この辺り一体の宿場は湯治場も兼ねており、今宵秀康らが求めた宿も  
温泉が売りで、源泉からのかけ流しという贅沢な風呂を味わえる、  
というのが呼び込み文句の一つだった。  
 別に温泉に惹かれた訳でもないのだが、風呂釜で薪を焚く必要がないので、  
夜半でも自由に内湯を楽しめるとの説明を聞き、茜が歓声を上げた。  
「アオ兄ぃ、オレが背中流してやるよ」  
 茜のそんな台詞も、喜ぶ彼女の軽口の一つだと適当にいなした秀康だったが、  
その後とんでもない事態に遭遇する羽目になる。  
 その夜、秀康は一人旅籠自慢の檜の湯船に浸かっていた。  
 朦々と真っ白な湯気が湯殿一杯に広がっている。道中、幻魔との  
闘いで受けた傷も、この湯に浸かれば多少は治りが早まるだろうか。  
 新しい肉が盛り上がって、治りかかっている二の腕の傷にばしゃりと湯を掛ける。  
 大きく取られた明かり取り用の格子組の向こうには、  
見事な満月が掛かっていた。  
 過酷な道中だ。たまにはこんなゆっくりとした時間を味わうのも  
悪くない――――――――。  
 秀康はちゃっかりお勝手から湯殿に持ち込んだ盆の上の銚子を傾け、  
盃に並々と酒を注ぎ、ぐっとひと息に呷った。  
 丁度その時、がらら、と湯殿の引き戸の開く音がした。自分と同じように  
夜の風呂を楽しみに来た奇特な客だろうか。一人で広い風呂を  
満喫したかったんだろうが、生憎俺という先客が・・・  
「おーいアオ兄ぃー居るかあー?」  
 ぶぼはっ。  
 秀康は盛大に吹いた。  
「じゅ、十兵衛ぇ!?」  
 慌てて口から吹き出した酒を手の甲で拭い・・・尾篭な話だが  
鼻からもちょっと出た・・・秀康は動転しまくった声を上げた。  
「あー居た居た。どこだ、湯船か?こう湯気が立ってちゃなんにも見えねえよ」  
 茜の声とともに、ぺたぺたと軽い足音が湯殿に響く。  
「ちょーっと待て待て待てえ!!おまっ、お前、ここ・・・男湯だぞ!?」  
「アオ兄、オレを馬鹿にすんなよ・・・?暖簾の字くらい読めらい!」  
 じゃあ尚更なんで入って来るんだよ!!  
 うら若い乙女が入浴の最中を覗かれたような有様で青くなったり  
赤くなったりしながら秀康はおたおたと湯船を右往左往し、檜の縁に無駄に波を立てた。  
 
「夕飯食う前に言ってたろー?アオ兄の背中流してやるってさ!」  
「良いと言っただろうが!!」  
「気にすんなって。アオ兄頑張ってるからさ、オレからの  
ささやかな恩返し?っつーのかな」  
 そんな心遣いは要らねえむしろ意趣返しだと秀康は心の中で絶叫した。  
 段々と茜の声が近くなっている。おたつく秀康の目が、湯気の向こうに  
ぼんやりと滲む小柄な人影を視認した。  
 ええい南無三!!と秀康は瞼を瞑った。  
「あれ、なーにやってんだよアオ兄ぃ。天海の坊さん真似て瞑想か?」  
 近寄ってきた茜に、つん、と額をつつかれた。こめかみに汗を・・・  
熱い風呂に入っているというのにそれは何故かやたらと  
冷たい汗だった・・・浮かべ、目を閉じたままの秀康が、  
「十兵衛、お前って奴ぁ・・・いや、もはやなにも言わん。早いとこ出てけ」  
「なんでだよ。アオ兄、目ぇ開けてちゃんとオレ見てくれよー」  
 な、なんだってー!?  
 秀康は益々狼狽した。年端の行かない少女が、若い男に裸を見てとは  
なんたる破廉恥。  
 今すぐ湯船から飛び出して肥前名護屋にでも駆け込んでそこの主と  
最近頓に乱れる青少年の性について膝詰めし、拳を上げて激しく  
討議したくなった。  
「折角卸し立てのヤツ着てきたんだぜ?」  
 ん、と秀康は片眉を上げた。着てきた?なにを?  
 おっかなびっくり、そーっと薄目を開けて窺い見る。  
 湯船を挟んで正面に立つ茜が身につけていたのは、極薄い納戸色をした  
半襦袢だった。  
 秀康は安堵のため息をついて全身の緊張を解いた。  
「んだよ、焦らせるな・・・」  
 それだって太腿は丸見えなのだが、いつもの茜の装束とさして違いはない。  
 うっすらと花の文様が染め出してある半襦袢を、「初姉に  
選んでもらったんだ!」と嬉しそうな顔をして見せびらかす。  
「へっへーん。オレ知ってんだぜ。京の風呂屋で働いてるネーちゃんたち、  
こういう格好してるだろ」  
 だからオレも真似してみたんだーとくるりとその場で一回りする。  
 だが秀康はそれを聞いてまた愕然とした。茜の言う「風呂屋で働いてる  
ネーちゃん」のことを彼もまた知っていた。茜よりもよほど詳しく、正確に。  
 
