すぅ、と息を吸う。  
 はぁ、と息を吐く。  
 呼吸をすると言う、たったそれだけの事がひどく重労働に感じる。  
 暖房一つ入れて貰えずに冷え切った空気はかさかさに乾いた唇を切りつけて、弱った肺を刺していく。  
 少女以外には誰も居ない部屋。  
 しんと静まり返り、音なんて自分のか細い呼吸と止まりそうな心臓の音ぐらいしか聞こえない。  
「あたし…しんじゃうのかな」  
 元は綺麗な桜色をしていたであろう唇が微かに動き、呟いた。  
 誰とも無く呟かれた問いに応える者はなく、その言葉もまた彼女の吐息同様に部屋の空気へと溶け消えた。  
 天海雫(あまみ しずく)は死の淵を彷徨っていた。  
 
 そこは病院ではなかった。  
 病院ならば、衰弱しきった身体を薄い毛布一枚きりに包んで床で寝かせるような真似はしない。  
 押入れの中には布団があるのにそれを出す事も、冬の足音が聞こえ始めている時期なのに暖房を入れる事も許されないのは病院などではない。  
 
 三秒に一人、人が死んでいくと言われる過酷なアフリカに雫はいる訳でもない。  
 それなりに平和で、諸外国に比べれば随分と安全な現代日本の片隅。飢え死ぬ者や凍え死ぬ者がそうはいない国。  
 一般的な十一歳の少女が簡単には死神の鎌にかからない場所に彼女はいる。  
 
 雫の家は医者にかかる金もないほど貧乏なのでもない。  
 そんなに金がないのなら、雫一人を家に放って置いて両親が揃って飲み屋に行くような余裕はない。  
 
 そう、まさしく彼女は放って置かれた。  
 家族の誰にもまともに相手はされなかった。  
 満足行く食事も、否、最低限の食事や水すらも碌に与えられていなかった。  
 かと言って勝手に台所でも漁ろうものなら手酷く殴られた。  
 だから動かなかった。  
 そして動けなくなった。  
 
 ネグレクト。児童虐待。  
 雫は唾棄すべき犯罪行為、その現在進行形の被害者だった。  
 
 雫も産まれてからずっとこんな目にあっている訳ではなかった。  
 厳しい所もあったが優しい父と、気の弱い所があったが明るく料理の上手い母との三人家族。あまり裕福ではなかったけれど十分に幸せな家庭だった。  
 その父が事故で亡くなったのが、雫が幼稚園から小学校に上がった頃。  
 父は勤務中の事故死だったとは言え、勤め先はさして大きくもない会社、むしろ零細企業と言っていい。満足いく保障を得られる前に、事故の補償費用に立ち行かなくなった会社はあっさり潰れてしまった。  
 いきなり大黒柱を失った一家は父親の勤めていた会社の人間には頼れなかった。  
 それはあくまでも事故であり、何の悪意も意思も働いてはいなかったが父の事故死がきっかけになって会社が倒産したのは事実であり、少なからぬ人間が雫の一家を恨みながら職を探す羽目になっていた。  
 親戚に頼るのも無理だった。雫の生まれる数年前、駆け落ち同然に結婚した父と母はどちらの親戚とも疎遠になってしまっていた。のこのこ田舎に帰ったところで、塩を撒かれるのが落ちだったろう。  
 一縷の望みをかけて裁判を起こす為、母は弁護士を尋ねたが結果は芳しくなかった。弁護士の予想は冷たかった。  
 曰く、誰だって無い袖は振れない。  
 裁判を起こせば保障を勝ち取れなくも無いが、相手は既に潰れた会社。得られるだろう雀の涙の保障よりも裁判の経費が上回り結果的に赤字になるだろう、と。  
 ついでに彼は冷徹に、私もボランティアじゃないんでね、と付け加えた。彼は法律扶助協会により裁判費用の援助が受けられる制度の事などおくびにも出さなかった。仮に弁護を引き受けても、目の前の未亡人からでは大した儲けが期待出来そうに無かったからだ。  
 母に打ちひしがれている暇は無かった。  
 雫を養う為、母子二人を食べさせる為、寝る間も惜しんで働いた。  
 昼間のパートだけでは食っていけずに、止むを得ず夜の街にも働きに出た。  
 みるみるやつれて行く母を少しでも手伝う為に雫も奮闘したが、所詮は小学生。出来る事と言えば、ちょっとした家事を引き受けるくらいが関の山だった。  
 明るかった母が次第に荒んでいくのを目の当たりにし、雫は幼い心を痛めたが彼女にはどうしようもなかった。  
 
 母が再婚について口にした時、雫は反対しなかった。  
 死んだ父を忘れたのではない。彼女は、母が自分を養う為にどれだけ働いていたかを知っていたから。  
 誰にも頼る事の出来ない母子家庭。母親の体と心を相当の疲労とプレッシャーが苛んでいたのは、まだ幼い雫でも容易に想像出来た。  
 実際、母親の心は疲れきり、ほんの微かな風を受けただけで倒れてしまいそうな朽木のような状況だった。  
 だから、彼女は寄りかかる人間を探した。肩を貸してくれる人を求めた。  
 それが三年間前の夏。  
 
 雫の母に男を見る目が無かったのか、それとも男運が無かったのか、疲れた心には誰でも優しく映ったのか。それは誰にもわからない。  
 分かっているのは、夜の街で働くうちに知り合ったろくでもない男に引っ掛かてしまったという事だけ。  
 雫は、義父となる男に初めて会った時のことを今でも覚えている。  
 彼が自分に何を言ったのかはもう覚えていない。記憶の底にこびり付いているのは、粘りつくような底意地の悪い冷たい眼。うなじの毛が逆立つような感触。  
 子供の直感と言うものは、時にけして馬鹿に出来ない精度を発揮する。雫は既にこの時に義父の本性を見抜いていたのかもしれない。が、見抜いた所で幼い子供に成す術は無かった。  
 義父が家に来て半年くらい経った頃から、彼は本性を表し始めた。  
 母親が連れてきた男、雫の新しい父親は控えめに言って屑だった。  
 昼間から酒浸り。競馬競輪競艇とあらゆる博打三昧。闇賭博に手を出す度胸がないのがまだしもマシだった。  
 当然ながら、その金は雫の母親に稼がせたものだ。  
 たまに金を稼いだと思ったら、無辜の人間に因縁を付けて恐喝まがいで巻き上げた金だった。  
 下劣な勢いだけのチンピラ。その言葉だけで雫の義父の全てを表現できた。  
 
