真夜中に、目を覚ました。  
   
 天井から吊された照明を消してカーテンもしっかり閉めきっている室内は、真っ暗闇だ。  
 枕元の目覚まし時計の針だけが、人工的な緑色の光をぼんやりと滲ませている。  
 時計の針は2時を指していた。  
 窓の外からはさあさあと、細い雨が落ちる音が聞こえている。  
 夢を見ていた覚えはないのに、耳の奥がどくどくと不安げに脈打っている。  
 疲れているのかもしれない。  
 俺は肺いっぱいに息を吸い込み、それから時間をかけてゆっくりとその息を吐き出した。  
 
「……秋良ちゃん? 起きてるの?」  
 突然、美冬の声に呼び掛けられて、俺はびくっと全身を緊張させた。  
 俺たちは、別々の部屋――と言っても、襖一枚を隔てた隣同士の部屋だが――で眠ることにしている。  
 声の方向に視線を向けてみても、ふたつの部屋を仕切る襖はぴったりと閉じられていた。  
 音は立てないようにしたのに、声だって洩らさなかったのに、何で――  
 焦る俺の目の前で襖がすっと静かに開き、パジャマ姿の美冬が俺の眠る部屋の中に入ってきた。  
 
 俺は慌てて掛け布団の縁を両手で掴み、頭の上までそれをひっぱりあげた。  
 いくらなんでもわざとらし過ぎる。そうは思いながらも、顔をすっぽりと布団で覆って隠してしまう。  
 かすかな衣擦れの音が近づいて、美冬が俺の枕元に座った気配がした。  
 
「……眠れない?」  
 掛け布団を掴んでいる俺の指先が、美冬の掌で柔らかく包まれる。  
 ――あたたかい。  
 安堵と。同時に不安と。心強さと。心細さと。  
 美冬の指先の温もりは、俺の中に眠っていた相反する様々な感情を、一気に揺り起こす。  
 俺の指先から、力が抜けた。  
 
 美冬の指が、布団の縁を掴んだ俺の指をひとつひとつ丁寧に解いていく。  
 無理強いはしない。やさしく、根気よく。  
 ついにはすべての指が解かれて、俺の顔を隠していた布団が静かにめくられた。  
 暗がりの中に、俺の顔が晒される。  
 美冬は何も言わずに、そんな俺の額にそっと手を置いた。  
   
「……汗、かいてるね」  
 美冬は泣いている赤ん坊をあやすようなやさしい手つきで俺の額を撫でる。  
 口を開いたら、泣き言とか、弱音とか、向き合いたくない色々な気持ちが、堰を切ったように溢れ出てしまいそうだった。  
 頑なに唇を引き結んで黙りこくる俺に、美冬は静かな声で言った。  
 
「雨の日、だものね」  
 
 労るような、やさしい声。  
 不意打ちだった。  
 目の端に、涙がじわりと滲む。  
 鼻の奥に走るつんとした痛みを、俺は懸命に咽喉の奥に押し込んだ。  
   
 表情なんて、見えないはずだ。だから大丈夫。  
 早くなる胸の鼓動に気づかないふりをしながら、俺は自分に言い聞かせていた。  
 本当は、暗やみに少しずつ慣れてきた俺の目には、俺を見守るように優しく微笑んでいる美冬の顔がぼんやりと見えている。  
 だからきっと本当は、美冬の目にも――。  
 
「……美冬にとっても、同じだろ」  
 精一杯強がって、涙を誤魔化すように絞りだした声はすぐに、美冬の小さな笑い声にかき消された。  
「私は、加害者みたいなものだもの。秋良は被害者。  
 私のせいで、秋良のお父さんとお母さんは突然いなくなっちゃった……。……ごめんね」  
 
 くすりと笑う美冬に、俺の心は苛立つ。  
 そんなやり方で自分を責める美冬のことは、見たくないのに。  
 どうせ自分を責めるなら、泣いて、喚いて、全部を俺に曝け出してくれたらいいのに。  
   
 そして、俺は。叶うことなら、そんな美冬を受けとめたいのに――。  
 
 自分が情けなくて、ついに涙が流れた。俺が鼻を啜る音でそのことに気がついたらしい美冬は、困ったように笑った。  
 
「……秋良ちゃん。今日は一緒に寝よっか」  
 母親みたいなやさしい声で、美冬は言う。  
 けれど俺は、鼻をぐずらせながら、強い口調で即答した。  
 
「いやだ」  
 まるで子供扱いされているみたいだ。そんなのは、耐えられない。  
 それなのに美冬は、俺の返事を気にもせずに、俺のすぐ隣に身体を滑り込ませてきた。  
 俺は勢いに任せて寝返りを打ち、美冬に背中を向ける。拒否の意志を表明したつもりだった。  
 
 それが、失敗だった。  
   
 美冬は俺の肩辺りにそうっと手を置いて、全身をぴったりと、俺の背中に寄り添わせてきた。  
 首の後ろに、美冬の呼吸がかかる。背骨に、柔らかい胸のふくらみが押しつけられる。  
 ふたりの身体の間に、ほんの少しの隙間さえなくそうとするように、俺の背後で美冬が何度も微かに身体を動かした。  
 そのたびに、美冬の髪や肌から甘い匂いが立ち昇り、俺の鼻腔をくすぐる。  
 理性と本能が、頭の奥でせめぎ合いを始めた。  
 
「……嫌だって、言ってんだろ。子供扱いすんなよ」  
 
 言葉にすることはできたが、行動で拒否することはできなかった。  
 身体中の血液が、下半身に集まろうとしている。俺の声も、身体も、震えているかもしれない。  
 俺は美冬に背中を向けたまま、全身を強張らせていた。じっとりとした汗が、背中を流れる。  
 
