幾層もの雲。それはまさしく羊毛の編み物のごとく、遠く、遠く彼方まで町をを包み込む。  
――文字通り、目に付くものが凍りつく寒さの日。  
曇天から滴るものといえばただひとつ。  
深々と、深々と。搾りたての牛乳よりなお白く、町は次第に宵闇へと沈みゆく。  
赤々と燃えることすら許されずに陽光はもはや地平に沈み、深緑色の電柱の先についた白熱光のみが処女雪に抱かれた広い空間を照らし出す。  
雪は光を反射する。だから、うすぼんやりと浮かび上がるのは、しろがね色の冬の学び舎。  
校庭は大きなレフ板となって、古びた校舎を薄闇に淡く確立させる。  
 
その中、ひとつの物影がゆっくりとレフ板を刻み行く。  
ざくりざくりと校舎から足跡を転々とつけながら向かう先は、正面以外の三方を木々に囲まれた煉瓦造りの洋館。  
真白い雪帽子のほつれた部分からは、この建物が日照る季節には新緑のツタに覆われていたであろうことを示す枯れ草があちこちから覗いていた。  
 
物影は“霧神学園高等学校付属図書館”と書かれたプレートの横、黒ずんだ彫刻の入った扉の前に立つと、差していた黒い傘を閉じて雪を落とした。  
傘の下から現れたのは、やはり鴉色の、襟の内側に“高槻”と金糸で刺繍された学校制服と、茶色いコートをその上から身につけた、丸い眼鏡の男子生徒。  
上までしっかりとボタンを留め、染めてもいない黒髪を整えたその容姿は、やや童顔気味の彼の信頼に足る真面目さを保障していた。  
 
彼は洋館の扉、飾りのついた取っ手を掴む。  
すでに青く錆びたそれを引っ張る動作には何の無駄も無く、  
「……四条。居るんだろ?」  
扉の軋む音と同時に告げた台詞も同様に、一種の慣れが込められた平坦なものだった。  
 
返事は無かったが、彼はそれを当然というように図書館の中に身を進める。  
……と。  
「うわ……」  
一瞬で眼鏡が曇った。  
当然だ。図書館の中は先ほど彼が呼びかけた通り、今まさに誰彼によって真夏とも思えるほどに暖房が効いていた。  
冷えた眼鏡ほど結露しやすいものも無く、故にこれは妥当な末路である。  
 
視界が完全に塞がれた彼は、そのまま図書館の入り口の段差――つまりは靴脱ぎ場に足を取られ、すっ転んだ。  
「うわたったったたたた!」  
土足のまま前に一歩目、右に二歩目、更に右に三歩目。  
「――――ッ!」  
前のめりになったまま腰を突っ張らせ、何とか持ちこたえようと4歩目を加える。  
と。  
 
ぐにょ。  
 
「……ん?」  
まるで、ゼリーか何か柔らかいものを踏んづけた嫌な感触。  
そのまま、彼――高槻 薪は天地が横に傾くのを知った。  
やっと曇りの取れてきた彼の眼鏡の端には――自分の足を滑らせる原因となった、彼自身の足跡がはっきりついた“真白い毛皮のコート”が宙に飛ぶ姿と、  
次第に彼の頭に近づいてくる陶器製の傘立てが、まるで蜃気楼のように映っていた。  
 
 
「……。」  
高槻は図書館の地面に座り込み、頭に出来た海月の様に柔らかいこぶを渋柿でも食べたような顔をしながら抑えていた。  
が、  
「……はー……」  
大きく溜め息をつくと、もうそこには先ほど見せた静かな怒りの表情は無い。  
代わりに浮かんでいるのは呆れである。  
短い溜め息を再度つくと、高槻は落ちていた白いコートを拾い上げた。  
「……全く。こんなところに脱ぎ捨てるなって何度も言ってる筈なんだけどな……」  
 
そして、図書館の中を見回した。  
外観こそ漆喰がぼろぼろになっているものの、内装はクリーム色の壁紙で覆われ、微塵も寒さを感じさせない。  
「……二階には居ないのか。」  
彼の言葉通り、二階に灯火は見えず、わずかながらに本棚の影形が見える程度である。  
もはや外は薄闇に包まれている。晴れた日ならともかく、探し人は上には居ないだろう。  
「……と、なると。」  
高槻は図書館の反対側を目指し、いくつもの旧い本棚の間を通り抜けていく。  
この図書館はさほど大きくはない。……と、いうよりも、書庫というほうが正しいくらいのものだ。  
校舎の方にある図書室で学生の用事は十分足せる。  
ここにあるものは、哲学書や学術書……それに詩集や全集といったものばかりなのである。  
 
