漂う白は留まることなく。  
降りしきる雪はやむことなく。  
街はただただ化粧を施されてゆく。  
今日この日は年の末日、大晦日。  
 
白、そしてところどころに古びて薄くなった赤や黄色。  
アーケードもなく、しかし人の通りは確かに認められる商店街。  
通路ばかりは積雪は取り除かれるも、屋根の上には今も絶えずに無数のそれが重なる。  
 
降る雪、吐く息、そして、それらに加わる最後の白――――漏れる灯。  
蛍光灯の無機質な白は、商店街の一角――木造の、黴臭い古本屋からのものだった。  
 
ガラス張りの光沢を持つほどに黒ずんだ扉の奥には、無造作に置かれ、変色しきった本の数々が鎮座している。  
好んで訪れるものもあまりおらず、このような雪の日ならなおさら客は来ない。  
――そんな、薄暗い中に居るのは、二人の人間。  
彼らはそれぞれ、禿頭の好々爺と、清潔感を持つ整えられた髪に、童顔を持ち合わせた丸眼鏡の少年。  
 
前者はまどろみの中におり、彼が牙城から抜け出る気配は微塵も無く、  
後者は本の世界の中におり、彼も手の重石を手放す気配は微塵も無い。  
 
――と。  
からりからりと、入り口についた鈴が鳴った。  
無論、店主も少年もそれに気づかない。  
少年は頁を繰るのを止めない。  
1頁。  
 
2頁。  
 
3頁。  
 
4頁――  
 
5頁目、少年が、種々の図解のついた内容を吟味し、飲み込んで次へ移ろうとした瞬間――  
「何を読んでいるんですか? 薪。」  
くすくすという笑い声付きで、ソプラノ気味のアルトが少年の耳に届いた。  
 
少年は顔を上げる。彼にとっては、聞き飽きたとすら言える声の主。  
没頭していたところを中断させられたためか、わずかな不快感を除かせつつも半ば諦めた表情で、機械人形のように平行な動きで振り向いた。  
 
「――――四条。」  
 
 
少年――高槻 薪(たかつき たきぎ)の思ったとおり、そこに居たのは彼の昔馴染みであり、被保護者であり、そして最大の親友である四条水城(しじょう みずき)だった。  
足元までカバーする、白いふかふかの飾りのついたコート。  
それを着こなして、同じ素材のロシア風の帽子を被るもしかし、彼女を最も強く印象付けるのはその長い黒髪だった。  
腰をも越えて、膝裏まで到達するほど長い烏の濡れ羽色の髪を、あたかも神道の祭儀に使う玉串の様になびかせる。  
やはり白い手袋を身につけているため、彼女の地肌が除いているのは首より上の部分だが、わずかに見えるその肌すらも透き通るようで、しかし不健康さは絹糸一本ほども見られない。  
一見すれば、育ちがよさそうな丸眼鏡の少年でしかない高槻との接点は彼女とは見出せない。  
――知らぬ人が見れば、20代半ばにも見えそうなたたずまいの彼女が、なぜ縁遠そうな彼の最大の親友なのか、それは彼らの日常の一コマを見れば、よくよく分かる。  
 
「ええと……The history of mechanical birds ――Evolution of plane's architecture――  
……成程。いつものですね?」  
外套に薄く付いた雪を本にかからないよう落としながら高槻に近づいた四条は、高槻の持つ、薄汚れた深緑の本の題を読み上げた。  
どうやら洋書の様である。  
 
……と。彼女がそう聞いたとたん、それまで渋い顔をして足をほんのわずかに揺らしていた高槻が表情を一転させた。  
まるでクリスマスイブの翌朝に、ベッドの下で紙包みを見つけた子供のように。  
台詞こそいつもの呆れたような調子が混じってはいるが、口調は疲れた状態がデフォルトの普段の彼とは全く異なっている。  
「……いつものとは酷いな、四条。これはもう絶版でなかなか手に入らない名著なんだよ。  
航空機の構造の発展を図説付きで詳解したものはよくあるんだけど、これの特徴は、設計者たちの話を伝記風に書いているんだ。  
どんな発明にもエピソードがある。それはこういった分野でも――」  
 
