イノシシ編  
 
壱  
 
 低い山に囲まれた開けた土地。  
 周囲を掘に囲まれ、四方の橋だけが、外界と町の中をつないでいる。  
 だが、橋からは外れた裏山に面した堀。  
 そこには時折、人一人渡れるほどの幅の板が掛けられることがあった。  
 
 蝉が鳴く、気怠い午後。  
 裏手の山路から、のっそりと姿を現したイノシシ族の男がいた。  
 右目の位置には大きな斬り傷。隻眼である。  
 丸みを帯びた広い背中には、相対してやや小さめに見える背負い籠。  
 堀向こうは人通りもなく、渡るのにはちょうどいい。  
 堀沿いに植えられた柳の枝だけが頼りなげに揺れていた。  
 男は当然のように薮の中から渡し板を引きずり出し、堀にかけた。  
 山積みの炭が背中で音を立てる。  
 渡り終えると渡し板を持ち上げ、反動をつけると対岸の籔へと放り投げた。向こう岸の籔に落ちるのを、見届けないうちに歩き出す。  
 
 裏長屋を抜けて、表通りからひとつ引っ込んだ通りに出る。  
 黒塗の塀の続く町並。表通りに面したとある店の裏手に来ると、勝手口にかかる木版を決まった数だけ叩く。  
「これはこれは、バジの旦那」  
 馴染みの鯖ネコの亭主が顔を出す。  
 その臭いを確かめ、バジは歩を進めた。  
 勝手口で背負い籠を降ろす。  
 ネコの亭主の横に置くと、背負い籠は亭主がすっぽり入りそうな大きさだった。  
「毎度、ありがとうございますよ」  
 亭主は縁側に座って、炭の数を数え始めた。  
「変わりはないか」  
「ええ。…そろそろイノシシの旦那連中は動き出す頃合いですかね」  
「うむ」  
 バジはイノシシの女を思い浮かべた。  
「秋の風はあっというまにやって来ますからねえ」  
 ヒゲを震わせて亭主は言う。  
「うむ」  
 閨の匂いが思い起こされて、バジは目を細める。  
「風のうわさでは、街道筋の里が一つ、『岡町』に化けたとか。嘆かわしい事で」  
 ネコの亭主はそろばんをはじきながら、購入する炭を揃えて並べる。  
「…里が、か?」  
「左様でございます。ここのようなお目こぼしを頂く『堀町』とは違い、……なんでも、里長の代替わりの時に襲われたそうで」  
 そろばんで示された金額に、バジは少し考え込み、ややあって頷いた。  
「臭そうだな」  
「はい、お気をつけくださいまし。これが駄賃でございますよ。来年もよい炭を」  
 目の前で金子を数えて入れた袋を受け取り、バジはだいぶ軽くなった籠を背負い直した。  
「うむ、ではな」  
 
 久しぶりに降りてきた堀町に、バジは少し足を伸ばそうかと思っていた。  
「賭場か…酒か」  
 イノシシのバジにとって、堀町はハレの場だ。  
 里は基本的には女の住む場所であり、男は山里深く、離れて暮らす。  
 冬にのみ、情愛を交わし、また春には離れていく。  
 娯楽のそろう堀町だけが、イノシシの男達をほんの一時、和ませる場所であった。  
 とはいっても、堀町の住人はほとんどが『白膚』と、イノシシ以外の移民である。  
 イノシシの男達は群れて暮らす事が出来ないし、町の女達は、里の暮らしを捨てて、きめの細かい白膚を選んだ者ばかりだった。  
 ましてや男で『白膚』なぞは、カタギのイノシシからは侮蔑される存在である。  
 『白膚』は元はイノシシであったという。だが、町の暮らしを選んだ彼らは、剛毛が短くなり、肌が白くなり、牙も退化した。  
 商才には長けるが、あまりもてはやされはしない。何よりも享楽的な彼らの生き方を、イノシシ達は好まなかった。  
 それ故、この町では『白膚』が支配するものの、様々な種族の浮民が流入していた。  
 
