山羊と歌うたい  第二話 
 
 
 
「バレリア、其処の壷とって〜」 
「あ、これですかフェンネさん」 
「ん〜ん、そっちの翠釉がかかってるやつ〜」 
指示された壷を手渡すと、フェンネさんは中から取り出した茶葉のように見えるものと 
手元に用意されていたお米のような植物の種とで夕日に映える綺麗な銀髪や頭皮をこすりだした。 
微かに甘い香りを感じるところを見ると、これもハーブの一種なのだろう。 
ひとしきり髪をこすって汚れを落とした後、まっすぐ伸びた角に邪魔にならない様に梳いた髪を編みこんでいるのを 
見るともなしに見学する。どうなっている髪型なのかこうやって見ていてもさっぱりわからない。 
ふと、自分の髪を引っ張ってみる。銅色がかった黒い髪は特徴の無いボブカット、少し伸ばして編み方を教えて貰おうか。 
 
 
 
ヤギ族の一団に私が加わってから、暫く経つ。 
落ちモノの曲を楽譜を見て演奏しながら教えたり(オーケストラのパーカッション譜などはどうしようかと思った)、 
歌詞の内容を訳したり、この世界の事を教わったり、ハダル様のスキンシップにちょっと困ったり等しながら 
過ごす毎日にも大分慣れてきたと思う。 
そんな風に生活を共にして一番最初に気づいたのは、ヤギの民と香草の縁深さだ。 
朝晩の食事の時はかならずハーブティーが一緒に出されるし、料理自体にも色々と臭み消しや香り付けがされている。 
今旅をしている道は森の中を通っているけれど、夕食用の獲物を狩りに行く男の人たちは帰りは例え獲物が 
取れなかった時も必ず何らかの草花や木の枝を持って帰ってくるし、この季節、煮炊きや獣を避けるために焚かれる 
火には虫除けのためのハーブが投入される。 
それに、一人一人皆違う香りがするのだ。 
何でも、ヤギの民は旅から旅の暮らしをしている上に元々そうそう入浴するという事も無く、体の清潔自体は 
こうやって昔ながらの方法で髪を洗ったり体を拭いたりして保っているけれど、やっぱり体臭はどうしても 
出てくる、それを防ぐ(というか、誤魔化す?)ために各々の匂いにもっとも合う香料を調合して使っているんだそうだ。 
私も自分用のをハダル様直々に作ってもらったし、郷に入っては郷に従えとは言うけれど、やはりお風呂に入りたい。 
水を大量に消費してしまうから、そうそう我侭も言えないが。 
現在移動中の場所は森、砂漠や荒野と違ってそれほど水に不自由するような環境では無いとは言え、皆が必要としていない事を 
自分だけはとごり押しすることが出来る筈も無い。幾ら優しくして貰っているとは言え、所詮奴隷の身だ。 
 
