『 存在理由と存在意識 』  
 
 
それは、ほぼ日課とも言える待ち時間。  
門柱に凭れ掛かりながら、俺 ―― 北村伸太郎 ―― はぼんやりと空を眺めていた。  
高く透き通る青空には雲一つなく、太陽の陽射しが土砂降りのように降り注いでいる。  
その眩しさに少しだけ目を細めていると、その視界を2羽のツバメが寄り添いながら横切っていった。  
目の前のブロック塀の上から顔を覗かせている細木には、少しだけ緑がかった芽が生まれ始めている。  
まだ剥き出しの頬に擦り寄る空気はひんやりと冷たいが、春の訪れは確実に近づいているようだ。  
 
(そろそろ、春用のコートも用意しようか……そう言えば夏服は何処にしまったっけ……?)  
 
そんな事を考えていると、背後でドアを乱暴に開け閉めする音が聞こえ、俺は門柱から背中を離した。  
パタパタと小走りで近づいてくる足音の主に振り返りながら、玄関の正面に立つ。  
と、こちらに迫りながら、慌ててピンク色のハーフコートの袖に手を通そうとしている女の子が、  
よっ、とばかりに片手を上げた俺の姿に気付き、  
 
「伸ちゃん! おは――きゃあっ」  
 
こけた。  
ビターン!という音がしないのが不思議なほど、地面に向かって体全体を平行にしてこけた。  
両手をちゃんと出しながらも、それを体を支える為には全く役に立たない方向に伸ばしてこけた。  
わざとやっているのではないかと思わせるような顔の突っ込み具居合といい、  
毎度の事ながら、見ているこちらの方が気持ちが良くなるくらい見事かつ爽やかなこけっぷりだ。  
 
「……うー……いたぃ……」  
 
と、しかし、本人はマジで痛そうなので、正直な感想は口にしない。  
大きな瞳を涙に潤ませた彼女は、膝の辺りをさすりつつのそりと起き上がる。  
俺はというと、さも当然のように鞄から道場で使う応急セットを取り出していた。  
 
「ほら、見せて」  
 
立ち上がろうとする彼女のお尻の下に自分の鞄を敷いて座らせると、俺も彼女の膝元に片膝をついた。  
両足を伸ばさせ、スカートの裾を摘んで少しずり上げると、すらりと伸びる真っ白な足が現れ、  
その左の膝小僧辺りにピンク色の光沢を帯びた部分があった。少し血も滲んでいるようだ。  
 
「ちょっと我慢してろよ」  
 
俺は脱脂綿に消毒薬を吹き付けると、傷口にちょんちょんと触れさせる。  
ピクリと彼女の体全体が震えた。その傷口を確認しながら尋ねた。  
 
「染みるか?」  
「うん……でも大丈夫、我慢する」  
「ああそうかいそうかい、偉いなぁ真由ちゃんは」  
 
ちらりとその表情を伺うと、『子ども扱いしないで!』と言いたげな膨れっ面が視界に入った。  
だから俺は、『じゃあ、子供みたいに転ばんでくれ』という皮肉を込めた笑みを返してやる。  
すると、真由は拗ねてプイッとそっぽを向いてしまった。  
そういうところが子供っぽいと言うのだが、まあ、それもいつもの事だ。  
 
彼女 ―― 篠崎真由 ―― は、家を一軒挟んだ隣に住む、1つ年下の幼馴染だ。  
お互いの親が昔から知り合いだったことと、近い年齢の子供がいるということで家族ぐるみの  
付き合いをし、俺達も物心つくころには『しんちゃん』『まゆちゃん』と呼び合う間柄になっていた。  
 
ただ、それも昔の事。  
 
10年近く前、俺のお袋が病気で死んだ頃から、家族同士の付合いは急速に少なくなっていった。  
後で聞いた話なのだが、昔からの知り合いというのはお袋と真由の親父さんだったそうで、  
それもどうやら、同級生とか友達とかいう浅い関係じゃなかったらしい。  
無論とっくの昔に別れているし、互いの連れ合いを裏切るような事を考えていた訳では(多分だが)  
ないだろうから、変に勘ぐるのは両者に失礼な事ではあるが、少なくともうちの親父にとっては  
決して心弾むような付合いではなかったのではないかと思う。その気持ちは分からないでもない。  
そもそも、出張や単身赴任で家を空けがちな親父は、その付合いにも頻繁には参加していなかった。  
だから、お袋が死んで両家の関係が疎遠になるのも仕方ない事なのだろう。  
 