 彼は酒に酔っては雫に暴力を振るった。酔っていなくても振るったが、酒の抜けている時の方が冷静に拳を振るうのでさらに性質が悪かった。  
 暴力を振るう理由など無かった。全ては義父の気分次第。聞けば誰もが、たったそれだけの事で、と呆れるくらいの些細ないら立ちが雫に向けられた。  
 同時に汚い言葉を喚き散らし、繊細な雫の心をも痛めつけた。  
 雫がわんわんと泣き、止めてと必死に懇願するその様を見ながら彼は嗤った。嗤いながら雫を傷付け続けた。  
 初めの頃は、母も雫を庇った。  
 泣き叫ぶ雫に覆い被さり、必死で盾となった。その庇う母の背中にも容赦の無い暴力が浴びせられた。  
 それが繰り返されるうち、しだいに母は雫を庇おうとしなくなっていった。  
 そして、遂にある日、母は義父と一緒になって雫に手を上げた。  
 親である事を捨て、義父の暴力にとうとう屈したのだ。  
 被害者が嫌ならば、加害者になればいい。  
 娘と共に被害者であり続けるか、加害者となり少なくとも自分は夫の暴力を避け得る安全な位置を得るか。どこまでも過酷な選択に、雫の母は後者を選んだ。  
 暴力を振るわれる側になんて回りたくない。  
 確かにそうだろう。誰だってそう思う。だが、それは親として踏み越えてはいけない、許されざる一線だった。  
 人はそれを、堕ちた、とも言う。  
 雫は一人きりになった。  
 それからは雫へ加えられる虐待は倍に増えた。  
 地獄だった。  
 幼い少女にとって、地獄とは死後の罰を謳う為に宗教が作り上げた概念上の存在ではなかった。  
 彼女の家庭が地獄そのものだった。  
 
 殴る蹴るはまだしも軽い部類に入った。  
 義父が好んでやったのが、火の点いたままのタバコを皮膚に押し当てる、いわゆる根性焼きだ。  
 六百度以上に達する熱を押し当てられ悲痛な泣き声を上げる雫に向かって、義父はサディスティックに笑いながら言い放った。  
 お前の根性を鍛えてやってるんだ、と。  
 当の雫に、そんな理由にもなっていない理由なぞ聞いている余裕はこれぽっちも無かった。  
 子供らしく伸びやかな腕も脚も、爛れた火傷跡だらけの無残な状態へと変わっていった。  
 
 ある時、叩かれ続ける雫の振り回した手、その指先が義父を引掻いた。  
 引掻いたと言っても爪がほんのちょっとかすったに過ぎず、傷跡どころかミミズ腫れにもならない程度。  
 別に雫は反撃しようとした訳ではない。自身を防御しようとする反射的な行動で、義父の手を払いのけようとしただけだ。  
 が、義父はそうは思ってくれなかった。思っても見なかった彼女の反撃に、彼はさらに激高した。  
 相手が子供だと言うのにも関わらず、雫の右顔面を思い切り何度も殴りつけた。  
 それっきり、雫の右目は何も映すことは無くなった。光を感じ取るのが精一杯。  
 医者ならば網膜剥離と診断したが、少女にそんな知識は無かった。  
 家にあるテレビみたいに、手荒く扱ったら機械が壊れた。それと同じように、雫は自分の右目がただ壊れたんだ、と思った。  
 
 不幸中のごくごく小さな幸いとして、雫は性的虐待は受けていなかった。  
 それは別に母親がそれだけはと必死の思いで庇ったり、義父に良心の欠片めいた物が残っていて幼い子供に手を出すのは気が引けたからとかではない。  
 ただ単に、義父は彼女のやせっぽちな身体がお気に召さなかっただけの話だ。もう少し彼女の年齢が高かったら、雫は彼の毒牙にかかっていただろう。  
 甚だ身勝手な理由ではあったが、どうにか雫は純潔を守り通していた。  
 
