大きな窓から秋の日差しが射し込む紅朱舘の大ホール。 
 僅かに開いた窓から日溜まりの匂いが入ってくる。 
 
 ポール公の長男アーサーはパンパンとリズム良く鳴るアリス夫人の手拍子にあわせ、赤い絨毯が敷き詰められた大ホールを右へ左へ 
優雅なステップを踏んでいる。 
 スキャッパーの秋は盛大な収穫祭が行われるのだが、その最後を飾る青空舞踏会に向けて練習に勤しんでいた。 
 
 スキャッパーの民衆が総出で街の広場を埋め尽くし踊るそれは近隣地方でも有名になっていて、誰彼構わず手に手を取って踊るその 
祭りはスキャッパーの若い男女にとって出会いの場にもなっている。 
 今年、そのパーティーのど真ん中でアーサーは在る人物の手を取って踊らねばならない。 
 
 スキャッパーに隣接するル・ガル南部8郡の一つ。ラウィック地方。 
 
 かの地を統べるトーマス・ボールト卿の長女ジョアンはアーサーの許嫁。 
 両者とも結婚適齢期と言う事で今秋に婚礼の儀が行われるのだが、その前に大きなイベントが一つ控えている。 
 次期領主となるアーサーの妻・ジョアンを民衆にお披露目しなければならない。 
 誰も見た事もないような領主やその一族などスキャッパーの民衆は決して支持しない。 
 民衆の前に姿を現し踊るそれはスキャッパーに伝わる伝統の一つであり、民衆と貴族を繋ぐ大切な儀式でもあった。 
 
 ダンスの練習はここ数日朝から晩まで休み無く続けられ、そろそろ足腰がおぼつかなくなってきている。 
 アーサーが手を取って一緒にダンスの練習をするのはマサミの長女マヤ、彼はマヤの主人でもある。 
 従者が疲れましたと言うまで主人が疲れたなどと言うわけには行かないのだ。 
 貴族の責務とは言え、母アリス妹マリア従者マヤの3人に入れ替わり立ち替わり踊られては、アーサーもそろそろ限界だった・・・・。 
 
 「アーサー、ターンするときはもっと足を振り出しなさい、相手の裾を踏みますよ」 
 「はい、母上」 
 「ちょっと油断するとダメね」 
 「・・・・・・・・はい」 
 
 アリス夫人が再び手拍子を打って二人が踊り始める。 
 手を取ってワルツを踊っているのだがアーサーの足は限界だった。 
 優雅にターンを決めてかっこよく決めるつもりだったのだが顔が引きつっている。 
 当然マヤはそれに気が付いて、それとなくアリス夫人に目配せした。 
 
 「ちょっと休憩しましょう」 
 
 アリス夫人は突然そう言って手拍子を止めた。 
 フゥと息を一つ吐いてアーサーは膝に手を下ろし状態を屈める。 
 マヤもステップを踏んで疲れてはいるのだが、それでもアーサーの疲れに比べればどうと言う事はない…。 
 
 「アーサー、30分休憩にします、少し休みなさい」 
 「・・・・・はい」 
 「マヤ、ちょっとこっちに」 
 
 アリス夫人はそう言ってマヤを連れホールを出ていった。 
 アーサーはホールから誰もいなくなったのを確認してホールにひっくり返り大の字になっている。 
 見つかれば父ポールより厳しく叱責されるのは間違いない。 
 常に気品良く振る舞う貴族にあるまじき姿だが、疲れているのは仕方が無い。 
 
 だが… 
 
 「どうしたアーサー、だらしないぞ…」 
 
 グッタリとしているアーサーに声を掛けたのはポール公だった。 
 
 「父上…」 
 
 咄嗟に起きあがろうとしたのだが… 
 
 「よい、そのままでよい、疲れを回復しろ、若いんだから5分もすれば元気になる」 
 
 などと言って笑っている。 
 しかし、幾ら父親の赦しとは言えさすがに寝転がっている訳にもいかずアーサーは起きあがった。 
 まだ肩で息をしているが、それでも若いだけあって表情に力が戻りつつあった。 
 
 「男はつらいが…女も辛い、今頃ジョアンもしっかり絞られているぞ」 
 
 ポール公は笑いながら窓の外に目をやった。 
 アーサーは起きあがる気力も無く絨毯にだらしなく座っている。 
 
 「父上、いつからスキャッパーではこの様な事が?」 
 「うむ、実は私も詳しくは知らないが…」 
 「そうなんですか」 
 
 まったく…何でこんな面倒なことを… 
 アーサーの心中を代弁するならせいぜいそんな所だろうか。 
 しかし、これも重要な貴族の役目といえなくもない… 
 
 「ただな、アリスがここの領主になったときはマサミが相手を努めて踊ったそうだ」 
 「そうなんですか」 
 「うむ、で、私がここに着いて結婚したときにお披露目の舞踏会を行った」 
 「では、その時が…」 
 
 ポール公は振り返って絨毯の上を進んだ。その所作には一片の隙もない。 
 貴族とは常に優雅に振る舞わねばならない…、かつてポール公はアーサーにそう諭した事がある。 
 歩く所作、座る所作、その全てが領民の目標足り得なければならないのだ…と。 
 
 ポール公は絨毯の上でステップの足運びをして見せた。 
 父から子へ受け継がれる大切な物を今伝えたいのだとする父親の心意気をアーサーは感じていた。 
 
 「領主の務めとして民衆を前に踊る習わしが古くからスキャッパーに在ると聞く」 
 「では、その為に…」 
 「うむ、それ自体にどれ程の意味があるのかと問われれば返答に困るものだ。しかし、領民にとって領主は神にも等しい存在である。 
そう思われるからには領主にもそれなりの責務と責任があるのだ。」 
 
 ちょうど良いタイミングでドアが開きアリス夫人がマヤを連れて戻ってきた。 
 部屋着のアリス夫人に対して、先程までメイド服だったマヤはサテンブルーのダンス衣装を着てハイヒール姿でやってきた。 
 
 「ちょっと早いけど…って、アレ?、アナタ、どうしましたか?」 
 「うむ、用件が片づいてな、アーサーの様子をな…、で、それはどうした事だ?」 
 「あぁ、アーサーの癖が治らないのでね、癖を治さないとどうなるか体験させるの」 
 「で、正装か」 
 「そう」 
 「うむ…、しかし、それは…」 
 
 そこまで言ってポール公はシゲシゲとマヤを見た。 
 ちょっと恥ずかしそうにダンス衣装を身にまとうマヤは、はにかんだ微笑みでモジモジしている。 
 
 「父上、マヤの衣装に…なにか」 
 「うむ…、その…なんだ…」 
 「アナタ、はっきり言って良いですよ、私がマサミと踊ったときの衣装だって」 
 「え゙?」 
 
 モジモジしていたマヤと訝しがっていたアーサーは一緒に声を上げた。 
 ただ一人、アリス夫人だけがあっけらかんと笑う。 
 
 「奥様…あの…、その様な大切な物を…」 
 「い〜のよ、ぜんぜん良いの。ダンスの衣装はダンスのために在るんだから、使わないと損でしょ。それに、アナタも一度はそれを 
着て皆の前で踊って貰いますからね」 
 
 アリス夫人はとんでも無いことを、さもそれが何か問題?とでも言いたげな顔で笑って言うのだった。 
 少なくともこの世界に於いてイヌの貴族の女性がまとって踊るための高価な衣装をヒトが着て良い筈がない。 
 だが、アリスは間違いなくそれを着て踊れと言った。 
 マヤのもう一人の主人であるアリスがそう言ったのだった。 
 それはマヤにとって神の命と同義であった。 
 
 しかし… 
 
 「はい?奥様?あの、私は…」 
 「主人である私の言いつけが何か不服?」 
 「いっ…いえ、とんでもありませんご主人様。しかし…」 
 
 さすがにポール公も見かねたようだ。 
 
 「アリス…、それは主の命としては些か問題だぞ…」 
 「そうかしら?」 
 「それは領民がお前に贈った物ではなく、遙か以前からの歴史的な物なのだろう?」 
 
 「それはそうですけど…、実際は立て替える前の紅朱舘でホコリを被っていた物よ?。それに領民が新たに献上してくれた物は別に 
ありますし…。問題無いでしょ。むしろそう言う経緯のある物だからマヤには良いのではないかしらね。」 
 
 アリス夫人はニコニコしながら話を続ける。 
 絶対なにかたくらんでいるぞ…と、周囲は最大級に警戒態勢なのだが、「なぜだ?」と訝しがるポール公の言葉を意に介さずアリス 
夫人は言葉を続けるのだった。 
 
 「マヤは小さな頃から領民の前に出ることが少なかったですし、館詰めの者以外ですと、この子を知るのは納品の業務に在る者くら 
いです。ですから、お披露目は必要ですし、それに…とっておきの箱入り娘ですからね」 
 
 「アリス…」 
 
 「私の従僕はマサミが最初で最後です、この子の本当の主はアーサーです。しかし、妻を娶る以上は従僕を男にするものでしょう? 
ならば、ジョアンとの婚礼前に、一度はこの子とアーサーを領民の前で踊らせてお披露目してあげたいじゃない。」 
 
 「アリス…おまえ…」 
 
 「アーサーが新たに従者を従えたとき、この子はどうするのですか?お払い箱ですか?それとも領民のだれかの所へ嫁がせますか? 
ヒトの女性がどういう運命を辿るか知らない訳じゃないでしょ?それともそう言うのがお望みですか?」 
 
 「・・・・・・確かに、その通りだが…主人を無くせばヒトは辛い運命だが…」 
 
 「文句ありますか?」 
 
 アリス夫人の言葉が少しだけ強くなった。 
 それが何を意味するか理解出来ない訳では無いだけに…色々と怖くなる。 
 
 「いや…ない…」 
 
 ポール公は妥協を選んだようだ、この場合は懸命な判断であるのだが。 
 
 「はい、決まり。じゃぁマヤは収穫祭の時にアーサーと踊るのよ。ジョアンとの婚礼前だから筋も通るでしょ?」 
 
 「しかし、母上、収穫祭の最後はジョアンと…」 
 「だ〜か〜らぁ〜!、収穫祭で2回踊るの!」 
 
 「マ〜ジっすかぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」 
 
 今の今まで上品に振る舞っていたアーサーの素がボロッと出てしまい、その場にいる者が皆笑った。 
 アーサーだけは顔が引きつっているのだが。やや涙目のマヤは笑いながら必死に涙をこらえていた。 
 自分をここまで大切にしてくれる主との出会いをマヤは心の中で神に感謝した。 
 