尤も、そんな親同士の事情など子供達にとっては基本的に関係のない話だ。  
親達には親達の理由があるのと同じように、俺達には俺達の理由がある。  
親達が疎遠になる理由があるように、俺達がいつまでも幼馴染の関係を続ける理由もある。  
それに対する思いに変化があったとしても、だ……  
 
……ああ、ちなみに俺が『まゆちゃん』と呼ばなくなったのは、単にこっぱずかしくなっただけ、  
真由は『しんちゃん』が『伸ちゃん』と漢字が分かるようになっただけであり、  
互いの呼び方が変わってはいるが、基本的な関係という点においてはやはり変わっていないのである。  
まあ、思春期特有の精神的な成長が反映されている分、俺の方が幾分か進んでいる……かと思う。  
 
仕上げに傷口に絆創膏を貼り付けてやった。  
真由は膝を曲げて顔に近づけると、そこをしげしげと眺め、指先で軽くつついた後、  
 
「ありがとっ、伸ちゃんっ」  
 
もう機嫌が直ったのか、にこっと笑顔で俺に礼を言う。  
それを見て自然と俺も笑みを……むっ? あー……なんというか……これもお礼の一種か?  
俺が何も言わないでじっと固まっているのを不審に思ったのか、真由は小首を傾げた。  
 
「んー? 伸ちゃん? ……どうし……きゃ!!」  
 
……どうやら、俺の視線の先を追ったらしい。  
慌てて膝を内側に倒すと、スカートの裾を両手で握り締め、引っ張りながら下に押さえつけた。  
そして唇をへの字に震わせ、頬を林檎並に赤くして、俺を上目遣いに見上げ……いや、睨んでいた。  
その目尻には、羞恥でか怒りでか、今にも零れそうな程の大粒の涙が溜まっている。  
うーん……この状況で見てないといってもよもや信用などされまい。まあ、実際見てるし……  
いろいろ考えた結果、キラッと八重歯を輝かせた俺は、力強く握り締めた左拳から親指をおったてて、  
真由に向けてぐっと突き出した。あくまで爽やかに、軽やかに、彼女のための精一杯のフォロー。  
 
「しましまおパンチュ、ばっちり見ますた! ごっつぁんです!」  
 
真由は一瞬、その瞳をまん丸にした後、顔を耳の先まで真っ赤にして俯いてしまう。  
やがて、その両肩が何か大いなる力を溜め込んでいるかのごとくプルプル震え始めた。  
……遺憾ながら全然フォローになってなかったらしい。女心とは難しいなぁ。しみじみ。  
 
「 伸ちゃんの …… 伸 ち ゃ ん の バ  カ ァ 〜 〜 〜 〜 〜 !! 」  
 
 
通学路を進む俺の前方2メートルほどのところで、セミロングをゴムで後ろに纏めたポニーテール  
――今はアップって言うのか?――が大きく上下に揺れている。  
朝の陽光を受けて、エナメルの光沢を宿したその栗色の後頭部に、俺は声をかけた。  
 
「おーい、真由ー、マダ怒ってんのかー?」  
「知らない!」  
 
……やはり怒っているらしい。  
どうやら精一杯の大股歩きで不機嫌さを表し、俺から距離を取ろうとしているようだが、  
俺の胸にようやく届く程度の身長のチミが、どんなに頑張ってちょこまか足を動かしても、  
俺が普通に歩くのと大して変わらない速度にしかならないのだよ、真由君。  
 
「……ついて来ないでよ、えっち!」  
 ……えっちなのは認めるが……そうは、いかないな。  
「しゃーないだろー。俺の学校もこっちの方なんだからー」  
「じゃあ、回り道してきてよ!」  
「やなこったー」  
 
のほほんと口笛を吹き始めると、突然ぴたりと真由が立ち止まり、顔だけでこちらを振り向いた。  
今にも噛み付いてきそうな、でも比較的笑える表情で『う゛ー』とかうなり声をあげている。  
ま、実際真由が噛み付いてきてもせいぜい『カプ』程度の可愛い擬音しか出ないだろうけど。  
俺が全く動じないでいるのを見ると、真由はまた前方に向き直り、いきなり駆け出して……  
 
「! 待て真由! あぶ――」  
 
また、こけた。  
 
 
『……えー、本日二度目の転倒により足首を挫いたと涙目で訴える真由さんの要望……  
 否、命令により、わたくしこと北村伸太郎は彼女を背中におんぶして登校する事と相成りました。  
 なお、今回の件につきましては、わたくしに全面的な非があるとの彼女の主張ではありましたが、  
 わたくしには反対弁論の機会は与えていただけませんでした事を付け加えさせていただきます……』  
 
