山並みを真っ赤に染めた木々の葉が落ち、丸坊主になった山肌が直に見て取れる頃。 
 冬を待つばかりになったスキャッパーは周期的に天気が入れ替わり、民衆はすぐそこまで冬が来ている事を知る。 
 群青の蒼天高く抜ける空の下、紅朱館近くのスキャッパー糧秣倉庫前は、今期の収穫を運び込む笑顔の農民や、汗を流し働く運送業 
の男達で賑わっていた。 
 
 眼下にその賑わいを望むスキャッパー領CEO、ポール公の紅朱館執務室。 
 暖房の効いた執務室の中、巨大な事務机には領内各所より送られてきた今秋の収穫に関する報告書や納品書が、所狭しと山積みにな 
っていて、統計担当の事務スタッフに処理される順番を待っていた。 
 
 この部屋ではヨシを中心とする経済担当のスタッフが机を並べ、ポール公の経営計画をアシストしている。 
 前執事マサミの妻カナが生前に育てた、算術と統計のエキスパート達は、膨大な資料を整理し分析し統計を作る専門集団だ。 
 その全てがこの地方の農業を、たったの50年で飛躍的に進歩させる原動力となった。 
 
 大地に生きる農夫達が代々受け継いできた経験や知恵を、イヌの得意とする組織化・高度な資料化を行った結果、農業指導員として 
領内各地に派遣される執行官達の尽力もあって、その収穫量はスロゥチャイム転封前と比べ、実に3倍の収量を達成しているのだった。 
 
 そして、近年でも珍しいほどに夏が暑かった関係で、例年より2週間も早く小麦の収穫が行われた結果、以前より奨励していた二期 
作二毛作が予想以上に好結果をもたらし、今年の総収量は前年比178%を記録した。 
 
 しかし、こうなってくると今度は穀物相場と言う頭の痛い問題が出てくる。 
 供給量が一挙に増えた結果、相場は値崩れし農民や商人の得る利益は扱い量に比べ目減りしてしまう。 
 冬場の雪を備蓄し常時低温を実現した紅朱館隣にある地下倉庫をフル活用した所で、実際は焼け石に水だった。 
 
 「御館様。穀物相場の変動推定です。最悪の場合、年越し前に半値以下へ落ちる可能性が・・・・」 
 「半値か・・・・」 
 
 ポール公はすっかり冷え切ったお茶を啜ると溜息を一つついた。 
 半値では農民達が冬を越えられまい・・・・・ 
 
 「買う側にとってはありがたい話ですが・・・・、生産側の問題として労働力をまかなう為の費用が捻出できません」 
 「豊作貧乏だな、典型的な豊作貧乏だ。しかし、マサミが聞いたら喜ぶだろうな・・・・」 
 「はい?父が・・・・ですか?」 
 
 いぶかしがるヨシを見てポール公は静かに笑った。 
 
 「そうだ。マサミは常々言っていたよ。いつか、豊作貧乏になるだろう。その時に本当の農務行政が始まる・・・・とな」 
 「父にしては不謹慎ですね」 
 「まぁ・・・・お前はそう思うだろうなぁ」 
 
 執務机の上で冷めてしまったお茶をもう一口啜ると立ち上がって窓の外を見た。 
 多くの農民が収穫した小麦や粟、芋、トウキビなどの穀類を荷馬車や曳車を使って糧秣倉庫へと運び込んでいる。 
 収穫の喜びが笑顔を生み、笑い声がここまで聞こえるようだった。 
 
 多くの農民や倉庫整理の肉体労働に精を出す労務者を、アーサーらが糧秣倉庫の前で指揮していた。 
 すぐ隣で秘書のように書類へ数字を書き入れているのはマヤ。 
 倉庫の中からタダが出てきて身振り手振りと大声で何かを報告している。 
 おそらく、倉庫がいっぱいになったのだろう。 
 多くのスタッフがいる前でアーサーは頭をボリボリと掻きしゃがみ込んで頭を抱えている。 
 
 「ヨシ。見てみろ、アーサーが頭を抱えているぞ」 
 「あ、ほんとですね。入りきらないのでしょうか?」 
 
 石畳の地面に小石を並べ、倉庫内のレイアウトをシミュレーションしているようだ。 
 しかし、この執務室にある発送書類から導き出される収納予定量か計算すると、倉庫前に集まっている穀類は全体の半分にも満たな 
い程度で、これからまだまだ押し寄せてくるのが目に見えていた。 
 
 「ヨシ・・・・、来年、雪が解けたら糧秣倉庫の新棟を建設しよう。冬場の雪で冷蔵倉庫にしたいものだな」 
 「そうですね、雪だけは嫌というほどありますから。複層式にして隙間に雪を落とすと尚冷えると思います」 
 「ほほぉ、名案だな」 
 「父が良く語っていました」 
 「そうか・・・・。ヨシ、下の連中に茶を振舞え。一息入れさせよう」 
 「かしこまりました」 
 
 ヨシは執務室のスタッフに新しいお茶を配ると部屋を出て行った。 
 温かいお茶を飲みながらポール公は懐かしんでいる。 
 
  マサミ・・・・雪が早く解けるって言うのも、実際はどうかと思うぞ・・・・・ 
  お前の案、採用だ。来年は倉庫全体が冷える物を作ろう・・・・・ 
 
 ヨシが降りてからしばらくして、アリス夫人がリサを連れ部屋にやってきた。 
 
 「あら、ヨシ君はどこに?」 
 「あぁ、下で汗を流す連中にお茶を差し入れに行かせたよ。下は大変だ」 
 「そうね、今年はすごい収穫でしょう?」 
 「あぁ、間違いなく過去最大だろうな。毎年これだけ収穫できるとありがたいのだが・・・・」 
 「倉庫に収まりきるの?」 
 「いや、おそらく無理だろう。どうしたものかな・・・・」 
 
 資料を整理していた若いイヌの女性スタッフが資料の細かい数字を追いながら何かを計算していた。 
 
 「ポール様、余った食料を王都の穀類商人に売るのは如何でしょうか?」 
 「王都へ?」 
 「はい、過去20年の相場表によれば12月初頭で毎年穀類相場が跳ね上がります。そこへぶつければ収益が上がる筈です」 
 「うむ、そうか・・・・。いや、それはまずい。銀行への返済にトゥン立てをする訳にはいかぬ。うーむ・・・・」 
 「あなた。いっそネコの国の穀物取引に出してしまえば?売れたお金はそのまま銀行に支払いましょう」 
 「あぁ、なるほど。うむ、それがいい」 
 
 ポール公は執務机の中からそろばんを取り出した。 
 マサミがポールに教えたそろばん術は、数字に弱いイヌ達にあって、この世界の商業活動においては圧倒的に有利な立場へ立てる魔 
法の道具だった。 
 マサミがこの世界で作ったそろばんや計算尺などの手動計算機は、それまで筆算に頼っていた算術速度と正確性を大きく向上させ、 
経済運営においても大きな成果を残している。 
 
 「王都へ収める穀類を差し引き、糧秣倉庫と低温倉庫に入れる分を除けば・・・・およそ・・・・」 
 
 パチパチとそろばんの玉をはじくポール公の顔がニヤニヤしっぱなしになる。 
 
 「ネコの国の穀類相場はどうだ?12月初頭の数字をあげてみよ」 
 
 執務スタッフがいっせいに資料の山を紐解き、予想相場の変動表を作り始める。 
 過去の商業新聞や穀類相場四季報をたどっているのだが・・・・、そこから導き出された数字は拍手ものの快挙だった。 
 
 「すごいな。3か月分の払いをまかなえるぞ!。あの銀行員もまた苦々しい笑顔であろうな。なんせネコの国の金で払うのだから」 
 「あなた?、あまり儲けすぎると議会の主税出納局から目をつけられるわよ?。どうするの?」 
 
 アリス夫人の危惧した部分は深刻な問題でも有った。 
 あまりに巨大な利益を生めば中央より目をつけられるのは自明の理。 
 スロゥチャイムにその気が無くとも、謀反の為の経済的自立などと取られては再度転封されかねない。 
 
 「マサミの苦労を水の泡にする訳には・・・・」 
 「うむ・・・・・」 
 
 ガチャリ・・・・ 
 重苦しい空気に包まれる執務室へアーサーがマヤを連れて入ってきた。 
 
 「父上・・・、お?・・・・どうしました?」 
 
 アーサーも部屋へ入るなり重苦しい空気を感じ取ったようだ。 
 ポール公は書類に書き込まれた数字を見せながら事のあらましを説明する。 
 
 「ならば父上、国庫納税分とあわせ、王都の貧民街へ施しをすればいかがでしょうか。ここスキャッパーではマサミさんの尽力もあ 
って浮浪者などは激減しましたが、王都ではまだまだ酷い有様です」 
 
 「うむ、そうだな。名案だ。それに併せ王都で労働力を確保しよう。ここ数年は慢性的に除雪人員が不足しておる」 
 
 年々発展するスキャッパーにおいては労働力の確保が問題になり始めている。 
 紅朱館詰めで除雪や雑役をこなし、春には雪解けを早める作業や農園各所へ送り込まれる季節労働者が慢性的に不足していた。 
 
 やはり、安定した生活を送るためには季節契約型の労働だと不安なのだろう。 
 ここ数年は毎年秋に除雪担当者が頭を抱える事態になっている。 
 約半世紀前、強烈な臭いを我慢してまで共同生活をして、雪掻き作業に従事させた労働者たちをアリス夫人は思い出した。 
 
 「そうね、それならば王都の治安も回復するでしょうし・・・・。それに今なら受け入れ側もしっかりしてるしね」 
 「うむ、決まりだ。アーサー、糧秣倉庫を再整理しネコの国へ持って行く分と王都へ運ぶ分を切り分けよ」 
 「はい」 
 
 短く答えてアーサーは窓の下を見た。 
 倉庫の前でヨシが整頓を指示していたが、それでもない収まりきれない分がまだまだ山積みだった。 
 
 「まさか、これほどになるとはね」 
 
 アリス夫人もその光景に目をやって微笑む。 
 
 「そうだな。マサミが畑へ撒いていた黒炭粉末がこれほど威力を発揮するとはな・・・・俺も最初見たときはたまげたよ。」 
 
 糧秣倉庫の隣。来年の春に向けて着々と焼かれている間伐材の木炭を粉々に砕く槌音が響いている。 
 この些細な粉末がスキャッパーの農業を変える大きな一歩になった。 
 
 「ご主人様・・・・あの・・・・」 
 
 それまで黙っていたマヤがアーサーの背中をたたいた。 
 何を言いたいのか、アーサーはマヤの眼を見てすぐに理解したようだ。 
 
 「父上、マサミさんの炭粉作戦はいつから始めたんですか?」 
 
 マヤの言いたい事を代弁するアーサー。 
 その姿にアリスが微笑む。 
 
 「マヤもマサミの事は知りたいわよね」 
 
 マヤは黙って頷く。 
 アリス夫人は再び窓の下に眼を落とした。 
 大きな麻袋に収められる黒い粉末が春を待つべく倉庫に運び込まれていた。 
 
 「もうずいぶん前のことだけどね・・・・ 
 
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 「マサミ、それは何をやっているの?」 
 
 雪解けの季節を迎え畑を持つ農夫たちがそわそわと浮き足立つ時期に入った。 
 畑に降り積もった3m近い雪は、連日姿を見せるようになった暖かい春光で少しずつ解けている。 
 しかし、いかんせん積もり過ぎている事もあって、陽の光だけで自然に解けるのを待っていては埒が明かない。 
 農夫たちは共同で畑の雪を削る作業に勤しんでいた。 
 