生き生きとした目になり、飛行機の薀蓄について、夢中になって演説を始める高槻。  
さながらそれは無邪気な小学生が得意になって下級生に勉強を教えているようであり、教鞭を握っているかのごとくオーバーなリアクションをとりながら高槻は破顔する。  
「……ふふ。」  
それを笑みを絶やさず拝聴する四条。  
その笑みには高槻の子供っぽさを嘲笑うような要素は何一つなく、むしろ話そのものを純粋に楽しんだ上で、加えて飛行機に夢中な高槻自身を見て喜んでいるように見受けられる。  
 
 
――つまり。高槻にとって、四条は自身の望みを躊躇いなく話せた上で、清聴を拝してくれる唯一の人間である。  
彼らの関係は、それこそ長い年月によってのみ構成されえたものだ。  
四条から見た高槻は躊躇うことなく自分の後ろ盾を任せられる存在であり、高槻の知る四条は自分の、他人がきっと幼稚なと嘲笑うであろう面を受け止めてくれる理解者なのだ。  
 
 
……と。  
「……あー……。二人っきりでミョーな空間作ってるとこ悪いんだがな。  
水城、俺たちもいることを忘れるな。薪、せめて俺たちのことに気づいてくれ。」  
 
呆れ交じりの男の声が横から入ったことに四条は気づいた。  
はっとした顔になり、ええと、と苦笑いをしながら、薪? と呼びかけてみることにする。  
「……そもそも日本の飛行機の歴史は故・二宮忠八氏のカラス型……」  
「聞けよ!!」  
もはや完全にスイッチの入った高槻の両肩を掴み、先刻の声の主は思い切り揺すった。  
「ひここここうきがががが……何するんだ!」  
掴まれている肩のうち、右肩を払ってからその影を体を揺すって振りほどく。  
言い終え、ここで初めて高槻は声の主に気づき、鳩が豆鉄砲を食ったときの顔をして間抜けな声を上げる。  
 
「……あれ? どうしたんだ、淵辺。」  
 
淵辺、と呼ばれたオールバックの髪と高い身長を持ち合わせる男は、ここで高槻の方から手を離し、はあ、と息をつきながら芝居がかったしぐさで頭に手を当てる。  
……と、拳骨で額を軽くぐりぐりと押しているその影からもうひとり。  
にやにや笑いで歩み出てきて、高槻の肩を小突いたのは、三原色のストライプのマフラーの目立つ、小柄な影。カーキ色のセーターを着たその姿は、女性のものに他ならない。  
 
「あら……ミズキチと二人きりで居たかった? 邪魔して悪かったかな。  
ま、それじゃ邪魔者はお暇しましょうかね〜。行くわよ、セーギ。」  
 
やや天然パーマ気味のショートカット、かつ低い背のその人物は、親切な中年女性じみた声でそういい、淵辺の服を掴んで引っ張り出した。  
 
「……あのね、そんなことしたら僕はともかく四条に迷惑かかるだろ。  
ただでさえ四条はそういうことに無頓着なんだから察してくれよ、雛坂……」  
先ほど無神経な台詞を言い放ち、いまはじぶんより30pは高い身長を有する淵辺をずるずる引きずっている少女に向かい、高槻は溜息まじりに懇願。  
そのまま、改めてその二人に目を向ける。  
 
「淵辺……。仮にも付き合ってるなら、雛坂のこと少しは制御してくれ。」  
「そりゃ無理だ、お前もいい加減気づけっつの。ミコは根っからの仕切り体質だからな、こうやって皆を振り回して楽しむこととかは絶対に止めやしねぇ……。S気質ってこった。  
ここに来たのだってミコがお前を呼べっつったんだしな。」  
聞いて、高槻はそういえば、とつぶやき、腕組をしながら雛坂に問いかける。  
顔に浮かんでいるのは、純粋な疑問符。  
「……どうしたんだ、こんなとこまで皆して。」  
そう言って、瞬きの後に順繰りに、四条、淵辺、雛坂を見回した。  
 
