「ごめんよ、キミを傷つけたりなんかして……」  
 黄川人は真名の頬にふれると傷は消えていった。人魚は眦から大きな涙をこぼして、  
それを見ていた黄川人は肚を括った。真名姫は黄川人の頬を撫でるほっそりとした  
女のような白い手を自分の手でやさしく包み込んでやる。  
「わたくしには、もう還る所がありません」  
「海に還ればいいじゃないか」  
 
「わたしには、人の臭いがすでに滲みていますから」  
「後悔しているのかい?」  
 真名はどちらのことを聞かれたのかわからなかったが頭を横に振り、ふたつとも  
直ちに否定していた。どうやら、その意志は黄川人には伝わったらしかった。  
「ボクは真名を連れて行くことは出来ないよ。人魚が鬼になったら可笑しいじゃないか」  
「……」  
 真名の淋しそうな潤んだ紺青の大きな瞳が憐れを誘う。  
 
「忘我流水道の奥に住まうといい。あそこなら、安らぐ。きれいな石の花もあるからね」  
 真名姫は屈託のない黄川人の笑顔を見て不思議そうな貌をしていた。  
「ボクの居場所だったからね、そこはさ」  
 真名は泣きながら微笑み、こくりとうなずくと黄川人は立ち上がる。黄川人と真名の  
繋いだ手と手はほとかれる。それだけ憎しみが深いのかと哀しみに曇る真名。  
その真名の貌を朝陽が照らし始めていた。黄川人に抱かれ下肢を二本の脚に割った  
昨日みたく眩しかった。  
 
「ありがとう、敦賀ノ真名姫」  
 黄川人は裸身から臙脂色の狩衣を纏っていた。朝霧の立ちこめる血のような朝陽を  
一瞥して少年は人魚の前から姿を消した。真名姫も尾びれでパシャッと水面を叩くと  
潜ってぐんぐん速度を上げていった。真名姫の涙がゆらぎながら落ちる際に乳白色に  
変化して底で水銀が散るようにして弾けて、いくつもの宝珠になっていたことを知らないままに。  
 
(ボクは戦を仕掛けて鬼になるのさ、真名。もうキミには逢えないよ。あんなことに  
引っ張り出しといて、こんなことを言ったらお笑い種だよね。フフッ、アッハハハハハ……!)  
 黄川人も瞳を潤ませ浮かんだ涙を風に切って速度を上げていく。少年が赴く所は帝の  
寝殿。血を分けた者同士が争わねばならない苦汁を嘗めさせるため。  
 
 鮮やかな黄色の八重山吹が咲く季節、東北のほうから壬生川源太が皆川家に養子に  
迎えられる。皆川輪との祝言を挙げる為にはるばる都に上る、この時まだ源太九歳、  
その妻輪は五歳だった。既に輪廻転生を終え夕子の庇護の下、備えに入る。  
 大江山に二対の仁王像も既に建立され都は和を取り戻したかに見えていたが、街中では  
月夜に麗人が現われ、男の精気を狩るという噂がまことしやかに立ち始める。お紺の亡霊が  
夫を探してうろついているだの、妖狐の仕業だのと。  
 相翼院は改修されないままに放置され、人の住まわぬ院はますます朽ちるに至り妖魔の巣窟の  
佇まいになる。そして、忘我流水道では流れが止まることはなかったが、その奥から  
女の啜り泣く声が聞こえてくるという妙な噂が立っていた。変異変容が各地でぽつりぽつりと  
見受けられ始め、噂を解明しようと立ち上がった術師や武者が行方不明となっていた。  
 
「もう雪椿が咲く頃だなあ……」 「ふるさとがおなつかしいの?」 「か、からかうなよ」   
「ふふっ。それで雪椿とはどんな花なのですか?」  
「うん。朱色の花弁、おしべが鮮やかな黄色をした……」  
「いかがされましたか……?」  
「いや、山のほうに何か禍々しい城のようなものが見えた。ほら」  
 お輪にも源太が見た物がみえていた。  
「こわい……」  
「わたしが輪を守ってみせるから」 「はい」  
 お輪にはお業の思い出があったが、源太にはその前世の記憶はなかった。お輪は源太の  
胸にやさしく抱かれてなつかしくも哀しく想う。だが霞み掛かって一時だけ露台に寄り添う  
ふたりには白骨城が見えていた。お輪は既知から怯えて源太に甘える。  
 
常夜見・お風にとって黄川人の行動が読めないことは屈辱以外のなにものでもなかった。  
これといった決め手がなく、あるのは壬生川源太とお輪が子を生んでからという気が  
遠くなるような脆弱を露呈し、その支えがことのはじまりであった恋情という愚かさに尽きる。  
神々の尺からすれば、お輪が子を生せるまでの十年余りは瞬きの時でしかなかったが、  
黄川人という鬼が先を歩いているその開きは如何ともしがたい。  
 帝にはくれぐれも不浄をさけ清浄に生きよという戒めを言い渡してはいたが、各地に  
起り始めた怪異に大江山討伐は地位と引き換えに神々に利用されていただけやも  
しれないという疑念を抱き始めていた。それも、お風には不安要素でもあった。  
 
 帝にしても神に近しい絆を結んでいた国を滅ぼして、その代償として噴出し始めた  
出来事に難儀していた。抱えの術師や舎人部に調査を命じるがそれも行方知らずと  
なっている。そこへ来て弟の言動。和を尊び、穏やかに暮らすことを信条として、大江山の  
鎮魂碑の建立には率先して指揮を取ったこともあってか碑文を記せなかったことを  
いまだ悔いて愚痴っていると聞くに及ぶ。相翼院の改修にも、物腰はやわらかだったが  
意見をしてきた。  
 
 大江山の封印に莫大な費用をつぎ込み、この上、神々の掟から外れたお業を奉った  
相翼院を改修する気は帝には毛頭なかった。  
「討伐のおわりの締めは必要かと、いまいちどの再考を」  
 藁に座しての兄と弟として酒を飲みながらだったが、弟はまたもその話を持ち出し帝に  
探りを入れようとする。  
 
