あー、死にてーなー。  
 そう考える事は大して珍しくもない。  
 例えばそれは、翌日に控えたテストが既に大惨事確定な感じの時とか。  
 淡々と世界への絶望を書き連ねた小説を読んだ後とか。  
 あとはそう。  
 昔から好きな女の子に恋人が出来た時とか。  
 そんな感じの時だ。  
 と言うか。  
 今の自分はこれらに完璧に当てはまっていた。  
 お隣さんの幼馴染みが好きだった俺は、彼女が恋人を作ったと、よりにもよってテスト前に知らされ、勉強が全く手に付かなくなった。  
 そうなるとテストの結果が惨憺たるものであることは想像に堅くなく、仕方なく俺はすっぱり諦める事にした。  
 気分転換に父親の部屋にある本棚から適当に小説を選び、読み始めてみれば。それは世の中の不条理や神の不在を嘆き。あげく「人の命の価値は、その人間の体重と同じ重さの生ゴミと同じだ」なんて台詞が飛び出る話で、思い切り落ち込んでしまった。  
 あー、死にてーなー。  
 ぐるぐると思考がループする。  
 回る思考は負に沈み螺旋を描く。  
 いっそ世界滅亡しねーかなー。  
 そんな事まで考えるあたり最悪だった。  
 もう、ひたすらに鬱だった。  
 そんな風にヘコんでいると、部屋の窓がノックされた。  
 こつこつとガラスを叩く音。  
 相手は分かってる。俺がこんな状態になってる大元の原因だ。  
「修矢、起きてる?」  
 カーテンに覆われた窓の向こうから名を呼ばれる。  
 ――ああ、くそ。声聴くだけでちょっと嬉しいじゃねえか。恋する乙女か俺は。  
 いや、確かに恋はしているんだけどさ。……失恋したけどさ。  
 落ち込みを深くしながら鍵を開けてやる。  
 カラカラと音をたて、サッシが開けられた。  
「ゴメンね? 勉強中だった?」  
 そう言って部屋に入ってきたのは、肩口まで髪を伸ばした少女。俺の好きな、女の子。  
 吉川冬雪(よしかわ ふゆき)だった。  
 彼女は屋根伝いに行き来が出来る為、たまにこうして俺の部屋を訪れるのだ。  
「なんだよ、こんな時間に」  
 時計を見れば時間は十一時。いつもならこんな時間にはまず来ない。  
「ん、ちょっとね。相談したい事があって」  
 その言葉に俺の思考が警告を叫ぶ。  
 聞くな。これは今のお前には辛い話だ。現実を突きつけられるぞ。後悔するぞ。  
 そんな風に。  
 そんな心の警鐘は無視して、俺は必死に平静である事を取り繕う。  
「何だよ? 言ってみ?」  
 
「えっとさ……。テスト明けにデートに行くことなってさ。だから男の立場からアドバイスして欲しいなって」  
 ――ああ。やっぱり後悔してしまった。  
 否が応でも知らしめられる。冬雪が俺ではない人間の恋人になったのだと。  
 あー、死にてーなー。  
 また、思考が絶望に染まる。  
 必死にそれを抑えつけ、当たり障りのないアドバイスをしてやる。  
 冬雪は熱心にそれを聞いていた。  
 いくつかの質問と応答を繰り返し、それなりの方向性が掴めたらしい。  
 冬雪は礼を言って、来た時と同じように、窓から自室へと戻って行った。  
 俺はそれを見届けると、カーテンを閉め、ベッドに身を投げ出した。  
 そっと、届かない問い掛けを今はいない彼女に投げ掛ける。  
 ――なあ、知ってるか? 冬雪。俺はお前を想うと死にたくなるんだ。それくらいに好きなんだ。  
 今でも想ってる。  
 一緒に居たいよ。だけど、一緒は痛いよ。  
 居たいんだ。痛いんだ。  
 その夜。  
 名雪が俺以外の人間の恋人になってから何度目だろう。  
 眠れぬままに俺は枕を涙で濡らしたのだった。  
 