 「ところで奥様…いえ、ご主人様。この服を奥様も着て踊られたと…」 
 「そうよ、昔の話ですけどね」 
 「初めて聞きました」 
 
 「そうか、話をしていなかったわね。もう随分昔の話…、立て替える前の紅朱舘をマヤは覚えてないかしらね」 
 「すきま風の酷い建物は覚えています、いつも母が毛布に入れてくれましたから…」 
 「カナ…、そうか、あの頃のマヤはカナといつも一緒だったものね」 
 
 僅かに空いた窓の隙間から強い風が入ってきてカーテンを揺らした。 
 まるで誰かが風に乗ってホールへ入ってきたような…そんな風の流れ。 
 青いダンスドレスを着て立つマヤのスカートがふわりと風に揺れた。 
 ポール公はぼんやりと眺めていたがふと何かに気が付いたようでぼそりと言った。 
 
 「このドレスのエピソードを知るのは私達夫婦だけだ。アリス、話してくれるか?」 
 「えぇ、良いですよ。休憩時間延長ね。マヤもアーサーも良く聞きなさい」 
 
 二人は無言で頷いた。 
 アリス夫人はマヤの後ろに立つとエリや裾を指で伸ばしながらドレスのラインを整えていく。 
 まるで母親が娘の衣服を整えるように丁寧に。 
 マヤは手を前で揃えて待ちの姿勢になった。 
 アリスはそれを見て微笑んだ。 
 
 このドレスはね、レオン家の先祖がこの地に入ってきたとき、領民が皆でお金を出し合って拵えたものなのよ。 
 言うなれば領民の心。 
 領主にはそれを受け止める義務があるの… 
 
 
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 ━━マサミ!どこに行ったの! 
 
 アリスはややイライラしながら従者を探していた。 
 手狭な紅朱舘であるがすっかり寂れた館内はガラクタと様々なゴミに占領されていた。 
 後の世になってこの地方の富を象徴する紅朱舘の新居が完成するのだが、それはまだまだ未来の話である。 
 
 「あ!はいはい!!ここですお嬢様!」 
 
 僅かな蓄えをはたいて買った執事服を埃だらけにして、マサミと呼ばれたヒトの青年は何かを探していた。 
 物の道理としてこの辺に無ければおかしい…、そう推測したヒトの青年が探していたものは・・・・・ 
 
 「あ!ありましたよ!お嬢様!!ありました!!」 
 
 そういってガラクタとゴミの様なものの中から引っ張り出したもの。 
 それは古ぼけたトランクに納められた舞踏会の衣装だった。 
 そもそも片づけを先にするべきなのだが、アリスの父ジョン公の容態はそんな事を言ってられるほど悠長な状況ではなくなっている。 
 
 先代当主がこの地を所領として以来、この館の中を本格的に整理したものは居ないようだ。 
 スロゥチャイム家当主が転封される前の領主であった人物は戦砦を本拠と住居にしていたので、本来この地方の最高ポストが座るべ 
き所座が長らく空席となっていた。 
 それを理由の一つとして所領を取り上げられ政争に敗れた没落貴族が押し込まれてしまったのだけど、その詳しい話をジョン卿はマ 
サミに一切していない… 
 
 「そうそうこれよね、こんな古臭い衣装を後生大事に持ってるなんて…」 
 「しかしお嬢様、これが無ければスキャッパー地方では領主と認められぬと」 
 「わかってるわよ… でも、こんな黴臭い古ぼけた服なんて着たくないわ」 
 「しかし、それでは御父上の最後の努力を…」 
 
 そこまで言ってアリスを見上げたマサミだったが、間髪入れずアリスの右手がマサミの横面を叩いた。 
 
 「おだまり! 嫌なものは嫌なの!」 
 
 やや憮然としつつもマサミは衣装を綺麗にたたみ、カバンの底から綺麗に装飾された靴を取り出して懐から取り出した布切れで綺麗に拭いた。 
 
 「お嬢様…、領民を手なずけねばオオカミに寝首をかかれますよ、よいのですか?」 
 
 昔々のこの地方では領主の妻は踊り子を勤めるのが慣わしとなっていたそうだ。 
 領主が女性の場合は領主が踊り子をつとめたという。 
 オオカミとイヌがまだ同じ種族だった時代、比較的豊かなこの地方を巡って同属の覇権争いが絶えなかった頃の話。 
 
 かつて、イヌの血族の統べるこの地を簒奪し勢力下においたオオカミの血族が戦勝祝いの宴を催している時、慰み者として連れてこ 
られたイヌの女性が淫らに踊りオオカミ達を魅了した。 
 その時、踊っていた娘はボンヤリとしていたオオカミの喉笛を切り落として命令指揮系統が大混乱に陥ったんだとか。 
 その隙を突いてイヌの軍勢が一斉に襲い掛かりこの地に駐屯していたオオカミを根絶やしにしてしまったのだと言う。 
 大混乱に陥った宴の席で攻め込んでくるイヌの軍勢を見たオオカミが逆上して踊り子であるイヌの娘を噛み殺してしまったそうだ。 
 
 宴の席でオオカミの喉を切り落とした踊り子はイヌの貴顕の娘だったとか。 
 宴の余興で陵辱の末に半裸としか見えぬ踊り子の衣装を着せられ踊らされた屈辱に負けず、その場にあった刃物でオオカミを切り続けたエピソードにちなんでいるのだとアリスは言った。 
 だからこの地では領主たるもの、自らの恥辱より大儀を重んじている事を領民に知らしめねば領民は認めぬのだと言う…。 
 
 やがてそれは貧しい領民達が少しずつ出し合ったお金により段々と豪華で可憐でより常識的な物になって行ったのだと言う。 
 淫らに踊った宴の席の余興舞踊ではなく、貴族の集う宴の席で優雅に踊る舞踏会然とした物へ変わっていった。 
  
 ただ、やはりそれは身分階級として低い方から数えたほうが早い者達に見せるような物ではなく、貴顕階級にある人々の嗜みを平民 
達の前で再現し、貴族と平民の垣根の低さを領民にアピールする物に変わっていったのだという。 
 漂泊のサーカスよろしく貴族階級にある者が腰を折り平民の前で頭を下げて、そして平民の前で踊ってみせる。 
 他人に奉仕してお金を稼ぐ下賎な階級に身を窶したとしても、それでもなお領民を大切にする心があるなら・・・・ 
 ではその衣装を着て領民の前で領民と踊って見せて下さい・・・・と。 
 
 アリスの父に領地を取り上げられた形の先代レオン家の当主ニール・レオン卿は、代替わりの際に大切な領民との取り決めを行わな 
かった。 
 そのためレオン家がその前の領主と変わる際に領民がレオン家に奉じた舞踏会の衣装はそのままに残されていた。 
 随分と古臭いデザインのまま。 
 
 レオン家当代当主のポール公はいまだ独身であり、その母は舞踏会衣装をまとって踊る事をする間もないまま死去。 
 領民との関係が冷え切っていると言って議会や王府が出したレオン家への沙汰は領地召し上げだった。 
 
 貴族院での政争に破れた没落貴族を押し込むのに、これほど条件の良い土地は早々あったものではない。 
 これ幸いと転封されてしまったスロゥチャイム当主は旅の途中で悪い風邪に罹り死神と一緒にこの地へと入ってきた。 
 もっとも政争に破れ最悪の場合は転封されると予測したスロゥチャイム家の貴族院議員が一計を案じ、この地がそろそろ召し上げに 
なるのを予測して上手く仕掛け上手く負けたとも言えるのだが…。 
 
 領民は新しい領主となったスロゥチャイム家の当主、アリスの父が病の床に伏せ今わの際だと言うにも関わらず見舞いどころか領主 
謁見の願いすら出してこない。 
 そうなっては一人娘のアリスが精一杯の努力をせざるを得ない状況になってしまったと言うわけだ。 
 病床に伏せる父を思ったアリスは深い溜息をついてマサミの畳んだ衣装を広げ体の前に合わせた。 
 
 「どう?似合う?」 
 
 力無く笑うアリスが精一杯気丈に振舞ってるのを見てマサミは跪き答えた。 
 
 「お嬢様…いえご主人様、よく御似合いです、とても…綺麗です」 
 
 「…マサミ、一緒に踊って」 
 「はい」 
 
 散らかった紅朱舘のフロアをパッパと片付けたマサミはアリスの手を取って優雅にステップを踏み始める。 
 アリスは半泣きだった… 
 
 「マサミ… とても恥ずかしい時、 あなたはどうする?」 
 「そうですね…そのような時は『やめて!…マサミ お願いだから察して』」 
 
 マサミはステップを止めると恋人を抱きしめるようにアリスを抱きしめた。 
 僅かに震えるアリスの肩を抱いて静かに言った。 
 抱きしめるがままに身を任せるアリスの震えは痛々しいほどだが…、どれ程震えても事態は解決しない。 
 これだけは自分自信で覚悟が必要なのだ。 
 
 「ヒトの世界の話です… 私が生まれた国とは違う古い王政の国がありました。皆平等な社会となったヒトの世界で貴族が息づく国 
でした。その国の貴族王族にはブルーブラッドと言う言葉がありました」 
 
 「それは…なに?」 
 
 「ブラッドとは血液の事です。血は赤いものですが、王侯貴族には青い血が流れていると言うのです、赤く燃え滾る血ではなく常に 
冷静でいる青い血です」 
 
 「…なぜ?」 
 
 「支配階級にある者は滅多な事で興奮する事無く、常に冷静にものの損得を考えて生きなさいと言う教えなんだそうです。本質的に 
は違う事柄も含まれて居ますが、そう言うものだと考えてください」 
 
 「そうなの…」 
 
 「貴族や王族は領民を従えているのではなく、領民国民から支えられている存在なのだと教えているのです。ですから、貴族は街で 
買い物をする時は市民領民が並んでいても先頭に割り込んで買い物をしますが咎められませんし、道を歩く時はどれほど混雑していて 
も道を開けさせたりします」 
 
 「貴族ならそれくらい当然よね」 
 
 「しかし、いざ戦となれば貴族は最初に国を出て闘いに行きます。常に優先されている分だけ、最初に死ぬ義務を負うのです。つま 
り貴族の権利は貴族の義務を果たさないと得られません」 
 
 「・・・・・・・つらいね」 
 
 「えぇ、ですから貴族から降格を望み処罰される者も多くありました。そして、平民から貴族に並んで賞される準貴族という制度も 
ありましが、それは一代限りの特別なものなのでした。国家と国民の為に特別な功績を挙げた者には貴族の権利を認め、サーの称号を 
得て国家の騎士となるのですが、それは国家と国民のため、死ぬまでの義務を負う分に値する功績を挙げたと見なされて賞賛されるの 
です」 
 
