弐  
 
 丸太のように太い腕は、ヒトの少女を横抱きにするには寸足らずだった。  
 丸みを帯びた肩では、少女を抱え上げるのにも、毛並みの上を滑っていきそうだった。  
 手荒に扱うのも、衝撃を与えるのも、避けたい。バジは苦心して少女を運んだ。  
 幸い、近くには水場があった。  
 岩肌から清水が染み出し、小さな流れを作る。その苔むした岩場から少し離れて、ぐったりした少女を柔らかい下生えの上に慎重に降ろす。  
 草の上に横たわった少女の顔は青白く、血の気がない。  
 あちこち破れた着物の下から覗く肌は手足より白い。どうやら手足や顔などは日焼けをしているようだ。  
 夏の日差しを思い出し、バジは少女が何処から逃げてきたのか、とふと考えた。  
 追っ手の気配は今のところない。  
 バジは縞合羽の下から、銀縁杯を取り出し、湧き水を汲んだ。縁の色は変わらない。十分ここの水は飲用に耐えうるようだ。  
 それを確認してから、少女の身を起こし、水を口に含ませる。  
 荒れた唇を湿らせた滴に、喉が鳴る事はなく。口の端から顎、そして喉元へと伝わり落ちていく。  
 それを指で拭いながら、バジは暫し、思案した。  
 気付けの一発を決めようにも、どのくらいの力をかけていいのやら、わからない。  
 クナのように丈夫な体ならばいつもの通りで大丈夫だろう。  
 だが、ヒトの少女は余りにも華奢で小さ過ぎた。  
 縞合羽を脱いで、少女にかける。  
 それから、少女を改めて見回してみた。  
 縞合羽から覗く、すらりとした足。だが、脛やくるぶしには切り傷が見られ、その踵はひび割れている。履物はない。何度か転んだらしい膝は土と固まった血で汚れている。  
 バジは念入りに少女の膝を湧き水で洗い流した。  
 砂利の埋まった膝の傷を、丁寧に洗い流して、軟膏を塗る。  
 それが染みたのか、少女の膝がわずかに跳ねた。  
 バジが少女の顔に目をやると、ぼんやりと少女がまた目を開きかけていた。  
 湧き水に手ぬぐいを浸し、汚れた顔を拭ってやる。  
 その刺激に、少女は、はっきりと目を覚ました。  
「ここは……」  
「大丈夫だ、追っ手はいない」  
 バジは短く返すと、湧き水の下流で、汚れた手ぬぐいを洗う。  
 少女はしばらく驚いたように、バジの顔をまじまじと見つめていた。  
 その無垢な視線が頬に痛くて、バジは手ぬぐいを絞ると向き直る。  
 足を拭こうとすると、少女がさっと足を引っ込めた。  
 仕方ないので、自分で拭くようにと、手ぬぐいを突き出す。  
「これで、拭くか。それとも水を……」  
「逃げた、のに」  
 ヒトの少女は警戒するように手ぬぐいに手を伸ばさず、かすれた声で言った。  
「何故、そのような……」  
 やはり奴隷商人から逃げてきたのだろう。  
 しきりと唇を舌で舐めている。唇が乾いて喋りにくいようだ。  
 杯でもう一度湧き水を汲み、ヒトの少女に与える。  
 ヒトの少女は、杯を受け取らずに、バジの顔を見据えた。  
 