 マサミはその姿を見て故郷の早春を思い出したようだ。 
 紅朱館の竈の灰を集め木炭粉末を混ぜた黒い課粒状の粉末を背負いザル一杯こしらえていた。 
 
 「アリス様、これは雪を溶かす効率を上げるための知恵です。ヒトの世界の農家は雪解けの時期にこれを使って雪解けを早めます」 
 
 初めてマサミと"夜"を共にして以来、アリスはマサミがする事を一つ一つ確かめるようになった。 
 領主としてではなく主としての責任を理解し、自分が知らない様々なことをマサミから学ぶためだった。 
 そんなアリスにマサミは全てを見せていた。少しずつ少しずつ、その信頼は深まっているのかもしれない。 
 
 ザルを背負い紅朱館直近の畑に出向いたマサミは雪を片付けている農夫を呼び止めた。 
 
 「これから雪解け剤を畑に撒きます。雪が早く解けるかどうか確かめますのでこの一区画は除雪しないでください」 
 
 いぶかしがる農夫たちを横目にマサミは作業に取り掛かった。 
 春を迎えた雪面は程よく絞まり、雪面を歩く程度では沈まずにいた。 
 背負いザルからスコップに移し、体を振って遠心力で畑に万遍無く黒い絨毯を敷き詰めていく。 
 
 「執事さーん! あんまり仕事増やさないでくれよぉー!」 
 
 わっはっは!と笑いながら農夫たちはマサミの不思議な作業を見守っていた。 
 キラキラと輝く純白の雪原に黒の帯が現れ、畑は市松模様のようになっていた。 
 
 「マサミ、ほんとにこれで解けるの?」 
 「えぇ、もちろんです。まぁ、様子を見ましょう」 
 
 そう言ってセッセと融雪粉末を撒いていく作業は夕方まで及んだ。 
 太陽が傾き底冷えがやってくる頃になって4区画の畑が黒の絨毯で埋め尽くされた。 
 
 「アリス様、お待ちどうさまでした。寒いでしょう?早く戻りましょう」 
 「そうね」 
 
 道具を片付け撤収するマサミとアリスを横目に、農夫たちはまだ雪を掘っていた。 
 
 「アリス様、あの不毛な作業から農夫を解放しましょう。あのような無益な作業ではなく、利益を生む仕事を農夫にさせるのです」 
 「利益を生む作業?」 
 「そうです、農民の生活を改善すれば、自然に商人は反映し商店街は活性化します。農民は国家の根幹なのです」 
 「言われてみればその通りね。労働人口としては一番数が居るものね」 
 「彼らが経済的に力を持てば、彼らの必要物資を作り売る側も自然に栄えます。遠い道のりですが頑張りましょう」 
 
 山並みの向こうへ太陽が沈み、雪面が青く染まる美しい時間帯。 
 マサミは足を止めて雪原を見ていた。その隣に立ち雪原を眺めるアリス。 
 目前に広がる広大な畑がスキャッパーの発展に伴って新興経済地域になるのは30年以上先の話だった。 
 
 
 7日後。 
 先日まで分厚い布団のように畑を覆っていた筈の雪はどこかへ消えてしまったのだろうか? 
 所々に島状の雪が残るのみとなった畑を、アリスもせっせと雪を掘り返していた農民も呆然と眺めていた。 
 
 「みなさん、ヒトの知恵を信じてもらえますか?」 
 
 あんぐりと口をあけてウンウンと頷く農夫たちはいまだに信じられない様子だった。 
 そして、雪の下から顔を出した信じられないもう一つの物も驚嘆に値する物だった。 
 芽を出した小麦の若苗が雪の下に植わっていたのだった。 
 従来であれば小麦の作付けはまだ3週間は先なのだが・・・・ 
 
 「執事さん・・・・ヒトも魔法を使えるのかね?」 
 「いえいえ、魔法だなんて、とてもとても・・・・」 
 
 マサミは笑いを堪えるのに必死だった。 
 さて、黒色物体による輻射熱なんてどう説明したもんかなぁ・・・・・ 
 さしあたってマサミの悩みはそこだった。 
 
 「例えば、白い板と黒い板を太陽の光が当たる所に置くとして、10分経つとどっちの表面が熱くなってるか分かりますか?」 
 「そりゃぁ黒いほうだ。お陽様の光を集めるんだからな」 
 「それが分かれば大丈夫です。何をやったか見当がつきますよね」 
 「あぁ、こんな事、思いもしなかった・・・・・・執事さん・・・・この小麦は生きてるんですか?」 
 
 農夫の興味は小麦へ移ったようだ。 
 例年であれば雪の片付けが終わり一段落する頃、晴天の続いていた天候は曇りの日が続く時期に入る。 
 その時期に小麦を植え付けた所で日照不足と積算温度不足で生育が悪く、穂丈が短く実入りの悪い物になってしまうのだった。 
 しかし、こうやって秋蒔きしておけば雪解けと同時に春光を燦々と浴び、そして日中の陽光により暖められ積算温度を十分稼げる。 
 
 まさにスキャッパーの農業革命だった。 
 
 「この小麦は昨年秋の雪が降る直前に植え付けた物です。時間を見て私が植えておきました」 
 「雪で凍って育たないって事はないんですか?ほんとに育つんですか?」 
 「えぇ、もちろんです。雪が解けたのでこれからどんどん育ちますよ。土壌の余剰水分を小麦が吸い取ってくれるでしょう」 
 
 多量の水気を含みぬかるんだ畑を歩くマサミはスコップを持ってきて農夫に呼びかけた。 
 
 「しかし、全部が全部小麦に吸いきれる訳ではありません。次はこの作業です。小麦の畝と畝の間に溝を掘ります。周りの土の水が 
溜まる筈なのでそれを汲み出します。こうすれば従来より2週間は早く穂が出るはずです。」 
 
 おぉ・・・・ 
 ただそれだけ言って農夫たちは押し黙ってしまった。 
 従来のやり方では雪を片付け終わると力尽きてしまい1週間は農夫たちも休みだった。 
 しかし、この方法であれば体力を奪うことなく、安定して雪処理が進められるのは目に見えていた。 
 
 驚き感心する農夫を前に、マサミは話を先に進めた。 
 
 「この作業の肝はまだ雪が降っている時期にあります。大雪が峠を越え春雪の時期になったらすでに撒き始めます。多少雪を被って 
も黒い粉末は威力を発揮するでしょう。春光あふれる安定期には大量に撒き散らし、晴れの続く時期に効率よく解けてもらいます。こ 
うすれば雪片付けの肉体労働からも解放されますよ。さぁ、皆さんの畑に残ってるところへ撒きましょう!」 
 
 マサミの用意した雪解け剤は全部の畑に撒くには足りていないのが現状だ。 
 しかし、半分近くを力仕事で片付けている現状では何とかなると踏んだのかもしれない。 
 
 「良いですか!厚く積もってる所は後回しです、薄くなってるところへどんどん撒いてください、撒きすぎに注意です。薄っすらで 
良いですから!」 
 
 まだまだ厚く積もっている所は氷板化してるケースも多いので、効率が落ちるのは目に見えていた。 
 出来る所からどんどん作業を進める。マサミがこれをやって以来、スキャッパーの農業事情が大きく変わっていった。 
 
  
 
                             ◇◆◇ 
 
 
 「マサミが最初に黒い粉を撒いたときは頭がおかしいんじゃないかって思ったわよ」 
 
 あっけらかんと笑うアリス婦人はマヤと並んで窓の下を眺めていた。 
 ヨシはタダと手分けして倉庫の中を再整理し、穀類備蓄の作業を進めている。 
 
 整理屋達が倉庫から続々と運び出してきたのは、昨季収穫分の備蓄食料のようだ。 
 一人降りていったアーサーが食味検査官と共に袋を開けて中身を確かめている。 
 
 アリス夫人は窓を開けて外の匂いを嗅いでいる・・・・・・ 
 
 「腐ってはないようね」 
 
 窓の下遠くにあるはずの食料倉庫から流れてくる臭いをアリス夫人は嗅ぎ分けたようだ。 
 その仕草に驚いたリサは思わず 
 
 「アリス様はこの距離で分かるのですか?」 
 
 と、言葉を吐いた。 
 マヤもちょっと驚いてるようだが・・・・・ 
 
 「イヌの鼻は分かるのよ」 
 「便利ですね」 
 
 リサは感心しきりだ。 
 今までそんな仕草を見たことが無かったのだろうか? 
 
 「そうでもないわよ」 
 
 アリス夫人は肩をすぼめてそう言った。 
 その姿に今度はマヤが声を上げた。 
 
 「え?何でですか?」 
 
 アリス夫人は訝しがるマヤを見たあとで部屋の奥のポール公を指差した。 
 
 「あなた、オナラしたでしょ」 
 「・・・・・・・・・・おっ、俺は無実だ」 
 「図星みたいね、あはは!」 
 
 つられてマヤもプッと笑った。ばつの悪そうな顔でポールは頭をボリボリと掻いている。 
 窓を大きくあけ広げて空気を入れ替えるリサとマヤを横に、ポールは寒い寒いと言ってお茶を飲んでいる。 
 
 「あまり鼻が利くと困る時もあるのよ。実はね」 
 「そうなんですか・・・・・」 
 「だからね」 
 
 アリス夫人はリサとマヤを引き寄せて順番にクンクンと臭いを嗅いだ。 
 
 「二人ともオスの臭いがしてるわよ。ベットで遊んだあとはちゃんとお風呂に入りなさいね。イヌにはばれるんだから」 
 
 途端に赤くなって照れるヒトの娘を見ながら、アリスは遠くなった若かりし時代の事を思い出していた。 
 
  −私もよく、ヒトの臭いがしますって言われたっけ・・・・ 
  −マサミ・・・・あなたの匂いよね・・・・ 
 
 
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 冬を目前にした雨の季節がスキャッパーにやってきた。 
 来る日も来る日も曇り空の毎日だ。 
 気温も低く雨がちの天気になる。 
 
 海からの湿った風がなだらかなネコの国を素通りし、高原地形のスキャッパーにぶつかって雨となる。 
 本格的な寒気が上空に入る頃、この雨は雪に変わるのだった。 
 その寒気の入る前の時期、畑に残る作物といえば雪に埋めて冬越しさせる秋撒き小麦の早苗と、収穫を待つそばの実。 
 丘と丘の間、なだらかな谷間になる場所には名も無い池が現れる。 
 
 雨の中、アーサーはヨシを連れ馬に乗って領内を視察していた。 
 領民たちは自分の畑に水が入らないよう浅い水路を作って池に水を導いている。 
 丘の上に畑を持つ農民は良いが、谷間に近い場所に畑を持つ者は苦労しているようだ。 
 
 流れてくる水に腐ったピートの屑や腐汁が混じれば谷間に近い畑は傷んでしまうし、小麦の苗は枯れてしまう。 
 この時期、丘陵地域の農民たちはピリピリしているのだった。 
 
 「なぁヨシ。マサミさんのプランにある排水路建設、どのくらい進んでるんだ?」 
 「そうだね・・・・」 
 
 ヨシは背嚢の中から測量部の作った地形図を取り出し推測する。 
 
 「中央排水路は出来上がってるから良いとして、支線水路はあちこちで頓挫中。そうだな・・・・控えめに言って60%という辺り」 
 「そうか・・・・・」 
 
 二人の視線の先。大地主が小作農を指揮して土嚢を積み簡単な水路を作っていた。 
 その水路が注ぎ込む先には名も無い池がある。 
 かつては田畑だったようだが、腐水ばかりが溜まり底なし沼になってしまうようで、耕作を放棄されたようだ。 
 
 
 ピートに覆われた丘陵地形を多く持つスキャッパーでは部厚く堆積したピートの枯れ草と、それが腐った腐泥層が折り重なった複雑 
な土壌を形成していた。 
 腐泥が泥炭化してしまっている所はレンガ状に切り出して石炭程では無いにしろ、かなりの熱量を持つ燃料として利用されているの 
だが、不泥のままでは如何ともしがたくあった。 
 
