「怖い?」  
初めて彩乃(あやの)の白く柔らかな裸体を前にしたとき、震える彼女に裕人(ゆうと)はそう言った。  
高い身長、柔らかな猫毛の天然パーマの奥には、その毛と同じ薄茶色の瞳。  
まっすぐに見つめる男の視線はその者の実直な性格を表すようだ。  
怖い?と聞かれた事が、彩乃にはうれしかった。  
23歳の彩乃にとって、この時が初体験ではない。  
だがいつでも、新しい男と一晩過ごすときは背徳的な恐怖がまとわりついた。  
今まで彼女を取り巻いた男たちは、恐怖を感じるのは初体験だけだと思っているらしかった。  
裕人には、そう彼女に聞くだけの心の余裕が感じられた。  
常に感じられるこの余裕が22歳と彩乃より年下の彼を、それと思えないようにしていた。  
 
 
「見て。浮気だって。かわいそうだわ。」  
いつか何かのテレビ番組を見ながら交わした、そんな会話を思い出す。  
「うん。…でも俺はやっぱり騙された方も少しは…いや、騙された方が悪いんだと思うんだ。」  
優しい裕人の意外な答えに少し驚く。  
「分かると思うんだよね、きっと。一緒にいて、本当に相手が好きだったら性格だって…。ね。」  
そう言って少し赤らみながら微笑む男の言葉は、彼女に対しての誠実さに思えた。  
 
こんなことを言った男が、まさか彩乃を騙しているとは知らずに…。  
 
 
ある日裕人と町で会った。  
その腕には髪の短い、活発そうな女性が自分の腕を絡ませていた。  
 
裕人は彩乃と目が合うと一瞬表情を凍らせた。  
 
彩乃は全てを悟りその場を去った。  
 
 
ガランとした彼女の家に残っていたのは通い詰めていた裕人の残り香だけだった。  
 
 
「お!おかえりー!ねぇ俺腹減ってんだけど。」  
次の日仕事から家に帰るとあの落ち着いた男とは思えないほど明るい裕人が、景色に溶け込みながらテレビを見ている。  
それを見て彩乃は力が抜け、がっくりと膝をつきそうになった。  
「減ってんだけどじゃねーよ。な、なに?なんでいるの?」  
「なんつーか一緒に住んでた女から追い出されてさー!なぁに喜んでんだよ!」  
「いや普通に怖いし。」  
「お前別に俺は忍んで入ったわけじゃねーんだぜ?ほらほら。合いかぎ」  
肩に回された裕人の手を、汚いものでも見るかのように人差し指と親指でつまんで離す。  
数日前に渡したこの部屋の合いカギが目の前をブラブラしていた。  
彩乃のヤバイという思いが一心に表された顔を男は満足そうに眺める。  
その視線を受けながら彩乃は小さなため息をすると、急に冷めた表情になり、無感情に離してと言った。  
「ご飯食べてないんでしょ?私もお腹すいてるし。」  
すっと男の目の前を通り過ぎ、朝脱いだらしい椅子にかかっているエプロンをしながら台所へと歩いていく。  
 
彩乃は妙な女だった。裕人に騙された怒りは確かにあるのだろうが、それが定かではない。  
怒っているようで、どうでもよさそうにも見える。  
裕人が今まで会った女は騙したことがばれると怒鳴り、暴れ、泣き叫ぶのが常だった。  
いやむしろそうなるのが普通だろう。彩乃はなにか達観しているように見える。  
 
裕人は今まで様々な人間を見ている。自慢できることは、他人の思い、性格、心理などを短時間で見極める天性の素質があることだった。  
 
もちろん彩乃の奇異な性格も熟知していた。思ったとおりの成り行きなのだが、このあまりにもスムーズな展開に驚いている。  
(変な女)  
一種の気味悪ささえ抱きながらソファに座りなおし、テレビとは反対側の台所の彩乃を横目で気にした。  
(料理作って俺に取り入ろうってわけじゃなさそうだしな。  
 というか、もう俺とのことは終わったって思ってる態度だ。じゃあなんで…。)  
 