「放置すれば、我らが国が凋落するとでもいうのか?」   
「その兆しは既にご存知でありましょう」  
 帝のもう一方の考えには、悪しきを広め、よもや神々の存在を知らしめるための策略  
だったのではないかとも思いに至り――。それに反して弟の人気は高まりつつあって、帝の心に  
恨みつらみが巣くい穏やかではない。謀殺という考えがもたげて、内なる心に鬼を棲まわす。  
 
「大江ノ捨丸も依然として行方不明ときている」  
 黄川人が物の怪のまねごとをしたのは帝にではなく、弟にしたのだった。  
「でしたなら迷うことはありますまい」  
『ほら、殺っちゃいなよ。そうしないと、自分がやられちゃうんだよ。なんくせつけられちゃあ、  
おしまいだからね』  
「くどい!堕ちた神如きになぜ鎮魂が必要か!」  
 盃を弟に投げつけ、額を切って血が滴り落ち、転げた盃を取る手が震える。  
「大江山の焼き討ちの終わりは相翼院のはず。ならば鎮魂はことわりかと」  
「それを説くつもりか。大逆を謀っておろう」  
「なにを証拠に!」  
 
「証拠はその眼よ!」  
『ほらほら、来たよ』  
「どうか、相翼院を改修し……」  
 頭を下げた額から滴る血といっしょに、口からもゴボッと血糊を吐瀉していた。  
『ほうら、あんだけ言ってやったのに、小柄ぐらい忍ばせておけばよかったのに』  
「う、うるさい!物の怪め!」  
 
「なにをッ!」  
 帝が立ったのが合図となり、控えていた舎人部たちが入って来て、うずくまって尚も血を  
吐いて苦しむ帝の弟に向って太刀を下に構え切っ先を突き立てた。ズッと抜くと飛沫が  
噴き上がり、返り血を浴びながら左手で柄を握り、尻を右手のひらで押さえ止めを刺す。  
 帝は弟が血を吐きながら睨んでいた血走った眼が焼き付いていた。苦しみながらもカッと  
見開いた眼に帝が見ていたものは怨念。しかし、弟が最期まで伝えようとしていたのは  
己の心情だったが、すべて黄川人の手で歪まされ塗り替えられていた。  
『アッハハハハ……つくづく馬鹿だよ、人間は。あんだけ言ってやったのにさぁ。アハハハハハ……』  
 黄川人の嗤いが風を起こし、部屋にいた者たちみなに颯然と嬲る。  
 
怒り恨みを抱いたのは、幾多の家臣たちだった。一族郎党逆賊の汚名を着せられ殉死を  
余儀なくされる。赤子とて例外はない。これより一月後に帝の枕に黄川人は立った。  
弟の姿を借りて毎夜帝の寝殿を来訪する。帝は憔悴し、弟の遺屍を掘り起こさせ  
堅牢にして大そうな墳墓を建て御魂を鎮めようとしたが、帝はそのまま崩御してしまい、  
墳墓にかなりの額をつぎ込んだことで屋台骨がぐらつき、権力闘争に火がつき乱が起る。  
 その巻き添えを食った民たちの恨みは弟とともに殉死させられた家臣たちの御魂と  
混ざり合い親王鎮魂墓に妖しげな気を渦巻かせる結果となり、その刻を待って黄川人は  
大江山に建立された鎮魂の碑に朱で存念を刻みつけた。神々がなりふり構わずに急ぎ  
施した封印はあっさりとくぐられたことにあいなる。天上はいまだそのことに気づかないでいた。  
   
 
 女の赫い唇が源太に近付いてくちびるを掠め取る。源太は眼を大きく見開いて女の顔を  
じっと見ていたのに、感じることができないでいた。綺麗な顔という認識しか頭に残らず、  
どういう顔立ちで誰彼なのかというのはまったくわからない。近しい存在のように思えば、  
遠き存在にも思える。これは夢なのだと源太は思うことにした。  
 女の唇が離れると、源太の頤の尖りを赫い唇が挟みこんでゆっくりとしゃぶられ、  
ねっとりと舌でねぶられて喉に降りていく。源太は少女のような声音を洩らしていた。  
 
 下腹がきゅっとへこんで、喉から鎖骨を通って胸の尖りを吸われた時に源太は  
小さく叫んでいた。なつかしい芳香を肺いっぱいに吸い、少年の下腹を波うたせる。  
母をなつかしく想う気持ちが、こんな不浄な夢を見させるのかと、ひどく困惑する。  
それなのに陽根は烈しく滾るのを抑えられない。  
「逢いたい。逢いたかった……!」  
 妙かなる声音に、どのような名花なのかと少年の胸は高鳴る。その呼びかけに、  
やっとめぐり逢えたことをしみじみと語る声音のなつかしさの裏にある哀しみについ  
せつなくなる。源太の胸に置かれていた女の手が強張って、指頭で皮膚を圧していた。  
「母さまなのですか……?」 しばしふたりに間が生じ。 「わたしの声を忘れましたか……」  
 
 女の声が顫えていた。すまないという気持ちでいっぱいになる源太だったが理由が  
わからない。やさしい声音は母のものとも思えたが、語尾の発音における湿り気を帯びた  
女の音に独特の艶があることに気づくが、それが誰のものなのかとんと見当がつかない。  
「相対して、たゆたいましょう……源太さま」  
 女の手の強張りが解けてやさしく滑りながら下腹を捉える。顔もそれに倣い、女の赫い  
唇からは舌が差し出され男の証を舐め廻して――「あっ、あ、はっ、はっ……」   
――少年の逸物を赫い口へと含む。  
 熱いしゃぶりにやがて小水の予感が込み上げて少年は歔いた。女は唇をひらいて  
源太の滾りを吐き出すと、おもむろに躰に跨って女が首を折って長い髪を垂らしてくる。  
 
 人差し指と中指のあわいに滾りを挟まれ、夢のなかの闇のような女陰に少年の敏感な  
少女の唇のような鴇色の尖端を赫肉で捉えられる。  
「ああっ」  
 おんなの濡れた熱い吐息がなつかしい。情欲の炎が躰を焼いて源太に涙を噴かせる。  
自分も声が洩れそうになったが、今度は下唇をきつく噛み締めて堪えていた。女は腰を  
振り始めながら髪で源太の喘ぐ胸をざわっざわっと刷く。女の肉襞の煽動に歯を  
喰いしばって源太は耐える。夢ならもっとこうしていたいと願った。逸物を温かく包み込む  
締め付けから来る腰の快美感と女の姿態が描く妖しい眺めに源太は泣き貌になって、  
豊な乳房に男が硬く膨れてゆくのが止まらない。  
 
