千万宮の狐は神の使いとしての狐、しかし九尾狐は素性がそもそも違っていた。人に根深い
恨みを抱えている。根は焔を愛していただけのお夏とおなじとも言えたかもしれない。
九尾狐は人に変化し、麗人の姿を借りて、人が惑わされる顔を狩ることを好む。善良な人が
苦悶して死ぬ相に悦びを感じ……微笑を見せた。それはいつからのことだったのか。なにが
はじまりだったのか。人の苦悶を欲して麗人となり男をまどわして、王の后にまで昇り詰めた
九尾狐の行い……生業。妖魅に憑かれた国は一本道。
王は九尾狐の化身の麗人を寵姫とし、蒼白の柔肌に狂い貪婪に躰を求めた。寝所で髷を
ほといて王を待つ。蝋燭の灯りに、玲瓏の肌が黒髪ともどもに絖る。
「くうっ」
やがて始まる男女の契り。
「んっ、ん、んあぁああ……」
ほっそりとした人差し指をコリッと噛んで、堪えていた声が洩れてしまう。長くたくわえた黒髪が
律動に乱れ、みだらに散って拡り、おんなの貌におどろに掛かる。寵姫の背から流れた髪は
翼のように下で拡がった。
その長い髪、裾で一律に切り揃えられ、王が尻から抱く際には蒼白の背に艶々とした
黒い房が川のゆったりとした流れを描くこともある。ときには蛇が白波にのたうつように、または
九つに分かれて寵姫とともに躍ったこともあった。
「あうっ、あっ、あっ、あ」
その九つの尾。太い狐の尾のように妖しく。強き力で男の滾る証拠を穿てば、それに
応えてなよやかな躰を撓わせて、裸体を仰け反らせては恍惚とした貌を纏わりつく黒髪を
払って朱を刷いた麗人のみだら貌を浮き上がらせる。
「あっ、あっ、いやぁ、あ、あっ、このままじゃ、ああ……」
昇り詰めるその瞬間、王は愛人の黒髪が黄金色にきらめく幻覚を束の間だけ見るのだった。
王は女陰から、ぎりぎりまでに引くと大殿筋を締め付けて、穿つ時には恋情とともに解放する
かのように緩めて寵姫の臀部を叩く。どう責めて扱おうとも、男の期待に素直に応える女狐の
みだらさ加減に国は傾く。
綺麗な白き足を掲げ、王は愛人の裸身を仰臥させる。細い腕が嵐に翻弄されるように
妖しく縺れて捩れた。
「はあ、はあっ、はっ、ああ……」
その嵐は王が愛人に起こしているもの。男の証拠が起こすもの。寵姫の膣内で屹立が
跳ねる。この姫となら果てがない夢に浸れた。王の目の前に、嵐に躍る張りのある乳房が
ひらける。征服欲が満たされる。尻を緩めて恋情を吐き出す怒張でぐぐっと貫くと、王の逸物は
寵姫のこころねの如きのやさしさに包まれるのを噛み締める。
「あっ、あ、くうぅううっ」
愛人の妙かなる嬌声に精に果てがないように見えても、王に忘我の時とのわかれは
必ずやって来る。王の胸板に頬を摺り甘える寵姫。おんなは果てて躰が蕩けていようとも、
底なしに男を求めるは九尾狐ゆえのこと。頂上にいる猛々しい男の精気を求め内丹とするのが
生業のあやかし。
「少し休ませてくれないか……」
「わたしが、お嫌いになったのね」
熱い吐息で貌に掛かる髪の房を麗人は吹き上げた。舞った髪の房が王には黄金色にまた
見えた。
「往くときにお前の髪が黄金色に輝くのを見る」
寵姫も、その相から交媾で疲れていることを物語っていた。しかし、それでも男を求めてくる。
それが男にはうれしくもある。
「そういうな。わたしが愛しているのは、そなただけだ。往くときにお前の髪が黄金色に輝くのを見る」
「うそ」
小さな不安気な声を愛人は洩らす。
「どちらも偽りなどではないぞ。愛の……」――証拠。わたしには示せる。
「どうされたの?」
「うむ」
「……いじわるなのですね。わたくしの気持ちを知りながら」
「おまえの気持ち」
「はい。わたしの気持ち」
麗人は張りのある乳房を王の厚い胸板に、一度押し付けて擦る様にしてから、弾力に
富んだふたつの房をぷるんと溢れさせた。片腕で胸を抱えるように押さえ、手櫛で乱れた
髪を梳くと、王から自分に与えられた寝所を出て行こうとする。
「行くな。此処はおまえの場所だ。出て行くなら、わたしが行くからよい」
「わたしに居場所などありません」
「そのようなことを言うな。わたしの居場所はそなただ」
しかし、寵姫の相は変わらなかった。
「不安なのか。それで笑みを失くしたのだな。わたしを魅せてくれぬ因なのか……」
「笑み……にございますか……?」
九尾狐はいにしえの遺恨からか、笑みを忘れていた。
「さよう」
麗人は留まって王を振り返り、小首を傾げ乱れた髪をいまいちど耳後ろに掻き揚げる。
ふたたび乳房が露わになり王の腕が伸び、指がツンと上を向く尖りをやさしく捏ね廻す。
「あ、あんっ」
「なら、証拠を見せよう」
「あ、あかし……、にごさいます……か?」
「そうだ。いつわりのない、わたしをお前に捧げよう」
魔道に染まりし王は九尾狐に尽くし通して、やがては民をもないがしろにし、深く関わって、
国そのものを滅ぼす因をつくる。それが九つの尾を持つ金色の毛並の狐。
