「御館様、どうぞ」 
 「うむ…ちょっと濃いな」 
 「水を追いましょうか?」 
 「いや、氷が解けてちょうどよくなる」 
 
 ポール公は琥珀色のグラスを揺らして寝酒のウィスキーを飲んでいる。 
 この地方にウィスキーは無かったのだが、ヨシの父親マサミが貧しいスキャッパーに最適の輸出商品としてウィスキーを蒸留してか 
らと言うもの、今では紅朱舘主人ポール公から町民農民に至るまでこの命の水の美味さを語り合うようになった。 
 
 「ヨシ…お前…、妻を娶らないか?」 
 「はい?リサ…ですか?」 
 「そうだ」 
 「・・・・・・・・・・・・」 
 「あの娘に何か不服か?」 
 「いえ、ただ…今やっと父は母と水入らずの日々を過ごしていると思います」 
 「うむ…」 
 「しかし、私が妻を娶らば父も母も心配するでしょう。ですからせめて…」 
 「そうだな…うむ、わかった。…では婚礼の儀は来年の収穫祭とする」 
 「ありがとうございます…」 
 「リサがこの館に来て…もう15年近くになるか…」 
 「そうですね、もうそんなに…」 
 「ヨシ、お前も飲め」 
 「いえ、わたくしは…」 
 「えぇい!面倒なやつめ! 俺を一人で飲ませるな」 
 「実は…飲んだ事が無いので…」 
 「マサミの奴め、自分の割り当て分を全部一人で飲みおったなぁ〜」 
 
 ポール公はグラス越しにヨシを見てニヤリと笑う。 
 悪意も屈託も無い、子供のような純粋な笑顔。 
 命の水を楽しむ男は皆こんな顔をする…、ヨシは経験的にそれを知っていた。 
 
 「ほれ、早くグラスを持って来い、お前の初酒だ」 
 「では…おはずかしながら…いただきます…」 
 
 少し口に含んでみる、とたんに鼻を突く強烈なアルコール臭と舌が痺れるような刺激。 
 グッと飲み干してからゲホゴホと咳き込む。 
 
 「ハハハ! ヨシ! もっとゆっくり飲め それ追い水だ」 
 「御館様… からいです…」 
 「最初はそんなもんだ ハハハ! ヨシの筆おろしだ! ハハハ!」 
 「そんなに笑わないで下さい!」 
 
 そういってヨシはグイッとグラスを空けた、ガツンと来る強烈な味。 
 しかし、ほんのりと酔い始めたヨシは段々気持ちよくなって来る。 
 
 「ところでヨシ…お前、女は抱いたか?」 
 「はい? いえ…まだです」 
 「なんだ童貞か、そりゃ困ったな。どこか夜這いにでも行って来い」 
 「しかし、領主様が夜這いを禁じる令を出した…」 
 「それは領内の話だ、ここは俺の家だ、俺が許す」 
 「お〜やかたさ〜ま〜 よってますかぁ?」 
 「おい!ヨシ!どうしたその程度で…」 
 「ぼかぁまだぜんぜんよっぱらってないっすよぉ〜えぇじぇんじぇんへいきれす」 
 「ヨシ… 水を飲め」 
 「ふぁい…」 
 
 ぐびっぐびっっと水を飲んで少し落ち着くヨシ、少しずつ正気に戻ってくる… 
 
 「お… お恥ずかしいところを…」ヨシは赤くなった。 
 「ハハハ!よいよい、お前も私の子供のようなものだ」 
 「御館様…」 
 「ヨシ、お前はリサを娶れ、いいな、私が許す。子を成し子孫を残せ、次の世代だ」 
 「仰せのままに…」 
 「お前の父にも同じ事を言ったのだよ、子を残せ…とな」 
 「そうなんですか」 
 「そうだ…アリスのたっての願いだったからな…」 
 「御館様…実はリサがここへ来た事も、父とアリス様との関係も私はよく知りません」 
 
 ポール公は自分とヨシのグラスにウィスキーを注ぐとピッチャーから水を注いで水割りを作った。 
 氷の浮かぶグラスをカラカラと振って混ぜると立ち上がり窓の外を見る…。 
 
 「もう随分前の話だ…まずはリサの話からするとしよう、お前の妻になるのだからな」 
 「…はい、ぜひ、お願いします」 
 「懐かしいな…」 
 
 ポール公はグラスの中身を一気に飲み込むと一つ息を吐いて心を整理した。 
 館内を横切るスチーム暖房のパイプが祈を入れたようにカチンと音を立てなった。 
 
 
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 「で… 全部で幾らだ?」 
 「ですから… あの… 予約が入っておりまして…」 
 
 ポール公は右手を肩まで挙げると背後の従者に聞こえるよう小気味良くパチン!とスナップさせた。 
 
 「ヤー」 
 
 それだけ答えて従者が鞄から取り出したのは…、使い込まれて所々が黒ずんでいる木刀だった。 
 出会い頭の一撃で両大腿骨と腓骨を砕かれた猫の奴隷商はズリズリと這いずって逃げる努力を続けている。 
 しかし、もはや立てない状況ではイヌの兵士達に撃ち殺された仲間達の死体の中を後ずさりするしかなかった。 
 もっとも、だからといってこの地方領主であるポール・スロゥチャイムが手加減するようなイヌでは無い事を奴隷商は知っている。 
 
 かつての北伐で破壊活動を行っているテロリストの支援組織だと言ってオオカミの集落を襲い、兵士350人と逃げまどう村民2000人 
を皆殺しにした冷血漢…。 
 哀れな猫の奴隷商が知るスロゥチャイム氏の評判はそんな物だ。 
 物の話に尾ひれが付くことは良くある事だし、悪名しか話題に上らぬイヌの軍隊では、戦闘の現場で何が起こったのか極めてイヌ側 
に不利な形で外に伝わる事も実際珍しいことではない。 
 
 …実際の現場で起きた事は村民に化けたゲリラ兵の狙い澄ました待ち伏せ戦闘だった。 
 ポール公は次々と倒れるイヌの兵士達を率い飛び交う銃弾を恐れずに最後まで走り続け、敗走するイヌの部隊のしんがりを努める勇 
気ある貴族士官だった。 
 僅かに生き残った真実を知るイヌがポール公を評する時はこうなるのだが…。 
 僅か35人の村民…それも全てゲリラ兵の村民、彼らが立て篭もった村に入ったイヌの大隊は死傷率75%に達し、実に2000人近いイヌ 
の若い兵士は散華した…。 
 何も知らず、情報提供者と落ち合うために笑いながら村に入っていった若い兵士達。 
 
 しかし… 
 オオカミの国のスポークスマンが公式発表したそのニュースの内容は衝撃的だった。 
 
 僅か35名のイヌの兵士が350人以上のオオカミの兵士を一方的に攻撃し、村民2000人に殺戮の限りを尽くした。 
 おびただしい血が流れ川は赤く染まり、死体を一カ所に集めたイヌの兵士はゲラゲラと笑いながらその屍肉を貪り、食べ残した死体 
は焼かれた。 
 その煙は隣村からもよく見えたのだ…と。 
 
 事実とは勝者の側にのみ都合良く作られる物であり、歴史とはそれを積み重ねた虚構の集まりでしかない。 
 そんな事はイヌの国の国民が一番良く分かっている。 
 
 だが、この頬の肉を醜く歪ませ笑う、ブクブクと肥えた下品の固まりのような猫の奴隷商は真実を知らない。 
 彼は漏れ伝わるスロゥチャイム当主の話だけを真実だと思っているのだった…。 
 ウソも2000年言い続ければ真実になる。 
 どれ程イヌの名誉を傷付け誇りを踏みにじろうと、悪意を持って情報を操作し真実をねじ曲げることに些かの罪悪感が無い他種族に 
とって、イヌを対象にしたネガティブキャンペーンはかつてイヌの国軍に蹂躙された周辺各国国民の溜飲を下げる良い道具でしかなか 
った…。 
 怠惰なネコや自由を愛するオオカミの国の権力階級にある者にとって、そういったプロパガンダは国の"タガ"を絞める都合の良い道 
具なのだった…。 
 
 
 
 「この小さな広場があなたの墓場だ。何か言い遺す事はありますか?」 
 
 全く無表情で人の従者は木刀を構えた、しかし、恐怖に震える猫の商人がよく見れば、その木刀は仕込み刀だった。 
 鯉口を切って白刃を抜きはなったヒトの従者は斜に構えてキツイ三白眼をギロリと猫に向ける…。 
 
 「もう一度聞いて差し上げましょう。何か言い遺す事はありませんか?」 
 
 「ヒィィィ!!」無様な悲鳴を上げて猫は這うしか出来なかった。 
 摺り足で追うヒトの従者は猫の尻尾を爪先で踏みつけると、尻尾の付け根に白刃を這わした。 
 
 「ごっ後生です!お願いですから命だけはお助けください!」 
 
 ヨダレと涙と鼻水をダラダラと流した猫が命乞いしているのだが… 
 ポール公は妊娠してお腹の大きく張り出したヒトの女性が差し出したお茶を飲みつつ面倒臭そうに首を振って答えた。 
 
 「お前が買い集めたヒトの奴隷は命乞いしなかったか?」 
 
 ヒトの女性にティーカップを返したポール公は女性の従者を日影へと下がらせて椅子に座るよう命じた。 
 すぐさまイヌの兵士が薄掛けの毛布を用意してヒトの女性の背を毛布で覆う。 
 そろそろ臨月だというのに、ややもすればショッキングな光景なのだがヒトの女性も眉一つ動かさない…。 
 それどころか傍らにはヒトの男の子と女の子が一人ずつ母親に寄り添って立っている。 
 ヒトの女性は女の子の髪に付いたリボンを整え頭を撫でていた。 
 
 「ふぅ…」 
 
 忌々しげに息を一つ吐くとポール公は腰の太刀を抜き払って猫の奴隷商へ歩み寄っていった。 
 
 「御館様… 累代の宝剣をこの様な者の血で汚すのは如何かと存じます、凶事は手前が仕りましょう… どうか、お下がりください 
ませ」 
 
 猫の奴隷商をきつく睨む三白眼が僅かに笑ったように見えたのは、生きることを諦めた猫の心の問題だろうか。 
 広場の石畳を逃げ回っていた猫の奴隷商は何を思ったのかどっかりと座り直すとイヌの領主を見上げて悪態を付き始めた。 
 