「わー、速い速いー!」  
 
真由が俺の背中で無邪気にはしゃいでいる。俺は砂煙を上げながら全速力で通学路を疾走していた。  
レンガ造りの遊歩道を走り抜け、歩道橋を駆け上がり、横断歩道で青を待つ。そしてまた走る走る。  
追い抜かした人影の中には、幾つか見覚えのある後姿があったが、挨拶などする余裕は全くない。  
一応、人並み以上に体は鍛えてはいるし、真由の体重も軽く、ただのおんぶなら何の問題もないが、  
背中に居られる姫君は、平民と同じような普通のおんぶではご満足いただけないらしい。  
意図的にか、俺の首に巻いたマフラーの端を両手で掴みながら、重心をぐいぐい後ろに掛けて下さる。  
俺が背後にずっこけないようにと前のめりになると、首がぎゅうぎゅう絞まる心憎い仕打ちだ。  
 
(ぐ、ぐるじい……)  
 
それに、怪我人なら怪我人らしくもうちょっとしおらしくしてくれればいいものを……  
 
「アハハハハッ! はいよー! しるばー!」  
 
この状態では、元気な幼馴染の彼女にいいように遊ばれているダメ男、と思われても否定は出来まい。  
流石に、これは恥ずかしい……というか情けない。この姿はなるべく人様には見られたくない。  
もし、これがさっきの仕返しだとしたら、かなり悪質……というかここまでするか、普通?  
早くこの二重の責め苦から解放されようと、喉の奥から声にならない悲鳴をあげながら、  
俺はアクセル全開フルスロットル状態で校門を駆け抜けていた――。  
 
げた箱を目前にしていよいよ力尽き、俺はうつ伏せに倒れこんだ。  
そのまま体を反転させ大の字で仰向けになると、胸の奥で繰り返される小爆発を宥めるように、  
体全体で荒い呼吸を繰り返す。酸素、酸素、酸素……あ、あれ? 真由は……くそ、動けん……  
 
「はぁ、はぁ、ひぃ、はぃ、……んぐ、あ、はぁ、はぁ……」  
 
飲み込んだ自分の唾は酷く乾いていて、塩辛くなった喉奥を少しも癒してくれない。  
自分の出す声に混じって、辺りから惜しみない笑い声が耳に届いたが、もうどうでも良くなっていた。  
少し呼吸が楽になってきて薄目を開けると、眩く輝く太陽が笑顔で俺を祝福してくれていた……。  
と、不意に俺の視界が闇に覆われた。その中心部はにやりと歪み、白い三日月を形作っている。  
俺の無様さをあざ笑うかのように、三日月が揺れた。  
 
「よぉ、北さん。いつの間にナイトから馬にジョブチェンジしたんだい?」  
「う……はぁ……うっせぇ……ばか……はぁ……ふぅ……」  
 
捻りのない悪態をつきながら、何とか冷たいコンクリートに手をついて、上体を無理矢理押し上げる。  
まだ動悸は早く平常時までは回復していないが、教室に移動する位なら支障はないだろう。  
立ち上がり、コートについた砂をパンパンと払うと、横から俺の鞄が差し出された。  
短い礼を言って、そいつから鞄を受け取りながら、俺が鼻から軽く息を抜き一息ついたところ、  
 
「あ、礼二さん! ごきげんよう」  
「やや、これは姫様! 今日もすこぶるご機嫌麗しゅう」  
 
駆け寄ってきた真由が、スカートの両裾を軽く持ち上げ片足の爪先を後ろに立てて軽く会釈すると、  
礼二は恭しく臣下の礼をとる。どうも、こやつらはこういうノリが好きらしい。  
 
「ときに姫様、伸太郎号の乗り心地は如何でございましたか?」  
「うむ、なかなかじゃ。近いうちにそなたも乗せてつかわすぞ」  
「おおなんという有り難きお言葉! 身に余る光栄! 恐悦至極に存じまする!」  
 
をいっ!……っと、俺の魂の叫びが聞こえたのか、真由が俺に向き直った。  
そして、バックから自販機で買って来たらしいスポーツドリンクを取り出し、俺に差し出してくれる。  
 
「はいっ、これは頑張った伸ちゃんに対する真由様からのご褒美ですっ」  
「……これはこれは勿体のうございまする……」  
 
俺は言葉だけで恐縮しながら、さも当然のように缶を受け取って……ん? ちょっと待てよ……  
いつの間に……じゃなくて、どうして……じゃなくて、どうやって……んー違う……あ、そうだ!  
 