「バレリア〜?」 
「あっはい、何ですか?」 
見ると何時の間にか髪を編み終わっていたフェンネさんが手招きをしていた。そんなに長く考え込んでいたのだろうか。 
「バレリアの髪もやったげようか〜?」 
「いえ、大丈夫ですよこの間習いましたし……」 
「何か元気ないわねバレリア。どしたの?」 
いきなり、肩から後頭部にかけて柔らかい感触で重たくなった、顔の脇に流れて来たこの丁子色の髪に張りのある声は。 
「体の調子でも悪いの? ちょっと疲れちゃった?」 
アニさんだった。この間物凄い痴態を覗いてしまったこちらとしては 
反応にちょっと躊躇う事もあるが、彼女の方はそんな事知らないので少しも気にせずこうしてくっついて来る。 
彼女の開けっぴろげな性格を考えるとたとえ知られたとしても全然気にしないんじゃないかと言う気もするが。 
「ああ、いえ別に元気が無いなんてこと無いですよ? 大丈夫、髪だって自分で洗えま」 
「ああ〜〜っ!! わかったぁ〜!!!」 
「「うひゃぁ!?」」 
フェンネさんがいきなり大声を上げたので二人して妙な声を出してしまった。 
フェンネさんの方は納得したような顔でニコニコしている。 
「ちょっとアンタいきなり大声上げないでよ! アタシもバレリアもびっくりしちゃうじゃない!」 
「バレリア水浴びしたいんでしょう〜」 
「え、何で分かったんですか?」 
思わず白状してしまうと、フェンネさんの微笑が更に深くなった。 
「あたし占い師よ〜だから何となく〜」 
流石群れ一番の占術師、カードが無くてもお見通しらしい。でも、こればかりは解ったからと言ってどうなるものでもないだろう。 
贅沢は敵、の心構えで遠慮しようと口を開こうとしたら、 
「そっか、バレリアはヒトだもんね。でも水浴びかぁ…。近所に小さくない川か湖、あったっけ?」 
「どうだったかしら〜」 
「前この辺通ったときはどうだったっけ」 
「うちの群れがこの道通るのは初めての筈よ〜。通るのは大体カモシカの国の中だったでしょう〜。う〜ん、水がいっぱい 
 ある所ね〜カードでちょっと探してみましょうか〜」 
話がどんどん進んでいた。 
「少し離れてるけど泉ならあったよ」 
「「うひゃぁぁ!?」」 
今度は気配の無かった真後ろから突然声。またびっくりする私とアニさん……アニさんはいつ私に負ぶさるのをやめてくれるのだろうか。 
後頭部の感触が非常に悔しい。 
「あらシェアト、狩りはどうだった?」 
「晩御飯分くらいは獲れたよ」 
何時の間にか後ろに来ていたのはシェアトさん。フェンネさんの弟さん。 
男の人だから頭はヤギ、けれどこうしてみると銀色の毛並みや濃い琥珀色の瞳がそっくりで血縁を見て取ることができる。 
シェアトさんの話によると、このキャンプから少々遠くはなるが中規模の湧水を見つけた、とのこと。 
「水浴びの許可が出たとしてももう時間が時間だから、晩御飯の後か明日の朝にしたらいいと思うよ」 
話に夢中で気づかなかったが、先ほどまで茜色だった筈の空は、沈んでいく夕日の側の木々の頭にわずかに赤みを残したのみで 
すっかり紫苑色に変わり、月が二つとも顔を見せていた。 
 
と、いまだ私の背中にくっついているアニさんが、左手を後ろの方にばたばたと振り回している。らしいが残った右腕で胸にしっかり 
首から頭が固定されてしまっているので何が起きているのか確認できない。 
「──バレリアは水浴びに行きたいんですか?」 
どうしたのかと思ったらハダル様だった。私からは見えない位置でどうやら激しい攻防が行われていたようで、普段は角の間から 
後ろに流されている前髪がひどく乱れている。 
体を捻り、腕が緩んだ所でアニさんの顔を見上げてみると、妙に勝ち誇った表情をしていた。 
ハダル様は一瞬悔しそうな顔をしていたが、すぐに気を取り直したのかリアクションの取れなかった私にもう一度話しかけて来る。 
「バレリア、遠慮をすることは無いんですよ? 必要なのは石鹸……に盥と、あと手拭いあたりですか、用意をしておきましょう。 
 もうそろそろ夕食だから、それが終わり次第僕が一緒に……」 
「アタシが付いてってあげる。ここらへんで盗賊の話も聞かないけど女の子一人じゃ危ないし」 
 
 
 
空は深い藍色まで色を落とし、木々の隙間に月が二つ、大分高い位置に近づいている。盥を抱えて徒歩7、8分程度の位置にあった泉は 
岩場から豊かに水を湧き立たせて細い小川が流れ出していた。 
これから水浴びに行く、というのが何時の間にか決定事項になり、それを知ったカペラ老が教えてくれた豆知識によると、 
何でもこの道はカモシカの国の北端の山岳の麓を通っているので、探せば湧水の類は豊富にあるらしい。 
今回のキャンプ地の水場となったのはせせらぎだから浴びるのにはちょっと水量が辛いし近すぎるのも落ち着かない。 
こちらはこちらで、思っていたより距離はあったが。 
盥に手桶で水を汲み入れながらも、首に下げたペンダントに目がいく。 
角で作られた、親指程度の太さ、中指くらいの長さの簡単な作りの笛。呼子だ。 
アニが一緒だしそれほど心配はしていないが、万一何かあったら思い切り吹くように──と、出掛けにハダル様に手渡された。 
許可を貰ってその場で吹いてみたら、よく通る澄んだ高音が耳朶を打った。ハイCだ。 
私の喉からは出せないであろう高い音。なんでも高音はヤギ族の耳に届きやすいらしい。 
騒ぎが起きたとしてもキャンプで人が動き回っている時間帯では気づき難い、でも呼子の音なら、と言う事だ。 
 