 「貴族に生まれるってそんな事なのね」 
 
 「はっきり申しあげてその通りです。生まれながらに重い責務を負った存在です」 
 
 「恥ずかしい思いをしてまで…」 
 
 「お嬢様…」 
 
 「なに…」 
 
 マサミはアリスの肩から手を離して一歩下がり腹に手を当て腰を折った。 
 
 「ひとかけらのパンを得るために体を売る娼婦が世の中にはいるのです。一枚のコインを得るために人を殺す者もいるのです。貧し 
い小作農は小麦を運ぶ馬車が落としていく落ち穂を拾って食いつなぐのです。真に貧しい者は他人の食べ残しを集めもらって生きてい 
きます。教会が残飯を集め乞食に施しているのをご存じでしょう。物を売る者は買う者に頭を下げます。皆、生きるために必死なので 
す…。恥を恥と思えばそんな事はできませんよね…、ならば、それが出来ぬ者はどうするのでしょうか」 
 
 「え?それって…どうしろって言っても…」 
 
 「ならば名誉ある死を選びましょう。人に頭を下げ恥を掻く前に死にましょう。スキャッパーの新領主は愚昧な領民にその姿を晒す 
事無く死を選んだ…。それで良いでしょう」 
 
 「でも、それでは父の…」 
 
 「ジョン公は戦に行かれました。命のやり取りの現場へ自分が死ぬ覚悟を決めて行かれました。自らの生死をかけて貴族の義務を果 
たされました。戦場で果てればその亡骸がどうなるかをご存じ無いとは言わせませんよ…。では、お嬢様、あなたはどうしますか?子 
供のようにイヤイヤと言って駄々をこねますか?そんな領主を誰が支持しますか?だれも支持しやしませんよ。領民の心に耳を傾けて 
下さい。領民の生きる姿をその目に焼き付けて下さい。必死に生きる領民が領主を支持するように。領主は領民を愛するべきです」 
 
 「マサミ・・・・・・」 
 
 「敬天愛人。それこそ貴族に最も必要なものだと私は思います」 
 
 アリスはうつむいてしまった。 
 僅かに震える肩が痛々しい程なのだけど、これは自ら乗り越えて行かねばならない事なのだろう。 
 誰にでもある子供と大人の境界線をアリスは今、自分の意志で踏み越えて行こうとしている。 
 
 「お嬢様、いえ、ご主人様。良く聞いて下さい」 
 
 マサミは一歩進んでアリスの手を取った。 
 
 「あなたが私に命じれば、私は民衆の前であなたの手を取りましょう、そして一緒に踊りましょう。民衆が求めあなたがそれを命じ 
るなら、私は民衆の前で裸で踊りもしましょう。そして、闘えと言われれば獅子や虎や悪魔や…それこそ神仏にでも闘いを挑みましょ 
う、例え負けると解っていても主の命ならば私は喜んで死にましょう。しかし、それは私の意志ではなくあなたの意志だ。お嬢様、あ 
なたの意志が私にそうさせるのです…。領主の心一つで領民は酷い目に遭います。民衆はそれを知っているのです」 
 
 「つまり…わたしの意志があなたや領民を生かしも殺しもする…と?」 
 
 「その通りです。お嬢様、あなたの立ち振る舞い一つが領民の運命を左右します」 
 
 「マサミ、わたしが何をするべきかやっと解りました…、愚かな主人を許して…」 
 
 「さぁ、早くここを片づけ練習しましょう、そして領民にお姿を見せましょう。ジョン公は冬まではとても…、ならばせめて新たな 
領地の領民をお父上にお見せしましょう。お父上が安心してヴァルヴァラへ…逝けるように」 
 
 半泣きのアリスから涙が消えた。 
 目に力が甦り目標を見据えたようだ。 
 
 「マサミ… ここを片づけなさい。私は着替えます」 
 
 「お嬢様、仰せのままに」 
 
 マサミは手短に答え小さなホールを片づけ始めた。 
 大きなガラクタと思っていた物はどれもこの地方の冬を乗り越えるのに必要な物だった。 
 大きな炊込口を持つ薪ストーブは分解されたまま整備された形跡が無く、再び組み上げるまで時間を要すると判断された。 
 大鍋だと思っていた物は部屋の中で使う湯浴み用の湯桶だった、外で湯に浸かれば氷るのだろうか?。 
 窓に打ち付ける鉄製の窓鎧、換気塔を蓋する鉄帽子。雪備えの道具達はどれも鉄製だ。 
 厳しい環境故に木製では凍結破裂が多いのだろうか? 
 純粋にゴミだと判断される様々な物があったのだが、ここにある以上はなにか使い道があるのだと考えて館の外に運び出し覆いをか 
ぶせた。雪が降る頃になって使い道が解るのだろうけど、今はそんな悠長な事を言っていられる状況ではない。 
 
 久しぶりに紅朱舘の正面大扉が開きヒトの従者がせっせと片づけに勤しんでいると言うのに、領民は寂れた商店通りから冷ややかに 
見ているだけだ。 
 しかし、支持率の低い現状ではそんなモンだろうとマサミは思い、精一杯の愛想笑いを浮かべて仕事を進めた。 
 
 やがて小一時間も片づけただろうか。 
 紅朱舘の1階ホールが広くなり、ガラクタに埋もれていた暖炉と大きな執務机が姿を現した。 
 この広さなら100人が収まって踊っても問題無いだろう…、そう思わせるだけの広さになった。 
 ホコリを被り煤けてしまった上着を脱いでヨゴレを払い、ズボンの裾を揃えてマサミはアリスを待った。 
 ややあって綺麗にドレスアップしたアリスが階段からゆっくりと降りてきた。 
 父ジョン公の手を取って。 
 
 「マサミ…すまんな。世話を掛けさせる不甲斐ない主を許せ」 
 「御館様!!」 
 「良い…、お主とアリスに誰が稽古を付けるのだ。先のないワシの役目じゃ」 
 
 マサミは整理したガラクタの中から椅子を取りだしジョン公の前に置いた。 
 ゆっくりと椅子に腰を下ろす。 
 息をするのも億劫なほどにやつれた姿だが、長く貴族院を努めし風格を備えた顔は見る物を威圧する風貌だった。 
 
 「マサミ、踊ったことはあるか?」 
 「ヒトの世界の踊りなら映画などで見たことは何度かあります」 
 「ふむ…アリス、マサミの手を取れ」 
 「はい、父様」 
 
 ジョン公はゆっくりとしたペースで掌を打ち始めた。 
 初心者にはゆったりリズムの方が踊りにくいのだろうけど、逆に言うとこれで鍛えれば覚えも早いと言うところだろうか。 
 民衆が集まる収穫祭まであと5日しかない。 
 手っ取り早くでっち上げるには、これが一番なのだろう。 
 
 「マサミ、もっと背筋を伸ばせ。アリスは肘を曲げるでない」 
 
 日が暮れ始め窓から射し込む光が部屋の奥まで届き始める頃、ジョン公は疲れ果ててしまったのか手を打つのをやめた。 
 既に血流が半分途絶えていた手は青黒く変色してしまっている。 
 しかし、今度は足で床を叩いている。 
 それはまるで今にも止まりそうなジョン公の心音のようだった。 
 
 「マサミ、半歩引いてターンしろ、足を延ばしてだ。アリスはもっとふんわり動け、動きが直線的だ。そして二人とも足元を見るで 
ない、相手の顔を見て動く方向も見て」 
 
 午後の光が失われ音もなく夕闇が来る頃、一旦練習を止めたマサミが手早く夕食を作り始めた。 
 その間にアリスはジョン公を2階の寝室へ案内しジョン公の衣服を変えてたりしていた。 
 残された時間の少なさが3人を慌てさせるのだが、しかしだからと言って諦めるわけには行かなかった…。 
 
 
                   ◇◆◇ 
 
 「そんな訳でね、私もマサミも切羽詰まっていたの、時間がなかったから…」 
 
 黙って聞いているマヤとアーサー。 
 ポール公は時折ウンウンと頷きつつ窓の外を見ているのだった。 
 
 「アーサー、お前はついてるぞ。切羽詰まって踊らなくても良いのだ。しかし、だからといって踊りの手を抜いて言い訳ではない。 
さて、練習再開だな…」 
 「そうね、この話を聞いた以上はもっとビシッと踊って貰わないとね」 
 
 そう言って笑うアリス夫人とポール公。 
 マヤはちょっと微笑んで手を出した、アーサーは硬い表情でその手を取った。 
 
 「マヤ。我が父母より上手く踊らねば領民に顔向け出来ない」 
 「はい、承知していますご主人様」 
 
 再びアリス夫人が手を叩き二人はステップの練習を始めるのだった。 
 
 
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 スキャッパーの中心、紅朱舘の立つロッソムに今秋最初の霜が降りた朝。 
 紅朱舘中庭でアーサーは一人、銃剣術の稽古をしていた。 
 来春の従軍召集ではかなり重要なポストに送り込まれる筈。 
 妻を娶った貴族士官が次の召集で一番危険なポジションに送り込まれる。 
 それは平民出の兵士達だけが苦しいのでは無いとする貴族院議員の発案によるものなのだそうだ。 
 
 ひとしきり銃剣を振り体を動かしたアーサーは小銃を壁に掛けると今度は舞踏会の足運びを復習し始めた。 
 しっかりと防弾アーマーの仕込まれた軍服を纏い貴族士官の証であるサーベルを腰から下げたその装備は軽く20kgに達している。 
 アーサーの母アリスが従者マヤにドレスを着せてレッスンした日、何度もドレスの裾を踏みマヤは転げ回っていた。 
 どこが悪いのかと言えば全ては足運びのタイミングなのだが、踊る相手が腰を落とせばドレスの裾が床を摺ってしまう。 
 その時にこちらがステップを踏み出せば転ぶのは道理だ。 
 踊る相手より早く踏み出し先に着地する、言うは易く行うは難し…。 
 
 アリス夫人はベットルームの窓からそれを見下ろしている。 
 最初から比べれば随分と良くなったのだが、それでもまだまだ直さねばならない癖が多い。 
 寝ぼけ眼のポール公がベットの上でまだモゾモゾとしている時、ドアをノックしてマヤが目覚めのお茶を淹れ部屋に入ってきた。 
 
 「御館様、奥様、おはようございます」 
 「マヤ…今は何時だ?」 
 「はい、6時を僅かに過ぎました」 
 「うむ…」 
 「アリス様、お茶をどうぞ」 
 「ありがとう」 
 
