「お業、起きろよ。いま、おめぇは、こいつの菊座を突いてんだぜ」
お業も男も反応はほとんどといっていいほど、示さない。欄干を背にした少女だけが、
苦悶の呻きを夜の羽切り台に放っていた。
「まあ、いいさ」
捨丸は、お業の尻の下にどかっと、腰を降ろして胡坐を掻く。少女は言いつけを守って、
苦悶しながら貌をくなくなと懸命にゆする。長い黒髪もゆらゆらと朱塗りの欄干を背にして
妖しく映える。手元に小柄を引き寄せて握ると捨丸は顔の前で鞘を抜いた。かがり火に
照らされてギラッと光りを放っていた。その冷たい刃を真横にして、お業の蒼白の臀部に
そっとあてて寝かせてみると、お業の内腿は刃の持つ冷気にぴくっと顫えて反応する。
ぴたぴたと叩いてみる。
「つくづく綺麗だぜ」
嬲り通しても崩れることの無い、お業の臀部に柄を握り締め刀先を立てて近づける。
捨丸は手を止め左手で口を覆った。夜風が肌に沁みるはずなのに、顔には粒状の汗が
噴き上がっていた。刃先を豊臀に突き立て腿にまで引き下ろしたい衝動に駆られた。蒼白な
柔肌に湧き水のように上がる紅蓮。しとやかな女の心を物にした男は壊せても、お業を
手にすることは出来ない。喘ぐ脾腹を両手のひらで強く抱きしめても、指の間から砂が
こぼれるように何かが流れていった。
「ざまあねぇな」
顔の汗を拭ってビュッと左手を切る。捨丸は握っていた小柄を置いて背を丸めながら、
夫の上に被さる、お業の足首もいっしょに括り始める。
「どうだ、お業。うれしいだろう……?」
「う、うれしい……」
お業の洩らした言葉は意味をなしてはいなかった。
「そうかよッ!」
荒縄をきつく締め上げた。
「うああっ!」
捨丸は胡坐を崩して、お業の夫の強張りをしゃぶっている少女の飾り毛の無い、濡れて
ひくつく綴じ目に足を伸ばして、くつろげる。少女は欄干に背をもたれ掛けながら、お業の
夫の逸物を捨丸の言われるままにしゃぶらされていた。
少女は膝を立て細くしなやかな脚を少し拡げながら、疲れる顎から唾液をこぼして頭を
動かしている。そこに捨丸の陰裂への嬲りが加わった。それまでにも陽根のおしゃぶりに
陶酔し始めていた少女は、膝頭を僅かに上げ下げをしてはいたが、急に脚を伸ばしては
引くといった動作をせわしなくやりだす。それは、男の強張りへの恥戯にも影響を及ぼしていた。
お業に覆い被さられて尻で繋がらされている夫は腿をひくつかせ、物憂げに尻を左右に振り始めた。
「ああ……、あ、あ……!」
望まぬ交媾に心が痛む。開いた口からは唾液が垂れて少女の黒髪を濡らしていた。
背の上の、お業は夫の背の顫えが自分によるものと思って、うなじに頬を愛しんで擦っていた。
男のうなじを天女の涙が濡らす。
お業の吐息が洩れてきたところで、捨丸は小柄を握り締めて、揺れる白い蒼い月に刀先を着けてみた。
そろりそろりと、お業の尻肉へ押し付けられ、笑窪がひとつ生れて元に戻された。
神の持つ刀ゆえに力加減が難しい。
『血を出すな。それをただ繰り返せ。いいな。根気よくだ。肌は裂くなよ』
黒蝿の去り際の言葉だ。二十回、五十回……、百回……三百回。捨丸は少女への愛撫を
おろそかにして、このことのみに囚われ没頭していった。
「う、うあ」
変化が生れたのは、五百回を越えた頃からだった。
「お業、黄川人は……どこにいる?答えろ」
「あ、ああ……、あ!あ!あ!」
千を越えた頃から、お業は泣き叫び、夫と繋がった尻を闇雲に振り始めていた。
衝き上げていたかと思えば左右に豊臀を振り立てる。菊座を嬲られる男も喚き散らす。
「お業、てめぇの餓鬼はどこにいる!答えろ!」
千百十四回……。
「ぎゃああああああああああッ!」
「ちくしょう……!」
左手で滴る汗を拭いて、黒蝿の小柄を台場の床に投げる。捨丸は立ち上がって、
お業の尻朶を割り開き屹立を菊座に埋め込もうとした。拇が尻肉に埋まるだけで狂ったように
躰をうねらせ、その顫えは覆い被さった夫へと確実に伝播していた。お業の振り乱す
長い髪を掴もうとした。
「やべぇ」
捨丸は、お業の菊座を嬲るのをやめ、屈み込んで少女の細い両足首掴んで、
ぐいっと躰を引きずり出した。
「おい、しっかりしろ」
少女の両の腕は、括りつけられた、お業と夫の脚に弾かれて、両手を頭上に掲げる格好
で引き摺りだされる。黒髪が散り、白く華奢な躰を真直ぐに伸ばしている。抉れている
とまでは言わないが、お業の乳房と較べるには、あまりにも惨め過ぎた。捨丸はそれでも
少女の肉に魅せられていた。
「羅刹……になったか。紅子」
捨丸は少女をそう言い名付ける。
「しっかりしろ」
かるく、少女の頬を叩くと「ううん」と声を洩らした。捨丸は右手で頤を掴んで口を
開かせ、左手の指で少女の口腔にしぶいた子種を掻き出してやる。
「おまえ、衣を脱いで、水につけろ。それをすぐによこせ」
「は?」
「いいから、はやくしねぇか!」
「はっ」
言われて、警備に付いていた武者は急ぎ鎧を取り去り、衣を脱いで欄干を跨ぐと夜の
湖に飛び込んだ。
「捨丸さま、行きまするぞ!」
下から水を含んだ衣が投げ込まれ、床にビシャッと叩きつけられた。捨丸は水を吸った
衣を取って絞り、自分の口に溜めてから、少女の唇に水を与えてやった。少女の喉がこくりと蠢く。
「捨丸……さま……」
少女がかぼそい声で鳴いた。
「気力がまだあるのなら、口を漱げ」
捨丸にしたら、少女は単に万朱院・紅子のよりしろ。今はそれだけの存在であり、
それ以上にあらず。しかし、帝に玩弄され尽くされていた少女にすれば、親のやさしさに近しい。
それが、恋と呼べるものなら、それでもいいと捨丸の腕をしっかりと掴んで肩へと手を這わす。
少女の頭が捨丸の厚い胸板へと埋まる。
少女の黒髪のやわらいだ芳香を捨丸は肺に送り込んだ。本院の間で日夜繰広げられる
会陽の儀の中にあっても崩れなかったのは、万朱院・紅子の神威の残り香に他ならない
少女のはかなげな美しさも微妙なさじ加減で捨丸を揺さぶっていた。
胸に埋まった頭から垂れる長い艶々とした黒髪が羽根切り台の床板に流れて拡がっている。
捨丸の胸板で少女の吐息がこぼれる。
ぽちゃぽちゃっとした鴇色の唇が、おんな赫い感触に思えていた。幻視という
高等なものではない。捨丸はただ、想い描いただけだった。
悪の中の善。善の中の悪。捨丸は苦笑した。最初は少女の中の紅子に惚れたのだと
思った。それが捨丸に人らしい所作のまねごとを生む。少女は捨丸に投げられた花のたね。
「お父さま」
かがり火の薪の立てるぱちぱちという音と風の声。それに、お業の狂ったような喚きが響く。
少女のかぼそい声は棘でしかなかったが、決して小さくはなかった。捨丸は髪を
鷲掴み、少女の貌と喉を晒して二度目の水を小さな華に注す。気は確かにしらけたはずだった。
「ああ……。ん、んんっ」
少女は捨丸に与えられた水を素直に飲み干した。
「漱げといっただろうが」
捨丸は少女を床に放り投げ立ち上がった。少女は床板に頭を打ちつけて悶えながら、
捨丸のいきり立った男の証拠を見た。お業との交媾を自分が邪魔したからだと哀しむ。
「も、申し訳ござりません」
少女は躰を横たえ、肘で這いながら捨丸を追う。捨丸は欄干に行って、登ってこようとする
部下を引き揚げる。
「すみません」 「いやいい。それよりも、頼まれてはくれねぇか」
少女は這って捨丸の足元に来ていた。
「なんなりと」
「お業と男だ。暫らくこのままにして、様子を見ててくれ。決して触れるなよ。
壊れちまうからな」
「わかりました」