 虐待の嵐に彼女を取り巻く大人達も、じっと手をこまねいていた訳ではない。  
 雫の甲高く良く通る悲鳴は近所の住人全員の知るところであったし、事実、彼女のアパートの隣部屋の住人は正義感と社会的な義務感からきちんと然るべき所へ通報もした。  
 当然、幾度となく児童相談所や警察が訪れた。  
 義父は相手が誰であろうが罵声を浴びせ、頭悪そうに喚き散らし、他人が家に立ち入るのを頑として拒んだ。  
 虐待ではない、子供の躾だと強硬に主張した。  
 雫の家は、義父が手に入れた彼を頂点とする絶対王制の敷かれた国なのだ。誰かが入り込めば自分が頂点ではなくなってしまう。そんな下らない思いから、彼は他人を一歩たりとも踏み込ませる気はなかった。  
 そこは断じて家庭などではなかった。  
 下衆な王様一人、不幸な国民二人。義父が己の薄っぺらい自我を満足させる為だけに築いた、義父だけが君臨する紛い物の王国。  
 『無い』と言われてしまえば、それまで。あえなく児童相談所はすごすごと退散するしかなかった。  
 訪れた相談所職員を糾弾することは出来ない。使命感に燃える職員は、凄むチンピラ相手に一歩も引かず粘り強く頑張った。  
 だが、人間とは組織の中で生きるもの。ことなかれ主義的なお役所判断により、義務感に燃える彼は役所内に余計な仕事を増やす人間として他の仕事へと回されてしまった。  
 警察は警察で、彼らも玄関の中に一歩も入れずに退散する事になった。  
 基本的に彼らは先手を打って動けない組織である。このような場合に連携すべき児童相談所は、不手際とも言える熱の入らない対応しかせず、警察が雫の家に強行突入する機会は永久に失われた。  
 さらに義父は、児童相談所を呼んだ隣の家の人間を脅した。自分が暴力団関係者である事をたっぷりと匂わして。  
 義父は会社でいえば孫請けのさらに下請け。下っ端もいい所だったが、そんな実態なんて誰も知っている筈が無い。それらしい臭いがあるだけでどうしたって腰が引けてしまう。  
 勿論、そんな曾孫請け程度の義父は盃を受けてなぞいなかった。  
 もし、義父の上に立つ人間に彼がそんな事を吹聴しているのが知れたならば、逆に義父が彼らの流儀による制裁を受けただろう。  
 かと言って、隣の住人を責めることは出来ないだろう。わざわざ『誰それさんはお宅の組員さんですか』なんて電話をかけて確認するような度胸のある一般人は、普通いない。  
 誰だって分かりきっている地雷原に足を踏み入れたくは無いし、普通の人間にとってヤクザとは関わるべきではない人種なのだ。  
 雫の義父は愚かな男ではあったが、小悪党らしく狡猾でくだらない悪知恵だけはよく回った。  
 用意周到にも、脅した隣の住人に警察に電話を掛けさせ、通報したのは全て自分の勘違いであったと伝えさせたのだ。民事介入の根拠を失い、黒に限りなく近いグレーと分かっていても警察は迂闊に手が出せなくなった。  
 執拗に脅された隣の住人は、とうとう部屋を引き払い、どこかへと引っ越していった。  
 全ては小さな不幸が重なり合ったに過ぎない。  
 だがそれで、雫に手を差し伸べる者はいなくなった。  
 
 地獄の中で雫も学んだ。  
 見聞きした情報から頭で色々と考えたのではない。それは身を守る為の本能的な動作だった。  
 義父は雫が悲鳴を上げて泣き叫ぶ様子が楽しいのだと、自分の中で結論付けた。  
 ならば、彼を楽しませないようにすれば叩かれずに済むかもしれない。  
 それからと言うもの、雫は虐待されるたびに団子虫のように身を丸め、ひたすら我が身を守った。頭を守り、腹を守り、身体を硬め、心をも凍らせた。  
 何をされても、以前のように泣いたりしなくなった。  
 義父は、雫が自分の暴力に反応しなくなったのが詰まらなくなったらしい。  
 とことん下衆な義父にとって、雫は少しばかり毛色の変わったリアルな玩具に過ぎなかった。  
 彼は雫に飽きた。  
 だが、それは事態の解決に向かう糸口にはならなかった。  
 飽きたオモチャはオモチャ箱の中、その片隅で顧みられなくなり朽ちるのが宿命。  
 
 彼女の居場所として与えられたのは部屋の隅に置かれた毛布一枚分だけ。寝ても起きても、そこにしか居られなかった。トイレも義父の目を盗んでした。少しでも目立てば即座に拳が飛んできた。  
 そうして雫は放置された。  
 しだいに彼女には食事すら与えられなくなった。  
 義父は責め方を変えたらしい。より悪質に、より陰湿に。  
 雫が徐々に弱っていく様を眺め、面白がっていた。日に日に弱っていき、痩せ衰えていく姿を笑った。  
 数日間、食事を抜き続け、そして弱りきった辺りで死なない程度に食事を与える。その繰り返し。  
 既に人の所業ですらない反吐の出そうな行為にも、とうとう母が何か抗議する事は無かった。  
 栄養失調に雫の肌から若々しい艶と張りが消え失せた。  
 そうした悪魔同然の人間に弄ばれる日々がどれだけ続いたのか、雫にはもう分からなかった。  
 幸せな笑顔を浮かべているべきである少女は、その青白い顔に何の表情も宿すことなく死に瀕していた。  
 今までに何度も食事を貰えなかった事はあったが、それでもここまで長い間ご飯を貰えないのは初めてだ。  
 かつては生命力に溢れていたが今や棒のようになった腕。その手を動かす気力も無く、焦点の合わない瞳で雫はぼんやりと天井を見つめていた。  
「お腹すいたなぁ」  
 と考えながら。  
 
 天は自ら助けるものを助くと言う言葉がある。  
 自ら努力する者に神は祝福を授ける。  
 だが、その小さな手を動かす事すら叶わぬ少女に天は救いの御手を差し伸べるのだろうか。  
 そんな時、天とは対極に位置するモノが静かに忍び寄るのだ。優しげに右手を差し伸べて、体の後ろに隠した逆の手には真っ黒い悪意を携えて。  
「お嬢さん、お困りですかねぃ?」  
 母親でも義父でも無い誰かが、いきなり声をかけてきた。  
 それが誰だかは知らなかったけれど、両親でないのだけは分かった。母親は『お嬢さん』なんて彼女を呼ばない。義父にはそもそも名前で呼んで貰った事すらない。  
 視界は白く濁っている。目前には何も見えない。何を言っているのかもよく聞き取れない。  
 だと言うのに何故だか、その誰かが言っている内容は理解できた。  
 雫の幼い知識でも、死にそうな人間の枕元に立つ存在は知っていた。  
 僅かに残った力で疑問を口にする。  
「しにがみ…さん?」  
「違いまぁすねぃ。アタクシ、彼らほど仕事熱心じゃございませぇん」  
 気障ったらしくチチチ、と指を振るのが雰囲気で分かった。  
 その様子が面白かったのか、雫が微かに笑みを浮かべた。  
 ただか細い息が詰まったようにしか聞こえなかったけれど。  
「じゃ…だ、れ?」  
「ふぅ〜む、どう説明したものでしょうかねぃ。貴女の認識可能な範囲で説明するならばぁ、悪魔、というトコロでしょうかねぃ?」  
「あなた、アクマさん…なんだ…あたし、地獄に…落ちる、の?」  
「そっちの悪魔とは少し違いまぁす。アタクシ、言ってみればセールスマンのようなものでしてぇ。時に貴女、もっと生きたいですかねぃ?」  
 本当に死にたいと言う願いを抱えて生きる人間など、そうそういない。  
 雫の痩せ細った顎がコクリと、じっと注意して見ていなければとても判別不可能なほど、小さく小さく縦に振られる。  
 そうでしょうそうでしょう、と大きく頷く自称セールスマンの悪魔。  
「ただぁ、貴女の人間としての命はぁ手遅れです。ですのでぇ、少々手を入れさせて頂く事になりまぁす。それとぉ、悪魔との契約ですので当然こちらの方も頂きますねぃ」  
 悪魔は、右手の親指と人差し指で大きな丸を作ってみせる。  
 チェシャ猫さながらにニタリと大きく笑ったが、それもすぐに消えた。  
 