「子供扱いなんて、しないよ」  
 思わず、声をあげそうになった。囁く美冬の声が、耳に近い。  
 
「……ねえ、秋良ちゃん」  
 
 言葉の形に動く唇が、俺の耳を掠める。  
 故意になのか、意図していないのかはわからないが、熱い吐息も言葉とともに吹きかけられる。  
 
「…………しようか?」  
 
 何を、とは聞く間でもなかった。  
 美冬の片手が俺の腹のあたりを探るようにさまよったかと思うと、するりと下着の中に差し込まれた。  
 俺の全身は、怯えたように、びくんっと跳ねる。  
 美冬の指先は迷うことなく、すっかり硬く勃ちあがってしまっている俺のペニスの先端を捉えていた。  
 細い指先が、きゅうっと、亀頭の周囲を握り締める。  
 
「……ぅ、あっ……!」  
 
 驚きと快感が入り交じって、俺は情けない呻き声をあげた。  
 美冬の指先が、ぬるりと先端を滑る。  
   
「ぁ……。秋良ちゃんも……濡れるんだね……」  
 
 美冬は熱っぽい声で、どこか感心したように呟いた。  
 我慢をすればするほど鈴口から溢れる汁を、美冬は指先で掬っては、俺の亀頭全体に塗り広げる。  
 ぞくぞくとした快感が背筋を走り、俺は欲望を堪え切れなくなった。  
 それでも、振り向いて美冬を押し倒さなかったのは、理性がかろうじて残っていたのだろう。  
 俺は自らの手を下半身に伸ばし、ペニスを握る美冬の手に自分の手を重ねた。  
   
 美冬は一瞬、驚いたように、腕全体をびくりと震えさせた。だがすぐに、重ねられた俺の手に促されるままに、再びそこを握り締める。  
 俺は美冬の手の上から、ゆるゆるとペニスを扱き立てた。美冬の手が、俺の手のひらの中で、その動きに倣う。  
 美冬の手のひらは、温かくって、柔らかくって、俺はすぐに昇り詰めた。  
   
「秋良、ちゃん……気持ちいい、の……?」  
 美冬も興奮しているのか、言葉の合間にはぁはぁと、短く早い呼吸の音が混ざる。  
 俺が無言で深く頷くと、美冬は握る手にきゅうっと力をこめて、何度も何度も上下に擦った。  
 ひときわ大きな快感の塊が俺の背筋を走り抜け――そして、弾けた。  
 
「……っあ……、み、ふゆ……ッ……!」  
 
 俺は美冬の手のひらに、欲望のままに白濁液を発射した。  
 どくどくと脈打ち跳ねるペニスに美冬の手のひらをしっかり押さえつける。  
 美冬は拒むこともなく、後ろから俺の耳元に頬を擦り寄せながら、最後の一滴まで俺の精液をその手のひらに受け止めた。  
 欲望を解放しきって深い溜め息をついた俺の頬に、美冬は無言で、ちゅっと口づけを落とした。  
 その口づけに、俺はなぜか、とても懐かしい心地よさを感じていた。  
   
 
 数分後、俺と美冬は、照明をこうこうと灯した部屋の中で、向かい合って布団の上に座っていた。  
 
 はっきり言って、お互いに、かなり気まずい。  
 俺はボックスティッシュを箱ごと取ってきて、美冬に汚れた手をこちら出すように促した。  
 
「あっ、あの。えーと……」  
 美冬は素直にその手を差し出さず、何か言いたげに俺の顔を見た。  
 今にも自己嫌悪に押し潰されそうになっていて、さっきまでのものすごい気持ち良さと同じくらいに苛立っていた俺は、ひどく無愛想に応えた。  
「……なんだよ?」  
「あ、あの……その……」  
 美冬はぐずぐずと答えず、汚れた手のひらを握ったり開いたりしながら、赤い顔をしてちらりと俺を見た。  
 そして、何を言うのかと思えば――。  
 
「……あのね。これ……舐めちゃ、ダメ?」  
 
 次の瞬間、俺は今が夜中であることも忘れて、近所迷惑な大声で叫んでいた。  
 
「ばっ……ばっかじゃねーのか!おまえは!」  
 
ひゃっ、と小さな悲鳴をあげて、美冬は肩を竦ませた。  
 その手首を俺は強引に掴んで引き寄せ、手のひらにこびりついた俺自身の精液を、ぐしぐしと乱暴にティッシュで拭う。  
 
「……二度と、こんなこと、すんなよ」  
 
 むすっとして呟く俺に、美冬は珍しく、言い淀むことなく「いや」と即答した。  
   
「だって、秋良ちゃん、気持ちよかったでしょ?」  
 
 そう聞かれると、返す言葉もない。  
 俺は、むむぅ、と言葉を詰まらせた。  
 でも、だからって。反論し掛けた俺の声を、美冬の言葉が遮った。  
 
「――気持ちいい間は、悲しいこと、忘れてられたでしょ?」  
 
 俺はその言葉に驚いて、美冬の顔をまじまじと見た。  
 美冬の顔は、今にも泣きそうに歪んでいて、縋るような眼差しで俺を見つめていた。  
 膝のうえで握り締められている両手が、不安げにかたかたと震えている。  
   
「…………ばーか」  
   
 俺はぶっきらぼうに呟いて、美冬の身体を抱き寄せた。  
 しっかりと、両腕で抱き締めてやると、美冬はようやく安心したように指先の震えを止めた。  
 
「……どうせばかだもん」  
 
 子供みたいに呟く美冬に苦笑俺は苦笑して、なだめるように美冬の背中を、ぽんぽん、とやさしく叩いてやる。  
 そして、美冬の悲しいことはどうやって忘れさせてやったらいいかな、なんてことを、とりとめもなく考えていた。  
 
 

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