 
高槻の目の前にいる淵辺正義(ふちべ まさよし)と雛坂神子(ひなさか みこ)は、高槻自身と四条を含めて、いわゆる仲良しグループと言える。  
その付き合いは長く、遡れば小学校三年生にまで辿ることができる間柄だ。  
高槻と四条、淵辺と雛坂という幼稚園の頃からの二人組みが、雛坂と四条が席替えで隣同士になったことからいつの間にか仲良くなって行き、結果として高校生徒会をこのメンバーで作るくらいに縁が続いている。  
 
何が何やら、といった風情の高槻に対し、ぽん、と手を叩いて弓の形に目を細ませた四条が嬉しそうに事の次第を告げた。  
「そうでした。ええと、これから皆でうちで忘年会をやろうかという話になったんですけど……」  
 
「……はあ?」  
口を大きく開けて、高槻がアヒルのごとき間抜けな声を出す。  
さながらその姿は、風邪で休んだ生徒が学校に戻ってきたら、いつの間にか学園祭での劇の主役にされていたときのそれであった。  
 
「……ちょ、ちょっと待ってよ。そんな話今日になるまで全然聞いてないんだけど。」  
「うん。だってついさっき思いついたから。」  
平然とあっけらかんと言い放つ雛坂。二の句が告げない高槻に対し、畳み掛けるように雛坂が追い討ちの連携を決める。あくまでも、爽やかに。  
「で、皆に電話したらいいって言ってくれたんだけど、タキだけ連絡取れなくてさ、タキのお母さんに聞いたら古本屋だろうって教えてくれたわけ。  
いやでも一発目でビンゴでよかったわよ、他のとこまでいくの面倒だし。  
あ、予算とかは心配しないで。会計の私が必要経費ってことでしっかり騙……もぎ取ってきたから☆」  
 
「『もぎ取ってきたから☆』じゃないだろ! あぁぁぁもう余計な仕事増やしてくれて!  
只でさえ来期の引継ぎまでぎりぎりだって言うのに、どうしてそんな私事で……」  
頭を両手で抱え、高槻はうずくまる。  
誰が見ても落ち込んでいると分かる高槻に、  
「心配しないでください、薪。」  
四条がとびきりの微笑みで高槻の肩に手を置いた。  
ああ、やっぱり四条はありがたい親友だな、と高槻は思い、それが感謝の言葉とともに口からこぼれる。  
「……ありがとう、四条。……分かってくれるのか。」  
ええ、と四条はやさしげにうなずく。  
「……私事でなければ構わないんですよ。先生方もお呼びして、公行事扱いにしてもらいましょう?」  
「か、懐柔してどーするー!! それでも会長なのか、四条……」  
 
あぁぁぁ、と奇声を発する高槻ははやグロッキー状態。  
これ以上放っておいても話が進まないので、淵辺が話を切り出した。  
ついでに主導権を握って有無を言わせないようにする。  
「ま、そういうわけだ。んじゃ、行こうか」  
「……行くって、僕はそんなこと決めて……」  
「あ、そういうわけにはいかないの。もうあちこち注文しちゃったし。」  
「……。うん。もう、いい…… 好きにしてよ……」  
もう顔を上げることもなく、高槻は淵辺に引っ張られるままにずるずると店から連れ出された。  
 
ぱたり、と彫刻入りのドアが閉じられ、空から氷の結晶の降る外界と、電気ストーブの効いた黴臭い内界を隔絶する。  
騒がしい学生を排除した店の中には再度の平穏。そして、店主は一連の出来事に気づくことなく未だすやすやと眠り続けていた。  
室内にはただただ、じ、と電熱線が熱される音が自己主張をするのみ。  
 