「お前! 足挫いたんじゃなかった……の……か……?」  
 
あ……いかん。全部言う前に答えを出してしまったら、頭の中が一気に冷めてしまった。  
一瞬きょとんとした真由は、そんな俺の惨めに消沈した様を見ると、  
更に追い討ちを掛けるかの如く、その場でクルクルと2回転した……挫いていた右足を軸にして。  
ふわりと、丸く、スカートが広がり、揺れる。  
すとん、と両足をつけて深々と慇懃なほどのお辞儀をすると、礼二がブラボー!×2と手を叩いた。  
そして、顔を上げた真由の、いかにも「してやったり」と言いたげな勝ち誇った笑顔。  
迂闊にも、それに見とれてしまった時点で、俺の敗北は決定していた。  
 
……あー、なんか……もうどうでもいいや。  
 
俺は思わず漏れた苦い笑いを誤魔化すかのように、缶のタブを上げ、口を付けると一気に傾けた――  
 
 
 
キーンコーンカーンコーン……  
 
 四限目の終りとともに、昼休みの始まりを告げるチャイムが辺りに響きわたった。  
 某国の軍隊のような一糸乱れぬ起立、礼の動きで教科書と分子模型を持った眼鏡の男を追い出すと、教室は恒例の賑やかな喧騒に包まれる。人間の三大欲求の一つ、食欲を満たす時間だ。  
 俺はやおら立ち上がり、いつものように野郎二人むさ苦しくも爽やかに連れ添って……って、おや? わが相方である礼二君は黙って机の上を見つめたまま、席を立とうという気配すらないではないか。  
「おい礼二、早くコンビニ行こうぜ」  
「……いい……俺は行かない……」  
「どうした? 腹でも壊したのか?」  
「うふ……うふふふふ…………うふふふふふふふふふふふふふふ…………」  
 礼二は背中をヒクつかせながら、不気味に口元を歪め、気色悪い笑いを喉の奥から垂れ流し始めた。  
 嗚呼、なってこった……壊れたのは頭の方だったのか……いやまったく、惜しい漢を亡くしたものだ。  
 コイツとの付き合いは高校に入ってからだから、そんなに長いわけじゃないが、まるで10年来の友のように何でも愉しく話せ、心を許しあえる、かけがえのない存在だった。  
 まぁ初めて会った時から、ちょっと変わってるよなぁ、と思ってはいたが、こんなに早く別れが来るとは思ってもみなかったよ……さらば、わが親友・原礼二……安らかに眠れ……。  
 俺は涙を堪えながら、故人の冥福を祈り、掌を合わせ頭を垂れた。  
 
「……北さん……君は今、俺に対してなんかスッゴイ失敬なことを考えていないかね?」  
「いえ、別に」  
 
 俺達の学校は大雑把に分けて、3年生の教室が1階、職員室が2階、1年生の教室が3階、そして2年生の教室は4階といういびつな割当てになっており、特別教室は各階に配置されている。  
従って俺達2年生は、学校を出て最寄のコンビニに行って戻るにも結構な苦労な訳なのである。  
 ならば、朝の登校時に買っておくという堅実な選択肢もあるにはあるが、学校の持つ一種独特の空気から買い物という名目で、昼休みだけでも解放されるというのもこれはこれで魅力的な事だ。  
 まあ結局、その辺の選択は個々人のその日の気分次第で決定する事になるわけなのだが、今、俺の目の前でスキップしながら階段を下りていく男には、そんな心の洗濯など必要ないだろう。  
 その見かけからして浮かれている後頭部を眺めながら、俺は溜息をつくように呟いた。  
「……弁当ねぇ……」  
「ちっぐわぁーう! ただの弁当じゃねぇ! わが妹ユカリンの手作り愛情弁当だと言うとろうが!」  
 耳ざとくそれを聞きとがめた礼二が振り返り、この上なく真剣な怒りの表情で、俺にビシッと人差し指を突きつけてくる。  
「……はいはいそーですかあーそうですか」  
 さっきから礼二の口から機関銃のように打ち出される意味不明な妹萌えがいい加減鬱陶しくなって、俺はもういいとばかりに視線をそらした。礼二はまだなんか言っているようだが、完全に聞き流す。  
 その一方で、礼二が溺愛する彼の妹 ―― 原由香里 ―― の事を思い出してみた。  
 確か、彼女の入学式の後、礼二が『俺の妹だ!』と自慢げに俺に紹介してきたような記憶はある。おどおどとして礼二の背後に隠れながら、はにかんだ笑顔で俺に挨拶してきた彼女は、髪を三つ編みのお下げにした地味なメガネッ娘だった  
……ような気がする……が、定かではない。  
 別に礼二の妹に興味がないというわけじゃないが、如何せんあの時は、新入生代表として挨拶した真由が、『伸ちゃーん!』と手を振りながらステージ横の階段から転がり落ちた事の印象が強すぎて、他の事はよく覚えてないのだ。  
(驚いた事に、真由は学年一位の成績でうちに合格したらしい……俺は補欠合格だったのに……)  
 ……いや、あの時は本気で心臓が――  
 