 「おうおう!このド腐れ外道のイヌコロ風情がいい気なもんだな!あんた猫を殺すのか?殺れるもんなら殺ってみやがれ! 俺様が 
フローラ様へ奴隷を届けないとここで死んだとすぐに分かるらぁ!そうすりゃ絹糸同盟でイヌの国はすぐさま灰にならぁ!地獄で眺め 
てやるからとっとと殺すがいい!」 
 
 ポール公はヤレヤレとでも言いたそうに腕を広げ剣をブラブラさせる。 
 それを見て広場を囲むイヌの兵士はゲラゲラと笑い始めた。 
 失笑ではない、大笑いである。 
 
 「マサミ、寸刻みでなますに刻んでやれ、そうだ、そこの台の上に逆さまにぶら下げてからゆっくり刻んでやると良い、血もろくに 
抜けず、じっくり死の恐怖味わえるだろ」 
 
 「ヤー マスター」 
 
 マサミと呼ばれたヒトの従者は白刃を鞘に収めると猫の奴隷商の両鎖骨を砕いた。 
 鈍い音が響き猫の奴隷商は無様な絶叫を上げ白い泡を吹き始める。 
 
 イヌの兵士が集まって断頭台のような八百屋の売り台へ猫の奴隷商をひっくり返した。 
 
 「さてさて皆様お立ち会い。イヌを虐げるネコの無様な最後、とくとご覧に入れましょう。おい、間抜けでうす汚いネコ野郎、貴様 
はイヌとヒトを虐げてきたようだが…、その虐げてきた存在に半殺しにされる気分はどうだ?うん?、なんとも無様なものだな。しか 
もさっきは何だ。泣いて叫んで命乞いか?ん?死ぬのが怖いか?今の今まで奴隷もイヌも散々殺してきて、今更自分は死ぬのが怖いか 
ら助けて下さいだぁ?随分な物言いじゃないか、おいクソヤロウ!聞いてるのかド腐れ外道!みんなお前に期待しているぜ!」 
 
 マサミは逆さまにぶら下がったネコの鳩尾を力一杯蹴り上げた。 
 ネコの奴隷商が我慢ならず胃袋の中身を吐き出して、三毛の毛並みが吐瀉物で汚らしい限りだ。 
 
 「おぉ!ネコはきれい好きだと聞いていたが、随分変わったメイクアップじゃないか、さっきより男前だぜ。うん、いい男だ」 
 
 途端に爆ぜるような笑いがわき起こる。 
 やんややんやの大喝采を聞いたマサミは木刀をグッと握りしめ、苦悶の表情を浮かべる奴隷商の腹回りに何発も打ち込んでやった。 
 グシャリという手応えがあり肋骨を数本へし折ったようだ。ヒトの従者は表情を変えず木刀の先で鼻先を払ってやった。 
 途端にネコの奴隷商が鼻血を出し始める。 
 
 「なんだ、今度は赤いルージュか、随分おしゃれだな。真っ赤な口紅引いて男でも誘うか?そこらの安い売女じゃあるまいし…、ま 
さか…、お前は男に掘られて喜ぶホモだったのか?奴隷を売るのに飽きたらず男に抱かれる男娼か?そりゃ真っ赤なルージュは商売道 
具だわなぁ」 
 
 そのやり取りを聞くイヌの兵士も領民も、皆一様にいい気味だと笑っている…。 
 ひっくり返ってゲラゲラ笑う者、指を指して失笑する者。 
 下らないヒューマニズムや幻想の平等論などここには無い。 
 ここに存在するのは2000年の間、徹底的に虐げられたイヌの社会の現実と、徹底的に抑圧して楽しんできたネコ達の社会から不幸に 
も選ばれてしまった可愛そうな犠牲者だけだ。 
 かつては自分たちに征服されたネコが、今は自分たちを抑圧している。 
 そのねじ曲がった劣等感が吹き出したこういう凄惨なリンチのシーンは、イヌの社会に取って娯楽とも言える物に成り下がっている 
… 
 
 「そろそろ向こうの世界へ行く覚悟が出来たか?おめかしも済んだし良い頃合いだろ」 
 
 そう言ってマサミは再び白刃を抜きはなった。 
 冷たく光る白刃がスキャッパーの風に吹かれ眩いばかりの光を放っている。 
 
 「マサミ… ちょっと待て」 
 
 ポール公は何かを思いだしたようにネコの奴隷商へと歩み寄った。 
 ネコの表情には絶望しか浮いていない、自分はこのイヌに殺される…と、そう諦観したのだろう。 
 
 「お前を殺すとネコの国が大挙してやってくる?それはまことか?ならば実に都合が良いではないか。実に素晴らしい!闘争だよ、 
胸がときめく!イヌの国軍は一歩も国外に踏み出さず、ネコの国は一方的に…、一方的に攻めてくる!。クックック…イヌの国軍は国 
家を守るため堂々と戦争が出来る!」 
 
 新しいオモチャを手に入れた子供の輝くような目でポール公は奴隷商を見つめる。 
 
 「貴様のような下卑たネコが死ぬだけで世界は大きく変わるのだ、素晴らしいぞゴミクズネコ!イヌの国の国民は皆きっとお前に感 
謝するぞ!。ネコの奴隷商よ!お前の名前はなんだ?」 
 
 はぁ?と言う表情を浮かべるヒトの従者、そしてイヌの兵士達。 
 ポール公は意に返さず言葉を続けた。 
 
 「呪われた奴隷商にも故郷と家族があるだろう?この仕事から足を洗って大人しく国へ帰るなら…生かしてやらぬ事もないが…、私 
としてはお前をここでねじり殺してネコの国のイカレな女王に死体を届けてやりたい所だ。お前の安っぽいプライドで歴史は大きく動 
き世界は再び戦火に包まれる、ネコの国もオオカミの国も全て蹂躙してやろう。だがそれはイヌの意志ではない、お前の、おまえらの、 
ネコどもの安っぽいプライドで世界が変わるのだ… どうだ?意味のある人生ではないか、後世の歴史書にお前の名前が残るぞ、世界 
を滅ぼす戦の引き金を引いた間抜けな奴隷商としてな… クックック… だが、それを防ぐ手だてはまだ残されている、そう、お前の 
心掛け次第だ・・・・・どうするかね?」 
 
 あわわわわ…と言葉にならない状態だったが、マサミの打ち込んだ木刀が下腹部を直撃したまらず小便までダダ洩れになっていた。 
 
 「ネコの奴隷商よ あの馬車には14人のヒトが入っているが… どうだ、全部で100トゥンで売らないかね、ん?良い金額だと思う 
が…、それともあの世でのんびり髑髏でも数えるか?」 
 
 さすがにその数字を聞いてネコの奴隷商は我に返ったようだ。 
 
 「そんなはした金で売れる訳無いにゃ…」 
 
 そこまで言ったときネコの奴隷商は気が付いた。ポール公の眼差しが…さも道ばたで死を待つ哀れな生き物を見つめるかのような物 
だと言うことに。 
 ポール公は薄ら笑いさえ浮かべ家宝の宝剣を鞘に収めネコの頬を殴った。 
 
 「お前の命と世界の未来も含めて100トゥンと言ったつもりだが…」 
 
 やや前屈みになってネコの奴隷商を見下ろすと、今度は凄みのある笑いを浮かべた。 
 
 「なら100万トゥンここに積んでやろう、そして奴隷を私に売るが良い。お前は奴隷の代わりに100万トゥンを馬車に積んでスキャッ 
パーを出る、そのボロボロの体でな…。ただな、この辺は賊が出るでなぁ…、行方不明になる他国の商隊も多いし…」 
 
 スクッと立ち上がった領主はヒトの従者に顔を向けると笑いながら言った。 
 
 「マサミ、先日も馬車に金を遺したまま商人の消えた商隊があったな」 
 
 従者もニヤリとして答えた。 
 
 「はい、確か500万セパタの金がありましたが…商人の姿は遂に見つけられませぬ」 
 
 ポール公は再びネコの奴隷商に顔を近づけボソボソと語りかける。 
 
 「ボロ布同然のお主を手当し、ネコの国との国境まで送り届けて、更に100トゥンの路銀をやるのだ。しかも、世界を救えるぞ…良 
い取引だとは…思わないかね?」 
 
 ネコの奴隷商は何かを思いだしたようだ…。 
 行方不明のネコの商人が死体になってネコの国の海辺で見つかったニュースがあった。 
 ネコの国の捜査機関が捜査したのだけど、ネコの商人が使っていた馬車は遂に見つからなかった…。 
 イヌの国に繋がる川が上流から死体を運んできたらしく、不乱臭を放ち丸々と膨らんだその死体にはイヌの爪痕があったらしい…。 
 イヌは本気なんだ…、奴隷商はそれに気が付いた。 
 
 「承知致しました領主様、手前の商品を喜んでお売りいたしますので、どうぞお改め下さいませ。お気に召しませぬ場合は…」 
 
 ネコの奴隷商は吐瀉物と鮮血まみれの汚らしい顔に精一杯の笑顔を浮かべた。 
 もちろん、逆さ吊りのまま引き吊った笑顔で。 
 
 「お代は頂きませぬ…」 
 
 ポール公は満足そうに振り返ると兵士を集めた。 
 
 「医療班は不幸にも大怪我をされた商人に手当せよ、それから主計班、ヒトに食事を摂らせ名前と年齢を聞け、あと、技術を持つ物 
はその能力を聞くのだ。それ以外の物はここの後片づけ、良いな、かかれ!」 
 
 一斉に動き始める統制の取れたイヌの兵士達。 
 ヒトの従者は道具を手入れして鞄に収めると奴隷を積んだ馬車の檻に歩み寄った。 
 馬車の奥で小さな女の子が泣いていた。 
 
