曇天。
低く暗く、まるで灰色の入浴剤をぶちまけた風呂の様なくすみ具合を示す冬の空。
その雲海の上から見たならば、街は小麦粉をまぶしたが如く真白い。
遥かな天空から吹き降ろすのはその字面そのままの意味の木枯らしであり、風は、白
く錆付いた旧い武家屋敷の群群の障子を容赦なく鳴らす。
その中。
からりからりと玉砂利を鳴らしながら、四人の男女が中規模の武家屋敷の庭で戯れて
いる。
先で待つ二人は髪をすべて後ろに撫で付けたのっぽと、背の小さい短髪の少女。
後を追う丸眼鏡の少年に並び来た膝裏まで届く黒髪を持つ女性は、くるり、と体を回
すように礼を済ませ、扉の青錆びた錠に、近頃のそれとしては不釣合いな大きな鍵を
回し入れた。
ぶりきの玩具を叩くのにも似た鈍く響く音が鳴り、そのまま女性は格子模様の右扉に
両手をかけ、体ごとずらし開ける。
さりげなく丸眼鏡の少年が左扉を開ける中、新雪にその足を刻みながら扉の真前に戻
ると、胸に手を当てつつ彼女は軽く頭を下げながら凹凸激しい二人組を中に招き入れ
、一息をつく。
頭の後ろで手を組ませて我が物顔で悠々と家屋に入る少女と、手をポケットに入れ、
眼を閉じた様な僅かな笑いを浮かべてそれに続く青年を見送りながら、女性は傍らの
少年を親愛の一瞥を送る。
笑みかけた後、頭の毛皮製の白い帽子を取りながら自らも足を中へと踏み入れた。
少年は、ふ、と一息つくと、眼鏡に髪がつかないように気を使った動きで軽く頭を掻
く。
そして、漆喰の崩れを補修した跡が残るその屋敷へと、女性を追うかのように一歩。
彼の姿が内側の影に隠れて数瞬のち。
両開きの扉はゆっくりと、台車を転がすような音とともに街と彼らを遮断した。
第三話 Whose name is "Wild card"?
「……あの、ええと。一体全体、何をやっているんですか?」
そう困惑の笑みで問いかけたのは、大腿まで伸ばした黒の髪持つ女性。
――ここは武家屋敷の居間。
寒さに震え、炬燵を求めて四者が四様に木戸を開けて中に入るところだった。
四人の先頭、先ほど言葉を発した白い毛皮コートの彼女は四条 水城。
この家の嫡子にして、四人の集まりの先導を務める事になっていた人物である。
その視界に納まった、一人に人物に眼を向けてみれば。
彼女の目線の先にいたのは――――
「……見た通り、よ。少しばかり早い晩酌……が一番近いかしらね」
猪口を手に持ちながら、ジャージに半纏という姿で炬燵に入る少女。
くいと手のそれを口元に当てつつ、それが何でもないことであるかのように軽く目を閉じる。
「悪いわね。少しばかり先に始めさせてもらっているわよ」
動じた様子を全く見せずに呟く少女の姿形は、今まさに彼女に問いかける水城のそれにとてもよく似ていた。
一行を一瞥した後に、呟くように問いかけて、
「一杯要る? “平泉”の山廃純米。呑む価値は十分あるけど」
く、と含み笑いを彼女は続ける。
腰まで伸びた黒髪に、どことなく童顔気味ではあるが整っている顔と、それに浮かべた落ち着いた表情。
女性の割には高めな身長も水城とほぼ同じ程度であり、並んでもそう差は見受けられない。
……とはいえ、違いもまた多い。
一番分かりやすいのはその目つきだろう。
元々垂れ目気味の目を常に弓にして微笑している水城に対し、彼女のそれは吊り目でも垂れ目でもない。特徴らしい特徴がないのだ。
眼光は鋭い訳ではないが、しかし常に眼前のものを子細に観察しているような印象を受ける。
また、後ろから髪型を見比べる事でより違いははっきりするだろう。
膝の後ろ近くまで伸ばしたそれを、丁寧に整えて額の前でわずかに分けているのが水城。
対し、十分長いとはいえ、水城よりもだいぶ短く腰元までしか伸ばしていない髪を、せいぜい寝癖を直す程度にしか手を入れていないのが少女だ。
加えて、白い毛皮のコートに帽子という趣味をはっきり反映させ、かつ、決して豊かとは言えないものの、女性らしさを漂わせる程度には器量の良い水城と、
ジャージに半纏という過ごし易さのみを考慮し、更にはその体躯の一部が同年代の同性と比べて殆どふくらみを持たない彼女を間違える人はそう多くないだろう。
よく似た顔立ちに化粧を殆どしていないのが共通している以上、
学校の制服のような同じ意匠を持つ服を着ざるを得ない場合はまた違うのだろうが、この様な私服のときに彼女らを見分けるのは容易な事と言える。
そうした自分に良く似てはいるが異なる存在に対し、水城は戸惑いと呆れ交じりの声で言い回しを変えつつ質問を再度行う。
表情は眉尻を下げたハの字ではあるが、いつもの微笑である。
「……ええと。……どうして、そんなものを飲んでいるんですか? 梓(あずさ)」
――最後に告げられた、一つの名詞。それが彼女の名前。
四条 梓。
年齢に見合わぬ貫禄を持ち合わせる達観者にして、四条 水城の妹である。
彼女――梓はわずかだけ首を水城の方に向け、あたかも自分の行為が当然のように言葉を告げる。
「ん……、難しいところだけれども、吟醸酒は香りが強すぎて料理と合わせるのは私は好きじゃないのよね。
そうそう、これに合わせた料理食べたかったから、台所勝手に使わせてもらったわよ」
平然とした彼女の言葉。その中に問題発言を見つけ、水城は更に眉をひそめる。
が、それ以前に。
「そんな事を聞いているわけじゃないんですけど…… はあ……」
一息。
「あの、梓は一応まだ14歳でしょう? さすがに飲酒はまずいと思いますよ……?」
何やら共犯をしている気分になっているのか挙動不審な態度を取り始めた水城に対し、梓は口元だけをわずかに上げ、呟く。
「――くく。それは姉さんの気にする所ではないでしょう?