水を汲み終わったところで服を脱ぎ、畳んで岩の上に置く。夏も終わりに向かっている季節、髪は濡らさないほうが良いだろう。 
「笛は外しちゃ駄目よ?」 
注意され、流れで外しそうになってしまった呼子を胸元に戻す。 
アニさんは近くにあった石の上に腰掛けていた。護衛だから、と言って、踊るときに愛用している舞扇を携えている。 
細かい透かし細工が美しい一見華奢な扇だが、全体が、白いが銀や白銀とも違う金属で出来ている様で結構な重量があり、 
この間持たせてもらった時にびっくりした覚えがある。武器としても使われる物だからだろう、先端部にはデザインに紛らせて 
鋭い爪が付いていた。 
裸になった所で、思い切って盥の水に足を浸すとやはりというか、結構冷たかった。水を手に掬って肌を擦ってみる。 
汚れも垢も全然出ないのはやはりヤギの民独特の手入れ方法の賜物、ということなのだろう。でもこうしていると冷たい水でも 
凄く気持ちが良い、今回は有難く堪能させて貰うことにしよう。 
石鹸を取り上げる。植物油と灰汁を原料に植物性の香料が入っていて、濡らした手拭いに柑橘のような香り高い泡が立つ。 
もしかしたら向こうのボディーソープより皮膚に良いかもしれない。全身に使えるそうだし。 
全身を泡立てた手拭いで洗うと、汚れていた訳では無いが気分的にさっぱりした。 
体を良い気分で擦っていると、アニさんが話しかけてきた。 
「前から聞こうと思ってた事があるんだけどさ、……良いかな?」 
「何ですか?」 
「……バレリアはさ、家が恋しくなったりしないの?」 
いずれは、誰かに、聞かれるんじゃないかと思っていた事だった。 
「……ならないです。帰りを待っていてくれる人もいないし」 
「バレリアは、向こうで独りだったの?」 
「友達はいましたよ。きっと心配してくれていると思います。でも、出会って別れるという事はどこにいても一緒ですから。 
 気にした所でどうにもならないです」 
運命に抗うのも従うのも結局は運命。私はそうして生きてきた。 
「そっか……」 
「私は、冷たい人間なんでしょう」 
「そんな事無いわよ! 一緒にいたらなんとなく分かるもの!」 
「有難うございます、アニさん。私、今幸せですよ……寂しくないから」 
「……そっか」 
「そうです」 
「……背中、流してあげる。バレリア、向こう向いて」 
「はい」 
「そういえばさー」 
アニさんの語調が明るく変わる。今度は何だろう。 
「ハダル様とはもうやっちゃったの?」 
………いきなり何を言い出すんだろうこの人は。ハダル様は儀式の為とかでそういう事断ちをしていると言うのは皆知ってる筈なのに 
何でそんなことを聞くのか。と言うかそういうダイレクトなエロ話は苦手だから正直勘弁してほしい。遠回しでも苦手だけど。 
「アイツバレリアみたいな体つきが一番好みだからもう手付けられちゃったのかと思って。だいぶ気に入られてるみたいだし。 
 それとも、継承も控えてるしまだちゃんと我慢してるの? そこいら辺どうなのよ」 
言葉に詰まっている私は、また置いてけぼり。今、多分耳まで真っ赤になっているのではないだろうか。何とか返事を搾り出す。 
「いや……今の所はただ触られてるだけで………」 
何を正直に吐いてしまっているのだろう私は。それより。 
「あの……私みたいな体格が好みって、一体どう言う……?」 
「ヤギの男はね、皆何かこだわりがあるんだよー。フェティシズムって言うんだっけ。ヤツはねー、スレンダー美乳好きなんだよ」 
──聞くんじゃなかった。思わず自分の胸を見下ろす。美乳、なんだろうかこれは。形態を他の人のと比べたことがある訳ではないので 
其処の所が本当に分からない。群れの女の人たちみたいに大きいわけでもないし。 
「ヤギが交わりが好きな割りにそれほど数増えていかないのは、そこら辺の男女の意識格差、ってやつも一因なんだろうってカペラ爺が」 
…………そうなんですか。 
 
 
 