「 伸 ち ゃ ー ん !!! 」  
 
 ……心臓が、止まるかと思った。いきなり階下から自分の名が大声で呼ばれたのだ。  
 何とか動揺を悟られないようにと、ちょっとぎこちない動きで声のした方に顔を向けると、そこには、ニコニコしながら俺に向けてぶんぶん手を振る真由がいて……その背後に人影が見えた。  
 
「――そして俺とユカリンの兄妹という関係を超えた禁断の愛情が織り成す絶妙のハーモニーが――」  
 
 踊り場でアホな一人芝居を続ける礼二を放置し、俺は階段を下りて真由の前に立った。そして、小柄な真由の背中の後ろで、半ばしゃがむようにして隠れている人物に目をやる。  
 緩やかなウェーブが掛かった、その長く綺麗な艶のある黒髪に見覚えがあった。……ああ、放課後、真由を迎えに1年生の教室に行くと、真由とよくおしゃべりをしている女の子だ。  
名前は知らないけど、会えばちゃんと(何故か真由の後ろに隠れてからだが)会釈してくれるのでそこそこ好感は持っていた。  
 とりあえずいつもどおり「あ、ども」と軽く頭を下げてみる。すると一瞬ビクッとして視線を逸らした後、慌てた様子で旋毛が見えるくらい深々とお辞儀してくる。  
その両手に清潔そうなナプキンで包まれた、何か四角い物を抱えているようだ。  
 ……と、俺の視線に割り込むように真由がぴょこんと体を横に傾けて、  
「しーんちゃんっ、これからお昼ごはん買いに行くの?」  
「ん? あー……そうだな……」  
 俺は右手を軽く握って、親指を階段の上に向ける。  
「……あのバカは、妹さんが弁当を作ってくれたらしいから、買いに行く必要はないらしいけ――」  
「 あ っ 、 あ っ 、 あ 、 あ の っ !! 」  
 真由の横からの裏返った声で、俺の言葉は遮られた。  
「わ、私、おお兄ちゃんのだけ、じゃなくて、き、き、きた、北村さんの分もつ、作ってきたんっで、  
 ああ、ま、ゆちゃんのも、あのこ、のえとわ、わた、私を、私 を 、食 べ て く だ さ い っ !」  
 
とりあえず……最後の一言が言い間違いなのだけは、よく分かった。  
 
 
 都心から微妙に外れた地域に位置するわが校は、他と比べると遥かに広い敷地面積を誇る。  
 ここがいわゆるベッドタウンということと、近所に他の高校が存在しないという立地条件から生徒数も多く、その分校舎は大きくなるわけだ。  
 グラウンドも野球部・サッカー部・ラグビー部が同時に活動してもお釣りが来る位で、その他にテニスコートが3つ、体育館が2つ、室内温水プールに柔道場・剣道場まで備わっている。  
 どんな時代にどんな奴がどんな事考えてこんなもの作ったのか疑問に思うのは、無粋な事だろうか………まあ、それはさておき。  
 