……そうは思わないかしら、兄さん」
冷たくはないが、どことなく冷めた笑いとともに放たれた言葉。
その向かった先は、水城の脇を通り過ぎてその背後にいる人物に届けられる。
そこに居るのは――
「……まあ、その通りだけどさ。一応四条も心配している事は気に留めておいたほうがいいと思うよ、梓」
あかがね色のフレーム持つロイド眼鏡をかけた、童顔の生真面目そうな少年だった。
兄さんと呼ばれた彼――高槻 薪は、ようやく訪れた発言の機会に際し、はあ、と溜息を吐きつつ目の前の姉妹にとりあえずの要求を伝える事にする。
額に人差し指を当てながら、目をつぶって渋い顔を作り、一言。
「ひとまずさ……寒いから中に入れてほしいんだけど」
「うう……寒寒。あー、炬燵は最高だわね。
ウチにもエアコンだけじゃなくミズキチんちみたいにこれ置いてくれないかなー……」
「よ、水城妹。相も変わらず良く似てんなあ。似てないとこも多いけどさ。
まあ、何にせよ可愛い……っつーのはちと違うか、ともかくなんかそんな感じなのは良い事だな、うん」
高槻に続き、かたりと横開きの扉を開けて入ってきたのは二人組みの男女。
両手で肩を抑えて震えるのはゆるいウェーブのかかった髪をショートカットにした背の低い少女。
傍らで、顎に手を当て自分勝手に納得してうなずくのはオールバックの長身の少年だった。
二人はそれぞれの行為を続けながら、そのまま炬燵の側面の一つに並んで入り込む。
少女の名は雛坂 神子。少年の名は淵辺 正義。
その姿はさながらつがいの小鳥の様であり、実際に、少なくとも表面上は二人がそういった関係であるのはこの場の誰もが知ることである。
「……あの。先ほど台所を使ったといっていましたけれど……」
果てさて、炬燵に来客が全員入ったところで、水城が不安そうに話を切り出した。
居間は二箇所の出入り口を有しているが、炬燵の水城らが今しがた入ってきた廊下に面した側には、水城。
そこから時計回りに高槻、雛坂と淵辺、梓というように割り当たることにいつの間にやら決まっていた。
高槻の背後、即ち梓の前方にはもうひとつの出入り口があり、そこからは台所に通じている。
そちらをちらちらと目の端で捕らえての水城の言葉。その笑みは絶やさぬながらも、躊躇いが見る人が見れば浮かんでいる。
……と。
「安心して頂戴。姉さんの作ったものにはさほど手を触れていないから」
特に感慨も無い様子で、梓は猪口を口元から放して告げる。
「あ、そうですか……
……さほど? 」
「そんなに怯えなくても大丈夫。鍋食べたかったからガス台の上のフライパンを動かした位よ。
後、冷蔵庫の中も野菜室くらいしかいじってないから。
姉さんが作ってた豆腐をひっくり返したりしてはいないから安心なさいな」
妹の応えに、ほ、と一息ついて、水城はそこではっと気づいたように申し訳無さそうな顔をする。
「あ……お茶を出すべきでしたよね。今もって来ますから、少しだけ待っててくださいね?」
と、掘り炬燵から抜け出て、小走りで台所に向かっていった。
「四条の豆腐か…… 久しぶりだね、楽しみだよ」
どこを見るでもなく水城を眺めていた高槻がぽつりと漏らす。
小声で放たれてはいたものの、静かに雪降る過疎地の武家屋敷には雑音も殆ど無く、淵辺が興味ありそうに聞き返した。
「へえ…… 水城ってんなもんも作れんのか。そういったもんはどっかの店屋にでも行かなきゃ作れないと思っていたんだけどな」
彼の質問は高槻に向けられたもの。しかし、その返答は彼の対面から告げられた。
「……家は一応大正から続く和菓子屋で、姉さんはその後継者だからね。
豆腐の和菓子もあるし、そもそも修行の一環として日本料理は一通り覚えこまされたのよ、あの人。
姉さんが料理屋開けるくらいの腕持ってるのは貴方たちもよく知っていると思うけど」
と、告げるは梓。
それを聞き、高槻はさも当然とばかりに別に何も動きを見せず、淵辺は見直したとばかりに親指を上げ、雛坂は羨ましそうに台所の方向を横目で見たのち、はあ、と溜息をつく。
三者三様の反応を傍観者の目で眺め、徳利から猪口に酒を注ぎながら梓は一言。
「……ま、少なくとも料理に関しては、あの人のもの食べ慣れてるなら私のは食べるに値しない程度のものよ」
皮肉気に告げられた言葉は、しかし台所の水城にも届いていたようだ。語気を強めてから、最後には気弱ささえ漂うように語調を変遷させつつ彼女は言う。
「そ、そんなことは無いですよ梓。あなただって十分過ぎるほどなのに、そこまで卑下することはないです……」
どことなく後ろめたい響きを感じさせる水城の言葉。
それは、雛坂と淵辺の二人には気まずい心象を与える事となった。
さすがにそういった当てつけじみた台詞が当人に聞こえていたとなっては、この場の雰囲気が愉快ではないものになりかねないものだ。
が。
二人が見れば、彼女たちに自分たちより近しいはずの高槻は平然と、眉一つ動かさずにただ窓の外の雪降る枯山水を眺めているのみ。
雪はしんしんと、はや暗く見通せない闇の中で玉砂利の上を真白く染めている。
なぜか、と淵辺らが思うよりも早く梓は、くく、と口元だけで笑い、
「……冗談よ。もう少し堂々と構えていなさいな、姉さん。
この程度の揺さ振りで動じていたら苦労するわよ。色々なところで、ね」
この一角は開かれた暖簾が垂れ下がっているだけで戸がついておらず、台所と居間が素通しとなっている構造だ。
暖簾の下から足下しか見えないが、それでも水城が一瞬足を止め、それからせわしなく言ったりきたりを繰り返しているのが雛坂の目に届く。
響くのは、上ずった声での水城の声。
「あ、あの梓? 鍋の仕上げをした方がいいようですけど……」
気づいているのか、いないのか。高槻は以前体勢を変えず、ただの一言も発さず視線は窓の外へ。
やり取りに興味なさげな様子さえ見せている。
その心情を見通すのは、雛坂にとっては彼の見ている宵闇の先と同じ程度にすらも不可能だった。
「そ。……じゃ、そろそろ手を加えないと。
私も少しばかり失礼するわ。
……一応聞いておくけど、貴方達も食べる? 多めに作ったから遠慮は必要ないけど」
穏やかな微笑とともに発された梓の一言。
相も変わらず口元のみの表情だが、その笑みには先ほどの皮肉気なそれは残っていない。
雛坂は思う。
――なんだ、これは水城達にとっては慣れっこなワケね、と。
心配する必要はなかったわけである。
とはいえ、彼女が思うことはもう一つ。
……やっぱり私ゃこの娘は苦手だわね。
内心そう呟いたとたん、一緒に気まずそうな顔をしていた傍らの淵辺が嬉しそうに膝をぽん、と叩いて曰く。
「よっしゃ! 色々店屋物頼んじまったが、手料理となりゃ話は別だ!