 「お母さんはどうした?」 
 「ヒックヒック…死んじゃった…」 
 「お嬢ちゃんは幾つだ?」 
 「…7歳」 
 「そうか…」 
 
 女の子をあやしていたのは若いヒトの女性だった。 
 ボロキレ同然の僅かな布を布団被りしているほぼ全裸の女性。 
 ボロキレの隙間から見える体にはどす黒く変色した痣が残り、ほとんど開きっぱなしの口中は前歯がほぼ全部失われている。そして、 
下着類をつけていない陰部には膿とどす黒い血の跡が残っていた。 
 前歯が一本もない理由は・・・・聞くまでも無い事なのだろう。 
 女の子をあやす女性の左手には指が一本も残っておらず、左足は膝から下が失われていた。 
 遠くオオカミの地から運ばれてきたこの女性がどんな扱いを受けていたのか… 
 
 「この世界はどこまで腐っているんだ…」 
 
 両手を握りしめるマサミの拳から血が滲む。その肩にポール公が手を掛けた。 
 
 「マサミ… すまん… この世界の倣いなのだ… 許せ… と言っても…」 
 
 従者は声無く泣いた。この世界のヒトの扱いは…余りにむごい。 
 しかし、かつて自分の居た世界を思い出すとき、この奴隷の扱いがそれほど酷いのかどうか、考え込んでしまうときがあるのも事実 
だった。 
 他の種族がヒトを虐げるならともかく、自分の居た世界では、ヒトがヒトを虐げていた事実を忘れる事は出来なかった…。 
 
 「ポール…、どうか…可能な限りの手当を…、その分俺が…」 
 「よい…このスキャッパーに来る者は皆、私の家族だ、イヌもヒトも、家族だ」 
 
 ポール公は檻の扉を開けた。恐怖に泣き叫ぶ女の子を抱きかかえてポール公はあやしている。 
 
 「もう泣かなくても良いぞ、ここにいれば安全だ… 名前は何という?」 
 「・・・・・・りさ…」 
 「そうか、良い名前だ」 
 
 ポール公は馬車の檻から出てくるとアリス夫人に女の子を預けた、アリス夫人の優しい目が女の子をあやす。もう怖くないよ、大丈 
夫、大丈夫…と。 
 ポール公は再び檻にはいるとボロボロの女性を抱きかかえた、無表情の女性は感情がどこかに消し飛んでいるようだ。 
 檻から抱きかかえて外に出された女性は太陽を見上げている。 
 イヌの兵士が椅子を持って走ってきて、ポール公はそこに女性を座らせた。 
 
 「そなたの名は?」 
 
 うつろな表情の女性はボソッと呟く「あぅぁ…」 
 
 「あや… というのか?」 
 
 女性は少しだけ頷いたようだ、左足の膝部分が化膿し死臭に近い腐臭を放っている。 
 どこでここまでの扱いをされたのか、それを問いただしたい衝動に駆られたものの、まずは手当が優先だった。 
 
 「マサミ」 
 「はっ」 
 「ヒトの奴隷を解放する、それぞれ適職に就けろ」 
 「仰せのままに」 
 「それから、けが人と病人の快復に最大限注力しろ」 
 「それは…言うまでも無く…」 
 「あと…」 
 「あと?何を??」 
 「あの薄汚い奴隷商の件だが…」 
 「はい」 
 「殺して森に埋めよ、馬車は焼き払え。殺し方は… お前に任せる」 
 
 マサミは一歩下がると慇懃に頭を垂れた。「御館様の仰せのままに」 
 
 
 ポール公は無表情の女性にそっと自らの上着を掛けた。 
 落ち着きを取り戻し泣きやんだ女の子をアリス夫人から抱き戻すと頭を撫でながら紅朱舘へ歩いていく。 
 
 いつかあのネコの奴らを皆殺しにしてやる・・・・・・・ 
 
 この世で一番汚い物を見るような眼差しでネコの奴隷商を睨み付け、誰に聞こえるともなくそう独り言を呟いた。 
 
 
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 ネコの奴隷商が『行方不明』になって3週間。 
 ポール公はネコの国の女王陛下へ親書をしたため送った。 
 
 親愛なるネコの王国の猊下へ、謹んで信書奉り候。 
 本領内にて1泊せしネコ族の奴隷商が街道脇の森にて馬車内で怪死しておりました件。 
 まことに遺憾ながら本領内をうろつく山賊の類の犯行と思われ候。 
 掛かる件のヒト奴隷も行方不明にて,まこと持って恥ずかしき事態に付き賊の討伐に全力を挙げる所存にて候。 
 付いてはネコの国の国境検問を堅め、国境線の見張りを厳重せしむようお願いするもの也。 
 以上、スキャッパー領主より恐々謹言… 
 
 慇懃無礼な文章を書くのもなかなかどうして疲れる物だとポール公は苦笑いする。 
 
 ネコの奴隷商が置いていったヒトは男が8人、女が6人。内15歳未満の男子が2人と女子が3人。7歳の女の子が最年少だった… 
 
 この幼さでネコの国に行けば、裕福なネコの富豪辺りに陵辱されて責め殺されていたかも知れない…。 
 小児偏愛の変態揃いと噂されるネコの豪商や王侯貴族に買われていったらどうなっただろうか…。 
 
 どう頑張っても収まらぬネコの大人のイチモツが幼い少女の小さな女性器を無理矢理に引き裂いて、死ぬまでボロ雑巾のような扱い 
を受けたかもしれない。ヒトを殺したところで何の罪の意識もないネコも多いと聞く。 
 そして、むしろ殺して欲しいと思うような扱いを受けるヒトの存在をポール公は知っている。 
 
 新しいもの好きなネコが面白がって遊ぶのもどうせ最初の数週間だ。 
 どんなお気に入りのおもちゃだって飽きてくれば、やれ足が邪魔だのうるさい手だのと言ってねじり切ったり引きちぎってみたり…。 
 ズタボロになるまで攻められ体を動かす事も出来ず、部屋で糞でもしようものなら躾のなってないダメなヒトめと死ぬまで殴られる 
か、ニヤニヤしながら浣腸三昧で腹が破裂するまでの拷問だろう。 
 
 泣き喚いて許しを請う姿が楽しくてたまらない…、などと身も凍るようなセリフを載せたヒトの飼育雑誌がネコの国にあると言う。 
尻の穴から腹が膨れるほど水を入れられアナルキャップで栓をして、ぽっこり腹が膨らんで苦しがるヒトを縛りあげ。フワフワクッシ 
ョンだ!などと笑っている写真が掲載されていたのを見た事もある。 
 
 棘付きのロープで全身を縛りあげ吊るされ、更に鞭で打たれ白い肌に鮮血の赤い玉を浮かべ虚ろな表情のヒト女性…。なぶり殺しに 
遊ぶだけ遊んで、それであっけなく死んでしまえば、その死体を片付ける不名誉な仕事はイヌの出稼ぎ労働者達…。 
 男の子であればまだ物好きなメスネコに拾われ、いかがわしい奉仕を強要され飼い殺しにされる可能性もあるのだろうが、女の子の 
扱いは凄惨としか言いようが無い。 
 
 しかし、それすら救いと感じる恐ろしい運命が待ち受けている場合もあるようだ。 
 ネコの国の女王に買い取られたヒトの奴隷がどうなったのかを知るものは居ない。 
 噂では慈悲深い女王が元の世界に送り返してるとも、或いは城の地下で秘密の研究に従事しているとも言われている。 
 しかし、血塗れの女王とまで呼ばれる人物が送り返すような高徳を持つ筈が無い…。 
 どうせ怪しげな実験でなぶり殺しにしているか、さもなくばヒト同士を闘わせ殺し合いを眺めて葡萄酒でも舐めているのが関の山だ 
ろう。 
 
 イヌの世界に落ちたヒトは運が良いのかもしれない。命拾いしたヒトの男女はスキャッパーで新たな人生を歩み出すことになる。 
 もっとも、このイヌの国でスキャッパー以外に落ち、そこで餓死したり病魔に倒れるヒトもまたかなりの数で居るのだが・・・・・・。 
 
 スキャッパー地方におけるヒト族の地位は、マサミの献身的な努力で他の地域では考えられないほど高い物になっている。 
 貧しく乏しく恵まれぬこの地方がイヌの国の中でも上位指折りの経済的実力を備えるに至ったのは、ヒトの世界からやってきたマサ 
ミの知識と、そして領主が集め保護したヒト達の努力の結晶だからだ。 
 
 厳しい寒さ、冷涼な気候、森は安いチーク材、丘は一面ピートに覆われ、丘と丘の間は底なしのボグになっている。遅い春から涼し 
い夏が来るこの地では小麦位しか主食になる農産物を栽培できない上にその量も決して十分とは言えない。 
 
 しかし、この世界になかった物をマサミは作り出した、彼の知識とそして執念で。なぜなら、それはマサミ自信も欲しかったから。 
 今ではすっかりスキャッパーの主力商品に成長した命の水。 
 
 そう、ウィスキーだ。 
 
 すっかり日の暮れた紅朱舘の一室、暖炉の火に照らされて片足の女性が手当を受けていた。 
 指が全て失われていた左手は内部まで壊疽をおこしており、医者はやむを得ず手首からの切断を選択した。 
 ろくな麻酔も無く気休めの痛み止めだけで切断に及ぶのは命の危険があった。 
 しかし、放っておくにもひどい怪我だ、いずれこれが元で死んでしまうだろう。 
 一気呵成に太刀で切り落とされたのだが、イヌの数に対してですら数の足りぬ僅かな医薬品をヒトにも構わず投薬し平癒に努力した 
結果、その傷口はすっかり塞がり今は右手の鏡写しな義手が付けられている。 
 
 膝の皿下で失われていた左足は化膿がひどく、大腿部中間付近より蛆虫療法を試みたのだが、案外うまく行った様で今では肉が盛り 
上がるほどに回復している。 
 骨が見えているうちに義足のソケットが取り付けられ、やや不自由ながらも歩けるようになっていた。 
 それもこれも、今回保護したヒトの中に歯科技工士や指物師が居たのが大きいのだが。 
 
 「さて、カナさんから採寸して作ってみましたが、合いますかどうか…」 
 
 そう言って歯科技工士が取り出したのは前歯の入れ歯だった。 
 無理やりに口を広げられ左右のアゴ関節が外れやすくなっている彼女の口は指一本分しか開かない。 
 そっと広げ上下の前歯を装着してみる。 
 慎重にスナップロックの位置を調整した技工士は何度か填めかえすと位置を微調整していた。 
 