 涙が止んで。  
 俺は眠れないでいた。  
 好きな女の子が自分以外の男と、デートすると聞いて何も思わない奴が居るとすれば。俺はそいつの恋心、ひいては愛情を疑わなければならない。  
 つまり俺は、冬雪の相談が元でこうして一睡も出来ずに朝を迎えたのだ。  
 太陽が黄色いぜ。  
 有名な一節を呟いてしまう程に正常な思考は失われつつある。  
 完徹した後ながら隈が出なかった辺りは幸いと言うべきか。  
 家族に感づかれる事もなく、普段通りの朝を過ごす。  
 それにしたって致命的だ。  
 勉強をして眠らなかった訳でもなく、加えて精神状態は最悪。今期のテストは救いようが無さそうだった。  
 呆ける頭で準備を済ませ、家を出る。  
 照りつける太陽が心底鬱陶しい。  
 あんまりムカつくんで中指を立て、太陽に向かい“FUCK OFF”。  
 こんな事する辺り相当にマトモじゃない。  
 流石は徹夜ハイとでも言うことか。  
 それでも習性のままに足の運びは学校へ。  
 なんかフラフラするなー。体が軽いんだか重いんだか分かんねー。  
 そんな事を考えつつ歩く。  
 そういえば冬雪と一緒に登校しなくなったのは何時からだったか。  
 昔はあんなに一緒だったのに。  
 朝から晩まで二人で遊んで、あの頃は楽しかった。掛け値無しに満ち足りていた。  
 意識は過去へと向かう。  
 取り敢えず。  
 
 俺が覚えているのはここまでだった。  
 
 記憶、現実と思考が乖離して。  
 意識は過去へと向かったままだ。  
 懐かしい景色。まだ幼い俺と冬雪が二人、仲良く手を繋いで歩いてる。  
 余りに幼過ぎて、恋心なんか知らなかった。  
 それでも俺は冬雪が大好きで、きっと冬雪も俺が好きだった。  
「ねえ、しゅーくん」  
 幼い冬雪が口を開く。  
「なぁに? ふゆちゃん」  
 まだお互いをそんな風に呼び合っていた時の事。  
 あれは確か、どちらかの家で、ままごとをして遊んでいた時だった気がする。  
「しゅーくんはしょうらいなんになるの?」  
 他愛の無い問い。その時の俺は何と答えたのだったか。  
「わたしはね、しゅーくんのおよめさんになる!」  
 ――ああ、そうだ。俺はこう答えたんだった。  
「じゃあ、ボクも! ボクもふゆちゃんのおよめさんになる!」  
 言葉の意味はよく分からなかったけれど、ずっと一緒だって事は分かってた。  
 だからそう答えたのだ。迷い無く。  
「やくそくだよ! おとなになったらけっこんするの!」  
 そう言い出したのはどちらからだったろうか。  
 それは幼さ故の単純な約束。だけど、願いにも似た、真摯な想い。  
「じゃあ、ゆびきり!」  
 そう言って絡めた小指の感触を、俺は今も覚えてる。  
 
 気が付くと白い天井を見上げていた。  
 目が覚めた事にすら気付かずに。  
 未だはっきりしない脳には、音が届かずに、耳の機能を失ったのかと不安なる。  
 しかしそれは、自らの呼吸音が否定してくれた。  
 ここにあるのは、唯ひたすらの静けさ。  
 鼻を突く消毒液の匂いが、ここを病室だと思わせる。改めて辺りを見渡そうとベッドに横たえられている体を起こそうとした。  
 しかしそれは、激痛によって叶わない。  
 ――何があったんだ。  
 自分の身に何が起きたのか。記憶を掘り起こすも、全く思い至らない。  
 恐らくは記憶が飛んでいる。  
 恐慌を引き起こしそうな心を無理矢理抑えつけ、視線だけを巡らす。  
 薬品の瓶。白い天井。バイタルサインを映す機器。体に掛けられたシーツ。  
 そういった物が、やはりここが病室である事を告げてくる。  
 体の感覚はあまりない。きっと麻酔がまだ効いている。  
 自分は一体どれくらいの時間を、この病室で過ごしたのか。  
 天井を見上げて考えいると病室のドアが開けられた。そこに居たのは。  
「冬雪……」  
「修矢、目が覚めたの!?」  
 半ば突進するような勢いで冬雪が突っ込んでくる。  
 瞳に涙を浮かべ俺を見る姿に、ああ、やっぱり好きだな。なんて、場にそぐわない事を思った。  
「なあ冬雪。俺……一体何があったんだ?」  
 その言葉に冬雪が顔を曇らせる。  
「覚えてないの……?」  
「ああ……全く」  
「そっか……。修矢はね、交通事故にあったの。それで三日間意識が戻らなかった」  
 三日間。そう聞いて真っ先に思い浮かんだのは、テストが受けられなかったという事だった。  
 人間てのはこういう時に結構どうでも良い事を気にするらしい。  
「それで、俺の怪我。酷いのか?」  
「腕とか何ヶ所か骨折してる。左半身を特に。ただ命に別状は無かったって。内臓も無事」  
「……それだけか」  
「――……うん」  
「……そうか」  
 体は麻酔が効いていて自分の感覚ではどうなっているのか分からない。  
 一応、状態が知れて良かったか。  
「心配かけたな」  
「……ううん」  
 場を重い沈黙が支配する。  
 互いの息遣い以外は、耳が痛くなる程の静寂。  
 時が止まったかの様な静けさ。  
「せ、先生とか呼んでくるね」  
 停滞を破り、焦ったように冬雪が病室を後にする。まるで、逃げ出すかの様に。  
 取り残された俺は深い溜め息を吐きながら、ベッドに身を深く沈めた。  
 