 校舎を出て少し敷地内をふらつくと、大学のキャンパスを思わせるような広い芝生の風景にでくわす。一言で言えば生徒・職員の憩いの場であり、晴れた日にはここで戯れる老若男女の姿に出会える。  
 無論、昼休みともなれば、そこかしこでランチタイムを展開する姿が否応にも目に付くのだ。  
 というわけで、俺達もそれに負けじと適当な場所を見繕い、輪になって由香里ちゃんの作ってくれた弁当を堪能する事にした……が、俺は微妙な立場に立たされていたことに、この期に及んで初めて気付いた。  
 所狭しと弁当箱に並んだ、彩り鮮やかなおかずの数々を前にして、俺の箸は何も手をつけずにいる。  
「ねぇ……由香里ちゃん……」  
「…………はぁ…………え? あっ、は、はいっ! な、何でしょうか!?」  
「あの……そんなにジッと見られると……その、ちょっと食べにくいんだけど……」  
「え……ああっ! す、すいません! や、止めます、すぐに止めますですぅ!」  
 ……けど、やっぱりもじもじしつつも、俺の横顔を上目遣いでチラチラ盗み見してくる由香里ちゃん。少し頬が赤いのは春めいた午後の陽気のせいでいいとして、この挙動不審な仕草は一体何だろうか?  
 ……実は先程、俺が「いつの間に眼鏡止めたの?」と軽く尋ねてみたところ、突然わんわん泣き始めてしまったのだ。まあ確かに、1年近くずっと気付かないでいた俺も悪いって言えば悪いんだけど、  
 お陰でこちとら、礼二には手加減抜きで殴られるし、真由には冷たい目で見られるしで散々だった。  
 まあそれで俺はてっきり、嫌われてしまったかと思っていたのだが、今はニコニコしながら俺の隣に座っている。どうやら感情の起伏が激しいタイプみたいだが……いまいち掴みにくい性格のようだ。  
 
 ついでに言えば、つい数分前まで浮かれきっていた、俺の正面に座るこの男も様子がおかしい。尤も、コイツの場合は実にわかりやすいのだが。理由は簡単、弁当の中身にある。  
 白米の下地に正方形の海苔が被せられ、醤油で満遍なく塗装された、いわゆるのり弁だ。お情け程度に真ん中に乗せられた梅干が、かえって哀愁を漂わせている。  
 俺達の弁当と比べなくても、これが「愛情弁当」とは程遠いものと認識させるのに十分な存在感だ。  
 
「……おかずなんて飾りですよ。僕にはそれが分からんのです……」  
 
 わけの分からないひとり言を呟きながら、自分の周囲に深夜の墓地のような暗い空間を作り出す礼二。その周りで、青白い火の玉が盆踊りをしているように見えたのは俺だけなのだろうか……。  
 流石に不憫に思った俺は、弁当から厚焼き玉子を一つ箸で摘んで、礼二の目の前に差し出した。  
「おい、礼二……」  
「……んぁ……?」  
「……よかったらこれ……食うか?」  
 すると、礼二の死んだ魚のようだった目に、みるみる生気が蘇る。そして、大粒の涙が零れ落ちた。  
「……俺は……俺は、今日の日を忘れない! 北村伸太郎というかけがえのない親友の名とともに!」  
 ……厚焼き玉子一つで感涙に咽び泣く礼二を、なんとも哀れに思う。  
 そして、餌を待つ雛鳥のように大きく開いた礼二の口に、それを入れようとして、  
 
「……うぅ……ふぇっ……」  
 
……最高に嫌な予感がした俺は、恐る恐る目だけを横に向けた。  
 
 ……それを例えるならば、誕生日のケーキに灯るロウソクの火を吹き消そうと大きく息を吸った瞬間、  
隣にいたハナ垂れ坊主に先に消されて、行き場所が無くなった肺の中の空気を泣き声に変換する直前の幼い少女のような、とでも言おうか………  
 俺の良心の天秤が、礼二への同情心を遥か彼方へ弾き飛ばす程に重い罪悪感を、これでもかとねじ込んでくる由香里ちゃんの表情に……思わず俺は手首を返して、  
 
『パクッ』  
「あっ♪」  
 
 ぱぁっと花が咲くような笑みが、喜びと安堵に満ちた由香里ちゃんの顔を彩った。  
 そしてそれを横目に見、口元を引き攣らせながらほとんど咀嚼もせず口の中の物を飲み込んだ俺は、  
「…………みんな…………きらいだ…………しくしく…………」  
更に濃い闇を身に纏い、涙ながらにのり弁を貪る礼二に、今度こそフォローする手段を失っていた。  
 あ……いかん……このままこんな事で、首なぞ括られたりしたらそれこそ夢見が悪い……。  
 こういう時は……そうだ! いつも周囲を必要以上に明るくする天才の真由ちゃんの出番ではないか!  
 藁をも掴む心境で真由を見ると、心底美味そうに竜田揚げをぱくついていた真由と視線がぶつかった。  
「んえ? ふんふんほへひゃいお?」(あれ? 伸ちゃん食べないの?……と言いたいのだと思う)  
「ああ……ん? 真由、何か……」  
 口をもごもごさせている真由の口元に、白いタルタルソースのようなものが付いている。  
 俺はしょうがないなと声に出さずに呟き、何気なしに左手を伸ばして親指でそれを軽く拭ってやり、弁当箱を芝生の上に置くと、その指を拭くためにハンカチを取り出そうとポケットに右手を――  
 