 
 
いくつもの年代物の本の最奥……そこに、暖炉とロッキングチェアがあった。  
そして、ロッキングチェアを窓に向けて外を眺める人影がひとつ。  
膝の上には“荘子”と書かれた本。暖炉の前には小さな木製のテーブルがあり、ポットとカップ、それにスコーンが置かれていた。  
 
暖炉は赤々と輝いており、高槻の耳にはぱちぱちと火のはぜる様な音が聞こえている。  
が、よく見ると暖炉の中にあるのは電気ストーブとラジカセ。  
何のつもりか、目の前の人影はわざわざまるで暖炉に火がついているように見せかけているのだ。  
そちらのほうを横目で見ながら彼は、人影に――窓から雪化粧をされた森を見る女性に――話し掛ける。  
「……探したよ四条。……全く。何でこんなことしているんだ?」  
 
四条、と呼ばれた女性は、それを聞くと、  
「……あら。どうかしたんですか? ……薪。」  
やや低めの声質で応えた。  
四条は本を両手で抱えつつチェアからすらりと立ち上がり、ゆっくりと高槻のほうに表を向ける。  
腰よりなお長く伸びた黒髪がたなびく。細い肢体はしかし均整がとれており、華奢さを感じさせない落ち着いた態度を醸し出している。  
皺一つ、黒子一つ見えないその顔は微笑を浮かべる表情のためか、白い印象を与えながらも冷たい感じはしない。  
美人――というにはややあどけないが、それでもその範疇には含まれるだろう。  
紫紺の制服と合わせ、黒と白のコントラストはあたかも今まさに降りしきる雪景色のような印象を人に与える。  
 
「……どうしたもこうしたも無いと思うんだけどね。本当、君は無駄が好きというか呑気というか……」  
高槻は暖炉に近づき、ストーブは消さずにラジカセのみを止める。  
「……ふふ。性分ですから。」  
四条は口元はそのままに、目を細め  
「私は薪が、……ええ、薪の火が好きなんですよ。  
でも、図書館で火を焚くのは昔ならいざ知らず、今はもうその必要はないでしょう?   
それに、あまり危ないことはしたくないものでして。」  
「だからわざわざこんなことを……か。……まあ、いいけどね。  
それよりそんなことを人前じゃ言わないほうがいいよ。」  
「あら。どうしてですか?」  
言われ、高槻は何度目かの溜息をつく。  
「あのね、その“薪”ってのは僕の名前だろ? いらない誤解を受けちゃまずいだろ。」  
その言葉に四条は表情を変えない。  
口元に手を当て、  
「……大丈夫ですよ。誰がそこから何を読み取ろうと、それを発した私の真意は変わることはないのですし。  
私、四条水城個人が何を思っていても、真実とはそれぞれの内にのみあるものですから。  
その逆もまた然り、です。」  
そこから胸元に手を当てなおし、目を瞑る。  
 
目を弓にする四条に対し、高槻は呆れ顔。額に手をつき、  
「……どうしてそこまで人間関係とか噂とかに無頓着かな、四条は。  
…………もういろいろと、諦めてるけどね……」  
「あら、それは困りますよ……。薪にはこれからもいろいろと私を手伝って欲しい所存なのですが。」  
真顔になる四条。それを見る高槻は、ここに来てやっとわずかな笑みを浮かべる。  
呆れ混じり、ではあるが。  
「……分かってる。僕も、いつか四条を任せられる人間が現れるまでは手伝うつもりだよ。今更気兼ねする程度の付き合いじゃないだろ?」  
四条はくすりと、元の表情に戻る。  
「ええ、その通りですね。ふつつかながらも、これからも宜しくお願いします。」  
微笑を破顔にしての四条の返答。  
 
「……だからそういうのは……いや、もういいよ。  
……と。そうだ、これ……」  
そういって高槻が差し出すのは、玄関口に脱ぎ捨てられていた白いコート。  
「……四条。邪魔になるからあんなところに脱ぎ捨てないでもらいたいんだけどな。」  
「ええと……御免なさいで宜しいでしょうか? ……あら?」  
「……一応言っておくけど、その跡はそっちの自業自得だからね。」  
四条はまじまじとコートについた足跡を見る。  
「……結構雪で濡れていますね。寒かったでしょう、紅茶はどうですか?」  
「気にするのはそこ?」  
突っ込みつつも、高槻はうなずいた。  
 