水城妹の料理かー。おい薪、味のほうはどうなんだ?」
急に嬉々としだした淵辺。釈然としないものを感じ、
「……」
「づっ!!」
何かを言おうとした高槻を捨ておき、雛坂は肘打ちを淵辺に叩き込んでおく。
梓は別段何も気にせず台所にいつの間にか入って行っていた。
……と。皆が馬鹿をしているさなか。
「お茶を持って来ましたけど……」
控えめだが、聴く人を落ち着かせる印象を持つ水城のアルトが高槻の背後から発される。
炬燵から高槻が見上げてみれば、どうしたものかと少しばかり眉尻を下げた水城の微笑。
高槻の挙動に気づいた彼女は、丁度良かったとばかりにくすりと笑んで盆の上から各々へと飲み物を置いていく。
「ええと……神子さんにはアップルティー、淵辺さんには無糖のホットココアで良かったでしょうか?」
「あらら、気ィ使わせたみたいで悪いわね」
「おう、ありがとな」
「それと……私の葛湯と。
薪はいつも通りダッチコーヒーにしましたけど……」
遠慮がちな言葉で、しかし各々の好みを完全に把握した飲料を水城は提供してゆく。
彼女と同じような微かな笑みとともに高槻は差し出された湯気の立つカップを受け取り、手でそれを包み込む事でわずかでも暖を得ようとする。
「OK、問題ないよ。有難う、四条」
「いえ、これくらいしか私には出来ませんからね」
にこり、と口元だけの微笑に加えて一瞬目を細め、水城はゆっくりと掘り炬燵の中へ身を滑らせ入れる。
ふ、と軽く息を吐き出し、炬燵の中に入れられない肩をさすっている水城に、雛坂が質問を発した。
「ね、ミズキチ。ちょっと聞いていい?」
「え? あの……何を、でしょうか?」
何を聞かれるのだろうかと、きょとんとした水城に問われたのは。
「ねえミズキチ。ダッチコーヒーって何? オランダ産のコーヒーの事? あんな緯度高いとこじゃ採れそうも無いけど」
先の会話と共に高槻に渡した飲み物の事。
他愛の無い質問に、水城は見下したような態度をかけらも見せずに葛湯をすすり、飲み下してから穏やかに答える。
「水出しコーヒーの事ですよ」
「水……出汁?」
眉根に皺を作りクエスチョンマークを複数個額の回りに浮かべそうな表情をした雛坂に、当のダッチコーヒーとやらに口も付けずに香りを食んでいた高槻が横から回答する。
「文字通り、お湯を使わずに水で抽出したコーヒーの事だよ。
余計な熱を加えない分、変に苦かったりえぐかったりしなくて本来の味を堪能できるんだ……ってどこかで読んだ本の受け売りだけどね」
「どちらかといえば、ブラックの好きな人向けですね。
ミルクや砂糖を入れたりするなら、普通の入れ方でも問題ないのですけど……」
高槻の補足に、息のあったタイミングで水城は更に補足を返す。
「水で、ねえ……。そんなんで本当に味が出るの?」
「うーん……。やはりちょっとばかり時間はかかってしまいますね」
「どんくらい?」
「五時間くらい……でしょうか」
「五時間……」
予想以上にかかる時間に、雛坂は絶句。
「ホットで飲む場合、湯煎をするんですよ。
色々淹れる時間とかも考慮しないといけないので、なかなか奥が深いですよねー……」
あはは、と頼りない笑み。しかし、その表情とは裏腹に、話の内容そのものへの態度には日ごろ慣れ親しんだ物事に特有の安心感が見え隠れしている。
そんな水城に、雛坂はふと気づいたものがあった。
込み上げる笑みを押し込め、しめたとばかりにそれを指摘。
「……ってことはさー、ミズキチ、今日タキがくるって予定聞いたらすぐに作り始めたってワケ?」
「……え? ええ、そうですけど……」
にやりと頬を上向きに引っ張り上げる雛坂。
彼女の意図に感づき、面白そうだと便乗した淵辺が畳み掛けるように言葉を告ぐ。
「お熱い事だねぇ…… 愛しの誰かさんのためには時間なんか障害にならないってか!」
連携は良好。
彼らの予定では、顔を真っ赤にした水城がどうにか取り繕おうと慌てるはずだった。
しかし。
「作業そのものはさほど難しくはありませんから。それに、皆さんの飲み物それぞれにもそれなりに良いものを選んでいるんですよ?」
水城は全く表情を変えず、落ち着いた笑みのままである。
くすり、と手を口元に当て、
「興味を持ったのなら、お二人にも差し上げますけど…… どうします?」
平然と切り返す。
実の所、こうした反応が普段の帰結である。ゲームセンターのときのような反応が珍しいのだ。
そうそう水城とて、みっともない失敗は繰り返さない。そもそも本当に不意でなければ、彼女はいつも冷静と言えるくらいに落ち着いた人間なのである。
突然に苦手なところにでも連れて行かれる事や、彼女以上にマイペースな身内によって、自分のペースを崩されでもしない限りは、だが。
仮にも生徒会長の肩書きを担うだけの度量はあるのである。
とはいえ、時折起こる彼女の慌てっぷりは、失敗時のやるせなさを補って彼らには十二分に面白いのでもあるが。
ち、とつまらなそうに明後日の方向を向いた後、雛坂は遠慮がちに言う。
「んにゃ、遠慮しとくわ。そろそろ梓ちーの鍋出来そうな気配だし」
すると、その途端。
「あら、良く分かったわね。
……兄さんか姉さん、手伝ってもらえる?」
凛とした梓の声が届く。