 その後、医師から俺の現状について説明があった。  
 その際に聞かされた俺の体の状態は思った以上に俺の心を打ちのめした。  
 左半身を強く打ったらしく、特に左半身に怪我が集中していた。  
 左鎖骨骨折。左上脚骨折。右肩脱臼。  
 そして。  
 左手切断。  
 俺は左手を失っていた。  
 手首から先が完膚無きまでに潰されたそうだ。治療の施しようなんか毛の先ほどもなかっただろう。  
 冬雪は、俺が聞いた時この事は言っていなかった。知らなかったのだろうか?  
 否。答えは否だ。  
 冬雪は知っていてそれを隠した。  
 そんな事、すぐに分かることなのに。  
 それでも、俺を憐れんで黙っていた。傷つけないために、余計傷つくだけなのに。  
 ふとある思考がよぎる。  
 あー、死にてーなー。  
 冗談なんかではなくそう思った。  
 無論、そんな勇気は俺には無かったが。  
 
「なあ冬雪。お前確か明日デート……だったよな」  
 医師の説明の後、病室に戻って来た冬雪に俺は尋ねた。  
「うん。でも行かないよ。修也がこんな風になってるんだもん」  
「……行けよ。遠慮すんな。俺は割と平気だし、別にお前がいる必要は無いだろ」  
 しばしの沈黙の後、冬雪は答えた。  
「……行かないよ」  
「……っ! 行けよ!!」  
 俺の怒鳴り声に、冬雪が身をびくりと震わせる。  
「行けよ! 明日はデートに行け、ここには来るな!」  
「……どうして?」  
 ――そんなの、こんな姿を。冬雪に同情されるような、惨めな姿を見られたくないからだ。  
 それを俺は言葉にせず、ただ「来るな、行け」とだけ返した。  
 冬雪の顔を見る事は出来なかった。「どうして」と聞いた声が震えていたから。  
「……行けよ」  
 これで最後だと、言外に込める。  
 冬雪はどんな顔をしていたのか。  
 しばらく黙り込んでいたが。  
「分かった」  
 とだけ言い。荷物をまとめ帰り支度を始める。  
 その間、耐え難い沈黙が満ち、俺は冬雪と目を合わせないよう、必死に窓の外に視線を向けた。  
 背後で病室のドアが閉まる気配がした。  
 言葉もなく冬雪が去っていく。  
 俺独りになった病室は余りに静か過ぎて。  
 まるで世界に独り切りみたいだった。  
 
