*
重い扉を押し開けて、秘密基地を首だけで覗いた。
ギギイと耳を押すみたいに蝶つがいが軋む。
「みのりちゃーん。来たよ」
「アツキ!待ってたわ、いらっしゃい!」
お目当ての女の子は、なぜか普段と違う奥の廊下から嬉しそうに滑ってきた。
一旦ふわりと浮いているのを待ちきれなくて駆け寄って、抱きしめようとした。
冷たい感覚だけが身体をすうっと通りぬけ、そのまま勢い余って前に倒れたら
膝を思いっきり段差にぶつけて立ち上がれなくなった。
「うう……」
そうでしたさわれませんでした。
すごくかっこ悪い。
落ち込みながら痛い身体を抱え込む。
「ばかねー。何度もやってるのに、全然懲りないんだから」
くすくすと笑って、転んだわたしを友達がのぞきこむ。
見上げた先にスカーフが薄く皺を作り、襟元からは鎖骨が見えていた。
ん?とみのりちゃんは目を見開いた。
連れてこられる途中で話を聞いて、啓ちゃんを外において説得に来たのだった。
まだ一緒にいたいって、
啓ちゃんは諦めてても私は絶対諦めないんだからって、言おうと思っていたのに。
笑い顔を見たら何も言えなかった。
泣きたいくらい優しい声が陽射しみたいに降ってきた。
「アツキ、どうしちゃったの。啓伍は外にいるんでしょう?」
空色に透けた幼馴染の幽霊は、きれいだった。
黒髪は長くて光の輪を作るくらいつややかで、私の薄い色のくせがある髪とは全然違う。
意地悪そうにいつも笑っている口元は何かを言いたげにつぐまれていて
プリーツスカートがうっすらと足首と靴の間だけ見せていた。
みのりちゃんは、啓ちゃんが初めて好きになった女の子だ。
「もしかして。みのりちゃんは、幽霊じゃないのかな」
「今頃何を言っているの?」
みのりちゃんは悪びれもせずに目を細めた。
「足があるのに、幽霊なわけがないじゃない。
ずっと、勘違いしたままかと思っていたわ」
それはそれで面白かったんだけどね、と何だか分からない女の子は静かに笑う。
そっか。
私達にそんなちょっとしたとこでも合わせてくれていたんだ。
「でも、みのりちゃんはみのりちゃんだよ」
「ありがと。ま、触れないし歳もとらない、おまけに身体がないんだから、幽霊みたいなものよ?
あまり間違ってはいないわ。違いなんて、割と好きに動けることくらいかしら」
「そっか。そうだね」
でもどこも行かないでと言おうとして口をつぐんだ。
差し出された細い腕に、触れると、うっすらと冷たくてやっぱりさわれなかった。
立ち上がって少しだけ私より高い背の女の子が、知らない制服で向かい合う。
わたしを上から下まで眺めてみのりちゃんは腰に右手を置いた。
「白いセーターに薄い桃色スカート、いいじゃない。ウエディングドレスになるわよね」
ふと表情をなくして彼女は廃墟を見渡した。
私は行かないでと言おうとした。
ステンドグラスからきれいな色とりどりの光が落ちていた。
「今日は結婚式にはいい日ね」
みのりちゃんは目を和らげる。
「話は聞いてるでしょ?啓伍を呼んできて」
「い、」
「ん?」
「……行かないで、みのりちゃん」
蚊が鳴くみたいな声にしかならなかった。
みのりちゃんは薄い色の瞳で私を眺めて溜息を漏らした。
「まったくもう。似たもの同士なんだから」
軽く窓側に視線を移してまた戻し、みのりちゃんは私の額を軽くでこぴんする。
外で春一番が吹く。
廊下の古びた窓がいっせいにガタガタ、と震えてガラスを木枠にぶつけていた。
「あんたたちが成長してくの、見るの、正直困るのね。
初めて遊びに来たときはあんなにちっちゃかったのに今同じくらいだし、胸おっきくなるし毛は生えるしさ」
ちょっと恥ずかしくなって俯く。
こんな時まで彼女は彼女らしいので余計にみのりちゃんの声は寂しく耳に届いた。
「アツキたちはそりゃずっと仲がいいままだけど、もうあのときとこんなに変わってるじゃない。
ちゃんと濡れるようになって勃つようになって、キスだってずっといやらしくなって、手とかつないでた頃とは大違い。
あ、それはいいのよ。楽しいし間違ったことしてるわけじゃないもの大いにやりなさい?」