 「道具が無いし材料もアレだけど…グッと咬んでみて」 
 
 女性は前歯を食いしばるのだが、入れ歯はビクともしなかった。 
 
 「有り難う御座います…、やっとまともに話が出来ます…、御館様、本当にありがとうございます」 
 
 暖炉の前で火にあたっていたポール公は笑って軽く頷くとウィスキーのお湯割りをグイッと飲んだ。 
 その向かいで同じく椅子に座りマサミもウィスキーを煽っている。 
 公式の場から一歩さがったところに来るとマサミはポール公と気楽な会話をしている事が多い。 
 孤独なポジションである領主にとっての本音を語り合える友人といった扱いなのだが… 
 
 「アヤ…、そなた、ヒトの世界では何をしていた」 
 「はい、看護士でした」 
 「カンゴシ?なんだそれは?」 
 「医師の補助をする助士だよ」マサミが横から口を開いた。 
 「うむ、で、そなたはヒトの出産に立ち会ったことがあるか?」 
 「はい、産婦人科でした」 
 「出産専門の医院で働いていたと言うことだ」マサミはすかさず注釈を付ける。 
 
 ポール公はマサミとアヤを見てからアリス婦人と顔を見合わせた。 
 
 「アヤ… そなたの仕事はここスキャッパーにヒト専門の授産医療局を作ることだ、ヒトがこの世界で無事に出産出来るよう設備と 
制度を整えよ。その予算は私が用意する」 
 
 「はい、かしこまりました」 
 
 「うむ、そういえば…マサミ、カナはまもなくか?」 
 「おそらくここ数日だと思う…」 
 「アヤ、そなたの初仕事だ、我がスロゥチャイム家執事の4人目の子供を取り上げよ、この館内のどの部屋でも良い、そなたの仕事 
部屋とする。この世界ではヒトの子が産まれても死んでしまうことが多いのだ。私はそれを何とかしたい」 
 
 「はい、では明日からでも…、ただ、この足では…」 
 「よろしい、ではヒロ、そなたも同じ仕事とする、よいな」 
 「はい、かしこまりました」 
 
 ヒロと呼ばれた歯科技工士は頷いた。 
 
 「ヒト専門の医局を作る、ここに来れば人は助かる、そんな仕組みを作りたい」 
 
 そのやり取りをアリス夫人はジッと眺めて微笑んでいる、膝の上にはリサがスヤスヤと眠っている。 
 
 「マサミの努力が実を結びましたね…」 
 「ご主人様… 全てはご主人様のご配慮の賜です」 
 「最近は名前で呼んでくれないのね」 
 「ご主人様をお名前でお呼びできるのはポール公だけですから」 
 「マサミ、アリスはお前の主だ、従者が主の名を呼んで何が悪い、遠慮無用だ」 
 「ポール公のお許しも出たことですし…昔のようにアリス様と」 
 「えぇ、マサミ、そう呼んでね」 
 「それと、俺を公付けで呼ぶなよ、こんな時は気楽に呼んでくれ」 
 「しかし…この場には…」 
 
 ポール公は苦笑いする、マサミも笑っている。 
 この二人の間にある信頼関係は主従ではなく親友や相棒と言った雰囲気なのだった。 
 二人が笑いながらウィスキーを飲んでいるシーンは周りの人間にとって実に微笑ましいシーンでもある。 
 そして、皆が微笑んでいるのをポール公は満足そうに見ているのだった。 
 もう一度グイッとウィスキーのお湯割りを煽ってグラスを眺めていたポール公はふと何かを思いだしたようだ… 
 
 「そう言えば…アリスとマサミが出会ったときの話、私は聞いた覚えがないな」 
 「あれ?ポールには話ししてなかったか?」 
 「そう言えばアナタには話していなかったわね、私がマサミを見つけた日の事」 
 
 しばらく暖炉の火を見ていたヒロが助け船を出すようにマサミへ話を振った。 
 
 「執事殿のお話を聞かせて頂けませんか、私も聞きたいです」 
 
 アヤも話に乗った。 
 
 「執事様の努力がなければ…私は死ぬところでした、是非」 
 
 アリスの膝の上で眠るリサが「おかあさん…」と寝言を言って体の向きを変えた。 
 その頭を撫でながらアリスは窓の外を眺めた。星が降るように輝いている夜だった。 
 
 
                   ■□■  
 
 
 紅朱舘の一室、ポール公とアリス夫人の寝室隣にある談話室。 
 不意に強い風がやってきてガタガタと窓を震わせた。 
 ヨシは立ち上がってカーテンを閉める、これだけでスチーム暖房の暖かさは随分変わってくる。 
 ポール公がピッチャーの水をゴクリと飲んでフゥと一つ息を吐いた。 
 随分昔のような、つい最近のような話を思い出しながら、それでもなお色々と思う事があったのだろう。 
 領主は妻アリスなのだが、この地の維持運営はポール公の責務である。 
 
 「父は…強かったんですか?」 
 「まぁな、俺も半殺しにされ掛けているし…それに…」 
 「アーサー様の一件ですね」 
 「そうだ、あのドラ息子もマサミに殺され掛けた」 
 「すいません…」 
 
 ポール公はグッとグラスを空けると笑いながら首を振った。 
 
 「違う違う、アレはマサミが悪いのではない」 
 
 その時突然ガチャリとドアが開きアリス夫人が部屋に入ってきた。 
 
 「あら、ヨシ君と一杯ですか?」 
 
 ヨシとポール公は同時に部屋の入り口へ眼をやった。 
 湯上りでこざっぱりしてるアリス夫人がポール公の隣へ腰を下ろす。 
 
 「風呂上がりの妻は色っぽいだろ?ん?ヨシ…」 
 「…あっ、あの…、その…」 
 「アナタ、ヨシ君が困ってますよ、フフフ…」 
 「ヨシ、お前も早く妻を娶れ」 
 「はい、ですからそれは来年の…」 
 「そうだな、婚礼は来年とする」 
 
 ポール公がニヤリと笑う、アリス夫人もニコニコしている。 
 
 「だからと言ってその前に夫婦の契りを交わしてはならぬと令を出した覚えはない」 
 「御館様…」 
 
 「ヨシ…、この世界のヒトは皆つらい運命を背負っている、私はそれを変えたいのだ。イヌはヒトと仲良く暮らしていける。イヌに 
ない物をヒトは持っている、そして、イヌと同じ物をヒトも持っている。勤勉で礼節を重んじ信用と信頼を大切にする、そして、自己 
犠牲の精神。マサミはかつてこう言ったよ。ヒトの世界でもイヌは最高のパートナーだった…と。お前はこっちの世界に来て生まれた 
から知らぬだろうな」 
 
 「はい…、でも、何となく分かります。ヒトはイヌと暮らしていけます」 
 
 ポール公がもう一杯水割りを作ってアリス夫人と義人にグラスを渡した。 
 
 「我がスキャッパーの地にヒトとイヌの楽園を作る、それが我が生涯の仕事だ」 
 「御館様、僅かですがお力添えをさせていただきます」 
 「うむ、頼むぞ」 
 
 3人で乾杯した命の水をヨシは初めて美味いと思った。 
 
 「ところで…アリス様」 
 「なに?」 
 「アリス様と父の出会いを教えていただけませんか」 
 「聞きたい?」 
 「はい、たった今、御館様からリサとアヤさんヒロさんのお話を伺ったばかりですが」 
 「マサミの事ね。長い話になるわよ、それでも良い?」 
 「はい、もちろんです。父がこの世界に来たときの話しを是非、アリス様から…」 
 
 アリスはもう一口飲むとグラスをテーブルに置き、ふと天井を見上げると何か見えない物をジッと見つけるようにしている。 
 それは薄れつつあった記憶の中の光景をゆっくりと思い出しているような、そんな感じがしていた。 
 
 「…かつて、スロゥチャイム家は西部14郡の一つ、ミール高原を所領としていました」 
 「ミール… 綿花と菜種の地方だな」ポール公はグラスを煽りつつ合いの手を入れる。 
 「えぇそうよ。あそこに居た頃は綿花を摘む仕事を私もよくしたものだわ…」 
 「アリス、お前も摘んでいたのか?」 
 「えぇもちろん。あれはミールの女の仕事でしたから…」 
 
**********************************************************3********************************************************** 
 
 イヌの国の西部地域。ミール高原一体をかつての所領としていたスロゥチャイム家。 
 議会と王府と軍閥の間で続く微妙なシーソーゲームの中で、アリス・スロゥチャイムの父であるジョン・スロゥチャイム卿は国軍に 
よるネコの国への侵攻を主張する急進派の一人だった。 
 既に40万余もの軍団を編成するに至ったイヌの国軍を2方面に分け、大規模な北伐と称し偽装出撃するレガード右将軍の一派に加わ 
る筈だった。 
 
 そう、筈だったのだ。 
 
 今ではすっかり国王気取りの腰抜け大将軍と揶揄されるサリクスが余計な事さえしなければ…。 
 王位継承権1位の姫を娶り国王となるはずだった100戦無敗のレガード将軍が王位に就きさえすれば…。 
 正面戦力で劣らぬだけの実力を備えたイヌの軍団は瞬く間にネコの国を蹂躙し、国力を飛躍的に発展させ、然る後にオオカミ征伐を 
本格的に行い、北と南の出口を確保する。 
 
 2000年前の大いなる試みが幻に潰えた後、数多くの戦史研究家や戦略研究所が念入りに作り上げた綿密な戦闘の手引書。 
 これこそが最高の武器になるはずだった。 
 
 そしてイヌの国は再び発展期を向かえ、この絶望的に貧しく乏しい現状を改善する筈だった…。 
 そう、全ては国王の座を手に入れたいと欲する自分の欲望で、国家も国民も売る事すら憚らなかったサリクスの醜い野望さえなけれ 
ば・・・・・・。 
 
 レガード将軍が幽閉された後、ジョン公は青年将校を集め軍の中で秘密結社を募った。 
 血気にはやる若者達はジョン公の語る夢物語に狂喜した、綿密に練り上げられたクーデター計画。 
 腰抜けのサリクス将軍を粛清し、穏健派一派を一掃してからレガード将軍を旗頭とし一気に侵攻する作戦。 
 姫を一緒に幽閉しておけば敗北時の言い訳は出来る。 
 クーデターだったのだから姫は無関係だ…と。 
 