応じて立ち上がりかけた水城を、休んでいなよと片手で制し、高槻が炬燵から音もなく抜け出た。
そのまま後ろも見ず、後ずさりながら体の向きを変える。
と。
丁度暖簾を掻き分けようと伸ばした手が、何か弾力あるものに当たった。
「……?」
何事か、と思い高槻は眉をひそめ――気づく。
彼の手の当たった場所――それは、梓の胸元だった。
鍋掴みをつけた両手で鍋を抱えている為に、無防備となった梓のその部位に、故意ではないとはいえ高槻は思い切り手を押し当ててしまったのである。
そのことを目の当たりにして、水城は笑みを消し、絶句。
ぴしり、と体を硬直させ、どうしたらいいのか分からずに赤面しながら意味もなく視線をさまよわせる。
意味も分からずとにかく助けを求めようとして目に留まった存在――即ち雛坂と淵辺の二人は、しかし意地の悪そうな笑みを浮かべているのみ。
彼女がどうしたものかと途方にくれる、この瞬間まで僅かに1秒強。
しかし、水城にとって長く感じたこの時間は、結局当事者たちの台詞によって終わりを告げた。
「おっと……失礼、梓」
「別に構わないわよ。謝るほどの事でもないでしょう?」
高槻と梓。
そのどちらもが、別に何でもないかのように……いや、実際当人たちにとっては気にする事の程でもない事として、顔色一つ変えずに揉め事未満の茶番を締めた。
ふ、と一息つき、梓が炬燵の真中に置いた新聞紙の上に、ふたの隙間から茶色がかった白い泡を漏れさせている鍋を下ろし、高槻に首だけで向き直る。
「じゃあ、兄さんは小皿を持ってきて頂戴。ついでに……、そうね、ガス台の横にある熱燗も出来れば頼みたいところなんだけれど」
了解、と台所に向かった高槻を横目に梓が向き直ってみれば、水城が戸惑い半分呆れ半分の目でじい、と見つめているところだった。
「……別にあの人は私をどうこうする意思も理由もないわよ。
今更姉さんが考えても詮無いでしょ」
何の感慨も込められていない、他人事のような口調。
飛躍してまともに考えられない状態を一気に覚まさせるその態度に、水城ははっとして自分を取り戻す。
すう、はあ、と二回、深呼吸を繰り返し、言う。
「……あのですね、梓。仮にもあなたは年頃の女の子なのですから、もっと恥じらいを持ってください……
相手が薪だとしても、もし何か間違いがあったら……」
「別に私にも十人並みの羞恥心はあるわよ、流石にね。後半については、今しがた言った事がそのまま答え。
そもそも、私のことを知ってる人は私をどうにかしようなどと思わないでしょうし」
一蹴。
額に指を当てながらの、自身の感情を言葉の裏に隠したささやかな抗議はしかし、二人の関係の当事者でないが故の客観視点からの淡々とした口調に遮られる。
「……」
渋い顔をして、溜めた息を強く強く吐き出す水城の傍ら。
野次馬根性丸出しで推移と始終をその眼に収めた二つの影。
そのうちの背の高い一方が、不意にぷるぷると手を振るわせだした。
「……? セーギ?」
雛坂は様子の変わった相方を、どうしたものかと顕微鏡内の観察対象にするが如く注視。
一瞬のち。
「……た」
「た?」
「た・き・ぎぃぃぃ! テメエばっかりんなおいしいとこ持って行きやがって!!
おおお俺もご相伴にぃぃっ!」
何の脈絡もなく。
いきなり自身の欲望を露にし、炬燵を抜け出て梓に走り向かう。
呆気に取られ、何も出来ぬ雛坂。
未だ注意を梓に向け、何も気づかぬ水城。
台所にいるために、何の音沙汰も分からぬ高槻。
それらを尻目に淵辺の向かう先、梓はしかし、悠然と。
その体に手が届こうと伸ばした、その瞬間――――
ぐるり、と。
淵辺の世界が回った。
雛坂は見る。
淵辺の伸ばした右手を、梓は左手のスナップのみで肩口まで跳ね上げながら体の軸をずらし、左前に向き直る。
そのまま左手首を返し、下腕を。
被せる様に右手で上腕を掴み……、そのまま腰を沈める。
左手を支柱に右手で弧を描けば、どうなるかは明々白々だ。
放物線軌道すら乗らず、先程までの進行方向からやや斜めに、肉塊が飛ぶ。
そして。
「ぐっ……、ほっ……!!」
追加の一撃。
肉塊が上を向いたところで、その水月に右拳がめり込んだ。
わずかな間に体勢を変え、梓は無理矢理に、飛行のベクトルを力ずくで変える。
上から叩き落された鉄槌に従い、肉塊は重力方向に押しつぶされた。
「……危なかったわね」
「……え?」
梓の洩らした一言で、ようやっと自分を取り戻す雛坂。
辺りを見回し、状況を再確認する。
目の前には、莫迦が莫迦をした結果転がる、微動を繰り返す肉塊が一つ。
やや離れたところに、つい今しがた彼女の見惚れていた凛々しい立ち姿。
斜め横を見れば、どうしたものかと困惑を隠さない黒い長髪のハの字眉の雅な影。
そして、いつの間にやら戻ってきて淡々と卓に取り皿を並べるロイド眼鏡。
誰も何も事態解決に繋がるような行動を期待できない面子ばかり。
いや、肉塊以外の三者だけなら放って置いても誰も問題とすらみなさず次のことを進めるのだろうが、生憎雛坂自身はそこまで達観している訳ではない。
なので、とりあえず一歩を踏み出すことにする。
「……ね、梓ちー。なんでこのアホを叩きのめした君が『危なかったわね』なの?