 そんな土壌の改良をかつてマサミは考えていたらしい。 
 マサミが生前に書いた農地改良に関する長期計画と展望についての論文が紅朱館大書庫に残されている。 
 
 『スキャッパーの永続的農地改良とその最終目標について』 
 
 によると、ヒトの世界の農村で行ったように、大規模ほ場整備を行って中央排水路とその支線を沢山つくり、丘陵地帯に出来る池や 
小川を強制的にネットワークで結び、さらには丘を削り谷を埋め、平坦な耕作地を作ることを目標にしていた。 
 
 大規模土木事業なのだが、大型建設機械など無いこの世界では全てが人の手で行われる地道な作業だ。 
 領内の見回りをするアーサーは最後に作業中の現場へと足を向ける。 
 長く厳しい冬を目前にした雨の日だというのに、スキャッパー駐屯の南部方面軍に属するイヌ達が汗を流していた。 
 陣頭指揮に立つのは南部方面軍参謀長のエミール・バウアー。 
 アーサーの参謀役でもある彼は複雑な生い立ちで、彼の母親はオオカミの女性だった・・・・ 
 
 「おや?若殿、どうしました?」 
 「バカ殿がなんだって?」 
 「違うって、若殿だって!」 
 
 はっはっは!と笑うアーサーとエミール、そしてヨシ。 
 次世代のスキャッパーを支える人材がここに集まっている・・・・ 
 
 「エミール、作業の進行状況はどうだ?」 
 
 アーサーは馬から降りて現場へと入っていく。 
 仮にもこのイヌは南部方面軍の軍団長であるからして、作業中のイヌが一旦手を止めて敬礼しているのだった。 
 アーサーはそれに敬礼で答えながらズンズンと奥へ入っていく。すぐ後にエミールがつき従った。 
 
 「そうですね、雨の具合にもよりますが・・・・ここ数日でここの丘も平らになるでしょう。東の沢はほぼ埋まりました、この冬の雪で 
どれくらい沈むか分かりませんが、3mほど土を積んでありますから、雪が解ければ削るだけです。西の沢は一昨日始めたばかりなので 
なんともなんとも。あ、それより、飯をなんとかしてください。4個連隊で3交代制の昼夜作業に当たってますが、まぁ、こいつら良 
く食いますわ」 
 
 ハッハッハ!とまた笑って作業中のイヌ達を見るアーサー。 
 肉体労働を朝から晩までやって、それで飯を食うのだ。 
 半端な消費量でないのは火を見るより明らかだ。 
 
 「あぁ、それは任せろ、なんせ豊作だったからな。食っても食っても無くならないぞ。明日にでも糧秣倉庫から運び込ませよう」 
 「お願いします。それとヨシさんにもお願いなんだけど」 
 
 現場監督から受け取った作業進捗報告の書類に目を通していたヨシが顔を上げた。 
 
 「なんですか?私に出来ることなら」 
 「いやいや、執事さんで無いとお願いできないんだよ。実はさ、今ウチで預かってる今年の徴兵連中がさぁ新兵だらけなんだよ」 
 「えぇ、でも、それが何か?」 
 「それがさ・・・・、一昨日の事なんだけど、終わった後でルハスの街へ繰り出してな、あいつらを新兵卒業させてやったんだが・・・」 
 
 新兵だらけ。 
 おそらくあまり他所へは流れないスキャッパーだけのスラングかもしれない。 
 要するにチェリー君だらけなのだが、男ばかりの軍隊という環境においては、無防備な童貞坊やは色々と問題を引き起こす。 
 童貞だと分かれば途端に古参に狙われ足を踏み外してしまう事が多いそうだ。 
 
 その為だろうか。 
 駐屯地の近くには飲み屋街や劇場などと共に、いわゆる赤線街も形作られている事が多い。 
 ルハスの街もその一つで、の南部方面軍主力が陣取る駐屯地のすぐ近くに出来た、一夜の夢を見る巨大歓楽街であった。 
 
 「新兵諸君を連れて行って・・・・女を取っ替え引っ替えのどんちゃん騒ぎ?」 
 「そうなんですよ・・・・若いのが多いからまぁ旺盛で旺盛で・・・・7回戦までやった奴もいて・・・・で、まぁ、よくある話で」 
 「なんぼ何でもまぁ・・・・ちょっとやりすぎた・・・・と」 
 「お恥ずかしい限りです」 
 
 アーサーがあきれた顔をしてエミールを見る。 
 回ってくるお鉢と言えば謝りに行くか、それともツケを払うか。 
 
 「で、ヨシに何をさせるんだ?」 
 
 アーサーの質問はいつもながら簡潔だ。 
 エミールはちょっと口ごもったが、そこはさすがに軍属なのだろう。 
 
 「まぁ・・・・要するに、ちょっと吹っ掛けられてるんで、ディスカウント交渉して欲しいって事なんだけど」 
 「なんだ、そんな事か。なら俺が行ってやる。あの街の顔役は俺が義勇軍に紛れ込んだ時の相方だったからな」 
 
 義勇軍。 
 義勇とは名ばかりの私兵軍が昔からこの地には存在している。 
 かつて、父ポールに勘当されたアーサーはそれに紛れ込んでいた・・・・ 
 
 アーサーの祖父に当たるレオン公の時代から、北伐支援の部隊がスキャッパーより何度も出征している。 
 その中にあって勘当されたアーサーが転がり込んだのは、色町として機能していたルハス街のマフィアが募った私兵だった。 
 
 色町の治安や他の地方のマフィアから娼婦や裏方を守るため、色町のマフィアが警察の代わりをするのは昔からの習わしだ。 
 生前のマサミが色町として機能していたルハス街のゴッドファーザーと取り決めた紳士協定は、ルハスの街で募る私兵によりスキャ 
ッパー駐屯軍の仕事を半分を肩代わりさせる事だった。 
 正規軍のほとんどを北伐に出してしまった場合、この地の治安や他国とのいざこざに対処しきれなかった事が多く、過去何度もスキ 
ャッパーや隣のラウィックでは武装強盗団などの襲撃で凄惨な都市戦が行われたのだという・・・・ 
 
 そんな状況を改善するためマサミが行ったのは名より実をとる実利優先の妥協的現実追認措置だった。 
 ルハスの街を牛耳るマフィア達にある程度の自治を認め、その見返りに北伐軍編成時は私兵を正規軍に混ぜ、正規軍の半数を市街へ 
駐屯させる約束だった。 
 光と陰のバランスを大事にしたマサミの政治的センスが生み出した必要悪の存在認可。 
 これもまたスキャッパーの発展要素なのだった。 
 
 「で、エミール。いったいいくら吹っ掛けられてるんだ?」 
 「いや、たいした金額じゃない・・・・えぇっと・・・・」 
 「うん、で、いくらだ?」 
 「ちょっとあるかなぁ・・・・まぁ、驚くような数字じゃ・・・・ 
 「だからいくらだよ」 
 「100トゥン・・・・」 
 「はぁ?」 
 
 少々の事では目を瞑る覚悟でいたアーサーだが、さすがに開いた口が閉まらない金額だ。 
 100トゥンといえば・・・・ロッソムのダウンタウンで家が建てられる金額なのだが。 
 
 「実際、いくらくらいが妥当な金額なんだ?」 
 「そっ、そうだな・・・・いいとこ40トゥンだと思うが」 
 「それだっていい金額だぞ」 
 「あぁ、だからこうして頼んでるって訳だよ。親父の耳に入ったら俺は八つ裂きだよ」 
 「親父さん・・・・おっかねぇからなぁ、俺の親父もフェルおじさんには頭が上がらねぇし」 
 「若殿!いやさアーサー!頼んだよ、マジで」 
 「安請け合いするんじゃなかったぜ・・・・」 
 
 やれやれと言った表情で頭を掻くアーサー。 
 横を向いてチラチラと視線を送るエミールの頭をムンズと掴み手前に引き寄せた。 
 
 「おい!エミール!。一つ貸しだからな。覚えとけよ」 
 「あぁ、分かってますって。お願いします」 
 
 はぁ・・・・と、ため息を一つついてアーサーは馬の鞍に尻を乗せた。 
 
  −さて・・・・あいつになんて話を切り出した物か・・・・ 
  −いっそ全部払ってから難癖付けて巻き上げるか・・・・・ 
 
 しばらくウンウン唸っていたが、考えたところで結果が出る物でもなく、やはりまずは現場へ行くのが上策とあきらめた。 
 現場責任者と手短なブリーフィングをしていたヨシが馬に乗ったのを確認して現場を離れる。 
 
 「なぁヨシ、どうしたもんだと思う?」 
 「営業禁止にされたくなけりゃ泣き寝入りしろって脅すとか」 
 「でも、それやると親父の耳に入ったとき・・・・・」 
 「出征する時にまずい事になるおそれが・・・・あるね」 
 
 パカパカと馬を走らせる物の、だんだんとその速歩が遅くなっていく。 
 そしてとうとう立ち止まって考え込む。 
 
 「半額にしろって言うのはどうだろう?」 
 「駄目だ、あのドケチが飲むとは思えない上に、エミールが言うには40だ。軍団長としての沽券に関わる」 
 「じゃぁ・・・・半額にまけさせて、10トゥンをアーサーが持つのはどうだ?」 
 「ジョアンにばれたら・・・・そっちの方が怖い・・・・」 
 
 打つ手無し・・・・ 
 さすがのヨシもアーサーも頭を抱えている・・・・ 
 
 「とりあえずルハスへ行こうよ。現地までに何か思いつくかも」 
 
 ヨシの提案でポクポクと駒を進めるのだが、気は重くなる一方だった。 
 降りそぼる氷雨の冷たさに心底冷え切るころ、二人はルハスの街へ入っていく。 
 ロッソムシティの外れ、ルハスの街は囲む消雪水路によって一般市街と隔離された場所になっている。 
 
 幅のある水路に掛けられた跳ね上げ式の踏み板を渡って中へと入ると、途端にルハス独特の街の臭いがムッと迫ってくる。 
 化粧する女達の臭い。遊び慣れた男達の着飾った臭い。手引き婆や娼婦達の飲む独特なお茶の臭い。 
 その全てがこの色町を作る、独特な街の臭いだった。 
 
 ルハスの中心。一際大きな建物の前でアーサーは馬から下りた。 
 ヨシも馬から下りてアーサーの馬の手綱を受け取り馬小僧に渡した。 
 小僧は手綱を止め木に結び、飼い葉桶と水桶を馬に出してやる。 
 ヨシはそれを見届け小僧に小遣いを切ってやった。 
 小僧が嬉しそうにお辞儀して建物に入っていく。 
 
 「ヨシ、ここでちょっと待っていてくれ。顔役が居るかどうか確かめてくる」 
 
 アーサーはそう言って建物へ吸い込まれていった。 
 馬の側でボーッと立っているのも疲れるし、それに寒くて居られない。 
 角のカフェで雨宿りついでに暖かい物をと思ったヨシの袖を誰かが引っ張った。 
 
 「あの・・・・執事様・・・・お願いです・・・・私を一晩・・・・買ってください」 
 
 若いイヌの娘は震える手でヨシの袖を握っている。 
 汚れた顔をしているが、それでもなお目を見張るだけの美貌があった。 
 そんな娘が娼婦紛いの事をしている事にヨシは驚いた。 
 
 「君、どこの娼婦置屋から来たの?」 
 「私は・・・・どこにも属してません・・・・素人です」 
 「名前は?」 
 「・・・・・ミシェル・・・・・です」 
 
 娘は小声で答えた。震える声はなんのメッセージだろうか。 
 
 「本当の名前じゃないね?」 
 「執事様、お願いです・・・・どうか」 
 
 どうした物か・・・・。 
 さすがに対処に困る物の、ここで安請け合いすると・・・・ 
 後々面倒になるのは目に見えている。 
 
 「3つ質問に答えてほしい。なぜ私娼をしている?なぜ本名を言わない?なぜ私が執事だとわかった?」 
 
 「あの・・・・昼間、私の父の畑に若領主様がいらっしゃいました、その時執事様を御見かけしました。お金が要るのです。母が病に倒 
れ薬を買うにもお金が足らず、ならばせめて滋養のある物を買いたいのですが・・・・農夫の父にはとてもそのような余裕が・・・・」 
 