「それから、縄をほといて、祭壇に戻しといてくれ。犯すなと言っているんじゃねぇ。
無理をしたからな。ちゃんと間を置けといっているんだ。いいな」「はい」「頼んだぜ」
お業と男が欄干に括られて叫ぶ姿を一瞥し、捨丸は足元に這って来ていた少女の白い
華奢な躰をひょいと掲げると横抱きした。少女は驚いて両脚をばたつかせてから、
申し訳なさそうに羞ずかしがって躰を胎児のように丸めている。捨丸は少女を連れて
本院を通り、左翼の天女の小宮の間へと歩いていった。
「おめぇは、勘違いをしてるんだぜ」
「……」
少女は捨丸の腕の中で丸まったままでじっとして動かずに息を潜めていた。
「俺はな、お前の中にいた紅子の影を見てるだけなんだ」
「……」
少女はコクリと頷き、捨丸の胸板にあてていた手を強張らせ爪を立てる。
「そうでもなきゃ、俺はおめぇみてぇな、おとめごは相手なんかしねぇ。わかんだろ?」
何故に、くどくどとそんなことを、この少女に説明しようとしているのかが捨丸の
内なる変化。
「それでも、よろしゅうございます」
「わかんねぇやつだなぁ」
蝋燭の灯りに照らされた、手狭な畳の間に入る。湖に面した露台に掲げられたかがり灯が
射してくるが、本院の間の狐火ほどの光量はなかった。少女の蒼白の肌は橙色に
照らされている。金箔を貼った襖に白い梅の花が狂い咲き。すべてが橙の世界だった。
捨丸は腕の中に一輪の華を抱く。それは忘れ草。八重咲きの綺麗な花なれども、
いまは蕾。おんなとしてはまだまだ未熟なほっそりと尖った頤に手を掛ける。
「あっ……!」
菜として、この少女を食す。少女のくちびるが、蛮族の荒れたくちびるにひしゃげ、
胸を掻いていた手が首に廻され瞼を閉じて涙が流れた。捨丸は少女の肉体を青い畳に
そっと仰向けに寝かせる。少女は寝かされて自分の意志で細い脚を心なし拡げてゆく。
おなじく細い腕は腰の傍に。含羞んだ貌は横に向けられ、晒された片方は長い
黒髪の房がそっと掛かって隠す。乳暈も小さく、その頂きの尖りも。仰向けにされた
乳房は更に膨らみを失って喘いでいた。
玩弄されたというのに、こうも気持ちひとつで変るものなのかと、部下が脱いだ衣で
穢れを捨丸は丁寧に清めてゆく。万珠院・紅子がよりしろにした少女の躰を。
「はあ、はっ……」
「逃げたければ、逃げてもかまわねぇ」
少女は貌を起こして羅刹の貌を見て、左右に小さくかぶりを振るった。
「俺は、お前を食うんだぜ。お業を嬲っていたのを、ずうっと傍から見ていただろに?」
「か、かまいません。好きにしてくださりませ」
捨丸は少女に覆い被さり、散った長い黒髪の上に両手を付く。
「ああ、そうさせてもらうぜ。ところでよ、紅子って呼んでもかまわねぇか?」
少女はコクリと頷くと、捨丸は傍の燭台を引き寄せた。
「あとで、逃げときゃよかったって思ってもしらねぇぜ」
少女は瞼をゆっくりと閉じて、頭を畳に下ろす。
「あっ」
少女は小さな声を上げた。捨丸は薄い乳房に右手を置いただけだった。ささくれ立った
捨丸の手が脾腹へと移動した。ざらっとした感覚が少女の肌を這う。少女は嫌われまいとして
右手の人差し指を曲げて、唇に近づけるとコリッと指を咬んだ。
「嫌ったりはしねぇ。紅子の声を聞かしてくれねぇか」
「うれしい。捨丸さま」
「俺の手、痛くはねぇか?」
少女は小さく、はいと嘘をついた。捨丸は、お業をいっしょに嬲った時、紅子に惚れていた。
少女を抱く気など、更々なかったのに万珠院・紅子の残り香に惹かれ強張りの尖端を稚い
躰に埋めたいと思った。天女をめとった男に嫉妬していたという心を否定したかったからか。
それなのに、やさしさのまねごとの波紋がどうしようもなく捨丸の中に拡がる。
捨丸は少女の脾腹を挟んだまま、下腹に顔を埋める。青い畳の上の贄は、蝋燭の灯りに
照らされ橙の萱草の花を咲かせる。畳に露がとろりとこぼれる。めのうを舌先でそっと触れると
紅子は美しい声音で歔く。
「はうっ。はっ、はあ……っ」
少女の躰がぐんと弓なりにしなう。
「挿れるぜ」
捨丸は先刻と同じ体位を取り、両手を少女の肩の傍に付いて見下ろしている。
「はい」
捨丸の醜悪な尖端が少女の清楚な佇まいの綴じ目を押し拡げて、ずぷっと沈み込んでいった。
「あぁああっ」
万珠院・紅子が離れてからは、少女の躰を抱いたものはひとりもいなかった。たっぷりと蜜を
したたらせているのに、締め付けがきつい。少女は捨丸の剛直に健気にしがみ付いてくる風情。
はやる気持ちを押さえ、そろりそろりと少女の華をひらいていった。
「あ、あっ、ああ……!」
「痛いのか!」
少女の腰の顫えが凄まじい。捨丸のがたいも逞しかったが、彼にも黒蝿が憑依していた躰だった。
常人の交媾で得られる以上のものを感じることが出来るようになっている。ましてや気持ちが
ふれあえば、忘我の境の法悦にさまようことに。
「紅子、脚を腰に絡めろ」
少女の屹立の埋まった下腹が激しく波打つ。華奢な躰を揺さぶられて畳を摺り上がって両腕を
投出して両手のひらで踏ん張るように畳に付いている。
「かまわねぇから、俺にしがみ付け。はやくしろ」
「はっ、はい!捨丸さま!」
捨丸は肘を付き、首に抱き付きやすいように上体を下ろす。
「あっ、あ、あ、あぁあああああッ!」
少女は脚を掛けてしっかりと捨丸にしがみつき、嵐に揺さぶられる笹舟になる。ゆれてゆられ
畳に脚が両とも弾き跳ばされる。膝頭を浮かせ、踵を臀部に持ってこようとするが、叶わず
畳へと伸びていた。
捨丸の首に少女の腕はとしっかりと巻かれ、苦悶する貌をそこに隠すが仰け反って
しまい喚いた。捨丸もその閨声に精を放ってしまう。少女の躰を、まだ、抉り続けたい
衝動はあったが、だらりとなった頭を手で支えてやると静かに寝かせた。捨丸が少女の
膣内から去ろうとした時、ぐったりとしていたはずの少女が躰を引きとめる。
「まだ、ゆくな。暫らくこうしていろ」
「紅子か?いつからだ。いつから、そこにいた!」
「なにをうろたえてやる。おとめごが哀しむぞ。ほれ、覆い被さってやれ」
「……!」
「おとめごはしてほしいというておるわ。きやれ」
捨丸は紅子の言葉に従い、黄金色の瞳に魅せられ、少女の躰に覆い被さっていった。
捨丸は少女の頭をやさしく撫でる。
「すまねぇ」
「よしなにな」
「なにいいやがってんでい……」
天上の最も神聖なる場所。霞が集合して、ひとりの麗人となる。
「お目通り叶えていただき、うれしゅうございます」 「呼んだのは我ら」
お輪は、お業の掟破りの行いの罰として自らの意志で籠っていたが、太照天・夕子に呼ばれて
神代よりの間に参上していた。その傍には、夕子の懐刀の常夜見・お風が、少し離れて
小さなイツ花がちょこんと座っていた。
「お輪、至急相談したいことがある」
お輪は真礼の構えを崩さず、頭を下げたままにいる。
「面を上げよ。お輪」
お風が、お輪に声を掛ける。
「はっ」
イツ花は、ゆっくりと顔をあげた、お輪を見て驚く。それは、お輪も同じだった。
上座に座っている乙女から、妹の気を感じていたからだ。しかも、その素質は、お風を
既に凌駕して夕子に拮抗する勢い。
「母さま……」
「これ、イツ花」
お風が紫苑の眼を見せた。
「構わぬ。行かせてやりなさい」
「はっ」 「母さま。逢いとうござりました」
たとたとと、下座のお輪へと近付いていって泣き崩れた。
「イツ花なのね」 「はい。母さま」
「イツ花。イツ花。よく、お聞き」
「し、しばらく……こ、このままで……いさせてくださりませ……母さま……」