雪の降る中、淵辺を先頭に並び歩く。  
雪はいまだ止む様子はなく、彼らの脇、日本家屋の瓦葺の塀にもその上から突き出る松の枝にも、仮に切り出したら一抱えは有りそうなほどのそれが積もっていた。  
 
彼らの住むこの街は――やや寂れた地方都市である。  
はるか昔城下町だったという伝統だけはあるが、首都圏からも遠いこの豪雪地帯においては発展はあまり期待できない。  
その城下町という伝統さえも城がすでに戦国時代に無くなっており、それ以前に作られたごくごく一部の武家屋敷が面影をとどめるばかり。  
江戸時代にはすでに、この街はかつて栄えていたというだけに過ぎない大き目の都市のひとつでしかなかった。  
残された屋敷や、雪をはじめとした四季折々の景色を求めてくる人々を相手に観光収入でやりくりしている――そんな場所だった。  
 
 
今、彼らが目指している四条家は、そんな何の変哲もない武家屋敷のひとつだった。  
ただし、他の大多数の観光地化された武家屋敷とは違う点がひとつだけあり、それは四条家がいまだにそれを使用しており、和菓子屋を営んでいることである。  
“四条亭”と分かりやすい看板のついた家屋、彼らはそこに向かっているはずだった、のだが……  
 
 
「……あの、淵辺さん…… 私の家はこちらではないのですけど……」  
前置きなしに、四条があいまいな苦笑いで淵辺に問いかける。  
歩き出してはや二十分ほど。本来ならばすでに四条宅に到着していてもおかしくはなく、彼らの体は当然冷えている。  
少なくとも高槻と四条の二人は、一刻も早く炬燵にでも入りたいところだった。  
しかし、先を行く淵辺と、そのすぐ後に続く雛坂はどうやら見当違いの方向に進んでいるようである。  
 
何度も来ている筈なのにどうしてかと高槻と四条は顔を見合わせ、首だけで高槻がおもむろに四条が問うことを促したのだ。  
淵辺は彼らの問いに対し、歯を見せた笑みで、待ってましたとばかりに答えを告げた。  
 
「ああ、水城んちに行く前に、ゲーセンでも寄って時間潰そうかと思ってな。」  
 
そゆこと、と雛坂もうなづく。  
そのようなことは何も説明されていないばかりか、いつの間にか忘年会に強制参加させられたが為に、もはや諦観を受け入れている高槻はあいまいに頷くのみ。  
「……分かった。」  
 
……と。  
「あ、あの……私、そんなことを聞いてはいないのですけど……」  
珍しく動揺した口調で、四条がこっそりと雛坂に話しかけた。とはいっても、顔つきは眉を下げつつも力ない笑みのままである。  
「そりゃそうよ。言ったらミズキチ、ついて来ないでしょ?」  
ひそかに、しかしにたりと捕食者の笑みを浮かべる雛坂。  
高槻に気づかれないように、ぼそぼそ声で四条に応答する。その顔つきには四条で遊ぼうという魂胆がありありと見えていた。  
 
「あ、あの……その……」  
「いやー、こうも簡単に引っかかってくれるとは思ってなかったわよ。  
ミズキチの家で忘年会やるって言ってるのに、さて、何で私達ゃタキ探しにあんたを引っ張り込んだんでしょう? まとまって動いてんだから、わざわざこっちまで来なくてもミズキチは家でコタツ入ってりゃいいのにね〜……」  
「……そ、それって……」  
四条は表情こそ変わらないものの、顔色や語調が次第にあせりを帯びてゆく。  
 
「タキを探して三千米ってか〜。うんうん。」  
「み、神子さぁん……」  
もはや完全に雛坂のペースである。淵辺はにやにや笑いで横目から眺めているのみ。  
ここで、雛坂が高槻がいぶかしげに二人を見ていることに気づいた。  
「ほらほら水城、地が出てる地が出てる。あの不景気顔が見てるわよ。」  
「え、あ、あ……はい。」  
瞬時に目を閉じ、気づかれないように深呼吸。  
すぅ、と、真冬の冷たい空気を取り入れ、生温かい呼気をゆっくりと漏らす。  
静かに目を開けたときには、  
「……すみません、神子さん。お手数かけます。」  
控えめに微笑む、いつもの四条となっていた。  
 