 アリスは窓の外を見ながらお茶を啜っている。 
 ポール公はあくびをしながらお茶を啜った。 
 
 「マヤ、お前もだいぶ疲れてるだろ?」 
 「なにがですか?」 
 「アーサーの練習につき合わせてるからな」 
 「あ、全然平気です。最近は夜もご無沙汰で早々にお休みになりますし」 
 「じゃあここしばらく…」 
 「はい、伽はよいとおっしゃってお休みになられます」 
 「あいつめ・・・・・・だらしないな」 
 
 マヤはポットの中のお茶をアリスとポール公にサーブして歩いた後ワゴンの前に戻り窓の下を見ていた。 
 
 「ご主人様はご主人様なりにジョアン様の事を案じてられるのだと思います、ですから私と距離を作るためにあえてその様に…。イ 
ヌとヒトとの間の事なのだと思います…母が亡くなる前に…そう教えてくれましたから…」 
 
 マヤの目に薄っすらと光る物があった。 
 どこまで行っても越えられない壁があることをマヤは知っていた。 
 そしてそれを違う立場でアリスは知っていた。 
 全く逆な形ではあったのだが、かつてアリスとマサミの関係その物なのだったのだから。 
 
 「マヤ…」 
 
 そう言ってアリスはマヤをそっと胸に抱いた。豊満な胸にマヤが顔を埋めて隠れ泣きしている。 
 ポール公は何と言っていいのか言葉のきっかけを探していたが、敢えて黙っているのも優しさだと気が付いて無理に口を開く努力を 
放棄した。 
 
 「アリス様…朝から申し訳在りません…」 
 「良いのよ…わたしも散々泣いたから…」 
 「アリス様も…ですか?」 
 「そう…わたしも一度は…ヒトに恋をしたから」 
 「アリス様…」 
 
 ポール公はベットから起きあがって窓辺に歩いていった。 
 アーサーはまだ真剣に足運びを練習している。 
 仮想のダンス相手と抱き合い鋭く優雅に足を踏み出す練習。 
 それをジッと見ながらポール公が呟く。 
 
 「イヌとヒトが共に暮らして行くとき、越えられる壁と越えられぬ壁がある」 
 
 ポール公はもう一口お茶を啜り空のカップを皿に戻すとアリスをジッと見据えた。 
 アリス婦人も良く分かっているようでお茶のカップをテーブルにおろすとマヤの肩を抱いたままソファーに腰掛けた。 
 
 「今頃はヨシがリサと朝食の準備中だけど…まだ時間があるわね」 
 「アリス様」 
 「このあいだ少し話をしたものの続き、聞きたいでしょ?」 
 
 マヤは無言で頷く、アリスはその顔をギュッと抱きしめて言葉を紡ぎ始めた。 
 
                   ◇◆◇ 
 
 収穫祭前夜の紅朱舘。 
 
 マサミは不意の来客に備えホールや執務室の中を念入りに掃除していた。 
 収穫祭ともなればいかなる事情があるにせよ形だけでも領内各地の庄屋や商会長といった平民の中の長が挨拶に来る可能性があるか 
らだ。 
 そして何より…収穫祭最後の舞踏会を終えると紅朱舘の中で朝まで宴会が今までの標準的な流れだそうだ。 
 明日だけは人が来るかもしれない。それだけの為にマサミは真剣だった。 
 
 「…マサミ、もうちょっと練習したいんだけど…いいかな?」 
 
 アリスは申し訳なさそうに聞いてきた。 
 実はその日の昼間に練習していた際、二人の息が合わず何度もドレスやズボンの裾を踏みつけどちらかが転んでいたのだった。 
 さすがにこれでは明日は恥を掻くと思ったアリスだが、マサミはある意味で泰然他律の心境だった。 
 
 いうなれば−どうにでもなれ−である。 
 
 主たるジョン卿が最後に出て行ってアリスと踊るが、足が動かぬ故に従者を相手とする… 
 そしてイヌとヒトが踊りヒトが一方的に恥を掻けば良い。 
 そうすればその場は丸く収まりダメなヒトに変わって領民が助けてくれるだろう。 
 そんな漠然とした思いだった。 
 
 「お嬢様、練習よりも休憩です。そして、後は集中力。練習しすぎはかえって」 
 「マサミ、それでも私は練習したいのです。あなたにも恥を掻かせたくありません」 
 「お嬢様…従僕に気遣いは無用です。恥ずかしい思いをするのは私だけです」 
 
 アリスは黙って俯いてしまった。 
 自分の言葉に棘があったのか?とマサミは反芻したが思い当たる節は無いと判断した。 
 しかし… 
 
 「マサミ、あなただけが恥を掻くのはダメです。私は次期領主です、如何なる物も従僕と主で分かち合うべきです。私はあなたにだ 
け恥を掻かせたくはないのです」 
 
 マサミは窓を拭いていた雑巾をバケツですすぎ、もう一度念入りに窓を拭き始めた。 
 窓の外、夜の広場ではアチコチで火が焚かれ領民がなにやら準備していた。 
 
 「お嬢様。明日は早起きが予想されます。それでも練習しますか?」 
 「もちろん」 
 
 マサミはやっと折れたようだ。 
 綺麗な水の入ったバケツで手を洗い衣服の乱れを整えるとアリスの前に立った。 
 二人は自然に手を取ってステップを踏み始める。 
 マサミの動きは掃除の疲れが出て、かえって肩の力が抜けた自然な動きだった。 
 ゆったりと動くそのリズムにアリスはマサミの疲れを感じ取った… 
 
 「マサミ…ごめんなさいね…わがままばかり言って」 
 「お嬢様、いつも言っていると思いますが、主人は主人らしく…です」 
 「マサミ…、私の事を嫌いですか?」 
 
 マサミは突然足を止めた。 
 アリスは冷え切ったマサミの手を握ったままマサミの顔をじっと見ている… 
 
 「マサミ…奥さんの事を思い出す事がある?」 
 
 「えぇ、もちろんです、毎日…思います。この指に納めたエンゲージリングに思いを託しています。必ずどこかで生きている…そう 
信じています。たとえどれほど可能性の低い事だったとしても…」 
 
 「奥さんの事を愛してるのね…」 
 
 マサミはやっと気が付いた・・・・・・・・ 
 
 「お嬢様・・・・・・イヌとヒトの間にある生物としての壁ではない部分です。申し訳ありません。私には…私に操を通すと誓ったヒトが 
いるのです。私はそのヒトの誓いの為にたとえ命を差し出す事になっても守らねばならない物があります。私の心と体を永久に愛すと 
誓って夫婦の契りを結んだヒトがこの世に生きている可能性がある限り…最愛なる妻以外の女性と心通わせる事を自らに断ち切りまし 
た…どうかご理解ください」 
 
 アリスは僅かに震えているようだ。 
 それは辛さや悲しみではなく他の女に負けたと言う部分なのかもしれないとマサミは思った。 
 アリスの心中に去来する情念の波はどれ程の物なのか。 
 それを理解しろと言うほうが無理なのかもしれない。 
 
 「マサミ、初めてあなたと話をした夜を覚えてる?」 
 「はい、もちろん」 
 「あの時、あなたにキスをしたでしょ?あれは…私のファーストキスでした…」 
 「えぇ、おかげさまで死を免れました…って…え゙?…」 
 「マサミ、私は怖いの。もうすぐ一人ぼっちになるのが怖いの…わかって…お願い…」 
 
 アリスはゆっくりとマサミに抱きついた、その肩をマサミはギュッと抱きしめた。 
 体格の良いイヌの女性とは言えマサミも身長1m80cmを越える居丈武だ。 
 マサミの胸板に顔を埋めたアリス。膂力の限り抱きしめた所でアリスの心を抱きしめた事にはならない…。 
 かつて妻を抱きしめたようにそっと優しく抱きしめたところで、やはりアリスの心の渇きを癒す事は出来ない。 
 
 「お嬢様…主人は主人らしく振舞いください。私はあなたとあなたのお父上と契約したのです。私はあなたの家の従僕となったので 
す。私はあなたの僕なのです。ですから、あなたは私に命じれば良いのです…どれ程辛い命でも私にはそれをこなす義務があります」 
 
 「では…マサミ、私があなたに命ずる最初の事です。あなたの妻が見つかるまで、或いはあなたの妻の…辛い運命が判明するまで。 
私の恋人でいてください」 
 
 「それでは…お願いは命ではありません」 
 
 「・・・・・・・・マサミ」 
 
 アリスはボロボロと大粒の涙を流し始めた。マサミの顔を見つめて泣き始めた。 
 どれほど泣いても尚このヒトの男の心は自分に向いてくれないと悟っているのだが… 
 でも、それはそれであって理論や理性と究極的な対極に存在する女心はどうしても自分に振り向かせたいのだ。 
 
 「・・・・・・・・マサミ、わかった。じゃぁ…。恋人に…」 
 
 次の一言を…そう言ってしまえば楽になる事をアリスもマサミも分かっている。 
 でも、それは命じてなるものではない。心が通い合って初めてなるものだからだ。 
 アリスの心は散々に乱れた、どれ程の激情が心中を渦巻いたのかを知る術は無い。 
 ただ、次の一言をアリスが口にするまでマサミは沈黙でいる事にした。 
 
 涙を流すアリスの頬にマサミはキスをした。流れていく涙を吸い取るようにキスした。 
 今のマサミに出来る精一杯の愛情表現… 
 
 「マサミ…」 
 
 マサミは再びアリスの手を取って踊りだしを促した。 
 黙って何も言わず右へ踏み出すのだが…アリスは一歩遅れてそれに付いていった。 
 次は左へ…また一歩遅れて。そして切り替えして右へ…左へ…。 
 半歩引いて優雅にターンを決めてどっちへ振るのか。 
 アリスは何も考えずに左へ振っていった。しかし、その先にはリードするマサミの手があった。 
 言葉を交わさなくても心が通い合う一瞬をアリスは感じた。 
 