イツ花は、お業と思って咽び泣く。夕子もそうしてやってくれと、お輪に向って瞼を
静かに閉じた。お輪は赤子を抱くようにして泣くイツ花をあやす。
「落ち着いた。イツ花」 「はい。母さま」
「イツ花。よく聞いてちょうだい。わたしは、お輪。目元の黒子の位置が違うでしょう」
「母さまじゃないのですか……」
「ごめんなさい」
「イツ花。わたしはお前の伯母上。お業が天上を去ったことで、籠っていたから
逢う機会が無かったの」
「ごめんなさい……」
「あなたは謝らなくともよいのよ。わたしが、択んだことだから」
抱かれていたイツ花は、お輪の言葉に不思議そうな貌を向けていた。
「お業とわたしは、ふたりでひとり。もとは、ひとりのおんな」
イツ花の小さな手が、お輪の衣をしっかりと握り締める。
「お輪、相談のことだが」
「はい」
「いや、そのままでよい」 「はっ」
躰を硬くしたイツ花をやさしく抱き締める。
「お風、お前の口から話してやってくれまいか」
「かしこまりました。お輪、現状は知っておるであろう。すべてを見たはずだ」
「はい」
「それでも、われらに組するか問う。いかがする」
「わたしは、お輪は、お業の仕出かした始末をしたく思います」
イツ花の躰が、びくんと顫える。
「ならば、話そう。これは先々のこと。掛かる災厄に備え、お業の夫が転生した男、
壬生川源太と添い遂げ子を生して欲しい」
「な、なんと申されますか」
「お前はイツ花の素質を読んだであろう。なら理解したはずだ。黄川人は歩き出した。
それしか、道は無い」
「わかりました。お風さまがいうのならば必定。わたしは、それにしたがいます」
「覚悟は出来ておるのか」
それまで黙っていた夕子が口をひらく。
「黄川人が虚無を呼び込もうとするのならば、わたしは闘います。いまここに
誓約(ちかい)ます」
イツ花の泣き声が大きくなっていた。
「黄川人をいじめないで。伯母上」
「黄川人は、あなたが愛した花までも枯らそうとする。それを止めなくては」
「まだやさしいのに。どうして、みんなでいじめるの。どうして黄川人をいじめるの」
「イツ花。お前は、お夏を赦す……」
「言うな、お風!」
イツ花は、お輪の胸でわっと泣き出してしまった。夕子は右脚を引き、爪先立つと
すっと立った。お風も後に続く。
「泣き止むまで、イツ花の面倒を見ていてやってくれ」
「はい。夕子さま」
ふたりは瞼を閉じて、躰を霧散させて、この間を去っていった。
山のほんの小さな岩清水の流れがやがては川に、いつしか大河となって海へと
流れる。それまでにも川の道はさまざまにくねる。まっすぐな一本道ではありえない。
曲がりくねった場所には清流といえども、よどみができ濁り始めることになる。
ここに神と人の絆の蜜月を終えかけた、もうひとつの国があった。それまで、この国を
助けた水神はひとりではなかった。手弱女の神たちが集いし国。水都。民に知恵を授け、
地下に大掛かりな水路を設ける。暗渠。水神の差し伸べた手により繁栄を見た民たち。この国。
しかし、よどみは始まっていた。そこはかとなく。終わりは避けられないもの。
人の知恵はいまだ稚い。人魚の肉、食せば永久の命を授かるという噂は、戯れから端を
発したもの。酒の席で人の命の儚さを嘆いた男が、神を妬んで口からでたよまいに、人の欲が絡む。
沖で網に掛かった人魚がいた。まだ稚き娘。男に泣きながら命乞いをする。
もし、助けていただけたなら、ずっとお傍におりますると。男は大きな醸造用酒樽に敦賀の水を張り、
そこで人魚を。――飼った。紺青の大きな瞳に褐色の肌。満月の夜になると、人魚は男を
誘った。上に上がってきては、パシャ、パシャ!水面を尾ひれでやさしく叩く。
妙かなる歌声で男を招いた。男は衣を脱ぎ捨て酒樽の水の中に飛び込む。紺碧の腰までの
長い髪が水面に妖しく拡がる。月明かりに人魚の瞳がキラッときらめいて、男は真名姫と呼んで
頭を掻き抱いて唇を重ねる。男の滾る強張りは真名姫の股間の位置にあった。
真名姫は人魚。下肢は魚のそれ。ぬるっとした感覚が男の逸物に心地よい。男は真名姫から
顔を離して見詰め合う。濡れた髪の房が真名姫の大きな眼から頬に掛かっている。
真名姫は立ったままで、水をゆるやかに掻いて抱き合う体位を保っていた。
「ねえ、わたしにしがみついてみて」 「……?」 「はやく」
真名姫は細い指を男の下腹に這わして、屹立を握る。潜って口に男の逸物を咥え込み、
精を吐かせたことも。
「ほら、わたしの腰に脚を絡ませて」
真名姫の両手のひらが水から出て男の頬を包むと、浮いていた月影が歪む。男の脚が
真名姫の魚の腰にしがみ付くと、真名姫は腰をくねりだす。
「ああっ、あ……!」
「どう、気持ちいいでしょう。もっと、してあげるからね」
真名姫は男の背中を抱くと、水にもぐって海とは較べるもない、この狭い空間を素早い
動きで自在に泳いで、男に気を遣らせる。真名姫は泳ぎをやめると男の口に、お雫を与え、
息継ぎをさせる。真名姫の股間にへばり付く、人の精液。鈴口からまだまだ噴き出る男の
白濁は原初の生物のようにたゆたい、真名姫の水掻きでなびく髪に近付く。
いたずらっぽく指に絡んだ子種を舐め取っている。もうひとつが、真名姫の褐色の
まるい肩に近付き、男の手がそれを遮ろうとするのを真名姫の手がすうっと伸びて、
また細くしなやかな指に絡め取り微笑むと口に含んだ。こぼれた気泡が銀の
蛍となって水面の月に吸い寄せられてゆく。
男はそれを見て逸物を甦らせ、真名姫の咥えた指を取ると、可憐なくちびるに吸い
付いていった。敦賀ノ真名姫(ツルガノマナヒメ)は、大きな瞳を更に見開いてから、
静かに瞼を閉じる。
げにおそろしきは、人の心。その豹変した貌。迷信を信じる者にとっては、迷信に
あらず。真にほかならない。この国の姫、病によりも寵愛された若さの時の姿が脆く
崩れるのをなによりも恐れた。留め置きたい女心に、手弱女の神たちは姫との関係を
ひとりまたひとりとほといてゆく。
そして、男は金と地位に眼が眩み、真名姫を。――差し出した。
「水面が湧き水により幾重にも紋を描き、膨れ上がっております」
最後まで残ったのが泉源氏(センゲンジ)お紋。天上に去る刻、人魚の朽ちする肉を
喰らおうとする姫に言ったとか言わなかったとか。
「おなじ歳をごいっしょに過されたことが尊いのです。若さだけが全てではありません」
「お紋には永遠の生と美貌がある。わらわもそれが欲しい。その苦しみ判るまい」
「……姫。我らの苦しみをおわかりでしょうか」
「もつものと持たざるものの違い。それが、人と神の壁であろう。かつて愛された貌が
失われていく苦しみ、そちにはわかるまい?それを退ける術があるというのなら、
縋りたいのじゃ。それが、人。言葉では判っていても、すでに肉が献上されておるなら
試してみたい」
「民と秤にかけても。にございますか」
「お紋は水を止めるというのか?」
「我らはそのようなことはいたしません」
「しかし、この切り身を食せば変るというのか?」
「さようにございます。その人魚は黙ってはいないでしょう。さすれば、一本道。再考を姫」
「なにゆえじゃ。なにゆえ、そうまでしてわらわに」
姫は、お紋に詰め寄っていた。
「わたしが、憎いのですか、姫?」
「憎い。憎いわ!お紋の美貌が!そのわらわを憐れむようなやさしさが憎い!」
お紋は遠き昔を見る哀しみの眼。
「そのような、瞳でわらわを見るな!そなたの人外にして艶々とした藍色の髪。
透通った素肌。そのどこまでも澄んだ湖のような瞳。わらわにはないものじゃ……!