「……俺が、ネコにでも見えるか」  
 ヒト奴隷と言えば、ネコの商人が最も買いたがると聞く。  
 だからそう、バジはカマをかけた。  
「猫、には見えませぬ。されど、人の顔にも見えませぬ」  
 身を起こそうと、横向きになりながら、少女は言う。  
 こちらを睨んだまま。はっきりと言葉を選んで。  
 妙な事を言うと、バジは思った。  
 この世で人といえば、男はほぼケモノの顔立ちと決まっている。自分はどう見ても女には見えないから、マダラの多い場所にでもいたのだろうか。  
「あの雷が落ちてから、なせは逃げた。だから、そのような猪の顔に」  
 憤怒を纏っているから、そう見えるのですか。そう少女は言葉を続けた。  
 言っている事がわからない。  
 ただひとつ、なせというのは少女の名だろうか。  
「おまえはナセと言うのか」  
「聞き及んで、おりましょうに」  
 なせは完全に身を起こした。その時痛みでも走ったのか、顔を歪めるが、気丈にも声は発しない。  
「知らぬ。それにこの辺りには雷鳴こそあったものの、雷は落ちていない」  
 バジの言葉に、なせは強く反応を示した。  
 はらりと縞合羽が膝の辺りに落ちて、破れた衣の間から白い肌がちらつく。  
「うそ。あんなに樹が白く光って、倒れ込んできて、気がついたらひとりで……」  
 夢中で逃げてきたのに。と、なせは肩を落とす。  
 『落ちた』?  
 バジはその時ようやく、その可能性に行き当たった。  
 先程の違和感。あれが『落ちた』時のものだとしたら。  
 バジはどう答えて良いものか、迷った。  
「……なせの眼が惑うているのか、夢を見ておるのか……」  
 ややあって、なせが呟いた。  
 なせは水辺に手を伸ばして、手前で止める。  
 手が濡れてしまえば、手が冷たさを覚えれば、そこで夢が覚めてしまう、と躊躇うように。  
 聞き及んだ事がある。  
 落ちたヒトはその事を認めぬと。信じようとはせぬと。  
 バジは水面で躊躇った小さな手の上に、自らの手を重ねて、水の中へと潜らせた。  
 飛沫がはねる。  
 その冷たさに、なせが驚いて身を引く。  
「何をなさります、ぬしさま」  
 と、ついに喉の渇きが頂点に達したのか、咳き込む。  
 バジは重い口を開いた。  
「バジだ。その呼び方は息苦しい」  
 三度、銀縁杯で湧き水を汲み、なせへとすすめる。  
 なせは杯から目をそらし、濡れた手を見つめる。そのまましばらく考え込んでいた。  
 思いを巡らせる様を、バジは静かに見守った。  
 躊躇いの後、ようやくなせは、杯を受け取り、少しだけ唇を濡らしてから、一気に飲み干す。喉がこくりと鳴った。  
 口元を拭う。  
「もう一坏か」  
 なせの渇きが癒されるまで、それが数度繰り返された。  
 ようやく一息ついてから、なせは放心していた。  
 濡れた手を見て、もう片方の袖で拭い、口元に手をやる。  
 吐息が、零れた。  
 その俯いたうなじの細さに、バジは嘆息した。  
 どうやって納得させればいいのだろう。  
 そもそも、己自身が、それが事実か認め切れていないのだ。  
 まだ、どこかの堀町から逃げだしてきたほうが真実味がある。  
 
 イノシシの国では落ちものが少ない。  
 ヌシの領域である御山では、そのような事もあるやもしれぬ。だが、普通に獣道を歩いていて遭遇する事など、あり得ないといっても過言ではない。  
 どこぞの国では、落ちもので被害が出たとか、落ちもので栄えたなどという話も聞くが、イノシシ達にとっては無縁の世界である。  
 出入りのネコを筆頭とする商人たちの持ち込む珍しい異国の品、それが落ちものかもしれない事はあっても、身近に感じる事はない。  
 『白膚』どもの存在があるせいか、ヒト奴隷の需要も少ない。己の事は己で済ます。といっても『白膚』たちの論理はまた別である。もしかすると、堀町の中にも囲われているヒト奴隷たちがいるのやもしれなかった。  
「ぬしさま」  
「バジだ」  
 考え込んだバジを、引き戻すなせの声。反射的に声を荒げたバジは、怯えを固く結んだ拳に見てとって苦笑する。  
「ばじ……さま?」  
 なせの膝にあった縞合羽を、もう一度肩からかけてやる。  
 それを手で押さえて、なせはバジを見上げた。  
「何故?」  
 ヒトの少女の尋ねる事はいちいちわからない。  
 バジは腕を組んで唸った。  
「……行き倒れを助けるのは当然だ」  
 ようやく思いついたのはただそれのみ。  
 だが、なせは、ほんの少しだけ、頬を綻ばせた。  
 なせの手が伸びて、バジの腕にかけてあった手ぬぐいをするりと手に取る。  
 それで、優雅に腕や手の汚れを拭うと、恥ずかしそうに笑んだ。  
「どうかそちらを……」  
「ああ」  
 バジは言われるままに、体の向きを変えた。  
 背中越しに、動く音。そして衣擦れの音。  
 帯を解く音。着物が草の上に落ちる音。  
「まあ、穴だらけ……」  
 バジは振り向きそうになる自分をこらえ、荷の中から着替えを取り出した。  
 着替えと言っても、ひとつしかない。今着ているものが濡れた時の予備である。  
 帯は今なせが身に付けているものでなんとかなるだろう。  
 それを肩越しに放り投げて、バジは湧き水の流れを見つめる。  
「ありがとう存じます」  
 なせの声が返ってきた。  
 堀町には戻れない。  
 無数の獣道を思い浮かべ、必死に考える。  
 水の流れに混じって、衣擦れの音が響く。  
 『冬』は近い。だが、まだ秋も始まりといったところだ。  
 なのに。  
 バジはまだまだ自分が若いと思った。  
 