 賭場では、ちょうど女賭博師がツボを振っていた。  
 獣面の女である。周りを取り囲むイノシシの男達と同じような顔立ち。体格も周囲の者と変わらない。  
 成人にしてはわずかに短い牙と、手入れされた体毛。そして白いさらしの巻かれた胸の谷間が、女であることを思い起こさせた。  
 獣面の女は、大概が『門番』だ。門番であるからこそ、ここにいるにはちと似付かわしくない。  
 背を屈めて入ってきたバジは女賭博師の顔をちらりと伺って、渋面を作った。  
 クナ。  
 バジにとっては嫌な顔なじみである。  
 この人物に会いたくないからこそ、正規の門を通らなかったのだ。  
 目をつけられる前に退散しようと、バジは席につく前に踵を返した。  
 背後で、歓声と悲鳴と溜め息が上がった。  
「待てよバジ」  
 酒焼けした濁声が、騒がしい賭場を射ぬく。  
 バジはぎくりと動きを止めた。  
「今日は帰る」  
 客が胴元に賭けた金を回収されるのを横目に、クナは立ち上がった。  
 撫で肩のイノシシ達やキツネの美女、眠たげな目のクマなど、様々な種族の賭場の客たちが、バジの方をちらちらと見やる。  
「クナ姐さん、そちらはどちらさんで?」  
 若い衆が、好奇心を抑え切れなくなったのか、問う。  
 クナは牙をむき出しにして笑った。  
「弟だ」  
 
 賭場から引き上げた二人は、クナの住処に来ていた。  
 古びた棚に酒と杯しか並んでいない、殺風景な部屋は、クナらしいとバジには思えた。  
「今日は呑むぞ」  
 賭場からむっつりと黙り込んでいたバジは、中間に返してもらった籠を乱暴に三和土に置く。  
「誰が弟だ」  
 さっさと土間から部屋に上がり込んだクナの男と変わらぬ後ろ姿に低く呟く。  
「キョウダイには違いないではないか」  
 聞こえていたのか、クナが返事をした。  
「どちらが先に生まれたなんて覚えているものか。同腹なのは認めてやるが」  
「さあな。己が覚えている、といったらどうする? バジよ」  
「あの母者がそんなことを記憶しているとは思えぬ」  
「違いない」  
 クナは笑い飛ばして、棚の酒瓶に手を伸ばした。  
 つまみもろくにない酒宴が始まる。  
 二人とも、親の血を受けついでいるのか酒は強い。だが、キョウダイの中でクナに敵う酒呑みはいなかった。  
 イノシシの地酒である濁酒以外にも、堀町にはありとあらゆる酒が集まってくる。クナはそれ目当てにここに職を得たのも同然で。やや酔い始めたバジは見知らぬ国の酒の蘊蓄を味見とともにきかされることになった。  
 クナはそれは威勢よく喋る。喋り上戸というやつだ。  
 バジは口が回るほうではない。そして、酒をいちいち蘊蓄をつまみに呑むのも楽しくない。  
 切子細工の硝子杯片手にぼんやりと考え込むようになったバジを後目に、クナはまだ飽き足らず酒棚を漁っていた。  
「この前、珍しいものを見つけた」  
 平べったく小さな金属製の瓶をバジの目の前にちらつかせる。  
「狗の火酒だそうだ」  
「イヌ?」  
 バジは露骨に嫌な顔をした。  
 イノシシとイヌは仲が悪い。鼻がお互い利くだけに、堀町限定だが浮民を数多く受け入れるイノシシの国において、イヌだけが入国禁止だった。  
「喉が灼けて、なかなか旨い」  
「イヌ臭い酒には興味ない」  
「まあ、そういわずにもっていけ。どうせ旅に出る季節だろう?」  
 金属のひんやりとした感触を無理矢理懐に突っ込まれ、バジは固辞するわけにもいかず、そのままにしておいた。  
「…ああ」  
 クナと別れて里を出てからもう長い時が経つ。  
 いくつもの冬を越え、バジにも子がいてもおかしくはない年になった。  
 もっともイノシシの流儀では誰が子の父親なのか、知るのは母親のみである。  
 子育てに関わらぬイノシシの男達は、一度抱いた女の娘には手を出さないのが暗黙の了解であった。  
 それ故、里を離れるにあたっては、もっともキョウダイの絆が重要とされた。特に里を出た直後、右も左もわからぬ頃は最も頼れるものだ。  
 だが、それが異性であると話は別である。  
 クナとバジはそれぞれ違う時期に里を出ていた。バジの方が先である。  
 獣面を持つ女は外に出る事が多い。堀町に流れるのも道理。  
 だが、クナが流れ着いたそこが、生まれ里から遠く離れた自分の縄張りに近いと、それはそれでかなり不便である。今日のように遊びに行くにも気を使うはめになる。  
 バジは明け方、ようやく解放され、山へと戻っていった。  
 