フツーは君が言われる立場だと思うんだけど」
よく意味を取る事のできなかった一言を疑問と化して、無遠慮かつ無頓着な裁定者に訊いてみる。
と、梓は目を閉じ、無言で脇を指差した。
「鍋がどしたの?」
そこにあったのは、ぐつぐつと煮えたぎる鍋。
ふ、と一息ついた梓は告げる。
「叩きのめすつもりはなかったんだけどね、投げるだけの筈だったんだけど……
あのまま軌道を変更させなければ、まず間違いなく頭からそこに突っ込んでいたわよ、先輩」
「あー……」
つまり、止めの一撃は頭から鍋に突っ込まないよう、配慮を利かせていたということだ。
あの一瞬の内にそんな事を慮ってくれるとは。雛坂は素直に感謝する。
「こいつに代わって礼言っておくわ、あんがとね」
「それほどでも。別に大した事でもないしね」
く、と不敵な笑みを浮かべる梓に、雛坂は親指を立てて応答。
「なに礼なんか言ってんだよ! くぉ……腹が痛ぇ……」
足下から聞こえる苦悶。
それに気づき、表情を無くす雛坂。
が、すぐに極上の笑みを浮かべて口にしたのは、労わりの言葉。
「おー、よしよし。痛かったのね。
じゃあ、お姉さんがいたいのいたいのとんでけー、してあげるから素直についてきてねー」
慈愛に満ち満ちた言葉とは裏腹に、むんずと青筋の浮いた掌でもって淵辺の襟首を掴み、立ち上がる。
さ、と淵辺の顔が、痛みの赤から恐怖の青へと染まる。
「い……いや、なんだミコ? 今のはものの弾みってやつで……」
「だいじょぶでちゅからね〜。何の心配もいらないでちゅよ〜」
既に全身を音叉の様に震わせる淵辺の長身を、その重さを全く感じさせない足取りで廊下に引きずってゆく。
扉の手前で、一言。
「悪いんだけどさ、五分位待っててくれる? ミズキチ」
邪気のない、道化師の笑みで一瞬振り返り、開け放った扉に沈んでぴしゃりと閉める。
後に残された三人は、どこかで鶏が暴れるような音をBGMに、沈黙。
水城は苦笑いに、高槻と梓は無感動に。
水城が一言。
「……ご飯も炊けてますから、持って来ましょうか?」
「……手伝うよ」
二人が台所に入り、一人で梓は猪口を嗜む。
杯をあおり、皮肉気に口端を歪めて曰く。
「茶番よね…… 全く」
宴は続く。騒々しく、しかし静寂の中で。
「めんごめんごー、んじゃ、迷惑かけたけど早速はじめましょか!」
黒の下に雪の降り積もる、何一つ外の音が聞こえない屋敷に場違いに明るい声が響く。
出て行ったときと同様に、首根っこを掴んで淵辺を引きずってきた雛坂は、部屋の隅に青白い顔をしたそれを捨ておくと、どっかと炬燵に入り込んだ。
高槻は水城と顔を合わせ、はあ、と肩を落とし、水城は水城で苦笑いを返す。
何食わぬ顔で酒を口にしていた当事者の一人、梓は、ここに来てようやく鍋の蓋に手をかけられる状況になったことで、改めて自嘲を浮かべる。
「……ま、大したものでもないけどね」
ぱかり、と相当熱くなっているであろう蓋を素手で持ち上げた先に煮えたぎっていたのは、
「きりたんぽ?」
「一応ね」
雛坂の確認に、自嘲を引っ込めた中庸な笑みで梓は返す。
きりたんぽ。
正確にはきりたんぽ鍋。
秋田県の郷土料理であり、きりたんぽそのものは半ば餅状になるまで潰した米を竹串に巻きつけたものを指す。
今彼らの目の前に有るのは、日本三大鶏として有名な比内鶏の出汁をベースにしょっつるという魚醤で味付けを施した鍋にそのきりたんぽを入れたものである。
作る際のコツとしては、野菜や鶏肉をある程度煮込んだ後にきりたんぽを入れることで、ざっくりとした感触を残したまま食べられる様にすることがあり、これこそ梓の行った“仕上げ”の正体である。
が、煮崩れするくらいに柔らかくなったきりたんぽを愛好する人も多く、好みによって左右されるといえよう。
閑話休題。
各々が取り皿を手に具を入れていく。
そんな和気藹々とした中、素っ頓狂な呟きがひとつ。
「……何コレ?」
雛坂が菜箸で鍋から引っ張り出したのは、肌色のゴムチューブのような代物。
「何と言われても。……ただのモツだけど、それがどうかしたの?」
「え? うわ、気持ち悪っ!!」
ゴムチューブの正体を聞いたとたん、妙な動きで飛び跳ねるように手がぶれ、モツが鍋の中にポチャリと落ち込んだ。
「……あの、もしかして神子さんはこういったものが嫌いなんですか?」
不思議そうに聞いた水城は、鍋から自分と高槻の分を取り分けている。
と、つい今しがた雛坂の落としたモツを、勿体無いですね、と言いながら自分の器へ。
うえ、と洩らしながら、雛坂は、
「いや……食えるの? そんなもん。ゲテモノじゃないの?」
言って、しまったと料理にけちをつけた事に冷や汗を流す。
……当然ながら、梓は全く気にせずに碗を口に運んで汁をすすっている。
代わりの返答は別の場所から飛んで来た。
「結構美味しいよ。少なくとも、僕は下手な牛肉より好きだね」
水城から器を受け取ろうと手を伸ばす高槻だが、直前で、あ、という水城の声に手を止める。
「キンカンがありましたよ、薪。入れておきますね?」
にこりと笑い、黄色い塊をいくつか高槻の器に入れて手渡し。
「有難う。四条は四条で自分の分確保しておきなよ」
穏やかな微笑をたたえながら高槻もそれを受け取るのを見届けて、四条はお玉の上に残ったキンカンを自分の器に入れる。
どちらともなく手元の器の中身を食べ始めた二人は美味そうにモツを頬張っており、雛坂が意識したのは疎外感。
物寂しさを吹き飛ばすため、敢えて無理して鍋の中をかき回し、モツを探し出す。
「……じゃ、じゃあ、私も挑戦してみよっかな。なんちゃって……」
空元気でとりあえず出した言葉に、目の前では三者三様の反応。
「……あの、無理はしなくて良いですよ? 食事は美味しく食べたほうが良いですし」
「とりあえず、食わず嫌いならまず一切れだけ食べてみても良いかもしれないけど……。四条の言うとおり無理する必要ないよ」
「貴方が食べなくても誰かが食べるわよ。それに、貴方が食べないなら単純に私達の分が増えるのだし」
彼女を慮る二つの台詞と身も蓋もない最後の台詞を聞き流し、雛坂はモツを口に運び――咥える。
「……ッ!!」
「み、神子さん!?」
息を詰めた彼女に、水城が心配そうな瞳を向けた、その瞬間。
「……美味いわね、コレ」
ごっ……と、水城は思い切り炬燵に頭をぶつけた。
「それにしても、さっきの投げは見事だったわね、梓ちー。私もなんか武道やってみようかな」
鍋をつつきながらの雛坂の賞賛。
しかし、応答はあくまでも無感動に。
「別に武道なんてものではないわよ、私のは。
……私のは、ただの暴力。そんなことを言ったら本当の武道家には失礼千万に当たるわよ?