 なせの着替えの間、ずっと考え続け、思いついたは隠れ里。  
 この辺りで一番近いのは樹の民の棲む鞠の里だ。イノシシ達とは普段交じり合わなかった。  
 イノシシの国では、こうした隠れ里が点在しており、特にイノシシたちも咎め立てはしていない。  
 水場でのヒトの痕跡を消し、支度を整え、ひょこひょこと歩くなせを連れ、日が傾くまでひたすら歩いた。  
「確か、この辺りに……」  
 山深い森の大樹の前で立ち止まる。  
 眼前の大樹には巨大な樹洞があった。中は暗い。  
 その樹洞の入口は、バジの背より高く、幅はなせがようやく入れるほどだった。  
 バジにはせいぜい、首を入れる事しか出来ない。  
「ごめん」  
 バジは大きな声で呼ばわった。  
 しん、と静まり返る森。  
 バジの声だけが、いつまでも樹洞に反響していった。  
 その最後の木霊が消えかかった時。  
『ここはどこの細道じゃ』  
 樹洞から囁くような唄い声が降ってきた。  
 なせがそっとバジの腰辺りにしがみつき、不安そうに辺りを見回す。  
 バジは咳払いをした。  
「鞠山衆の細道じゃ」  
『御用のないもの通りゃせぬ』  
「この子の……」  
 とそこまで口上をいって、縞合羽に包んだ少女を見やった。  
「この娘のことで御用あり」  
『娘?』  
 ざわざわざわっと、木の葉が鳴った。  
 森がざわめくように、二人には聞こえた。  
 気配が変わる。  
 バジは片手をなせの肩に置いて構えた。  
 大樹の枝から、幹から、木の葉の陰から。  
 二人を狙う鈍い銀色の光。  
 木漏れ日を受けて光るそれが無数に二人を狙っている。  
『……イノシシの旦那衆とお見受けする』  
 声は、樹洞より響いた。  
 背丈はなせより低く、棒杖を手にしたネズミの老人が姿を現す。  
 不思議な事に、ネズミの老人はさかさまに立って見えた。尾は長い毛に覆われている。  
 樹洞の奥から姿を現した老人は幻なのか、現なのか、二人には一瞬見分けがつかなかった。  
 ネズミの臭いは先程から無数にする。  
 だが、老人のいる樹洞からは、樹の香が強過ぎて臭ってはこない。  
「炭焼きのバジだ」  
『何処の里の御仁か』  
「生まれは……ここから西の『要』の麓だ」  
『ほう。……それは。我らのわらべ歌をご存知なのも無理もない』  
「鞠山衆よ。いつから、訪ね人を威嚇するようになった?」  
『近頃は物騒になりましてな。赤膚や黒膚は無粋なのが多い』  
「もうすぐ『冬』だ。そろそろ奴等も落ち着くだろう」  
 なせは会話の意味がわからないのか、さらにバジの腰にしがみついてきている。  
『冬は我らの眠りの時。その前に我らが警戒するのも道理でござろう?』  
「うむ……」  
 バジは、今さらながら、自分の選択に迷いを生じ始めていた。  
 