欲して手中にできるものなら……ほしいのじゃ」
「……」
「そのような……眼でみる……な。わらわを……お紋」 「……」
姫は袖で隠していた貌を曝け出す。
「わらわの眼をみよ、お紋。血走っておろうが。嫉妬しておるのだ。日々衰えるのは、
わらわのみ。男子は乙女をもとめるものじゃ。この苦しみの眼。見覚えがあろう。
神代の昔の人のものではないのか!」
闇という言葉がそこまで出掛かっていたが、姫は咄嗟に呑み込んでいた。
「存在そのものが、我らが罪。ゆえに、われらは人との絆、欲しました。さようならば、
おいとまを申し上げたく存じます」
「さらばじゃ、お紋」
去ったのは病に伏していた姫のほう。姫は膳には手を付けずに、立ち上がると外の
景色を眺めに出て行った。露台で水都の繁栄した姿を見渡す姫。
人は誰しも水を敬う。水無しでは生きられないさだめからか、摂理に、流れに身を
任せる。巨大な暗渠により、水害もほとんどが退けられて、豊穣の秋を迎えるまでに
なった水都。
泉源氏・お紋は立つ。より近しい絆が築かれていた、神と人のみのり時。姫の後ろ姿に
笑みを送り、姿を霧散させる。その気を感じて、姫はそっと涙した。水に流すは叶わぬ
ことと知って。自分の欲との折り合いの付けることの出来なかった姫は、お紋に詫びて、
暮れそうな水都の空を見上げる。お紋は去り際に、姫に口吻ると、そっと気づかれぬように
若水を――お雫を与えて天上へと往った。
欲に眼が眩み真名姫を引き渡した男。連れて行かれる時の真名の叫びが耳に
こびりついている。自分の名を必死になって叫ぶ真名。すがりつくようなまなざしで、泣き叫ぶ愛。
真名姫の自分の名を呼ぶ声音が忘れられなかった。男は屋敷に赴き真名姫を取り戻そうとして
面会を申し出た。男は屋敷の奥へと通されて座して待つ。
屋敷の主が入ってくると、居ても立っても居られなくなり座したままで膝で詰め寄り、願い出る。
「真名を返していただきたく、参上いたしました」
「そなたは、感情がふりこのように揺れているだけだ。真の心ではあるまい」
「ちがいます!わたしは、真名を愛しております!」
「愛していると?」
屋敷の主は男の前にしゃがみこんで訊く。
「嗤われても仕方ありませんが、元に戻したいのです。すべてを元に」
「人魚は異形の者。人ならば、人の倖せを求めてはいかがかな?」
男には幼馴染がいて、将来を約束した仲でもあった。人魚を手にしてからすべてが
狂ってしまう。真名姫の無邪気な誘いに、その躰に惑溺した。なによりも、人ではない
美しさに惚れていた。たとへ、陽と陰での交媾は出来なくとも。幼馴染の娘は去り、
仲間たちも男のもとを去って行った。
「しあわせ……ですか?」
真名姫の躰に耽溺した日々の代償として失くしたものを取り戻そうとして売ったことを悔い、
その真名姫をいまいちど心から抱き締めたいと思う男。こころから。売られてゆく時の
真名の瞳が焼き付いていた。
「さよう。あの金子で足りなければ、もっとお前にやろう。それで、あきらめよ」
屋敷の主が立ち上がって去ろうとするのを、脚にしがみ付いて引き止めに掛かる。
ここで、殺されてしまうかもしれないという恐怖はなかった。あるとすれば、真名姫が
いまどういう状態に置かれているかということだけ。
「無理を承知でお願いいたします。あ、逢うだけでも、お赦しできるなら、なにとぞ。
なにとぞ、ひと目だけでも逢わせていただけないでしょうか!」
「それで諦めることができるのか?」
「は、はい……!」
男は涙があふれ始めると、屋敷の主は彼を見下ろして、人魚に逢わせてやるとだけ言うと、
心底喜んでいた。主の口元が微かに嗤う。男は真名姫に詫びて、赦す赦さないに関わらず、
その場で舌を噛み切って死ぬ肚積もりでいた。
「どうした。来ぬのか?」
「は、はい……行きます」
男は立ち上がって、主人の案内で更に奥へと通されていく。部屋を出て廊下を何度か右、
左と迷路のようになっていて、やがて薄暗く細長い狭い廊下の一本道が見えてきた。
人ふたりが通れるくらいの幅。真名を連れ出して逃げるのは不可能だということを
無言のうちに男へ知らしめる。男は息苦しくなっていた。遠くに見えてきた先には部屋の
入り口の無い、ゆきどまり。主人の持った蝋燭の火だけがよりどころで、その灯が
消えれば闇に包まれることが男には恐ろしい。自分の真名姫を主人に売ったこころを
見透かされているようでいてたまらない。
「あ、あのう……」
男はこめかみに汗を噴き上げさせる。
「なにかね?」
「真名は……。ご主人は姫さまに肉はすでに献上されたのですか……?」
「ああ。そのことかね。もちろんだとも」
男は生唾をごくりと飲み干した。
「でもね、切り出すと、すぐにも朽るもので、ほとほと困ったよ。でも、仕方がないからな」
「……」
「それからね、頬か、乳房か下腹かでは迷ったがね。下腹の肉には鱗があって、
それが厄介でね。人魚だからいいと言うかもしれないが、それではあかしには
ならないということで、肉桂色の乳房にしたんだ」 ゴトッ! 「おや、だらしないねぇ」
男がその場に倒れ込むと、壁が反転して下僕が現われ、らくらく担ぎ上げると主人と
いっしょに地下へと降りていった。地下は細い廊下ほどには暗くはなかった。蝋燭の灯りが
何本もあって、橙にあたりを照らすが天井までは及ばない。そして、この地下の状態を
醜悪にしていたのは湿っぽさと、魚の生臭さに血の臭いが混じっていた。
「このくさ、なんとかできないのか?」
「はあ、五日に一度は生簀の水は換えておりますが……」
「おりますが、なんなんだ」
「出るものはどうしょうもないものでして」
「糞尿かい?」
「さようにございます」
地下の土間は石打ちされ、中央には大きな生簀があり縁に両腕を拡げられて括られた
真名姫がいた。ひれの括れには鎖が掛けられて下には腰を跳ねないように重石が
繋がっている。首から上が水面から出る格好になっていて、憔悴しきっていた真名姫は顔を水に
付けたままでいた。
「おい。死んだんじゃないだろうね」
「さあ……?」
「冗談じゃない」
主人は小走りにひたひたと近付いて膝を付いて顔を伏している真名の様子を窺い、水面に妖しく
散っている髪を眺め暫し見蕩れていた。蝋燭の橙に照らす水面に真名姫の深く黒とみまがうほどの
藍の髪が拡がっている。
頭の飾りの珊瑚石を払って、面を水から引き揚げた。真名姫は瞼をひらいていて、
主人をじろっと見ていた。その形相は鬼だった。しかし、真名は鬼ではない。鬼であれば、
人の網などにやすやすと掴まりはしなかった。法術を遣い災いを自ら駆逐したであろう。
「はあ、はあ、はあ……」
髪から振り払われた淡い紅の珊瑚の飾りがゆらゆらと濁った水底へと堕ちる。肉桂色の顔に
鴇色の綺麗なくちびる。口がひらかれて、濁った水がでろっと流れ出た。主人はもう一方の手を
水にザブンと突っ込んで乳房を弄った。 「あ、あぁああ……」
真名姫はかち色の柳眉を吊り上げさせ眉間に苦悶の縦皺をつくる。主人は搾るように
乳房をいらってから、肉を裂いたほうの乳房をやわやわと撫でてみる。
「元に戻っているな。多少は抉れていても、張りも前みたいだ」
主は真名の肩に唇を付けてヒルのように吸いつくと、舌で舐め廻し首筋に移動する。
真名姫はいやいやとおぞましさを振り払って顔を動かしたら、下僕の肩にかつての愛しい男の姿を見た。
「どうした。もうおしまいか?」
その瞳の色を覗けないのを残念がりながら、屋敷の主は真名の首筋を強く咬んでいた。
「ぎゃああああッ!」
歯型が残る程度で、肉を喰い千切るほどには歯は立ててはいない。その傷も日数が
経てば消えてしまうもの。おもちゃにされているだけだった。乳房に刃の切先を立て、
肉を削ぎ取って皿にぺとりと緋色の肉を盛ってみる。
一時もしないうちにみるみる朽ちする肉におぞましさが募った。それが人魚の肉。
真名姫の肉だった。だからといって生簀に飛び込んで拘束された真名姫の裸身に
しがみ付きながら、歯を立てて肉を喰らう者など誰ひとりとしていなかった。
細い首から血が流れ、生簀の水に雲影を描いてゆく。真名姫は歯を剥いて
唸っていた。主が髪の房を掻き分け頬を撫ぜる。生簀の水がざわめいた。
「思い出したのか。男への憎しみを?」
髪を鷲掴まれ、ぐいっと顔を向かされる。真名姫の眉根が寄る。眼の奥には青白い炎。
担がれていた男は床に投げられて気が付いた。
「う、うあぁああ……。ま、真名。忘れられなかった……。逢いたかったんだ!」
真名姫は屋敷の主に向かされている力に抗って正面を見たが、男の言葉に
直ぐに横に捻る。真名姫の首に胸鎖乳突筋がくっきりと浮かんで窪みをつくった。
しかし、真名姫の肩も乳房も上下に烈しく揺れ水を動している。
「別れのときの真名の眼が忘れられないんだ!ひとこと詫びたかった!赦してくれ、
真名!いまさら、こんなことを言えた……!なっ、なにをする!」
男は這って生簀の中へ入ろうとすると、下僕が足首をむずんと掴んで引き戻した。
指先を床に立てて引き摺られまいとする男の爪が割れて血を噴く。
「真名あぁぁぁ!」
自分の名を呼びつける男の悲痛な声を敦賀ノ真名姫はかたくなに拒んでいた。
瞼を閉じた真名姫の長い睫毛が微かに揺れている。眦には光るものがあった。
「憎いんだろ?その願い叶えてあげようか」
屋敷の主は反対側にいる下僕に手で合図を送る。男は掴まれた足首をぐんと振られて
仰向けに転がされ、頤を大きな手で掴まれ口をひらくと布切れを無理やりに咥え込まされた。
「ぐううっ!」
暴れる男の脚を拡げて裾を割り、刃物で腰布を切り裂いた。鼠蹊部からは血が噴き上がる。
「んぐううっ!」
「奴の肉を喰わせてやるよ」
男は股間に刃先をあてがわれ、両脚のあわいの物をスパッと袋ごと切り取られ、真名の
胸元に、ぼちゃん!と放り投げられた。
「ひっ!」
屋敷の主は水に沈む男の逸物を掴んで真名に見せ付ける。
「ほれ、口をあけて喰え。さすれば、お前の怨みも晴れるだろう」
男の尖端でくちびるをこじ開けようとする。真名は小鼻を摘まれて、不承不承ひらくと
切り取られた逸物を口腔に捻じ込まれる。逸物から滴る血が恐怖に怯えた真名の貌を
濡らした。
真名姫は閉じたい瞼を堪え、向こう側で苦しみ悶え転がる男を見ていた。男の股間からは、
おびただしい血が噴出している。下僕は狂ったようにのたうつ男の躰を蹴飛ばして
生簀へと投げ落す。真名姫の喉がごくりと蠢き、涙で濡れながら男の逸物を嚥下する。