 「マサミ…恋人じゃなくてもいいから…そばに居て。いや…、そばに居なさい、私の」 
 
 ゆっくりと踊りながらマサミは目を閉じて動きをリードしていく。 
 何も言わずにアリスはそれに合わせている… 
 
 「お嬢様…いや、アリス様。常に傍らに私がありましょう。契約の日まで必ず」 
 
 「初めて名前で呼んでくれましたね…」 
 
 「主を名で呼ぶは失礼に当たる事です、申し訳ありません」 
 
 「…いえ、これからは私を名前で呼びなさい、いいですね」 
 
 「わかりました。契約の日まで、その様に」 
 
 何も言わずに二人は踊りはじめる、心が重なった動きを見せて二人の影も躍る。 
 アリスはふと思った。このまま…朝にならなければ良いのに…と。 
 
 
                   ◇◆◇ 
 
 
 翌朝。紅朱舘前の大広場は朝からスキャッパーの人々が集まりにぎわっていた。 
 マサミの予想通り、ロッソム以外の地域からやってきた人々は形だけでもジョン公とアリスに挨拶をしていく。 
 貧しい地域とは言えそれなりに身分の高い人が来るのだ。マサミの多忙さは限界に近かった。 
 各地の庄屋や商工会の長が次々やってきては新領主への献上品と言って金品を差し出すと地位の安寧を対価に求めていった。 
 アリスにとっては生々しい政治の舞台を初めて垣間見る瞬間でもあった。 
 そして、ジョン公とアリスの背後に立ち客人に茶を振る舞いクローゼットの管理をし、さらには来客のリストまで製作しつつもマサ 
ミはそれをしっかりと観察していた。 
 
 ヒトの世界で言うところの、官民収賄談合の現場を見ている事になる。 
 しかし、それもこれも、かつてヒトの世界の歴史ではよく登場した事だし、マサミ自身が経験した事でもある。 
 各方面の実力者・有力者といわれる人にそれなりの施しや賂を渡して口添え・口利きを依頼する…。 
 いずこの世界にもあるものだと苦笑するヒトの心中をイヌはまだ理解していないようだ。 
 
 「マサミ…忙しいが…大丈夫か…」 
 「御館様、ご心配は無用にて…ご配慮ありがたい限りです」 
 「うむ…。アリス…広場はどうなっている」 
 「そろそろ教会の楽隊が来る筈です」 
 
 ジョン卿はやっとの思いで椅子から立ち上がった。 
 萎えた足を震わせ紅朱舘の外へと歩み出る。 
 マサミはジョン公の背後に立って腰を支える役になった。 
 車椅子があれば…と思うのだが、それはかなわぬ夢だろう。 
 一番座りやすい椅子を抱えて付いていく。 
 
 「スロゥチャイム卿…ご機嫌麗しゅうございます」 
 「正教神父殿か…お初にお目にかかる、死にかけ故着席で失礼する」 
 
 この地に入ってきて始めてジョン卿は教会の主と面識を持った。 
 椅子に腰掛け半分死んだようなジョン卿だが、周囲を威圧する迫力は些かも衰えていない。 
 
 「領主様、神の導きがヴァルヴァラへの道を照らしますよう…お祈りいたします」 
 「神父殿、お心遣い痛み入る。娘が時期領主となり申す。神の導きを訓え給え」 
 
 やや遅れてアリスが一人歩いてきた。 
 かつて領民が新領主に送った青いサテンドレスを着ている。 
 その姿に広場の群集からどよめきが上がった。 
 
 「神父殿…娘を頼みますぞ。そして、ヒトの従僕があり申す。彼にも神の祝福を」 
 「領主様。ご安心下さい。神は信じるものを助け、祈るものを導きます」 
 
 二人の会話を聞きながらマサミが振り返るとアリスはやや蒼白になりつつも精一杯の作り笑顔で民衆に手を振っていた。 
 
 「神父さま、娘のアリスです。どうぞ良き導きを訓えください」 
 
 ドレスアップしたアリスの姿を見て教主は驚いたようだが…。 
 
 「領主様、大変失礼ですが…お嬢様のお相手はどなたが?」 
 「ヒトの従僕が勤め申す。伝統に反するやも知れぬがワシの足はもう動かん」 
 
 教会よりやってきた神父は困り果てた。ヒトに洗礼を施して良いものかどうか、その先例がないようだ。 
 しどろもどろする神父にマサミはキッパリと言った。 
 
 「教会よりお越しの聖職にある方へこのような事を言うのは大変失礼ですが…」 
 
 マサミは左の袖を二の腕まで捲り上げた。そこにはバラ十字のタトゥーが鮮やかに掘り込まれていた。 
 流行のタトゥーだったのだが、こっちの世界には有るまいとフィクションをでっち上げる作戦にでた。 
 
 「私は私の世界に於いて神の導きを得ています。わがローゼンクロイツの…薔薇十字騎士団員は神の教えを守り地上に神の世界イェ 
ルサレムが降りてくるのを信じています。私達の世界の神は言いました。咎ある者よ・重き荷を背負う者よ・疲れ果てさまよう者よ。 
皆私のところへやってきなさい、私があなた達を赦します…と。私の信じる神は常に私の心と共にあります。神の愛と精神は如何なる 
世界を超えても同じ物のはずです。まさかとは思いますが…この世界の神はその大いなる御手より地上に降りし命の価値を…その器で 
判断されるのですか?」 
 
 マサミは自らの胸に手を当て続けた。 
 
 「私の信じる神はここに居ます。私は私の信じる神の名に於いてスロゥチャイム卿と契約したのです。私の信じる神を否定されるな 
ら私と主の契約を否定する事になります」 
 
 神父はマサミの目をじっと見据え何かを量っているようだ。 
 やがて何か言葉の引き出しを見つけたのだろうか、手に持った書物を開きゆっくり口を開いた。 
 
 「ヒトの青年よ、この世界の神の訓えを聞きたまえ。主は言われた、遠き時の彼方より続きし世界の始まりと終わりに私は現れる。 
私は始まりであり終わりである。終わりは始まりの前にあり、始まりは終わりの前にある。重き荷を背負う咎人に代わり私がその赦し 
を与えよう。始まりを信じて終わりの道を歩みなさい…と。そなたがこの世界へ落ちてきた事は終わりではない、始まりなのです、何 
故ならば神は終わりの前に始まるがあると説かれました。あなたの人生はかの世界で終わったのでしょうがこっちの世界では始まった 
ばかりです。そなたにも神の祝福がありますように…」 
 
 「神父様の導きに感謝いたします…ヤハウェに光あれ……エイメン…」 
 
 神父は振り返り教会の楽隊に指示を送った。教会騎士団のイヌが剣を抜き払い楽隊を指揮しはじめる。 
 様々な楽器が音を奏で広場に人の輪が出来始めた。神父は音楽に負けぬ声で民衆へ宣言した。 
 
 「これよりスキャッパー新領主の娘による主への舞を奉納する。領民よ新領主を神と共に祝福せよ。神の導きに光あれ」 
 
 領民が一斉に拍手しその音に驚いて鳩が空に舞った。 
 十重二十重の輪が広場を囲み民衆は教会の楽隊に合わせ口々に賛美の歌声を上げる。 
 
 「アリス様どうぞお先に、私はあなたの前で跪きます。これは儀式です」 
 「マサミ、私の心の声を聞きなさい」 
 「なんですか?」 
 
 アリスの唇がマサミの耳元に近寄り何かを囁いた。 
 その声をマサミが何と聞いたかアリスはよく覚えていない。 
 ただ…マサミはアリスの手を引いて民衆の輪の真ん中に入るとアリスの前で跪きその手にキスをした。 
 民衆に対し主との契約を見せたヒトの意志をその広場に居たもの全員が見届けた事になる。 
 
 マサミは立ち上がりアリスの前で腰を折って手を広げた。 
 アリスはスカートの裾を僅かに持ち上げ首を傾げて挨拶する。 
 二人が同時に手を取って音楽に合わせ踊り始めると民衆が先を争うように手近なものと手を取って踊り始めた。 
 
 神父はそれを見届け大声を上げる。 
 
 「今ここに神の愛とその名に於いて新領主と領民の絆が生まれた事を宣言する。領民よ領主を支えよ。領主よ領民を愛せよ。天と地 
の狭間に天の父とその子らと精霊の導きがあらん事を!」 
 
 踊りの輪は広がっていく。 
 スキャッパーの地にスロゥチャイム家が根付いた歴史的な日だった。 
 
 
                   ◇◆◇ 
 
 
 「では、アリス様が父に囁いた言葉って…」 
 「聞きたい?でも、ありふれたものよ」 
 「・・・・・・・・たぶん、私も同じ事を言うと思います」 
 「でしょ?女ならね、きっとそうよ」 
 
 女同士の会話でニコニコしてる二人を見てポール公が唐突に口を開いた。 
 
 「つまり、私は2番目だったと言うことか・・・・・・・」 
 「だって仕方ないじゃない、私のファーストラブにはあなたが居なかったんだから」 
 
 
 しょんぼりするポール公を見てアリスが囁く。 
 
 「マヤ、いい事?男は振り回してる位でちょうどいいからね、覚えておきなさい」 
 「はい奥様…」 
 「フフフ…、アーサーとヨシが結婚したら、今度はあなたのお婿さん探しね。あなたを嫁に出すなんてしないから安心しなさいね、 
フフフ!」 
 
 ポール公のしょんぼりする姿をマヤは可愛いと思った。 
 
 
***********************************************************3*********************************************************** 
 
 
 秋の嵐がスキャッパーに吹き荒れた翌日、ラウィックよりの使者が紅朱舘を訪れた。 
 スロゥチャイム家の当主ポール公が若い頃の話。 
 貴族仕官として従軍した時にボールド家の若き当主だった同じ赤耀種のトーマス公と面識を持ったそうだ。 
 共にかなり危険な死線を何度も越えていつの間にか意気投合し相棒とも呼べる関係となったのだと言う。 
 そのトーマス公の所領は山を一つ越えた向こう側。 
 ネコの国との小競り合いでラウィックが騒乱状態に陥ったとき、トーマス卿は家族をスキャッパーに逃がして奮戦した事もある。 
 
 マサミの努力により発展するスキャッパーとその通り道のラウィックはもはや一衣帯水の関係になっていて、トーマス卿とポール卿 
のそれぞれの娘がそれぞれに嫁入りするのは、端で思うよりはるかに自然な流れになっているのかもしれない。 
 
 伝統にのっとり夜を駆けて来た使者は紅朱舘の入り口で口上を述べる。 
 曰く…ボールド家長女ジョアンの嫁入り支度が整ったので迎えに来てください…と。 
 それはラウィックに古くから伝わる伝統行事だった。新郎は新婦を馬に乗せ一気に駆けて来るのだと言う。 
 新婦の家はありとあらゆる手段で新郎が新婦を連れて帰らないよう引き止める努力をするらしい。 
 アーサーは長く伸びた飾り毛の毛並みを整えると第1種礼装の軍装に着替えサーベルを下げて馬に跨った。 
 ヨシが厩から連れて来たのはスキャッパーで一番早いと呼ばれる栗毛の駿馬だった。 
 
 「なぁヨシ、レパードなら無事に生きて帰ってこれるかな?」 
 「さぁなぁ・・・・ただ親父が生きてた時はよく言ってたぜ、この馬が一番速いって」 
 「そぉか…マサミさんが言うなら間違いないだろ、んじゃ行ってくるぜ」 
 「おぅ!怪我すんなよ!ジョアンもそうだけどマヤも泣くから」 
 「あぁ、わかってるよ、じゃぁな!」 
 