『それで何用か』  
「この娘を……」  
 バジはなせを前面におしやった。  
 なせはいやいやをするように、顔をバジの腹辺りへと埋める。  
『それは……ヒトの娘か!』  
 老人の声に驚きが加わった。  
 頭上から、ざわざわと木の葉がざわめく音がする。  
「この娘を……」  
『我らに捧ぐか。それはありがたい』  
『冬の足しにしようぞ』  
『……良い値で売れる』  
 老人以外の声がざわざわと叫ぶ。  
「いや、俺は」  
(『冬』の前に足手まといだから、預けようと思った)  
 そう言いかけて、バジは押し黙る。  
 なせはいよいよ、バジにしがみついて離れようとしない。  
「……か」  
 なせがぶつぶつと呟いているのに気付いて、バジは耳を寄せた。  
「やはりイノシシの姿でも人買いには変わらぬか」  
 今まで視界に入っていなかったが、よくよく見ると、なせの足は震えていた。  
(俺は……)  
 バジは周囲を見渡して、深呼吸した。  
 山深い森。『冬』になればこの辺りなら雪も降るかもしれない。  
 そこに慣れぬネズミに囲まれて、いや、『冬』を眠ってやりすごす一族の中に放り込んで、自分は『冬』を堪能する。  
 それは……。  
 違うと思った。  
「この娘に合う寸法の服を一揃い、いただきたい」  
 懐から金子をとり出して、頭上にも樹洞にも見せびらかす。  
『……今着ている物は旦那衆のものか。道理でヒトの匂いがしないはず』  
 老人の溜め息の後。  
 しばらく樹洞の奥で囁きあう声がした。  
『これでよかろうか』  
 ぱさり、と、バジの前へ小さな着物が一揃い落ちてくる。  
 なせが屈んで、拾い上げた。  
 赤い小袖。  
「ちと目立ち過ぎる」  
『見失わずにちょうどよかろう』  
 笑い声がこだまする。  
 バジはしぶしぶ対価を樹洞の中へ投げ入れた。  
 落ちていく音がしない。  
 吸い込まれたように静寂があった。  
 老人の姿は消えていない。  
 頭上から狙う銀色の光も消えていない。  
 バジは金子を余分に投げ入れた。  
 ネズミの老人がにやりと笑う。  
 杖を振ったかと思うと、姿が消えた。  
『通りゃんせ 通りゃんせ』  
『行きはよいよい 帰りはこわい……』  
 唄い声に見送られて、二人は早々に樹洞を後にした。  
 
 
 
 木陰から離れ、闇に浮かび上がる炎がひとつ。  
 照らし出すのは、森と、その前に浮かび上がる小山のような影。そして、反対側に細く小さな影。  
 木々と、影の間には距離があって。炎が草の影を揺らしている。  
「ばじさま」  
 焚き火の横で、俯いたなせが呟く。  
 草叢に虫の声。焚き火のはぜる音。なせの声は意外に大きく響いた。  
 二人とも、それまで無言だった。  
 鞠山衆の唄い声が、いつまでも二人の後ろをついてくるようで。  
 ようやくバジが今夜の寝床を決めても。  
 そこから離れた場所で煮炊きを始めても。  
 なせは小枝集めを手伝いはしたが、交わす言葉はなかった。  
 小袖はなせの膝の上。身に付けようとはしない。   
「なんだ」  
 バジは噴いた鍋から目を離さず、答えた。  
 水場で汲んだ水を小鍋に入れ、五穀粉を振り入れる。それをぐるぐるとかき混ぜていけば、粥が出来た。  
 味加減を決めるために、袋から塩の塊を取り出し、膝に置く。  
「さじはひとつしかないぞ。先に食え」  
 塩加減を決めぬまま、バジは粥を一すくいし、さじをなせへと差し出した。  
「……いえ、ばじさま」  
 意を決したようになせが顔を上げる。  
「なんだ」  
 バジは目を細めた。  
 元々傷跡で開かぬ右目と相まって、それはどうにも脅しているようにも見えた。  
「なせを、お連れくださいませ」  
 動じず、きっぱりとなせが言う。  
 バジは無言でさじの粥の出来加減を確かめた。  
 が、火傷しそうになってむせる。  
「ばじさま?」  
 なせが中腰になって、水を、と探す。  
 小袖が膝から落ちる。  
「大事ない」  
 そういって、焚き火近くに落ちた小袖を拾うように促す。  
 なせは慌てて座り直した。大事そうに小袖を畳んで脇に置く。  
 バジはさじを鍋に突っ込んで、今度はなせの口へと運ぶ。  
「ほら」  
 なせは息を吹きかけて冷まし、今度は身を乗り出して食べた。  
「どうだ」  
 なせはほふほふと、頬を染めて食べている。  
「塩気が少のうございます」  
「そうか」  
 バジは塩の塊を削ってぱらぱらと鍋に振った。  
「……食え」  
「あの、ばじさま?」  
「……食わぬと明日も歩けぬ」  
「はい」  
 なせは力強く頷いた。  
 バジは何食わぬ顔で、さじをなせに手渡した。  
 その後、なせにさじの粥を食わされるとは思わずに。  
 
 
イノシシ編 弐(了)  
 
 
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補足  
 
鞠山衆  
 マリネズミを想定しております。  
 
 

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