全身の泡を流し、体を拭いて服を着ようとした所でアニさんの様子が変わっている事に気づいた。と、慌てた様子で囁きかけて来る。 
「バレリア、呼子吹いて、早く!」 
慌てて呼子に手をやると、横手から衝撃が襲ってきた。 
「うあっ!!」 
弾き飛ばされて泉の脇に転がされる。体をを激しく打ちつけてしまったらしく息が一瞬詰まった。誰かの声が遠く聞こえる。 
涙ににじんだ目を動かすと、腕に絡みついた縄の先には石が括り付けられているのが何とか見て取れる。 
その石に、呼子が割られていた。 
扇をベルトから引き抜いて構えるアニさんと私は、何時の間にか非常に柄の悪い(様に思える)十二、三人からなる一団に囲まれていた。 
角があって顔が長い。鹿か、カモシカだろうか。どちらにしろ、盗賊で間違いないだろう。 
「へへっ、逃げてる途中で獲物が見つかるたぁ運がいいなぁ」 
「ヒトの、メスか。オスの方が高く売れるんだがな」 
「買い叩かれても逃走資金には十分過ぎるだろうが」 
「女はヤギだ、殺すのは拙いぞ」 
「一人殺したら全てのヤギに狙われるってやつか? 迷信だろあんなもん」 
「ざけんじゃないわよっ!!!」 
口々に勝手なことを言い立てる盗賊どもから、アニさんが未だ立ち上がれない私を庇う位置に立ちはだかった。 
ゆったりと扇を構えた立ち姿は、音楽に合わせて踊りだそうとしている時と変わりの無い、躍動を内に溜めた美しい姿勢だった。 
「アタシねぇ、確かに男は好きだけどアンタ達みたいなイチモツから腹の底まで薄汚いのはお呼びじゃないのよ。病気でも移されたら 
 堪ったもんじゃないわ。……今なら家の子に傷付けたのは見逃してあげる。だから──」 
扇をばしりと音をさせて開く。 
「とっとと失せなこの××××野郎ども!!!!」 
アニさんの啖呵にあっさりと頭に血を上らせた盗賊達の一部が襲い掛かって、 
 
あっという間に三人ほど地面に転がされたのが見えた。 
 
アニさんは強い、惚れ惚れするほどに強い。 
でも二本の腕に二つの目、一人であれだけの数を向こうに回して戦うのは、達人と幼稚園児くらいの差があるならともかくきっと無理だ。 
助けを、呼ばなくてはならない。それくらいなら私にも出来るはずだ。 
声楽は、『向こうの世界』では諦めざるをえなかったけれど。 
こちらに落ちて来てからは、毎日のように歌っているし皆に教えながらボイストレーニングも重ねている。 
それに朝晩ハーブティーを飲んでいるんだから、喉は落ちてくる前とは比べ物にならないくらい良くなっている。筈だ。 
 
絶対出来る。絶対出せる。 
「アニさん、今助けを呼びます!!」 
 
棒状の武器を持った盗賊がこちらに近づいてくる。キャンプの方角を向いて息を思い切り吸い込むと、 
 
 
「─────────────────────────────ぁぁぁぁ!!!!」 
 
 
力一杯声を張り上げた。間違いなくハイCまで上がった。 
やはり喉に結構負担がかかったらしく息を吐き切った後咳き込んでしまい、それが倒された時に打った腹部に響いて痛む。 
次の瞬間、背中の辺りを蹴り飛ばされて再び地面に倒された。 
「てめぇ、いきなりかん高い声出してんじゃ──」 
私を蹴飛ばして罵声を上げていた盗賊の声が突然止まる。必死の思いで仰ぎ見ると、様子が明らかに変わっていた。 
なにせ周りが薄暗いのと顔が鹿だかカモシカだかなのでどんな表情なのかは分からないが、雰囲気が違う。 
見ているしか出来ない私の前でくるりと踵を返し、そしてそのまま、手に持った槍で仲間たちに打ちかかった。 
何が起こったと言うのだろう。分からなかったのは盗賊達も同じ事らしく、思わぬ方向からの奇襲に二人程が倒され、応戦しているが 
躊躇っているのか素人目にも動きがぎこちない様に感じられる。 
驚きと怒りの声が上がる中、先ほどまでの仲間に切りかかる人数が、さらに増える。 
 
