************************************ 序 章 ************************************  
 
 その老人は何も言わずジッと窓の外を見ていた。  
 酸欠で青黒く変色した表情のない顔で、ベットに横たわったまま。  
 
 街を駆け抜けていく風は既に冬の寒気が混じっている。  
 寒冷地気候の北部山岳地域から強烈な寒気を帯びた風が強く吹き込むこの地では、未だ  
11月だというのにまともな防寒着無しでは既に10分と外に立っていられ無くなりつつあっ  
た。  
 
 遙か昔に起きた何か大きな事の影響により荒廃した国土を持つイヌの国、ル・ガル王政  
公国。  
 この痩せた大地しかない国にあって、割と肥沃なスキャッパー地方を所領に持つスロゥ  
チャイム家の本拠、紅朱舘の一室。  
 老人は今まさに事切れんとして咳き込んでいるのだが…  
 
 「父さん! 寝てないとマズイよ!」  
 
 ひとしきり咳き込んでヒューヒューと喉を鳴らし肩で息をする老人(…と言うには些か  
早く中年後半と言った風体の…)は青年の制止を振り切りベットから立ち上がった。  
 
 「アリス様と御館様に暇の挨拶に行く…私の服を揃えろ…」  
 「父さん!」  
 「聞こえなかったか?」  
 「・・・・・・・はい」  
 
 青年はクローゼットから純白のYシャツと漆黒のズボンを出した、老人は青年の手伝い  
を受け何とか着替えることに成功した。  
 赤樫色のネクタイをきりりと締めベストのボタンをとめた老人は袖止めをYシャツに施  
すと、青年が腰に締めるギャルソンエプロンと同じ物を腰の低い位置に巻いた。  
 
 「お前のエプロンは高すぎる… 前掛けより物を取り出す時は頭を垂れよ…」  
 「・・・・はい」  
 「全部教えたと思っていたが… まだ死ねぬではないか…」  
 「・・・・・父さん」  
 「母さんが… ゲホゴゴ… 待っているんだがなぁ…」  
 
 
 
 
 
 豊かな体毛に覆われたイヌ族の♂種は兎も角、普通のヒト女性に犬耳と尻尾が付いただ  
けのような♀種にとってもこの気候は寒すぎるようだ。  
 ここ紅朱舘の中はどこに行っても暖房が強く効いている。  
 
 老人は苦しいそうに咳をしながら長い廊下をゆっくりと歩く。  
 すれ違うイヌの若い兵士や館務めの者達は敬礼し声を掛けてゆく。  
 
 「執事長殿 お体は宜しいのか?」  
 
 …と。  
 例え相手が奴隷階級とされるヒトであってもイヌの若者は敬意を示す。  
 もちろんそれはこの紅朱舘の主人がヒトの老人を執事長に任命したからと言うのもあり、  
ヒトではなく肩書きに敬意を表している部分もあるのだが…。  
 
 「いや、気遣いは無用に。これより御館様にご挨拶申しあげるまで」  
 
 それだけの会話で皆胸に手を当て頭を垂れてその老人は歩いていく。  
 
 名家と言われながらも没落貴族に堕ちていたスロゥチャイム家。  
 その中興の祖と讃えられる現主人を陰に日向に支えここまでにした一番の功労者がヒト  
の召使いだとしたら…。  
 それは他国、特に猫の国などで有ればいい笑い話だが、イヌの国では忠と義こそ本質と  
考える気風もあって大きく讃えられる存在になっている。  
 ただ、その主従関係はやはりヒトの世界と同じなのであろう。  
 ヒトの世界の神がそうであるように、この世界の神も思いもしなかったのだろうか。  
 この世界に於いてもイヌとヒトがこれ程強く深い信頼関係に結ばれるとは…、神の想定  
外なんだろう。  
 忠義を大切にするイヌの寿命と比べ、ヒトのそれは余りに短く儚い。  
 どれほど忠義を立て貫いたとしても、ヒトはあっけなく死んでしまう。  
 イヌの主がどれ程嘆いても悔しがっても…その寿命は良くて80年…  
 この世界の厳しい環境ではもっと早く死んでしまう者がいるかも知れない。  
 