 雪の舞う新年2月のある日、計画は実行に移される。 
 100人の青年将校が徒党を組み王都の直近へ近づき森に潜んだ。 
 ジョン公の登城を待って同時に侵入し一気に形成掌握を謀るはずだった。 
 しかし、青年将校が潜んでいる森の近くでいくら合図しても彼らは出てこない。 
 よもや失敗か?と訝しがるも時間の経過に抗えず登城したジョン公を待ち受けていたのは自らへの粛清だった・・・・・・・・。 
 
 何も知らぬ姫と薄ら笑いを浮かべる大将軍。 
 噂に聞く軍の暗部が青年将校を抹殺したのだろうか? 
 まさか…そんな事は… 
 
 飢える国民を差し置いて馬鹿馬鹿しい都市伝説の生体兵器研究に予算を付けるはずが無い。 
 忠義と信頼を根本とするイヌの国民を国家が欺く訳が無い。 
 
 ジョン公は敗北を悟った。 
 
 大将軍の下した命はミール地方の召し上げと領地代え。 
 
 スロゥチャイム家所領の地域に真銀の鉱脈があるかもしれない…と、占い師が予言したのだと言うのだった。 
 国家直轄地指定となり所領を追われる事となったスロゥチャイム家のあたらな任地は領民との関係が極度に悪化しているレオン家の 
旧領地となった。 
 同じく急進派で北伐に出征したレオン家の嫡男ポール・レオンが従軍している間に、当主ニール・レオン伯が急死し空白地となって 
いたのだった… 
 
 ネコの国との国境にほど近い南部スキャッパー地方を所領とする事になったスロゥチャイム家はミールの地で召抱えた従者達を連れ 
西部高原地帯から峠を越えてスキャッパーへと向かった。 
 その途中で季節外れの雪嵐に遭遇し小さな宿場町に3日も足止めされていのだが…、小さな旅籠の一室でジョン公は高熱に倒れた。 
 
 衛生環境と食糧事情の悪いイヌの国にあって寒さに負け発病する病は死に直結する。 
 
 過去何度も何度も繰り返されてきた悲劇、大規模伝染病ではない小規模な高速伝播性のウィルス疾患。 
 つまりインフルエンザ。 
 
 高熱にうなされる砂漠風邪、数日間の下痢と下血が続き突然死するネコ風邪。 
 イヌの顔がまん丸に膨らみトラと見間違えるほどリンパを病むトラオタフク。 
 様々な病気が繰り返しイヌの国の冬を襲って夥しい数のイヌを彼岸の彼方に送っている。 
 
 医療はあっても薬事が乏しく、そして僅かな薬品は恐ろしく高価。 
 しかも、その製造を行うべき原料の大半は他国からの信用供給に頼る現状。 
 緊急人道援助といったところでイヌの国の人口が半分になっても発動される事はないだろう。 
 他国へ病魔が広がらない限り、そんな事を期待するほうが間違いなのだった。 
 
 小さな宿場町に発生した重篤な病人の存在は小さな村の壊滅をもたらす疫病神かもしれない… 
 宿場の長は恐る恐るたった一人の娘、アリスに早急な出立を促すのだった。 
 
 「アリス様、小さな宿場を守る為…どうかご英断をお願いいたします」 
 
 悲壮な覚悟で話を切り出す村長の顔は引きつっていた。 
 垂れ耳が後ろへと下がり髭は震えている。 
 このままでは…。村民はみなそう思っていた。 
 
 「雪が収まるまで後1日だけ、お待ち願えませぬか?」 
 
 アリスは無表情でそう言った。 
 いや、看病に疲れきっているからなのだろう。 
 端正な顔立ちの貴族の娘だ。 
 同じ宿場に居合わせた人買いの商人達も目を見張る美貌ではあったが、今そこに居る疲れ切ったイヌの娘にその影は無い。 
 
 「では…あと1日だけ」 
 
 村長はそう言って旅籠のロビーを出て行った。深い溜息を一つついてアリスは部屋に戻る。 
 いっそこのままどこかで死のうか…、サリクス将軍はこうなる事を見越して父を転封したに違いない。 
 どす黒く渦巻く情念がグルグルと頭の中を回っている。 
 
 
 「お父様…」 
 「…アリス、私はもうダメだろう、今夜遅くにここを出立する」 
 「しかし!」 
 「よい、道中どこか森の中で私を埋めよ、国土を汚す罪を許したまえ」 
 「お父様…」 
 「アリス、苦労を掛ける…。よき夫を迎えスロゥチャイム家を再興せよ、頼むぞ」 
 「お父様、どうかそんな事は!」 
 「アリス…私の夢は潰えた…負け犬は静かに舞台から下りるのだよ」 
 「とうさま・・・・・」 
 
 ミールを出た時には多くの家来が付き従ったのだが、道中で路銀が乏しくなるにつれ暇を与え故郷に帰らせてきた。 
 何時の間にか僅か3人の従僕を連れるだけの小所帯となったスロゥチャイム家。しかし、この部屋には親子二人しか居ない。 
 3人の従僕ですら感染を恐れ部屋に入らなくなったのだった…。 
 
 「お父様、そんな事をおっしゃらず…」 
 「アリス…すまぬ」 
 「どうかお休みください、氷嚢の中身を替えてまいります」 
 
 アリスがそういって氷嚢を抱え部屋を出たとき、建物の外でドサリと音がした。 
 屋根から雪が落ちたのだろうか?と窓の外を見たアリスの視界に入ってきたのは血だらけで転がるヒトだった。 
 
 「アリス、何の音だ?」 
 
 部屋の中からジョン公が問いかけてきた、アリスはもう一度そのどこからとも無く落ちてきた"モノ"をシゲシゲと眺める。 
 
 「お父様、窓の外に誰かが倒れています・・・・ヒトかも知れません」 
 
 暗くてよく見えないのだが、おそらく倒れているのは人間だろう、そしてヒト族だと思うのだが。 
 
 「お嬢様!」 
 
 僅か3人の従僕がノタノタとアリスの所へやってきた。 
 どうしましょうか?見て見ぬフリでしょうか? 
 それともいっそシメて食べてしまいましょうか? 
 ヒトの肝は滋養があると言います。御館様の病も… 
 
 「おまえ達、あのヒトをこの部屋に入れなさい」 
 
 え?っと訝しがる従者をジョン公は怒鳴りつけた。 
 
 「怪我をしているであろう!、苦しむ者を救うのも貴族の役目だ!アリス、その者の手当てをせよ」 
 
 従者達はヒトを抱えて部屋に連れてきた。 
 どこから落ちたのかアチコチに擦れた跡が残り、左足からは血を流していた。 
 ブツブツと文句を言いながらも気を失っているヒトをジョン公と同じ部屋に入れたアリスはジョン公の氷嚢を代えた後でヒトの手当 
てを始めた。 
 
 「お父様… このヒトをどうするのですか?」 
 「わからぬ、ただな、見過ごすにはあまりに酷い怪我だ」 
 「お父様…まずは自分の体を…」 
 
 アリスはそれ以上何も言わず血を拭い、左大腿部に負った裂傷は肉を合わせ包帯を巻いた。 
 痛みにうなされるヒトが激痛に耐えられず目を覚ましたとき彼が見た最初の光景はベットに横たわる犬の顔と、フワフワ赤毛の垂れ 
耳を頭につけた美しい女性だった。 
 
 「ここは? あなたは? なぜベットに犬がいる?」 
 
 意識を取り戻したヒトは起き上がろうとしたが、大腿部の傷がそれを可能とさせなかった。 
 
 「私はアリス、まずは横になりなさい」 
 「アリス? アリスだって?」 
 「私を知っているのですか?」 
 「私の知る犬にアリスと言うメスが居たのだが…」 
 「それはヒトの世界の話ですね」 
 「ヒトノセカイ?」 
 
 苦痛に顔を歪めつつヒトは強引に上半身を起こした。体中が痛み呼吸が苦しい… 
 
 「ゔぅ… 肋骨が折れてるな…」 
 
 アリスはヒトも寝かせようと手を伸ばした、しかし、その前にヒトは自ら横になって腹式呼吸をしている。 
 シャツの上から掌を肋骨に当てて折れている所を探している。 
 
 「まずいな… 肺が…」 
 
 そう言うとヒトは目を閉じた、そして次の瞬間… 
 
 「ぐぉ!おぉぉぉぉぉ・・・・・! いてぇ!」 
 
 胸の骨を指を押した後でわき腹をグッと押し込み骨の位置を矯正した。 
 ヒトの口から赤い泡が出てくる。 
 呼吸が苦しいのかサカナのように口をパクパクさせて空気を吸い込もうとするが、どうやらうまく吸い込めないようだ…。 
 顔色が青くなり手が震えている、典型的な酸欠症状。 
 
 「アリス… 口から息を吹き込んでやれ… その者が死んでしまう」 
 「え?父様?口から…ですか?」 
 「そうだ!早くしろ!酸欠で死ぬぞ」 
 
 アリスは一瞬躊躇した、しかし、白目を向いて苦しんでいるヒトを見て覚悟を決めたようだ。 
 大きく息を吸い込んだアリスはヒトの唇に自らの唇を重ね息を吹き込んだ。 
 
 「あまり強く吹くなよ、そっとだ、ゆっくり、ゆっくり」 
 「ぷは! どうでしょう?」 
 「うむ、顔色がよくなった」 
 
 ヒューヒューと轟くような音を上げてヒトが息を吹き返した。 
 段々と顔に赤みが差してきて危険な状態を脱した事がアリスにもわかった。 
 
 「死ぬかと思った… ありがとう…」 
 「いえ、礼には及びません、これも…これは貴族の義務です」 
 
 ヒトの男の鮮血で唇を真っ赤に染めたアリスがハンカチで血を拭う。 
 その仕草を見ながらヒトの男は訝しげに口を開いた。 
 
 「貴族?貴族だって?」 
 「わがスロゥチャイム家は2000年続く名門です」 
 「決してそうは見えないけど…本当なの?」 
 
 アリスと落ちてきたヒトは不思議に噛み合わない話を続けている。 
 状況をよく掴めないヒトと、それを保護したイヌの関係はかなり微妙だ。 
 
 「ヒトの男よ そなたはどこからやってきた」 
 
 もはや半分死んでいるはずのジョン公が口を開いた。 
 
 「イヌがヒトの言葉をしゃべるってのは…イヌ好きには天国だな…」 
 「ヒトの世界にもイヌがいるのかね?」 
 「あぁ、人類1万3千年の歴史の中で既に8000年は一緒に暮らしている」 
 「ヒトの世界でイヌはどんな扱いをされているかね?権利は守られているか?」 
 「・・・・・・・・そうでもないな、俺はイヌ好きだが、イヌ嫌いには仇扱いだ」 
 「では、ヒトの若者よ、この世界の因果を教えよう」 
 「さっきからこの世界だのあっちだのと言ってるけど…ドッキリなんだろ?」 
 「・・・・・・・・・・・・・・無理も無いか」 
 