「バレリア」 
動けない私に外套を掛け、そっと抱き起こす腕。 
「もう大丈夫ですよ」 
「ハダ、ル……さ、ま………」 
助けに来てくれた。 
掴まろうと手を伸ばすと抱えてくれた腕に力が入り、やんわりと制止された。 
「左手は駄目です、コントロールが乱れてしまうので。肩に掴まってください」 
支えられながら上体を何とか起こし、ハダル様の左手を見ると何かを握っている様に見える。糸を持つような手の形。 
だが目を凝らして見ても其処には何も見えなかった。 
「ああ、これですか? これは──」 
ハダル様は言葉を一端切り、未だ仲間内で争い続ける盗賊達の方を向き、左の袖口を口元に持って行くとくわえて引っ張り、 
何かを抜いた。細い金属の針が唇の間に見える。 
唇を少しもごもごと動かし何かを呟くとそのまま少し離れた所でアニさんと鎬を削っている盗賊に向けて、ふっ、と吹く。 
その盗賊は一瞬動きを止めると、今や防戦一方になっている仲間に向かって手にした短刀で切りかかっていった。 
アニさんがふわりとこちらにやってくるのを確認し、ハダル様は微かに微笑んだ。 
「こう言う事です」 
「ハダル、様、が、あの、人、たちを、操って、いるん、ですか、?」 
今更の様に体を、そして喉を支配し始めた痛みに、話しかけようとする言葉が途切れ途切れになってしまう。 
「そうです。……喉を痛めてしまったのでしょう、無理して声を出さないほうがいい」 
「助かったわ。だからエラく早くここまで来た事についてはは追求しないでおくわ」 
息を整えながら話しかけてくるアニさんには答えず、ハダル様は何かを握っていた左手を離し私を抱き上げた。 
「さ、帰りましょうバレリア。怪我の手当てをしなければ」 
人数を今や半分ほどに減らしている盗賊たちが、体の自由を取り戻して今にもこちらに向かって来そうな様子を見せているが、 
そちらにも全く構う風も無く歩き出す。 
「彼らは皆に任せましょう」 
私を抱えたハダル様とすれ違う、何人もの武装した姿。 
私の声が、届いたのだろう。 
助かった。 
 
 
 
ランプを吊るした箱馬車の中。ハダル様は床に複雑な文様の織り込まれた敷物を敷くと、外套に包まれた私をそっと其処に降ろした。 
痛い。あまり弱音は吐きたくないが、蹴り飛ばされた背中の辺りが特に痛む。 
こういう修羅場の経験等今まで無かったので良く分からないが、危険から救い出され安心したことで、今まで苦痛を抑えていた興奮から 
くる脳内物質の分泌も収まってしまったという事なのだろうか。 
気を失ってしまえる程の苦痛ではないがすごく痛い、というのがなんとも辛い。 
ハダル様が隅に備え付けてある棚からしっかりと封のされた黒い壷を出してきて私の隣に膝を付く。恐らく治療の為の薬だろう。 
外套に手を伸ばされる。 
───スレンダー美乳好き 
水浴びの時の言葉が脳裏に蘇り、思わず体を捻って逃げようとした。先程は木々に翳った月明かりの下蝋燭一本で、その上緊迫した 
状況下でだったからそれ程気にはならなかった、と言うよりそんな余裕は無かったが、こうして落ち着いた場所で明るいランプの下 
裸体を晒す、と言うのはどうしようもなく恥ずかしい。 
第一肉が全体的に足りない為見せられるような身体つきでもない。 
普段のスタイルがそれなりに良く見えているとしたらそれはファンタジー作品に登場するジプシーが纏っているような、あの綺麗な 
民族衣装のお蔭だろう。 
それだって、私が着たらどう頑張って褒めても精々『可愛らしい』止まりだ。肉感や色気等望めはしない。 
そんな私の様子にハダル様が苦笑した気配が伝わって来た。 
「恥ずかしいのは分かるつもりですが、バレリア。傷、特に擦り傷切り傷の類は早く治療しないと、危険な病が体に入るかもしれません」 
「ハダル様が、するんですか」 
「僕はこれでも一応群れ一番の呪い師で癒し手ですよ?治療だってお手の物です……ちょっと待ってて下さいね」 
何をするのかと見上げると、ハダル様は立ち上がって手を伸ばし、 
 
ランプの明かりを絞った。 
 
「これで、良いですね?」 
 
微笑んでいるらしいその表情は、薄暗い逆光でよく分からなかった。 
 
 
 