例えば私の曽祖父さんみたいなね」
自嘲する梓。しかし、その表情にはなんら陰湿なものは見当たらなく、軽い冗句の様な物だろう。
不意に出てきた曽祖父という代名詞に、水城は昔を思い出す。
いつの頃からかは分からないが、梓は気がついたら曽祖父からそういった武術……梓から言わせれば喧嘩の方法を習っていた。
曽祖父は剣術と日本拳法、合気道の心得があり、それ故にそれらを学んだ梓はお世辞抜きに強いといえる。
更にはそれだけに飽き足らず、様々な格闘術や獲物の扱い方を齧ったらしいが、今のところそれを見た機会は水城にはあまりない。
数少ないその片鱗を垣間見る事ができたのは2年前、コンビニに入った強盗3人組を、当時中学1年生だった梓は苦もなく鎮圧してみせたことがあった。
水城の記憶からは、高槻の後ろにすがり付きながらそっと前を覗いた際、さも何でもないとばかりに奪い取った包丁を無造作に投げ捨てる梓と這いつくばる惨めな3人組が未だに消え去ってくれない。
一応、護身程度に水城も合気道を覚えさせられはしたが、梓には到底敵いそうもないと思っているし、実際に足下にも及ばないだろう。
「はあ……」
「どうしたの? 四条」
「いえ……何でもないですよ、ええ」
まさか妹の将来が不安だとはいえない。例え彼女の兄の様な立ち位置の高槻にも。
何でもないかのようにまぶたを伏せ、いつも通りの笑みを浮かべる水城。
既に落ち着き払った様子でいる彼女を高槻は見つめると、はあ、と一仕事を終える直前の表情で告げる。
「……まあ、どうにもならないことはあるからさ」
水城は一瞬きょとん、と動きを止め、苦笑いをして高槻と顔を見合わせた。
「そう言えば四条、家の手伝いは?」
高槻がそう問うたのは、はや八時も過ぎた頃合。
既に鍋も食べつくし、雛坂らが頼んだデリバリーや水城の料理を前に飲んだり食べたり、本を読んだりゲームをしたりと思い思いに過ごしている時間の事だった。
「いや、今更なんだけどさ、年末だしね。何だかんだと入り用があるんじゃないのかな」
質問の対象となった水城は、左頬にトマトソースの付いているのに気づかずにピザを頬張っている。
よくよく口を動かし、ごくりと飲み込んでから口の周りをティッシュでぬぐうが、頬に付いた赤い塊には届いていない。
「ああ、それは一応大丈夫ですよ。跡継ぎ扱いされているとはいえ、私はまだまだ未熟ですからね。
午前中には多少の手伝いもありましたけど、それも今日店に出す分だけですし。
お得意様への品は未だにお父さんが任せてくれないんですよ。ああいう性格ですからね……」
くすり、と微笑む水城に、そうなんだと頷きながら、高槻は右手にティッシュを持って水城の顔へそれを近づける。
「四条、ソース付いてる」
「え?」
問い返すと同時、高槻が頬にティッシュを擦り付けた。
拭い終え、ティッシュに付いた赤い染みと水城の頬を見比べるとうん、と頷いて口元を緩める。
「オーケー、取れたよ」
そう言われた直後。
水城は顔を赤く染めて俯いた。長い髪が垂れ下がり、表情を隠す。
高槻はといえば、仕事は終わったとばかりに既に食事に戻っていた。
気づいているのか、いないのか。
水城のほうには眼もくれず、彼女の反対側でビールを一気飲みしている淵辺と、気づかれないようにその脇の下に伸ばした手を妙な動きで近づけている雛坂という、既に出来上がった二人組みをテレビでも見るかのように眺めている。
ほっと一息つくと、水城は目の前にあったグラスに手を伸ばして一息にあおり――
「あ、姉さん、それ……」
飲み干した。
と、その途端。
「……え?」
くるり。
目の前が歪む。
同時、先程までとは比較にならないほどの血液が顔に上がってきた事を自覚。
平衡感覚を失い、座布団の上に背を伸ばして座っていたはずなのに、なぜか炬燵にうつ伏せになっている。
「……間に合わなかったか」
遠い近くから聞きなれた他人の声が聞こえる。
「梓。もしかして四条……」
「……よりにもよって、泡盛なんか注いでおくんじゃなかったわね。
初めて飲む酒が40度越えてればこうなるってことか……」
ぐい、と腰の辺りを掴まれた様な気がした。
しかし、もはや触感すらよく分からない。
「あれぇ、そら、とんでますねえ。……のわりにはおもうよーにうごきませんよー?」
目の前がぐらぐらと動き、視界に自分の足と、視界を塞ぐ自身の髪が入ってくる。
どうやら腰元を掴んで抱きかかえられているようだが、それすら判断できる状況にない。
何となくどことなく体が楽になって行き……考える事すらどうでも良くなった。
「……寝かせてくるわ。悪いけど、御二方は適当にくつろいでいて頂戴」
「あいよー……」
「おー、分かったぜ……」
片手で姉を脇に抱きかかえた梓が見てみるまでもなく、雛坂と淵辺の二人は役に立ちそうにもない。頼りになりはしないだろう。
そしてそれ以前に、この二人より四条家に近しい立場にいる人物もいる。
彼女が言伝を頼むのは、
「……兄さん」
「……はあ。分かってるよ。何をすれば良いかな?」