「そなたを我が妻とする。側女たちは、みな始末する」
九尾狐はいまいちど王の胸に舞い降り、淫ら髪が吐息に舞う。細く尖った顎が王の胸板を
くすぐるようにして蠢いて、躰を押し付け男が蕩けるような快美をもたらす女体を欲して、
肉棒は逞しく膨れる。熱い濡れた吐息が王の胸をくすぐり、縋るものあなただけと、娘のような
仕草と天神以上の巧みとみだらな手つきで王を歓ばせ肉棒にひんやりとした感触の
ほっそりとした長い指を絡める。
「あつい。そして、かたくてたくましい……」
「そなたをいつも思い、恋焦がれているからだ」
包まれた手が逸物を持って扱きたてる。
「傾城とよばれます」
「そのようなことを誰がいう」
「ひみつ」
切れ長の瞳が微笑んだ気がした。王は麗人の甘える総身から発する気を受け止めようと、
ただの男になり両肘を付いて上体を起こす。ひとりで花を愛でている時も笑みを見せなかった、
その貌見たさから。
百花庭園にひとり佇んでいる寵姫の横顔を陰から王は盗み見したことがあったが、
そこでも笑みを湛えることはなく、なによりも男の欲しい恋焦がれた女のやさしい貌を
拝むことはならなかった。
わたしの子を宿してくれと王が寵姫に頼んだ時でさえも……、その子を世継ぎとして
迎えると誓約を立てようとも、人のこころはうつろい易きものと淋しそうな貌をする。
麗人は男に褒美をくれはしなかった。
益々微笑を欲するようになり、王は麗人へとのめり込んで、微笑せずとも、更に躰を
ひらいてくる女にただの男となって耽溺した。
「よう来てくれました。さあ、はよう来なされ」
戸口に立った寵姫を一顧も与えず、后は言葉を紡ぐ。后の部屋に足を踏み入れると、
寵姫は背中を何者かに獲られ、万力の如き力で躰を沈められてゆく。
「な、なにをするのですか!」
「少々、遊びが過ぎたようですね」
薄霞のような布を開いて、王の后が姿を現して立ちあがって歩き出す。姫の後ろに
立った巨漢の男は姫を這い蹲らせると、髷をほときはじめた。
「ぶ、無礼ぞ!」
慌てる寵姫の様子を眺めて后は笑い、深い緑の飛白かすり・・・天鵞絨ビロードの椅子の前に立って、纏う衣を
トサッと床に落とした。
「鎮めてみせよ。さあ、来い。そして命乞いをしてみせろ。豚め」
悄々とする寵姫を前にして勝ち誇ったような笑みを湛える。寵姫の後ろを獲っていた
男が衣に手を掛ける。
「じ、自分で脱ぎますから、後生です。そのようなこと、しないでぇ!」
「かまわぬ。裂いてしまえ」
「ひっ!」
寵姫の纏っていた繻子の衣が悲鳴を上げた。丸い肩が露わになり、張りのある弾力に
富んだ乳房が外気に躍り出る。
「わたしが見ても惚れ惚れする。玲瓏の肌かえ」
這い蹲らされた寵姫を見下ろす后。暴れる寵姫を男は片手で床に押し付けると、もう一方の
手で長い黒髪を鷲掴んで素早く腕に巻きつける。柳眉が吊りあがり、慟哭の刻印を
眉間に浮かび上がらせた。次に来るものは、王の愛人の絶望の喚き。后は瞼を閉じて
天鵞絨の椅子におもむろに腰掛け、鳴く声音を待った。男の爪が暴れる寵姫の背中に
掻き傷をこしらえる。暫らくして、みみず腫れになり血が噴き出る疵もあった。
「髪を斬れ」
「はっ」
男は寵姫の腰を足で踏みつけた。
「ううっ!お、お赦しを!髪だけは、切らないでください!おねがいです!」
ぎりぎり、ぎっ、ぎ……。
「い、いゃあぁぁぁ!いやぁ、いや、いやぁ……!ああ……」
「その髪で、そやつの手足を縛れ」
「はっ」
両手首を、切った髪で後ろ手にして縛り付けると、寵姫の躰をひっくり返して男は
薄墨を刷いたような叢の息づく清楚な陰阜を眺めてから、足首に下りて括った。
寵姫の玲瓏の肌には、長い黒髪がまばらに纏わりついていた。
「さあ、来やれ。わたしの嘗めた苦杯、思い知れ!」
「な、なにゆえ、このような……」
「言うたであろう。天帝を慰撫できるのはわたしだけじゃ!」
男が芋虫のようになっていた寵姫の物言いに肚を立てて、脾腹を蹴り倒した。
「ぐううっ」
重い呻きを洩らして躰を捩る。寵姫が笑っていたことをふたりは見ていなかった。
「ほれ、はよう来やれ。命乞いをする前に死ぬるぞ」
「ぎゃっ!」
躰に痣をこしらえ、自分の黒髪の切り屑の上を転げ廻される。
「来やれ!来やれ!さもなくば、舌も削いで、その声も出ぬようにしてくれる!」
寵姫は后の命に従って、芋虫のように床を這って近付いていく。椅子に座った后の下腹は
烈しく波打っていた。それを隠すように組んでいた両手を解いて腿を這い、膝頭を
掴んで脚を拡げて見せた。
「来い。よからぬことを考えれば、その場で殺してやる」
額を支えにして、躰をのっさりと動かして、なんとか起き上がる。
「も、もう、お赦しくださりませ……」
「ならぬ」
后の片脚が掲げられて寵姫の首に掛かり、膝であゆみ寄らされる。啼貌を后の陰阜に