粘性が高く透明感のある脂薬は、ハダル様が私には分からない言葉を小声で詠唱しながら掌で背中にすり込んでいくと触れた瞬間は 
ひんやりとぬらついているのに直ぐに酷く熱を帯び、ちりちりと神経を刺激しているようだった。 
「ハダルさまっ……あつい、ですっ………!」 
「呪法薬が傷の治療の際に起こしている反応が熱と感じられているだけです、暫く我慢してください」 
「んっ……!!」 
背中の熱に身を捩りそうになるのを辛うじて耐える。 
ぬるぬると背中に薬を塗っていた手が止まった。 
床に足を軽く曲げて座っている私の横に移った気配、左腕が肩を支える様にしっかりと回される。 
胸元に手繰り寄せられていた外套が、奪い去られた。 
見られている。恥ずかしさに顔が上げられない。 
「バレリアは綺麗ですね」 
薬をのせた手が胸元に触れる。 
「それがこんなに傷ついてしまって……。痛かったでしょう」 
乳房に、脇腹に、下腹に、ぬるぬると薬が塗り込められていく。もう、返事も出来そうに無い自分を自覚する。 
「怖かっただろうに、よく頑張りましたね」 
塗られた薬も、薬を塗る手も、詠唱の合間に囁きかけられる言葉も、酷く熱を帯びている。 
その熱に、思考が融かされていく様だった。任せてしまえば良いのだろうか。 
「偉かったですよ、バレリア」 
膝の上に抱え上げられた。 
「……んぅっ!」 
脂薬の染み込んでいく胸をやわやわと揉みしだき先端をかりかりと引っ掻いたかと思えばふにふにと捏ね回す長い指の動きに翻弄され、 
縋り付こうと上体を出来るだけ捻って両腕をハダル様の首に回す。 
私を抱えなおしたハダル様が横から顔を寄せてくると、微かな痛みが頬に走った。 
執拗なまでに胸を愛撫していた指が、痛んだ頬に触れる。 
「ああ、……傷を付けてしまいましたか? 僕はマダラだから角の生える位置も向きも、普通の男とは少し違うんですよ。 
 ……普段は不便だとも思わないのですが」 
角が当たらない角度に首を傾け、私の耳朶に唇を寄せてくる。顎鬚が耳の下を微かにくすぐった。 
「君のどんな怪我も僕が全部癒してあげます、いや、もう怪我なんてさせないから僕から離れないように」 
怪我をしていない筈の内腿に手を滑らせながら、そっと囁かれる。 
 
「ずっと僕の傍にいてください、  」 
 
ああ。 
確かに私はこんなシチュエーションなんて初めてだ。 
それでも。 
こんな状態で、 
そんな声をして、 
 
 
本名を呼ぶとか反則だと思うんだけどどうなんだろう。 
 
 
「っ!!」 
身体を捩じらせて奥まで触れてこようとする手から逃れようとするが、最早体に力が入らず弱々しく身を震わせただけで終わった。 
足の付け根を撫ぜた指は、そのまま這い登って入り口の周りを柔らかくたどり、襞の合わさった場所を突き、浅いところを掻き回す。 
自分の其処に、薬のぬらつきとは確かに違う水音を感じた。 
「ふ……ぁぁっ」 
耳の縁を舌でなぞられ耳の穴を音を立てて舐られ、首筋を甘噛みされる合間合間に熱っぽく囁きかけられる。 
首を動かすとまた角が顔を掠るのが感じられたが、その痛みももう感じられない。 
必死で声を噛み殺す様子さえも楽しまれている風に、まとまった思考はとうに何処やらへ飛び去ってしまった様だった。 
「  」 
もう一度名前が呼ばれたかと思うと、ゆっくりと上半身が横たえられた。潤んでしまった目で見上げると、圧し掛かるようにして 
覆い被さってきたハダル様が、恐らく唇を重ねようとしているのだろう、顔を近寄せて来る。 
薄暗さにも目が慣れたのか、熱に浮かされたような表情が見て取れた。吐息の熱さを感じて、目をぎゅっと瞑った所で、 
 