私の顔を見てすぐにみのりちゃんは触れないのに肩を叩いてくる。
なんかそれでこそみのりちゃんだ。
少し笑うと、向こうも笑ってセーラー服のプリーツが揺れた。
「でもね。
二人がずっと一緒に成長していくの、もう見たくないの。
楽しかったけど、うれしいけど、二人が好きだけど見たくないの。
あたしはいつまで経ってもこのままなのが分かって悔しいの。だから、気分転換に引越しするのよー」
そしてまたガタガタと風が吹いたのが空から吹き込んできて窓を揺らした。
胸がぎゅっとなって見ていられなかった。
幼稚園の頃からの友達だった、この人じゃない女の子の笑顔をきっと忘れないだろうと思った。
冷たい気配に手を伸ばした。
もちろん、ちゃんとはさわれなかったけど。
「アツキは、啓伍と結婚するのはいや?」
「ううん」
尋ねられたので軽く首を振った。
「高校卒業したら、そのうちしようって話してる」
「よかった。無理強いじゃないなら思う存分できるわね。
もうお姉さんには教える知識はないから、あとしてあげられることっていったらこれくらいなんだもの」
いつもの楽しそうな口調がみのりちゃんに薄く戻ってくる。
太陽を仰ぐと小ぶりな廃墟に視界が濁る。
昔は、もっともっと巨大なお城みたいなところだと思ってた。
住んでいたのはお姫様じゃなくて意地悪で気まぐれでえっちなことを言うのが大好きで、
幽霊みたいで幽霊じゃない不思議な一人ぼっちの女の子。
私はこの友達にしてもらったたくさんのことに返せるよう、一体何ができるだろう。
「うんお願い。外に来てるから。啓ちゃんを呼んでくるね」
とやっと私はいつもの声で言った。
そして望みどおりに結婚式をしてもらうことにした。
*
――その日は晴れていたことは確かで、確か三月の終わりだった。
幽霊屋敷が壊される年の例年よりも暖かい春。
結婚式のことを、今でもちゃんと覚えてる。
セロファンみたいなステンドグラスは少し割れて、でもお日様で輝いていて。
銅でできたアーチ門には建設予定地、の金属板が打ち付けられている。
「とはいってもあたし、ちゃんとした誓いの言葉なんて言えないわよ。
キリスト教徒じゃないもの。
病めるときも健やかなるときも…、ときにこれを愛し……あぁだめだ、
やっぱり覚えてないのね」
入ってきた啓ちゃんと並んで中央階段の下に立ち、
セーラー服の女子高生は階段の少し上に浮いていた。
みのりちゃんが肩を竦めて口元をつりあげる。
「それにしても、ほんと、いい趣味だと思うわあんたたち。
いいやもう、あたし流にやるわね。並んで?
もう、啓伍もっと寄るの!そうそう」
「はいはい。こんな感じでいいのかよ」
啓ちゃんも合わせているのか少しちゃんとした服を着ていた。
私はみのりちゃんが言った通りの白いセーターと桃色の薄いスカートで、指輪はないけど髪飾りはしてきていた。
肩を抱くくらいの距離で啓ちゃんが寄り添う。
暖かいにおいがした。
啓ちゃんからは薄いインクと畳のにおいがいつもする。
みのりちゃんの半透明のセーラー服にまた、日光が差し込んだ。
「うん、いいわ」
にっこり笑って、階段を三段上がり足首がくるりと回った。
「アツキ」
「う…はい」
「いい返事ね」
肩から力が抜けて頬が緩んだ。
見た目は同い年くらいなのにやっぱり、みのりちゃんはお姉さんみたいだ。
「アツキは胸がおっきいのね。
それはなんのためにあるのかお姉さんが教えてあげましょう。
赤ちゃんが生まれても遠慮なくお乳をむさぼれるように、子どもにいっぱい栄養をあげられるように、
そしてなおかつ我慢のきかない啓伍もさわっていられる余裕分もとっておくために、
大きいのよ。とっても確かなことだわ。
それから、啓伍ががむしゃらでちょっと早いのが何でかっていうのも、知ってるわ。
アツキと、これからいつかできるかもしれない家族を誰よりも真っ先に
いつどんなときでも守りにいけるように、そう生まれついているのよ。
神様――どんな神様だか知らないけど、あたしをここに留め置いている神様はね、