「おっとぅ、これは失礼をば致しましたぁ。もう見えておりませんでしたかぁ」  
 言葉とは裏腹に、その態度には悪びれるような気配など微塵も無かった。  
 自称悪魔はバッと右腕を振り上げ、高々と掲げられて右手を大仰な振りで顎に当てて、しばし瞑目。  
「お代の方ですがぁ…ふぅ〜む、貴女の右目、頂きましょうかねぃ」  
「あたし…の、目…?壊れちゃってる…けど、いいの…?」  
「はぁい、ご心配なぁく。それで十分ですねぃ。それはもう動こうが壊れてようが悪魔にはあまり関係ありませんからねぃ」  
 ポンと手を叩く音。  
 悪魔は、念の為申し上げておくとぉアタクシ廃品回収じゃございませんよぅ、とおどけてみせる。  
「じゃ、上げる…あた、し、もっと…生きたい、の」  
「ではぁ、契約成立と言う事ですねぃ。天使の連中は代価無しなので適当な仕事しかしませんがぁ、アタクシは違いますよぅ。契約に基づき、お代さえ払っていただければぁ、きっちりしっかりはっきりお仕事させて頂きますねぃ」  
 雫には相手が天の御使いであろうがなかろうがどうでも良かった。  
 虐げられ続けた彼女に数年ぶりに差し伸べられた手なのだ。死にたくなんて無かった。もっと生きたかった。だから、それが何であれ、掴む以外に考えられなかった。  
「まずは、お代の方をお先に頂きますねぃ。あぁ、心配には及びませぇん。これっっぱかしも痛くございませんからぁ」  
 寝ている自分の枕元に悪魔が立って、こちらを見下ろしている。  
 もう眼の焦点を合わせる力すら無い瞳には悪魔はただの人影にしか見えず、その人影も顔どころか体の輪郭すらもぼんやりとしていてよく見えない。  
 それでも、その人影が立ったままなの程度は分かる。  
 だと言うのに。  
 少女の顔に、人影の手が伸ばされてきた。  
 生気を失い乾いた頬に触れた悪魔の指先が冷たいのか暖かいのかすら、今の雫には分からない。その指先は彼女の頬を労わるように一撫でした後、視界の無くなった右の眼孔にゆっくり優しく差し込まれた。  
 悪魔の言う通り、痛みは無かった。  
 あったのは喪失感。  
 ぷちぷちと自分の中から何か球体のような物が引き出されていく感覚。  
 体と心から、小さな小さな、だがとても大切なナニカが零れ落ちていく感覚。  
 眼球を失い小さな穴と化した眼孔。  
 そうして不意に出来たその穴を満たそうと、何かが入り込んでくる。  
 ぽかりと開いた虚ろを満たしていく痛いほど冷たいようでいて春の日溜りのように暖かいドロリとした何かに、雫はそれきり意識を失った。  
 
 深夜だというのに隣近所への迷惑になるのも顧みず、バタンと大きな音を立てながら乱暴に玄関のドアが開かれる。  
 雑に扱われた蝶番とダンパーが、揃ってギイギイと軋んで抗議の声を上げた。  
 ひどく酒臭い息を吐きながら、玄関をくぐる大人が二人。  
 雫の母親と義父は靴を脱ぎ散らかし、揃えようとする意思すら見せずに家に上がりこんだ。  
 玄関を抜けるとまともに掃除もされていない雑然とした台所。ステンレスの流しにはいつの頃から洗っていないのか食器が溜まり、異臭を放っている。食卓の上には、コンビニ弁当やレトルト食品の食べカスが捨てられもせずに積もっている。  
 そこを通り抜け、義父は居間へと続く磨りガラスの嵌まった滑りの悪い引き戸を力任せに開ける。  
 部屋の真ん中に少女が立っていた。  
「お父さん、お母さん。あのね、お腹、すいたの…」  
 耳に心地よい、鈴を転がすような可愛らしい声。  
 呆気に取られる両親には、部屋に響いた声が誰から発されたものか、しばらく分からなかった。  
「あぁん?!このガキャ、なんで起きてやがる!」  
 父親は長らく娘の声を聞いた覚えがなかったから。  
 辛うじて、最後に聞いたのは木枯らしみたいなヒュウヒュウとした嫌な音だったと思い出した。  
 筋力が衰えて立つ事も出来ないほどの状態だった義理の娘が、どうして部屋の真中に立っているのか。  
 その問いに父親の愚鈍な脳味噌は、理解不能とだけ答えた。  
 もし、彼がもう少し観察力に富んでいて、彼の脳がもう少しまともだったのなら異変に気付いただろう。  
 パジャマから覗く雫の手足、彼女の小さな身体中に刻まれた度重なる虐待の傷がすっかり消えていた事に。   
 雫の腰まで伸びる長い黒髪。それが烏の濡れ羽色の艶やかな美しさを取り戻していた事に。  
 理解出来ない事に対する戸惑い。  
 常に攻撃的に出て相手よりほんの少しでも優位に立とうとしなければ安定しない安っぽい自我は、その戸惑いを対象への反発へとすり替える。  
 アルコールの臭いをぷんぷんさせ、酔った勢いで加速された理由も無い怒りの衝動に任せて、部屋の真ん中に立つ娘に怒鳴りつけた。  
「テメェなんざいらねぇんだよ!とっととくたばっとけや!」  
 唐突に室内に笑い声が響いた。  
 ゲラゲラと割れ鐘のような低い笑い声。  
 それを聞いて、義父の眉間の皺が危険なほど顰められる。  
 この手の人種は他人に向ける悪意には頓着しないくせに、自らに向けられる悪意には敏感だ。  
 いまだ続く笑い声の中に明確な悪意を感じ取っていた。  
 そこにぽつりと雫の呟きが混ざる。少女の小さな声は、しゃがれた哄笑の止まぬ中でもやけにはっきりと聞こえた。  
「お腹、すいたよぅ」  
「ンだとぅ、テメェに食わす飯なんざねェつってんだろが!この…」  
 チンピラ崩れが何か凄もうとするのを遮って、雫の右目があった部分に出来た口が死刑宣告を吐いた。  
「ダッタラ、オまえヲくッテヤルサ!!」  
 