 幼馴染に育った二人には生物の壁を越えた友情がある。 
 ただ、このイベントを体験した事のある人間はスキャッパーには居ないのでヨシもどうこう言えるほどアドバイスにはならない。 
 さぁ、蛇が出るか鬼が出るか…、娘を取られまいと実弾までは飛んでこないだろう…、いや、あの親父ならやりかねない…。 
 やや緊張気味のアーサーは朝一番にラウィックへ到着する為、手綱を捌いて夕日を目指し単騎駆けていった。 
 紅朱舘の上からそれを見送るのはポール公とアリス夫人。そしてマヤ。 
 
 「アーサー様…」 
 「マヤ…安心しなさい…あの子なら無事に帰ってくるわよ」 
 「はい…」 
 「でも辛いよね・・・・あなたは」 
 「奥様…」 
 
 マヤは涙を流すまいと必死に努力していたのだが、知らず知らずに涙が溢れ出してしまう。 
 
 「マヤ…」 
 
 アリスはマヤをそっと抱きしめた。 
 マヤの失った母カナがそうだったように、スキンシップの暖かさをアリスもまたよく知っていた。 
 僅かに震えるマヤの背中がアリスの手に伝わる。 
 そして、人よりも遙かに鼻の良いイヌのアリスにはマヤの体からアーサーの体臭が感じられた・・・・。 
 
 「奥様…ヒトとイヌでは子を為せませんよね…こんなに辛いだなんて思わなかった…」 
 「あの子の子供が欲しかったの?・・・・そうよね・・・・女なら欲しいよね・・・・マヤ・・・・」 
 「ジョアンが羨ましい・・・・」 
 
 震えるマヤの頭を撫でてアリスは頬を寄せた。慟哭し続けるマヤ。 
 
 「マヤ…わたしもカナが羨ましかったわ、でもね、ヨシやあなたやタダが生まれた日は私も嬉しかったわよ。カナは命を削ってあな 
た達を産み落として…逝ったからね…。私はカナからあなた達を預かってるのよ」 
 
 「おくさま・・・・・わたし・・・・」 
 
 マヤは声を上げて泣き始めた。 
 恋に破れた女は泣くしかない・・・・。 
 
 その肩を抱きながらアリスも瞼を閉じた・・・・。 
 
 「マヤ・・・・どんなに頑張ってもイヌとヒトでは子は出来ないの、昨日も頑張ったんでしょうけどね・・・・どんなに頑張ってもダメなの 
よ・・・・。ごめんねマヤ・・・・あの時、私がヒトを・・・・マサミを見つけなければ・・・・こんなに辛くなかったのかもしれないわね・・・・」 
 
 
                   ◇◆◇ 
 
 
 「アリス様…決裁の書類です、サインを…」 
 「うん…」 
 
 アリスは窓辺に立って紅朱舘の外を見ながら上の空でマサミの話を聞いていた。 
 スキャッパーの様々な行政決済は最終的にアリスのサインを持って効力を持つことになっている。 
 マサミが立案したスキャッパー発展プログラムは少しずつ全貌を見せつつあり、予定通りならば来春の小麦作付け面積は今年比の2 
倍近い数字になっているはずだ。 
 
 しかし… 
 
 「アリス様…」 
 
 上の空のアリスに寄り添い後ろからそっと肩を抱くマサミ。 
 僅かに震えるアリスの肩がマサミに愛しい人を思い出させる…。 
 
 「マサミ…ごめんなさいね…そうしてると、あなたも辛いよね」 
 「アリス様…いえ、ご主人様、主人は主人らしく…」 
 「私はひとりぼっち…ひとりぼっちなのよ…」 
 
 アリスにとって最後の生きる支えだった父ジョンが他界してからと言うもの、アリスは魂の抜けた人形のようだった。 
 ただ、こればかりは自分自身で乗り越えて行くしかないのだろう。マサミも精一杯だった。 
 
 窓の外、紅朱舘の背後のこんもりと盛り上がったなだらかな丘の上。 
 樅の樹の聳える横に立つ剣の形をもじった墓石。 
 歴戦の名将であったジョン・スロゥチャイムの墓にはイヌの国の各地から様々な肩書きや階級の人々が弔問に訪れていた。 
 
 今日もあの墓の前、重厚なマントを翻す南方面軍総監のイヌが献花している。 
 配下の参謀を何人も引き連れ立つイヌは、人前と憚ることなく肩を震わせ泣いているのがここからも見える。 
 先程伺った話では、北伐で従軍した時になんどもジョン公が命を助けたのだという。 
 
 −どれ程辛くても進んで征かれよ 
 −諦めはすなわち敗北であるとお父上はいつもおっしゃっておられました 
 −あなたの双肩にこの地方の運命が乗っております 
 −私で良ければいつでも相談に乗りますぞ・・・・・ 
 
 フェルディナンド・バウアーと名乗った黒曜種のイヌの将軍はそう言って紅朱舘を後にした。 
 比較的軽く見られることの多い黒曜種にあって軍総監にまで上り詰めた平民出叩き上げの将軍は、貴族式ではなく軍隊式の敬礼でア 
リスに挨拶をしていった…。 
 黒や灰色や金色の体毛に覆われた屈強の大男が皆アリスに敬礼し去っていく… 
 
 後ろ姿を見せ去っていく姿は寂しさに打ちひしがれているアリスにとって逆効果だとマサミは気付いていた。 
 そして話に聞くサリクス大将軍も同じ黒曜種らしい…。 
 ある意味で憎い存在の種が相談事歓迎と言ってくるのは、領主の座を受け継いだアリスにとって最初の試練なのかもしれない。 
 
 「アリス様、今日は来客もこれで終わりのはずです。雪が降り出す前に所領を馬で駆けましょう。気分転換が必要です」 
 
 「マサミ、ありがとう。でも、今はどこにも行きたく…『いいから行きますよ!』」 
 
 そういってマサミはアリスをお姫様抱っこして紅朱舘を飛び出し、ここまでジョン公を乗せてきた黒毛の馬に跨り鐙を蹴った。 
 ジョン卿の従者となって最初に教えられた事が馬の乗り方だったと言うのも、こうやって気分転換を図る必要に迫られる事を見越し 
たジョン卿の深謀遠慮だったのかも…、マサミはふとそんな事を思った。 
 
 「アリス様、森を抜けますよ!」 
 「キャ!マサミ!落ちる!」 
 「しっかり掴まって!」 
 
 アリスは力一杯マサミに抱きついた。 
 はぁっ!っと掛け声を掛けてマサミは馬が行きたい方向を変えてやる。 
 風のように森を駆け抜けた馬は水を欲しがって川に飛び込んだ。 
 
 「マサミ!冷たいよ!きゃはは!」 
 
 ザブンと水を被りアリスはやっと笑った。 
 マサミはその声を聞いて馬から下り馬上のアリスに手で水をすくってバシャバシャと浴びせる。 
 馬の周りでキャッキャと嬌声をあげ遊ぶ二人。 
 それはまるで恋人同士のように・・・・ 
 
 「アリス様!それ!」 
 「マサミ!冷たいって!もう冬なんだから!」 
 「まだ秋ですよ!雪が降るまで!それ!」 
 
 冬に備え葉を落とした森に二人の声がこだまする。 
 森の中からピュー!っと鹿の鳴く声が聞こえてマサミは足を滑らせ川原に転んだ。 
 そこへアリスも転げてきた。川原に体を横たえ見詰め合う二人。 
 
 「ここが砂浜ならロマンチックなシーンなんですがねぇ」 
 「砂浜って海辺の?」 
 「そうですよ、夕日に照らされる海辺です」 
 「イヌの国に海辺はないからなぁ・・・・・・」 
 「そうなんですか?」 
 「無い事は無いけど、そこへ行く道が無いわ。だって山の向こう側だもの」 
 「つまんねーな」 
 
 二人で見詰め合っていたが、やがてマサミは空を見上げて寝転がってしまった。 
 アリスもそれを見て空を見上げた。 
 
 「アリス様、イヌもヒトもやがて死にます、これは順番なんですよ。どんなに泣いても仕方が無いんです。神様が決めた事なんです、 
あんまり増えすぎると困るから適当に数を減らすシステムなんです。でもね、この世界に想いは残ります、私達は機械じゃないんだか 
ら壊れたら終わりなんて事はありません。きっと御館様もどこか草葉の陰からアリス様を見守っていますよ。だからあんまり悲しんで 
ばかり居ると御館様がヴァルヴァラへ安心して行けません」 
 
 「そうよね…。マサミ…ありがとう…本当にありがとう…。もう悲しんでいるのは終わりにするよ、だってお父様のスキャッパーを 
発展させなきゃ…」 
 
 「そうですとも!、まずはスキャッパーを発展させましょう。イヌの国で一番栄える地にしましょう」 
 
 「あなたが優しいヒトで本当に良かった」 
 
 アリスは先に起き上がった。 
 
 「マサミ、立ちなさい。紅朱舘へ戻ります」 
 
 マサミは起き上がると慇懃に頭を垂れた。 
 
 「アリス様、仰せのままに」 
 
 再び馬に跨り森を抜ける。途中でマサミはいくつもキノコを見つけた。 
 森の中は豊かな食材の宝庫だ。大きなアケビの実を取り、まだ葉が残る月桂樹を一枝折ってアリスに渡した。 
 鼻の効くアリスには月桂樹の香りが痛いほどだろう…、その下にマサミが摘んだキノコが入っていたのだが… 
 シイタケに似た独特の香りがするそのキノコでその夜マサミは・・・・。 
 
 紅朱舘へと帰ったマサミは最初に風呂を立てた。 
 
 「アリス様、風呂を立てました、どうぞお入りください」 
 「マサミ、その前に食事にしましょう。お腹が空いたわ」 
 「はい、では早速仕度します」 
 
 大鍋に摘んできたキノコとにんじん、玉葱、カボチャ、そして芋を入れ、香り付けに月桂樹の枝を火であぶってから入れた。 
 そこへワインと塩を入れ基本の味を調える。あとは煮込むだけ。 
 ぐつぐつと煮えてきてアクが浮き出るから、それを捨ててシメた鳥の手羽を入れる。 
 簡単クッキングだが、これが案外美味いんだよなぁ…。 
 マサミは自画自賛しながら小麦粉をこねてバターを塗り釜戸の壁に貼り付ける。 
 ナンを焼く要領でパンを焼くのだった。 
 イースト菌をどこかで分けてもらわないと… 
 