啓伍とアツキをつがいで創ったのだわ。
そうして、間違っても二人が出会わないことのないように、
幸せな時を受け得ることのできる限り長く味わってもらえるように、
あんたたちの生まれる場所をあんな近く同士に置いたのよ。
だから二人が結婚するのは当然のこと、すてきなこと、
この世が願ったこと、これからを幸せにしていくためのことだわ。
どう、これに賛成する、アツキ?啓伍とそんな風にやっていきたい?」
「うん」
十字の神様の誓いの言葉とはちっとも似てはいなかったけれど。
みのりちゃんらしくてとっても素敵な祝福だった。
首を軽く縦に振って啓ちゃんの腕に触れた。
啓ちゃんがこちらを一秒間、嬉しそうに見た。
「啓伍はどうかしら。アツキをずっと、今までどおり今まで以上に大事に守って
一緒に生きていくのは素晴らしいことって思わない?」
「言われなくても思ってるっての」
啓ちゃんが頷いている。
肩越しに斜め後ろを窺うと見たこともないくらい幸せな顔をしてたので、
まるで恋を自覚したときみたいにどきどきした。
血がからだの中ではやくなるのを腕と指が感じた。
「じゃあ二人で向き合って、抱きしめあって、キスをして。」
おずおずと啓ちゃんはからだの向きを私に変えさせるように肩を掴む。
改めて向き合うと気恥ずかしかった。
その瞬間急に、思いもよらずに強く思いっきり抱きしめられた。
啓ちゃんの体温は、あったかい。
ずっとここで生きていけたらみのりちゃんの言うとおり、きっと何より幸せだ。
「キス、舌を入れてもいいわよ」
「入れねーよ!黙ってろ!」
相変わらずの大好きな幼馴染たちの声。
私は啓ちゃんに回した腕に力を込めて胸に頬を押し付けた。
唇を近づけて、短いキスをした。
顔を離してみのりちゃんの立っていた方向を二人一緒に見る。
みのりちゃんは私たちの脇を回って、奥の廊下へ続く道を滑っていった。
「ついてきて」と目が言っていた。
手をつないだまま小走りをまぜて追っていく。
あまりこっちに入ったことがなかった。
暗い廊下に窓から差し込む春の日差しがぽつんぽつんと四角いあかりを落としていた。
角を曲がって、ようやく両開きの扉の前に立つとみのりちゃんは手招きした。
「ここ、入ったことないでしょう?…開けて」
昔鍵がかかっていたはずの、開かずの場所だった。
なぜか今日は鍵がかかっていなかった。
二人で扉を片方ずつ押して開く。
深い空色に、桃色の花びらが吹いていた。
風はまだ少し冷たくて木々は伸び放題。
それでも芝生は柔らかく緑の絨毯になっていた。
四つ全部を建物に囲まれた、外から隔絶された秘密の中庭。
小さい頃は窓まで頭が届かなかったから見えなかった。
最近は夜にしか来ていなかったから、知らなかった。
きっと手入れもなっていなかったと思うのに、こんなにきれいだなんてびっくりした。
みのりちゃんは目を薄く開いて、手を広げて寄り添った私達に向かい合うと、抱きしめるように手を肩と肩に置いた。
ちょっとだけ冷たかった。
「結婚おめでとう、二人とも。
法律上するのはもっと先かもしれないけど、初めての結婚式はあたしがしたことを忘れないで」
「忘れるもんか」
とても、小さな、でも確かな声で。
啓ちゃんが呟いていた。
なので思わず泣きそうになった。
啓ちゃんが察してくれたのか、大きな手に後ろ髪を撫でられる。
ひやりとした温度が肩から遠ざかって高い空で鳥の声がした。
「この場所が壊れたら、学校になるのよね。
いつかあなたたちの子どもが通うのかしら。楽しみだわとても。
あたしも七不思議のひとつになったりできたら、楽しいかもしれないけど、でもだめね」
くすくすと肩を揺らしてスカーフが透け、みのりちゃんは背を向けて中庭の木に歩いていく。
そのままセーラー服が一瞬見えなくなってまたうっすら元に戻った。
私は啓ちゃんの手を引いたままで思うより前に先へ踏み出した。
「みのりちゃん!!」
大声に啓ちゃんがびっくりしているのが手で分かる。
「私、私だって悔しかった!だってみのりちゃんきれいで、明るくて、頭が良くて!