「ああっ、まだ!まだ!」  
 女はくちびるを薄くひらいて白い雫をこぼれさせている。だのに腹が立つどころか  
愛しさが増すばかり。源太は女の揺れる乳房にふれたかったが精を吐きそうで手が届かない。  
ふれてしまえば、儚げな白い乳房をきつく潰してしまいそうで気が退けた。女は自分の  
願いを赦してくれるだろうとは感じていたが、伸ばした先はおんなの太腿。  
 そっとふれるようにして、手を添えてみると胸に付いていた女の手が絡んでできた絆。  
源太は女との肉の絆を探ってみたくなっていた。内腿に手は滑り、女の両の手は  
下腹あたりに付いて源太の好きなようにさせてくれる。たわわな乳房を両腕で挟んで  
絞っていて深い肉の谷間をつくって喘いでいた。  
 
 源太の手は男女の繋がりのあわいを目指しておずおずと撫でるように内腿を這って、  
女は貌を上げて喉を晒すと髪は引き摺られて宙に綺麗に舞った。ほっそりとした頤が  
綺麗な嶺を描くのを見て、源太の逸物は傘を拡げる。  
「あっ!あぁあああッ!」  
「源太さま、源太さま……!」  
 女の腰が源太の躰をぎぎめき、息が出来ないくらいまでになって小水の予感を  
解放させていた。  
 
「源太さま!源太さま!」  
 源太が瞼をひらくと、そこには心配そうにしている、お輪の顔が間近にあった。  
「だいじょうぶですか……」  
 源太は後ろ手を付いて上体を起こす。眼を瞬かせてお輪の貌をじっと見詰めている。  
なにがあったのかとまどっていると、徐々に羞ずかしくなって貌を女子のように赧らめる。  
「い、いかがされました……?さっきから、うなされていましたよ」  
 下のことで気まずくなって、お輪の汗を拭いてくれている、手ぬぐいを持つ小さき手を  
思わず払い除けたくなったが、源太は踏みとどまった――。「あっ……」――源太は両手で  
お輪の頬をやさしく包んでいた。  
 
「先刻からわたしを呼んでくれていたのは、お輪なのか?」  
「は、はい……もうしわけ……あっ」  
 源太の小指がお輪の鴇色のくちびるに掛かっていた。お輪には自分が自分で  
なくなるような感慨に顫える。お業の気持ちがうごいているのは確かで躰があつい。  
うなずくことは出来ず、瞼を静かに閉じて小さくお輪は返答する。  
その瞼は閉じられたまま、源太はお輪の鴇色の唇に重ねていった。    
『おかえりなさい』  
 まちがいなく、お業の心だと思っていたが、お輪は源太に恋をしていた。咄嗟に  
わたしは道具などではないという気持ちを外へ吐き出してしまいそうになる。  
 
『わたしたちは道具ではないの』  
 お業の生きた道を辿っているような気がした。そっと暮らすことが望みだったお業の声が  
お輪の中で響く。やわらかな互いのくちびるのふれあいが残るのがたまらない。  
 源太はお輪とくちびるを重ねてじっとしていた。この愛の気持ちはどこから来るのだろうと、  
源太とお輪は見詰め合ってから――  
 お業のつづきの好きがお輪の好きになるのか。お業の変らぬ気持ちがお輪の中に  
確かに息づいていることはわかっていても。  
「あっ……」  
 ――くちびるを離す。  
 
 お業の記憶から生れたことであることは明白。それは双子の姉妹で、ふたりでひとりの  
神だから。そして、そして……妹が仕出かしたことを収拾する為に割り切って志願した  
ことなのに。けれども、けれども……。  
「すまない。泣かしてしまったね」  
 そう言われて初めて自分が泣いていたのだとわかった。大粒の涙を源太の拇がやさしく拭く。  
源太の温かい両手に包まれていたお輪の貌がふるふると揺れて胸がいっぱいになる。  
 お輪の傍が自分の家なのだと源太は両手に包んだ貌が左右に振れるのを見て実感する。  
お輪の瞼が閉じてまたひらかれて切れ長の瞳が泳ぐ。  
 
「源太さま……羞ずかしい……」  
「ごめん。でも、もっと見させてほしい。おねがいだから」  
「はずかしい……」 かぼそい声音のお輪。それでも、源太は手をほとこうとはしなかった。  
「ダメかい?」 「……いいえ。かまいません……から……」  
 お輪は源太にうなずいた。またお業の声が響きはじめる。   
『あなた、ありがとうございます』  
 しかし、お輪は愛ゆえにお業から怨まれるかもしれないとも思い、更に淫靡な気持ちをも  
奥底に育みはじめていた。  
 
「お風、どうしました。なにを悩んでおるのですか」  
 妻戸を閉じると夕子はお風の躰を引き寄せると袴の紐をこなれた手つきでしゅるるっと  
ほといてゆくと、お風の眼にはその美しい手の所作は映ることはないが、柔肌で感じる  
ことができた。自分を慕ってくれていることがお風には辛かった。右前になった衿元から  
夕子の左手が忍んでくる。自分は黄川人のことでは失敗を繰返した。  
「寝所では夕子でよいというたであろう。なら、ゆうと呼びなされ。ゆうでよいから」  
「な、なりませぬ」  
 自分を責めているお風の胸を夕子の手が弄っていた。  
 
「ほれ、いうてみなされ」  
 お風の鴇色のくちびるが顫える。   
「いっ、いやにござります。わたしに、そのような……資格は……もう、ありませ……ん」   
「そのようなことは、二度というてはなりません!」  
「あっ、夕子さま、夕子さまぁ……」   
「ふう、なりませんよ」  
 夕子とお風の吐息が甘く絡み合い蕩け合う。そして自分を責めているお風の胸を  
夕子の手が弄って、衣を割っていった。  
「お風はようやっております。わたくしの支え。昼子をいっしょに守り立てていってください」  
 