圧し付けられる。后は勝利に酔い、九尾狐のこの国での戯れが今始まった。
「なぜ、髪を切った……のだ……」 「お気に召しませんか?」
寵姫は髪に手を掛けて俯く。
「い、いや。そのようなことはないが……清美だ」
「なんの相談もなしに、勝手をいたしまして、申し訳ありませんでした」
「なにか、あったのだな!そうであろう!」 「なにも、ありません。なにも……ないのです」
寵姫の貌が翳るのを王は愛しく感じる。
「なら、躰をわたしに見せてみろ」
「い、いやにござります」
「抱こうというのではない。やつに躾を受けたのであろう。疵を見せてみろ」
ならば、道はひとつしかない。
「おやめくださりませ。無体をおっしゃらないで」
「どうしてだ。わたしを嫌いになったのか」
素性の知れない愛人の為に男が変わる。
「お慕いしております……」 「なら、かまわぬだろ」 「ああ……」
「いとしい……愛しいのだ……、たまらなく」
「お慕いしております……しかし」
衣を熱情とともにぶつけられて、剥され鎖骨の深い窪みと華奢な肩を曝け出し、赫い唇からは
白い雫を魅せる。玲瓏の素肌には疵ひとつなかった。
「ならば、よいだろう、今宵はお前を抱かせてくれ。慰めてやりたいのだ。わたしの勝手から
してしまったことを償いたい」
麗人を后として迎えること。
「み、みなさまに恨まれます。わたくしひとりが、あなたさまの御心をひとりじめに……あぁああっ……」
正妻がいて、それを押し通すことは示しがつかず、国に乱を呼ぶことになるのが道理。
「かまわん。おまえに仇なす者、すべてを退ける」
それでもと、麗人が傍にさえいれさえすれば、王は何でもできる力がふつふつと湧く。男の証拠が
信じられないほどに滾る。
「でも、隠れてお会いになられるのでしょうね。おやさしいから……きっと」
所作、かぐわしい芳香。拒んでも不思議と怒りは湧かず、むしろ寵姫への愛しさが募る。
妙かなる声音で心が和む。しなやかな長い指が王の乳首を抓り、舌で胸をねっとりと
舐め廻すと、首を昇って、王の顎をくちびるに含んだ。麗人の唾液が、微かではあったが男女の
繋がった和合水の奏での旋律を立てている。
舌をゆっくりと赫い唇に収めて、王を麗人は見た。顔に纏わりつく髪を王の指が分け、
頬を撫でる手に麗人の手が包み込む。気転で言った短髪の清美に改めて気づく。
その新鮮さに刺戟される。新鮮だった。包み込んで扱かれた強張りが烈しく跳ね、妖女は
王に組み敷かれる。玲瓏の肌は妖魅ゆえに、すぐに取り戻す。王の精気で若さをも。
「そなたの不安をすべて取り去る」
王は力強く言葉を発した。殺すとは明言はしなかったが、王は寵姫のなかに、
国の凶兆のはじまりである九尾狐の笑みを初めて見たのだった。しかし王には吉兆でしかなく、
愛人への真実の証なのだから。
九尾狐は寄生するが如くに国に棲み付いて、仇をなした后の零落ぶりをたっぷりと
愉しんでから、手始めに后と情人を妖怪に変えた。人に化身した九尾狐の美貌と微笑に
惑溺する王。色欲の招いた果を見飽きては国を渡り歩いた。
時を経て、鳥居千万宮に黄金色の毛並を持つ狐が舞い降りる。白狐を祭った宮を隠れ
蓑として永き眠りにつく。お紺が鳥居で死のうとしたその日。取るに足らない、小さな
営みに、なんの関心を示したのか、気まぐれか。九尾狐は覚醒する。
それとも黄川人の匂いがそうさせたのか。
首吊りお紺の残したものといえば、妖しげな噂話と鳥居の真下に出来た何の変哲も無い
石だった。千万宮の神官たちはお紺の骸を丁重に弔ってやろうとしたのだが、その翌日に
童ぐらいの大きさの奇妙な石が根を下ろしていた。
それからというもの街中で、麗人の姿を見たという噂が立ち始める。それはお紺の
幽霊だったともいう。裸のままで命を絶ったはずだったが、美人画のような艶やかな衣を
着ていたともいう、冗談ともつかない噂話がたちまちに広まる。
お紺は生前、たくわえた艶々とした黒髪が美しかった。卵形の端整なつくりに、潤んだ
艶っぽい切れ長の瞳で見詰められると、たとえ妖魅といえど、男ならだれしもが
虜になってしまうのが理。尻からは九尾が出ていたとも……。
しかし妖狐として精を喰らって人に害を及ぼすでもない。否、実際に精気を抜かれた者も
いたのだが、それは数える程だった。お紺きつねの麗人ぶりを見た者がいかに多くいたことが
噂の出所だった。
お紺は姿を現しては、去った後に石をそこに置いていった。それを見て、九尾狐の
殺生石の伝承、または瘧石を持ち出す者もいたが、麗人の姿を見たというだけで石が
なにがしかの害や邪気を振りまいているわけでもなく、僧侶や術師に頼み破砕してもらうことも
躊躇われた。それは――お紺が鳥居で首を吊って死んだ日。
あの時、少年が人を押し除けて現われ、一掬の涙で叫喚すると勃然と千万宮の木々が
ざわめき出し、風が起るや白閃光に包まれる不思議な光景を目の当たりにしたからに