 ふと気が付くと鍋の中に紫灰色のアクが浮いていた。 
 全身の細胞が大声で「食べ物の色じゃない!」って叫んでる気がする。 
 いや、紫芋のせいだろう、きっとそうだろう。深く考えない事にしたマサミだったが・・・・ 
 
 「アリス様、おまちどうさまです」 
 
 そういってキッチン壁際の小さなテーブルに二人分の食事を並べたマサミ。 
 
 「今行く!」 
 
 アリスはそう叫んで階段を下りてきた。 
 濡れ鼠だったアリスは薄手のシャツにカーディガンを羽織っただけのラフな格好だ。 
 もしこの場が恋人同士だとしたら…押し倒してくださいとでも言わんばかりの格好なのだが・・・・ 
 一瞬目のやり場に困ったマサミだが横に並んで座る形なら大丈夫・・・・な筈だった。 
 
 スープを盛った皿から湧き上がる月桂樹の香り、焼きたてのナン風パンが立てるバターの香り。 
 この二つがアリスの鼻をも狂わせる・・・・ 
 
 「マサミ、いただきます」 
 「どうぞ!」 
 
 二人してスープを飲みパンを食べ、そして…シイタケのようなキノコを食べる。 
 鳥の油のうまみ、火の通ったにんじんの甘み、芋のホクホク感。 
 二人のスプーンが止まらず動き続け瞬く間に皿が綺麗になってしまった… 
 
 「暖まったねぇ〜おいしかった!」 
 
 尻尾をパタパタ震わせアリスは舌なめずりする。 
 その仕草は体格好がヒトに似ているだけで、まったくもってイヌそのものだ。 
 食後のお茶を飲みながら昼間の事をアレコレと話し続ける二人。 
 気分転換の効果は少しずつ二人の間の見えない緊張を溶かしていった。 
 
 ただ、その会話の途中から段々とアリスの呂律が乱れ始めていた。 
 不思議に思っていたマサミだったのだが・・・・ 
 
 「マシャミィ…、クチビウにヒイタケのカケラがのこってう!」 
 
 そういってマサミの唇にパクっと飛びつくアリス。 
 いくら女性とは言えいきなり飛び掛られるとさすがのマサミもバランスを崩し椅子から転げ落ちた。 
 
 「アリス様?」 
 
 「ましゃみ?ひいあけにえ・・・・・、ふぁふぇ?」 
 
 アリスのろれつが完全に崩れていた、酒を飲んでベロベロに酔ったような状態だ。 
 軽く焦るマサミをマウントポジションに置いてアリスが馬乗りになっている。 
 潤んだ瞳でジーっとマサミを見つめている・・・・ 
 
 「マヒャイ・・・・・」 
 
 ろれつが回らず酔ったようにフラフラとするアリスがマサミの上半身に顔をうずめ厚い胸板の臭いをクンクンと嗅いでいる…。 
 イヌが興味を持った対象物をジッと観察する仕草だ・・・・かつて一緒に暮らしていたヒトの世界の犬をマサミは思い出した。 
 
 そして、それと同時にジョン卿の言葉を思い出す… 
 
 「マサミ…実はな、イヌの女には困った事が一つあって・・・・・」 
 
 通常、イヌの女性は週1回程度の発情期と呼ばれる性的感受性の敏感期を迎える事が多い。 
 最近の研究ではイヌの女性が発情期を迎えるシステムも研究されているようだ。 
 どうやら定期的に嗅覚における特定成分、つまりイヌの男性が出す性ホルモンの臭いを嗅ぎ分ける能力が強くなっているらしい。 
 その臭いで精神的な発情が発動する実に上手く出来たシステムなのだろうと言われていた。 
 しかし、アリスの場合は身近にイヌの男性が居ない事でそれが発動しなかった。 
 この日の日中に紅朱舘を訪れたイヌにも、アリスと同じ赤耀種のイヌが居なかった。 
 つまりイヌの種族ごとに純血を保つシステムとして同じ種同士でないと発情期も発動しない可能性が強いのだった… 
 
 だが、この日マサミが摘んだキノコはタネクサレシイタケモドキとイヌの山師が呼ぶいわゆる毒キノコらしい。 
 このキノコの成分には強制的に発情期を促す内分泌かく乱物質が多量に含まれていた。 
 イヌ同士で雑種交配の実験をするときに昔から使われてきたキノコ。 
 
 そしてもう一つの使い方、いわゆる…媚薬。 
 イヌの社会のマジックマッシュルーム・・・ 
 
 さらに困った事がもう一つ。イヌにとって玉葱は鬼門だ。 
 玉葱に含まれる成分の一つをイヌの肝臓は分解できない。 
 それをすっかり忘れていたマサミは八百屋で玉葱を見つけて思わず買ってしまい、火の通った玉葱の甘みを思い出して鍋に入れたの 
だった。 
 この世界のイヌは玉葱をなんとか食べられるが、多量に摂取するとアルコールに酔ったような状態になるとジョン卿に言われていた 
のも思い出した…。 
 
 
 まずいな・・・・・ 
 
 「ましゃうぃ〜 ねぇ〜 」 
 
 潤んだ瞳でジーっと見られると・・・・、実際、マサミも溜まりに溜まっているのは事実な訳で、妻とはぐれて以来駆け足でここまで来 
た毎日の中では自分で「処理」する事も出来ず悶々としていた部分もあった・・・・。 
 さらに困った事に…マサミの股間の上には衣服をはさんでアリスの女性たる部分がくっついていて、むっくりと起き上がりつつある 
マサミの股間が行き場を求めてピクピクし始めている・・・・ 
 
 しかし! 
 しかしだ! 
 俺は妻帯者だ!と心の中で誰かが叫んでいる。 
 そんな心中の葛藤がマサミの目を酷く醒めた物にしていた。 
 
 「ましゃみはあたしがきらいなのふぇ・・・・ あたしはいぬだし・・・・」 
 
 潤んだ瞳に涙を浮かべて今にも泣きそうなアリス… 
 赤樫色の体毛に覆われたイヌの垂れ耳と尻尾がなければヒト女性そのものの顔が泣き崩れそうに・・・・。 
 
 「あたひはすきなおに・・・・だいすきなおにぃ!」 
 
 そういってフラフラと立ち上がったアリスは寝室へと歩き始めた。 
 端から見れば泥酔状態なだけにアチコチぶつかり、そして転んだ・・・・ 
 
 「アリス様!」 
 
 マサミが駆け寄ってアリスを抱きかかえる。 
 アリスはジーっとマサミを見上げている。 
 
 「ましゃぃ…ごえんね、できのわうい・・・・いうぇ・・・・ 
 
 何も言わずマサミはアリスに口付けした。それ以上自分を辱める言葉を紡がないよう、そっと塞ぐように。 
 泣き顔のアリスの両手がマサミを抱きしめる。そのままどれ位経ったのだろうか。 
 顔を起こしたアリスの目が潤んだまま見上げていた。 
 
 「ねぇキスして、もっとキスして」 
 
 求められるがままにディープキスに及ぶマサミ。 
 逆らいようの無い激情がそこにやってきていた。 
 
 「マサミ…おねが『アリス様、出来の悪い従僕の願いを聞いてください、あなたを抱いていいですか?』」 
 
 にっこりと微笑むアリスは自分からマサミにキスしにいった。 
 
 「うん、いいですよ」 
 「では早速!」 
 
 アリスを抱えて持ち上げたマサミは2階へと担ぎ上げた。 
 綺麗に仕立ててあったベットへ乱暴に飛び込んでアリスを剥いていく。されるがままのアリスは目を閉じてしまった。 
 真っ暗な世界の中でアリスの意識は宙を泳いだ。 
 すっかり裸にされてしまったアリスの豊満な胸が嘗め回されピンとたった乳首にビリビリと電気が走る。 
 抵抗せず受け入れているアリスを容赦なく蹂躙していくヒトの従者は未だ誰も踏み込んだ事の無いアリスの秘密の花園に舌を這わせ 
て荒々しく掻き分けていく。 
 
 悶え喜ぶ声を上げるアリスに構う事無くその舌が甘酸っぱい泉に侵入すると、声にならない声でアリスは嬌声をあげシーツを強く握 
り締めた・・・・ 
 
 
                   ◇◆◇ 
 
 
 「じゃぁ奥様の最初は…」 
 「うん、私のヴァージンはマサミにあげたの」 
 「奥様…」 
 「あなたもそうなんでしょ?」 
 「はい・・・・」 
 
 黙って話を聞いていたポール公がゆっくりと窓辺から離れ椅子へと座った。 
 それだけで一枚の画になるような、そんな威厳がある。 
 
 「マヤ…イヌもヒトもそうなのだが…本当に辛い思いをした時だけ、ほんの少し成長することが出来る。それは体ではなく心が成長 
するのだよ。お前が今流した涙の分だけ、お前は人に優しくできるだろう。アリスもそうだったように…。本当に辛い思いをした時だ 
け、人は成長するんだよ。だからな…」 
 
 ポール公はマヤをジッと見つめ微笑んだ。 
 
 「辛い思いに苦しむ人を見たら、一緒になって苦しんであげなさい。そうすればその人が少しでも楽になるからな…。一緒に苦しん 
でも先に辛い思いをした分だけ、お前は強くなっているよ…辛いだろうが…」 
 
 アリスに抱きしめられたマヤの頭をポール公が撫でているときドアをノックする音が聞こえた、コンコン… 
 
 「御館様、奥様、食事の用意が調いました。…マヤも一緒か」 
 
 執事服を見事に着こなすヨシは慇懃に頭を下げるとそう言った。 
 
 「マヤ、食事にしましょう。ヨシ、タダも呼んできなさい。今日は久しぶりに私の…」 
 
 そこまで言ってアリスはポール公とマヤとヨシを順番に見た。 
 
 「私達スロゥチャイムの家族全員で食事に…。新しい家族が増える前にね」 
 
 「はい、ではその様に…」 
 
 ヨシは一礼して部屋を出ていった。 
 その動きを黙ってポール公は見ていた。 
 
 「アリス…まるでマサミが立っているようだったな…」 
 「そうね…今の私はひとりぼっちじゃないから…、まだその辺にマサミが居るかも」 
 
 そういって皆で笑った時、それまで風が無かったはずなのに半分開いていた窓から突然風が抜けていった。 
 カーテンが吹き抜かれ窓の外で揺れる… 
 
 「図星だったようだぞ、マサミが墓へ逃げ帰った」 
 「もっと居れば良かったのに…、でも、遅くなるとカナが文句言うかしらね、フフフ」 
 
 ポール公がアリス夫人の腰に手を回し歩き始めた。アリス夫人はマヤの手を引く。 
 
 「マヤ、行きますよ」 
 「はい、奥様」 
 
 皆が出ていってガランとした部屋、開いていた窓が音もなく閉まった。 
 廊下を歩くアリス夫人がふと振り返ったとき、部屋の入り口で慇懃に頭を下げる若々しいマサミの幻を見たような気がした・・・・ 
 