「夕子さま……」   
「ふうは強情な……おなご……」  
 お風は夕子のくちびるを受けて静かに瞼を閉じ合わせる。夕子の舌が差し入れられて、  
お風は吸って歔いた。夕子の手によって剥き身にされていった。艶々として絖る肌を  
夕子の前に晒すお風。お風も夕子を感じようと、両手で夕子の衣を肌蹴させて、  
お風以上の裸身を、ふたりはもつれあって、その場に倒れこむと夕子はお風の太腿を  
抱えて淡いの逢わせに入る。仰向けに寝そべる、お風の乳房が儚げに咲く。  
 
すべてを曝け出す寝所であっても、光りなしのお風には夕子の姿態を見ることは叶わない。  
それが夕子の引け目でもある。表立ったものではないが、今度の一件で、お風が苛立って  
いたことを夕子は気に掛けていた。  
「はっ、はっ、はあっ」   
「ふう、わたしの名をよべばいい……んぁ……」  
 尻を振りたてられて、常夜見・お風の柳眉が吊りあがる。お風もそれに控えめに応えた。  
貌を左右に動かしては黒髪を散らす。  
「や、やめて……くださりませ」   
 
「ゆるしませんから。いいなされ。ほら、ほら」  
「ゆ……うぅぅ……っ。んあっ」   
 組み敷かれた、お風の下腹がうねり、儚き佇まいの繊毛が合わさり、女が蕩ける酔芙蓉  
のように赧くなるのを夕子はしっかりと。天上のお風と現世のお輪の二輪花を夕子は見る。  
「もっとしっかりとです」   
「ゆう……あ……あっ、たまりませ……ぬ。はうっ……!」   
 
「もっと!」   
「ゆう……ゆうさま……あ、あぁぁ……ッ!」   
「なりません」   
「ゆぅぅッ!」   
「風、いうてごらんッ!」  
 泣き顔を夕子に晒して普段の美貌とはまったくちがった相になり、歓喜のおんなを硬直させる  
波の刻が押し寄せる。  
「ゆう!ゆう!ゆう!ゆうさまあぁああああああッ!あ、あっ、あ……あぁぁぁ……!」  
 
「母さま……天上に帰りましょう」  
 イツ花は朽ちた相翼院に降りて来ていた。本院の間に母と娘は対峙している。黄川人と  
イツ花の戦いの時、お業は自らの魂をこの院に縫って留まった。諦めきれないイツ花は  
お業を説得していた。  
 
「……」  
「なぜ、どうして黙っておられるのですか!母さまあぁああッ!」  
 暗闇に蝋燭の火が灯り、次々と火が花のように咲いていった。叫んだイツ花の目の前で、  
時間が逆行する幻視が起こり始めた。一瞬何が起こったのかが分からず、躰をぐるりと  
廻してあたりを眺めていた。それが、ここまでに至る時の流れと知ってイツ花は苦悶する。  
「いやあぁあああッ!やめてぇ!やめてえぇえええッ!」  
 捨丸と緋香莉のふたりが心を通わせる姿。お業に課せられた日々の凌辱、拷問の絵図。  
父の死……大江山討伐の夜を焼き天上を摩するが如くの炎。倖せだったころの父と母。  
イツ花は瞼を固く閉じて、耳を塞いでいたが幻視は頭へと直に流れ込んでくるので  
塞ぎようがなかった。  
 
 最後に見せられたのは、父――わらわが天井の壁画を来る日も来る日も飽きずに  
眺めているその姿をやさしく見守っているお業、母の姿だった。本院で何が起こって何が  
失われていったのかを、お業は娘に父と母が逢うまでをつぶさに見せた。  
「あぁああああッ!あっ!あぁあああッ!」  
 転がりながら苦悶し、床に額を擦り付けるようにして起きようとする。唾液をこぼしながら  
イツ花は号泣していた。お業はそれを見ながら衣を肩からずらして脱ぎ捨てていく。  
白くぼうっと輝く裸身。右足を後方に引き、腰を落とすと屈み込んで、左前に腕を交差させて  
自分を抱くようにして乳房を隠し、肩に両手を置き、手を強張らせると爪を立てる。  
 
 爪は肩から二の腕までを滑ってお業の皮膚を裂いていた。その傷口から噴き上がったのは  
血飛沫ではなく憎悪の焔が上がって毟り取られた翼を形取ってゆく。  
「黄川人から手を引きなさい!イツ花!」  
「母さま……いや……です……いやああッ!」  
 床に両手を付いてイツ花は立ち上がった。  
「母にさからうのですか、イツ花!」  
 イツ花は顫える右手で拳をつくり胸に持っていって、それをなだめる様にして左手で  
包み込む。  
 
「還りましょう、母さま。天上へ」  
 お業の焔の翼が本院の間を照らして影を焼き、蝋燭の火も呑み込んでゆく。  
「手を引きなさい、イツ花」  
「いやぁ……」  
「黄川人に組しなさい。黄川人はあなたの血を分けた実のおとうとなのですよ」  
 お業の腕の傷から上がった焔は烈しい気流を描き、風を起こし始めている。イツ花の額に  
掛かった前髪が風に舞う。しかし、イツ花はしっかりとお業の瞳を見据えていた。  
 
「いやよ!」  
「なぜですか。どうして……なのです」  
「黄川人は……全てを……無に還そうとしています。生きとし生ける物すべてを、怨みながら」  
「そのようにいっても、あなたはお夏を殺そうとしたでしょうに」   
「……!」   
「しましたね」 「……いやぁ」 「いたしましたね」  
「いわないで、いわないでぇ!いっ、いやあぁああああああッ!」  
 イツ花は組んだ手をほといて両の手で拳をつくると脇を締めて構え、背を丸め力の限りの  
大声で叫んでいた。  
 
「お夏を赦せるのですか、イツ花!答えなさい!」  
「桔梗も消すのにいぃいいいッ!母さまが、母さまが好きだった桔梗までも失くすのにッ!」  
「黄川人は初めからやり直そうとしているのですよ」  
「ちがう!ちがう!ちがう!ちがうううッ!」  
「なにが、ちがうというのですか?」  
「花のいのちの営みを断ち切って、それがなんなの!例え蘇ってもそれは別物です!  
それは……それは、母さまが愛した花なんかではありません!」   
「イツ花……」   
 