 
四条がポットをストーブの上で熱する間に、高槻はカップを取りに行ってきた。  
マイセン様のそれに四条が紅茶を注ぐ。  
それを見る高槻は、  
「和菓子屋の娘が洋モノね……」  
「もてなしの気持ちは、どこの国でも同じですよ。それと……私の趣味です。  
……スコーンも食べますか?」  
口端を上げていたままの四条の持つポットから、琥珀色の液体が器を満たす。それを受け取り、高槻は同意。  
「趣味ね…… 四条の趣味は年寄り臭い物が多いよね。」  
スコーンを頬張りながらの告げられた台詞には、内容はともかく声そのものには何の嫌味も無い。  
「……そうですねー……。  
お茶とお菓子とでゆっくりとくつろぎながら本を読み……それを反芻するために、四季折々の景色を楽しむ。  
私はこういうことがとても好きですし、それを誰かと語らうことも楽しみとしています。  
それをそう評価しても、全く可笑しいところはないですよ。」  
と、再度四条は破顔。  
 
「……やれやれ。冷厳なイメージの生徒会長の正体がこんな天真爛漫、太平楽な人間だと知ったら皆どう思う……か…な……」  
急に言いよどむ高槻。それに気づいた四条が心配そうに尋ねる。  
「薪……? どうしました? スコーンが喉に詰まったとでも?」  
対し、高槻は渋い顔を作る。  
「……四条のペースに乗せられてすっかり忘れてた。そもそも今日僕が四条を探していた理由は……」  
頭を強めにかき、溜息をつく。  
ついでにこぶを思い切り引っかいてしまい、高槻が悶絶する。  
うずくまる高槻に、四条が苦笑とともに二重の意味で問いかける。  
「ええと……どうしたんですか?」  
痛みに顔をしかめながら、高槻は返答する。とりあえず、玄関口での失態は話さないように。  
「……四条。今日、何があるか……いや、何があったか知ってる?」  
「……? すみません、存じ上げないのですが……」  
「―――――!」  
高槻はこれ見よがしに大きく息をつく。  
 
「あのね、今日は2学期の生徒会の決算の日だってこの前から言ってただろ!?  
前回は珍しく僕に言われずとも来たから安心してたら、この一番肝心な日にこの大ポカ!  
ついさっきまで他の生徒会メンバー全員で探し回ってたんだよ!」  
息を荒げる高槻を前にして、四条は珍しい動物を見るような目をする。  
「はあ…… そう言えばそうでした。それはともかく、あまりいきりたたないほうが健康にもいいですよ?  
それに、頼りになる副会長が何でもこなしてくれますから。」  
くすりと声を漏らす四条とは対照に、頭を抑える高槻。  
「頼りにされる身にもなってほしいよ……  
第一、今日は会長の印とか署名とか色々必要なわけでさ……  
それでなくても前生徒会からの引継ぎの残務とかも残っているわけだし……  
そもそも秋の選挙活動のときから……」  
次第に声に力が無くなって行く高槻。  
それに対し、四条は  
「それならそうと言ってくれればよかったのに……」  
と、全くの平静。  
 
「言ってたよ……」  
もはや高槻の声は石ころだらけの畑で取れた野菜のように頼り無い。  
「大丈夫です。」  
「何が大丈夫なの……」  
「いいですか? 考えてもみてください。この地球が誕生してはや45億年。  
その間にいくつものいくつもの生命が勃興し、世を謳歌し、そして滅び行き……その繰り返しです。  
私たち人間もその一環に過ぎません。いいえ、存在を許されているのはわずか遡ること数百万年……数千分の一の期間のみです。  
ましてや、その中の泡沫でしかない私たちの活動など……」  
「思考がマクロすぎるって……」  
高槻の口調にはもはや諦観すら混じり始めている。  
それでも四条との対話についていけているのは、彼らの長い付き合いゆえか。  
 
「……そもそもさ。自分で責任感無いって認めるような四条が、何で生徒会長になろうと思ったんだ……?  
成り行き上僕も巻き込んでまで、さ。」  
紅茶を一気に飲み干し、少しだけ気分を切り換え高槻は尋ねた。  
「……なんで、と聞かれますと……皆さんに推薦されたからですけれども。」  
相変わらず微笑を絶やさない四条。  
「いや、そういうのじゃなくってさ…… 別に断ることも出来ただろ? 他の立候補者も居たんだし。  
最後には選挙をやることになってまで四条がこだわる理由がちょっと思いつかなくてね。」  
 