 イノシシの男の大移動は、収穫の時期より始まる。  
 早くは、収穫を手伝い、そのまま『冬』へとなだれこむ。遅い者は後から合流する。  
 そのどちらにも言える事は、1日の移動距離が短いので早めに出発しなければならないということであった。理由は歩幅が短いのと、寄り道が多い事である。  
 『冬』の里は繁殖の場なのである。  
 無論、外に出ていたイノシシの女達も、子が欲しいと思ったら生まれた里に帰る。  
 クナのような獣面を持つ女も、それは変わりない。もっとも、今年のクナには帰りたがる素振りはなかった。まだ子はいいということなのだろう。  
 バジは昨夜クナから聞き出した事が脳裏に残っていた。  
「岡町の話を聞いた」  
 酔ってはいるが枯れても『門番』のクナである。情報は一番正確だ。  
「ああ。幸い『要』じゃない。山がない里は弱いな」  
 クナは頷く。  
「街道筋も荒れてるのか」  
「いや、占拠したのは『黒膚』どもらしい。愚かなやつらだ」  
 『黒膚』とは、先祖返りした『白膚』のことである。毛並みの色によって『赤膚』と呼ばれる事もあるが、特徴的なのは堀町の『理』を里に持ち込む徒党だということである。  
 堀町の『理』。それは作物を作らないこと。そしてもうひとつが、夜の営みの自由である。  
 イノシシ達は『冬』以外交わらない。だが『白膚』は他の季節も構わずさかる。  
 岡町とは、里長を廃し、里の女達をいつでもさかるように仕向ける、イノシシ流に言えば無粋な輩の理想郷であった。  
 里の女達は通常、里長のもとに統制がとれているものである。一番強い者を失った群は脆かった。男達の求めに応じるうちに、『白膚』へと転じていく。  
 『白膚』はイノシシ達の間では呪いとも言われる。里と山の戒律を抜けるから、自然の中で目立ち過ぎる白い毛を持つようになるのだと。  
 変化は毛の生え変わる時期に起きる。体毛がより短くなり、肌の色が抜けるように白くなる。そうなれば里は亡んだも同然だ。  
 岡町と呼ばれる存在は異端であり、他の里長達や山のヌシからは歓迎されない。争いになることも多かった。  
 まあ、今は『冬』に入りかけている。他の里も動こうとはしないだろう。だからこそ、バジには卑劣に思えた。  
 旅支度を終え、小さな小屋を厳重に封鎖する。  
 食料は、保存食だけをわずかに残しておく。山に迷った旅人用だ。  
 戸に斜めに交差させて板を打ち付け終わると、主を失った家はより小さく見えた。  
 額の汗をぬぐう。  
 『冬』の間は戻らない。早くても春になるだろう。  
 バジは三度笠に縞合羽を羽織り、ゆっくりと山を下り始めた。  
 