 震えて話をする少女の声は涙声になっていた。 
 
 「君を一晩買うこと自体は容易いものだけど、じゃぁ君は明日はどうするの?明後日は?。来週になってもここで私娼をやって体を 
売り続けるのかい?」 
 
 「それは・・・・それは・・・・」 
 
 「普段から領主アリス様とポール様より強く言われている事があるのですけど、それは、まさにこのような場合は一人だけ助けても 
問題の解決にはならないという件なんです。ですから、あなたのお願いを聞くことは私には出来ません」 
 
 「そうですか・・・・」 
 
 「ただ、何があったのかを聞くことは出来ます。話してくれませんか?」 
 
 「そんな時間はありません・・・・母はもう・・・・」 
 
 そこから先の言葉を飲み込んでイヌの娘は押し黙ってしまった。 
 涙で濡れる顔をよく見れば、娘と言うより少女に近いあどけなさだ。 
 さすがのヨシも罪の意識がするのだけど・・・、そこへアーサーがやってきた。 
 
 「ヨシ、どうした?」 
 「いや、私娼志望のお嬢ちゃんだ。お金が要るとのことだ」 
 「う〜ん・・・・」 
 
 今にも泣きそうな少女が顔を上げる。それを見てアーサーが何かを閃いた。 
 
 「君の名前は?」 
 「あの・・・・」 
 「君の願いを聞くことは出来ないが、何らかの形で解決することは出来る。俺が誰だかわかるだろう?」 
 「はい、アーサー様です」 
 「ならば話は早い。君の身の上を話して欲しい。その上で解決策を考えよう。ヨシ、そこの茶屋に行って奥を使わせてもらおう」 
 
 アーサーは少女の肩を抱いて茶屋へと入っていった。アーサーの荷物も持ってヨシは後をついて行く。 
 
 「じゃぁ、要するに、君のお母さんがトラオタフクで、それでもうそろそろ・・・・と言う事なんだね?」 
 「はい。父は畑仕事が終わり除雪使役で出てしまいました。母に次の春までなんとか・・・・」 
 「う〜ん・・・・。酷な話だけど・・・・。トラオタフクでは・・・・手の施しようが無い。君のお母さんは家で寝てるのかい?」 
 「はい・・・・もう・・・・起き上がる事も・・・・間々なりませ・・・・」 
 
 少女はついに泣き出した。必死で繋ぎ止めていた心が切れてしまったのだろうか。 
 声を殺してすすり泣く少女をどうする事も出来ないで居るアーサー。 
 あまりに惨い現実に声を無くすヨシも黙って見ているしかない。 
 
 「アーサー様、せめてこの少女の母の今際の際に暖かい物を」 
 
 余所行きの声色と口調でヨシは提案する。 
 
 「うむ、そうだな。それが良い。ヨシ、商店街へ行って病人の口に運べる物を見繕ってくれ。払いは俺に付けて良い」 
 「かしこまりました。ルハス街入り口で20分後にお待ちします」 
 
 ヨシは一礼して部屋を出て行った。アーサーはさらに少女へ質問を続ける。 
 どこへ住んでいる?仕事はあるか?冬は越えられるか?これからどうするんだ?と。 
 多少落ち着きを取り戻した少女とは言え、死にかけの母が死んだ後の事など答えられる訳がない。 
 質問は失敗だったと悟りアーサーは少女を連れて店を出る。 
 
 茶屋の親父が店から出てきてアーサーの後ろ姿に一礼した。 
 袖引き婆らが少女をじっと値踏みしているようだ。 
 馬にまたがり少女を連れてルハス街の入り口まで出るとヨシが荷物を背負い馬上で待っていた。 
 ヨシと並び馬で闇を駆けていくアーサー。少女が道を指さして駆けていく。 
 その姿を紅朱館の上から見ていたヒトが一人・・・・・・今日はまだまだ長い一日になるのだった。 
 
 
 ちょうど同じ頃。 
 夕食時の紅朱館、4階のレストラン・スキャッパーは多くの客でごった返していた。 
 秋の収穫祭フェアを開催中のレストランでは、トラの総料理長が考えた数々の創作料理がカフェテリア方式で並んでおり、遠方より 
来たイヌ以外のお客や地元ロッソムの比較的裕福な民衆などで賑わっていた。 
 
 そのレストラン最奥にあるテーブルは、スロゥチャイム家ファミリーの半指定席となっている。 
 
 地元民達と共に夕食を。 
 そう言ってこの場をセッティングしたマサミの思いが今も受け継がれている。 
 
 そう。 
 民衆達と同じ物をアリス夫人もポール公も食べているのだった。 
 そして夕食だけは執事や召使いも一緒に並んで食事をする。 
 それはアリスとマサミ、二人だけの時代から続く、アリスにとっての大切な時間とも言えるのだった。 
 
 しかし、今宵この場には長男アーサーと執事ヨシの姿がない。 
 夕食はレストランに揃い皆で食事をするのはアリス夫人のモットーなのだが、どうしたことだろうか? 
 民衆が訝しがる中でファミリーはヨシとアーサーの姿を目撃したタダの話で盛り上がっていた。 
 
 「では、タダ。つまりアーサーの奴がヨシを連れてルハス街から出てきた訳だな?しかも女連れで」 
 
 目をキラキラ輝かせるポール公は明らかに何か企んでいる表情だった。 
 その隣に座るアリス夫人もまた笑っている。 
 
 「二人とも・・・・何か刺激が欲しいのかしらねぇ〜」 
 
 ケラケラと笑う領主夫妻の向かい。 
 アーサーの正妻ジョアンは隣に座るマヤと共に、今にも頭から角が生えてきそうな勢いだった 
 
 「ねぇマヤ。どうしてくれましょうか?」 
 「奥様、まずはしっかり事実関係と伺うべきです、その上でどうするべきか考えましょう。でも、言い逃れ出来ないかと」 
 「目撃証言があるのですから・・・・。タダ君、間違い無いんでしょ?」 
 
 話を振られたタダは・・・・どうも地雷を踏んだ気がしてならないのだが・・・・・ 
 
 「はい、そうです・・・・間違い無いです、あれは間違い無くアーサー様と兄貴でした」 
 
 タダと並んで座るミサの向かい、本来ならヨシが座る位置の隣でポツンと座るリサはお茶ものどを通らない風でいた・・・・ 
 
 「タダ君・・・・本当にヨシさんだったの?」 
 「あ、間違いねっす。ありゃ絶対兄貴でした。だって馬の乗り方まで親父そっくりっすよ、まじで」 
 
 何となく重い空気の中で食事を進めたのだが、リサは食事がのどを通らないらしい 
 
 「リサさん。ヨシ兄さんだって男だったって事ですよ。あとでしっかり問い詰めればいいじゃないですか」 
 
 普段は寡黙でおとなしいヘンリーだが、さすがに場の空気が重すぎたのだろうか。 
 淡々とした口調ではあるものの、リサを慰める側に回っている。 
 
 「リサ姉さま。私と奥様でご主人様にしっかりお伺いしますから、リサ姉さまはヨシ兄さまを問い詰めてください」 
 
 しっかり爪を研いでいるマヤとジョアンの表情は恐ろしい程だ。 
 嫉妬に身を焦がす女の恐ろしさを嫌と言うほど知っているポール公だが、他人の不幸は何とやら・・・・だ。 
 どう転がるか楽しみで仕方がないらしいといった風で笑みを浮かべているのだが。 
 
 さすがにガックリとうなだれるリサを見ていたらアリスも気の毒になったようだ。 
 リサはアリスに拾われて、その膝の上で大きくなったような娘にも等しい存在といえる。 
 アリスはポール公に目配せして言葉を切った後、リサを隣に呼んだ。 
 
 「マリア、ヘンリーと一段そっちにずれてちょうだい。リサは椅子を持って来てここに座りなさい」 
 
 ちょっとした席替え状態で動くファミリー。 
 ポール公は何が起きるのか理解した。 
 
 「ジョアンもマヤもよく聞いてね。昔、このロッソムには全部の地域に娼館があったの。私がここへ来た頃は本当に貧しい地域で、 
娼婦だけでなく男娼も子娼も、それこそ衆道好き子供好きまで全部の需要を満たすだけの物があったの。でもね、マサミはそれを良し 
とせず街の整理と再区画を断行したのよ。そして誕生したのがルハス一家の取り仕切るルハス街。それまで単なる消耗品扱いだった娼 
婦達はね、マサミの努力でその地位をずいぶん向上させたし、それに、無駄に死ななくなったわ。今、スキャッパーではルハス街以外 
での娼館営業を禁じているから、アーサーとヨシ君が連れていた女の子は娼婦とは限らないわよ」 
 
 「奥様・・・・」 
 
 リサは少し安心した風だが、ジョアンとマヤの頭からはまだ湯気が出ているようだ。 
 
 「それにしてもお母様。妻を持つ男が何も言わず少女を連れて駆けていったなどと知れては民衆の手前、示しが付きませぬ」 
 「そうですアリス様、普段のアーサー様なら何か一言言ってくださるはずです。何も言わずに駆けていくなど・・・・」 
 
 二人はまだプンプン怒っている。 
 
 「はいはい、二人とも妬かない妬かない!」 
 
 あはは!と笑ってワインを一口飲んだアリスはふと天井を見上げてから一つ息をついた。 
 
 「あの街がどういうところだか知らない二人じゃないはずよ」 
 「でも!」 
 「あなた達が怒ってる理由は何?娼婦紛いを連れていたこと?それとも、あの街へ行ったこと?」 
 「え?」 
 「仮にその少女が娼婦だったとしましょう、あくまで仮に・・・・ですよ。そのだとしたら、あなた達は一体何を問題にして怒っている 
の?」 
 
 アリス夫人の鋭い指摘にちょっと冷静になったジョアンとマヤだが、それを見たアリスの更なる一撃は、ある意味で二人の想定外だ 
った部分があるようだ。 
 
 「あの街の中で客を取っている娼婦はね、この地方のどんな職業に付いている者よりはるかに高い職業意識を持っているわよ。見知 
らぬ男の欲望の捌け口として他人に股を開いて奉仕するだけの女たちじゃないわね。ただ単に金を取って客を取ってると思ったら、あ 
の街で生きる女には失礼な話なのよ」 
 
 「でも、お金を取って見知らぬ男に抱かれるなど・・・・」 
 
 ジョアンはそれだけ言うと口篭ってしまった。 
 女なら・・・・。逆説的に言えば、女にしか分からない複雑な感情を持っているのかもしれない。 
 
 「ジョアン、仮にあなたが娼婦だとした場合、お金を取る以上はお客を満足させるだけの事をしなければならないのですよ?娼館で 
一夜の春を買うのであれば、決して安くは無い金額が必要になります。このレストランのディナーは一食20カトゥンですね、フルコー 
スなら76カトゥン必要です。しかし、あの街で女を買おうとするなら少なくとも2トゥンは必要です。そのお金を支払って男は女を買 
います。女の元に入るのは今も昔も変わらず80%と決まっています、マサミがそう決めましたからね」 
 
 アリス夫人はもう一口ワインを口に含んで味わうとグラスの中に揺れる赤い液体に目を落とした。 
 マサミの決めた事・・・・その部分にアリスの想いが込められているのをその場に要るもの皆が感じ取った。 
 
 「ジョアン、マヤ。あの街で客を取る女は1トゥン60カトゥンに見合うだけの魅力と実力が必要なのです。娼婦以外でほんの2時間 
にも満たない時間でそれだけの金額を稼ぐだけの職業をあなた達は思い浮かべられる?」 
 