目を瞑り、高槻の台詞を最後まで聞く四条。  
今日初めて、ふ、と息を吐く。  
「……。強いて言うなら……仮面を被りたかったから、ですね。」  
「……仮面?」  
高槻の疑問。四条はそれを聞き、目はそのままに、口だけをいつもの微笑の形にする。  
「……ええ。先ほども言いましたよね? 真実はそれぞれの内にある、と。  
そして、皆はちょうど、私のことを冷厳な人間と思っているでしょう?  
……ええ。つまりはそれが目的ですね。」  
ふふ、と笑い声を漏らす。  
「……分からないな。何でわざわざそんなことするんだ?」  
四条は髪をかき上げ、ロッキングチェアを揺らした。  
十秒ほどの沈黙の後、口を開く。  
「……生徒会長、という仮面をつけずに話せる人間は、わずかに居れば十分だから……ですよ。」  
くすくすと声を立て、四条は目を弓にした。  
 
「……まあ、確かに四条の性格じゃよく知らない人と付き合うのは難しいだろうし、事実、生徒会長になってから話しかけられる事が元々少ないのが更に少なくなってるみたいだけど……  
……なんだかなあ。行動力があるんだか無いんだか。副会長にさせられた僕のことも考えてほしいんだけどな……」  
肩を落とす高槻。  
「ふふ。ええ、その点は非常に感謝しています。そのうち何かの形でお礼をさせてもらいますね?」  
「……わかった。じゃあ、早速その御礼とやらをしてもらおうかな。」  
? と疑問を四条は頭に浮かべる。  
「……流石に、そろそろ仕事を始めなくちゃね。」  
「……ええと……。」  
見れば高槻は口こそ満面の笑みを浮かべているが、眼鏡に光が反射し目つきが見えない。  
同時、四条は表情こそ変えないながらも汗を一滴、流した。  
「さっきも言ったとおり、生徒会長の署名やら何やらが必要でさ。  
他にも色々雑務があったんだけど、どうにも手続きが進められないわけで。  
仕方ないから皆で四条を探したんだけど、もうこんな時間だし、雪も凄くなってきただろ?  
一年の子も居るから、僕以外皆に帰ってもらったんだ。」  
「あの……薪?」  
「いや、まさか完全に四条が忘れていたとは思って無くてね。こんなところに居るなんて盲点だったんだ。  
結局、本来皆で取り組むはずの書類も丸々残っているんだよ。」  
言いながら、鞄を開けて書類の山を取り出す。  
今なお優しい高槻の声に、四条が軽く全身を震わせた。  
「……さて。どうしようか、四条?」  
 
もはや四条の笑みは能面のごとく形骸と化している。  
上ずった声で、四条はつぶやくように、  
「……分かりました。ええ、どれほど時間がかかろうと、何とかすべて一人で終えましょう……  
ええ、終えますとも……」  
うなだれる。  
誓約の言葉を聞き、高槻は表情を元に戻した。  
「宜しい。……さて、と。」  
どっかりと、高槻は地面に座り込んだ。  
「……薪?」  
四条は思う。話の流れからして自分が全部やるべきであるのに、何故に彼は座り込んでいるのだろう、と。  
「……言っただろ? 四条を任せられる人間と会うまでは手伝うって。  
長い付き合いだし、今更四条の事を見捨てられないよ。」  
「……薪……」  
「……さて、はじめようか? ……二人きりしか居ないけど、頑張って何とか終わらせよう。」  
 
照れ隠しの笑いつきの台詞。それを聞き、四条は、  
「……ええ。  
……二人で。  
二人で、何とかやっていきましょう……?」  
本日一番の笑みで、そう、答えた。  
 
 
 After Short Short 
 
 
「ふひー…… 何とか……終わった……」  
高槻と四条は、床にへたばっていた。  
時刻ははや午後十時。子供はおねむの時間である。  
「……しんどい……です。」  
「……口に出さないで……ほしいな……。かえって……疲れる……」  
言いつつ、二人は何とか体を動かし、出口に向かう。  
「……会室の鍵は……僕が、持っているから……」  
「……はい。とりあえず、これを……置きに行きましょう……」  
四条が扉の取っ手をひねる。  
……と。  
「……あら?」  
「……どうしたの?」  
「扉が……」  
言いかけ、四条は顔を青ざめさせた。一応、なんとか笑みは浮かべてはいるが。  
「……あの、薪。非常に言いにくいのですが……」  
嫌な予感を覚えつつ、高槻は先を促す。  
「……雪……で、扉が開かなくなっている、かも……しれません……」  
「……。」  
「……。」  
「…………ええええぇぇぇぇーっ!」  
 
 
翌日。  
早朝の雪かきの折、用務員により疲れきった生徒会副会長と、いつもとあまり変わらない(様に見える)生徒会長が、雪に埋もれた図書館から発掘されたという。  
 
 
 

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