「なぜ……なぜ!それがわからないのですかあぁあああッ!」  
 イツ花の気が本院の間に渦巻いて、お業の妖気を凌駕して焔の翼は一瞬にして消えて  
無くなる。陰々たる朽ちた相翼院にまた戻っていた。木の焦げた臭いだけが残って漂っていた。  
なつかしい母の匂いまでも焔は灼き尽くしたことを、イツ花は哀しむ。  
「は、母さま……。どこ……に、おられるのです。どこですか……?母さま……」  
 イツ花は不安になった貌を上げる。  
 
「イツ花、あなたは、お夏を赦せますか?赦せるのですか?」   
「……母さま、お姿を見せてえぇぇぇッ!」「答えなさい」   
「母さまあぁあああ……いじわるしないでぇ……」  
「イツ花……!さようならば、わたしは夕子になど組いたしません。昼子、よくお聞きなさい。  
あなた方のその企み、わたしは此処にて阻んでみせます。帰りなさい!はよう、  
相翼院から去りなさい!」  
 
 お業の裸身がぼうっと白い輝きを見せて立ち姿を見せたが、足で床をトンと叩いて爪先で蹴ると  
躰をふわっと宙に浮かせる。また徐々に光は弱くなり始めて闇にすうっとお業の裸身は  
吸い込まれていった。姉弟が相容れない様を見て、辛くない母があるはずがない。  
「母さまあぁあああッ!」 「はよう、去りなさい。天上へはよう行きなさい」 「……!」  
 イツ花は失意でお業の何か言いたげな瞳の色を窺い知る事はなったが、貌を上げ天上を見据えて  
睨み付け、蒼い光弾となって天空に駆け上がっていった。  
 
 黄川人は神々がなりふり構わずに仕掛けた封印を容易くすり抜けて、鎮魂の碑を仰いでいた。  
碑に黄川人が指で彫った言葉。それを手でふれてみる。  
『復讐を遂げる日まで安らかに眠るなかれ』と印された冷たい石に。  
「あのおんなから民の御魂を取り戻してやる!」  
 そこから朱の輝きを八方に発光し始め、空中で収斂され龍をかたどってのたうちながら  
黄川人を中心に据えてとぐろを巻いて包み込んだ。大江山の山頂から火の玉となって飛び  
立ってゆく。  
 
 大江山の頂から紅い龍が立ち昇り、火の玉となり闇夜を裂き天上を突く。暫らく間を  
おいて相翼院から蒼い光弾が放たれ、後に屋根からは光の糸遊が立ち込めている。  
都の夜空を仰いでいた者たちがいた。それは数えるほどの人数でしかない。お輪も  
胸騒ぎを覚え、露台から天空に駆け上がるふたつの火を見ていた。  
「どうした。こわい夢でも見たのか」  
 多くのものは空を揺るがす烈しい音、戸板を震わせ大地が怒っているのだと  
思い違いをしている。大江山の都が焼き討ちにあった怨み、物の怪のたぐいだと  
怯えて家に閉じこもっていた。   
 ふたつの光りを視た僅かばかりの者でさえもそう信じていた。死ぬ為に  
生きようとする赤と生きることを証拠とする青、それを知っていたのはお輪とお業の  
姉妹だけだった。  
 
「はい、おそろしい夢」  
 源太はお輪の背から華奢な躰を抱き締め、夢の中のおんなの黒髪の匂いを  
肺いっぱいに吸っていた。  
「なんだろう、この気持ち」  
 いろんな感情がない交ぜになって、源太に襲い掛かって来ていた。頭の片側に烈しい  
痛みが湧き起こる。源太はお輪の躰をしらずしらずにきつく抱き締める。お輪の貌が  
後ろの源太の頬を撫でている。  
「ゆるして……」  
「ご、ごめん。お輪のことを想っていたら、つい力が入ってしまった」  
「ゆるして」  
「必ず守ってみせるから」  
 源太は今度こそという言葉がふっと出てきそうになった既知感に、また痛みを覚える。  
お輪は光りが去った天上を、頬に源太を感じながら見上げていた。  
 
「あんなのが封印だなんてボクを馬鹿にするのもたいがいにしなッ!」  
 夕子の寝所に容易く入ってきた黄川人が、夕子とお風に向って吼えていた。お風は  
躰を張って夕子を守っている。  
 
「さがれっ!痴れ者めが!」  
 夕子の手がお風の肩にふれ、指先に力が加わる。  
「前にも聞いたなぁ。でもボクにそんな口をきいちゃっていいのかなあ。おまえには、  
訊くことがいっぱいあるんだよおおッ!でもさぁ、めんどうだから、閉じ込めてやることにしたよ。  
お仲間といっしょにね」  
「なにが目的ぞ!」  
 黄川人が上目遣いに頤を引き、夕子とお風へとゆっくり近づいて来る。  
「そんなこと、決まっているだろ。大江山の御魂たちを、もらいに来たのさ」  
貌の龍の痣からは妖しげな気が発せられていた。お風の可憐な貌が歪むのを見て黄川人は  
薄ら笑いを口元に浮かべている。  
 
 
「ひ、昼子様……!ど、どうされましたか!」  
 涙で濡れた貌のイツ花が突然にふたりの女神の前に姿を現す。寝殿の周辺は水神・風神の  
手弱女によって守られて、その外は土神。更にその外周を男子の屈強な荒神によって固められていた。  
「わたしが、いまここにこうしているということが、どういうことかわかりますね、壱与に有寿?」  
 御玉と御鏡を手にした、ふたりの女神の躰は強張っていた。  
「夕子さまは寝所ですね。答えなさい!」  
「しばらく、いましばらく……こらえてくださりませ」  
 ふたりの女神が声を揃える。  
「な、なにを申しているのか!」  
「いましばらく。そして、どうか昼子様。夕子様をお守り下さい」  
 ふたりの手弱女の水神が深々とイツ花に頭を下げる。  
「昼子様だけが我らが希望」  
 イツ花の背には男子の荒神たちが立っていた。  
 
「遅かったようですね、黄川人。怒りに我を忘れていては、わかりませんか」  
 凛とした太照天・夕子の声音が少年を掻き乱す。  
「なにぃ……!」  
「控えください、夕子さま」  
 お風が夕子の挑発を慌ていさめるが、その守る麗人は眉ひとつ動かさないでいる。  
少年は怒りを露わにした。  
「ねぇ、どうしてそんなに平然としていられるんだい。ボクの力、わかっているんだよね」  
「大江山の御魂を利用しようとしたのが、おまえの弱さです」   
 