考えれば考えるほど絡まってくる思考は、意外にも神経質な彼にとってイライラを増すだけだった。  
諦めたように頭を振り、テレビを見る。  
 
 
この男は思考が先に立つ分、何も考えないぼーっとした彩乃の性格をどうしても理解できないのだった。  
 
 
「うわぁ。すげーうまい!」  
品のあるどこかの陶器の皿に並ぶパスタを絶え間なく口に運びながら裕人が言う。  
「すげー!まじすげぇ!!なぁこれって何いれてンの?俺こんな手料理うまい人初めてなんだけど!」  
裕人の子供のような喜び方に彩乃は赤く頬を染めて照れた。悪いことでもしているように身を小さくする。  
「ちょっとちょっと。も、もういいから。やめてよ。」  
「ぶぶっ!!なんでそんな小声なんだ!誰かいるのかよ!お前こえぇ!!」  
身体を反りながら腹に手を当て笑う様はまるでいつもの裕人とは違った。  
あの姿勢正しくきれいに食事をする男は誰だったんだ。  
彩乃はますますドン引きする。  
「よくそんな二重人格で女と暮らせたわね。その変わりよう怖いんだけど。」  
「二重人格じゃねーよ!俺ってほら、相手の好みで色々性格変えれるからさっ。」  
「自慢になってない。ってかなに今の否定?多重人格って言いたいの?」  
「そうそう。」  
彩乃との会話より目の前のサラダやらバケットやらに夢中の裕人。  
騙される方がバカなんだと言う彼の言葉をその通りだと痛感する。  
「あーあ。なぁんで騙されたんでしょ。嫌だなぁ。」  
「そりゃおねーさんが寂しいからデショ。」  
ぐっと突き刺さる言葉。何も言い返せないから仕方ない。  
大人っぽく見えたのも頼りになるように見えたのも本当に幻想だった。  
現に彼女の前に座る男は、口いっぱいに食べ物を頬張り、  
大きな口をあけてちょっとしたことでもゲラゲラ笑う子供だ。  
(しょうがないヤツ。まぁこれが本当の性格か。)  
 
「うまかったー!ごちそう様!!」  
そう言って頭を下げる裕人。  
「はいはい。」  
彩乃はなんというか大きな子供を抱えた母親の気分だ。  
自分の皿を洗い場へ持って行った後、裕人の皿も運ぼうと手を伸ばす。  
 
彩乃の身体がピクリと跳ねた。  
皿に触れている細い手首を男の大きな手がそっと包んでいる。  
 
心臓が高鳴ってくる。離してと言いたいのに言葉が出てこない。  
静まり返り、緊迫したこの空気を破ったのは裕人の静かな声。  
「ごめん…彩乃。」  
好きだと感じていた頃の、低く落ち着いた声だった。  
椅子から立ち上がる裕人。連れて彩乃の視線も上がる。  
「人を傷付けるのが、こんなにきついって思わなかった。」  
辛そうに眉間にしわを寄せて口の端で笑う。  
(落ち着け。これは演技なんだから。)  
頭で強くそう繰り返すが、心臓は落ち着いてくれそうにない。  
「お前は、もっともっときつかったよな。」  
そういって長い髪を肩に流しながら頬に触れた。  
 
優しい言葉はきつい。  
彩乃は支えてくれる人がいない寂しさに加え、彼氏ができたと浮かれた後に騙され、一層人にすがりたい気持ちを抱いていた。  
もう今は何も考えずに目の前の、信用できないこの男でも強く抱きしめてほしかった。  
 
そんな思いの彩乃をよそに、温かい手はなんの未練もなく頬を離れた。  
「座ってろよ。飯作ってもらったんだから片付けくらい俺がやんなきゃな。」  
裕人は少し赤い顔で目を泳がせながら彩乃の頭をぽんぽんと叩くと、自分の皿を洗い場に持っていった。  
 
片付けの間、彩乃はぼんやり眺めていた。裕人は鼻歌を歌いながら手際よく皿を洗い、食器棚に陳列させて行く。  
片付けが終わると裕人は彩乃の方へと歩いてきた。  
(どうせヤりたいだけでしょー)  
そう思って目を逸らし裕人の視線を流す。  
「じゃ、お邪魔しました。」  
想像と真逆の言葉にびっくりして裕人を見ると小学生の礼のように低く頭を下げている。  
「あ。帰るの。」  
「なに。寂しい?」  
うれしそうに赤くなりながら言う男に彩乃は一瞬にしてもっと顔を赤くした。  
(ちょっとちょっとー!私のタイプど真ん中こないでよー!!!)  
彩乃は純粋な素朴な男に弱い。  
相手に顔を赤くされたりすると、もうそれだけで結構好きになる。  
この男はそれが分かっていてやっているとしか思えなかった。  
「んなわけないでしょ!ほらほら!帰るんじゃないの!?」  
彩乃がしっしっと言いそうな勢いで玄関へと追い込むと、なぁんだとすねたそぶりで歩く裕人。  
早く追い出してしまおうと彩乃は考えた。自分の理性があるうちに。  
じゃあなと言う言葉を残して玄関から追い出したあと、彩乃はほっと息をついた。  
(あっぶなかったぁ〜!)  
あれ以上彼がここにいたら自ら抱きついてしまうとこだった。  
 