 雫の右目があった場所。  
 少女に全く似つかわしくないしゃがれた低い声はそこから発せられていた。ただ、丸く暗い穴が開いているだけだと言うのに、両親はそこが口である事を直感した。  
 そこは口だと言うのに唇は無かった。  
 そこは口だと言うのに歯も無かった。  
 そこからは舌が幾本も延びていた。  
 だがそれを舌と呼んでいいものだろうか。口の中から伸ばされるモノならば舌と呼ぶのが妥当であると言うだけで、それらは人の舌とは似ても似つかぬ触手だった。  
 先端から穴の内側に消えている根元まで全てが、星一つない闇夜を切り取ってきたかのように黒い。触手の、蛇で言えば胴に当たる部分はのっぺりとしていて自由に曲がりくねり、先端は槍か刀のように鋭く尖っている。  
 蛇の如く身をくねらせて静かに鎌首をもたげる触手の群れ。  
 異形の舌。  
 
 そのうち一本が振るわれ、ひゅん、と小さな風切り音を立てた。  
 義父には、それが僅かに部屋の空気を掻き乱しただけに感じた。  
「な、なにしやがっ…」  
 ずる、と世界が傾いでいく。  
 壁が自分に向かって倒れてくる。  
 何が起きたのか分からず、受身も取れずに顔面から叩きつけられて初めて、義父は自分が床に転がり、地面に這いつくばっているのだと理解した。  
 一拍遅れて襲ってくる激痛。  
「へ…あ?あ、あ!あ!!俺の、俺の足があああぁぁぁあ!!!」  
 両の足の膝関節から下を斬り飛ばされていた。  
 主が倒れたのにも気付かず、鮮やかな断面を見せて棒のように立ち続ける二本の足それぞれに別の黒い舌が伸ばされ、絡めとる。  
 断面からボタボタと血を滴らせる右と左の足を掴んだ触手は、這い出す穴へと巻き戻された。  
 そして足を絡めとったまま、いまや二つめの口と化した眼窩に吸い込まれた。  
 足だけとは言え、大人の物だ。明らかに少女の頭より大きい。ましてや、眼孔と同じ程度の穴に入る筈が無い。  
 だと言うのに。  
 しゅぽん、と気の抜けた音を立てて両足は消えた。  
 
 何をしたのか、は分からなかった。  
 が、何かしたのは確実だった。  
 どうやったのか、は分からなかった。  
 が、どうなったのか、は明らかだった。  
 
 喰われたのだ。  
 須らく人がするように、口から食物を食べて栄養を摂ると言う行為。  
 少女の右目に開いた穴が口だと言うのなら、言葉を吐くだけでなく物を喰らうのも道理。  
 ただ、それだけだった。  
「あ!ぎゃっ、て…てめっ!俺のあ、足!殺っぞっ!ごるぁ!」  
 苦し紛れの罵声では雫の感情に細波一つ立てられはしなかった。  
 義父がのたうち回る姿を見ても一言も発しない雫。そんな彼女を代弁するかのように、音も無く触手が動き、狙いを定める。  
 狙うのはただ一つ。  
「ぎっ、ひっ、ひぃ!あ…あ…あっ、ゆ、ゆるしてぇ、や、やめっ!」   
 足を喰われた上、頭上で身構える触手に我が身の運命を悟ったのか、義父は必死に命乞いをする。  
 雫にその命乞いを聞いてやる義理は無かった。  
 床にひっくり返った義父に触手の群れが放たれた。  
 両の太腿、腹、左腕、右肩。  
 微塵の容赦も無く、無造作にどすどすと突き刺さる。耳を塞ぎたくなるような悲鳴と真っ赤な血が部屋中に撒き散らされる。  
 わざとなのか偶然なのか、器用に急所以外を貫いた黒い穂先は引き抜かれる事無くそのまま義父に絡みつく。  
 細い触手のどこにそんな力があるのか。触手は義父を軽々と宙に持ち上げた。  
 生まれて初めて味わう激痛と恐怖に彩られた義父の顔。  
 そこへ雫はちらりと視線を走らせたが、何の感慨も見せずに触手を巻き戻した。ちょっと垂れ目がちの大きな瞳が印象的な可愛らしい顔には、憐憫の情など欠片ほども浮かんではいなかった。  
 じたばたともがく体がゆっくりと雫へと引き寄せられていく。  
 まるで南洋のトローリングを思わせる。  
 ずぶ、と膝が飲み込まれた。右目の穴が義父の体を膝からゆっくりと飲み込んでいく。  
 それは異様な光景だった。雫の右眼孔はまったく大きさが変わっていない。にも関わらず、何の抵抗も見せずに人を飲み込んでいく。まるで小さなブラックホールが巨星を引きずり込むかのように空間が歪んでいた。  
 一瞬の遅滞も見せずに、ベルトコンベアーで運ばれるようにして膝、脚、腰、腹と順番に右目の闇に消えていった。  
 穴に飲み込まれず、まだこちら側に残っていて、無様に泣き喚いて助けを求める右手と頭。  
 しゅぽん。  
 それらも実に呆気なく、この世から姿を消した。  
 
