 と、秀康が茜の腰に片手を回したかと思うと、桃色に色づいた乳首をその口に含んだ。  
「あっ」  
 息を呑み、茜の背中が褥から僅かに浮く。その隙間さえ利用して、  
秀康は口の中で存在を主張し始めた尖りにそっと舌を絡ませた。  
「ん、ぅっ・・・」  
 生温かい濡れたものが与える、くすぐったいようなもどかしいような刺激に、  
思わず小さな声が漏れる。忌まわしい声だ。  
茜は咄嗟にその声を隠そうと指を噛んだ。  
 だが、目敏くそれを見つけた秀康が、茜の口から指を取り上げた。  
「・・・お前はそれ以上傷つくな」  
 丹念な愛撫が、茜の奥底に密やかに眠る性感を、薄皮を一枚ずつ  
剥いでゆくようにゆっくりと目覚めさせてゆく。  
 不安を和らげるように掌が支え、肌を滑る指先からも自分を  
慈しんでくれているのが充分に分かり、  
茜は嬉しく思った。その心の動きに伴って、秀康に任せている体が  
じょじょに蕩けてゆくような、今まで味わったことのない心地が、ほんのりとした熱を  
茜に帯びさせ始めた。  
 皮膚が擦れ合うだけで奇妙な感覚を覚え、呼吸も忙しいものになっていく。臍の下に得体の知れない  
熱が溜まっていき、その未知の疼きに我知らず太腿を擦り合わせていた。  
 そんな茜の変化を見極めた秀康は、今まで触れようとしなかった両腿の間を割らせ、  
その奥へ手を伸ばした。  
 そこはしっとりと湿り気を帯び始めていた。  
(だが・・・まだだな)  
 
 男を迎え入れる準備は整っていない。そう見た秀康は、思い切った行動に出た。  
「あっ、アオ兄ィ!?」  
 慌てた茜が体をずりあげようとした。秀康が一瞬身を離したかと思ったら、  
次には割った足の間に入り込んで、そこに顔を埋めようとしたのだ。  
「止めろよ、そんなとこ!アオ兄ィ!」   
 恥ずかしさのあまり怒鳴りつけて、頭を押しのけようと黄金色の髪の毛を  
思わず掴む。しかし当の本人は聞く耳を持たずに、唾液をたっぷりと含ませた舌で  
温んだ花弁に沿って舐めた。びくっと茜の背中が反り返る。今まで充分な愛撫を  
受けてきただけに、敏感になった疼きの中心に思いも寄らぬ刺激を受けて、堪らなくなった。  
 秀康の舌先が花弁を解し、満遍なく蜜と唾液を塗りつけていく。  
「やっ・・・めろ、ったら・・・アオ兄ィっ」  
 秘所を責める舌の動きに翻弄され、茜は弱々しく秀康の頭髪を掻き撫ぜることしかできない。  
強烈な快感に翻弄され、目に涙さえ滲んだ。体はその快感に充分に感応し、  
更に蜜を滲ませた。  
「んんっ、ぁあ・・・っ!」  
 耐え切れずに腰がうねる。柔らかな内腿に、秀康の髪が触れる、その感触さえ心地いい。  
 やがて秀康が口許を拭って起き上がった。柔らかな夜具に半ば顔を埋めて、  
はあはあと胸を上下させて荒い息を吐く茜を見下ろし、  
露わになっている肉付きの薄い脇腹を、宥めるように擦ってやる。  
 そしてようよう息が収まった頃を見計らい、「・・・良いか?」と滑らかな膝に手を掛けた。  
 膝に置かれた手の感触で、ぼんやりと潤んでいた茜の瞳が瞬時に焦点を結ぶ。  
 その瞬間、奇しくも茜の瞳に映し出されたのは、秀康の実像ではなく、  
別の男の黒い影だった。  
 脳裏に生々しく閃光のように甦る。  
「ぅっ・・・、くっ・・・・!」  
 危うく悲鳴を噛み殺し、しゃくりあげる様な断続的な呼吸を繰り返す。  
 記憶の断片の流入に耐えようと、茜は無意識に両肩を抱き、夜具の上で体を縮こませ、  
強く、こめかみが震えるほどに強く瞼を閉じる。  
 小さい体をなお一層小さく強張らせて、忌まわしい記憶に必死で抗おうとする茜を目の当たりにし、  
秀康は自分がなす術を知らなかった。  
 ふっと、茜の体から力が抜け、きつく自らの両肩を抱いていた手が力なく滑り落ちる。  
「――――――――――ごめん、アオ兄ィ。もう平気だから・・・」  
 か細い声に、この状態のどこがだと糺したかった。  
 だがそうはせずに、秀康は無言でそっと、茜の額を撫でて乱れ落ちた髪を  
梳いてやった。立ち向かおうと踏み止まる姿勢が健気で、  
故に胸をしくりと締め付ける。  
「少し、痛むかもしれないぞ」  
 