他ならないも。少年は光りとともに姿を消した。そのことがあってか、お紺の骸は暫らくの間、
放置されてしまう。たたりともいわれた。
迷信だと言う気丈な者もいたが、信じる者にとっては真になるのが祟り。そこに人に
巣食う隙が生じる。
だが実際は、誰もお紺の躰にふれたくはなかったのが正直なところ。既に九つの石が
揃って置かれていて、しまいにはお紺石と呼ばれるに至り。邪悪な物として始末しようとしたが、
たがねすら受け付けないという噂まで立つ。
かといって、そうそう放置しておくこともできず、噂の大本である首吊りお紺の骸。八日目に
降ろされることになり、九尾狐の噂から九日目はどうしても避けたかった。
幾人かの神官と巫女とで降ろす作業がはじまる頃に、鳥居の下には黄金色の毛を
たくわえた妖狐がお紺の骸を仰ぐようにし、ぽつねんといたという。石が狐に化けたのか、または
狐が石に化けていたのか……戦慄が走る。
すると黄金色の光りに、お紺の骸も包まれ生前の姿を取り戻してゆく。鬱血した貌、
飛び出していた眼球。生前の赫い唇は土気色になって、そこからはみ出した乾いた舌。
それらすべてが幻のように消えて、肌理の細かな肌は色艶を取り戻して絖り、乳房も張りをみせる。
やがてはせりあがり、沈んでの営みまでも始めた。
驚いた者の中にひとりでも、お紺を鳥居からすぐに降ろそうと行動に出た者がいたのなら、
お紺の恨みの行動は違ったものになっていたかもしれない。彼らはお紺を捨てて逃げようとした。
神の使いとしての狐、しかし九尾狐は違う。人に根深い恨みを抱えている。お紺は鳥居に吊るされた
縄に手を絡ませ、蘇生したと苦しみ悶える所作で逃げようとした者たちを束の間、引き止めた。
九尾狐とお紺の感情が混じり合う。
息を此処に来て吹き返すとは、にわかに信じられない。それでも、引き返して助けようと
した者がいた。しかしお紺は縄を爪で千切り、跳躍して、戻ってきた者を、縄を切った爪で
喉笛を裂いた。崩れた巫女の躰を抱き留め、白い首筋にかぶりつく。ぶしゅっと血が
噴き出て喉を鳴らしながらお紺は啜った。
「おまえたち、どうしてわたしを降ろしてはくれなかったのかえ。見世物にして、さぞ
愉しかったろうねぇ」
貌を上げた眼光が金色に妖しく光る。人の赫く生温かい血を啜ることが目的では
なかった。血飛沫に美貌を濡らして、恐怖に歪む相を見てうっとりと切れ長の瞳を潤す、
それが九尾狐の目的。人の血は長きを生き長らえた妖狐にとって水のようなもの。
戯れに人を殺めることを学んだのは人の所為。
「ほら。獲物たちよ、お逃げ」
事切れた巫女を放り投げ、乳房を揉みしだいて、裸身に血を塗りたくり恍惚となりながら、
ひと鳴きすると次の獲物に妖狐は飛び掛っていった。内丹を欲するのも忘れて、殺戮に興じた。
長きに渡る生業。人の苦しみを糧とする妖魅。本来は己が生きるために最小限に精気を
狩っていた営みに、人が戯れの殺戮を教えたもの。そこに来て、死に際のお紺の躰に
妖狐は――憑いてしまった。お紺の黄川人への母の心を残したままで。
ひとりでいることに疲れたのか。自分の運命を呪って死のうとしたお紺を哀れんで
しまったのか、それはわからない。しかし、九尾狐のなかに歪みが生じていたのは事実。
鳥居千万宮は妖魅・九尾狐によって支配される。
『坊、夕子になんか負けちゃだめだよ』
そして、童のような石は我が子の為に、決戦の時の守りの固めとして、お紺の黄川人を
思うこころが産み落としたもの。それが生きるのは、まだ先のこと。代りにお紺は黄川人に
百々目鬼のおんなと巨躯の朱点童子を与えた。
『ほんとに、大丈夫なのですか、昼子!答えなさい!イツ花!』
茜と緑青の光りの気流がぶつかり合う。
「卑弥呼、まだ来ぬか!」
『は、はい……母さま。昼子は大丈夫です』
寝殿の外には、まだ神々が残っていたが神格で拮抗できるものはいないはずだと、イツ花は
気を引き締めて、立ち上がる。
『……イツ花』
『母さま……。わたしは、お夏に……お夏に……。してはならぬことを……』
だが滅びを欲する闇の力がこれほどまでに強いものなのかと恐怖を覚えずにはいられず、
苦悶する黄川人から、思わず眼を逸らそうとした。
『昼子、怖がりなさい。怖がってよいのです。そして光のなかの闇と向き合いなさい』
『光……。わたしは……光りなんかじゃありません。母さま……、わたしは清浄などでは
ありません!』 『それでよいのです』
『母さま……』
黄川人がイツ花に向かって顫える手を差し伸べようとしていた。
「た、たすけてぇ……、ねえさん……、イツ花あぁああ……」
手は己の血に濡れて姉の名を呼んでいる。最後の糸に手繰り寄せられるようにして、
イツ花の垂れ下がっていた腕、手の甲が上がる。
『あなたは、天上の光り。昼子、半身と闘いなさい』
四つに組み合っていた、茜色の光りの渦が緑青色の龍に押され始めた。