 ジョン公はゆっくりと上半身を起こした。 
 途端にゲフゴフとこもった咳をついて上身を屈めてしまう。 
 アリスは咄嗟に起き上がって駆け寄った。 
 
 「お父様、無理をしないで」 
 「アリス、私の背に枕を入れよ」 
 「お父様、お体を横に」 
 「よい、既に半分死んだ身だ、最後にこのヒトに因果を…」 
 
 二人で話をしているところへヒトが歩み寄ってきた。 
 
 「そなた…歩けるのか?」 
 「なんとかね… それより、あんた風邪か?」 
 「軽い伝染病だ、そなたに移れば死ぬかもしれんが」 
 「イヌのしゃべる世界に来たんだ、死んでるようなもんだろう」 
 「そなたは生きている、そなたはこっちに落ちてきた」 
 「へ?んじゃ…地獄みたいなものか?」 
 「地獄ではないが…ここはそなたの居た世界とは違う世界だ」 
 
 話を上手く飲み込めていないヒトの男は目をパチパチさせながら何かを考えている。 
 腕を組みやや俯いて・・・・自らの身に降り掛かった事の真実を探っていた。 
 
 「ひどくつらい世界って感じか?」 
 「その様なものだろう、ここはヒトにとってつらい世界だ」 
 「つらいって、そんな事言ったってさぁ、女房がいれば…って・・・・・あ!」 
 「どうした?」 
 「ここに来たのは俺だけか?…女が落ちてこなかったか?」 
 「そうだが?アリス、外にいたのは彼だけだったな?」 
 「はい、お父様」 
 「ほんとか?」 
 「あぁ、嘘はつかない」 
 
 人の顔から見る見る赤みが消えていく… 
 
 「カナァァァァァァ!!!!!!!」 
 
 突然そう絶叫してドアに走って行こうとした人はバランスを崩し倒れた、動かぬ足を強引に動かし立ち上がるとドアを開ける。 
 しかし、そこにはスロゥチャイム家の従者3人が顔を並べていた。もちろん、イヌなのだが…。 
 
 「俺のほかに誰も居なかったのか?」 
 
 ジョン公はドアの外に立っていたイヌへ声をかけた。 
 
 「スミス、リーナー、コール。他に人は居たか?」 
 「いえ、倒れていたのはこのヒトの男だけです」 
 「間違いないか?」 
 「はい、その後周辺を捜索しましたがこのカバンだけでした」 
 
 ヒトの男はその場に崩れた… 
 
 「バカな・・・・・・そんな・・・・・・・バカな・・・・・・・・嘘だろ・・・・・・・・・」 
 
 「だれか…連れ添いが居たのか?」 
 「あぁ…妻が…一緒に居たはずなんだが…」 
 「では、どこか違うところへ落ちたかもしれん」 
 「探す方法は無いか?」 
 「無い事は無い…ただ…」 
 「ただ…?なんだ?」 
 「吹雪の夜に一粒の麦を風に飛ばし、翌朝その麦を探すようなものだ」 
 「カナ…」 
 「そなたの妻は…ゴフ!」 
 「お父様!」「御館様!」「上様!」 
 
 ジョン卿は突然喀血して崩れた。 
 アリスはあわてて上半身をベットに寝かせがジョン卿の咳は止まる気配すらない。 
 ヒューヒューと辛そうに喉を鳴らし血を吐いている。 
 ヒトの男は自らの身の上に起きた事象を理解し切れていないようだ。 
 だが、息苦しそうなジョン卿を見ているうちに何かを思いついたようだ。 
 青ざめた顔を起こしベットに集まるイヌ達に声をかけた。 
 
 「それではダメだ、身を横にして血を吐かせるんだ」 
 
 崩れていたヒトはゆっくりと立ち上がりイヌの貴族に近寄った。 
 
 「私の命はもう僅かだ、ヒトの男よ。この世界に落ちてきてつらいだろうが…しっかりと生きよ、やがてそなたの生まれた世界へ戻 
る方法を誰かが見つけるかも知れぬ…。希望を失った者は死ぬのだ、私のように死ぬのだ、諦めが人を殺す、諦めたものから死ぬ。だ 
から生きよ、生きて妻を捜すがよい。この世界でヒトは奴隷として生きる。しかし、希望を捨てず生きよ、さすれば… グハ!」 
 
 再び喀血して今にも死にそうなイヌだが、目はまだ生きている… 
 
 「諦めを踏破した者だけがこの世界で生きてゆける、ヒトもイヌも、全ての生き物がそうなのだ。ヒトの男よ。そなたを待ち受ける 
運命はつらく苦しいが、それでも生きよ。朝を迎えぬ夜は無い。やがて来る陽の光を信じて闇を歩むが良い。そなたには妻を捜す目標 
があるではないか。泥を啜っても生き続け目的を果たせ、さすれば道は開ける…」 
 
 「なんかすげぇ話だけど…、要するに俺達人間に生存権は無いって事?」 
 
 「その通りだ、そしてこの世界で人間とはヒト以外を指す言葉だ、ヒト族は人間のウチに入っていない。だからもう一度言おう。諦 
めるな、諦めが人を殺すのだよ。諦めを踏破したヒトだけが人道を踏み越える権利者となる。けっして諦めるな… そして、この世界 
を楽しめ」 
 
 「俺は…誠実、松田誠実。マサミと呼んでくれて良い、あなたの名を聞きたい」 
 
 「私はジョン。ジョン・スロゥチャイム。48代目スロゥチャイム家当主である、そしてこれが私の娘であるアリスだ、スロゥチャイ 
ム家の親族はこの二人になった」 
 
 「あなたの家に何が起きた?貴族といえば…」 
 
 「貴族の義務を果たし従軍した息子は皆死んだ、家督を継ぐものはアリスだけなのだ、だから婿を取らねばならぬ。イヌの名家でわ 
がスロゥチャイムより下位の家から婿を取り家督を継がせて再興をはかりたい…」 
 
 ゴフゴフと血を吐くイヌの貴族、マサミと名乗ったヒトの男は指をこすり合わせ息を吸った。 
 
 「呼吸が苦しい病で療養してるのに空気が乾きすぎている、コップに一杯お湯を注ぎ湯気をゆっくり吸うと楽になるはずだ」 
 
 「マサミと言ったな… そなたは医師か?」 
 
 「いや、そんな高級なものじゃない。ただ、ヒトの世界にも同じ病があり、その対処法をヒトはよく知ってるだけだよ」 
 
 「それはなぜかね?」 
 
 「ヒトは…有史以来その病と闘ってきた、そしてその病で死んだヒトは軽く10億はいるはずだ。世界規模で病が吹き荒れヒトはなん 
ども絶滅の危機と闘って来た。だからヒトは自然とその対処法を身につけた」 
 
 「10億…凄い数だな」 
 
 「俺がこっちにくる前の世界では、ヒトの総人口は60億を越えていたからね」 
 
 マサミはカバンを受け取るとチャックを開けた。中からマルチビタミン・ミネラルのサプリと滋養強壮ドリンク。そして抗生物質の 
入った薬を出した。 
 
 「スロゥチャイム卿、病の療養にも拘らず、しばらくまともに食事を摂っていないとお見受けしますが、どうですか?」 
 
 「さようだ、まったく食事を受け付けぬ」 
 
 「では…お嬢様、お父上にコップ一杯の白湯と洗面器一杯のお湯を用意してください。それから、そちらの方々、ドアを閉め暖炉の 
近くに鍋を置いて湯を沸かして。スロゥチャイム卿、私が知る限りの医療を行います。ただ、残念ですがあなたはそう長くはなさそう 
です…」 
 
 「あぁ、分かっているいるよ、我が生涯を終える日がすぐそこまで来ている」 
 
 湯を沸かせといわれた3人の従者が暖炉に鍋を掛け湯を沸かし始める頃、アリスがコップ一杯の白湯と洗面器を用意してきた。 
 
 「マサミさん…はい、どうぞ」 
 
 「ではスロゥチャイム卿…」 
 
 「ジョンでよい」 
 
 「ならばジョン卿、ゆっくりと洗面器から湯気を吸ってください。そしてまずはこれを飲みましょう、栄養剤です」 
 
 マサミはマルチビタミンのタブレットを10錠近く取り出して半分を砕いてお湯に溶かし、残りをジョン公の口に入れた。 
 途端にビタミン系のすっぱい味がジョン公の口に広がる。 
 味覚が麻痺しつつあるものの、強烈な味は舌を痺れさすほどでいい気付け薬の役目も兼ねているのだった。 
 
 「噛み砕いてゆっくり飲んでください」 
 「うむ…、苦いしすっぱいな」 
 「良薬は口に苦し…です。ヒトの諺です」 
 
 ジョン卿はボリボリと噛み砕き喉に落とし込んだ。 
 喉が焼けるように痺れるものの、久しぶりに味を感じているのは嬉しい事だ。 
 
 「うむ、いい言葉だ。ヒトにも高度な学問があるのだな」 
 「そうでなければ、人は月まで行けません」 
 「ヒトの世界ではヒトは月に行ったのか?」 
 「えぇ、そうですよ、月だけではなくもっと遠い星まで」 
 「素晴らしいな…」 
 
