昔、あるところに一つの村がありました。
そして、少年はようやくその村の暮らしに慣れ始めたところでした。
と言うのも、一ヶ月程前。少年は狼に襲われたある村で一人だけ助かり、そして彼を発見した狩人の故郷であるこの村へ保護されたのでした。
そして少年はその狩人の家に住まわせて貰うことになりました。
けれども、
「ああ、狼が来る。逃げて。逃げて」
少年は、狩人やその奥さんへしきりにそう言い続けました。
村人達は、彼の母が、父が殺される瞬間を見て彼の心が壊れてしまったのだと、口々にそう言い、彼を見守り続けました。
それでも時は経ち、少年は少しずつ、今の生活に慣れていきました。
毎日奥さんの手伝いをしながら、狩人の帰りを待ちます。いつしかまるで、本当の親子のようになっていきました。
しかしそれでも、口癖のように少年は言いました。
「ああ、狼が来る。逃げて」
それはもう村の皆にとって慣れてしまったことでした。
と言うのも、この地域には狼など生息していないのです。
けれども、少年は言い続けました。
「狼が来る。ああ、狼が」
奥さんは、しかし毎日それを優しく宥めるのでした。
「狼は来ないよ」
それでも少年は「逃げて」と言い続けました。
いつしか村の人々は少年のその口癖を気にしないようになってしまいました。
ある晩のことです。
いつものように、狼が来るという少年を寝かしつけた狩人は、深淵の空を眺めました。そこには凛と輝く星々。そして丸々とし、美しすぎて赤みの掛かった月が紺碧の中に浮かんでいました。
村の中はひっそりと静まり、いつもの緩やかな夜がやってきているのです。
そこへ、
「ああ、来てしまった」
寝かしつけたはずの少年の声が聞こえました。
「みんな逃げて。お願い。ああ、来てしまった」
いつもの寝言だと思い、狩人は放っておこうと思いましたが、しかしいつもより震える声に、ただごとではないと思い、ドアを開けました。
「どうしたんだ」
「狼が来たんだよ」
帰ってきたのは震えた少年の声ではなく、嗄れたような獣の吐息でした。
狩人が目を見開いた瞬間、少年の着ていた衣服を身体に引っかけた巨大な人狼が、その首を一囓りしました。
狩人とは言っても、家の中では銃を持ちません。胸から上が無くなり、代わりに紅い液体が噴き出しました。
叫び声すら上げる暇がなかったので、奥さんは夫に何があったかを知りませんでした。
しかし人狼は気配を消しもせず、彼女の前に現れました。
声にならない悲鳴を上げながら、そして彼女も彼の胃の腑へ納められてしまいました。
人狼は冷え冷えとしたに出て、遠吠えを上げました。
空には輝く満月。その鮮血のような紅さに違わない程、人狼は人を食い散らかしました。
人々の上げる絶叫を背景音楽に、肉を糧に、腰を抜かし逃げ出すその姿を娯楽として。
そして、一晩で村を食べつくしてしまいました。
朝になり、空には日が昇り、月は消えていました。
かつて村だったその場所は無惨にも引き裂かれ、村人達は一人残らずその原型さえ留めていません。
その中で。
「ああ、またやってしまった。また…」
少年は起きあがりました。
「ああ、済みません。済みません皆さん……」
少年はただ嗚咽するしかありませんでした。
未熟な少年は、その昔人狼に咬まれ、そして人狼になってしまったのでした。だから満月の夜の度、人狼となり人々を喰らってしまうのでした。
それは本能であり、止める術を少年は知りませんでした。
しかし、満月以外の時は普通の少年です。一人で生きていくことも出来ません。
だからと言って、養ってくれる人々に自分が人狼であることを打ち明けられなかったのです。
親の、誰かの愛を受けたかったのから。嫌われ、忌まわれることが怖かったのです。
少年は悲しそうな顔をして、それでも崩れかけた狩人の家へと戻り、箪笥から自分の衣服を取り出しました。
それから、口から血を拭いました。
そして、倒れた振りをしました。
また何処からか、誰かが来て自分を保護してくれるまで少年は気を失った振りをします。
何日も何日も。自分を愛してくれた人達の肉を喰らいながら。