 垢かき女、つまりは湯女である。湯女というのは現代における  
個室浴場で男性に奉仕しもてなしに従事する泡姫の走りである。  
 つまるところは、遊女。  
 分かってねえ、こいつぜんっぜん分かってねえ!!所詮は  
山出しの小娘だ!!  
 由緒ある身分でありながらそういった下世話な市井にも  
妙なところで通じた結城秀康はぶんぶんと頭を振った。  
「アオ兄、湯から出ろよ。今から背中流すから」  
「・・・いらねえよ」  
 秀康は酷く疲れた声で言った。実際、茜との短いやり取りでとても疲れた。  
だがその声がかえって茜の妙なやる気に火をつけた。ああ、アオ兄こんなに  
疲れてんだ。色々しんどいよなあ、そりゃそうだよなあ、  
いつも苦労掛けてるもんなあ、だからオレが少しは癒してやんなきゃな、などと。  
 茜は脅威に値すべき驚くべき朴念仁だった。  
「そう言わずに、ほら!」  
 言うなり茜はあろうことか湯船の中の秀康の片腕を掴んで引っ張ろうとした。  
 秀康は大慌てでその手を振り切る。ばしゃっと大きな飛沫が立って、  
危うく酒を載せた盆が引っくり返りそうになった。  
「だから構うなって!」  
「えーなんでなんでー?けちけちすんなよお」  
 その場で地団駄を踏みそうな勢いの茜に、秀康は眩暈さえ起こしそうだった。  
 いかん、このままこいつと阿呆な問答を続けてたら下手したら  
湯船の中で卒倒する。本気と書いてマジで。  
 その事態だけは避けねばと、秀康は眉間を強く押さえ、  
「分かった。分かったからお前、後ろ向け」  
「なんで」  
「いいからとっとと後ろ向けっ!!」  
 ぷうっと頬を膨らませながら茜が背を向け、秀康は手持ちの手拭いを  
申し訳程度に腰に巻いて、湯船からざぶりと上がった。  
 慙愧に耐えぬという顔をして、簀の子状の板敷きの流しにどっかりと胡坐をかく。  
「おら、存分に流しやがれ」  
「・・・へへへっ」  
 茜は傍にあった手桶を取ると、湯口からざぶざぶと溢れる湯を汲んで  
秀康の背中に掛けた。  
「やっぱこうして間近で見るとさあ」  
「なんだよ」  
「アオ兄の背中ってでっかいよなあ」  
 
