ぎこちない手つきでスプーンを置くと、彼女は手を合わせた。  
「ごちそうさま、だ」  
「ああ、お粗末さん。大分上達したな。ほら、口についてるぞ」  
 唇の端についている食べカスを、青年がぬぐう。  
「拭くより、舐めてくれた方が、嬉しい」  
「それはマナー違反なんだ」  
 青年はまるで子供にするように女の頭を撫でる。女は嬉しそうに、傷のない方の片目を細めた。  
   
 青年が狼…いや、女と結ばれてから一ヶ月が経った。  
 その最初の数日間は、青年は女に人間としての常識を教えることに費やされた。  
 特に問題だったのはテーブルマナーだった。青年が格式のある場所で食事をする機会など一生ないだろうが、それでも犬食いは止めてもらいたかった。  
 だが、それ以外のことでは特に不満もなく、二人の時間は穏やかに過ぎていた。  
 
 食器を片付けた青年が振り向くと、女の姿はすでに椅子ではなく寝台の上に移っていた。  
「腹も、膨れた。次は、交尾だ」  
 もし女が狼の姿をしていたら、千切れんばかりに尻尾を振っていることだろう。  
 いや、青年の目には実際に(おそらく幻覚だろうが)振り回される尻尾が見えた。  
 もう少し言い方があるだろうに、などと思ったが、すぐに贅沢な悩みだと思い直す。  
 青年はまだ若く性欲は有り余っている。  
 女は美しくこちらを好いている。  
 女が言うとおり腹も膨れており、これ以上の充足はないだろう。  
 青年は寝台へと近づいた。  
 
 ベッドに乗った青年に、女は早速擦り寄ってきた。  
「んっ…ふぅ…」  
 心から安堵した微笑を浮かべながら、甘えた声を出す女。  
 女の好きな動作は二つある。  
 一つはキス。そしてもう一つは自分の体を擦り付けることだ。  
「お前の、体温が、心地いいから」  
 と女は言うが、青年はマーキングされているのではないかと疑っている。もっとも、青年にしても女の柔肌の感触を堪能できるのでとめるつもりはなかった。  
 だが、それだけではただの生殺しだ。青年は自分の胸に頬を摺り寄せている女の肩に手をやって、そっと押し倒す。  
「んん…」  
 女は少しだけ不満そうな声を上げシーツの上に寝そべった。  
「もっと擦り寄ってたかったのか?」  
「…うん、けど、気持ちよくしてくれたら、許す」  
 青年はああ、と頷き女の服に手をかけた。  
 
(よく考えれば、裸ワイシャツなんだよな)  
 女のワイシャツのボタンを外しながら男は呟いた。  
 最近こそほとんどの時間を人間の形態で過ごしている女だが、それまでは狼の姿ばかりをとっており、当然その間は裸だった。  
 そして残念なことに、青年には女装の趣味はなく、したがって女物の服はおろか、下着の一枚もない。だから普段、女は裸の上に青年のワイシャツとズボンを身に着けていた。  
 そして今、ベッドに上がる前にズボンを脱いだ女が身に着けているのは、サイズが大きい男物のワイシャツだけだった。  
「どうした?」  
「…!いや、なんでもない。そういえばお前の服も買わないといけないな、って思い出して」  
 女の姿に見とれて、いつの間にか手を止めていた青年は、とっさに言いつくろった。だが、そのとっさの言葉に女は驚きと、そしてほんの少しさびしそうな表情をした。  
「どうしても…か?」  
「いらないのか?」  
「お前が、私のために、贈り物を、くれるのは、うれしい。けど…」  
 問い返された女は半ば脱がされた服を掻き抱きながら、躊躇いがちに言った。  
「この服は、お前の、臭いがするから、着てると、お前に、抱かれてる、気がして、安心するから…」  
 興奮した青年は、残りのボタンを引きちぎった。  
 
「ひぅ…あ…んん…」  
 青年の愛撫に、女は体を甘い声を上げる。  
 青年が指先や、唇を這わせるのは、女の体に刻まれた、大小さまざまの傷だった。  
 その傷は、女が独りで生きてきた証拠だった。  
 幼い頃に一族と死に別れてから、彼女は独りで生きてきた。  
 異なる生態を持つ彼女は、他の狼とは生きて行けなかった。だが人として生きていくことの方がもっと難しかった。  
 彼女は捕まり、見世物にされ、時には奇矯な金持ちの慰み物にされた。  
 
「初めては、そこで、奪われた。ごめん、初めて、捧げられなくて…」  
 
 女が本当に悲しそうに言った時、青年は力いっぱい抱きしめることしかできなかった。ただもう二度と、最愛の彼女にそんな想いをさせないと誓った。  
 その後、逃げ出した女は追っ手に傷を負わされ、死にかけた。特に右目の傷が重症だった。  
 それでもどうにか逃げきったが、山の中で力尽きた。  
 そしてそこを青年に助けられたのだ。  
 