「や、私が悪いんだしね。めんごめんご。」  
ぺろりと舌を出した雛坂に、四条は苦笑で返す。  
「いえ、気にしないでください。何せ……」  
いつもお世話になっているんですから、と、四条。  
もうしないでくださいね、と念を押すよう付け足しはしたが。  
 
 
高槻は、少し離れた所で内緒話をする四条と雛坂を眺めていた。  
珍しく四条が少し慌てているように見えたが、気のせいだろうと思う。  
 
これ以上体を冷やしたくはないな、と思った彼は彼女たちに近づき、  
「そこまでにして欲しいんだけど……。」  
遠慮がちに二人の間に手を割り込ませた。  
 
「雛坂、何話していたのかは分からないけど、あまり四条に迷惑をかけないでくれ。  
僕は貧乏くじ引きなれてるからいい……わけないけどさ、四条にまでそうするってのはやめて欲しいんだよ。」  
四条を庇う様に雛坂の前に立った高槻を通り越して、変わらず雛坂の目線は四条にある。  
口元を、再度面白おかしむような形に曲げた。  
「おやおや、愛しの騎士様が御推参ですぞ、姫様。ちょっと……いや、無茶苦茶頼りないけど。」  
この程度の挑発では高槻は振り回されるのに慣れすぎているため、幸か不幸かなんとも感じない。  
逆に四条は糸のごとく細めていた目を開いている。心なしか四条の頬が上気しているように見えた高槻は、珍しいな、と感想を持った。  
「……。わ、私、先に家に行かせてもらいます。そもそも、ゲームセンターなど真っ当な学生の行くところではありませんよ。」  
 
四条はそういってはいるが、実の所単に五月蝿い所が嫌いなだけなのを高槻はよく知っていた。  
それは高槻も同じで、なんだかんだと高槻が四条に付き合うのはそういった趣味嗜好が実に近いためでもある。  
故に、これ幸いとばかりに高槻は四条に近づき、  
「……じゃ、僕たちは先に四条の家に居るよ。」  
四条の真白い手袋越しに掌を握り、  
「……あ、」  
歩みだした。  
 
「あ、あああのあのあの、た、薪?」  
「ん?」  
高槻が振り返ってみれば、四条が顔を赤らめて手をばたばたと振っていた。  
長身の彼女には似合わず、また普段の大人びた彼女とかけ離れた行為であり、なぜかと高槻は一瞬考え込んだ。  
すぐに正解にたどり着く。  
「ん……、大丈夫でしょ。雛坂はともかく淵辺が居るんだ。迷いはしないよ。」  
四条の家や高槻の家の近くは周囲の武家屋敷の塀に囲まれた袋小路になっており、土地勘のない人間は迷いやすい。  
方向音痴気味な雛坂を案じて、皆で行動したほうがいいと主張しているのだと高槻は判断したのだが――  
「え、あ、いや、そうじゃなくてですね……」  
四条の様子を鑑みるに、どうやら違うようである。  
じゃあ何が原因なのか、と考えようとする高槻はしかし、どうやらその必要はなさそうだと感じた。  
考えた一瞬の間に四条はすでに落ち着き始めたようだ。す、と息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した彼女は、  
「……いえ、なんでもないですよ。行きましょうか?」  
いつもどおり、鈴蘭の花のような穏やかな笑みを浮かべ、そう告げた。  
 
「……? うん、まあいいけど。」  
多少気にならなくもないが、高槻は四条の言動についてはあまり深く考えないことにしている。  
元々マイペースで読書好きの四条の事、やたらに妙なレトリックを使ったり、発想がそれこそ小説並みに飛躍しがちである――と高槻は考えているのだ。  
四条が一歩を踏み出し、高槻がそれに続こうとする。  
――と。  
 