「へっちゃらだ、そんなの」  
 ゆっくりと足を開かせて、その間に押し入る。  
 虚勢だと直ぐにわかる態度と、割り行った際に一瞬怯えた眼差しで自分を見た茜へ、  
「・・・触ってみるか?」  
 何を指しているのか直ぐにわかった。  
 秀康の言葉に、茜は躊躇いを見せた。が、やがておずおずと手を伸ばし、  
熱を帯びて上向いた一物の先端に触れた。  
 一瞬だけ触れて、間違って火種にでも触れたかのように慌てて離し、  
また恐る恐る、慎重に存在や質感を確かめる手つきで指先を伝わせる。  
 その指の、些細な動きが齎す疼きに耐えながら、茜のするがままに任せた。  
「熱くてどくどく脈打ってる・・・」  
 ぽつりと茜が呟く。  
「ここも、アオ兄ィなんだね」  
 じかに脈動を感じ、この器官は確かに秀康の一部だと、そう知って感じ取ることで、  
茜の恐怖は段々薄らぎ、不思議なほど心も落ち着いた。  
「今から入れるぞ。大丈夫か」  
「・・・ん」  
 潤みきった秘所に陰茎をあてがい、蜜壷の入り口を探り当て、その先端を  
ゆっくりと沈めた。  
 少しずつ、茜に掛ける負荷をなるべく最小限にとどめるべく、慣らすように  
じょじょに腰を進めて挿入していく。  
 だが、どれだけ濡らして侵入を容易くさせようと、やはり二度目の茜の苦痛の全ては  
除けなかった。  
「くぅっ・・・う、ぁ、ああ」  
 痛い。漏れる苦鳴を噛み殺そうとすると喉が震えた。真剣で切りつけられたときのような、  
鋭い痛みではなく、肉をゆっくり抉られていく、ずんと奥へと響く痛み。  
 さっきまでの甘い余韻も、どこかへ姿を消してしまった。膣に収まる質量が  
増していくにつれ、茜の体がきつく強張った。  
「・・・っ、十兵衛、力を抜け・・・っ」  
 きつい締りに少し眉根を寄せて茜に助言を与えつつ、頭を抱き寄せて髪を撫でた。  
 言われるがまま、できるだけ力みを失くすよう、不規則になった呼吸を  
何とか整えようと大きく肺を膨らませて息を吸う。秀康は拙いながらも  
助言に応えようとしている茜を励ますように髪を撫で続け、  
茜はその無骨で優しい手の動きに僅かなりと癒された。  
 幼いころに身につけた剣術の呼吸法の流用で、酸素を取り込む、というありきたりな行為を  
繰り返すうち、無意識にこわばりが解けていく。  
 