「夕子さま!」  
「あの女かあぁあああッ!どこだ!どこにいるッ!言え!言わないか!」  
 黄川人の手が夕子の盾となっていた、お風の白い乳房を掴んで醜く歪ませた。常夜見は  
閉じていた瞼をひらいて、光り泣き紫苑の双眸で少年を睨みつける。  
 夕子の手はお風の肩をきつく握り締めていたが黄川人は手を掲げ、戒めを破ると躰は  
宙に浮かび、そのまま畳に放り投げて叩き付ける。お風は裸身を受身で半回転させて、  
手を付いてすぐさま戦闘の構えを取っていた。夕子もおなじ。  
 
「それで、ボクを挟み撃ちにするつもりか!ふざけるなあぁああああああッ!」  
 黄川人の貌の痣から上がっていた緑青色の妖気が八つの龍となって裸の夕子とお風の  
躰を弾き飛ばし、壁に叩きつける。少年の躰からは尚も緑青色の光りが発せられて叫んでいた。  
その気の神圧が夕子とお風を動けなくする。黄川人は止めを刺さずに華奢な躰を宙に  
浮かばせ弓反りになる。  
「どどめき、百々目鬼……なのか!ちがう」  
 少年の蒼白の貌に無数の細かい切り傷が印されてゆく。腕にも。夕子とお風は術を掛けようと  
迫るが八つの龍たちがふたりを威嚇していた。  
「風、やつの瞳を見るな!」  
 黄金色の双眸とは別に、貌に腕に緑青色の瞳が無数に浮き上がって光を発している。その光りも  
蛇のようにのたうっている。   
 
「しかし、わたくしには」  
 宙でだらりとしている脚にも及んで百目をひらき、寝殿の間は緑青色の光で埋まってゆく。  
「見るでない、風!」  
 お風を庇い白い衣を着た長髪の男が立ち威嚇していた龍を退ける。さらに刑人の前に  
黒蝿が刀で緑青色を受け止めて撥ね返す。夕子のほうにも荒神が立てになって守りを固める。  
不動が黄金色の太刀をかざして盾になり、その後ろでは白い梟が羽根をひろげ太照天・夕子の  
躰を包み込み、その前には吼丸と獅子丸が躰を張って刀を構えていた。  
 
「キシャアァアアアアアア――ッ!」  
 八つ龍は自らの光りを浴びてのたうち、ふたたび威嚇をして顎をひらき挑みかかる。  
「よせ、刑人。戒めを解くな」  
 後ろ手に廻して目隠しの戒めを解こうとした刑人をお風は引き止めた。  
「なにゆえに……ですか」  
「奴の内からだ。夕子さまは外から封印を仕掛ける」  
 弓反りになった少年は四肢を後方に流して吼えていた。総身に及んだ瞳が生き物のように  
躰を這い廻って両の手のひらに収斂してゆく。  
 
「……!」  
「都そのものにだ。持ち堪えてくれ。さすれば、やつを閉じ込められる」  
 緑青色の輝きは静まり始めるが、黄川人から発せられる妖気は増幅していっていた。  
「そうでござりましたか」  
「そなたには夕子さまの下に残ってもらいたかったのだ」  
 
「ますらお気取りで、侮られましたでしょうが、それでも……」  
 刑人は指を組んで掌訣の所作を取り行なう。  
「いうな」  
「それよりも、このままでは……奴めに」   
「弱気になるな!昼子さまがこられるまででよい。さすれば――。す、すまぬ……刑人」  
「我は本望!」  
 
 黄川人の躰に浮かんだ百目は収斂していって、両の手のひらで珠はふたつの眼となる。  
「キツト!やめなさい!」  
 イツ花の髪が烈しい気によって宙に舞う。イツ花が夕子の寝所に入ったと同時に外にいた  
荒神たちも突入し、空中に浮かんでいる黄川人を取り囲む。  
「矛を収められよ」  
「ボクを洞窟にでも閉じ込める気かい。よっぽど死んでしまいたいんだね」  
 寝殿の外では手弱女の女神たちが祈りを捧げていた。  
 
「我らは死なん!」  
 黄川人を囲んでも正眼に構えることも叶わず、防御に徹しているのがやっと。  
「ためしてみる?アッハハハハ……、でも殺したりはしないよ」  
「キツト、矛を収めて!収めなさい!」  
「うるさいッ!うるさいんだよ!どこまでボクに敵対する気なんだ。それならいいさ、望むところだ。  
もう、姉さんでもなんでもない!敵として闘うまでだあぁあああッ!」  
 黄川人は低く唸りながら両手を胸元に寄せる。  
 
『気を緩めてはなりません、昼子!』  
『わ、わかっています、夕子さま。なにがあっても母さまはわたしが守ります!』  
 手を強張らせると胸を掻くように腕を拡げていった。お業の怒りの焔の翼を拡げるようにして。  
『万が一の時はあなただけでも……』   
『いやあぁああッ!必ず母さまは、わたしが守ります!』  
 
「うあぁああああああああああああッ!」  
 両腕は水平になり、手には八つ龍とおなじ色の火球が掲げ、龍が咆哮し寝殿が烈しい  
揺れに見舞われる。  
「昼子様、気を逸らしてはなりません」  
「不動こそ、夕子さまをしっかりと守りなさい!」 「御意!」  
 黄川人は右肩に手を付ける所作をして、緑青色の火球を後方のお風たちに向けて  
投げつけた。  
 
 腕を鞭のようにしならせ火珠が放たれると、黄川人を囲んでいた神々ともども、火球に  
引き摺られ後方のお風たちに向かってゆく。もうひとつの火球も天井に向かって飛んで  
四方に飛び散って寝所を覆っていった。  
『お風、頼みましたよ!』  
 光無ノ刑人が双眸を隠す戒めを解く。夕子の声を聞きながら、刑人の肩に手を付く。  
『はい、夕子さま!』  
 緑青光がお風にぶつけられると、瞬時に白閃光となり神々を取り込んだ。屋根からは  
緑青光が躍り出ると七つ龍に変化して、寝殿を取り囲んで祈りを捧げていた手弱女たちを  
光の渦に引き摺り込んだ。  
 