「私の、今までは、辛いことが、多かったが、そのおかげで、お前と、会えた。  
 だから、私は、幸せ者だ」  
 
 いや、本当に幸せなのは、そんな女に想われた自分の方だと、青年は思いながら、女の右目の傷にキスをした。  
 
「ほ、欲しい…もう、中に、欲しいぃ!」  
 幾度目かの軽い絶頂を迎えてから、女は青年を求めた。  
 青年は力が抜けた女の足を抱えながら女の上に覆いかぶさる。  
 当初、狼である女はバックからが好きだと青年は思っていたが、それは間違いだった。  
 女が好きなのは、正常位や騎乗位―――互いに向き合い、抱きしめあうことができる体勢だった。  
「その方が、お前を、感じられるから」  
 それが理由だった。  
 青年は、女の快感と肉欲に蕩けた唇にキスをしながら、自分の肉柱を突き入れた。  
「―――ぅんっ♪」  
 キスでふさがれた声は弾んでいた。初速のまま腰を動かしながら、青年は女の耳にささやきかける。  
「そんなに犯されるのが嬉しいのか?」  
「ふぅっ!あふっ、あんっ!う、うれしい!気持ちいい」  
「淫乱だな」  
 そのささやきに、女の目は一瞬、快楽から覚める。  
「い、淫っ!乱!はぁ!嫌い、なの、かぁっ!?はふぅっ!」  
 悲しそうに言いながら、快楽に耐えようとする女。それを見て、青年は罪悪感に襲われる。  
「そんなことない。大好きだ」  
「い、いじわるぅ!あっ、ああああんっ!」  
 安堵して気が抜けたのか、女は一気に絶頂に押し上げられた。  
 ビクつく膣壁にそれを感じ取り、青年は激しい動きを止めた。ただ体重をかけながら、膣奥をぐりぐりと刺激するだけにとどめる。  
「意地悪は、嫌いか?」  
「う、ううん…好き、だぁ…」  
 青年を抱きしめながら女は言う。  
 その目尻から涙がこぼれる。激しい快楽と深い安堵が入り混じった塩辛いしずくを、唇でぬぐった。  
「ハァ…、ハァ…そ、それは、マナー違反では、ないのか?」  
「今回は特別だ」  
 反論は許さないという風に、青年は腰の動きを再開した。  
 
「あんっ!うぁ!はう、はきゅ、はう!」  
 一突きするたびに女は嬌声を上げ、体が跳ね上がるほどの反応を示す。  
 それに伴い健康的な小麦色の肌に包まれた胸が躍動し、髪が舞いながらほのかな体臭を空気に溶かす。  
 そして何度も何度も口付けを求める。  
 五感のすべてが女の存在を青年に伝え、青年のたぎる性欲を解放へと導いていく。  
 そのことに女も気づいたのか、青年の胴体に足を絡める。  
「はぅ…あう!あん…あんんっ!来い、いっぱい……いっぱいぃっ!」  
 頬を上気させ、瞳を潤ませて、射精をせがむ。  
 それに応えることへの欲求を、青年は我慢できなかった。  
 肉棒を可能な限り奥まで突き入れて、青年は粘ついた欲望を解き放った。  
「あうぅぅぅぅぅっ!」  
 青年の欲望が注ぎ込まれる感触に、女はひときわ大きい絶頂を迎えた。  
 女は遠吠えするように喉を仰け反らす。その首筋に噛み付くように、男は唇を這わせる。  
「あ、ああ…食べ、られて、いる…」  
 青年の耳朶を、女の囁きがくすぐり、青年の鼻腔を女の体臭がくすぐる。  
 そのまま、青年が精を吐き出しきるまで、二人はそのまま互いを感じあった。  
 
「ん…むぅ…ちゅぱ、ちゅぱ…。ハァ…綺麗に、なったぞ」  
 青年の一物から口を離し、女が嬉しそうな笑顔で言う。ありがとう、というのもなんか変な気がしたので、青年は無言で頭を頭を撫でる。  
「…♪」  
 女はそれで十分満足だったらしく、上機嫌で青年の胸板に顔を擦り付ける。  
 狼といいながら、まるで猫のようだと青年は思った。それと同時に、まあ可愛いからどちらでもいいかとも思った。  
 青年は最愛の女を抱きしめ…ふと、重要なことに気づいた。  
「なあ」  
「なんだ、また、したいのか?」  
「いや、そうじゃなくてさ…その、今更なんだが…」  
 青年はしばし逡巡した後、意を決して言った。  
「お前の名前って何なんだ?」  
 この数年の間、青年の日常で他者といえる存在は、獲物以外には狼――この女だけだった。だから名前をつけることもなく『狼』か『おい』、『お前』だけで通じていた。そのままのノリで、一月以上生活していたのだ。  
 抱いておいて、それも孕ませるつもりで抱いておいてそんなことを今更聞くなど、自分はなんていう奴なんだろうと、青年は自分を呪う。  
「ない。私に、名前は、ない」  
 怒られる、もしくは呆れられるかと身構えていた青年に、女は平然と答えた。あっけにとられた青年に女はさらに口続けた。  
「必要、なかった。ずっと、独りだった。名前を、呼んでくれる者など、いなかった。見世物に、されていたときは、化け物で、通っていた。  
 子供の頃は、あったかも、しれないが、もう忘れた」  
「そっか…」  
 悪いことを聞いてしまったかと、青年は気まずくなる。だが次の言葉で、そんな気持ちも吹き飛んだ。  
「そういえば、私も、お前の、名前を、知らない」  
 なんと名前も知らない相手の子供を欲しがっていたのか?  
 びっくりした青年だったが、女は意外そうに問い返した。  
「お前は、私を、大切にしてくれる、存在だ。それだけで、十分だ」  
 含みも何もない、純粋なその言葉に、俺は苦笑した。  
「そうだな。だけど名前がないのは不便だな」  
「じゃあ、くれ」  
「はぁ?」  
「服より、そっちの方が、いい。私の、名前を、お前が、つけてくれ」  
 いい考えだという風にいう女に、青年は思わず笑ってしまった。女は隻眼をぱちくりとする。  
「変なことを、言ったか?」  
「いや、光栄だ」  
 青年はひとしきり笑ってから、胸の中の女の顔に微笑みかける。  
 名前をつけよう。この愛しい女に。この心を捉えた美しい狼に。  
「その前に、俺の名前を名乗らなきゃな。俺の名前は―――」  
 
 
 
 
 
 
 
 
 完  
 
 
 

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