心持ちぐったりした彼女は今日はもう寝てしまおうと思い鍵をかけようとドアに手を伸ばす。その時。  
「お。ごめんちょっと。」  
ガチャッと音を立てながら玄関が開く。そこにいた彩乃に少し驚きながら大きな男が入って来た。  
「なに。忘れ物?」  
嬉しく感じた気持ちを隠すために仏頂面をして聞く彩乃。  
「いや。これ。」  
ポケットから出したのはこの家の合いカギだった。  
「本当は今日、謝りに来たんだ。」  
「え?」  
「悪かった。ごめんマジで…」  
 
部屋から一切の音が消え、吐息すら聞こえそうになる。  
 
「俺、好きだよ。彩乃が。」  
彩乃は食い入るように裕人の目を見た。柔らかな猫毛の向こうで真っ直ぐな視線が返ってくる。  
「わりぃ。なんつーか言っとかねぇと…あと引きそうだしよ。」  
そう言って下を向く裕人から乾いた笑い声が漏れた。  
「幸せになれよ。んじゃ、ばいばい。」  
にっこりと笑って部屋を出る裕人。  
これで最後だとはっきり感じた。  
彩乃は目に溜まった涙が流れる感触で、ふと我に帰る。  
「まっ…」  
声が詰まりながら去ろうとする男の背に抱きついた。  
「お…おい。」  
驚いた声。彩乃は何も言わず、自分の気持ちを伝えるように一層力を込め抱きしめる。  
「やめろ。また騙されてーのかよ。」  
少し声が上ずっている。彩乃は裕人が泣きそうに感じ、押さえきれない愛しい気持ちでいっぱいになる。  
一瞬、騙されても本当の性格がこんなヤツでも、それでもいいと思った。  
背に感じる静かな泣き声をじっと聞いていた裕人は、決意したように前に回っている彩乃の両手に自分の手を重ねる。  
そのまま優しくウェストからはずすと、彩乃に向き直り、大事そうに両手にキスをした。  
「泣くな。」  
顔をくしゃくしゃにして、両目を閉じぽろぽろ泣く彩乃の涙を、小刻みに震える手で裕人はすくい上げる。  
温かい体温を感じ、彩乃は目を開けた。上体を低くした男の顔が目の前にあった。  
「お前、ばかだよ。」  
辛そうに笑い、かすれた声でつぶやく裕人に彼女はたまらずキスをした。  
 
 
長くキスをした後、絡まるようにベッドへ向かい、性急に服を脱がせ合う。  
彩乃は熱っぽく見つめるこの男が、自分を想っていると確たる自信があった。  
それはなんの証拠もなく、足場の悪い水辺にいるようなあやふやなものだったけれど。  
 
温かい体温で、強い腕で掻き抱かれているときだけ、この男に求められていると確信する。  
それが心地よく、あとはどうでもよかった。  
彩乃を抱くこの男は、優しさも、強さも、愛撫も、実直だと信じたその頃と違いなかった。  
これが本当の愛し方なのか演技なのか分からないまま意識が飛んでいく。  
 
ただ、熱に浮かされたような頭に響くのは、何度も繰り返される低く甘い好きだという声だけだった。  
 
 
気付くと朝だった。  
閉められていないカーテンを一瞬不思議に思い、その後合点がいった。  
(そっかぁ昨日…。)  
こんなに寒い朝に裸で寝れた自分に驚く。  
「?裕人?」  
手元の薄い毛布に包まり、ズルズル引きずりながらリビングへと行く。  
誰もいない。  
いつものボンヤリした顔を寝起きで更にぼーっとさせながら見渡すと、テーブルの上に紙切れが置かれていた。  
ちらりと見ると神経質な男が書いたらしい、丁寧な字の羅列が見える。  
頭を掻きながらその紙を持ち上げた。  
 
『おはよー!  
 ってかお前騙されすぎ(爆笑)学習しないお前が心配だよ><。。  
 昨日『やべぇ俺野宿!?』とか怖がってたけど彩乃ちゃんが単純で助かりました。  
 あのね、目を開けて寝るのやめてね。ちょっと怖かったからね。  
 じゃねー!また来るにょん☆』  
 
 
ぐしゃっと一気に紙を握りつぶす。  
「にょんってなんだよ。」  
苦々しく吐き捨てると、テーブルを眺めた。  
返ってきたはずの合いカギがない。  
彩乃は渋い顔をして、だるい身体を起こそうとシャワーを浴びに浴室へと向かった。  
 

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