「アオ兄ィ・・・はっ、はい、った・・・?」  
「ああ・・・」  
「ぜん、ぶ?」  
「全部だ」  
 額に汗を滲ませて、茜は安堵の表情を浮かべた。余程辛かったのか、  
目も薄く涙で潤んでいた。  
「まだ痛いよな。って、当たり前か」  
「ん、でも、・・・さっきより、ずっと良いよ」  
 下腹部に疼痛があるが、最初の頃ほどではない。秀康が急かすことなく  
時間をかけて宥めてくれたお陰で、段々と状況に順応し、  
肋骨に喧しく打ちつけていた心臓も平穏を取り戻しつつあった。  
 それにつれて、茜は自分の中に収まっている熱を今更ながらありありと感じた。  
錯覚だろうが、その箇所を通して秀康の鼓動も伝わってきているように思えた。  
 不思議な感覚だった。奇妙な充足感さえあった。  
「あ、アオ兄ィは」  
「なんだ?」  
「いま、どんな感じ・・・なんだ?」  
 秀康はちょっと吃驚した目で茜を見る。自分の質問がよく分かっていないのか、  
それとも単に知識として知りたいのか、これといった他意はなさそうだった。  
 だがここで余計に言い繕うのも意味がない。極素直な感想を述べた。  
「気持ち良い」  
「・・・のか?」  
「ああ。お前にはちょっと理不尽に思えるかもしれないけどな」  
 まだ痛みを感じている茜の内部は充分に蜜に濡れて熱く、  
秀康のものを蕩けさせるように幾重もの襞がねっとりと絡み付いて締めつけている。  
 体の過分なこわばりが解けた今、持ち主の意思に関係なく、  
深く埋め込まれた異物を取り込んで緩やかに誘おうと微妙に蠕動する肉の動きに耐えていた。  
「・・・・・・じゃあ、もっとアオ兄ィが気持ちよくなるようにして、いいよ」  
 今度こそ、何を言い出すのかという表情で秀康は茜を見た。  
「いいよ、アオ兄ィ」  
「まだ辛いんだろ、お前」  
「大丈夫だってば。オレ、そんな柔(やわ)じゃないぞ」  
 それに、と耳朶まで真っ赤に染めて、  
「教えてくれるんだろ。その、ちゃんとした・・・あの」  
 
 語尾をうやむやに紛らせて、そっぽを向く。まだ時間を置いてからと  
思っていた秀康だったが、茜がそう求めるのならば否と敢えて言うこともない。  
この状態をいつまでも続けているわけにもいかない。  
 また、自分の本能的な欲求を誤魔化すことも流石に苦しくなってきていた。  
腰間に疼きと熱が半ばした澱が溜まり、時折痺れるような感覚が強烈に開放を促している。  
「・・・分かった。じゃあ、俺にしっかり掴まってろ」  
 今まで茜が縋っていた衾褥は、掌に強く握り締められて  
呆気なく破れそうなほど皺くちゃになっていた。  
 その手を取って、自分の首に廻させる。細い両腕を絡めさせてから、  
「最初はゆっくり動くからな。きついと思ったらすぐ言えよ?」   
 細腰をしっかりと抱き寄せて片足を抱える。そして、腰を引いて  
埋没させていた陽根を僅かに引き抜き、熱の篭った膣の奥へ再び戻す。  
「ん・・・く・・・っ」  
 ほんの少しの動きのはずなのに、その動きにあわせて、ずる、と内部の肉壁も  
一緒に持っていかれそうな得体の知れない感覚に、茜は身震いをしてあえかな声を漏らす。  
 結合部にじんじんと痺れが走り、それが痛みなのかそれ以外のものなのかさえ分からない。  
ただ夢中になって両腕に力を込めて縋りついた。  
 小さな反復を繰り返すうち、秀康の呼吸も段々と押さえきれぬほどに乱れ始めた。  
もはや今この状況下で茜に止めてと乞われても、留め置くことはできそうになかった。  
 打ち付けていくうちに、膣の締め付けは更にあがって、男の精を貪欲に求める動きで  
秀康を翻弄させる。溢れた蜜が立てる音が淫猥極まりなかった。  
「あっ、アオ、兄ィ」  
 揺さ振られる茜の途切れ途切れの声に、我に返ったように秀康は茜を見た。  
今更ながら、首に絡みついた腕の力に気がつく。茜の体を慮る余裕がなくなっていた。  
しまったと一瞬臍を噛みかけたが、それより何よりも茜の様子が目を引いた。  
 頬はすっかり上気し、何かを懸命に伝えようと唇を震わせ、曖昧に閉じる。  
 苦痛を耐え忍んでいる姿ではない。  
「もう平気か?」  
 茜は首を横に振った。「分かんない」確かに分からなかった。この未知の感覚を、  
どう受け止めれば良いのか。  
 中を擦られ、掻きまわされる内に、体の奥の熱がせり上がってきて、その感覚に  
自我が押し潰されそうになる。  
「分かんなくて、こわいよ・・・アオ兄ィ・・・」  
 