 二つめの口はただの口などでは無く、肉食獣の顎だった。  
 世にもおぞましい咀嚼音が響く。  
 ばりばりと頑丈な骨を砕く音。  
 ぶちぶちと肉を引き千切る音。  
 ぢゅるぢゅると液体を啜りあげる音。  
 そして、生きながらに貪り食われる人間の悲鳴。  
 ホラー映画に登場する俳優達の上げる断末魔が如何に作り物めいているのかを、まざまざと聞く者の耳に焼き付ける。一度聞けば生涯耳から離れないであろう、まさに地獄の底から聞こえてくるような絶叫。  
 それも、一際大きい何かを粉砕する音がしたと同時に途絶えた。  
 少女の細く白い喉がこくっと動く。  
 けふ、と凄惨な食事風景とは対称的な可愛らしいゲップが彼女の普通の方の口から漏れた。  
 
 唐突に訪れた静寂。  
 それは、およそ現実感を欠いた光景に脳がショートしかけている母親を、過酷な現実に引きずり戻すのに十分だった。  
「ひ、ひぃ…や…あ、は、は…はぁっ」  
 口から紡がれる言葉は意味を成さず、耳元で何かがカチカチと音を立てて酷く五月蝿い。  
 それが恐怖に震える自らの歯の鳴る音だと、気付く余裕すら母親には無かった。  
 彼女は何を求める訳でもなく、ただ無意味に左右に首を巡らせた。何でもいい、兎に角そうでもしていなければ本当に気が狂ってしまいそうだったから。  
 と、汚らしい流し台の片隅に突っ込まれていた物が、きらりと蛍光灯の明りに煌めいた。  
 その光が意味する所を思考が理解する前に、身体が先に反応していた。母親の目には、それが溺れた者がしがみつく藁にも見えた。恐怖に溺れた者には藁でも無いよりはマシだ。  
 抜けかけた腰をどうにかして動かす。  
 今にもへたり込みそうな力の入らない足はよろめいて、支えにした椅子はバランスを崩して母親ごと床にひっくり返った。  
 テーブルの縁に手をかけて体を引き起こそうとして、やっぱり転ぶ。テーブルの上に置かれた物をがらがらと薙ぎ倒し、辺りにぶちまけながら床を這う。  
 転がるようにしてようやっと流し台の前へたどり着き、目当ての物に手をかけた。  
 ぐ、と手に力を篭める。  
 握った手の形に合わせて作られた黒いグリップと銀色の光る刃先が心強く感じる。  
 掌中に感じる重みに、体を縛り付ける恐怖から少しだけ解放され、いくらかは力の戻った体を引きずるようにして母親は居間へと取って返した。  
 娘の形をしたナニカはまだ部屋の真ん中に立っていた。  
 幼い身体。痩せぎすの、十一歳のちっぽけな少女の身体。  
 そこに飢えの衰えは僅かばかりも見られない。それどころか、虐待で押さえつけられていた、本来するべき成長までも雫は取り戻していた。  
 義父を喰らった位置から一歩も動かず、少女らしい柔らかな両の腕をダラリと垂らし、何をするでもなく呆けたようにただ宙を見つめている。  
「…なか……いた…ぁ」  
 水気に溢れた形の良い唇が小さく動いて、何事かを呟く。しっとりと濡れた唇は雫の纏う虚無的な雰囲気と相まって、少女には似合わぬ表現だが、ひどく扇情的だ。   
 虐待を受ける以前と同じ黒曜石のように艶やかな瞳。  
 焦点を結ばぬ澱んだ視線。  
 その顔が、引き戸に手を突いて萎えそうになる身体を支えている母親に向いた。  
 
「…まだ足りないの。お母さん、あたし、お腹すいたよぅ」  
 カメラの絞りをあわせるようにして、急速に焦点を結ぶ大きな一つの瞳。  
 何の感情も含まれない冷たい視線に捕らえられ、母親は本能的に理解した。既に自分は母親などではなくただの餌に過ぎない、と。彼女は死ぬまで思い至る事も無かった。母親と言う役目など、当の昔に放棄していた事実に。  
 本能はまた、目の前にいる娘の形をしているモノが絶対の強さを持つ捕食者だとも告げていた。  
「ひ、ぃ、や…いやぁぁぁぁっっ!!」  
 母親は奇声を上げながら少女に襲いかかった。  
 愛する者を救おうだとか、夫の仇を討とうだとかでは全く無かった。  
 生まれて初めて被捕食者の立場に置かれた彼女の頭の中には、夫の存在自体、片隅にも無かった。  
 万物の霊長に立った人が忘れて久しい、喰われると言う生命体としての根源から来る恐怖。  
 生き延びたいと言う本能が取らせた純粋な防御反応。  
 鼠も窮すれば猫を噛むのだ。  
 袈裟懸けに振るわれた包丁は狙い過たず、雫に叩きつけられた。  
 女の振るう一撃とは言え、斬撃を真正面からまともに浴びて、避ける素振りすら見せなかった雫の身体は軽く吹き飛ばされた。  
 そこには血の繋がった母と娘などいなかった。  
 やらなければやられる。  
 己の生存をかけた一体の生物がいるだけだった。  
 吹き飛ばされた雫は背中から落ちて、仰向けにひっくり返り、触手があるにも関わらず抵抗らしい抵抗も見せない。  
 母親は手入れのされていない切れ味の悪い包丁を逆手に握り、何度も何度も、雫の痩せぎすな体めがけて切先を執拗に突き立てた。  
 少女の左の瞳が、自らに圧し掛かってパニックに陥りながらも包丁を振るう女を見つめていた。  
 しかし、鼠が噛みついたのはただの猫ではなくライオンだった。鼠の歯如きに何の意味があろうか。  
「お母さん…なんで…?」  
 幾度も突き刺された少女の言葉に、母親の手が止まった。  
 驚愕に見開かれる母親の瞳。その顔が名状し難い恐怖に歪んだ。  
 ずたずたに切り裂かれたパジャマの下、白い少女の肌には掠り傷一つ付いていなかった。  
「お母さん…産んでくれてありがとう…いい子に出来なくてごめんなさい…」  
 少女の瞳がゆっくりと閉じられた。  
 そこにあるのは鎮魂の祈りか。  
「いただキマァス」  
 奈落と化した眼窩から闇で出来た触手が伸びた。  
 人の目で捕らえるのも難しいほどの神速で伸びるそれらから、狂乱する母親が逃げられる筈がなかった。  
 