 そして、奴隷階級として使われる存在のヒトと有っては、♀種であれば陵辱の末に責め  
殺されてしまう事も多々あるようで、純粋に老衰死を迎えられるヒトの存在は逆に貴重で  
もあるのだが。  
 
 コンコン…  
 
 老人は赤樫の重厚な扉を開けて主人の居室に入った、本来奴隷である老人の契約主たる  
スロゥチャイム家当主が所領最高経営責任者である夫と午後のティータイムを楽しんでい  
る最中であった。  
 
 「アリス様、御館様、お茶の時間に失礼いたします。御暇の挨拶に伺いました」  
 
 そう言って老人は慇懃に拝謁した。  
 両足を揃え左腕を腹に当てがい、腰を折って頭を垂れる。その動きに一切の淀みはない。  
 執事として正しい振る舞いの見本のようである。  
 
 「マサミ!お前…何をしてるのだ、立っているのですら奇跡だというのに… ヨシ!早  
く椅子を持て!」  
 
 そう言ってスキャッパー領経営最高責任者、ポール・ゴバーク・スロゥチャイムは席を  
立った。  
   
 「御館様…従僕が主の前で席につくなど有ってはならぬ事です…どうかこのままに」  
 
 「よい!ヨシ!早く持ってこい」  
 
 ヨシと声を掛けられたヒトの青年…老人の次男に当たるヒトの青年は椅子を一脚用意し  
た。  
 
 「父上、どうかお座り下さい」  
 
 「御館様、どうか先に席へお座り下さい、従僕はせめて後の着席が望ましく思います」  
 「…そうか」そう言ってポール公は席に着いた、それを見届け老人も腰を下ろした。  
 
 「…もう、お別れなのですか」  
 
 ポール公の隣で今にも泣き出しそうな表情の女性(もちろんイヌ族の女性だが…)はそ  
う言って眉を顰め老人に眼差しを定めた。  
 
 「アリス様…この世界へと来て以来、どれほどお世話になったか解りませぬ…主を差し  
置いて勝手に旅立つ従者をどうかお許し下さい…」  
 
 マサミと呼ばれたその老人はそこまで言うと一息入れて視線を下げた。  
 
 「三途の川で…ヒトの世界では死者と生者の世界を分ける所には川が流れているという  
のですが、その川岸で妻が待っております、役に立たぬ従者は役に立たぬ夫でありました。  
せめて今は少しでも早く… 妻の元へ… 行きたく思っております… 」  
 
 息をするのもやっとな老人は途切れ途切れに言葉を選んだ。  
 ポール公婦人のアリスが席を立って老人の所へと歩み寄る、老人は慌てて椅子から立ち  
上がったもののバランスを崩し床に崩れた。  
 
 「アリス様…役に立たぬ従者など早くお忘れ下さい…スロゥチャイム家は再興し所領は  
栄えております…長らく廃墟同然でありました市場には品物が溢れております…富める者  
も貧しい者も、御館様のご偉功にて皆等しく教育の機会を得て…この谷には1000年の繁栄  
が約束されました…後を託されるアーサー様は聡明で在らせられる…マリア様もボールド  
家へ嫁がれる事が決まりました…我が子には私が教えうるものすべてを教えました… 息  
子が私の代わりとなってスロゥチャイム家と共にあるでしょう…もうこの年寄りには…何  
も思い残すことはございませぬ…どうか…」  
 
 そう言って老人は何とか立ち上がろうとしたものの、もはや腰に力が入らず立ち上がる  
ことは出来なかった。  
 アリス様と呼ばれたイヌの婦人は老人に手を差し伸べたのだが、従者はその手を払って  
しまった。  
 