「黄川人……!ねぇ、どうしてこんなことをするの?どうして……、どうしてなの!」
「復讐だよ。決まっているだろう。ボクといっしょに、こいつらを懲らしめようよ、姉さん」
「懲らしめる?」
『戦いは、はじまったのですよ』
伸びかかったイツ花の腕。手の動きが止まった。
「そうだよ。あいつらがくれた力。怨恨がボクたちを気持ちよくしてくれるよ、姉さん。そうだろう?」
「あ、あいつら……黄川人!」
「ボクたちを災厄に招いた元凶だろうぅううがあッ!」
『昼子!戦いは……』
「母さま、まだ、戦はおわってなどおりませんッ!」
触れそうになった指をすんでの所でイツ花は止め、黄川人の手は払い除けられた。姉弟の
絆は断たれる。
「ゆうこおぉおおぉぉぉぉぉッ!」
イツ花に拒まれた黄川人の手は怒りに、邪悪を極めた相に変わった。黄川人は胸を抉っていた
左手をかざして振り下ろす。
「遅いぞ、摩利!」
手に付いた血が飛び散り光弾となって襲い掛かろうとしたその時、茜の光りが一瞬にして収斂し、
イツ花の盾となる。
「福朗太、わるかったね」
摩利が弾を槍で受けて、浄化させ霧散させる。すぐさま、摩利は黄川人に挑んでいった。茜色の
光りは左右に拡がり黄川人を包囲し、摩利と黄川人が鍔迫り合いをする最中に、竜穂と夢子が
脇を攻める。
「うるさいッ!この阿魔!」
前方に振った手を横に払った。脇に廻りこんでいた水神の竜穂の躰がもんどりを打って弾き飛ばされた。
入れ替わりに紅子が黄川人の後ろを獲って、卑弥呼が夕子の守りを固め、黄川人を包囲した茜の輪は
収束していく。緑青色の龍が弱り始めたかに見えた。
「くらえッ!」
摩利の槍が攻撃を仕掛けても弾かれてしまう。
「なんなんだよ、こいつは!」
「時間を稼ぐだけでいい。防御に徹しろ」
背中を攻めていた紅子もおなじで、摩利に諭した。
「竜穂、しっかりおし!」
「わかっているわ!」
床に片手をついて水を張る。竜穂の水は四隅に駆けて壁を昇り天井を這い、寝所に防壁を
こしらえた。
「防御ったって、押されてるんだよ」
黄川人は両の手を拡げて、脇を締めた。七つ龍が茜の輪に絡みついて、外の夕子に攻撃を
仕掛けて来るのをイツ花の手が退ける。
「黄川人!」
しかし、黄川人の躰から紫苑の糸遊が立ち始めて気流を描き出す。イツ花も力を解放し始め、
そして床を蹴った。
『夕子さま、昼子さまを寝殿の外に飛ばしてよろしいか』
黄川人がなにかを仕掛けてこようとしていることを卑弥呼は察知する。
『おねがいします、卑弥呼』
黄川人の胸からは白閃光が放たれると、光弾となった内丹が発せられた。黄川人に挑み
掛かろうとしたイツ花の躰が寝殿の外へと飛ばされる。
「いゃあああッ!母さまあぁああ……ッ!母さまは、わたしが守るのッ!」
外に飛ばされたイツ花は片膝を地に付き、玉砂利を握り締め再度構えて母屋に飛び込もうとした。
「なりませぬ、イツ花さま」
手弱女の水神たちが制し、泉源氏・お紋がイツ花の怒りを鎮めようとする。
「みんなで、わたしを騙したのね!」
「ちがいます!わたしたちが、守るべきはあなたなのです!堪えてくださりませ!」
「巴、そこをどけぇぇッ!もう、たくさん!どかぬというのなら!」
「なりませぬ!お風さま、夕子さまの言いつけなのです!」 「いやだあぁああッ!」
光弾は膨れ上がって摩利の躰を呑み込んで卑弥呼に襲い掛かっていった。
「われらが総意、汲んで下りませ!」
卑弥呼の踏ん張りと、福朗太の鉢金が軌道を捻じ曲げ天井を突きドン!という轟音と
ともに突き破る。卑弥呼の躰をも吸い込んで夕子に襲い掛かろうとしたが、光弾は
逸れていった。
「母さま……が」
黄川人の波動が近づいてくるのをイツ花は感じる。その邪気にさむけを催す。
「来る!みな、さがりなさい!はやくうぅッ!」
「われら水神、手弱女と侮られますな!武紋にも通じておりまする!」
迫り来る黄川人の光弾に向かって、お紋たちは士気を鼓舞する。卑弥呼の踏ん張りと、
福朗太の鉢金が、光りの軌道を捻じ曲げ天井を破って空振が起こり、天上の大気が顫えた。
手弱女たちは迷わず、イツ花の前に出て盾になろうと動く。
「巴、退きなさい!もう、こんなのたくさん!」
イツ花はお紋の手を掴まえる。手弱女の水神たちが一丸となり巴紋の壁を描き出す。
「なりませぬ。主を守るが、われらの役目!」
「ならば、その主を信じて!太照天・昼子を信じなさい!」
イツ花はお紋たち手弱女のつくった壁を突き破り、腕を掲げて光りを弾く。光りは水面を
蹴る石のようになって、飛んで天界を離れると大きく屈折して大江山に向け、まっ逆さまに
落ちていった。イツ花は光りの軌跡を振り向いて一瞥し、追尾するべきかどうかを迷った。
「寝殿に戻る!」
迷いは、光のなかに黄川人の気を感じたからだった。しかし、母となった夕子を守ることを択んだ。
「竜穂、お墨を呼んで!呼ぶのよ!」
紅子が叫ぶ!