また啓ちゃんがみのりちゃんを見るようになっていきそうで悔しかったの。
だけどみのりちゃんのことはやっぱり大好きだったんだよ。
一緒にいて楽しくて、嬉しくて、いつも励ましてくれて」
みのりちゃんが振り返った。
長い髪が大きな木の幹を遮って揺れる。
わたしは深呼吸して、涙を最後までこらえた。
「みのりちゃん、今までありがとう!」
啓ちゃんの顔は見えなかったけど、みのりちゃんは私の後ろの高さに視線を合わせて
悪戯っぽく目を細め、それから少し視線を下げて私にも笑いかけた。
桃の木の枝が撓むくらいに揺れて花びらが空に散る。
「知ってるわ」
幽霊の女の子は手を振った。
つなぐ大きな手が力を痛いくらいに強くする。
「またね、アツキ、啓伍。気が向いたらまた会いましょう。とっても楽しかった!」
春一番がどっと吹いた。
風の強さに思わず閉じた目を開いた時にはただ春の光だけが桃の木に降り注いでいた。
後ろから、いつもの腕が抱きしめてきたので手に手を添える。
なんとなく、空を見上げて呟いた。
「啓ちゃん」
「ん?」
「しない?」
「人来たらどうすんの」
「ここでなんて言ってないよお」
振り返ると唇が濡れたものに当たって舌がすくわれた。
柔らかいのと柔らかいのでしばらく押し付けあいながら、呼吸もできなくなるくらいにキスをした。
前髪をなでるように掻きやられて耳の傍から指が入り、顔を抱かれて口の奥まで探られる。
でもいつもみたいなただのとろけるようなものじゃなく、もっと暖かい春みたいな感覚だった。
送られてきたつばをこくりと飲んで、差し出した赤い舌先同士で擦りつけあう。
「ぁ、はー…は」
「はぁ、ふ、んぁ…」
啓ちゃんの息も私の息も荒くてどこまでも風に混じっていた。
芝生に腰を落として樹に背を預けて太陽に目が眩むままで、下唇をなぞりあう。
それから歯茎に温い水を塗り込まれるので背をそらした。
また、唇だけで何度かついばむようにされる。
「啓ちゃ……あ、ん、ふぅ」
頬に触れたのが今度は耳をしばらく唇で押して、また舌を絡める普段のに戻った。
弱く吸いあうたびに足の指から砂糖菓子みたいにくずれやすいものに変わっていくみたいだった。
頬を撫でられながら髪を梳かれて一度唇が離される。
「あっき」
引いた糸を啓ちゃんが手で拭ってくれて、それからきゅっと抱きしめてきた。
…何気なく耳元を暖める息に身体が震える私は、ほんとにえっちだ。
風の強い中庭で。
「俺、亜月が大好きだ」
最初に俺からちゃんと言えなかったからさ。と言い訳みたいに続けて、啓ちゃんは背中に回した腕を強くした。
私はといえばなんだかもうにやけてしまって幸せなのか嬉しいのか胸がいっぱいなのか分からない。
「もう、啓ちゃんたら」
ふと重なる膝の上に当たるものを撫でてみると、こら、と頭を軽く叩かれた。
「そういうのはどっか、ホテルに入ってするの。あっきホントえろいな」
そんなこと言いながら啓ちゃんは嬉しそうだ。
くすくすと笑ってじゃれあっていたら我慢できなくなって、
最後にもう一度秘密基地で結局いつもみたいにしてしまった。
「や。や、やぁ……も」
抱き合ったシャツをかきむしるようにして何度も背を丸める。
啓ちゃんの上着を絨毯みたいにして、座った彼の上に座り込むようにして
ゆっくりとスカートに隠れた部分が沈んでいく。
…うっすらと輪郭しかないのがすごいえっちだ。
そんなことを思っている私も、きっとそうなんだろうなあ、と肩に頬を預けて息を漏らした。
「亜月。動くぞ」
「ん……」
ゆさり、と身体が持ち上がった。
首にかかる啓ちゃんの息が荒くて何度も私を呼びながら中をかき回してくる。
セーターの裾から入り込んだ手が胸のさきっぽを摘まんで弄るたびに声が出てしまう。
それから強くもみあげられて服の上から吸い付かれたのでおなかが力を強めた。
「んっ、ひゃぅっ」
「可愛い」
嬉しそうに啓ちゃんが小刻みに突き上げ始めると水が
湿気の籠もるスカートの中でぐっしょりこぼれて濡れていく。
途中でひと休みし、唇を合わせて奥まで吸いあう。
空が眩しいくらい青くて、ときどき春の風が吹いた。
「あ。やだ、止まんない」
軽い花粉症のわたしはそれもあって涙が止まらなくて何もかも分からなくなってきて自分から動き始めた。