 このまま溺れて自分で自分を保てなくなる、そんな予感に茜は怯えた。  
 秀康は一呼吸置いて、茜の火照った頬に触れた。  
 鬩ぐ感情に押され、額やこめかみにそっと口づける。  
茜の不安を和らげる方法を、この程度しか思いつかないことに歯痒さを覚える。  
「怖がることなんかない。俺もお前も、それを迎え入れるんだ。今から」  
「・・・アオ兄ィも?」  
「ああ」  
 それでも怖いなら、と言葉を続ける。  
「俺だけを見てろ。他には何も、目を向けるな」  
「・・・うん」  
 それは何よりの指針だった。秀康の言葉を信じ、従おうと決めた。  
頷いて再び身を委ねる。  
 頬を離れて体の線を辿るように脇腹を撫でる指先に反応し、自分の中がきゅっと  
中にあるものを締め付けたのが分かった。  
今ならなんとなくだが分かる気がした。男と女が求め合う理由が。  
 収まっていたものが引き抜かれ、押し込まれる。先程までの再現だ。  
 ただし、ゆっくりとした動きが、じょじょに忙しないものへと変わっていく点が違っていた。  
「あっ、・・・ん、うあ、あんっ」  
 堪えきれずに茜が喘いだ。深く抉られるたびに、強い刺激が脳を灼く。  
ぞくぞくとした快感が背筋を奔り、もっととねだるように、知らず腰が浮いた。  
 秀康もまた荒い息を吐いて貪欲に求めた。内壁の動きが切羽詰ったように活発になり、  
男をせがんで吸い付いてくる。すぐにでも気をやりたかったが、  
まだだと自制した。目覚め始めた茜の官能に、今度こそ添わせてやらねばならない。  
「アオ兄ィ・・・っ」  
 上擦った声で茜が呼んだ。途切れがちに何度も。  
応えてやるように強く腰を叩きつけると、華奢な体が反って、肉付きの薄い脇に、  
薄っすらと肋骨が浮く。擦れあう肌や陰茎に絡みつく肉襞から、  
お互いが蕩けあって本当に一つになれそうな気すら起こった。  
 いつの間にか茜は両脚を秀康の腰に絡ませていた。がむしゃらに求め合って  
二人分の熱い吐息と淫らな水音が響く中、律動に揺さ振られて  
今にも首に回した腕が解けそうになるのを必死で堪えてしがみつく。  
 目まぐるしい波に浚われ、翻弄される中で、秀康の存在が唯一のよすがだった。  
それを手放すまいとしたのだが、まだ足りない。  
 