「いわれなくとも!なんの為に水を張ったと!」
「黄川人、なにをしたあぁああッ!」
イツ花が破られた天井から乱入して来る。
「朱点童子があぁあああ、相手をしてやる……!くっ、苦しめ……!」
「霊力に応えよ!お墨!お墨いぃぃぃぃっ!」
竜穂の母屋に張った銀の水流の壁が巴紋を描きはじめて、母屋の渦巻く光を乱反射しだす。
『わたしに同調するのです!イツ花!』
『は、はい、母さま!』
イツ花は夕子の盾となっている、福朗太の前に降りて立ち、夕子といっしょに祈りを捧げると、
銀、茜、緑青の光り三つ巴紋の空間に、遂に漆黒の闇が墨を落すように滲み拡がりを見せた。
「それまで……たそがれでも愉しんでいろッ!夕子おぉぉぉっ!」
そこからお墨の刺青の朱色の触手がうねり躍り出て、黄川人を捉え躰に巻き付けると、
闇へと引き摺って、呑み込まれるのは、さして時間は掛からずに決着した。空間に浮かんで
口を開いた漆黒の闇も徐々に小さくなり寝殿の母屋から完全に消滅する。多くの神々を代償として。
最後のあがきとして、竜穂と夢子、そして紅子も黄川人とともに引き摺られていった。銀の巴紋が
弾けて崩れる。 「み、みんなが……往っちゃった」
この策にどれだけの価値があったのか、それを見出せるかは源太とお輪に委ねられたのだが、
イツ花は地上に降りた光弾のことが気になっていた。声を張り上げて泣きたいのと無力感に近い
感情が襲ってくる。 「死んだわけではありません。みな生きているのですよ」
「わ、わかっています、母さま」 (……すこし思い出していただけ。そう……少しだけです)
イツ花は瞳に涙を張りながら、黒い虚無の空間が消え去ったあとの、収束しつつある寝殿内の
光りを見つめていた。緑青色を凌駕した茜色も徐々に薄くなっている。大江山の出来事が瞼に
浮かぶ。張られていた涙があふれて、頤から雫となって滴り落ちた。
「福朗太、夕子さまをわたしの寝所へお連れして」
手の甲で拭い、背を向けたままでイツ花は声を掛けた。
「はい、昼子さま」
福朗太はやっと夕子を振り向いて、自分の衣を脱ぐと主の裸身にそっと掛けて抱きかかえる。
「母さま、お躰はなんともありませんか」
イツ花が福朗太に抱きかかえられた夕子に駆け寄る。
「イ、イツ花……」
「わたしは昼子です。夕子さま……」 (母さま……、ありがとう)
母としての貌がイツ花の無事に安堵し、口元がほころびを見せたが、太照天としての
務めをまっとうした夕子は福朗太の腕の中で気を失ってしまう。 「……母さま!」
黄川人の放った内丹の光弾は、大江山に向かっていった。そして地上でも大気を振るえさせて、
鎮魂の碑へと轟音とともに落ちたのだった。
「きゃっ!そ、外へ逃げようよ、あんた!」 空振はその晩、計四回起った事になる。
「もう、心配するこたぁねぇよ」
「なに、落ち着き払ってんだよ、あほ!火が起ったりでもしたら、どうすんだよ……」
「だいじょうぶだってぇ」
男は甲冑のを眺めていた。時を同じくして、弓、弦、簇、薙刀、刀等々……武具を生業とする
職人たちは胸騒ぎを覚えて天空を仰ぎ、敵である光りを見ずして、今、己の作った物を通して
魔物と向き合っていた。
「そ、そんなこと言ったってさぁ」
「大丈夫っていってんだろうが。心配ねぇって」
「ねえ、いったいどうしたんだろうねぇ。なんか、この世の終わりみたいだよ」
「言うな。思っていても、これを生業にしてるなら口になんかするんじゃねぇ。二度とだ、いいな」
「それよかさあ、どうしてこんな遅くに、甲冑なんか作り出すのサァ。寝ようよ。あたしゃ、こわくて、こわくて」
「いつか、魔を退ける者たちの為の物だよ。だからなぁ」
「わ、わかったけどさぁ……もう、魔物だなんて……」
大江山の焼き討ちの一件が口に出掛かっていた。
「おめえも、見たんだろう。光りの玉をよ。魔を内に呼び寄せたくなきゃあ、口にすんなよな」
それでも、納得するしかないのだ。
「わかったよ。で、でもさあ、それを着けてまで守ってくれる人って、いったい誰なのさぁ……」
男の女房は納得した風には返事をしたものの、立ち込める霧のなかに迷い込んでしまった
言いようの無い不安を打ち消すことはできなかった。
「しらねぇ。それに、これはなあ、ただ作って、おしめぇってもんじゃねぇんだ」
大江山と相翼院から飛び立った、二つの光弾を見た者たちは、武具をつくるのを生業とする
者たちばかりで、中には古来からの兵法書物を扱う者もいた。
「あ、あんた……」
「いまは、いねぇかもしれねぇな。それからなぁ、暫らく旅に出る」
「な、なんだよ。よしとくれよ」
「神宮へいってくる」
男の女房はへなへなと腰をその場に落としていた。
「お休みになられただけです。昼子さま」
「母さま」
イツ花の夕子を見る瞳からまた流れた涙を袖で拭った。
「昼子さま。大丈夫ですか」 「なんともありません。ありがとう、福朗太」 (……みんなありがとう)
「もうしわけありません」 「かまいません。はよう、夕子さまをお連れして」 「はっ」
碑文から、血のような赤い光が闇夜を裂いて四散すると、大江山・鎮魂の碑より出でたのは、壊疽の
肉のような、濃い血の色を思わせる肌の如きおぞましい手。腕だった。もんどりを打って、それは
鎮魂碑から転げ落ちる。醜悪な相の巨漢の鬼・朱点。
『ボクを封じ込めたと思って、甘く見るなよ。それまで相手は朱点童子がしてやる。うれしいだろう?』
シユウシュウと息吐く口からは腐臭を漂わせ、のそりと起き上がる。黄川人を助にゆくわけでもなく、
巨漢を揺らして、のっしのっしと歩き、焼けた天守閣のほうへと鬼は消えていった。
『七情を龍に変化させて尚、力があるというのか』