 「どうぞ、ごゆっくり…愛しいアリス様」 
 
 
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 夕日を目指してアーサーが駆けていった日の翌日、スキャッパーは朝から快晴だった。 
 紅朱舘の尖塔突端、雲一つ無い紺碧の空に突き刺さった旗竿にはル・ガル公国の王国旗とスロゥチャイム家の家紋を刺繍された大き 
な旗がはためく。 
 
 今日はスキャッパーの収穫祭だ。 
 
 この地方の富を象徴する巨大な紅朱舘が全館解放され、領民は紅朱舘の中にある全ての施設を無料で使うことが出来る。 
 巨大な大食堂には料理人が腕を振るった料理が並び無料食べ放題の大盤振る舞い、地下の大浴場も無料開放とあって領民でごった返 
している。 
 さらに、なんとこの日に限り紅朱舘の全ての部屋を見学することが出来、領主アリス女侯爵の私室も南方面軍総監相談役兼スキャッ 
パー領経営最高責任者ポール公の書斎も当然見学できるのだ。 
 
 そして今年一番人気は…昨年まで唯一未公開だった執事公室。 
 昨年までは病に倒れたマサミが横になっていたので解放されなかったのだが、今年は部屋の主が居なくなったので領民が立ち入れる 
ようになった。 
 
 ベットサイドにはマサミとカナの執事夫妻が描かれた大きな肖像画が掲げられていて、その前に置いてあるマサミの使っていたステ 
ンレスの洗面器には領民が1ダトゥン硬貨を投げ入れていた… 
 かつてマサミが打ち出した政策を覚えている領民がまだまだ居るという事なのだろう。 
 
 午後から夕暮れに掛けての青空舞踏会を前にして、第1種礼装に身を固めたポール公は黒の執事服にキリッと赤樫のネクタイを締め 
る従者ヨシを連れ紅朱舘の中を巡回し、そしてロッソム中央広場へ続く市民市場の中を歩いていた。 
 
 道行く人々や遠方からの見物客。 
 他国の観光客が入り交じり大変な混雑なのだが、ポール公が歩く道だけは常に人が割れて歩きやすくなっている。 
 
 紅朱舘の中では男子禁制のエリアへ着飾った女性領民が押し掛けている。 
 アリス女侯爵が娘マリアと綺麗にドレスアップし、従者マヤを従えお茶会を開いていた。 
 ちなみに、この環境でお茶をサーブして歩いているのはマサミの末っ子・忠人である。 
 
 未成年の彼は真っ黒の執事服を来ているものの未だ執事見習いの身分だが、未成年で見習いと言う事もあてって男子禁制にも関わら 
ずここに入ることを許されていた。 
 
 当然、ヒトの執事などとは縁のない世界にいるイヌの女性達から好奇の眼で見られ、一挙手一投足に熱い眼差しが注がれていた。 
 そんなタダが不意に領民女性側へ眼差しを送っては微笑みを浮かべるとキャーキャーという嬌声を集める存在になるのは自明の理な 
のだった。 
 
 猥雑な賑わいを見せる紅朱舘の正門付近。大手門の上にある見張り台の兵士がラッパを吹いた。 
 長男アーサーを識別する音楽、そして開門の指示を出す音楽だ。 
 朝から解放されている大手門を今更開ける指示、つまりアーサーが帰ってきたことになる… 
 
 ラッパの音を聞いたスロゥチャイム一家が正門前に全て揃って長男の帰りを出迎えた。 
 ややあって街道の石畳をスキャッパー一番の駿馬レパードが踏み、アーサーは紅朱舘へと辿り着いた・・・・ 
 予想を遙かに超えるひどい姿で。 
 
 「父上…ただ今…戻りました…」 
  
 第1種礼装の軍装で出掛けそのまま踊りの輪に加わるはずだったアーサーだが… 
 
 スキャッパーの隣、ラウィックの民衆が総出でおららが姫を渡しちゃなんね!と頑張ったのだろうか? 
 よく熟れたトマトの洪水を浴びたかのように全身真っ赤な上、鉄の鎖を模した紙テープの鎖をアチコチにたっぷりと体に巻き付け、 
さらにはレパードの尻尾に巻き付けられシャンシャン音を鳴らす鈴と「スケベ!」だの「女たらし!」だのと落書きされたタペストリ 
の束…束…束… 
 
 「おい…アーサー… そのなりは…何だ?」 
 
 さすがのポール公も口をあんぐり開けて呆気にとられている。 
 隣に並んだヨシも開いた口がふさがらないでいた。 
 
 「そうだアーサー、さすがにそれは・・・・ってジョアン、久しぶりだね!」 
 
 馬から下りたアーサーがウェディングドレス「だった」と思われる身なりのジョアンを馬から下ろした。 
 
 「ポール様アリス様…いえ、義父様義母様。改めてご挨拶申しあげます、嫁のジョアンです、不束者ですがこれより長きに渡りよろ 
しくお願いいたします… ラウィックの民衆が総出で私を送ってくれました。どうか…どうか驚かないでください!」 
 
 そう言ってアチコチ真っ赤に染まったウェディングドレスでジョアンは笑った。 
 その姿にポールもアリスも、そしてヨシもマヤもマリアも笑った。 
 
 「ジョアン、スキャッパーにようこそ。今日からよろしくね、あなたも私の家族よ」 
 
 アリスはそう言って笑うと、トマトであちこちドロドロになっているジョアンの手をとり民衆の真ん中へ連れていった。 
 
 「アーサーも早く来なさい!」 
 
 中央広場では教会の軍楽隊が揃い神父が待っていた。 
 
 「おやおや、アーサー殿、酷いお姿ですが…帰り道で悪魔にでも遭遇しましたかな?」 
 「神父様、悪魔のようでしたが中身は優しい天使様でした」 
 「そうですか…してジョアン」 
 「はい神父様」 
 「そなたはスロゥチャイム家次期当主アーサーを夫とし、病める時も貧しい時も共に生きる事を神に誓いますか?」 
 「はい、もちろんです、誓います」 
 「よろしい。ではアーサー、そなたもジョアンを妻とし、如何なるときも共に生きる事を神に誓いますか?」 
 「はい、誓います」 
 
 神父は二人を見ると振り返り民衆に向かって大声を張り上げた。 
 
 「新たな夫婦の誕生を祝う者は声を上げよ!認めぬ者は沈黙を持って抗議せよ!天の父とその子らと精霊の祝福があらんことを!」 
 
 広場を埋め尽くしたスキャッパーの民衆から割れんばかりの賛辞が沸き上がる。 
 
 「おめでとう…」 
 
 マヤは最初は小声だった。だが、幸せそうにアーサーに寄り添うジョアンを見ていたら段々とマヤも幸せな気になってきた… 
 
 「アーサー!おめでとう!ジョアンを幸せにしてね!」 
 
 マヤは涙を流してアーサーを祝福する、アリスがそっと隣に立ってマヤを抱きしめた。 
 
 「マヤ?あなたとアーサーをここで踊らせようと思ったけど無理みたいね」 
 「おくさま…仕方ないです」 
 「そうね、じゃぁ来年の収穫祭ではヨシがリサと踊るはずだから、あなたは誰と踊って貰おうかしらねぇ・・・・」 
 「え?奥様?兄様が?リサさんと・・・・なんですか?」 
 「そうよ、予定通りよ。15年も前に決まっていたことだから!」 
 
 神父は民衆の声を聞き軍楽隊に指示を送った。 
 教会騎士団の騎士が剣を抜き軍楽隊を指揮する。 
 
 収穫祭の始まりを告げるファンファーレが響き空には鳩が舞った。 
 
 「領主よ!領民よ!貴族よ!平民よ!天と地と神の恵に感謝せよ!」 
 
 ワルツのリズムが響きトマトまみれのジョアンはスカートを僅かに持ち上げ腰を落とした、アーサーはサーベルを後ろへ回し飾り付 
きの帽子を胸に当てて頭を垂れた。 
 二人が手を取って優雅に踊り始め民衆も先を争うように皆で踊り始める。 
 その輪の外からゆっくりと中に入るポール公とアリス夫人。 
 
 「アリス…あと二人だな…」 
 「え?あと3人でしょ?」 
 「おや?マリアはトーマスの所へ行くし…ヨシはリサとだ。マヤとヘンリーだけ見つければいいだろ」 
 「タダはどうするの?」 
 「ミサがいるじゃないか、ヨシの話を聞いてタダとミサはその気のようだぞ」 
 「そうなんだ…、じゃぁもう少しね」 
 
 そんな会話をしながら二人も優雅に踊り始めた、その輪がどんどん大きくなっていく。 
 沢山の民衆が広場を埋め尽くし歓声が響き渡った。 
 
 「ねぇマヤ、あなたはどこへ嫁ぐの?」 
 
 アリスの写し身のようなマリアがマヤに話しかける。 
 マヤは返答に困った。 
 
 「わからないよ…けど、奥様が言うに、婿を取るんだっていってた」 
 「そうなんだ… あ〜私もここで踊りたかったなぁ〜」 
 「ラウィックへ行く前にここで踊ってから行けば?」 
 「それナイスアイディアね!サイモンにそう言おっと!」 
 
 そこへタダが紅朱舘の中の仕事を片づけてやってきた。 
 
 「うわ…アーサーの兄貴…ひでぇなりだな、ジョアン姉さんも…」 
 
 呆然と見ているタダだったが、その隣にヨシがやってきてタダのベストを調えた。 
 
 「マヤ、タダ、紅朱舘に戻ってあの二人の着替えを揃えておいてくれ。あと、リサにお茶の用意をしておくように言っておいて。そ 
れから、夜にはヘンリーが演習から帰ってくるはずだから食事の用意だ…今夜は忙しいな…」 
 
 そう言ってヨシは懐中時計を開けた、父マサミの形見である時計の針はもうすぐ2時になろうとしている。 
 いつの間にか2時間近く皆で踊っていることになる。 
 
 「マリアも疲れただろ、紅朱舘に帰って待ってるといいよ。御館様と奥様は俺が付いてるから」 
 
 幸せそうに踊るアーサー夫妻とポール夫妻。 
 紅朱舘の次の世代がスキャッパーに根を下ろし、ロッソムに新時代がやってきた一日となった。 
 
 
 
 
 第2話 了 

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