今日何度目になるか分からない溜息をつき、丸眼鏡の少年は立ち上がる。
本来ならば片付けやら何やら、水城がすべきであったであろう事をする為に。
根っからの苦労人を一瞥すると、凛々しさを湛える少女はまずは問う。
「兄さん家は? 今日遅くなっても……下手したら泊まっていっても大丈夫?」
「一応それは心配ないと思うけどね。
母さん一人にさせてしまうけど、たしかあの人もどっかの忘年会行くって言っていたし」
問題ないことへの確認を取り、梓は頷いて指示を重ねる。
「……了解。じゃ、まず店のほうに行って姉さんが潰れた事を伝えて頂戴。そして――――」
風を斬る音が聞こえる。
次いで、高槻の耳に入ったのは、とん、と言う小さく、しかし響く音。
しばし沈黙、そして僅かな街の音。
再度、風斬音。
とん、と何かを通し抜く音が届き、半ば現より乖離していた高槻の意識は覚醒に向かう。
冬の寒さは例外なく体を浸し、故に布団から出ようとしない体をどうにかして引きずり出して、張ったままどうにか片方だけ障子を開ける。
途端、薄暗い畳部屋に眩いばかりの白光が差し込む。
しぱしぱと目を瞬かせながら、どこに置いたか、どうやって見つけたのかもうろ覚えなまま眼鏡を目の前に持ってきた頃になり、ようやく頭がはっきりとしてきた。
ここは四条家の客間。
畳張りの八畳程度の部屋であり、そこの真中にひかれた羽毛布団から這い出してきた高槻は、障子を開けた瞬間、一面の雪に照り返された朝日に目を刺されていたのだ。
何とはなしに空を見上げてみれば、遥か遠く、どこまでもが蒼の一色。
寝ている間に止んだのであろう雪は、視界に入るだけで痛いほどの光を反射している。
だから、視界を下ろす気になれない高槻は、しばしそのまま空を眺める。
吸い込まれそうだ、と言う思考がとめどなく脳内を駆け巡る中、彼を朝の世界に呼び込んだ原因となる音――風を斬るそれが、ひゅう、と届く。
意識をそちらに向ければ、視界の外れには彼の良く見知った立ち姿。
外は寒い。
今の格好、即ちどてらに作務衣だけではまず体が冷えるだろう。
高槻は手早く寝巻き代わりを脱ぎ捨て、部屋の隅に置いておいた普段着――カーキ色の綿パンにワイシャツ、紫紺のベストの上に、青いフライトジャケットを羽織る。
勿論厚手の靴下も忘れない。
「――――よし、と」
誰にともなく呟くと、障子を抜け、縁側でサンダルを引っ掛ける。
とんとん、と足先を軽く地面に打ちつけ、新雪に一歩一歩、跡をつけながら視界に写る長い髪の少女の下へと歩んでいった。
射法八節、貫き通すは近的二十八米。
足踏み、胴造り、弓構え。
静寂の内に、時計りの歯車が如くゆらりとしっかりと、己が姿形を確定する。
その花は凛々しく、雪に埋め尽くされる早朝の庭園においてもなお冷気を周囲に纏う。
彼女の羽織るは飾り気の無い作務衣一枚、地下足袋一足。
明らかに防寒の意図の無い服に包まれながらも、その表情は常の通り。
音も無く彼女は七尺三寸のグラスファイバー、雪の反射光に黒く鈍く輝く弓を打ち起こす。
流れるが如く、ぎ、と弦を鳴らしながら、引分けに繋ぎ、会。
射る直前のまさにその姿勢のまま、動きを止める。
実に十九kgの弓力を事も無げにそこまで持っていくも、汗一つ、震え一つとして彼女の均整を崩すものは無い。
静寂。
風が、普通に過ごしていれば気づかないほどに、しかし、確固として吹き抜ける。
蒼く白く、まるで一枚の写真の様な絵姿がそこには存在していた。
均衡は、不意によって破られた。
そよ風が止む、その瞬間。
庭園に立っていた一本の針葉樹が、心細い風の支えを失った事により上に積もらせていた雪塊を止め置けず、下に落とす。
どさりというその音より僅か前――、即ち風の止まるその前後。
弦との間に矢を挟みこんだ右人差し指を、弾く様に。
的を半月に割る弓を握り込んだ左手を、捻る様に。
――――離れ。射る。
最早束縛を失った矢は、躊躇い無く心中を射抜く。
と、の一音。
土塀の前の盛土に括り付けた黒と白の二重円は、その真芯から2cmも離れていない部位に通算12本目の串刺し傷を作り出していた。
残心。
揺れる弦に同調するかのごとく再度吹き出した風は強く、腰まで伸びた彼女の黒髪をなびかせる。
「……」
目を閉じて、軽く鼻息のみで白いもやを彼女は作り出し、しかしそれ以上の動作を起こさない。
何の気なしに今しがた雪の崩れ落ちた松の方を見やり、そのまま矢筒に手を伸ばす。
――と。
ぱち、ぱち、ぱちと、囲炉裏で栗の爆ぜるに似た音。
その発生源である母屋の方向を彼女――四条 梓が見据えてみれば。
「――――あら、兄さん」
時代はずれなロイド眼鏡にフライトジャケット。
生真面目にも真中から分けた黒髪に童顔の少年、高槻 薪がそこにいた。
「ナイスショット……は違うか。とりあえずはお見事ってところかな。おはよう、梓」
穏やかな笑みを僅かに浮かべ、一歩二歩と高槻が近寄ってくる。
「こんなものを見事なんて行ったら本当に上手い人に失礼よ。私のは弓道とはとても呼べないしね」