 マサミが次に取り出したのは銀のパックに覆われた薬だった。 
 直射日光と外気を完全に遮断するパッケージを破り取り出したのは白いペレット状の薬。 
 
 「さ、次はこれです、特別な薬です、4錠を一つずつ噛まずにゆっくり飲んで」 
 「うむ…」 
 「そして最後にこれを飲んでください、体を強くします」 
 
 最後に出てきたのは、いわゆる栄養ドリンクの小さなパッケージだ。 
 16種類の生薬が配合されたそれは効き目こそ強烈なのだが・・・・ 
 
 「…強烈な臭いだな」 
 「まだ蓋を開けてませんよ?」 
 「イヌの鼻は鋭いのだ」 
 「ヒトの世界の犬と同じですね」 
 「そうか」 
 
 
 ジョン公はゴクリと一口で栄養ドリンクを飲み干した。 
 
 「さぁ、あとはゆっくり寝ましょう、一晩中火を焚いて部屋を暖かくし湯気を充満させます…」 
 
 「マサミ…と申したな。私はもう間もなくだろう、だが最後に一つだけやり残した事を見つけたよ。この世界ではヒトは奴隷だ。し 
かし、主を持つものは多少優遇される。むやみに殺されずに済む。だから、今私に施してくれたささやかな礼だ。そなたを私の従者と 
する。アリス、中央にそう報告しろ。貴族の家持ち奴隷ならば、少なくともそこらの民草に弄られ死ぬ事は無い…」 
 
 ジョン卿は息を整えつつ言葉を紡いだ。 
 少しずつ体に吸収されている薬効を実感するには至っていないものの、適度な湿度と温度により呼吸器系の苦しさは緩和されつつあ 
るようだ。マサミはジョン卿の言葉を反芻して確かめているのだが… 
 
 「ひどいな…そう言う事か…。あぁ、分かった、分かったよ、妻を見つけるまで、そうしよう。妻を見つけるまで俺は死ねないから 
な。あなたと契約しよう。ジョン・スロゥチャイム卿。あなたを私の主人とする事を私は了承する、妻を見つけて共に死ぬ日まで」 
 
 うむ…と、そう頷いたジョン公はゆっくりと目を閉じた。 
 先ほどまでヒューヒューと喉を鳴らしていたはずなのだが今は静かだ。 
 やがて薬が効き始めジョン公はゆっくりと眠りに落ちた。 
 
 
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 ジョン卿が眠りに落ち安定しているのを見届けマサミはソファーに腰掛ける。 
 その向かいには疲れきった表情のアリスが椅子に座っていた。 
 
 「お嬢様…アリスと言ったけど…」 
 「えぇ、そうです、アリスです。それがなにか」 
 
 アリスの表情にははっきりと警戒の色があった。 
 今までヒト奴隷を見た事が無いわけではない。 
 ただ、こんな近くで見て話をするのは初めてなのだろう。 
 身分階級の上下として相容れない相違があるとアリスは考えていた。 
 
 「いや…、こっちの世界がどうとかヒトの世界とか、なんかちょっと混乱してる」 
 「誰でも世界が変わればビックリします」 
 「しかし…イヌと話をするのは不思議な気分だな…」 
 「ヒトの世界のイヌは話をしないのですか?」 
 「えぇ、その通りです、それどころか2足歩行もしないし、手の指もそんなに発達していない…、だいたいそもそも…こんなにヒト 
の感覚で言う美人じゃない」 
 「そうなんですか?」 
 
 マサミは鞄を引き寄せると中から財布を取り出した。 
 財布の中にはつい最近まで一緒に暮らしていたイヌの写真が入っていた。 
 
 「これがヒトの世界のイヌの姿です。ムサシという名前でした」 
 「・・・・・・・・4本足。その名はどういう意味ですか?」 
 
 「私のいた国に実在した剣豪の名です、強そうな名前と言う事でそう名付けました。そして実はこの子の母犬がアリスというのです。 
素晴らしいイヌでした、賢く凛々しく明るかった。なにより、ヒトと一緒に遊ぶのが大好きでした」 
 
 「そうなんですか…。ヒトの世界のイヌは遊ぶだけなのですか?」 
 
 「いえ、そんな事はありません。盲目のヒトを先導する盲導犬、難聴のヒトの耳代わりとなる聴導犬。それ以外にも牧羊犬、作業犬、 
狩猟犬。そして、軍用犬」 
 
 「いろいろ仕事があるのですね」 
 
 「そうです、我々ヒト種は猿から進化したのですが…、最初に家畜化した野生の生き物がイヌでした。そして高度に品種改良と掛け 
合わせが行われ…、つまり、ヒトにとってイヌは違う種族の中で最も親しんだ生き物なんですよ。最良のパートナーだった」 
 
 「パートナー?」 
 
 「はい、そうです」 
 
 「…つまり、イヌはヒトが改良を加えてきた種族なんですか?」 
 
 「ヒトの世界…私の居た世界では…ですがね」 
 
 アリスはもう一度マサミの渡した写真をじっくりと眺めた。マサミと一緒に写った赤樫色の毛に覆われた大型犬の写真だ。その毛の 
色はアリス達赤耀種の体毛とよく似た色だった。そして長く立派に伸びた飾り毛はジョン公にも生えていて、傍目から見ると実に風格 
ある姿になっていた・・・・・・ 
 そして、マサミと一緒に写るイヌはアリスから見れば・・・・ハンサムな好青年の顔立ちに見えた。 
 
 「ならば、私達はその末裔でしょう」 
 
 「え?」 
 
 「イヌの古い伝承にそうあります。遠い昔の世界、沢山の生き物の中で最初に神と暮らしたのはイヌだった…と。神はイヌの姿を変 
えて様々なイヌの血族が生まれた…」 
 
 「でもヒトは神ではありませんよ」 
 
 「口伝ではこう言います、神は自由に空を飛び大きな海を越え大地に穴を穿ちその中を駆け抜けた。神々の膨大な魔力が夜を昼のよ 
うに照らし、闇を埋め尽くした魔力の光は世界中に光の網を掛けた。そして、丘よりも高い塔をいくつも築き、石や岩をも溶かす炎を 
操り、星々の輝きですらその手に掛けた。しかし、神々は些細なことから諍いを繰り返しやがて地上に不浄の太陽を作った、その不浄 
の太陽は神の世界を蝕み続け、神々が吐き出す呪詛の言葉は黒い怨念となって世界を覆ってしまった。やがてそれは大洪水をもたらし 
神の世界は終わった…と。」 
 
 
 マサミはうな垂れてジッと手を見ている。 
 
 「核兵器と…二酸化炭素ですね」 
 「それはなんですか?」 
 「核兵器とは全てを焼き払う小さな太陽ですよ、悪魔の炎、破壊の光です」 
 「それはどれ程凄い物なのですか?」 
 
 マサミは回答に困った、核兵器の威力などどうやって説明するのだ…と。 
 そして… 
 
 「その威力は…夏を冬に変えてしまうほどです…」 
 「冬?」 
 「えぇ、山を削り谷を埋め森や草原を一瞬で焼き払い…、大陸を引き裂き島を沈め一瞬で100万人を消し去って…そして不毛で腐敗 
した世界を作り出す…最悪の物でした」 
 
 それから長く沈黙が続いた。 
 双方とも何を言うべきか考え込んでいる。 
 全く異なる世界からやってきたヒトはイヌにとって神だったのだろうか?。 
 
 
 「ヒトの世界の話です…。ヒトは争う事ばかりしていた時代がありました。それは長い歴史の中で繰り返し繰り返し起こりました。 
全てを焼き払い夥しい血が流れ、人々は信じあいながら憎しみ合いました」 
 
 「それはこの世界も一緒です。イヌは世界を統一しようと世界に戦いを挑みました。そして同属であったオオカミに裏切られ、厳し 
い環境に押し込まれ…、そしてこの通りなのです。常に飢えて常に貧しく常に乏しい生活です」 
 
 「…ヒトは信じる神の名に於いて愛を説き、友情と説き、信じる事の大切さを説き続けました。が、それと同時に神の為、神の名誉 
の為、信じる神の世界を作る為、違う神を信じるヒトを滅ぼさんと争いました。ヒトは神の教えを守り人を殺す事を禁忌としましたが、 
神の教えで殺してもよい存在を同時に作り…そして…」 
 
 「ぎりぎりのバランスを保つ為に弱い存在を意図的に作ったのですね」 
 
 「その通りです」 
 
 「この世界ではその役目をイヌが負っています…」 
 
 「では…イヌはその境遇に甘んじているのですか?」 
 
 「そうです、そして世界はイヌを見張る事で諍いを回避しています。イヌが再び暴れると困るから、今は仲良くしていよう…。そう 
言う世界です」 
 
 「・・・・・・・・率直に言います、偽善と欺瞞にまみれた実に酷い世界ですね」 
 
 「え?」 
 
 「ヒトの世界の政治的な話です。仮想敵を作るなら、その仮想敵が弱体化しないように適度な支援を行うのが常識です。生かさず殺 
さず…ですよね。」 
 
 「…その…通りです…ね…。考えてみれば…、イヌは何度も滅びそうになって、そのたびにギリギリで回避しています…」 
 
 「生かさず…殺さず…、まったく同じ事をヒトはヒトにしていました。肌の色が違うと言うだけで、軽い気持ちでなぶり殺しにされ 
るヒトが居たのです…。まったく同じだ」 
 
 「マサミと言いましたね」 
 
 「あぁ、そうです」 
 
 「この世界ではその位置にヒトが居ます…。つらい話ですが…、あなたの妻がもしこの世界のどこかに落ちて生きていたとしても…、 
メスのヒトに待ち受ける運命はあまりに過酷です…。この世界では…」 
 
 「・・・・・・・・やはり、やはりそうですか。先ほどジョン卿が言われた言葉を聞きながら、たぶんそうなんだろうと思っていました。奴 
隷の身分にあるなら…、それは不可避ですからね…。慰み物にされるのは世の倣い…。男は殺され女は犯される…」 
 
