時折ピアノの音が聞こえる。B♭の旋律だ。
隣の部屋の居烏徹(いがらす・とおる)君は時折ピアノを爪弾く時がある。
甘いピアノの旋律が、これから先の日々に不安を持つ彼とは対象的に聞こえる。
私は彼の名前を省略して、カラス君と呼んでいる。
カラス君はひきこもりになったばかりの音大生だ。
私はカラス君の部屋に立ち寄っては雑談をするのが趣味みたいなものになってしまった。
「カラス君。またピアノ弾いてるんだね」
カラス君は狭い1Kのワンルームに、アップライトピアノをおき布団を敷いて、暮らしていた。
カラス君の全身黒で統一されたコーディネートは、昔いたカラス族みたいだ。
夏なのに真っ黒な長袖シャツをきているこの暑苦しさ。
もうちょっと気を使ってもいいと思う。
彼は自分のことをひきこもりではない。インサイドマンなんだと、吹聴している。
インサイドマンとひきこもりにどれくらいの差があるのかは疑問だ。
大槻ケンヂの言う大人じゃないんだ赤ちゃんなんだ。って言う言い訳に似てないこともないけれど。
カラス君が赤ちゃんというのも、ちょっと変な気がする。
さて、カラス君を紹介した所で、私と彼との間に起きたちょっとした事件についてお話しようと思う。
代々語りついで、私の子供や孫にだって語りたい内容なわけで・・・
では、カラス君との出会いからお話しましょう
去年の12月28日、夕暮れすぎ。
その頃、彼氏であった男にデートをすっぽかされた上に、別れ話を電話でされてまだ数日って日のこと。
やることもなかったし、外の空気がすいたくて、公園でぼんやりとしていた。
数日前のことを思い出して、ため息と同時に涙がほろりほろりと落ちてきて、なんだか湿っぽいなぁって思ってた。
涙でかすむ視界の中に、ブランコでぶらりぶらり揺られている少年の姿が目に入った。
ブランコから十数メートルの距離があって、少年の表情は見えなかったけど、なんだか楽しそうにしている感じは伝わってきた。
楽しそうに笑う声が聞こえてきて、それでもほろほろ落ちる涙はとまらなくて。
そんな時。少年が急にブランコを猛烈に揺らして、突然ジャンプしてきたのだ。
飛んだ姿がほんとにカラスみたいに見えた。
ブランコと私の距離は関係ナシに、猛烈な大ジャンプを決めた彼は、私の手をとってこういった。
「ないてちゃ、かわいい顔がだいなしだよ」
私はアハハと笑って、空いている手で顔を隠した。これ以上クシャクシャになった顔を見られたくなかった。
でも片手では隠しきれなくて、結局、空いているほうの手も彼がつかんでしまった。
「元気だそうよ、おねえさん」
「元気もらったから、もう大丈夫」
両手をつないで、彼が私の体を支えて立ち上がらせてくれた。
パンパンとお尻についたほこりを落として、さて、という時に
「ぼく、隣に住んでる居烏っていうもんです。よろしくね」
一度離した手をもう一度両手で握りしめてくれた。
「こちらこそよろしく、カラス君」
そんなことがあってから、彼は、もっとも身近な友人の一人になった。
全身真っ黒なカラス君。彼の呼び名は始めてあったときから、カラス君に決定していた。
あれから、半年近くがたち、私たちの関係も良好なものを築けた、と思う。
そんな折、事件がおきた。
カラス君の飼っていたフェレットが窓の隙間から逃げ出してしまったのだ。
時期的に雪のふるころあいだったから、雪の振る前にフェレットを探して起きたかった。
カラス君は部屋の中を何度も何度も探したけど見つからなかった。
わたしが道路沿いをフェレットを探すのに右往左往していると、目の前をフェレットらしき物体が通っていった。
それは紛れもないカラス君のかっていた23号という名のフェレットだと私は目算した。
汗ジトになりながら、フェレットを捕まえて、キャリーバッグに入れた。
そいつをカラス君の下に連れて行くと、カラス君は泣き出しそうな顔をしていった。
「ともかく23号、捕まえてきてくれてありがとう。どこにいったのかまったくわからなかったんだ。どこにいたの?」
「道路の側溝を走ってたよ。うれしそうにクルクル回ってた。」
「そう。側溝にいたんだ。気づかなかったよ」
「そういえば郁美(いくみ)さん。俺のあだな知ってる?」
郁美。わたしのことだ。
「背が高くて痩せてる俺のあだ名はエヴァンゲリオンっていうんだ。カラス君って読んでるのは、郁美さんだけだよ。どうぞこれからはエヴァと呼んでください」
ううむ、しかしエヴァというとヒットラーの愛人を思い出してしまう。やはり
「カラス君の方がわたし的にはしっくりくるかな」
「カラス君、カラス君。カラス君」
わたしはカラス君がいとおしく思えるときがある。
もうピアノは弾かないの?とたずねると、カラス君はいやそうな顔をして
「ぼくより才能のある人がいっぱいいることがわかっただけ幸せなんだと気づいたよ」と言った。
けして努力では埋められない才能の差と言う物があると言うことに気づいてしまったんだね。でもわたしはいい。
才能があったって、なくったって、それを認めてやる。
「カラス君、ハグしよハグ」
カラス君が腕を回してくる。わたしはその腕に抱かれながら、ちょっとした夢を見るのだった。
インサイドマンでひきこもりな彼に、あんなことやこんなことをしている夢を。
今はまだ無理だけど、いずれ、彼がインサイドマンをやめた時に、またそのチャンスはめぐってくるに違いない。
元気のないうちは何をしたってだめだってわかってるから。