く、と自嘲を浮かべ、梓は視線はそのままに体を動かし向き直す。
はあ、と息をついて呆れ顔の高槻。
「……僕が見る限り、十分すぎるほど君の技術は高いと思うよ。もったいないな」
「……技術ではなくて精神面なのよね、問題は。
私の場合は自分を鍛えるなんて崇高な目的でこういう事に手を出してるわけではないし、だからこそこんな事を武道と呼んで欲しくないってだけ」
自嘲を当たり障りのない笑みに変え、梓は告げた。
その言葉の真意を問うつもりがないのか、はたまたそれを知っているのか。
高槻は頓着せずに話題を変える。
「四条や雛坂たちは?」
「あの御二方なら今朝早くに雛坂女史が動かない淵辺氏を担いで出て行ったところ。ちなみに原因は二日酔い。
姉さんもさっきまで二日酔いで頭が痛いとか言っていたわね。
……我が姉ながら貧弱なものだわ。
ま、今日は元旦だしもう厨房でおせちでも作っているはずだけど。
……っと」
軽く頭を小突きながらそこまで言って、梓は何かに気づいたように――いや、まさしく気付いた為に言葉を切る。
「言い忘れてたわね。――2001年、あけましておめでとう、兄さん」
「うん、あけましておめでとう、梓」
返す挨拶とともに、高槻は梓をじっと見つめる。
「……どうしたの、兄さん」
「いや……」
一瞬脇をちらりと見て口篭るも、高槻の視線の先には雪にまみれた石灯籠しかない。
はあ、と呆れとも感嘆ともつかない息を出して、曰く。
「……何で君はあれほど飲んでいたのに二日酔いになっていないのかなってね。
……10本は開けていたよね」
「体質と慣れでしょうね」
身も蓋もない言動で梓は対応。
「……いや、それはそうだろうけどさ」
頭をかいて視線をそらす高槻に、梓は一言。
「……何にせよ、あまり私や他の人をじろじろと見るのはやめておいたほうが良いわよ。
後々恨みを買いたくないし。
まあ、あの人の場合は自分を責める方向のほうが大きいでしょうけど」
と、実にぞんざいに投げかけられる独り言じみたその言葉。
「……? どういう意味?」
その受取人たる高槻の台詞は、それに相応しく鈍感人間の典型例で返された。
雛坂ならここで呆れるだろう。
淵辺ならにやにやと野次馬じみた笑みを浮かべるだろう。
水城ならほっと胸をなでおろすのを隠し、いつもの通りに穏やかな微笑とともに話題を変えるだろう。
しかし、目の前の彼女の妹――梓は。
「……そ。ま、それなら別にいいけどね」
たった一言そう告げて、そのまま視線を高槻の後ろにそらす。
その表情は何の感慨も浮かんでいないが、真顔というにも程遠く、諦観の様子を含んでいた。
――と、高槻の後ろから彼を呼ぶ声が聞こえてくる。
見れば母屋の縁側にて、水城が柱に片手を着いて高槻の名前を繰り返している。
ご飯の前に初詣に行きませんか、と、そういう趣旨の問いかけに、高槻は口だけで笑いをこぼして軽く頷く。
「あったかい甘酒でも貰ってこようか?」
そう聞いてきた高槻は、自分の服を指差して梓を見る。
彼女の服装はほぼ1枚しか着ていないのと同じだ。体も冷えているだろうとの高槻の気遣いである。
素直に頷いてもいいが、それでは面白くない。何事にも余裕は必須である。
く、と不敵な笑みを浮かべ、梓は体と視線を高槻から的のほうに向ける。
「……そうね。じゃあ、いっその事冷え過ぎるほど冷えたフローズン・ダイキリを貰ってきて頂戴。
勿論砂糖抜きでね」
後姿で彼女が頼んだのは、運動後は有難いあるカクテル。かの文豪の愛した飲料はしかし、神社などにあるはずもない。
ジョークは冗句として、最早顔を見せない彼女を振り向きもせず、水城のほうへと歩を進めながら高槻は相応の余裕で返す。
「……了解、あったら真っ先に持って来ることにするよ。ライムも抜いて、冷たいラム酒の代わりに温かい甘酒でもいいかな」
後ろからは含み笑いが聞こえ、僅かにそれが止まった後に、送る言葉が投げかけられる。
「……ええ、勿論。じゃ、二人で行ってらっしゃい」
そのまま振り返りもせず高槻は水城の下へ向かい――しかし、一瞬立ち止まる。
それは、言い忘れていた事を告げるため。
「あ、そうそう、梓」
気まずそうな今更の事というニュアンスではあるが、告げられた事は新しい年に相応しい祝辞だった。
「うちの学校、推薦合格おめでとう」
風斬音が庭園に響く。
が、それは先程までとはまた違う種類――鋭い音と、的に突き刺さる音の2つの組み合わせではなく、力強い単音である。
とはいえ、音の主は代わらない。
梓が竹刀を振るっている。得物を弓から竹刀に取り替えただけだ。
幾度も幾度も、上段という特殊な型から振り下ろされるそれは、毎回同じ道程を辿って止まる。
地面から僅かに上。大地に叩き付けないぎりぎりの位置に、時計の正確さで振り子のように竹刀を振るう。
一度。
二度。
三度。
不意に梓は動きを止め、家の門のほうを――――数分前に彼女の姉と兄がくぐった方向を見やり、一言。
「――――いつまで続けるつもりかしらね」