 熱い息が肌を掠め、絶え間ない音が耳を犯す。見たこともない表情で  
何かを耐える秀康の顔に、体の芯をぞくりと痺れさせながら、  
茜は吐息で濡れた唇を戦慄かせ、懸命に言葉を紡いだ。  
「あっ、あお、に・・・っ」  
 しがみつく腕で体ごと引き起こし、秀康の耳元で浮かされたように囁く。  
「もっと、ギュって、して」  
 秀康は茜の望みをかなえてやった。折れそうなほど抱き締められ、  
逞しい体を更に間近に感じ、茜は多幸感に包まれる。  
 それとほぼ同時に、急速に競りあがってきた熱が限界を超えた。  
 爪先が突っぱね、来るべき絶頂を示唆する。背中が弓なりに反り返り、  
茜は黒髪を振り乱した。  
「や、ぁ・・・だめっ・・・ぁ、ぁあああっ!!」  
 膣がぎゅうっと縮こまる。うねり、のたくる急激な収縮に、  
秀康も堪えきれず茜の中で達した。  
 その押し殺した呻きを聞きながら、茜は自分の奥深くに放たれたものに  
全てが・・・踏み躙られた足跡も、自分の鬱屈も迷いも、全て・・・真っ白に、  
塗りつぶされるのを感じた。  
 余韻のように小さく跳ねて、断続的に注ぎ込まれる名残を打ち震えながら受け止める。  
収まり切れなかった分が蜜と混じって押し出されて零れ、  
とろとろと肌を伝うのが分かった。  
 二人の体はぐったりと弛緩しきって、暫らくは重なり合ったままだった。  
 やがて秀康が身を起こし、そのときに一緒に中から引き抜かれる感覚に、  
茜は「んっ・・・」と小さく息を呑む。激しい律動を受け入れて敏感になったそこは、  
その程度の刺激も強すぎた。  
 懐紙で汚れたところを拭って始末をつけてから横になり、  
気だるい体で秀康は茜を抱き寄せた。  
 消耗が激しい。まるで初めて女を知ったときのような有様だ。このまま眠り込んだら、  
死人のように深く眠りこけて、たとえ幻魔が法螺貝を吹き鳴らして雲霞の如く攻め寄せて来ても、  
果たして起きられるかどうか、怪しかった。  
 それでもまあ良いか、と呑気に思えた。せめてこの僅かなひと時、  
結城秀康でも蒼鬼でもなく、一人の男として茜と添い臥してやろう。  
秀康は細い肩を引き寄せた。  
 そして茜もまた、心地のよい疲労感に身を任せ瞼を閉じながら、一つの決意を固めた。  
 心は決まった。長い逡巡を経て、やっと。  
 
 無意識に探った手は何も見つけ出せなかった。自分の傍に在るはずの温もりがない。  
 秀康は飛び起きた。肌を刺す冷え切った空気が、まだ夜が明けてそうときが  
経っていないことを知らせた。  
 締め切られた障子の向こうから、僅かに風を切る鋭い音と、澄んだ鍔鳴りの音が交互に聞こえる。  
 まさか、と秀康は思った。だがそれ以外に考えられない。  
 あいつはどうしてこう自分に気配を悟られずに外に抜け出すことが出来るんだ?  
 一瞬場違いな疑念が頭に浮かんだのを慌てて打ち消して、  
秀康は脱ぎ散らかしたままだった着物を、帯を結ぶのももどかしく身につけて廊下に出た。  
 庭先にはやはり、想像したとおり茜の姿があった。寝起きのままで部屋を抜け出したらしく、  
単の寝巻き姿だった。  
 秀康の気配に気が付いた茜が、手を止めて振り向く。  
 その右手には、久しく部屋の片隅に立てかけられていた典太が握られていた。  
「体も腕も、やっぱり大分鈍っちまってら」  
「お前、大丈夫なのか?その・・・動いて」  
「へーき平気。柔じゃないって、言ったろ?」  
 軽く返して、茜は鍛錬を再開した。  
 細い脛が露わになるほどぐっと腰を落とし、眼光鋭く前を見据え、  
瞬時に疾った白刃が、朝日に煌き軌跡とともに空を切る。迷いのない抜き打ちだった。  
 その太刀筋を目の当たりにした秀康は、それ以上の口出しはせずに黙って  
その挙動を見つめた。  
 一通り柳生の型を浚った茜は、ゆっくりと残心を示し、  
深々と息を吐いてから刀を携えて秀康に顔を向けた。  
「アオ兄ィ。朝飯食べたあとで稽古頼んでもいいか?」  
「ああ」  
「手加減抜きな。オレ、まだまだ鍛えなきゃならないから・・・  
こんなんじゃ、全然駄目だ」  
 青味の増してきた空――――――その方向は人里、そして京へと続く空だ―――――――を仰いで  
ぽつりと呟く。  
「この辺りも、相当酷いことになってるんだろ」  
「知ってたのか」  
 それは茜の状態に気兼ねして教えなかったことだった。  
「前にアオ兄ぃと住職が話してたの、ちょっと聞こえてたんだ」  
 