 「アリス様、どうか主人は主人らしく立ち振る舞いなされよ、従僕に手を差し出すなど  
主人がしてはならぬ事です。ヨシヒト、手を貸せ、主人の前で立てぬならばせめて傅くの  
が従僕の定めだ」  
 
 そう言って老人はヨシの手を借りるとアリスの前で跪いた。  
 
 「これでよいのです…」  
 
 「マサミ…私はあなたの主人として聞いておかねばなりません。あなたの亡骸はどうす  
ればよいか…」  
 
 老人はしばらく黙して後、ゆっくりと口を開いた。  
 
 「アリス様、従僕の最後の願いをお聞き届け下さい。どうかこの抜け殻を亡き妻の傍ら  
に葬り下さい、この世界に落ちてきて亡くした最初の息子と…そして妻と共に…この紅朱  
舘を見守りたく思います」  
 
 「そうか… わかりました… そのように致しましょう」  
 
 「ありがとう御座います、そして、実はもう一つございます。ご主人様と、そして御館  
様の為に…」  
 
 ポール公はティーカップを皿に下ろすと老人に歩み寄った。  
 
 「何でも言え、マサミ…お前は我がスロゥチャイム家の全権執事だ、俺にはそれを聞く  
義務がある」  
 
 「ありがとうございます。実は…今日この日までの様々な事を全て日記に記しておりま  
す。どうかこれを御館様と若君の為にお役立て下さい…。書物は時を越え価値を上げる物  
です…。この先…私めの息子が御館様の為に事を成す時も…若君が当主になられた時も…  
この拙文を持って領地経営の指針とされますよう…」  
 
 ポール公は何かに驚いた様子だったが、ジッと老人を見据え口を開いた。  
 
 「マサミ…お前の忠義はわが生涯において決して色褪せぬものだ…アーサーに、そして  
孫に、子孫達に受け継がせよう 今まで我が家の為に良く尽くしてくれた…」  
 
 満足そうな笑みを浮かべた老人は突然咳き込むと喀血して崩れた。咄嗟にベストの内側  
へ血を落としたのは執事のプライドだろうか。  
 
 うずくまる老人のもとにポール公やアリス夫人が駆け寄って膝を付く、ポール公の従者  
として契約したヨシが老人の肩を抱き身を起こした…が…  
 
 「マサミ!大丈夫ですか!マサミ!」  
 
 アリス夫人は涙を浮かべている、ポール公はジッと老人を見据えその手を取った。  
 
 「ポール、すまない、もう…寝酒に付き合うことも、お前の愚痴を聞く事も俺には出来  
そうも無い。人は呆気なく死ぬんだよ・・・・ヒトの世界で俺と暮らしていたイヌは俺の腕の  
中で死んだ、寿命で死んだ、その時の心配そうな表情の意味をやっと分かった・・・・」  
 
 「もういい…もう逝っていいぞ…長い間、本当に世話になった、ありがとう…ありがと  
う…」  
 
 「アリス様、ちょっと疲れてしまいました。申し訳ありませんが先に休んでよろしいで  
しょうか・・・・」  
 
 「えぇ・・・・ゆっくり休みなさい・・・・」  
 
 アリス夫人はそれ以上言葉にならずマサミの手を握り何度も頷いている。  
 マサミと呼ばれた老人はゆっくりと顔をあげると凄みの効いた笑みを口元に浮かべた。  
 満足そうに微笑んだあとで鮮血に彩られた唇はゆっくりと動いて最後の言葉を吐いた。  
 
 「わが…生涯に…悔いは…ない…、ポール…アリス様を…我が主人を頼む…見かけより  
弱いお方だ…どうか…アリス様…子供たちを…お願い…しま…」  
 
 最後の方はほぼ言葉にはなっていなかった。  
 しかし、その場にいたすべての者がその言葉を聞いたと後に証言している。  
 24歳でこっちの世界に落ちてきてしまった老人のその最後は、多くの者に看取られて幸  
せな最後であった。  
 従僕として主に看取られる事は唯一の心残りながら…なのだが。  
 