「んあっ、あ、ああっ!ば、ばけものッ!こっ、殺してやるッ!ころしてやる!おまえらを殺してやる!」
叫んだ後に、声が出なくなった。真名姫は喉に刃をあてられて、すうっと、真横に引かれていた。
いくら叫んでもシュウシュウと音を立てているだけで声にはならない。
真名に映る絵は血に染まっていく水面にはバシャバシャ!と水を掻く愛した男の手が見えていたが、
視界が闇に包まれると同時に、くるくると回転しながら生簀の底に沈んで、男は動かなくなっていた。
「姫さまは、お前の肉に手をつけられなかったとさ。これが、そのつぐないだよ」
主人は真名に吐き捨てた。不思議と真名の躰に苦痛はなかった。眠るような心地よさに包まれている。
だけれども、躰は怒りで熱くなった。しかし――真名には力がない。そうでなければ、人に捕まりもしなければ、
こんな生簀に囲われてもいない。
『ねえ、こいつらを殺してやりたいのかい?』
真名の見ひらかれた瞳には漆黒の闇が映っている。そこに臙脂色の狩衣をまとって、
紫苑の帯を締めた華奢な躰の少年が見えていた。衣には緑青色の龍がのたうつ紋様。
髪は炎のごとくの――からくれない。
真名姫には少年が少女のようにも思えたが、こんな目に合わされた屋敷の主よりも
遥かにおそろしくあって、自分の貌が歪んでいるのがわかった。
『あのさぁ、真名姫。真名でもいいかな。はやく決めちゃわないと時が砂のように流れるよ』
「ど、どうしたらいいの……?」
『真名の躰をボクが貰う』 少年らしからぬ、落ち着き払った低い声音。 「もらう……?」
『きみのお尻の狭穴をボクが犯すのさ』 「……!」
とんでもないことを少年は真名姫に言っていた。しかし、真名にはそれが必然のようにも思える。
だが、少年の邪な気に怯えがあった。愛した男が交媾を迫った時、拒んだことにあっさりと
引いてくれて、真名を傷つけたことを詫びたことがあったから。でも、ふたりが蕩けあった蜜月は終った。
うらみを晴らす力が欲しい。
『どうしたんだい?時間がなくなっちゃうよ。キミの喉笛からはドクドクと血が流れているんだよ』
小さな傷ぐらいは非力な真名姫にも再生能力で守られてはいたが、大きなものは憔悴
しきった現在の真名には不可能だった。
「……」
『それで、キミはいままでの真名姫ではなくなる。ちからを手にできるんだ。ほしいよね』
「……!」
『キミが愛した男は今、どこにいる?生簀の底で動かなくなっちゃっているんだよねぇ。
辛いだろう、真名。キミを想って助けに来たのに、力がないばっかりに詫びて舌を噛んで
死ぬつもりだったらしいよ。人って、つくづく馬鹿にできてるよねぇ、ほんとに』
「あ、あなたは……いったい誰……なの……?」
真名は黄川人の最後の言葉を聞き流していた。少年の圧倒的な気がそうさせている。
それとも、少年の妖しい黄金色の瞳がそうさせるのだろうか。怒りと微かな哀しみ。
真名姫はその瞳に魅せられ始めていた。
『ボクは黄川人だ。滅んだとある国の皇子さ。これからも、仲良くしてね、真名姫』
黄川人の姿が真名の前方の水面にツンと爪先を着いて降りると、手を差し伸べる。
『ほら、手を伸ばしてごらんよ』
敦賀ノ真名姫は黄川人の幻視の中にいた。
「わ、わたしは縛られているの……」
『だいじょうぶ。ボクの手にキミの手を載せてって想ってごらん』
真名は黄川人の差し出された手を見つめ、縛られていた手を動かす。真名の手を黄川人が取った。
『アッハハハ……、いい娘だ、真名。ほらね。ちゃんと握れただろう』
生簀の血に染まった水面がザザァアアアッと渦を描き始める。
「な、なんだ!どうしたんだ!」
屋敷の主人は真名姫から離れて腰を抜かして壁のほうに後退っていた。地下室に
灯っている蝋燭の火が揺れ、ふっと掻き消え闇に呑まれたら、急激にあたりは明るくなっていた。
狐火が次々に灯ってゆく。生簀の渦の中心からは、殺されて水底に沈んでいた男が
躍り出て空中で止まると頭を垂れたままで死人の眼が下僕を見詰めている。虹彩は黄金色に
光っていた。煌めく色なのはずなのに、そこはかとない暗い色。
「ひっ、ひいいいいいッ!」
だらりとなっていた男の右腕が腰を抜かしている下僕に向けてあがると、片手で首を
絞める仕草をする。
「ううっ、ぐっ、ぐげぇっ!」
下僕の喉の軟骨がぐしゃっと砕ける鈍い音がして、口からは血の混じった汚物を吐瀉し、
舌がだらりと垂れ。
血の渦の真上に立つ男が物を投げ付ける所作を取ると、がたいの大きい下僕の躰が
ひょいっと宙に浮き石壁に叩き付けられ、血糊を、びしゃっ!と壁にしるす。
「ひえぇえええええッ!」
男は躰を、くるっと、屋敷の主に向けると、つううっ、と宙を歩んでくる。
『ほら、言ってごらんよ、小悪党。命ばかりは、お助けをってね。アッハハハハ……』
真名姫は目の前に浮いている男の黄金色の瞳を見上げていた。好む、好まざるに
関わらず、それは男の手が屋敷の主によって切られた真名の喉の刀傷を右手で
抑えていたからだった。
『真名、もうだいじょうぶだよ。安心をし』
その言葉と同時に、男の躰がパァアアアン!と粉々に砕け散った。真名の顔にも男の
血肉が飛び散って、紺青の瞳を瞬かせる。屋敷の主は小柄を落として四つん這いになって
逃げようとあたふたしている。男の躰が弾け飛んで、現われたのは真名が闇の中に見た少年。
真名は紺青の瞳を大きくした。次の瞬間には、真名姫の躰は生簀の渦の中央に浮かぶ黄川人に
横抱きにされていたのだった。
「あっ、あ、あ、あ……ああ……!」
尾びれに括られていた重石も、手首を縛られていた荒縄もなかった。黄川人の白い手が真名の
顔に掛かった男の飛び散った血肉を払う。顔をそっと撫でてビシュッ!と払い肉片が水面に散った。
「あ、あ、ああ……」
『真名姫、キミの手をちょっとだけ借りるからね』
黄川人は真名の手を取ると、人差し指を屋敷の主へと向ける。渦から水が人差し指に
吸い込まれるように竜巻みたく小さな螺旋を描いて指先に収斂された。そして水が針になって
飛び出してゆくと、逃げる主人の額に突き刺さった。
「きゃあああああああああぁぁぁッ!」
自分を助けに来てくれた男の躰が、ただの肉片になってしまったという事実だけが、
真名姫の意識にどどっと流れ込んで来る。真名姫は黄川人に抱かれて、ありったけの声で喚いていた。
『これからだよ。すべてはこれからだ。真名姫、よろしくね。アッハハハハハハハ……』
生簀のすり鉢のようになっていた血渦は、嘘のように静かになっていて人魚を抱く
少年の姿を血の鏡が映していた。一切水面を揺らさずに、黄川人と真名姫の姿は朱の
鏡に沈んで消える。暫らくして、天井に飛び散っていた肉片が水面に、ぼちゃん!と落ちて
波紋が拡がり、狐火はふたりが去った後に一瞬ですべてが消えた。
屋敷の者たちが主人を探してこの地下の生簀に下りて来た時、その異様な臭いに
鼻を押さえた。たいまつで照らすとそれが血の臭いであることがわかった。充満していて、
その凄惨酸鼻な眺めにもあてられ、口を押さえていても、吐瀉物が指の隙間から噴いて
うずくまる。うずくまった場所も冷たい血にべっとりと濡れていた。
真名姫は海岸に連れて行かれて、黄川人に躰に掛かっていた血肉を丁寧に洗われる。
喉に黄川人の指先がそっと這い、焼けどの痕のような刀傷が跡形もなく消えてゆく。
「あ、ああ……」
感謝の気持ち。否、絶対的な恐怖が真名姫を支配した。磯岩に真名は背を預けさせられ
黄川人は岩に左肘を付いたままで見詰めている。傷をなぞった指は頤の線を撫で、
真名姫の鴇色のくちびるに触れた。
「もう、しゃべれるよ、真名」
「あ、あ……」
「ボクのことがこわいんだね」
真名は涙を流しながら瞼を伏せて長い睫毛を、ふるふるとさせている。
「あり……がとう……ござ……」
黄川人のくちびるが真名の妙かなる声を遮って重なり、崇拝という心と共に力が流れてくる。
立ち込める霧の海辺に朝陽が昇る。それは真名の見慣れた風景などではなく、生簀の
血の世界そのものだった。薄く瞼をひらいて見ていた真名の紺青が涙に潤む。
そして、口吻といっしょに黄川人の感情も流れ込んでいた。哀しい少年は真名にくちびるを
押し付けてくる。
(わたし、あなたのお母さまじゃないの……に)
それもつかの間、恋人のそれに変っていた。かつて男が真名にしてくれたように、真名も
男にしたようにして心は霧のなかへ。
黄川人の舌が口腔に挿って来る。陽は血の色を薄めて、黄川人の瞳になって辺りを
照らし出す。挿って来た舌は何もせずに留まっている。吸えと語っていた。
真名はおずおずと黄川人の舌に絡めて吸った。肉桂色の指が唐紅色の髪に絡み深く
埋まる。力が満ちてくる代わりに、男の記憶が薄らいでいった。真名姫は男の為に最後の
涙を流す。はらはらとこぼれた雫は真珠になって波に揉まれながら水底に堕ちて行った。
黄川人の手が真名の手首を取って磯岩にしがみ付くように促した、誓約の刻。真名の手は
顫えるが、素直に従って黄川人に背を向けて磯岩へしがみ付く。波が真名の顔を打って
髪が乱れる。褐色(かちいろ)の髪の房が頬から肩を斬り裂いて垂れて掛かって、真名姫の
尖った頤が苦悶に引かれる。磯岩にしがみ付いている両手が強張った。
「ああっ、たっ、助けてぇ……。いっ、いたいっ!」
真名の堪え切れなかった、かぼそい声音が岩に染み入る。真名姫の額が岩にふれると
黄川人の手が滑り込む。
「だっ、だめぇ……かんにんして。あ、ああっ……灼かれ……るううっ……!」
少年に助けられた命だった。ならば、このままここで燃やしてもいいとさえ思えた。
「……」
黄川人の肉柱が容赦なくズッズッと挿り込んで来る。ぷくっと膨らんだ乳暈とむくっと
もたげた愛らしい真名姫の乳頭が岩肌に擦れた。
「ああ……!」
真名の躰の堪えていた緊張が弛緩して黄川人の強張りが一気に狭穴に埋まって恥骨が
臀部にぶつかっている。変化は既に現われていた。真名姫の肌理のなめらかさは既に
元通りに艶を増している。力の変化にも及ぶ。しかし真名は、人に乳房の肉を削がれた様な
感慨も人知れず抱いていた。
与え奪い合うという愛の律から、それとは違っていて真名を不安がらせている。真名の躰を
黄川人の強張りがいっぱいになって占めて重い呻きを洩らす。
「ひよわな真名を灼いているんだ。こんどは、キミが狩ればいい」
黄川人の尻が動き出して真名を衝きあげた。
「あっ、あ、ああっ!」
(なにを狩るの……?人……、それとも、あなたを……?)