 
ノックの音がした。 
 
 
「ハダルさま、おねえちゃんのおてあておわりましたか?」 
男の子の声。 
「カペラ爺様がバレリアお姉ちゃんにのどにいい薬草茶持って行けって」 
女の子の声もした。 
ハダル様が一瞬きょとんとした顔をした後、何とも言えない微妙な表情になったのが妙に可笑しかった。 
ふき出しそうになって咳き込み、喉の痛みを思い出す。 
「今凄く良い所だったんですがね……」 
立ち上がったハダル様がランプの明かりを大きくしたので、何やら不穏な事を呟いているその顔が今度は心底残念そうな物になって 
いるのがはっきりと見て取れた。 
ハダル様は私の体を外套で再び覆うと、ノックの主に返事をした。 
「メラク、サフラ、ご苦労様。治療はちょうど終わった所です。さ、ポットとカップをこちらに」 
「バレリアおねえちゃんだいじょうぶ?」 
「すごい声出してたからのど痛いでしょ? そのお茶すごい薬草が入ってるからすぐ治るよ! とっても苦いけど」 
お茶を持ってきてくれたのはサフラちゃんとメラクくんの姉弟。この群れで子供は彼女たちだけ、ヒトの事が珍しいのか 
随分と懐いてくれている。 
箱馬車の戸口から頭を突っ込む二人を、ハダル様はそっと、だが断固とした様子で押し戻した。 
「二人とも有難う、バレリアの様子は僕が見ていますから君たちはそろそろ休みなさい」 
「はーい」 
「おねえちゃんおやすみなさい」 
「お休みなさーい」 
先程までのどこか秘密めいて淫靡な雰囲気は、甘いが薬臭い湯気に流されていった。 
ハダル様が茶道具を手にこちらに戻ってくる。あの熱は一体何処に行ったのかと思ってしまうほど穏やかな顔で、漆塗りの様な木製の 
カップに薬草茶を注いで手渡してくれた。 
口元に寄せたカップから、吸入器の様に湯気を吸い込む。それ程苦そうな匂いはしないので、思い切って一口啜ってみた。 
──今まで口にした物の中で一番なのではないかと思うほど苦かった。薬草にブレンドされているらしいハーブの甘い香りも、 
余りの苦さと相まってダメージを大きくする役にしか立っていないように思える。息を止めて一気に飲み干そうか。 
悪戯っ子のような表情でハダル様が私に釘を刺す。 
「我慢してゆっくり飲んでください。その方が効きが良いですから」 
興が削がれた、というのはこういう状態なんだろう。先程まで私の体に触れていた男性とはもうすっかり別人になってしまった様だった。 
それとも、 
───私がまだ彼の事を良く分かっていないだけなんだろうか。 
結局その日は、涙が出るほど苦い薬草茶をゆっくり飲んで終わった。 
 
 
 
「バレリア、どうしたんですか?」 
御者席に座ったハダル様が話しかけてきた。 
ハダル様の治療の甲斐があって、私の傷や怪我は一日大人しく寝ているだけで痕一つ残さず完治した。床上げをした私は、カペラ老に 
話を聞きに行った。 
盗賊がどうなったのか、では無い。私が知るべき事では無いような気がして、と言うのは言い訳なんだろうが、でもあえて 
聞いてみる気にはなれなかったのだ。 
聞いたのは。 
「ハダル様、私に嘘を吐かれていたんですね……カペラ老に聞きましたよ、継承儀式の条件の事」 
「……ばれてしまったんですか」 
しれっとした顔で返答するハダル様に、声を抑えながらも抗議する。 
「ばれてしまった、じゃないですよ! 先日治療して頂いた時危なかったんじゃないですか!」 
カペラ老曰く、ヤギに伝承されている術と言うのは歌と踊りに託されているそうだ。 
今回ハダル様と、後二人の族長候補に伝えられる事になっているのは特に大きな術で、何でも異性との交わりを絶って体内の気の 
バランスをわざと崩した状態で三日三晩歌い踊り続けてトランスする、と言うのが継承儀式の概要らしい。 
気の交換される異性の交わり、と言うのは、具体的には粘膜同士の接触なんだそうだ。 
性交だけではなく、…………口腔性交とか、ディープキスとか。 
 