「あとのこと頼みました」  
 寝殿の外でト玉ノ壱与(ウラタマノイヨ)と鏡国天・有寿(キョウコクテンアリス)が声を  
揃えて残されるものたちへ呼び掛ける。  
「みなのもの、まだ気を緩めてはなりません!」  
 若宮・卑弥呼が喝を入れ、大きな黒き眼で一点を見る。  
「あの坊は七情をぶつけてくるわけ。もう、勝ち負けなんかじゃないわね」  
 澄ました美貌が苛立ちを見せていた。  
 
「竜穂、ごたくはおわってからにしな。髪でも気にしてるのか?」  
「あんたは、愉しくてよかったわね」  
「さあ、いきましょう。嬢ちゃんが呼んでいるわ」  
 夢子がかげろうの翼を拡げると、紅子に秋波を送っている。  
「いまいくからね」  
「あらあら、つれないの」   
「ふふっ。ながいながい旅になるわね」  
 紅子の黄金色の眼が夢子に笑う。摩利は舌なめずりをして、槍を構え乳房に焔を  
浮かび上がらせている。  
「散華しようなんて思うなよ」   
「あんたになんかいわれたかないわ」  
 
 神の時計にすれば、人の流れは瞬きの如きもの。その営みに神は介入し、災厄をこしらえた。  
常夜見・お風の神通力をもってしても見えてこない辿り着くべき場所。長き旅とは紅子の  
お風への呼び掛け。  
「どうやら、初弾は成功したみたいだね。紅子?おい、どうしたんだい」  
 好戦的で、最上位の男の荒神をも超えうる能力を持ちながら、初弾に参加できなかったことを  
悔いることなく、分をわきまえていた。  
 
「なんでもありません」  
 紅子の閉じている瞼がぴくっと動いた。吉焼天・摩利の構えた槍先も顫え、明らかに  
黄川人への怯え。疽の如きに振舞う黄川人に無力である自分にも摩利は苛立つ。常夜見・お風が  
みなを前にして、黄川人との戦いは前哨戦でしかないとも言い切っていた。本来なら、戦を前にして、  
そんな物言いをしないお風が、肚を割ったことでさえ異例のことだった。  
 
「ひとの気のみだれを心配なさらなくて結構よ」  
 竜穂の閉じていた瞼が開いて紫苑の虹彩と縦の瞳孔がひらく。卑弥呼を挟んで隣の夢子の  
薄い唇がほころんでいた。  
「あいよっ」  
 緑光体の七つ龍は、守りの祈りを捧げていた手弱女たちを呑み込んで引き擦っていったものの、  
波状攻撃を仕掛ける気配はなかった。それでも気流はいまだ渦巻いていて、熱風が女神たちの  
顔を舐め前髪を煽り額を嬲り、艶々としたおんな髪を痛めつけてたなびかせる。  
 
「しかし、封印が掛かってきているというのに……あの坊は……とんでもなくやっかいだねぇ」  
 いつもは楽天的ですかしたような趣の、おぼろ・夢子の貌が曇ってゆく。しかし、それは夕子が  
イツ花の素質の可能性を信じた弁証でもあることをも確認する。  
「さあ、行きましよう!」  
 芽宮・卑弥呼(カヤミヤノヒミコ)の凛とした鯨波(とき)の声が上げる。卑弥呼は両の手を摩利の  
肩に掛けると、額の宝珠が茜に発光して四人の躰を包みはじめ、卑弥呼のおさげ髪がほとかれて  
舞い上がった。  
 
 神々といえども、祖は人なり。初めて対峙した才能の壁に迷いが生じる。好戦的な摩利  
でさえも。  
「締め括りの大役ぞ!こころして行け!」  
 卑弥呼の励ましの手を感じ、摩利は握りをぎゅっと締める。そして、大きな卑弥呼の瞳が  
寝殿の中央で苦悶する黄川人を捕らえた。  
 火の摩利が先陣を切り、脇に水の竜穂と風の夢子、しんがりを土の紅子が固め、中心を  
卑弥呼に据え、瞬時に力を解放して、夕子と昼子の最後の盾となるべく、お風の娘子軍は  
光弾となって突入していった。  
 
「うっ、うあぁああッ!」  
 黄川人は宙に浮かびながら双眸をいっぱいに見開き、口もくわあっと開ききっていた。  
淡黄色の透明な体液があふれ出し頤を濡らしてしたたり落ちて、寝殿の畳を焦がして  
シュウシュウと焼き焦がし、腐臭を立てていた。イツ花は弟の変貌ぶりにその場に崩れるが、  
這いつくばるようにして、顔を起こして黄川人を見ようとした。   
 鬼の荒い息遣いにも似た音にイツ花は顫える。内と外からの神々の捨て身の攻めに  
苦悶する声にも、計り知れない怒気が込められている。思わずイツ花の瞳が潤んだ。  
 
『イツ……花。イツ花……さま』  
 おなじ想いを大江山の暮れ六つの襲撃に等しく抱きながら、茜に染まる草原で母と弟を  
非力な小女たちが何の迷いもなしに主を守り、討伐隊の振り下ろされる太刀に立ち向かって  
盾となって逝ったのを見たはずなのに……。  
『みんなは、わたしを恨んでいますよね。黄川人と袂を分かったことを……』  
『どうして、そう思われるのですか、イツ花さま?』  
 何時、イツ花が黄川人に、そう……羅刹女に変わっていても不思議ではなかった。  
『わたしたちは、イツ花さまの躰のなかで安らいでおります。怨霊にならずに済みましたから』  
「くそおおっ、夕子!夕子!ゆうこおぉおおおぉぉぉ――っ!」  
 黄川人は両手で焔のように揺れる髪を掻き毟りながら、乱れ弱る神威を整えようとした。  
 
 ひゅうひゅうとおぞましい気道の洩れるような音が絶えず鳴っている。お夏の友に  
なろうと差し伸べた手を払って、怒りに躰が満ちた瞬間の開放感をイツ花は思い出す。  
それが罪だったことを知る。黄川人の音を聞きながら。  
『わたしたちは、イツ花さまの躰のなかで、あたたかい波動に安らいでおります。  
怨霊にならずに済んだのです』  
「夕子!夕子!ゆうこおぉおおおぉぉぉ――っ!」  
 胸を掻き毟りながら黄川人は咆え、禍々しく伸びた爪が胸の布を裂き、肌に食い込ませて  
血をしぶかせ臙脂の狩衣を濡らす。緑青色の龍の紋様が黄川人の血を啜る。  
 