黄川人の唇が真名姫のうなじを這うと、苦痛はやわらいで肉に馴染みはじめた吐息が
くちびるから切なく洩れて、背中には黄川人が真名を呼ぶ囁きで濡れている。
真名姫は黄川人の哀しみに触れていた。この華奢でろうたけた少年が自分の躰を
利用したいのならと、黄川人へ向ってひらきはじめている。人に寄っていた敦賀ノ真名姫の心は
黄川人に寄り添った。
黄川人は真名姫の躰を畳で手まりを転がすように表情を変える女体を愉しんだ。
芯に綾糸を巻いて描き出す錦の手鞠。真名はそれよりも美しかった。真名も黄川人の躰に
耽溺する。あらぬところで繋がって。どこまでも堕ちて行く感覚に顫えた。どこまでも
海の深い場所に向って潜って行くような感じだ。黄川人の肉茎で躰は火照っているというのに、
深海の冷気に包まれているみたいにして、素肌が何かを感じると黄川人の突き上げに
意識が跳ばされる。
「いやあっ、ああっ、あぁあああ……!」
日輪の閃光に眩み、気が付いた時には真名は黄川人に相対して尻を抱えられていた。
真名姫の魚の下肢が人の物に変化し、ひらかれて淡いに肉茎を咥え込まされている。
真名姫は黄川人の首に腕を絡ませて肩に顔を埋めて歔く。割れた脚が黄川人の腰を
挟んでいるだけで、真名の意識は跳びそうだった。生れたばかりの素脚が快美に呻いていた。
だらしなくひらいた唇からは唾液がこぼれて黄川人の肩を濡らしている。
「これから、行くところがあるんだ、真名。キミのたすけが必用なんだ。いいね?付いて来てくれるね?」
黄川人のなよやかな肩に真名姫の細っそりとした頤が、うんうんと刺さっている。
「いい娘だね、真名姫」
黄川人の手が真名姫の髪と背をやさしく撫でる。これまでにないくらい火照るというのに、
心は冷たく感じてしまう。黄川人の手が真名の尻を抱える。脚を腰で絡めよという。
真名は従った。従うしかなかった。
「どうして、弟をこらしめるのですか?夕子さま……。わたしが女子で……黄川人が
男子だからでしょうか」
同じ力を有した者がふたりいることは、後々の争いの元。事ここに及び、そういった
考えもあることを否定するつもりは夕子にはなかった。
「そうです。否定はいたしません。昼子、わたしを怨みますか?」
イツ花は、お夏を感情の昂ぶりのままに、怒りをぶつけて猫に変えてしまったことを
酷く後悔していた。お風の言った通りイツ花の中で、お夏を赦す赦さないは別のところにあった。
両親に課せられた行いにしてみても、とうてい納得できるものではなかった。時折、
どうしょうもない感情が渦巻くこともある。しかし、そのお夏は夕子によって跳ばされて
行方知らずに。イツ花は霧のなかを、いまださまよっている。
「夕子さまは花のあるがままの生命を愛でなさいとおっしゃりました」
対等の立場で夕子はイツ花と向かい合っていた。イツ花が太照天の間に訪れた時、
お風に席を外してくれと頼んでいた。
「……」
夕子は間を取ってなにも喋ろうとはしなかった。がまんできなくなったイツ花は口を
ひらいた。
「大江山で弟が母さまに花を手折った時に……」
その暮れ六つの刻の景色がまざまざと蘇り、正座して膝に載せていた手で衣をぎゅっと
握り締めて拳を膝上に置く。
「おとうと……、黄川人のいのちも愛してやってください!おねがいです!夕子さま!」
お紺が千万宮の鳥居で首を括った時以後、ぷっつりと黄川人の気は知れない。お業の姉、
お輪をもってしても、掴めないでいた。いたずらに時は流れるばかりだった。
「頭をあげなさい。昼子。あなたはわたしの後を継ぐものなのですよ」
「わ、わたしをもとの、あの時よりも前に戻してえぇぇぇ!」
泣きじゃくりながら、前屈みになり背を丸めたイツ花。
「面をあげなさい、昼子!昼子……?」
日々会陽の儀に耽溺する男と女の相翼院。そのなかに、お業のけたたましい叫びがあった。
全裸に四肢を壁に括られ、小柄の刃先で突かれている。お業の素肌には傷ひとつ
付いてはいなかったが、内腿の一点だけが赧くなっている。切先が肌にトンと触れるたびに
がっくりとうな垂れていた頭をもたげて喚き、唾液を撒き散らす、お業。
突かれるたびに、重石が増えて磨り潰されるような痛覚に泣き叫んでいた。躰を苦悶に
捩るために、お業の内腿を突く者は細心の注意を要していた。汗に絖る、お業の素肌に
切り傷でも与えでもすれば、それだけで命が消える可能性があったからで、無論その拷問に
関わった者を捨丸が赦すはずがない。
ただこれは、会陽の儀に耽る相翼院の男女(おめ)たちの趣向にしか過ぎなかった。
お業は何一つ情報をもたらしてはいない。お業の夫は既に死んでいて、何のために
生かされているのかさえも考えられない状態にあった。肉だけに縋る日々にあっても、
責めに艶麗の凄みを増し、嬲られ精を吐き出されては更に麗人になるは妖狐の如し。
お業は手足の括られた荒縄をほとかれて、床に転がされると、数人の男たちに群がられて
肉塊となって穴という穴をふさがれて犯される。妖魔が吼えるような声音を噴き上げ、
それはくぐもった呻きにしかならなかったが、拷問に晒された、お業の声音を聞いた
者たちは、それが離れず肉茎で突くたびに直に頭に響き聞くことになる。
そして男たちの躰を強烈な力で締め付けて精を吐かせる、お業。
捨丸はその頃、左翼の小宮の間で少女の躰の隅々をいらい耽溺していた。
大江山討伐の際に、万珠院・紅子がよりしろに遣ったから。きっかけはそうだった。
しかし、情が生れる。顔の輪郭や躰付きは似ていたが髪形だけは違っていた。
紅子は短く刈られた髪姿。緋香莉はたくわえた艶々とした黒髪は足首に届くまでに
なっていて、あの血を好んだ捨丸が少女の交媾に乱れた黒髪を櫛で梳いてやるまでに
執心し、淫らな交媾を繰り返しても黒々としていて清潔感を取り戻す。少女の黒髪に
魅せられて、治まり切らない昂ぶりをまた躰でぶつけ合い、少女は心から受容し――
緋香莉と名付けながら尻を振り合い促し射精して、緋香莉の脾腹には薄っすらと肋骨が
浮かんで愉悦にしなう。捨丸は、もはや少女を紅子と呼ぶことはしなかった。
「捨丸さま。ここを逃げましょう。どこかへ、わたしを連れて行ってくださりませ」
「ここを出れば、こんな暮らしはできなくなるぞ。それでもいいのか、緋香莉?」
捨丸の名は、その意味する如く記号。帝の手となり足となり戦を駆け、
戦利品としての女を貪婪に愉しんできた。それだけの闘いの生き方だった。
大江山討伐にしても、ひょっとすれば天女が抱けるかもしれないという
下心あってのこと。闘争本能を満たした後の勝利の高揚感から性欲に溺れる、
原初の欲望にならった獣性の生き方を迷うことなくしてきた。
「相翼院以外なら、どこへでもかまいません。おねがいいたします」
「ここが、こわいか……。怒りはしない。答えてくれ」 「……はい」
緋香莉の頬をやさしく撫でる、ささくれ立った、らしくない捨丸の両の手のひら。
細い腕が捨て丸の首に絡みついていた。
「わかった、緋香莉。そうしよう」 少女の瞳が愛らしく大きくなる。
「よろしいのですか?ほんとうに……」 捨丸は微笑んでいた。 「うれしい……!」
やさしさのまねごとが、ほんものに変る時。かよわき力で、浅黒い鬼の躰に寄り添う
少女がいた。
「ありがとうございます。捨丸さま!」
そんな生き方があってもいいじゃねえかと、小さい命を肌で抱き締めて少女を名付ける。
人の名は記号にあらず。愛しい人の名を口にして、少女の丹花に生命を吹き込む大江ノ捨丸。
陽の当たる場所がひとつだけあれば、それで十分。
「俺には、これからは、もう緋香莉だけだ……。ありがとよ」
捨丸の手が緋香莉の頭を撫でた時、小宮の間の蝋燭の橙色の灯りが揺らぎ始める。
玄冬の闇夜に凶兆の風が通って、かがり火を舐めてゆく。台場の四隅には三人ずつの
警護が配されていた。ひとつ前の台場にも本院の周囲の小宮の間にも、同様の固めが
されている。その羽切り台に、一人がただならぬ妖気に背筋を凍えらせる。