 「それは・・・・。いえ、ありません・・・・」 
 
 「でしょうね。そして、2トゥンは入り口に程近い安い店の場合です。街の奥、高級娼婦のいるあたりに踏み入れば10トゥンを越え 
る値札が下がる店も珍しくないの。この地域の高給層と言えど月の稼ぎは良いとこ20トゥン。娼婦がどれ程高給取りだか分かるでしょ 
う?。それだけを稼ぐ為に、あの街の女達は努力してるのよ、自分の身と命を削ってね」 
 
 「命を削る・・・・のですか?」 
 
 ジョアンがちょっと驚いている。 
 しかし、そこに口を挟んだのは誰でもない、ヘンリーだった。 
 
 「ジョアン姉さま。男と女が交われば、嫌でも子を成すときがあります。しかし、望まぬ子を設けても、それは不幸なだけです。で 
すから、あの街の薬事局では避妊薬を売っています。しかし、それは副作用が大変強く・・・・」 
 
 ある程度は知識で知っていたジョアンやマヤだが、リサはたまらずその先を聞きたくなった。 
 
 「それは、どんな副作用があるのですか?」 
 
 「簡単に言いますと、本当に命を削ります。経血をもたらす内臓器官を一時的に機能不全にしてしまいます・・・・、つまり、毒なんで 
すよ。それも、自分で覚悟して飲む毒です。それを飲むと酷い腹痛、そして子を成すための器官から出血を伴います。でも、血の臭い 
をさせる娼婦などいません。何をしているかは・・・・女性であればお分かりかと思います」 
 
 ヘンリーの説明を聞いて押し黙ってしまったリサ。 
 向かいの席ではジョアンとマヤがうっすらと涙を浮かべて話を聞いていた。 
 
 「それじゃぁ・・・・・あの街の女達は・・・・・」 
 
 「そうですジョアン姉さま。女性であるべき能力を自らに消し去ってあそこにいるのです」 
 
 さっきまでの怒気がどこかへ行ってしまった女達は呆然と話を聞いているだけだった。 
 アリス夫人はグラスに残っていたワインを全部飲みきって静かにグラスを返す。 
 僅かに残っていた赤ワインが白のテーブルクロスに垂れて赤いシミを作っていた。 
 それはまるで女にとって大切な能力を暗示するかのように・・・・ 
 
 「ジョアン、マヤ、リサも聞きなさい、もちろんマリアもね。今から30年ほど前、マサミが何をしたのか・・・・・」 
 
 
***********************************************************3*********************************************************** 
 
 
 雪解け進む春の宵ともなれば、用は無くとも通りを歩きたくなるのがイヌの国の民と言うものだった。 
 朧に浮かぶ二つの月がボンヤリと路地の片隅で融け残った雪を照らす夜。 
 ロッソムの街に幾つか立っている娼館の前は、客を呼び止める袖引き婆と娼婦達の甘い声が、花の香りもよろしく漂っていた。 
 
 ヒトの世界のそれと違い、この世界では娼婦の人権など有って無きに等しいもので、そんな中で生きて行くには並々ならぬ気合と度 
胸が必要なのだった。 
 大通りから一本入った娼館の立ち並ぶ裏通り。 
 立寄茶屋で順番を待つ男達と、たまの休みに羽を伸ばす厚い化粧の娼婦達が、仲良く並んで酒を飲む小さな酒場の片隅。 
 
 ロッソムの現実を見たいと言い出したアリスを連れて、マサミはそのきな臭い店内で酒を飲んでいた。 
 貴族の世界では知りえなかったどん底の底を突き抜けた裏側の世界。 
 金と酒と暴力と性の反乱する裏社会の現実をアリスは垣間見た。 
 
 そして、唖然とするアリスの視線の先。店の片隅で静かに茶を飲む、身なりの良い実業家といった風体の男。 
 色眼鏡をかけたその男・・・・、マダラのイヌがまとう雰囲気は決して堅気の男が持つそれではなかった。 
 
 「マサミ・・・・あの男・・・・」 
 「あぁ、女衒でしょう」 
 「ぜげん?」 
 「人買いですよ。小さな娘を買い取り娼館に売るんです。何も知らぬ娘にベットテクを仕込んで客を取らせます。その人材供給源と 
言うと良く聞こえすぎですかね?」 
 
 良く見ればその男の周りには小さな女の子が二人。 
 汚い身なりながら花のような笑顔を浮かべた穢れを知らぬ少女達。 
 貧しい家から買われたのだろうか、生まれて初めて食べる生クリームの味にビックリしている風だった。 
 
 「マサミ、あの子達は・・・・・」 
 「将来の花魁・・・・娼婦ですよ、職業売春婦です」 
 「・・・・・あの子供達を取り戻せないものかしら」 
 「アリス様・・・・。取ってどうします?親の元へ返しますか?」 
 「・・・・親の元へ帰っても一緒・・・・なのかな」 
 「そうですよ、いかな事情があるにせよ、平気で娘を売る親ですよ?」 
 
 幸せそうに甘さを確かめる少女達の笑顔は眩いほどだ、貧民の口に出来る甘い物と言えば、熟れた果物か蒸かした芋類が関の山。 
 農地改革が進行しビート栽培による精糖産業が立ち上がるのは、まだまだ未来の話・・・・ 
 ネコやトラの国から闇ルートを使って砂糖を持ち込み、モグリで提供される甘味食品の味など、この地方では一握りの高級階層です 
ら滅多に口に出来る物ではなかった。 
 
 そんな中、生クリームを使ったケーキを食べ、甘いジュースを飲み、可愛い絵の描かれた服を着る子供達。 
 お金があれば何でも出来る。お金があれば甘い物もいい服も買える。 
 だから、お金のために何でもする。 
 体を売って金を稼ぐ人材を作るために、間違った基礎教育がここで行われているのかも知れない。 
 
 しかし、そんなの間違っている、お金が全てでは無いはずだ・・・・と思ったところで、心のどこかでは自嘲しているのも事実だった。 
 お前だってゼニが欲しいだろうに、この偽善者め・・・・。己でなければ張り倒しているところだ。 
 複雑な表情を浮かべていたマサミだったが、アリスはそんな事に構わずマサミに命じた。 
 
 「あの子二人を育てて私の付き人にします。マサミ、あの子二人を引き取ってきて。手段は問わないから」 
 「本気ですか?」 
 「もちろん本気よ。だって・・・・まぁ、それは後で話をします」 
 「分りました」 
 
 マサミはしばらく作戦を考えたようだが、やおら立ち上がるとビール瓶とグラスを2つ持ち男の方へ歩いていった。 
 裏社会の縮図とも言うべき酒場の中、この世界では高級品の一つともいえるヒトの男が歩いていくのを酒場の客が目で追う。 
 自らに集まる視線を物ともせず、マサミは女衒の男の向かいにいきなり腰掛けた。 
 
 「恐れ入りますが・・・・お宅様の扱う商品。当方に譲っていただけませんかね?」 
 
 相手のグラスにビールを注ぎつつマサミはきわめて冷静に言葉を切り出した。 
 色眼鏡の奥で瞳を炯炯と光らせる男はジッとマサミを見つめて値踏みしているようだ。 
 
 「この貧しい地方に住むヒトは5人ばかりだったと記憶しているが、その中でもここへ入ってこれるなら、それなりの主をもつ存在 
であるのは自明の理。ヒトの旦那さんよ、あんまりあなたの主を変なところへ引っ張り込むのはお止めになったほうがよろしかろう」 
 
 マサミは腹の底で唸りつつもヒトの世界の仕事で鍛えた営業スマイルと冷静な口調で会話を紡ぐ。 
 
 「この地方に5人のヒトとは私も初耳でございます。まぁ、それはここでは本題ではございません。用は手前の主があなたの商品に 
興味を示されている訳でございます。年端の行かぬ子供達を無限の地獄に落とすのはどうかと思います故、こうやってお声掛けする次 
第でございます。我が主もまた酔狂な事を言われるお方ではございますが・・・・、近女として傍らに置きたいと申されます。支給の禄な 
ら僅かではございましょう、それでも人の理を思えば、まだ多少は救いのあるものかと存じます」 
 
 「お言葉ですがヒトの執事殿」 
 
 その男は椅子に座りなおしてマサミを正面から見据えた。 
 剣呑な声音で何を言い出すのかと思えば・・・・ 
 
 「ここで貧乏のどん底で滋養のある食事をろくに食べられず、不意にやってくる流行病や武装強盗団におびえ、ただ順番に死ぬのを 
待っている事こそ無限の闇と言えるのでは無いですかね。曲がりなりにも3食食べて、いい服を着て、暖かい部屋で眠れる娼婦と、い 
ったいどっちが幸せなんですかね?」 
 
 幼い少女を2人連れたその男はやおら財布を取り出すと1トゥン金貨を取り出して子供達に小遣いを切った。 
 「ほら、好きなお菓子を買っておいで」と菓子屋に走らせ、その後姿を見ている。 
 その表情は子供好きの大人だが、子供の姿が見えなくなると今度はマサミの注いだビールをグッと飲み干してダン!と音を立てテー 
ブルへ降ろした。 
 
 離れたテーブルからそれを眺めているアリスは、男と男の気迫がぶつかり合っているのを感じていた。 
 
 「それはつまり、職業の貴賎論ではなく、生きる為の仕事と言う意味・・・・なんですか?」 
 「その通りですよ。えぇ、まったくその通りだ。おまけにあの子は父親から連日酷い扱いを受けている」 
 「そうでしょうね。平気で娘を売り飛ばす親だ。その程度の存在でしょう」 
 「私はマダラに生まれましたが、それはもう酷い扱いを受けました。あの子達は・・・・雑種なんですよ・・・・」 
 
 貧しいロッソムの街の最下層。 
 血統による階級思想の強いイヌ社会に於いて、雑種と呼ばれるイヌの扱いは酷いなどと言う表現ですらなまぬるい物があった。 
 曲りなりにも、職業選択の自由と平等な就学機会の取得が出来たヒトの世界にそだったマサミには、にわかには理解できない同属差 
別の現状が見て取れたのだった。 
 
 それはまさに、ヒトの世界で言うところの・・・・いわゆる・・・・『部落』 
 その世界で育ってしまった子達は、高級血統の家に奉公に出されるか、それでもなければ雑種部落の不名誉な仕事を引き受け、他国 
へ出向いて忌み仕事の出稼ぎをするか、それでもなければ、他人に股を開く娼婦位しか仕事がなかった。 
 
 そして、娼婦となっていく少女達の待遇はまた酷い物で、娼館で客が支払う金額から場所代やリネン費、広告宣伝代などを差し引か 
れ、客と娼婦が飲み食いする分は実費で取られる為、どれ程高い金を客が払っても娼婦が貰う給金は微々たる物でしかなかった。 
 
 何も知らず親に売られた少女達は、女衒の男が出した小遣いを握り締め菓子屋で嬌声を上げている。 
 あの子達がこれから体験する人生の厳しい現実は・・・・女衒の男の扱い一つなのだった。 
 
 「あの子を父親の元においておけば、毎日あの子達はつまらぬ事で殴られ、ロクに食事を取る事も出来ず、空腹とひもじさに耐えか 
ねて、夜の街で私娼に身を落とすかもしれませんよ。今、毎日の酷い扱いに耐えさせるのと、たとえそれがどんな形であっても、ひと 
り立ちして生きていく環境に入れ、娼婦として必要な知識を得てプロとして生きて行くのと、果たして本人にとってはどっちが幸せだ 
と思いますか?」 
 
 マサミは少しだけグラスに残っていたビールを飲み干すと、空になったグラスの底を眺めた。 
 僅かに残ったビールの泡がパチパチと弾けて消えて行く。 
 
 「あなた、人助けでもしてるつもりですか?」 
 
 アリスはこのとき初めてマサミの怒る表情を、心底怒る表情を見た。 
 顔から血の気が曳き奥歯をかみ締める歯軋りの音が外へ漏れ、そして頭髪は逆立ち目は三白眼になって女衒の男を睨んでいる。 
 