 ごきり。  
 
 首が真後ろを向く。  
 それは血の繋がった者へのせめてもの慈悲なのか。  
 一分の隙も無く母親の上半身に巻きついた触手の群れは、彼女を一瞬で絶命せしめた。  
 その体から力が抜け、くたりと床に崩れ落ちる前に。  
 しゅぽん。  
 彼女もまた夫の後をたどり、この世から消え去った。  
 
 
 雫は母親に斬りつけられ押し倒された床に寝転んだ体勢のまま、感情の抜け落ちた表情で天井を見つめていた。  
 両親を喰らった彼女はどのくらいそうしていたのだろうか。  
 よいしょ、と可愛らしい掛け声と共に少女は体を起こし、呟いた。  
「もう、ここにはいられないなぁ…」  
 雫の両親は消えてしまった。  
 遠からず、両親が消えた事を不審に思う者が出てくるはずだ。とすれば、警察を始めとする様々な勢力が介入してくるだろう。その時に彼女一人残っていると言う状況の説明のしようがない。  
 死体が出る筈も無いので両親の消失自体は怪事件の一言で上手く片付けられても、まだ小学生である雫自身には色んなしがらみが纏わり付いてくるだろう。  
 親を失い孤児となった人間を保護する施設があることくらい雫だって知っていた。  
 だが、人ではなくなってしまった雫が保護されてどうするのだ?いずれ、どうなるのか?  
 ならば、  
「めんどうクセェことニナルまえニトットトきエルカ」  
 右目の口が続く。  
 それは、とても小学生の思考レベルではない。  
 雫は悪魔の手により人ならざるモノへと変化させられていた。体の方は言わずもがなだが、肉体的のみならず精神的にも変わってしまっていた。知識の量こそ追いついていないが、頭脳は並みの大人を超えるまでに引き上げられ一般的な小学六年生のそれを遥かに凌駕していた。  
「その前に…」  
 ちょいと視線を自分の体に落す。  
「洋服、ダメになっちゃったから変えないとね」  
 パンクファッション張りに穴だらけにされてしまった薄汚れたパジャマ。  
 悪魔はなかなか気が利いていたらしい。どんな魔法を使ったのかは知らないけれど、残る目は左だけになったと言うのに視界は眼が二つあった時と同じようになっていた。  
 そこで、雫はふと気が付いた。  
 何か熱い物が頬を伝い落ちている。  
 なんだろうと不思議に思い、手を当ててみれば、それは残った左眼からこぼれている液体だった。  
 少女は手を濡らす液体を見て、僅かに首を傾げた。  
 これはなんだろう、と。  
 何故だか知らないが眼から溢れて来て、拭っても拭っても止まらない。  
 それが何であるかが分からない事がひどく哀しく思えたけれど、心にも右目と同じにぽっかりと深く暗い穴が開いてしまったようで、どうして哀しいのかさえも分からない。  
 流れ出た液体は雫の病的に白い頬を濡らし、整った尖った顎を伝い、ぱたぱたと床に染みを作っていく。  
 溢れる透明な液体はいつまでたっても止まらず、仕方が無いのでとうとう雫は拭うのを諦めた。  
 ポロポロと左の眼から大粒の涙をこぼしながら、彼女は自分の服を探す作業を続けた。  
 
 とりあえずは破れていない服に着替えて、外に出れるような格好にならないと。  
 と、雫は困ったようにちょっとだけ首を捻った。  
「あたしの服、どこなのかな?う〜ん…わかんないや」  
 とりあえず目に付いた衣装ダンスに小さな両手と、二つめの口から伸びる触手達が伸ばされた。  
 自分の服がどこに仕舞ってあるかなど全く見当がつかないので、雫は家中の考え付く場所全部を探す事にした。  
 人体をたやすく貫く雫の触手。その鋭利に見える先端は鋭ささえも自在に変化が可能で、手の代わりにもなった。  
 しかも、のっぺりとした外見の一体どこに感覚器が付いているのかは分からないが触手にはそれぞれ感覚まであった。触手一本一本の見ている景色が雫にも見える。  
 探す場所は多いけれど、幸い『手』は随分と増えていたので効率は格段に上がっている。  
 しなやかに曲がり、思うままに長さも変えられる便利な触手達を使い、雫は隅から隅まで家捜しした。  
「あんまり良いのない…」  
 しばらく、あちらの箪笥こちらの引き出しと漁っていた彼女だったがようやく戦果が挙がった。  
 冬に着るには少々寒そうな夏物のワンピースを引っ張り出した。  
 両親が彼女にほとんど服を買ってやらなかったので着る物は少ない。  
 さらに雫は人ならざるモノへと変わった時、虐待され栄養失調で滞っていた分の成長を取り戻していた。  
 残っているのは古い物ばかりで、サイズが変わってしまっている雫には締め付けのゆるい服しか着れそうに無かった。  
 とは言え、流石にこれだけでは寒そうだ。  
 さらに探す。  
「クソッタレガ、シケタふくシカアリヤガラネェ」  
 二つ目の口からぶつぶつと愚痴を吐きながら。  
 蛇が獲物に巻きつくみたいにして、服に身を絡めた触手が戻ってくる。  
 触手の持ってきた一番無難そうなデザインのジャンパーコートを雫は手に取った。大人用なそれは少女にはいかにも大きく、雫が着るとブカブカなのだがこの際仕方がない。  
 羽織って見ると、手を伸ばしても指先が袖口からほんの少し覗く程度。裾は踝辺りまで達してしまいロングコートのようになってしまっている。まぁ、取り敢えず歩く分には問題なさそうなので雫はほっとした。  
 靴も下駄箱の片隅から見つかった。  
 別に両親がきちんと管理していた訳ではない。ただ単に、整理されて捨てられる事も無く、下駄箱の奥に無造作に突っ込まれて放置されていただけだ。  
 ちょっときついが何とか履ける。  
 本人は着替えながら、黒い触手達はまた別の作業を続けていた。  
 全ての準備を整え終わると雫は静かにドアを押し開けて、外に出た。  
 ふわりと家の中に入り込む風が頬を撫でる  
 冷たい夜の空気。  
 澱んだ室内の空気しか吸えなかった身体にはとても新鮮だった。  
 これからは誰に憚る事無く、好きなだけ満喫できる。  
 それを思うと自然と頬が緩む。  
 大きな瞳が僅かに細められ、うっすらと微笑みを浮かべ、雫は歩き出した、  
 そうして一度たりとも振り返る事無く、彼女の姿は夜の闇に消えた。  
 