「捨丸さまに知らせよ」 「なに?」
「笛だ。報せの笛をすぐにも吹け。湖を見てみよ。さすればわかる」
声を掛けられた男は、欄干から身を乗り出して湖を見た。確かに風に乗って音は聞こえる。
「風の所為だろう。それに、ただの渦ではないか。臆病者め」
上体を戻して、怯える男を見て笑うと、もうひとりの笛を持っていた者が身を乗り出した。
「おろかもの!捨丸さまも言われたであろうが。われらが相手するのは……。いいから、
笛を貸せ!責めならわたしが……」
途中まで言いかけて、羽切り台にいた十二人の男たちは、鬼がひたひたと近付く幻聴の
足音を等しく聞いていた。羽切り台の揺れるかがり火が、湖の重なり合ういくつもの渦を
照らしていて、それは羽切り台の脚へと向って近付いて来る。
「ええい!さっさと笛をよこせと……。ひあぁぁぁッ!」
笛を持った男の躰には頭がなく、切り口から血を勢いよく噴き上げ、声を掛けた男は
血飛沫を浴びながら笛を奪う。渦が脚に近付き、台場をみしみしと軋ませた。その現象は
サキの庭でも起こっていた。警護の十一人の武者たちは欄干にしがみ付きながら揺れを
凌いでいると、タン!と床板を叩く音、この状況下に聞こえるはずのない音がしていて、
中央を一斉に見ていた。
少年は裸で交媾したままで躰に女をしがみ付かせて仁王立ちでいる。女は少年の
なよやかな白い肩に貌を伏していてよく見えなかったが、髪に隠れチラッと窺えた特異な
肌色、四隅にいても漂う色香からも名花と見て取れる。本院で会陽に耽溺している女とは
素性が違う。
少年は女の肉桂色の肩に、たっぷりとたくわえた、褐色(かちいろ)の髪の匂いを
吸うようにし鼻梁を押し付けて、瞳は黄金色に妖しく光り、上目遣いに警備の十一人を
睨み付ける。殺気立った緊張に場違いな、少年に抱かれる女の嬌声が洩れる。
渦と台場の脚が軋む音で聞こえるはずのないものが、明瞭に頭に響いて来る。十一人は
足場を取って刀を抜くと、揺らぐかがり火に鈍い銀色の光を掲げた。警護の男たちに囲まれた
少年は笑っている。
「なっ、なにが可笑しい!」
黄川人は笑ってはいたが苛立っていた。真名姫がしがみついている分にはいいが、想像以上に
女陰で肉茎を締め付けられ、快美感に背骨を軋ませるほどに。そこから来る笑いだった。
少年は白い手で女の尻を抱えながら、すうっと右手を上げると前方にこぶしを掲げ、拇と
人差し指を二回擦って頭上に手のひらを掲げる。ポキッ!と骨の音を立てて握り締めた。
十一人の男は目を瞬かせて白目を剥き、その場にドッと崩れ落ちてしまう。黄川人は
右手を降ろして、真名姫の肉桂色の背をやさしく撫でると、強張りに刺し貫かれている
真名は歔いて総身を顫えさせる。黄川人は十一人の男の頭の血脈をいちどきに、
一本ずつ切っていただけだった。
「ごめんよ。真名姫。こんな手でキミをさわったりしてさ」
黄川人はしゃがみこんで、両手を付く。
「うっ、あ、ああ……!」
「ちゃんとしがみついておいでよ」
真名姫は黄川人に尻を抱えられると、腰と脚を蠢かせ躰にしっかりとしがみついて啜り泣きをし、
何度も黄川人に雫を流して、うんうんとうなずいてみせる。しかし、真名の涙は宝珠にはならない。
「いい娘だ。上出来だよ、真名姫」
少年は女を抱えたままで四足になって、相翼院の本院の間へと獣になって駆けて行った。
真名姫の褐色(かち色)の長い髪が床を刷きながらも、黄川人は四足で走って、会陰の儀に耽る
本院を跨ぐ。男女(おめ)たちは、もう交わってなどいなかった。鎧を纏い武装し、抜刀して
待っていた。
「裸でくるなんざぁ、戯れた野郎だな」
捨丸の声が合図だった。一斉に切り掛かると、それを容易くかわし、黄川人は跳躍して
天井にへばり付く。
真名姫は黄川人の躰へ樹にしがみつくようにして顫えながら必死になって四肢を
絡みつかせていた。黄川人は蜘蛛のように天女の壁画の天井を這う。
剣の柄を握り替えて天井に向けて投げようかとした時に、黄川人は下に向って手を
かざし羽切り台と同じ現象が起こった。武装していた男女たちは次々と崩れ終わると、
天井からタン!と黄川人は降りて来た。
神と人が交われば、まれに神を越える天才が生れるという。それの対抗策として人の躰を
よりしろにしての神々が大江山から相翼院に及ぶ黄川人へ罠を張っていた。
「母上と父上の御魂を貰い受けに来てやったよ」
よりしろの男女たちが崩れても、人影は立ったままでいる。薄暗がりの中で人影は、
黄金色の光を放つ双眸を皆、黄川人に向けて睨んでいた。貌を黄川人の肩に埋め、少年が
歩くたびに躰を顫わして、くちびるからは真名の閨声がこぼれる。
妙かなる玲瓏はいつしか磯笛と鳴る。真名の黄川人の滾りを挟んだ女陰からは潮が
あふれ始める。黄川人は真名を抱き交媾したままでゆっくりと捨丸に近付いていった。
「鎮護の志士のつもりだったのかい?」
「そんなつもりはねぇ」
異様な光景だった。僅かな狐火が、かがりになって本院の間を照らす。女を抱く少年を
遠巻きに幽鬼のような神々が遠巻きに囲み、黄金色に光る瞳で睨む。しかし、その瞳は
敗色に染まりしもの。圧倒的な力の差異はわかっていても、それがどの程度の開きなのか
測りかねてもいた。真名の女陰からあふれた潮は本院にいる全ての者たちに伸びていて
取り込んでゆく。
「そんな……つもりはねぇ。俺はただの小悪党よ」
捨丸の足にも真名の潮がつう―っと伝って這って来る。
「アッハハハハハハハハ……」
黄川人が高笑いをして、ときの声を上げる。相翼院全体を水の壁で、誰一人として
逃げぬように閉遮している。真名姫が触媒になって。
「みんな、封印してやる。殺しはしないよ。簡単だからね。アッハハハハ……」
薄暗がりに異質の淡く温かい光が拡がりはじめ乙女の形となる。
「黄川人、わたしといっしょに天上にいこう。ね」
「姉さん……か。いや、もうちがうんだね」
「そんなことないよ」 「……」 「きっと、夕子さまも赦してくれるから、いっしょにね」
イツ花は手を差し出したが、黄川人にピシャリと叩かれ除けられた。
「どうしてボクが赦してもらわなければならないんだ!ふざけるな!」
「黄川人、よく聞いて。わたしたちは、父さまと母さまが愛した桔梗花なの」
「その季節にめぐり逢った……と」
「ええ、そうよ」
「ばかばかしい。性根まで人に魅せれていたんだよ」
イツ花は言葉をなおも言葉を紡いだ。
「そして黄川人とわたしで現世に流れて、人の環で咲く仙境の菊、黄花なの。それが
ふたりの――祈りなの。祈りだったのよ!」
イツ花は泣いていた。
「ボクを泣き落とするつもりなの。だから女ってうっとおしいんだよ。誰が、それを潰したんだ!」
黄川人に抱かれている真名が、びくんと、躰を顫わせると、心配ないよとやさしく
愛撫する。それでも真名姫の震えは止まらないでいた。
「おねがいだから。いっしょに……天界に」
遠巻きにイツ花と黄川人との対峙を見守っていたが、神々は昼子として守りに付いて
盾となって固めの陣形を敷く。
「夕子の所にも挨拶に行くからいっといて。それから奴の懐刀にもね」
黄川人の貌が神々の壁に遮られ狭まり徐々に見えなくなってゆく。
「下がれ。皆のもの!さがりゃあああッ!」
『イツ花さま。よくお聞き下さい。お業を黄川人に渡してはなりません。奴は血をこゆく
しようとして、お業の躰で……』
「唄だけうたっていればいいものをッ!うるさいんだよ!」
黄川人の怒号が本院の間に響いて、足元の真名の潮が弁天の躰だけを一瞬で包み込んだ。
助けようとする者は誰もいなく、イツ花の固めを整えるのみ。そして躰はふわっと浮いて
天井の天女の壁画へと叩き付けられる。水は弾けて、床を浸す真名の潮にぽたぽたと
降り落ち戻ってくるが、弁天の姿はもはや此処にはなかった。
「弁天を殺ったのか!黄川人!」
お墨は黄川人に凄みを利かせるが、遠吠えにしかならないことに気づく。
「殺す?ボクはそんなにやさしくなんかないよ。おまえたちみんな死ぬことが望みだったんだろう。