 
 翌朝、紅朱舘を見下ろす小高い丘の上に紅朱舘に勤める多くの者が集まっていた。  
 スロゥチャイム家当主とその夫。長男のアーサー、次男ヘンリー、長女マリア。  
 マサミの次男でありポール公の従僕となったスロゥチャイム家全権執事のヨシこと義人、  
アリス夫人と長男アーサーの両者を主人とする従僕の長女マナ、執事見習いのタダと呼ば  
れる三男の忠人。そして、紅朱舘に詰める多くのヒトとイヌ族とそれ以外の種族の家臣・  
従者達。  
 
 黒の喪服に身を包んだ者達はマサミを納めた棺を墓穴に納めた。すぐ脇には小さな、し  
かし上質に設えられた墓標が一つ立っていた。  
 
 
−遠き邦より来たマツダマサミの妻カナここに眠る。何人もこの墓暴くべからず−  
 
 
 上等な拵えの棺に皆が土を被せ終えるとポール公は墓碑をそこに納めた。アリス夫人が  
そこに花を手向ける。  
 
 
−遠き邦より来たマツダカナの夫マサミここに眠る 何人もこの夫婦を引き裂く無かれ−  
 
 
 「マサミ…あなたの好きな花は有りませんが…せめて青い花を探してきました」  
 
 スキャッパー地方の冬は白と灰色しかない世界になる。  
 短い夏が終わり駆け足の秋が過ぎ去り、長く冷たい冬がそこまで来ていた。  
 墓の前で皆最後の別れを惜しむその最中、空から純白の冬将軍がハラリハラリと舞い始  
める。  
 
 「精強を誇る我がイヌの国軍も冬将軍には勝てぬ…」  
 
 忌々しげに空を見上げたポール公は誰に聞こえるとも無くそんな言葉を口にした。  
 
 「この夫婦の墓には雪が積もらないでしょうね…」  
 
 アリス夫人は遠くを見やってからもう一度墓碑を見つめると、そう呟いた…  
 
 妻を取り戻してから…あなたは私の心を一度も抱いてくれませんでしたからね…  
 
 アリス夫人は心の中でそう呟いて従者を呼んだ。  
 
 「マナ…今日からアーサーが当主となるまであなたは私とアーサーの従者です」  
 「はい奥様…いえ…失礼いたしました、ご主人様、心得ております…」  
 「あなたの兄、ヨシ、弟タダと共にスロゥチャイム家をお願いします」  
 
 そういってアリス夫人は紅朱舘へ歩き始めた。皆がそれに続く。  
 墓の前にはポール公がまだ残っていた、従者であるヨシただ一人を残して。  
 
 「マサミ… 永きに渡りご苦労だった… 妻と仲良く見守ってくれ…」  
 
 そう言って腰から太刀を抜くと横に払い頭上に捧げた。  
 古き貴族の因習に従い、その太刀を足元へ振り下ろし未だ柔らかな被土へと突き刺す。  
 
 「マサミ… 私とお前の主従はこの剣で断ち切った… 永きに渡り共に生きた友よ」  
 
 ポール公の背後でヨシがすすり泣いている、たった二人の主従となったもののみが共有  
する言葉…。  
 
 「友よ 安らかに眠れ 私が遠き先祖のところへ旅立つ日に また会おう…」  
 
 戦太刀を鞘に収めたポール公はアリス夫人が手向けた花を持ち上げるとやや横へとずら  
して置いた。  
 
 ・・・・マサミ、きっとお前ならまず妻に見せるだろうからな…  
 
 「ヨシ 行くぞ」  
 「仰せのままに」  
 
 僅かな間に薄っすらと積もった雪を踏んで二人が紅朱舘へと戻っていく。  
 マサミとカナの眠る墓の周りだけ、不思議と雪が積もっていなかった。  
 

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