 
 雫が立ち去ってから数時間後。  
 閑静といえば聞こえは良いが、ただ単に交通の便が悪く辺鄙で人が少ないだけの住宅街。  
 その静かな夜のしじまを大音響が切り裂いた。  
 爆発。  
 轟音。  
 閃光。  
 衝撃波を受けたガラスは粉微塵に砕けて飛び散り、炎を照り返して、一瞬だけ幻想的な光景を描き出す。  
 続けて赤々と燃える炎が辺りを支配した。炎の舌が舐めると、あっという間に家具は火の塊へと姿を変えていく。  
 轟々と燃え盛り、手を取り合って激しく踊る火と煙。  
 やがて、遠くからサイレンが聞こえてきた。  
 遠からず消防車が辿りつき、職業意識に燃えた人々の手により荒れ狂う炎は鎮火するだろう。  
 だが、それもまだ時間がある。それは雫がいた家を燃やし尽くすには十分な時間だ。  
 
 全ては雫の仕組んだ事だった。  
 プロパンガスボンベとコンロを繋ぐパイプに触手で切れ目をいれたのも。  
 余計な電気スパークを起こして着火しないよう家中の電化製品のコンセントを残らず抜いておいたのも。  
 ファンヒーターを押入れから引っ張り出し、タイマーをセットして起動するようにしたのも。  
 アパートの他の家にも類が及ぶ可能性は十分にあったが、雫の知った事ではなかった。  
 彼女が虐待されている事を知りつつ、それを見過ごしてきたのだから同罪だ。  
 
 結局、消防の素早い対応により被害は最小限に抑えられた。アパートの雫の家が、彼女の狙い通りに、全焼しただけで済んだ。  
 古アパートだったのが幸いしたようで、第一撃の爆圧は構造的に脆い壁面から上手い具合に吹き抜け、無事とは言わないが隣家もろとも吹っ飛ぶような事態にはならなかったようである。  
 爆発原因はコンロから漏れたプロパンガスにファンヒーターの火が引火した所為であると発表された。  
 捜索の末、爆発のあった家に住んでいた親子三人はどうあっても見つからず、行方不明と処理された。  
 
 
 ある伝承は伝える。  
 二口女と言う妖怪が居ると言う事を。  
 継子を憎み、食物を与えず殺した時に二口女と化した子が生まれると言われる。  
 彼女らは尽きる事の無い飢えを抱え、終わる事の無い呪詛を二つ目の口から吐き続ける。  
 だが彼女らが真に欲するのは、肉体的な飢えを満たす食事などではない。二つ目の口からどれだけ食べたとしても、その口から吐かれる恨み事は尽きない。  
 虐げられ、傷つけられ、食べ物も飲み物も、ほんの僅かな愛情すらも注がれる事の無かった子ら。  
 二口女はその成れの果てだ。  
 生前に親に求めれど、けして与えられる事の無かった心の温もり。彼女らは愛に飢えているのだ。  
 それを求め訴える二つ目の口を黙らせる為に、彼女らは喰う。  
 心の飢えをほんの少しでも軽くしようと食べ物を口にする。  
 そうでもしていないと心が飢え死んでしまいそうになるから。  
 だが、彼女らが求める物が与えられるまで、その飢えが尽きる事は無いと言う。  
 
 
 
 どことも知れぬ闇の中。  
 
「ヒ!ギャハ!ヒィヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!  
 悲しい哀しいかなしいカナシイィィィィ!  
 親が子を殺すぅ!子が親を喰うぅ!  
 ああ!ああ!とてもとても悲しい哀しいかなしいカナシイィィィィ!」  
 
 スイッチを切ったかのように、ピタリと哄笑が途絶える。  
 
「そして実に面白いおもしろいオモシロイィィ!  
 ちょいと歪めてやるだけで、こぉんなにも面白くなるぅ!  
 これが代価!これが代償!悪魔との契約は用法用量を守って正しくご計画的にぃ!  
 くれぐれも無理の無いのないご返済プランをご計画下さいってかぁ?  
 ご計画できるような余裕あるお客様のところにゃ行かねェけどなぁ!  
 アハハァ!アァハハハハハハハハハハハハハ!!  
 どう生きてどう死ぬのか。どう生かされてどう殺されるのか。  
 たぁっぷりと見物させて頂きますぜぇ!  
 ギヒャヒャハハアハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」  
 
 闇よりも昏い狂気に満ちた笑い声がいつまでも響いていた。  
 

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