『ほうっておくと、そいつも力を蓄えるよ。どうする、夕子。見くびっていたでしょう。それとも、お風のほうかな。
そろそろ眠らせてもらうよ。ボクだって、ただ寝ているわけじゃないんだからね』
『勝ち目のない、かけっことでも言うのか!』
その跡には、更地にされていたはずの土地に大江山の元の街並みが蘇っていた。
『さあね。ちがうのかなあ?アッハハハハ……。そのうちに、はっきりするさ』
『黄川人……!』 『たのしみに待ってるよ。じゃあ』
大江山討伐は凄絶を極めた。神威の焔が小さな都をすべて地獄さながらに焼いたのだった。
信徒たちの骸は、お業親子たちを守って殉死した小女たちの数名しか残ってはいなかったが、
イツ花とともに天界に連れられていって此処にはない。犠牲となった信徒たちは焔で骨すらも
灼き尽くされていた。
大江山に鎮魂の碑と封印の門が建てられる際には、安置所として屍倉が建てられはしたが、
黒炭と化した建造物の木々か、神事に使われた焦げて捻じ曲がった道具類だけが一時的に
そこに置かれ、墓の下に納められたという。信徒の御魂はイツ花の躰のなかにあって眠り、
ともにある。黄川人にはそれが気に入らなかった。封印を掛けられた事により、憎悪の根源は
鬼・朱点へと受け継がれることになる。そしてイツ花は光弾を退ける際に、その黄川人の
分身ともいえる鬼の貌を見ていた。おとうとの憎悪に満ちた貌といい、忘れ得ぬものとなっていた。
円座には、天上に残された者たちが座り、夕子と昼子に頭を垂れる。夕子は当初から眼を
開いて集まった面子を見回していた。結果が結果だっただけに、みなに存念ありとみて、
時置かず召集したのが理由。夕子の傍には、ちょこんとイツ花が娘・昼子として座していた。
「みなのもの、忌憚のない意見をしてもらいたく、ここに集まってもらいました」
敗北感が支配する中、みなの口は重い。ひとりひとりが弱くとも、力を合わせれば
光明が開けるだろうというのが対面ではあるが、圧倒的な力の差異を知るに当たって、
絶望的な感情がどうしてももたげてしまう。
そしてイツ花もおなじ感情に包まれていた。 『怨恨がボクらを気持ちよくしてくれるよ』
イツ花を黄川人は闇に誘った。お夏を放逐しようとした時の自分の感情、力を闇の心に
委ねたままで解放しようとした既知に胸が苦しくなり、動悸が烈しくなったことを鮮明に
思い出す。重力が胸の一点を突いて圧し掛かって押し潰されてしまうような、
わらわやみにうなされる気持ちに似ていた。
イツ花は膝に置いた両手で衣をぎゅっと握り締めて、消えたお夏のことを思って
瞳に涙を溜めていた。
「どうしました?」
『別室で休んでいてもいいのですよ』
『そうはまいりません。この詮議に参加したいのです』
『イツ花、わたしを赦してください』
イツ花の膝上に置いた握りこぶしに、夕子の手が被せられる。
『……!』
その所作、人のあふれる感情に、集まっていた一同も驚いていた。
「なんでもありません。夕子さま」
『イツ花、わたしを赦してください』
イツ花は三人の母を思っていた。お業、その半身であるお輪。そして太照天である夕子。
『母さま……ごめんなさい。ごめんなさい……』
イツ花の握りこぶしは、やわらかな感触に少しだけ緩んだ。
『お風、よいのか。策のすべて話してしまっても……』
常夜見・お風は策を弄するにあたり、その真意のすべて打ち明けることを太照天・夕子に
進言している。イツ花を外して、闘いの構えを前もってみなに話したいという。
『常夜見のお役目を果たせない私になんの意味がありましょうや』
『それはよい……お風はよくやっている。やってくれているではないか。もう、言うてはならん』
一枚岩でなかった天界を束ねる好機という捉え方もなくはなかったが、事態は切迫して、
それは、黄川人の成長の早さにあったからだ。
『心遣い、かたじけのうございます。しかし、夕子さま。この策の全容、ぜひともみなにお伝えください』
『洩れる恐れを……どうこう言うている場合ではないということですね』
『さようにござります。われらの存在意義に掛かるものなのです』
まだ、完全体ではないというのに、その力においては遥かに神々を凌駕していること。
都に敷かれた、人による呪術の魔物封じでは一時の気休めにすらならないことは明白だった。
「なぜ人にやらせるのですか。我らがいま一度、戦いを挑めば、まだ勝機はあるはずです」
評議において噴出したのは、源太とお輪の子に将来を託す考えへの不満だった。
『なにに端を発したのか、それは忘れるのだ。よいか、迷いを捨てて、己が役目のみ果たせ。
みな心して欲しい。いまこそ、天界に磐石な基礎を築かねばならん!掛かる災厄は朧なれど、
計り知れぬものとなることは此処に明言する。ゆえに、やつを都から出さぬように封印を我らで
仕掛ける。勝機など我らにはない。明日を昼子さま、源太とお輪の子に委ねる』
『なににゆえ、人に委ねるのです、夕子さま』
『源太とお輪は祖にいちばん近いからです。その子を立てて戦いを挑ませます。小輪花に命運を
託すことが、この戦の目的』
『ご、ご冗談を……!』
鎮守ノ福朗太が思わず感情を吐露する。
『冗談などではありません』
言ってしまったのであれば、もう吐き出すしかなかった。
『では、昼子さまはいかがされるのです』
『昼子は太照天を継ぐ者です』
『それでは、あまりにも無体な話ではありませぬか。その赤子といい、我らは……あやうい……』
『控えろ!』
『な、なぜに、人……であらねば……』
喉奥からの絞り出すような声だった。
『ほかに、なにがあるというのだ。策があるというのなら、誰か申してみよ。おまえたちが人に
憑依して、いかほどの成果があったか、思い知れ。黄川人の怒りを増幅しただけではなかったのか』