 九州や四国、奥州といった、京から遠く離れた地から駆り集められた、  
太閤秀吉の醍醐の花見のための桜の大樹。  
 しかしその空恐ろしいほどに艶かしく美しい花の本性は、  
孕み女を贄にして咲く幻魔樹だ。  
 寺の住職が弔いに出かけたのは、妻ともうすぐ生まれる子どもを守ろうと、  
力尽くで連れ去ろうとした秀吉の兵士に取り縋った百姓が斬り殺された、  
その葬式のためだった。  
 辺鄙な雛の村から妊婦を集めていた秀吉配下の幻魔の軍勢は、  
この洛外にまでその魔手を伸ばしていた。  
 治安の紊乱も気に掛けず、自分の直轄領からも贄を狩るとは、秀吉の暴虐は  
益々留まるところを知らず、また、見境がなくなってしまっている。  
 それはまた、幻魔による支配が更に深く増しているということに他ならない。  
 村からの報せが届いたときには、既に兵士たちは引き上げていた。更なる生贄を求めて。  
 無謀な大陸への派兵も重なり、太閤の乱心が巷間に広く流布するのも近い。  
時がたつのを待てば、民草や諸大名の不満が膨れ上がり、一揆や遠隔地での叛乱といった形で  
豊臣の支配を脅かすだろう。  
 しかし、最早残された時間は僅かだ。  
 刻々と進む秀吉と幻魔の野望を知り、その恐怖の統治を阻止できるのは、  
秀康たちを置いて誰も居ない。  
 だが、その一人に再び茜の名を連ねてもいいものか。  
 秀康は敢えて茜に訊ねる。  
「行くのか、十兵衛」  
「行く」  
 きっぱりと、一切の淀みなく答えた。  
「ここで躓いてなんかいられない。みんなの、そしてなによりオレ自身のためにも。  
戦わなきゃならない」  
 照れくさそうに鼻を擦り、「偉そうなこと言ってるな、オレ」と笑う。  
こんな風に笑えるのも久しぶりだった。  
「アオ兄ィのお陰だ。でも、まだ・・・吹っ切るの、時間が掛かると思う。  
またなにか切っ掛けになって、しんどくなって・・・アオ兄ぃに迷惑、かけるかもしれない」  
「好きなだけかけろよ。それぐらいの甲斐性の持ち合わせはあるつもりだぜ」  
 
 わざと茶化した口調で秀康が言うと、茜は微笑んだ。  
こうして支えてもらわなければ、自分を囲む四方の手詰まりに浅慮を起こして  
どうなっていたか知れない。恐らく、使命も何もかもを投げ出して、  
最も愚かしい状態に身を堕してしまっただろう。  
「ありがとな、アオ兄ィ」  
 心の底からの謝辞だった。でも胸の隅が針の先で刺したようにちくりと痛む。  
こうして全部背負い込むアオ兄ぃは、一体誰が支えてやれるんだろう。  
 そして茜は己が右手の刀を持ち上げ、きゅっと唇を引き結んだ。  
その手にあるのは柳生の伝家の宝刀であり、敬愛する祖父のかつての愛刀であり、  
今は茜の誇りそのものだった。  
 鋼の輝きの刀のように、自分の心も腕も鍛え直せば強くなるはずだ。  
 決して、もう二度と手放すことはしない。  
「―――――――――絶対に宗矩に勝つ。そして、自分に克つんだ」  
 自分に刻み込むために強く独白する。全ての決着はこの刀でつける。  
柳生に生まれながらその血脈に背いたもの、従ったもの。同族の血を持って禍根を雪ぐ。  
 決別のとき、これで、この名で全てを終わらせるのが相応しい。  
 そしてまた同族としてのせめてもの餞。  
   
 
 
 
 やがて繚乱と咲き乱れる壮絶なる桜の下、誂えた様な舞台の上で、  
少女は半ば狂える男と対峙する。  
「柳生制剛流抜刀、柳生十兵衛茜。一族の義命によって貴様を討つ。  
罷り通るぞ・・・宗叔父!!」  
 死闘の始まりを告げるべく、箍の緩んだ哄笑と、  
火花と共に斬り結ぶ剣戟の音が高らかに重なった。  
 
 
終  
 
 

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