 備え付けの糠袋で秀康の逞しく盛り上がった背中をごしごし擦りながら、  
茜が羨ましそうに言った。  
「オレもアオ兄みたいな体がよかったよ」  
「・・・なに言ってんだ。お前の売りは体躯を生かした身軽さと抜刀術じゃないか」  
 秀康のような大刀や、天海のような錫杖を扱うならばともかく、  
その二つには膂力はさして問題とならない。  
「そうだけど、たまーに鍔迫り合いとかやると、どうやったって押し負けちまうんだ。  
なんとか相手の体勢崩して抜け出すけど」  
「自分の不利に持ち込まないようにするのが一流の剣客ってもんだ」  
「でもさでもさ、戦場での使える選択肢はなるたけ一杯あった方がいいだろ?」  
 ばしゃん、と熱い湯が景気良く何度も背に掛けられる。  
「満遍なく能力を上げて自分の天井下げるより、一技能を特化させたほうが  
いいと思うぞ。ない物ねだりなんかが一番意味がないな」  
 むうーと茜が不満そうな声を漏らす。後ろにいるのでその表情は分からないが、  
その小さな唇をとがらせながら背中を流しているなと秀康は察しをつけた。  
 思わずふっと笑みがこぼれる。  
 なんだ、こいつ結構色々考えてるじゃないか。  
 流石は石舟斎殿の薫陶を受けた十兵衛の名を受け継ぐもの。と、少しばかり  
感心していると、ぱん!と高い音を立てて背中を叩かれた。  
「ようっし、終わり!」  
 そうか、じゃあお前は上がれと秀康が言おうとした瞬間、  
「じゃあ次は前な!」  
 なんですと!?  
 総身から血の気が引いた。  
 よもや聞き間違いではあるまいか、いや頼むからそうであってくれと  
秀康が神仏に手を合わせる心持で心の中で繰り返すのを露知らず、  
茜は大層朗らかな声で、  
「さ、アオ兄こっち向けよ」  
「いやだ」  
 静かに、しかし断固として秀康は拒否した。男の一徹にかけても  
否と言わねばならなかった。  
「いーって、遠慮すんなよ!前も洗わせろってば」  
 無造作に前方に突き出されてきた華奢な手を、今の今まで我慢を重ねていた秀康は  
思わず強い力で振り払った。  
「お前なあっ、いい加減に!!」  
 茜の無頓着な行動に、堪忍袋の緒が切れた秀康が後ろを振り向いて茜を  
怒鳴りつけようとした。  
 が、そこで秀康は見た。見てしまった。  
「・・・?なんだよアオ兄」  
 固まってしまった秀康に、茜が不思議そうな顔をする。  
 それは秀康の網膜にはっきり映し出された光景のせいだった。  
 湯の飛沫を被ったのか、ぴったりと茜の体に半ば透けて張り付いた襦袢が  
未成熟な女の稜線をあからさまに描き出し、湯殿の湯気に当てられて  
ほんのりと桜色に染まった頬とその肌。艶を帯びた黒髪が儚い首筋や  
腕に張り付いて、裾を乱した健やかな太腿からは、つぅっと湯の雫が流れていく。  
 とりわけ目を奪ったのは、小振りな胸の膨らみの頂に、ぽつんと浮かび上がった  
可愛らしい輪郭だ。  
 これが目の毒だった。附子なみの猛毒だった。  
 
 秀康は無言でぎしぎしと顔を前に戻し、ゆっくりと立ち上がり、  
そのまま緩慢な動作で再び湯船に浸かった。  
「あれ、もっかい入りなおすのか?アオ兄って風呂好きなんだなあ」  
「・・・・・・ああ。だからお前さっさと上行っ・・・・・・いや待て!  
その前に板間で着替えて部屋に戻れ!!」  
「オレこの格好で来たから着替え持ってきてねえよ」  
「じゃあ俺の単着ていけ!衣棚の中に入ってるから!!」  
 頼む!!(そのナリで旅籠の中をうろついてくれるな!)と  
拝み倒さんばかりに懇願しきりの秀康に、  
「えー?まあ別にオレは構わねえけど、でもアオ兄の着物ってでっかいんだよなー」  
と、小首を傾げる茜をやっとの思いで言いくるめ、湯殿から無理やり追い立てた。  
 やっと静寂が戻った湯殿の中、はぁああー、と奈落の底まで届きそうな  
深いため息を一人吐いた秀康は、ふと揺れる湯の中の自分の股座に目を落とした。  
 そこは腰に巻いた手拭いを、厚顔にもぐいと力強く押し上げていた。  
 秀康はがくりと肩を落とす。  
「・・・俺・・・女の好み変わったのか・・・?」  
 もしや自分は密かな童女趣味を持ち得ていたのかと、罪悪感と悲哀とに  
打ちひしがれる。  
 十四といえば秀康の世界ならば他家に輿入れしていてもおかしくはない  
年頃だ。それなのに茜に対して幼い印象を持ってしまうのは、あの天真爛漫、  
いや世間知らずで男女の事柄などさっぱり斟酌しない性格のせいだろう。  
 柳生の庄ではあいつにもう少し女らしい振る舞いや相応の知識を教えたりは  
しなかったのか、と秀康は酷く恨めしく思った。  
 そして俺はこの愚息が収まるまでずっと湯に浸かっておらねばならないのか、  
そしてそれはいつまでなのだ、と、灰燼の蒼鬼は尚更悄然と肩を落とし、絶望に暮れた。  
 そしてその後も度々彼は茜の分別を弁えぬ無邪気な行動―――――――  
目を覚ましたらいつの間にか寝床の中にもぐりこんでいたとか平気な顔で  
湯文字を振り回したりあまつさえそれを手拭い代わりに差し出してきたりだとか  
―――――――に振り回されることになるのである。  
 
 後日。  
 
 秀康は憤怒の形相で、巨大な刀の切っ先を、約十間ほどの距離を置いて  
相対する宗矩に向けた。その顔には憔悴の色が濃く漂い、ぎらついた眼差しには  
まさしく鬼気迫るものがあった。  
 そして、血を吐くような、鬼哭。  
「柳生はッ!年頃の娘にッ!どぉぉおいう躾けしてやがんだぁあああ!!」  
「・・・・・・ぁあ?」  
 空前絶後のガッカリ感。  
 
 
終  
 
 

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