 「ヒトの世界にも娼婦はいます。仕方が無いですよ、オスとメスが世の中にいる限り、これは必要な職業ですからね」 
 
 マサミの手にあったグラスがパリっと音を立てて割れた。怒れるマサミの握力がガラスを割ったようだ。 
 テーブルの上に血の雫がポタリと落ちて赤い花を咲かせている。 
 
 「でもね、ヒトの世界の娼婦には法と秩序の番人による守護の手が届いています。それは男と女が交わる場を産業と捉えているから 
なのですよ。あなたにとってあの子供達は商品でしょうけど、客を取らせる店にとっても商品です。ですから、その商品扱いされる女 
性を大事にするシステムが出来ているのです」 
 
 「この世界でも一緒ですな、娼婦は商品だ。だからちゃんと飯も食わせるし寝床も用意する。第一、この酒場で砂糖菓子を食べられ 
る女で娼婦以外が居ると思いますかな?。我々とて大事にしてますよ」 
 
 「では、一つ伺いましょう。娼婦の女性達に健康診断を施してますか?性病対策は?あの病は国を滅ぼしますよ」 
 
 「それは大丈夫です。性病にしろ流行病にしろ。病んだ女はすぐに消されますからな」 
 
 「おいおい・・・・・」 
 
 マサミは笑いながら下を向いたが、すぐに顔を上げ、テーブルに片肘だけ付いて斜に構えた。 
 グッと睨みを効かす眼差しが女衒と絡み合い気合勝負になっている 
 
 「あんた、それって大事にして無いじゃないか。大事にするってのは病気にも怪我にもあわねぇ用に守る事だぜ。病気も怪我も自己 
責任なんてのは無責任の典型じゃねぇかよ。笑わせるのもいい加減にしとけって感じだな」 
 
 「そうは言ってもだな。俺だって娼館だってビジネスだ。あがりの分以上の事は出来ねぇさ。あまり奇麗事抜かすな」 
 
 「はぁ?奇麗事ばかり抜かすな?。だから奇麗事じゃない部分の話をしてるんだ。いいか?俺が問題にしてるのは、あんたらのやっ 
てる事でこの地方に性病だのはやり病が蔓延すると困るって言ってるんだよ。あんたは言ってる事とやってる事が正反対な上に、それ 
に気が付かぬ間抜けでしかない。金儲けの道具だと言い切るなら、その道具をもう少し大事にしろ。職人の程度を測るなら道具を見ろ 
とヒトの世界の諺にある。道具を大事にしないバカは道具で怪我をする、あんたもその業界の奴もその程度のド三流以下って事だな」 
 
 「おいおい執事さん、あまり熱くなり過ぎなさんな・・・・」 
 
 女衒の男は色眼鏡を外し上着のポケットからハンケチを取り出すとレンズを拭きはじめた。 
 その仕草はあきれて物が言えない・・・・とでも言いたげな雰囲気なのだが、小刻みに震える手を見れば、怒りを必死に隠していると言 
うのが真相だと気が付くのだった。 
 
 「金を稼ごうと思えば、必ずどこかに皺寄せが来るのは仕方が無いだろ。それともなにか?執事さんがあの娼婦どもをまとめて買い 
取ってくれるとでも言うのか?あの他に使い道の無い女たちだぞ?」 
 
 「あんた本気でバカだろ?」 
 
 マサミの一言が女衒の男を本気にさせたようだ。 
 
 「おいこら、黙って聴いてりゃいい気になりやがって。おい、ヒト風情がいきがってると・・・・・」 
 
 「いきがってるとなんだ?その先を聞きてぇな。せっかくの道具を生かすも殺すも使う側次第だが・・・・あんたは殺すことしか出来ね 
ぇ間抜けだな」 
 
 「てめぇ・・・・殺すぞ・・・・」 
 
 「おもしれぇ事言うじゃねぇか。場所わきまえねぇと痛い目見るのはあんただぜ?あんたが持ってる道具とやらはイヌの国を激的に 
変える可能性があるんだぜ」 
 
 「んだとぉ?」 
 
 「あんた、俺がなにに腹立ててるか分かってねぇだろ。だからバカだって言ってんだよ。バカにバカって言って何が悪い。目先の金 
儲けしか目に見えねぇ間抜けになに言っても無駄だろうけどな、娼婦がただの欲望の捌け口としか見えてねぇなら宝の持ち腐れだ」 
 
 「ヒト一人死んだところで誰も不思議におもわねぇんだぜ。ねじり殺すぞ」 
 
 「俺はヒトの執事だぞ?分かってるか?」 
 
 「なんだ、いきがってるヒトも肩書きでモノを言ってんのか。くだらねぇな。今夜から軍を使って一斉ガサ入れでもやろうってか? 
抵抗するものは容赦なく射殺せよって言ってよ」 
 
 せせら笑う表情で女衒の男はそう言うのだが、精一杯の強がりでしかないのは目に見えていた。 
 無駄な努力に見えたマサミは押し殺して笑ったが、程なく堪えきれずに大笑いになった。 
 
 「あんた本気でバカだな。軍を使って?ガサ入れ?はぁ?そうじゃねぇんだな。おまえらみたいなドサンピンのヤクザなんざ蛆蝿と 
一緒で何ぼ叩き潰しても湧いて出てくる。ヒトの世界と同じさ。だからな、こうするんだ。スキャッパーの地方予算で工場を作る、中 
身は何でもいい。で、娼館経験者優遇、給料は日給手取りでも現状の3倍出しますと書いてやる。あんたの道具は何時まであんたのと 
ころに居るのかね?見ものだな」 
 
 「ふん!なにもねぇスキャッパーでそんな高給払える工場なんざどうやって維持するんだ、ばかくせぇ」 
 
 「ウィスキーって知ってるか?酒の一種だ、これが美味くてよ。スキャッパーに最適だぜ。他にも色々あるぜ、絹織物の代わりにな 
る人口絹糸の生産やら簡単な合成で作れるこの世界には無い医薬品の合成も出来る。抗生物質って分かるか?わからねぇだろ?ネコ風 
邪もトラオタフクも一撃で良くなる魔法の薬さ。ネコの国にも高値で売れるだろうなぁ」 
 
 マサミは新しいビールの口を開けてラッパ飲みし、ニヤリと笑って女衒を睨んだ。 
 
 「俺はこの世界より1000年進んだ科学を持つヒトの世界から来たんだぜ?この世界には無いものを簡単に効率よく合成し売る事くら 
いどって事無いさ。ただな、その為には人手が要る。そうなるとな人件費を安く抑える最下層の雑種階級が一番良い訳さ。そして、俺 
はそれにこう付け加える。人買いに売って娼婦をやらせるくらいなら、イヌの社会に貢献できる事業へ協力しましょう・・・・ってな」 
 
 話を聞いていた女衒は少しうろたえ始めた。少なくとも、ただ無闇に突っかかっているだけの正義漢では無い。 
 目の前にいるヒトの男はスキャッパーを本気で変えようとしている・・・・。どうやらそれは理解したようだ。 
 
 「執事さんよぉ・・・・あの小娘二匹手配すんのに俺は700トゥン使ってるんですよ?それをタダで手放せってのは・・・・ちょっと虫の良 
すぎる話なんじゃないですかね?」 
 
 「あぁ、その通りですね。経済活動の原則として仕入れたなら適正な利益を乗せて販売するものでしょう。あなた、一体あの娘達を 
いくらで売るつもりでしたか?」 
 
 「あの位の小娘なら一人1000トゥンが相場だ。あとは考えてくれ」 
 
 「つまり、あの娘達は客を取れるようになって1000トゥンを返済する訳ですな」 
 
 「ナンだよ、話が分るじゃねぇの」 
 
 「ヒトの世界と一緒だからですよ」 
 
 マサミは振り返ってアリスを手招きした。 
 女衒の男が驚いた風になって椅子に座りなおす。 
 
 「おやおや、これは驚きましたな。高貴な血統のお方がこんな場末の酒場に入ってくるとは」 
 
 「ここは私の領地です。私がどこへ行こうと、全てが私の家のようなもの。それがおかしくて?」 
 
 
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 レストランの中、アリスの言葉を聞き漏らすまいと耳を傾ける娘達を前にして、アリスは食後のお茶を飲んでいる。 
 色々思い返す事も多いのだろうか、時より溜息を一つついては天井を見上げる事もある。 
 
 住む世界のあまりに違う階層が屯する酒場で体験した事。自分の与り知らない事が見えない所で起きている現実。 
 それをまざまざと見せ付けられた時の衝撃は、それを語るアリスの口調で聞くもの達が理解出来ていた。 
 時に言葉を詰まらせ、時には饒舌に身振り手振りを交え、あまりに違う世界を体験した時のショックを再現していた。 
 
 
 
 「要するに、あなたは自分が損するのが嫌だから手放さないって事なんでしょう?」 
 
 「当たり前の話ですよ領主様。手前は商人でございます。扱う商品は特殊ですがね。もっとも、特殊と言うと彼女達に失礼だ。この 
娼館街で客を取る娼婦達はね、皆、意地とプライドの塊ですよ。いくら金を積んでもね、嫌です。の一言で客を袖に振る女はいくらで 
も居ます。領主様、もう少しあの女たちを高く評価してやってください」 
 
 「高く評価するも何も、一番酷い扱いをしているのはあなた達でしょう?」 
 
 「正当な評価と言って欲しいですな。その上でビジネスとして成り立つ形を取ると、自然にこうなると言うものです。それに・・・・」 
 
 「それに・・・・?」 
 
 「あの子供二人を拾った所で、明日にはまた別の手配士が子供を拾ってきます。領主様は孤児院でもやられるおつもりですか?」 
 
 アリスも事の現実に気付いたようだ。 
 マサミが本気ですか?と確認した言葉の内用をようやく理解した。 
 
 「つまり・・・・、ここで一人二人助けたところで現実は変わらないと言いたいのね?」 
 
 女衒の男はニヤリと笑って静かに頷いた。 
 
 「ご明察ですな、領主様。見知らぬ男に股を開く女が居て、誰とも分らぬ男に抱かれた女に金を払う男が居て、それで成り立つ不思 
議な業界なんですよ。色々な事情でこの街の女は減っていきます。それを補うのが私どもの仕事です。だって、女が減りすぎると、残 
ってる女たちにその皺寄せが来ますからね」 
 
 「分りました。マサミ、2週間以内にこの街の女たちの待遇を改善する令を発しなさい。私に出来る事を成しましょう」 
 
 「承りました」 
 
 「領主様、執事殿。まずはどこから手をつけるのかな?」 
 
 「そうですな・・・・」 
 
 マサミはジッと腕を組み考えている。ヒトの世界で経験した・・・・ 
 風営法を思い出して、それをこの世界にあうようにアレンジして・・・・ 
 女衒の男は考え込むマサミをじっと見ている。 
 
 「まずは、客が支払う内容に関し条例を作りましょう。娼館は客から一括集金する事を禁じましょう。娼館が客から貰うのは施設の 
使用料と飲食代、そして光熱費まで。娼婦が客に提供するサービスの代金支払いは娼婦に直接行う事。娼館は娼婦から施設使用料を如 
何なる形であっても徴収してはならない事。各種消耗品は娼婦が直接買い付ける事。娼館がそれを代行する場合は市販価格に対して5 
%以上の手数料を取らない事、納品手数料は一回につき10カトゥンを越えない事。あと、そうですね、娼婦の上がりを娼館が預かる場 
合は、当日払いを除き一日あたり30%を上限とする金利を上乗せする事。この辺でしょうな。まだまだ細かい規定を考えますが・・・・3日 
ほど時間を下さい」 
 