「へぇ…… ま、育ちのいい“お嬢”は当然庶民の娯楽にゃ興味ないってか?  
それとも単に負けるのが怖いだけだったりしてなー。」  
ぴたり、と四条が足を止める。それと同時、  
「な、ばっ……!」  
四条の反応を見る間でもなく、高槻が後ろを振り向く。……無駄だと、経験則から分かってはいるのだが。  
彼には今から起こる出来事のパターンが、まるでエドガー・ケイシーの頭の中を覗くかのごとくはっきりと見えていた。  
 
即座に今の言葉を放った人間を視界に収める。  
そこにいたのは、傍観をしていたはずの淵辺。  
……いや、そもそもゲームセンターに行きたいといっていたのは誰だったか。  
彼が傍観していたのはあくまで四条と雛坂の莫迦話のみだ、と今更ながらに高槻は気づいた。  
 
「……今。なんと仰いましたか? 淵辺さん。」  
何も普段と変わらない四条の声が、彼の脳内に響く。  
それを聞き、高槻はもはや自分にはどうにも出来ず、これからゲームセンターに行かねばならないことを確信し、落胆した。  
うつろな目で淵辺のほうを見れば、しめたとばかりに淵辺がうれしそうな顔。  
傍らでは雛坂が腕を組んであきれた顔をしている。  
先ほどまでの彼女を思い、突っ込みたい衝動にかられながらも、高槻はすでにそうする気力も無い。  
嫌な意味で、彼は巻き込まれることを日常としているのだ。  
 
「んー? いやいや、どこぞのお嬢様に下衆な場所は似合わないだろう、と。  
わたくしなりに深謀遠慮を積み重ねたつもりなのですが?」  
芝居がかった動作で、明らかに作り物の笑みを淵辺が浮かべる。  
対する四条も同じく作り物のような笑み。ただし、淵辺が西洋の仮面劇の道化のそれであるのに対し、四条のものは能面の虚ろな笑いだ。  
 
「私は別にお嬢様などではない、“普通”の“どこにでもいる”“一般人”ですよ? 撤回を要求します。」  
単語を強調しながら、来た道を戻る四条。淵辺が手元だけで小さくガッツポーズを作るに気づいた高槻は、しかし内心四条の台詞が三重に意味が被っているというどうでもいいことのほうが気になるくらいに現実逃避の真っ最中である。  
しかし、今の四条に口出ししたら自分が事の中心に引き込まれるのは自明だったので止めておくことにする。  
雛坂は淵辺に異論があるはずもなく、一歩引いたところで淵辺を眺めているのみ。  
 
「んじゃゲーセン行こう。フツーの連中なら皆行ってるとこだぞ?」  
「別にどこでも構いませんよ、さっきの言葉を撤回するのなら。  
フウイヌムだろうとアスガルドだろうとユッグゴトフだろうと、どこへなりとも行ってみせましょう!」  
四条は肩をいからせ、高槻にこそ分かるが他の2人には分からない地名を出した。  
 
……しかし、彼らにとってはそんな瑣末事など気にならない。  
四条の台詞の“どこへなりとも〜”の時点で、達成感に満ちた表情の淵辺は雛坂に近寄り、ぱあんとハイタッチ。  
彼らの身長差の関係上、淵辺はミドルタッチといったところではあったが。  
 
「よっしゃ、決まりだな?」  
「初めっからそう言っておけばいいのにねー。それはそうと。  
セーギ、クレーンに新しいプライズ入ってたんだけど……」  
「オーケイ、何が欲しいんだ?」  
「えっとねー……」  
「そんなことよりですね、早く撤回を……」  
言いつつ、一行は高槻を置いてあらぬ方向へ。  
高槻は一人たたずみ――  
「……ここで立っててもしょうがないしなあ……」  
一見いやいやながら、四条たちの後ろ十数歩をついていくことにした。  
騒がしく、しかしどことなく空虚で現実感のない場所へ、一行は向かってゆく。  
 
 
 

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