お風が声を張り上げて説き、更に言葉を紡いだ。此処より神々がいなくなることは乱を
呼ぶことになる。確実にそうなる。それでも、それでもと常夜見・お風が時間稼ぎの為であれ、
黄川人に闘いを挑むことの重要性を伝えるには十分過ぎた。
『思い出せ。相翼院での出来事を。我らに奴を駆逐する力などない!外と内からの魔封じを
仕掛ける。外は夕子さまが。内からはわたしとともに引き摺られたものたちが仕掛ける。
やつは我らを殺そうとはしない。それが唯一の付け入る隙だ』
『小輪花にござりますか……』
『いまひとつ、申し付けておきたきことがある。昼子さまが、どうしても戦いに臨もうとしたのなら、
夕子さまを守るようにと諭すのだ。可能な限り、昼子さまに我らの動きは気取られてはならん。
それを肝に銘じよ。よいな』
『しかし……』
『黄川人に対抗できる力を持つのは昼子さまだけだ。案ずるな。それまでに、魔封じを
仕掛けてみせる!』
常夜見の光のない、紫苑の瞳が一同を見回し、空間を支配する張り詰めた気に納得する。
『対抗できる力は昼子さま!守るべきは昼子さまと心せよ!そして、それとなく我らの
動向をお夏に洩らせ。よいな、刑人』 『はっ』
主要な戦力を失った、黄川人との前哨戦を終えての……評議。
「勝機とは、なんでござりましょう。多くの同胞を犠牲にすることの価値がいかほどの
ものだったのか。それも、ただの時間稼ぎに」
その手詰まり感に、濃厚な敗色が漂っていた。
「それを言うたところで……な、我らが思うてはならん。夕子さまが判断すべきことなのじゃて」
円座から膝立ちになり、顔を赧らめている年寄りに食って掛かろうとする、土神の武人。
「これ、銚子を奪うでないぞ。双角、かりかりするでない」
盃から酒がこぼれていた。
「あなたさまというお人は。われらにも意地はあります。どうして、封印したというのに殺せぬのか。
止めを刺せぬ……」
それは、多くの神々を連れ去ったから。「これ、わしの酒を返さぬか」いま決死の覚悟で
挑んだとしても、代償が大きすぎるのは周知の事実。
「あれは、封印などではない。お風も言うたであろう。かたちばかりのもので、さしたる
意味は……無い。それに、奴は成長するしのう。小輪花に賭けるしかないのじゃて」
「なら、いっそのこと、もろとも滅すれば……」
「いうなッ!二度と、そのような」 (……世迷)
イツ花の声が座に響き渡った。
『気持ちを静めなさい、昼子』
怒ったのは椿のように潔く落ちて、生き恥を晒さないという考えにだった。花に例えれば、
神々の存在そのものが老醜を晒していたことが縺れのはじまりだったのではないのか。
『こればかりは、引けません、母さま』
やがて、神が人の男に恋情を抱いてしまったことにある。そして、黄川人がいて、
自分がいた。そして……両親が築いた王国が消えたのだ。
「不満があるというなら、わたしを倒してからになさい。イツ花をこの場で滅してみせよ!」
双角は円座にどかっと腰を落とした。
「それでは、この詮議の意味がないではないか」
「だから、言うた!封印を解いて、力を使い果たしたかどうかわからぬ黄川人を
倒せるかどうか!この昼子を倒してみせよ!神々の存念を、この躰にぶつけてみよ!
相手してあげます!」
「昼子、すぎるぞ。収めなさい!」
立ち上がろうとしていた昼子の躰、夕子の腕が制した。
「すまぬ、双角。この子を赦してやって下さい」
「夕子さま……」 『母さま……、わたしは、まちがってなどいない』
イツ花の声が震え、制した夕子の腕をきつく掴む。
「昼子!」
「わたしが悪かったのです。お気持ちを察することなく、不躾を申して……お赦しくださりませ」
討伐の凄惨酸鼻を経て、天界の束ねになろうとするイツ花。敵となるのが血を分けた
弟であることは、正直耐えられないものだった。しかし、それよりもまして、人に対する
神々の意識。その眼。上位に位置したものが下位の者に衝きあげられる嫉妬の感情。
闇にイツ花は、なによりも恐怖していた。それが大江山の災厄を招いたことなのだから。
「申し訳ありませんでした」
双角のような男神においても、そのような懸念を抱く。みなが平常心を失いつつあった。
夕子にしても、イツ花の為に下位の者に謝るというのも異例のことでもあったが、それは
善き変化とも言え、ある意味、場を和ませもした。
「は、花がかわいそう……」
だが、イツ花は死の意味付けに対して、烈しい拒否反応を示す。
「昼子さま……」
椿の潔さ、桜の散り際の美しさ……、されど命の落花は見るに忍びない。闇に染まりそうになる
自分もまた恐ろしかった。大江山討伐の天空を摩する焔が自分のようで、心のなかの
闇と向き合う。光りのなかの闇を見ろと言う夕子の言葉を戒めにできなかった自分を恥じ、
ふと闇のなかの光りのことも、気に止めるようになっていた。善のなかの悪なのか。悪のなかの
善なのか……と、心が反芻していた。
「しかし、道理よの。昼子さまに叶わねば、いかんともしがたいわのぅ」
エビスが愛着の使い古した盃をまたぐいっと煽った。
「なにをしている!戦場で刀を落すやつがいるか!」
源太は父に庭先で稽古を付けてもらっていたが、体力差から振り下ろされた木刀を受けきれずに
躰ごと弾き飛ばされていた。
「あっ……」
遠くから源太を見守っていた、お輪が瞼を閉じた。
「敵に背を見せるな!妖魔に背を裂かれれば死するぞ!」
転がった源太を木刀で打ち据える。重い呻きを吐くだけで、泣き声ひとつ上げはしない。
「よいか、その眼を忘れるな」
源太は父親となった男の顔を、敵を見るような目で睨んでいた。
「お、お赦しください」
「気になどしておらん。それよりな、源太。決して散り急いではならん。満ちて大輪を咲かせ。よいな」