 話を聞いていた女衒の男が段々青ざめていくのをアリスは気が付いていた。 
 つまり、マサミの言っている事が相当の打撃になるのは間違いないのだろう。 
 
 「執事さんよぉ・・・・そりゃあんまりな・・・・」 
 
 「あ、そうそう、まだあります。アリス様。娼婦は登録制にしましょう。きちんとしたリストを作り、女衒が女たちをどこで誰から 
いくらで買っていくらでどこに売ったか全部記録し女衒から税金を取ります。娼館に子供を売った金額から買った金額を差し引いた額 
の・・・・そうですね、最低でも60%を税として納める事。税金を計算する上でごまかせないようキチンとしたリストにしたいものです」 
 
 おじちゃーん! 
 子供達が笑顔でお菓子を抱えて帰ってきた。嬉しそうに飴やゼリーやらを持っている。 
 そして、マサミがこの世界に来て初めて見たもの、チョコレートがあった。 
 
 「驚いたな。チョコがあるのか・・・・。お嬢ちゃん、それをちょっとだけおじちゃんにくれるかい?」 
 
 少女が「はい!」と言ってチョコレートをひとかけら割り折ってマサミに手渡す。 
 ポイッと口に放り込めば、途端に懐かしい味がマサミの口の中に広がった・・・・ 
 
 「甘くて美味しいね」 
 
 「うん!」 
 
 嬉しそうな子供達を見ながらマサミは静かに口を開く。 
 
「いかな種族とて、皆同じく幸せになる権利を持っている。それがどんな職業であっても、その目的は幸せを得る事な筈だ。したがっ 
て、他人を、他の職業を蔑み、搾取し、抑圧する事は一切許されない。それは法や条例といった物で規制するのではなく、もっと根本 
的な部分での常識と言った所でしょう」 
 
 「執事さんよぉ、お題目は立派だが、そりゃヒトの世界の話だろ?こっちにそれを持ち込まねぇで欲しいもんだ。俺達は商売になら 
ねぇ」 
 
 「商売とは物を売るか、それに変わるサービスを売って利益を得るものでしょう。他人の人生や幸福と言った物を一方的に搾取する 
ことは商売とは呼べないものですね。そして、そもそもそれらは利益を得ていい物ですらありません」 
 
 「じゃぁどうしろって言うんだ?俺達に死ねって言うのか?」 
 
 「えぇ、そうですよ。その通りです。生きて行けないなら死ねばいい。あなたの自由だ。この街に売られて苦しさに耐えられず死ぬ 
娼婦はどれ位居ますか?それを知らない訳じゃ・・・・ありませんよね」 
 
 マサミの口から出てくる言葉にアリスも女衒の男も震えている・・・・ 
 そもそも長命である獣人たちにとって死ぬと言う事があまりリアルなものでは無いのかも知れない。 
 しかし、生きて行けないなら死ねとはっきり言うマサミの姿は、この世界では異質なものなのかもしれない。 
 
 「娼婦にだって幸せを得る権利はある。だからこうしましょう。紅朱舘の行政府は娼婦に代わり娼館へ娼婦購入代金を支払います。 
その代わり娼婦は客から貰った代金のうちから税金として40%を納める事にします。あ、あと、客が支払う総額のうち80%を娼婦の取 
り分とするよう定めましょう」 
 
 「マサミ、ごめん、なんか良く分からない・・・・数字は苦手ね」 
 
 「整理します」 
 
 マサミはテーブルの上に簡単な図を書き説明を始めた。 
 アリスと女衒の男が眺めていたが、やがてその周りに非番の娼婦が集まってきた。 
 
 「つまり・・・・あんたは俺達に死ねと言う訳だな」 
 
 話を聞いていた女衒や娼館の経営主らが怒り心頭といった風で拳を震わせているが、そんな事をマサミは意に介さず話し続ける。 
 
 「あなた達の頭の中身はなんですか?腐った泥でも入ってるんですか?」 
 
 「あんだとぉ!」 
 
 「良いですか?客が支払う代金の8割は娼婦、2割は店賃。娼婦は個人事業主ですよ。客の支払い総額が増えれば増えるほど店の取り 
分は増えて行きます。収入を増やしたいなら娼婦に投資しなさい。高い金を払ってでも娼婦を抱きたいと思う客が集まってくれば良い 
んですよ。そして、娼婦に色々な技術を身に付けさせる為に、娼婦を教育すればよい。教育する為の費用を無料にしろとは言ってませ 
ん。商売のやり方を変えれば良いのです。分りますか?」 
 
 「マサミ。そんなに高くしたらこの地域じゃお客が・・・・」 
 
 「アリス様、御心配には及びません。この地域だからそれが出来るのです」 
 
 「え?どうして?」 
 
 不思議そうなアリスの顔を見てマサミはニヤリと笑う。 
 この地域で商売をする者たちも固唾を呑んで聞いている。 
 
 「すぐ目の前に裕福な国があります。そこから金を巻き上げれば良いのです。イヌの国の中でお金が回ってるうちはイヌの国は貧し 
いままです。他所の国からお金を巻き上げる事を考えましょう。そして、セパタ建てで支払われた代金でイヌの国から物を買います。 
こうすればイヌの国の中にお金が入って行きます。国内はややインフレ傾向になりますが、結果論として農民や商人、職人達の収入は 
増えるでしょう。ネコの国から観光客を呼び、その旅客輸送業でも儲けられますね。お金を稼ぐ方法はもっと柔軟であるべきです。そ 
して、利益の為に泣くのはイヌの国以外の国民ですよ・・・・・」 
 
 「おいおい執事さんよぉ、あんたも言ってる事とやろうとしてる事が違うじゃねーか。そんな事したらネコの国の連中が」 
 
 「連中がどうかしましたか?だから何ですか?そんな事は私の知った事じゃない。私の目的は3つ、イヌの国に金を持ち込む事、ス 
キャッパーを富ませる事、没落しつつある我が主の家を復興させる事。ですから・・・・・」 
 
 マサミはお菓子を食べるのに夢中になっている少女達の頭なでて髪をとかした。 
 これからこの少女達が成長し女になっていく課程できっと酷くつらい事を体験するだろう。 
 それをいかに緩和するか。防ぐ事が出来ないならせめて緩和を。 
 富める国、富める地域を作っていくその課程において、犠牲は必ずついて回る。 
 それら全ての泥をかぶり・・・・ 
 
 「ですから、イヌの国以外が滅びようと破綻しようと、それこそ酷い内戦に陥ろうと、私は一切関知しないし、一切後悔もしない。 
そもそも、罪の意識すらありません。過去何があったとていかなる国も平等なはず、疲弊し滅びるのが嫌なら努力すればいいし、努力 
も嫌なら勝手に滅びればいい。皆さん不思議でしょうね、何故だか分かりますか?簡単ですよ、私がヒトだからです。ヒトの世界はね、 
ヒトがヒトを支配して虐げて搾取して、そして富める国と貧しい国に別れていたんですよ。奴隷の国が奉仕を怠れば貴族の国は滅びま 
す。今現状イヌの国はただの奴隷にすぎません。私はそれをひっくり返す種を蒔きます。私にはヒトの世界12000年の知識がある」 
 
 マサミは雁首そろえ話を聞いている皆の顔を一通り見回すと心底蔑むような笑いを浮かべた。 
 
 「私は名声も名誉も一切要りません。ただ、目的を達せられればいい。それだけの事です。私の孫の代位でこの地域は本当に活性化 
するでしょうね・・・・。ですから、アリス様、残念ですがこの子達の未来をここで救う事は出来ませんが、改善し、つらい部分を緩和し、 
そしてこの子達の将来が少しでも良くなるように、私たちは努力しましょう。娼婦だの売女だのと言って蔑まれないように・・・・」 
 
 しーんと静まりかえった酒場の中で子供達だけが天衣無縫と言ったふうに甘いものを食べている。 
 長年この世界に居るであろうベテランの娼婦や大籬の旦那達。 
 そして、女衒や牛太郎と言った娼館街を形作る多くのイヌたちがその言葉を黙って聞いていた。 
 
 「執事殿・・・・」 
 
 ようやく口を開いたのはいずこかの大籬を取り仕切る壮年のイヌだった。 
 すでに顔は白くなっていて、老年期である事はマサミにもすぐに分かるほどだ。 
 この世界の辛酸をたくさん舐めてきたであろう舌で言葉を発している。 
 
 「あなたが言うのは・・・・娼館や娼婦の名誉じゃないね?」 
 
 マサミは目を閉じ黙って頷く。 
 何を思ったのか、涙を流す女達が数人、鼻をすすっている。 
 
 「あなたはル・ガルを・・・・イヌの国をどうにかしたいんだね・・・・」 
 
 マサミは肯定も否定もせず、ただ笑っていた。 
 しかし、その眼差しに一切の笑みが含まれていないのを見抜くイヌは少なかった、 
 
 「今は絶望的にどん底で居ますが、やがて良くなるようがんばりましょう。今日より明日、明日より明後日が。そして来年が、10年 
後が100年後が良くなるように・・・・。誰かを蔑むだけでは物事は進歩しません。蔑む暇があったら改善しましょう」 
 
 「執事殿。私はこの先の娼館を経営しているルハスと申します。どうかお見知りおきを。あなたの夢に一枚乗りましょう。あなたが 
何かに困ったら是非私にもご相談ください。私の目が黒いうちは出来る限りの協力を惜しみません。あなたが・・・・娼館経営の一切を禁 
じると言わなくて本当に良かった。一夜の春を提供する産業にある我々にも・・・・生きる権利をくれて有り難う」 
 
 「おやおや、勘違いしないでくださいね。私はただの執事です。私は我が主の操り人形ですよ。我が主の願う世界を実現するための 
道具に過ぎません・・・・ですから・・・・」 
 
 マサミはアリスに視線を送る。その意味をアリスはどう理解するだろう? 
 不安や逡巡と言った苦悩を、これからアリスは沢山経験するだろう。 
 今現状、領主としての器量を計る試金石とも捉えられる部分だった。 
 
 「ルハス・・・・と言いましたね」 
 
 「左様です、領主様」 
 
 「私はこの地を、父から受け継いだこの地をより良くしたいと願っています。領地経営の経験薄い私に知識と知恵を貸して欲しい。 
私の我がまま、聞いてもらえますか?」 
 
 「私どもの存在を領主様がお許しになるのであれば、私どもは如何なる協力をも惜しみません。領主様、どうか・・・・どうかこれだけ 
はお忘れなく願います。光が差し込めばそこに影は落ちてしまいます。しかし、影なくして光有りません。影とは光の裏側なのです。 
我々は常に影の側に立ち、領主様の影を狙う者から領主様を守る盾となりましょう。そして、それらを追い返す刃となりましょう」 
 
 「分りました。ルハス、あなたに娼館街の管理を命じます。娼館街の代表者を組織し、維持運営とここで働く全ての者達の権利を保 
護する努力をし、無闇矢鱈な搾取を行う者があればあなた達の道理で処分しなさい。いかなる理由でどう処分したのか、事後報告で良 
いから私に報告すれば、ある程度までは罪に問いません。良いですね」 
 
 「聡明なる領主様の御判断に従います」 
 
 「ルハス、最後に一つ、これは今から有効な私の命です。子供と未成年に客を取らせる事を禁じます。成人するまでにこの街で健や 
かに生きて行ける様キチンと教育し、娼婦を保護しなさい。良いですね」 
 
 「かしこまりました」 
 
 たいして長い話ではなかった筈だが、甘いものをお腹一杯食べて幸せな少女二人は、いつの間にか眠ってしまったようだ。 
 気まぐれに長い尻尾をパタパタと振るのは、夢の中でもお菓子を食べているからかもしれない。 
 