 『 カ プ 』  
 
入れたまま硬直した。俺の右手はハンカチをしっかと握っているはずなのだが、全く感覚がない。  
 ……なぜなら、今俺の全神経全意識は左手の親指に集中していたからである。  
 そして、その指は……真由の口腔内にあった。  
 指の関節が柔らかな唇に優しく締め付けられ、咥えられた指先を包むしっとりとした高い温度と湿度、そして熱く滑る舌の感触に軽い痺れを覚えた。さらに唾液を塗しながら赤ん坊のように吸い付いてくる感触に、意識まで吸い取られそうになる。心臓が破裂しそうな程の早さと強さで鼓動を繰り返す。  
 やがて真由が上目遣いに俺を見つめながら、「ちゅ」という音を立ててその唇を離していくと、名残を惜しむように一瞬生まれた細い糸が、ふっと切れて空気に溶けていった。  
 真由の唾液に濡れて妖しく光る指先を、俺が呆然と見つめていると、  
 
「ん〜♪ でり〜しゃすっ♪」  
 
 真由は満足げな笑みを浮べて、両頬に手を当ててくねっとしなを作った。  
 ……こ、こいつ……今、自分が一体何をしたのか分かって……ないんだろうなぁ、きっと……  
「なーに伸ちゃん? まだ真由の顔に何かついてるの?」  
「あ……うん……」  
 俺はその場から崩壊しかけた自我を必死に保ちながら、震える手でポケットからハンカチを取り出すと、真由の口元をそっと拭ってやり、そして自分の濡れた指先に巻きつける。  
 最初っからこうすりゃよかった……いや、これはこれで貴重な……いやそれは、いや………うん…………  
「ほらぁ、伸ちゃんもユカリンのお弁当早く食べなよぉ。美味しいよっ?」  
「あ?……あ、ああ……」  
 ……何だか、横顔にニュー○イプ並のプレッシャーを感じたような気がしたが、俺はそれ以上は何も考えずに、ひたすら弁当を胃の中へと流し込むのに集中する事にした――。  
 
 
『ごちそうさまでした!』「……で……した……」  
「お粗末さまでした」  
 
 俺の長くはないの人生の中でも最大級の緊張感が漲る食事タイムは、無事終了した。  
 礼二は相変わらずお通夜を続けていたが、俺はそれなりに由香里ちゃんの料理を堪能する事ができ、真由も米粒一つ残さず綺麗に平らげている。  
 何故か一時期首筋がヒリヒリするような不機嫌オーラを放っていた由香里ちゃんも、何とか機嫌を直してくれたみたいなので万事OKだ。  
 由香里ちゃんが淹れてくれた食後の紅茶を囲んで、わいわいと雑談に花を咲かす俺達。  
 真由は両手に持ったティーカップの中の液体を、円を描くようにして揺らしながら、  
「それにしても……ユカリンって本当に、お料理上手だよねぇ」  
「やだぁ真由ちゃん、天才だなんて言い過ぎですよぉー♪」  
 ……多分、そこまでは言ってない。ま、旨かったのは本当だけど。  
「うん、本当に美味しかったよ、ありがとね、由香里ちゃん」  
「あんっ、もぅ北村さんまで……お世辞でも嬉しいですぅ♪」  
 恥ずかしそうに朱に染まった頬に手を当てて、可愛らしい仕草でイヤイヤと頭を振る由香里ちゃん。  
 ……礼二が狂おしいほどに溺愛するってのも分からないでもない……かな……  
「いや、お世辞じゃないって。うん、この分なら、いつでもお嫁に行けるよ。……真由も由香里ちゃん  
 を見習ってちょっとは料理の勉強しろよな? 前にお前に食わされた……」  
 と、そこまで言って、真由に顔を向ける。いつもの「ぶーっ」という表情を期待していたのだが、真由は少し首をすくめながら、ちょんちょんと正面を指差していた。  
 それに促されるようにそちらを見ると、由香里ちゃんが膝の上で握り締めた拳を、小刻みに震わせていた。俯いているため、前髪に隠され表情は伺えない。  
 ……あれ? もしかして、俺また、由香里ちゃんのこと泣かせるようなこと言っちゃった?  
「……あ……ご、ごめん、今のは冗談……ってお世辞じゃないっていうのは冗談じゃなくて、あの、  
 ああお嫁に行けるっていうのが冗談で……いや、冗談じゃないと言えば冗談じゃないんだけど……」  
 