 目が覚めれば昼下がり。  
 瞳に映るのは昨日から眺め続けた変わり映えのない白い天井。  
 未だに麻酔で感覚の曖昧な体も相俟って、夢なんじゃないかとすら思う。  
 まるで白い世界にふわふわ浮かんでるみたいだった。  
 憂鬱な気分は昨日から変わらずのまま。  
 点滴の垂れる様子を見つめながら呆けていると、病室に人が訪れた。  
「調子はどう?」  
 余りにも普通に、そこに冬雪が居た。  
「……行けって言っただろうが」  
「うん、だから行ってきた。用事だけ済ませて帰ってきたけど」  
「何だよ、用事って」  
「有り体に言えば別れ話。貴方とはやっぱり付き合えません。御免なさい。……って」  
 耳を疑った。  
 別れ話?  
「何で、そんな……」  
「“関係無い”。関係無いんだよ、修也の怪我とは。これはずっと決めていた事」  
 冬雪はそう言って、少しだけ寂しげな笑みを浮かべる。  
「私の欺瞞はこれで終わり。……ようやくね」  
 ――なあ、何言ってんだよ。分かんねえよ。  
「“しゅーくん”あのね?」  
 昔みたいに、俺を呼ぶ。  
「私達、ずっと一緒だったでしょ? 本当に小さかった頃から、今の今まで」  
 そこまで言って一呼吸。  
「私は、それが怖くなった」  
 ――何が、何が怖いっていうんだろう。  
 冬雪はそれを語り出す。  
「ずっと同じ町で、ずっと同じ人と、ずっと同じ様に過ごす。それは確かに、幸せの一つの形なんだと思う。でも思ったの。私は思っちゃったの。それは凄く狭い世界で生きていく事なんじゃないかって。檻に囚われて生きるのと同じだって」  
 俺の右手に冬雪の手が重ねられる。  
「そんな時に告白されて、チャンスだって思った。広い世界を知れるって。――実際、色々知れたよ。楽しい事も、そうじゃない事も。……でも、何も変わらなかった。何も。私自身が、私の想いが」  
 冬雪と目が合った。  
「それで気付いたんだ。私が居た世界はとても狭かったけれど、それでも確かに私の居場所だったんだって。私の想いが限られた選択肢から消去法的に選ばれたんじゃないって」  
 その、言葉の意味は。  
「ねえ、しゅーくん」  
 
「私はしゅーくんが好きなんだよ」  
 
 
 俺はすぐには答えられなかった。それでも必死の想いで言葉を紡ぐ。  
「……俺は、昨日思ったんだ。お前に憐れみを向けられたくないって。左手の事を最初隠されてたって知った時、悔しくて、情けなくて死にそうだった。だから、あの時一緒に居て欲しくなかった」  
 動かぬ体がもどかしい。軋む身体を無理矢理に動かす。  
「何でか分かるか? どうして俺が、悔しくて、情けなくて、お前と一緒に居たくなかったか」  
 痛むな、震えるな、動け、俺の体。  
「俺も同じなんだ」  
 辛うじて動く右腕で冬雪を抱き寄せる。  
「好きなんだ。俺も、冬雪の事が好きだ」  
 ――ああ、簡単じゃないか。俺は動く。言葉もある。こうして冬雪を捕まえて、想いを交わす事が出来る。十分だ。  
 俺達はどちらからともなく、唇を重ねた。  
 曖昧な感覚の中。腕の中の冬雪の体温だけが、やけにはっきりと伝わる。  
 心の底から愛しくて、離れたくなかった。  
 けれど二人はゆっくりと唇を離す。  
「指輪、交換出来ないね」  
 少し荒い息を吐きながら冬雪が言った。  
 悼みに耐えるような表情で。  
「……なあ冬雪」  
 俺は右腕に力を込めた。  
「結婚ってのは契約なんだそうだ」  
 冬雪は少し震えていた。  
「互いに指輪を交換し、誓いをたてる。指輪にかけて、一生愛すると」  
 俺は冬雪の肩の震えを抑えるように、きつく抱き締める。  
「……俺はもう、その契約は出来ない」  
 左手を失った俺は誓いをたてる事は出来ない。  
 ――でも。  
「冬雪、右手出して」  
 恐る恐る冬雪が右手を差し出してくる。  
 俺はその右手の小指をとり、そこに自分の小指を絡めた。  
「だけど約束はできる」  
 きつくきつく小指に力を込める。離れ得ぬよう、二度と解かないとばかりに。  
「――約束するよ。俺は残された一生。冬雪を愛して生きる。……いや、冬雪を愛する為に生きるよ。――絶対に、必ず」  
 残された右手で誓いはたてられない。それでも約束は出来るのだ。  
 幼い子供の頃の様に。  
 ただ純粋な願い。“ゆびきり”の約束。  
「ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます」  
 いつかの様に謡う。心の底から、叶え、と。この約束を守る、と。  
 願いにも似た、真摯な想い。  
 そして、言葉と共に、一生をかけた約束は交わされる。  
 
「ゆーびきーった」  
 
 
Fin.  
 

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