 椅子の上ですっかり眠ってしまった少女にアリスは自分の上着をかけた。 
 眠れる子供の笑顔は何よりの宝である事を実感しているのかもしれない。 
 どれ程望んでも満たされない願いを持つアリスにとって、この子達を引き取ると言い出したのは必然だったのだろう。 
 かなわぬ願いをぶつけるべき存在・・・・ 
 
 「マサミ。帰りましょう」 
 「仰せのままに」 
 
 マサミは自らの上着をそっとアリスの肩に掛けた。 
 ヒトよりもはるかに効くアリスの鼻が上着からマサミの臭いを嗅ぎ分けた。 
 
 「マサミ・・・・」 
 「なんですか?」 
 「・・・・いや、なんでもない。それより早く帰りましょう」 
 
 何となくだが、マサミはアリスが言いたかった事を理解したような気がした。 
 それはどれ程望んでも叶わぬ思いなのだろう。生物の壁を越えた奇跡が起きるなら・・・・・ 
 
 「アリス様。ほら、今宵は星空です。ヒトの世界ではこう言います。流れ星に託した願いはいつか叶うと」 
 「じゃぁ、流れ星が来るまでここで待ってましょう。私の叶わぬ思いを乗せられる大きな星が流れるまで」 
 
 夜も更けた紅朱舘の前。 
 館の主の帰りを待つ紅朱舘では、メルがキックやカイト老と共にスープを温めて待っていた。 
 正門の前で二人が夜空を見上げているとも知らずに・・・・・ 
 
 
                             ◇◆◇ 
 
 
 「だからね、ジョアンもマヤもリサもマリアも、いつも忘れないでいて。私達にしか出来ない事があって、それをしてお金を稼ぐ事 
にプライドを持っている人がいて、その人たちを守るのは常に私達の役目である事を。私達は貴族である前に人であり、そして、彼女 
達の稼ぐ恩恵を得ているのです。だから、娼婦であると言う理由だけで蔑んではいけません。この供食産業と共にスキャッパーの基幹 
産業として沢山の外貨を得た原動力となった女たちに心からの感謝を。良いですね?」 
 
 娘達は皆それぞれに思いを持って頷いた。 
 
 「ただね、一言も断わらずに見知らぬ女と駆けて行ったのは怒っていいわよ。それは愛情に対する裏切り行為だから、じっくり問い 
詰めてやりなさい」 
 
 「はい!」と言って娘達は笑っている・・・・ 
 ちょっと角の見える笑顔にニヤリと笑うポール公は水割りを煽っていた。 
 
 
 その夜の大浴場。 
 ポール公がタダとヘンリーを連れて浴槽に浸かっていると、アーサーがヨシを連れて風呂場にやってきた。 
 
 「おぉ!アーサー!こっちへ来い。何があった?」 
 「父上。実は・・・・」 
 
 ありのままを報告するアーサーとヨシ。 
 水路工事の進捗状況と、農民の雨天対応状況。 
 南部方面軍の大騒ぎの一件と、それに関するルハス街との交渉。 
 少女の件とその母が二人の前で死去し、事後処理をルハスに任せたこと。 
 さらには私娼を使っているのか?と因縁付けてディスカウントに成功したこと。 
 少女は娼婦ではなくルハスの昼の顔として機能する部分で働くこと。 
 そして、決して娼館へ遊びに行ったのでは無いことを報告する。 
 
 「うむ、分かった。ただなぁ・・・」 
 
 話を聞いていたポール公やタダ・ヘンリーらの顔が途中から引きつっていたのにヨシは気がついていた。 
 
 「どうしましたか?」 
 
 アーサーもさすがに気がついたようで確認するのだが、ポール公は引きつった笑顔で頷くだけだった。 
 訝しがりつつ湯に浸かって話をしていたアーサーとヨシだが、その背後にいつの間にかジョアンとマヤがリサと一緒に立っていた。 
 
 「あなた、ちょっと伺いたいことがあります、こっちへ来て」 
 「ご主人様、マヤはご主人様を信じています、でも・・・・でも・・・・・」 
 
 ポール公の引きつった笑顔の意味を理解したアーサー。 
 
 「実はな、タダがお前達が駆けていくのを見ていたんだよ」 
 「え゙?」 
 「あなた、何で驚くの?何か都合の悪いことでも?」 
 
 今にも角が生えそうな表情の二人。アーサーはあきらめたようで素直に連行されていった・・・・ 
 無表情で呆然と見送るヨシだったが・・・・・ 
 
 「ヨシさん・・・・あの、ちょっとお話を聞かせていただきたいのですが」 
 「りっ・・・・リサ・・・・・さん・・・・・」 
 「ここでは話しづらいのであっちへ・・・・・」 
 「あ・・・・・・あぁ・・・・」 
 
 ワシッと爪を立てて腕を捕まれたヨシはリサに腕を引かれ小上がりへと消えていった。 
 
 ややあって小上がりから「ほんとなの!」とか「嘘でしょ!」とか、あげくには「人でなし!」だのと言葉が聞こえて来て、最後に 
は「ホントだって!嘘じゃないって!何にもしてないから!ほら!」と必死の弁明が聞こえ・・・・・ 
 
 「なぁヘンリー」 
 「なに?」 
 「浮気だけはやめよう・・・・・・な・・・・・・」 
 「それは心配ないよ、タダ。だって身は潔白だもん」 
 「でもさぁ・・・・」 
 
 ポール公を含め3人並んで見上げる小上がりの方。 
 「もっ・・・・もう出ないよ・・・・・」 
 と、うめき声に近い声が聞こえるのだった。 
 
 「アーサーの兄貴、ありゃ明日の朝はまた干物になってるぜ」 
 「うん、ヨシ兄さんも明日は辛そうだね。大丈夫かな」 
 
 のぼせ気味になった二人が大浴場から出た後も、小上がりからは苦しいうめき声が続いていた・・・・・ 
 
 
***********************************************************5*********************************************************** 
 
 
 
 昨日降った雨が一面真っ白の霜なった朝、紅朱舘前の広場では国庫へ運び出される穀物輸送の輜重車列を編成しつつあった。 
 南部方面軍の騎兵達が荷馬車を点検し、エミールは各車を回って中身と荷量を確認している。 
 出発を待つ輜重隊列は90輌の荷馬車と450人の護衛騎兵から編成され、この規模での輸送はイヌの国でも5本の指に入る規模だ。 
 今回の輸送量は実に70トンを越え、王都の食料事情を大きく改善するのに役立つ筈だが・・・・。 
 
 食糧倉庫の前で編成を終えた輸送隊の先頭。 
 隊列の先頭を行く役に付いたエミールは馬上で騎兵銃を抱え、斧歯のついた馬上槍を背中に背負っている。 
 
 「御館様、車列編成を終えつつあります。軍団長殿、そろそろ」 
 「うむ・・・・アーサー・・・・大丈夫か?」 
 「はい・・・・なんとか」 
 
 愛馬の隣、石垣に腰掛けるアーサーは精一杯の笑顔で答える、だが、その姿はいつにもまして・・・・やつれた顔をしていた。 
 毛艶は失われ、ぼさぼさの飾り毛がだらしなく下がっていていて、その姿は誰が見ても疲労困憊なのだった。 
 
 「アーサー、ある程度行ったら馬車に入れ。それではさすがに危ない」 
 「いえ、父上・・・・。おそらく・・・・馬上の方が安全です・・・・」 
 「そうか・・・・そうかもしれんな」 
 
 ポール公の視線の先、そこにはスロゥチャイムの紋章が入った幌付き馬車があった。 
 そのすぐ隣には艶々したジョアン婦人が負けず劣らず艶々の従者マヤとならび、アリス夫人と雑談中だった。 
 
 「ジョアン、マヤ、気をつけて行ってくるのよ」 
 「ご心配なく。主人と配下の騎馬兵が同行してくれます」 
 「うん、でもね、毎年この車列を狙う賊が出るからね。身の危険を感じたらまずは逃げて。そして助けを呼びなさい」 
 「はい、心得ました」 
 「マヤも気をつけていってらっしゃい」 
 「はい。行って参ります、ご心配なく」 
 
 アリス夫人はカバンから小さな皮袋を取り出した。 
 
 「ジョアン、マヤ。ここに10トゥン分の銀貨が入ってます。マヤは王都は初めてでしょ?珍しい物があったら買ってきなさい」 
 「義母さま、ありがとうございます。お土産は何がよろしいでしょうか?」 
 「私の事は気にしないでいいわよ、あなた達が欲しいものを買っていらっしゃい」 
 「アリス様、ありがとうございます」 
 「二人とも気をつけてね」 
 
 先頭から歩いてきたポール公はアリス夫人の腰に手を回し、車列中央付近へ歩いた。 
 農民達が馬車列の前にならび、その前でアリス夫人が声を上げた。 
 
 「皆、今年も良い収穫が有りました。皆の努力に私は心から感謝します」 
 
 取り囲む民衆から拍手が蒔き起こる。 
 アリスはそれを両手で制して言葉を続ける。 
 
 「我がスロゥチャイムの執事が始めた農地改良は随分進んでいますが、まだまだ終わりは見えていません。私達はもっと努力しなけ 
ればならないのです。しかし、今は共にこの収穫を喜び、恵みを分かち合いましょう」 
 
 再び民衆が割れんばかりの拍手を送った。アリス夫人の声もかき消される中、ポール公は騎兵に指示を送る。 
 吹鳴兵が指揮ラッパを吹き鳴らし出発の音を合図を送る。車列の先頭に立つアーサーは頭上で槍を2周まわした。 
 
 どうやら出発のようだ。 
 馬2頭で牽く荷馬車の左右を護衛の騎兵が挟んで進み始める。 
 離れたところからそれを眺めるヘンリー。背後からタダが声をかける。 
 
 「すげぇ、ヘンリー、マジでこれすげぇよ、全部で何両あるんだろう」 
 「ここまでになった輜重車列は僕も初めて見るけど、それにしてもすごいね。でもまだ2便3便が出るんだからなぁ」 
 
 重々しい車輪の音を響かせ進んで行く荷駄車列の最後尾。 
 最後の1両だけは荷物の量が2倍以上で、しかも馬は四頭立てだ。 
 アリス夫人は最後の一輌だけ出発を差し止め車列が離れるのを待った。 
 
 「これより落穂拾いを許可します。冬に向け各家で備蓄を心掛けなさい」 
 
 車列を囲んでいた民衆はそれを待っていたようだ。 
 盛大な拍手が蒔き起こり、民衆はカゴやザルをもって道の両脇に待機した。 
 
 
 荷馬車の脇、アリス夫人は腰から下げた太刀を抜いた。 
 父ジョン公より受け継いだスロゥチャイム当主の証である剣が太陽の下で煌く。 
 興味深そうに眺めるタダが目にしたもの。それは一言では言い表せない不可思議な行動だった。 
 
 アリス夫人は最後の荷馬車の荷台を覆っていた帆布のロープを太刀で断ち切ってしまった。 
 途端に積み上げられた小麦の穂がパラパラと落ち始める。 
 
 「さぁ行きなさい!車列に追いつくのです!」 
 
 アリス夫人はそう叫んで太刀の鞘で馬の尻を叩いた。 
 馬が驚き馬車が急発進すると荷台の小麦はバラバラと崩れ始め、沿線に気前良くばら撒きながら馬車は走り去っていった。 
 民衆がこぼれた落穂を我先に拾い集め、カゴやザルの中は落穂で一杯になっていった。 
 
 「今年は気前良く蒔くでしょうね・・・・、たまにはこういう年も有っていいかもね」 
 「うむ、努力には報いねばならん、マサミはそう言っていた・・・・」 
 
 バラバラと落ちる穂を拾う民衆は皆笑いながら必死だ。 
 それを見てアリス夫人とポール公は微笑んでいた。 
 
 「マサミ、ここまでの農地改良は無駄じゃなかったわね」 
 
 アリス夫人は誰に聞こえるとも無く、そう呟いた。 
 
 
 第4話 了 

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