啓ちゃんがすごく嬉しそうに動きを合わせてくる。
パン、と何度も打ちつける音が外から完全に壁に囲まれた場所で段々大きく早く響きはじめた。
私はもう泣いている叫びしか出せなかった。
「……き、あっき、俺、もう」
「ふあ、ぁ、あー…ん、やあ!あ、ああ!あああ!!」
抱きしめられて奥までぐっと突き上げられたとき真っ青な空が見えた。
とても気持ちが良くてびっくりして、何が何だか分からなくなったのはあのときのが初めてだ。
声も出ないままいってしまって、しゃにむに背中を抱きしめた。
「あ、…ぁは、は……ふ」
指先から頭の天辺までが白い光で染まって花の香りに力が抜けて
そのかわりに中まで啓ちゃんがしっかりと注ぎ込んでいる。
混ざった呼吸がすごくうるさい。
抱き合いながら一緒に震えて、草の上に崩れ落ちた。
土のにおいがした。
「人、来てないよな」
「……たぶん。来なくてよかったー」
「あっき、なんか、すごかったな」
お互いに力を抜いて笑って、そよぐ若草と流れる雲を見ていた。
啓ちゃんの胸に当てた頬をずらして揺れる桃の枝と高い高い水色を見る。
もう冷やかしに来る女の子はいなくて。
でも、ちゃんと、あの花咲くみたいな笑顔は心の奥に残っていた。
その年の夏に迎賓館は跡形もなく壊されて、新しい中学校の建設が始まった。
**
軍手を持ち手に擦り、白く溶けていくの息を眺めた。
三月下旬のこの頃には、朝の空気は日を追うごとにあたたかくなってくる。
結局旭家の三男で跡も継がない気楽な三男坊の俺は、駅前の専門学校に進学した。
その間に亜月は家事手伝いをしながら料理の専門学校に通ったりして、付き合い始めて六年が過ぎている。
それも先週卒業した。
うむ、今日こそが勝負時だ。
予定は少しずつ変わっても、変わらない毎朝の日課は今も欠かしたことがない。
亜月がおじさんの手伝いで牛乳ケースをトラックに運ぶのがずっと日課であるように。
裏手の道路でおじさんと亜月が配達ケースの運び出しをしている。
ちりん、とベルを鳴らしてブレーキで止まると、亜月がふとこっちを向いた。
「あ!おはよ、啓ちゃん」
「よ、あっき。おはよう。おじさんも、はい朝刊」
「おう啓伍、いつも偉いな。で、いつ婿に来んのよ」
「もう、お父さんうるさいってば」
亜月がおじさんの背中を押して黙らせて、朝刊を受け取って笑う。
朝の風はいつしか肌寒さがなくなり、太陽も少しずつ高くなっていた。
朝連の中学生がジャージでもう町外れに向けて走っていたりする。
ペダルを踏み込もうとしたその日には、近所の枝に色がつきはじめていた。
「啓ちゃん」
幼馴染の優しい声に振り返る。
「ん?」
面影のある色素の薄い少女が手を振って笑った。
「いってらっしゃい!」
まるであの日の幽霊のように、華やかで、でももっと穏やかな毎日を
手をつないできたそれは懐かしい光景だった。
とはいえもちろん俺は亜月しか見ていないに決まっている。
「ああ。行ってきます。おじさん、そろそろ挨拶に行くから」
よし言った超自然!
心の中でガッツポーズをしてペダルを力強く踏み込み次の配達先へ角を曲がる。
そろそろといわず、配達帰りに寄っていこう。
花びらがひとつ新聞束の上に落ちて、ビニールの間から入り込んだ。
**
――思いもかけない嬉しい置き台詞を残して、自転車が新聞を乗せて走っていく。
お父さんが微妙そうな(自分でいつも言ってたくせに)むっつり顔で配達に出て行くトラックに乗り込んだ。
私は見送りながら、えへへと笑って新聞を抱き込み、さっきの言葉を心の中で繰り返す。
そしてこういう話題になると、いつだって大事な大事なお友達との誓いを思い出すのだ。
みのりちゃん、今頃どこにいるのかな。
そんなこんなで、
私達は今日も元気です。
今年も桃の花が咲きました。
『幽霊屋敷』完
++
十五年後の同じ春。
二人は中学校に上がった双子の娘から七不思議のひとつ
「カップルでいるとどこからともなく聞こえる少女のからかい声」の話を聞くことになる。
(どちらがPTA役員をやるかで久方ぶりの大喧嘩になったとかならないとか)
……今も変わらぬ彼女の軽口に再会できたかどうかは、ご想像にお任せいたします。
こんどこそ完。