どこまでされたか聞かれました。根掘り葉掘り。 
……エロ話は苦手だって言ってるのに。 
 
話してている間顔色がえらい事になっていたらしい私をカペラ老は気遣ってくれたが、正直今更と言う気にしかなれなかった。 
思い出してまた顔の温度が上がっているだろう私に向かってハダル様はさらっと言う。 
「いえ、良いんですよ。どうせ族長を継ぎたいとも思わないので」 
「候補は全員そう思ってるから万一誰も有資格者がいないなんて事にならない様お前も気をつけてくれって言われました」 
「流石にそつの無い爺様ですね。詳しい内情がばれてしまう前に色々させて貰おうと思っていたのですが」 
悪戯を見つかった子供の顔だ。『色々』の内訳はあえて聞かないことにする。 
「それとも、バレリアは僕とああいった事をするのは嫌ですか?」 
そう来られるとこちらは困る。 
「私は……買われた身です。ハダル様が仰るのなら私は」 
「バレリア」 
ハダル様の怒った声を耳にしたのは初めてだった。 
「バレリア、僕はそういう考え方は嫌いです。君ももうこの群れの一員なんですからそういった考えは忘れてください」 
「私はヒトですよ、ハダル様。売り買いの出来る動産です。……皆さんもそうですけど、何でそんな風に私を扱うんですか」 
「バレリアは奴隷扱いされたいんですか?」 
「そういう訳ではないんですが……」 
消化しきれない疑問が、お腹の底にわだかまっているようでずっと落ち着かなかった。 
「僕たちヤギはね、バレリア。ヒトが好きなんですよ。ヒトに恩を受けているんです」 
 
「僕たちヤギは、かつては誇る物も守る物も忘れ塵芥の中で流されて生きてきた最底辺の民でした。そんなヤギに、新しい生き方を 
 伝えたのがヒトだった、と言われています。ヤギ自身ですら忘れかけていた歌と踊りとヤギの民としての誇りを思い出させ、 
 呪術の安売りをする使い捨ての刺客としての道の代わりに漂泊しながらも自らの為に生きて行く事を示してくれたのは、ヒトの世界から 
 落ちてきた一人の男だった、と」 
曖昧な印象のある、相当昔の伝説らしかった。落ちてきたのは猿楽か舞々のような芸人だったのだろうか。 
「現在自分達が何者にもまつろわぬ旅人としての誇りをもって生きて行けるのはヒトのお蔭、という伝承を聞いて僕等は育ちます。 
 だからヤギはヒトが好きなんですよ、皆。だからここにいる君を、皆は大事にします。勿論僕も。落ちて来て不幸な目にあうヒト全てを 
 救える訳ではないし、君を物の様に買ったのも旅暮らしはヒトには辛いだろう事も事実ですから誤魔化している様にしか聞こえないかも 
 しれませんが、でも」 
「いいえ、分かりました。……有難うございます」 
 
「そういう事ですからバレリア、君が嫌だというなら僕は無理強いをする気はありません」 
それを聞いて少し安心したところで、さらりととんでもない事を言われた。 
「君がその気になってくれるまで頑張ろうと思います」 
「…………頑張らなくて良いです」 
顔を見られているのが恥ずかしくなってハダル様の反対側へそむける。そこでハダル様に聞いておこうと思った事があったのを 
思い出した。このまま聞いてみることにする。 
「ハダル様、一つよろしいですか?」 
「どうしました?」 
「あの時、私が悲鳴を上げたら直ぐに来て下さいましたよね。他の人は暫くかかったのに。……どうしてですか?」 
「…………えーと」 
ああ。やっぱり。近くまで来てたんだあの時……! 
「……………ハダル様」 
咳払いが聞こえ、肩を指でとんとんと叩かれた。 
振り向いたら目の前がハダル様の顔だった。 
唇に乾いて柔らかく、暖かい感触が触れる。 
一瞬後、顔が離された。 
何も言えない私にハダル様は微笑んだ。 
「今回はこれで許してください、バレリア」 
 
いや、キスで女を黙らせる、って言うのはちょっと卑怯な手だと個人的には思います。 
 
いきなりだったから目、開けっ放しだったし……。 
 
 
「後数日でカモシカの国から熊の国に入ります。バレリアの歌はそこで初披露、と言うことになるので心の準備はしておいてください」 
そうだった。カモシカの国は何やら戦争中だと言う事で危険を避けるためか集落などに寄る事も無かったから忘れかけていたが、 
本来私は芸を買われた身である。 
「どんな歌を歌おうと思っているんですか、バレリア?」 
聞かせて欲しい、という事だろう。六弦琴を引っ張り出す。 
あのやたら苦い薬草茶は抜群に効いて、喉の具合も問題ない。二度と飲みたいとは思えないが。 
 
弦を爪弾き、そっと歌いだす。 
今は、隣の人に聞かせる為に。 
 
 
                                                             第二話  終 
 

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