 クナの住む堀町とは反対方向に、バジの目指す街道はある。  
 新しく出来た岡町とは方角を違えた。  
 他のイノシシ達と遭うのも面倒だ。  
 誰だって『冬』の前に消耗はしたくない。  
 イノシシの男なら考える事だった。  
 せいぜい他の男と同じ道を行かないように祈るだけである。  
 イノシシの国では、荷を運ぶ街道と平行するように、無数の獣道が発達している。多くは籔の中に消えているので、どこがどこかは地元民しか知らない。  
 旅をするイノシシの男達はそれをすべて覚えている。  
 彼方が暗くなってきていた。まだ夕暮れには早い。  
 一雨来る前に、とバジは足を早める。  
 遠くで雷が鳴っていた。  
 獣道の岐路に差し掛かった時、それは起こった。  
 耳鳴り。  
 剛毛にぴりぴりとくる違和感。  
 バジは咄嗟に身を屈めて、近くの籔に隠れる。  
 体中が危険だと囁く。  
 音を立てず、息を殺し、枯れ草の中を駆けてくる音を聞く。  
 小さな、足音。  
 弾む息。  
 それは、勢い余って枯れ草の中で倒れ込む。  
 きーんという耳鳴りがずっとしている。  
 鼻は注意深く匂いを嗅ぎ分ける。  
 見知らぬイキモノの匂い。  
 人間でもない、獣でもない。  
 なんだ、これは。  
 その小さな生き物は、枯れ草の中から立ち上がり、また駆け始めた。  
 その足音の向かう方向にバジは目を向ける。  
 姿は見えない。  
 だが、そちらの方向は切り立った崖だ。  
 樹木は生えているが、急勾配は慎重に進まないと足を滑らす角度だ。  
 そこに足音はたどり着き、ふっと消えた。  
 一瞬の間。  
 その何かが落ちていく音がする。  
 本能からすれば、危険が去ったのだからそこから立ち去るべきだった。  
 だが、バジの体は鞠のように飛び出し、勾配へと駆けていった。  
 全速を出すと急には止まれない。  
 崖の手前で慎重に速度を落とす。  
 それから、滑り落ちないように崖を降りた。  
 いた。途中の木の根元に引っ掛かっている。  
 ネズミか、と思うくらい、その人間は小さかった。  
 着物はあちこち裂けて、ぐったりと仰向けに引っ掛かっている。  
 乱れた黒髪が、青白い顔にはりついていた。  
 バジは、周囲の匂いを嗅いで、何者かを確かめるために、徐々に近づく。  
 ネズミの匂いならば嗅いだ事がある。  
 大きさは似たようなものだが、違うようだ。  
 口元に、手を近づけてみる。  
 湿った息がバジの手のひらを濡らした。  
 毛の生えた手のひらで、そっと髪をかき分ける。  
 本来なら耳が生えているあたりにはなにもなく。それより下の顔の真横に、毛の生えていない丸い耳が現れた。  
 バジは目を見開く。  
 ヒトだ。  
 
 その時、うっすらとヒトが目を開いた。  
 とっさに逃げるまもなく、ヒトの視界に、イノシシ頭が目に入る。  
「……人買い?」  
 ヒトは、戸惑ったような呟きを、吐息のように吐き出した。  
 その声は少女のものだった。  
 また、目を閉じる。  
 バジは呆然として、ヒトを見下ろした。  
 しばらく、躊躇いがバジの動きを止めた。  
 
 静まり返っていた山に虫が鳴き始める。  
 バジは我に返った。  
 ようやく頭が働きだす。気付けば、耳鳴りが消えていた。  
 人買いに追われているならば、かくまわねばならない。  
 再び捕まれば、堀町で売られよう。  
 バジは岡町や堀町での女の扱いをけして気に入ってはいなかった。  
 枝などでそれ以上傷を負わないように慎重に、おそるおそる抱き上げる。  
 気を失ったヒトの体は、重く。そして驚くほど軽かった。  
 
 いつしか雷雲も遠ざかったようだった。  
 
 
 イノシシ編壱 (了)  
 

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