 俺がおろおろと身振り手振りで不器用な弁明を続けていると、由香里ちゃんは顔を上げた。  
 中空を彷徨っていた俺の両手を握り、自分の胸元に引き寄せると、真直ぐに俺の眼を見つめてくる。  
……その瞳を宝石のように煌かせながら。  
 
「北村さん……それじゃあ、私を、 お 嫁 に 貰 っ て く れ る ん で す か ? 」  
 ……断じて、そこまでは言ってない。  
「ゆ、由香里ちゃん、ちょ、ちょっと待ってよ、ね? お、落ち着いて俺の話をだね――」  
「 貰 っ て く れ る ん で す ね ? 」  
 
距離を取ろうと試みたが、由香里ちゃんに掴まれた俺の両手首は、押しても引いてもびくともしない。  
この華奢な手の何処にそんな力があるのか……って、ちと恐いんですけど。誰かどうにかしてく――  
 
「 む ぅ わ っ て ー い !! て ぇ ん め ぇ え ー !!」  
 
 おお礼二! お前は本当にこういう時に頼りに……って、貴様ぁ! 何で俺の首を絞めてるんだ!?  
「俺のユカリンに『イツデモオ○○コデイッテヤルヨ』だと!? 俺の目の前でいい度胸だ!!」  
 ちょっと待て! 聞き間違いにも程があるぞ!  
「『チ○コモッテヨネ、オクチニイレテオレノセイエキヲハッシャダ!』て……畜生!チクショウ!  
 俺だって覗くだけ、想像でナニするだけで我慢してるってのに……これか? この口が言うのか!?  
 俺が10年待ったユカリンの手料理を先に食った口で言うのか!? クソ、羨ましいじゃねぇか!」 ……あ、やば、いろんな意味で本気で気が遠くなってきた……脳が酸欠状態になりかけている……  
 くっ、仕方ない……許せ、礼二……誰だって自分の命は惜しいのだ……!  
 俺は歯を食いしばりながら、俺の上に圧し掛かる礼二のみぞおちに拳をあてがった。そして……  
 
「 お 兄 ち ゃ ん 」  
 
 ぞくり。背筋に凍てついた刃物の切っ先を這わされたような感覚に、全身が凍りつく。  
 それは礼二も同じだったようで、俺の喉を圧迫していた両手が石のように硬直した。ダラダラと脂汗をかきながら、壊れたブリキのおもちゃのような動きで振り返る礼二。  
「……折り入ってお話したい事があります。少々お時間よろしいですか? よろしいですね?」  
 温もりの無い微笑を湛えた由香里ちゃんは返事を待つことなく、礼二の耳をむんずと掴むとずるずると体育館裏の方に引き摺っていく。  
「ユ、ユカリン……お、お兄ちゃんはな……ただ、ただ、ユカリンの事が心配なだけで……」  
「……うふふふふふ……兄妹水入らず、午後の語らいですぅ…………」  
 
 俺が呆気に取られたまま闇の中に消えていく兄妹の姿を見送っていると、頬につんつんとこそばゆい痛みが走り、そちらを振り向いた。  
 すると、いつになく真剣な表情の真由が、俺の顔を息の掛かりそうなほど間近から覗き込んできている。  
「な、なんだ? 真由?」  
「………………………………………んー…………………………………………………」  
 やけに、長い沈黙。何かを考えている? と、不意に俺の目の前に、曲げた人差し指に親指を引っ掛けた手を出して、俺の鼻先『ぴんっ』いてっ!  
「なっ、何すんだ真由!?」  
「別に……何でもないよんっ。それよりまだ時間あるよね? ねっ、お散歩しよ、お散歩っ」  
「え……ちょ、待てって……!」  
 鼻頭を擦る俺を強引に立たせると、真由は俺の腕を掴んで早足に歩き始めた。何か煙に巻かれたような気分だったが、俺はいつもの事として特段気にせず、それ以上追求する事もしなかった。  
 ただちょっと真由のはしゃぎ方が少し……いや、多分気のせいだろう。うん、そういうことにする。  
   
 そして、チャイムが鳴り終ると同時に教室に入ると、礼二の形をした抜け殻が俺の隣の席に転がっていた…………とりあえず、合掌。  
 
 

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