 「つらい話を…してしまいました。どうか許されたい…」 
 
 「お嬢様…諦めるに足る話をありがとう。しかし、それでも人は生きてきた。私は諦めず朝を待ちましょう…。朝を…」 
 
 マサミは我慢ならず崩れて泣き始めた。 
 太ももから血を流しているにも関わらず泣いている。 
 声を殺して、床を掻き毟り泣いている。 
 
 「マサミ…さん…、お願いです。スロゥチャイムに力を貸してください。その代わり、あなたの奥様を探すことに力をお貸しします。 
どうか…」 
 
 「…妻は身重でした。間もなく私は子供を抱く筈だったのですよ…。なんで…」 
 
 声にならない声で嗚咽し続けるマサミ…。アリスはなんと声を掛けて良いのか分からなかった。 
 ふと思い立ってアリスはお茶を入れた。何か飲めば少し落ち着くかもしれない。そんな気がしただけだった。 
 
 「マサミさん。お茶をどうぞ。口に合いますかしら」 
 「お嬢様…」 
 「どれほどつらくても、朝を待ちましょう…」 
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 
 「スロゥチャイムは転封されました、左遷です、これから酷い所へ行きます」 
 「酷いところ?」 
 「えぇそうです。父はもう新しい任地で何かをする事は適わないでしょう」 
 「では、お嬢様は重責ですね」 
 「えぇ、ですから…どうか私に力を」 
 
 アリスは祈るような表情でマサミの目をジッと見つめた。絡み合う視線が無言の会話を続けているようだ。 
 これから自分がどうなるのか、その不安に押しつぶされそうなマサミは今現在最良の選択をする事が良いと判断したのだった。 
 
 「わかりました。では私の出来る範囲で…」 
 「ありがとう…」 
 
 マサミはおもむろにカバンを開けて薬を取り出した。 
 
 「こんどはなんですか?」 
 「鎮痛剤です」 
 「痛みますか?」 
 「えぇ、ちょっと…ね」 
 
 タブレットを4錠ほど口に放り込むとお茶で流し込んだ。 
 ズキズキとする痛みで何とか怒りを抑えているような状態だ。 
 シラフなら辺り構わず暴れていたかもしれない。 
 あまりにショッキングな事に直面すると人間の脳は真っ白になると言うが…。 
 
 「お嬢様…俺もここで寝て良いかな?」 
 「はい、毛布を用意しましょう」 
 「いや、平気です。ジョン卿の保温用に火は起きてるし湿気もある。問題ない」 
 「ここでは病が移る危険が…」 
 「大丈夫です、流行り病は熱と湿気に弱いですから」 
 
 そう言うとマサミはソファーに横になった。 
 折れているわき腹がズキズキと痛むが、それよりも心の痛みのほうが勝っていた。 
 
 「マサミさん…毛布を敷き寝てください、骨が折れているでしょう?」 
 「実は酷く痛いです、助かります」 
 
 毛布を重ねて敷き横になったマサミ。 
 薬の影響がジワジワと浸透し眠りに落ちてしまったようだ。 
 アリスはそっと歩みよるとマサミの顔をシゲシゲ眺めた。 
 ヒトをこれだけ間近で見たのは初めてだった。 
 このヒトのこの口が…私のファーストキスだ…。 
 これが…。 
 
 そう思うとアリスは何か急に恥ずかしくなってきた。 
 ヒト風情にファーストキスを自らしたと言うのが何か酷く下劣な行為に感じた。 
 父の診療をしてくれたとは言え、これは奴隷階級のヒトなのだ…、それを私は・・・・・ 
 軽くいびきをかいて寝ているヒトをたたき起こしたい衝動に駆られたが、その前にふと気が付いてしまった。 
 私は今夜どこで寝れば良いのだろう?と。 
 
 やむを得ずアリスは椅子の背もたれを脇に挟んで寝る姿勢に入った。 
 窓の外は雪。風がやみ全ての音が雪に吸い込まれていくような静かな夜。 
 父ジョンがいつ死ぬか分からない緊張の連続で、傍目で見ている以上にアリスの体に負担を掛けていたようだ。 
 いつの間にかアリスはぐっすりと眠りに落ちた。 
 明け方近くになってマサミが目を覚まし痛むわき腹をカバーしつつアリスを抱き上げソファーに寝かしたのだが、アリスはまったく 
気が付いていないようだ…。 
 
 どこか遠く、意識の届く範囲ギリギリ辺りでドサッ!と何かが落ちる音をアリスは聞いた。 
 それは窓の外、屋根に積もった雪が朝日に解け下に落ちた音だった。 
 その音はぐっすりと眠っていたアリスの眠りを覚まし活動再開を促すに十分なものだったようだ。 
 いつの間にかソファーの上で毛布を被って寝ていた事に未だ気が付いていないようだが… 
 
 「だからなマサミ…、貴族は常にそれを心掛けねばならない」 
 「はい、心得ました」 
 「うむ、覚えの早い者は助かる、そなたはヒトの世界で高い教育を受けたようだ」 
 
 アリスは起き上がって周囲を確認する。 
 昨夜までここに寝ていたはずのマサミはベットの横に座り、ジョン卿は上半身を起こしてマサミと話し込んでいる姿を見つけた。 
 
 「お父様お体は…」 
 「おぉアリス、目が覚めたか。ご覧の通りだ随分回復した気がする」 
 「そうですか…」 
 
 アリスがウルウルしつつソファーから立ち上がった。 
 
 「今、なにか食べるものを用意してきます」 
 「いや、それには及ばぬ。マサミがこれをくれた」 
 
 マサミが取り出したのはゼリー状の流動栄養食…、つまりウィダーなどのゼリー食品だった。 
 
 「これは完全栄養食品です、吸収が早く消化もいいです、そして体の負担が少ない」 
 「しかも、果物の味がして美味いな」 
 「最後の一つでしたが…同じようなものを私が作りましょう」 
 
 ジョン卿とマサミはすっかり主従の関係に納まっていた。 
 ジョン卿はまるで息子に教え諭すようにこの世界の常識や礼儀作法をマサミに説いている。 
 そして、貴族の家の従者として必要な知識も一緒にマサミは学んだ。 
 
 「貴族の存在などヒトの世界では既に物語の1ページになっています」 
 「では、少々驚くかね?」 
 「いえ、貴族の物語を何度も本で読みましたから、むしろ面白そうですね」 
 「そうか」 
 
 マサミはジョン卿の背中に手をやりベットに寝る手助けをした。 
 
 「では御館様、もうしばらくお休みください。少なくとも熱が引くまでは安静にしていないとダメです」 
 「うむ、世話になるな」 
 「御館様、主人は主人らしく振舞ってください、従者に世話になるなどと言う主人は居ません」 
 「そうだな、出来の悪い主人を許せ」 
 「仰せのままに」 
 
 笑って胸に手を当て会釈したマサミはアリスに視線を移した。 
 
 「お嬢様、朝食にしましょう」 
 「マサミさん、あなたは…」 
 「本日付けでスロゥチャイム家執事を拝命しました、さん付け不要です」 
 「そうですか…、では、とりあえず下の食堂へ行きましょう。父上、食事に行って参ります」 
 「うむ、宿の主人によろしく伝えよ。マサミ、頼んだぞ・・・」 
 
 
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 すっかり夜が更けてしまい紅朱舘は寝静まっている。 
 時折強い風が吹いて窓を鳴らすのは、すぐそこまで冬将軍が来ている事を風が知らせているのだろう。 
 深々と冷える夜が始まるとスキャッパーの秋は終わりを迎えるようだ。 
 やがて、来る日も来る日も雪が舞う季節がやってくる…。 
 
 「そんな訳でね、結局あと1日と言っていた宿を出たのは1週間後だったわ。馬に乗ってやっとの思いでたどり着いた宿を父は歩いて 
出て行ったの。マサミが作った食事は父の体力を随分回復したわ」 
 
 グラスの淵に目を落としアリスは遠い昔を思っている。 
 そこから先にも様々なエピソードがある筈なのだけど… 
 
 「結局ね、そのままこれと言ってイベントも無くすんなりとスキャッパーに到着したのよ。夏の暑い頃だったけど、実際ここは夏で 
も朝夕が涼しくてビックリした。そしてね、紅朱舘がとにかく酷い有様で…ヒトが入れる状況じゃなかったの。早い話がお化け屋敷状 
態よ、なんせオオカミの時代に完成してから1000年近く誰も住んでなかったから。父は最初の3日間を城下の宿で過ごし、その間に私 
とマサミと最後まで一緒に居た3人の従者が領主公室を片付けて父の最初の部屋にしたわ」 
 
 アリス夫人はどこか他人事のように話を続けた。 
 
 「そしてね、それから程なく…10月終わりくらいだったかな、秋には父もそろそろ最期を迎えそうでね、領民は誰も挨拶に来なくて 
困り果てて。ミールから持ってきたお金もそろそろ終わる頃で、もうウチも終わりね…って話をしたわ。その頃にポールの乳母だった 
って人が訪ねてきてね、スキャッパーのしきたりを教えてくれたの」 
 
 「あの…例の収穫祭のダンスの件ですね」 
 
 「そう…、マサミと踊って、程なく雪が降り始めて、年を越す事無く父が死んで…。あの冬は大変だった。次の一年は駆け足で過ぎ 
て…、でも色々やったなぁ…。麦の秋蒔き化指導とか消雪路開削とか…。そして、2年目の春節祭の前にポールが帰ってきたのよ…」 
 
 「懐かしいな…、遅くに夜這いに行ってマサミに殺されかけた」 
 
 「そうね、あの時のマサミは本当に凄かった…。で、その秋に結婚して…。ヨシ、今日はここまでにしましょう」 
 
 「はい、アリス様、ありがとうございました」 
 
 椅子から立ち上がったポール公がグラスの残りを一気に喉へ流し込んでグラスをテーブルに置いた。 
 
 「ヨシ…夜這いに行くなら早い時間にしろよ、遅くに行くと殺されかける」 
 「御館様…はい、覚えておきます…。では失礼します、おやすみなさいませ」 
 
 静かにドアを閉めて部屋を後にしたヨシは音も無く廊下を駆け抜けて自室へ帰った。 
 ただ、初めて飲んだウィスキーがかなり効いている様でベットに潜り込むと程なく眠りに落ちた。 
 命の水を飲みすぎると翌日の朝がどうなるのか… 
 
 ヨシはやがて経験する事になる… 
 
 
 第1話 了 

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