『そんなことない。そんなことないようッ!そんなことのために、みんなは咲いたんじゃない!  
咲いてたんじゃないでしょうにぃ……!咲いていたのでは……』  
 掛かる封印に抗って上目遣いに鋭い眼光で、うずくまるイツ花を跨いで、福朗太を射抜く。  
『イツ花さま……?イツ花さまッ!』  
 そして天上を束ねかねて、災厄を招いた元凶として太照天の存在を黄川人は見ていた。  
『ああぁあああッ!あ、あっ、あああぁぁぁ――ッ!』  
 イツ花は這いつくばりながらも、自分であったかもしれない歪む弟を見た。ふたつの粗金は  
乖離した。  
「うわあぁあああああああ――ッ!」  
 少年の華奢な躰が反り返って、咆えた口からは――、歯の全てが細く尖り、伸びて  
銀灰色に鈍い闇の向こう側の光を放ち始める。  
 
『イツ花さま、イツ花さま……!』  
「イツ花、大丈夫ですか!イツ花!返事をなさい!」  
『わ、わたしはお夏を赦せなかったの!どうしても!どうしても、赦せなかったあぁぁぁッ!  
大江山を焼いた焔使いのお夏。綺麗だといったのよおおおぉぉぉっ!わたしに、  
大江山を灼き尽くした焔を!きれいだと言ったのよおぉぉぉ……』――みんなの幸せが。  
 神々に囲繞された地と信じて集った、民の住まった小さな都が一夜にして消えた。  
「イツ花がこわれてしまう……!福朗太!福朗太!」  
 
「いけません!動いてはなりませんッ!ええいッ!卑弥呼!卑弥呼おぉおおおおおおッ!」  
 鎮守ノ福朗太は取り乱しそうになる夕子を制し、黄川人に背を向きそうになるのを必死に  
堪えている。封印が掛かり始めているからといって、この場で主の守り役を放棄する  
ことまかりならず。そして……イツ花の躰は顫え、黄川人は手で胸を刳りはじめる。  
「昼子を!我らが、イツ花を亡くしては意味がないのです!だから、のきなさいッ、福朗太!  
聞き分けなさい!」  
 
「があッ!がッ!あ、あぁぁぁッ!」  
 上がる煙を迸る血で打ち消していく。  
『ともだちになろうとしてくれたお夏に気持ちをぶつけて、わたしは怒りに身をまかせ、  
爽快な気分になってしまっていたの……!』  
 
「なりませぬ!なりませぬ!」  
 神格最上位の夕子の手の凄まじい力で指頭が食い込んで福朗太を責めるが、翼を  
いっぱいに拡げて夕子を黄川人の妖気から遮蔽する。その間にも、黄川人の妖気が  
烈しさを増して福朗太へ襲い、戦において一度も羽根を抜かれたことがなかったのに……、  
熱風が翼から毟り取っていっていた。  
 
『その力、善きことに使ってくだい』    
『善きこと。このわたしが……?』  
「福朗太、そこを!いますぐに、退くのです!のきなさいッ!」  
 夕子の手が福朗太の白い翼を掴む。紛れもなく、子を案ずるだけの母の姿になる。  
「しずかに――ッ!しっかりと、お役目、全うなさりませいッ!あなたさまが動転して  
いかがされますかああッ!みなの苦労を水泡に帰するおつもりですか!昼子さまを信じなされよ!」  
 いつもは温厚な響きの声音。福朗太の厳しい口調が夕子の胸に突き刺さった。  
『わたしは善なんかじゃない!あなたたちを皆殺しにした……、いまは神々に組して……いて、  
生きているの。生きているのよ……!』  
 
『イツ花さま――、生きたいのです……』  
 触れずして、掛かる封印に抗いながらも、黄川人が放つ妖気だけで攻められ。  
『われらは生きとうござります、イツ花さまとともにいさせてくださりませ』  
 福朗太の白き羽が床を舐めて天井を摩すり、吹雪のように舞っていた。夕子の目の前にも  
福朗太の羽根が降る。  
 
「お風……や、皆の者は、あなたさまに集い、祈りを捧げておるのです!おわかりか!」  
 福朗太は封印が掛かり始めた黄川人をしっかりと見据えて夕子に想いを語る。敵対者を  
見くびらずに主を守るべく、持てうるすべての力を解放した。弟の妖気にあてられて  
蹲っている目の前の昼子の存在も捨てることはできない大事と知りつつも。  
 余裕などなく、歯を食いしばって夕子の盾となる役目だけを遂行することしかできない  
未熟さに歯軋りをし、引き擦り込まれて往った仲間に詫びる。夕子の掛かる手の力が緩んだ。  
 
「ぐわあぁあああッ!あ、あっ!あぁああッ!」  
 黄川人は両腕を後方に流して伸ばし、躰を丸くした。強張った両手を水落ちにやり、  
何かを取り出すような仕草をしていた。  
「おわかりいただけましたか、夕子様」  
 イツ花の妖気を凌いで丸まっていた躰が、もぞもぞと動きだす。しかし安堵して見る  
ことすらままならないのが現状、歯を食いしばったまま隙を見せるわけにはいかない。  
 
『母さま、昼子はなんともありません……』  
 イツ花は手を握り締め拳を付いて起きあがろうとしていた。イツ花としてではなく、  
昼子として太照天・夕子を守ろうと肚を括った。  
『お、お風はどうしました……、昼子!』  
 お風を案ずる夕子の私情が貌を見せる。  
「福朗太、赦せ」  
 
『取り込まれてしまいました……母さま』   
 夕子は手を口元にもっていって押さえる所作をとると、お風とともに消えて往った神々を思い、  
瞼を束の間、閉じ合わせる。  
「かたじけのうござります、夕子さま」  
 茜の光りが寝殿を満たしていた緑青色に、茜色の光りが割って入って来た。相容れない  
赤と緑の光りの渦が絡み始める。  
 

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