誰が殺したりなんかするもんかあぁああああッ!」
「ああっ、ひ、ひっ!ひあっ!ひぁああああぁぁぁぁっ!」
黄川人の屹立が膨れ上がって真名の膣内(なか)で跳ね返り暴れる。烈しく責められているような、
あけすけな真名姫の閨声と重なっていた。
イツ花を囲って盾となっていた神々の躰にも潮は一瞬で這い上がってって来て包み込んだ。
全ての者が水柱となって、その中の渦の流れで躰をきりもみしてもがき苦しんでいる。
「ほら、ボクらのほうが強いだろう」
「ボクら……?」
「さっき、ふたりでっていったろ。どっちが生き残ればいいなんて小ざかしい策なんかを
弄さなくてもいいんだからさ。こんなうっとおしい奴らは殺して」
真名はがくがくと顫える。
「……!」
「昼子なんて名は捨て置いてさ、ぼくといっしょにいこうよ。姉さん」
真名の潮に封じ込められた神々は水柱の中の渦になす術もなく翻弄されていた。
「どこへ行く気なの?黄川人……」
暫らくすると、水柱の中に神々の姿は認められなかった。
「どこへって、きまっているだろ」
黄川人は嗤う。透通った何本もの柱だけがイツ花を取り囲んでいる。黄川人の貌が
水越しに歪んで鬼に見える。狐火に照らされて。
「虚無の世界。ボクと姉さんだけのいる世界さ。はじまりからやりなおそうよ。ね」
『惑わされるな、昼子』
「夕子さま……!」
「夕子?おせっかいな奴だ!天界ひとつたばれないで、よけいなことをするんじゃない!」
「きっ、黄川人……。花は……どうなるの?その娘だって、怯えているわ」
イツ花はすごく場違いなことを言っているような気がしてならない。大江山襲撃の前に
親子で見ていた草原の花。落城に火の手が上がって天上を摩する炎の花。ふたつが
イツ花の心を掻き毟る。それでも、問いただしたかった。
「花?なんのことだい?」
「他の……生き物たちは……いったいどうなるというの?」
イツ花は絞り出すようにして声を出してゆく。
「どうして、あなただけが……。なぜ偉ぶるの?」
「偉ぶるだあ?なにをいってるんだよ、イツ花」
目つきが変っていた。
「捨丸さまあぁああッ!」
一人の少女が飛び込んで来て、黄川人とイツ花の間を裂いた。
「逃げろといっただろうが!」
「逃げようと思ったのです。お赦しください……」
捨丸は緋香莉のほっそりとした躰を引き寄せると、背後ろにかくまって盾となる。
ほら、見てごらんと黄川人はイツ花に目配せをする。イツ花は大江山討伐隊の
頭だった捨丸の姿を見る。
「相翼院のぐるりに水の壁がありました……。もはや逃げることは叶いません……。
お、お赦しを」
捨丸の肩に少女の手がしがみ付いていた。足手まといになることを、自分だけが
助かろうと一時でも思ったことを詫びる。
「怒っちゃてねぇって。泣くな、安心しろ。おまえだけは俺が守ってやる!」
緋香莉はふるふると、頭を振っている。足手まといを承知で死を覚悟して哀訴する。
「もう、置いて行かないで下さいまし。お傍に……。どうか、お傍に……!それがご無理なら、
いっそわたしを!」
イツ花を囲んでいた水柱が弾けて崩れると同時に、外からも相翼院を囲んでいた水が
奔流となってなだれ込んで来る。本院の間にいても、水の迫り来る、ゴォオオオオオオッ!
という唸り声は捨丸と緋香莉にしっかりと聞こえていた。
「ああ、わかった。どこにもやらねぇから、安心しなって」
緋香莉の貌が捨丸の背で安堵した刹那。ドンと背中を捨丸は突かれ、目の前に弾かれた
人影に向って手を伸ばして空を掻いた。少女の躰だけが弾き飛ばされて、イツ花と捨丸の眼に
くるくると躰を舞わす。少女の眼の上で綺麗に刈り揃えられていた髪が躰を包み込みはじめた
水流に撫でられて額が露わとなる。大江山の暮れ六つの襲撃。イツ花は緋香莉を自分の姿と重ね、
黄川人を嫌悪で睨みつけていた。その瞳も鬼になる。
『昼子、およしなさい!お風、よろしいか!』 『はっ!』
『黄川人!母さまも、父さまも、おまえになんかは渡さないから!この世を好き勝手にはさせないから!』
本院の間は瞬く間に水で埋まり、渦を巻いていた。そしてイツ花と黄川人の気が烈しくぶつかり合った、
青白い閃光を発している。その時には捨丸の躰も浮いて、渦の中でもがき苦しんでいた。
そして緋香莉に手を伸ばそうとするが及ばずに、届かないまま離れてゆく。
『まあ、いいさ。でも、捨丸と緋香莉は貰い受けるよ。さあ、いこう。真名』
捨丸と緋香莉の躰が水流に戻され、いまいちど指先が触れようとした時に、捨丸と
緋香莉の躰は閃光に包まれて、此処より姿は掻き消えていた。
お業の姉、お輪が夫の転生した壬生川源太となる男と添い遂げ、子を生せと夕子の命を
受けて備えに入ったことは、黄川人が相翼院の本院に踏み入った時から、お業の波動で
既に読まれている。夕子とお風は、それは織り込み済みで事を運んでいたが真名姫と緋香莉の
存在は予想外のものだった。
イツ花の心が揺れ始めると、素質の三十二相を破砕して凶相の鬼になりかける。
『昼子、堪えなさい。昼子』
黄川人は去り際の言葉を吐きながらも、最後までお業の御魂を奪おうとけしかけ、闇に姉を
引き摺り込もうとするのを、夕子とお風とでぎりぎり阻んでいた。黄川人と真名が交媾して肌を
合わせていた為の差異は大きい。
『夕子にお風!近場にあいさつに行くからね!アハハハハハ……、愉しみにして待ってなよ!』
『こしゃくな、わらわごときにこのわたしが!』
『お風、雑念は捨てよ!』
『姉さん、僅かな青春の時を愉しんで、桔梗の咲く頃にまた逢いましょう。アッハハハハ……』
天上の間で壇の炎を前にした夕子とお風、歯をぎりぎりと噛み締め、眉間に深い縦皺が刻まれ、
こめかみには粒状の汗が噴き出る。イツ花の躰を天上に、かろうじて引き戻してやれるだけ。
『痴れ者めが……!』
お風は床を握り拳で烈しく叩くと、イツ花の躰はその時に夕子の前に実体化する。その後の
相翼院の眺めは、羽切り台と本院は黄川人と真名の交合の水に朽ちた姿を漆黒の闇で
包まれ、その周りを再度、力と力のぶつかり合う刻を待ってか喜ぶ凶兆の風が吹いた。
そして、お業の御魂は昇天することなく此処に留まりて、自らを相翼院に縫ったのだった。
「ごめんなさい、他の方々にも迷惑を掛けてしまって、母さまの御魂を連れ戻すこと……
か……叶いませんでしたぁ……。夕子さまあぁああ……!」
「もうよい。よいからなにも言うな、昼子。わたしのなかで休まれよ」
「あぁぁぁ……母さまあぁああ!夕子さまぁぁぁ!」
イツ花はことの次第を告げると、太照天・夕子の胸に崩れる。お風があわてて、夕子に
膝で近寄ると、イツ花の眦には大粒の涙を浮かばせてはいたが、小さく、お夏と呟くと、
すうすうと寝息を立てているのを認める。
めずらしくイツ花を抱く夕子の口元がほころんでいるのを見て、お風には光りが無く、
夕子の子を抱くやわらかな女の波動でそう感じた訳だが、遠き母を想って凶兆にあっても
気はなぜか安らいでいた。常夜見の瞳にも映らないお互いが咬み合って花に緋を吹く
イツ花と黄川人のあしたの桔梗に、勝機を見出したのかもしれないとそこはかとなく
感じてはいた。遠き暗い一本道に一条の光明が射す。
海辺の磯岩にしゃがんだ黄川人は真名姫を見ていた。
「どうしたんだい。キミはもう自由なんだよ。もう人に捕まることはないよ。安心をし」
「……」
「いかないのならば」
黄川人は手刀をつくって、真名に向けて振るった。真名はそれを容易くひらりとかわした。
それでも敦賀ノ真名姫は哀しい眼を黄川人に送る。
「やはり、ボクが偉ぶってるように見える?」
真名はこくりとうなずくと、黄川人は手をいまいちど振り下ろした。かまいたちが起り、
真名の頬を切る。
「どうして、よけなかったの、真名?」
「もう、おやめください。お姉さまが哀しまれます」
「あれは太照天を継ぐ女だよ。もうボクの姉なんかじゃない」
「そんなことはありません」
真名はふるふると貌を振って、黄川人に近付く。