ヒト編  
 
 壱  
 
 それはハイキングのはずだった。  
 ちょっと近くの、気軽に行ける低い山。  
 そう、途中で小雨さえ降らなければ。  
 帰りを急いだりしなければ。  
 
 頭痛がする。  
「いってぇ……」  
 崖下のヤブに突っ込んだ形で、俺は空を見上げた。  
 木陰の間から見える空は晴れている。  
 落ちてからどのくらい経ったのだろう。  
 切り傷だらけになりながら、籔から抜ける。  
 幸い、背は高い方だから、出られさえすれば、ある程度視界が開けた。  
 背負っていたはずのリュックサックは周囲には見当たらない。  
 手足のあちらこちらがヒリヒリして痛い。  
 乾いた泥だらけのズボンとスニーカー。多分上半身もひどいありさまだろう。  
 とりあえず下に降りることにする。  
 しばらく降りていくと、細い道があった。  
 舗装はされてないけど、林道だろうか。これで助けを呼ぶことが出来る。  
 俺は、ポケットをまさぐって……。  
 ない。  
 携帯も落とした。  
 やっべー。  
 なにか目印は?  
 こんなところ、降りてきたことないし。  
 辺りを見回すと、草むらの陰に、石碑らしきものを見つけた。  
「……道祖神かなんかか?」  
 何か地名でも彫られていないかと、のぞき込む。  
 苔むしたそれは、かなり薄れてはいるが何かの姿が彫られていて。  
「……なんだこれ?」  
 錫杖を持つイノシシ頭の神様って、変だろ、これ。  
 首をかしげながら頭の後ろをぽりぽり掻いたその時。  
 曲がりくねった道の向こうから話し声が聞こえてきた。  
 数人。どうやら女の人の声だ。  
 ちょうどいい、駅までの道を聞こう、そう思って振り返った俺は、一瞬口を大きく開けた。  
 
 いかつい。髪が逆立ってる。逆立ってるくせに、耳が見えない。  
 それ以上を確認する前に、俺を視界に認めた彼らはさっと散った。  
 茂みや木陰。  
 こちらをうかがう気配。  
 凝視する視線。  
 低いうなり声。  
 散らばったそれらが、俺の警戒心を強める。  
 なんだ?  
 なんだっていうんだ?  
「誰だ、おまえは!」  
 どこからか声がした。  
 自警団の皆さんですか。  
「いや、ちょっと道に迷っちゃって……」  
 愛想笑いを浮かべて、頭をぽりぽりとかく。  
 こちらを睨み付ける気配は変わらない。  
「こいつ、ヒトだよっ」  
「なんだって?」  
「ヒト?」  
 はい?  
 人が人だと何か不都合でも……。  
 反論しかけたその時。  
 投網が飛んできて、俺にからまった。  
 抗うが、ものすごい力に引き倒される。  
 地べたに這いつくばると、ようやく彼らが姿を現した。  
 目に入るのは、手に持った棍棒。  
 そして近づいてくる、数人の太くて短い足。  
 一見して、男ではなく、やはり先程聞いた声の通り、女の集団だった。  
 俺より背が高い奴はいない。けど、俺より痩せている奴もいない。何よりも、二の腕と首の太さが、女ばかりなのに俺を下回っている奴がいない。  
 小柄ながら、がっちりとした横幅が威圧感を与える。  
 険しい顔で近づいてくる集団に、俺は気圧された。  
 投網の中でもがきながら、きょろきょろと近づいてくる奴等を確認する。  
 皆揃いの袖の短い着物に帯を片結びに締めて、その下にモンペみたいのを履いている。それぞれ柄は違うけど、似通った服だ。  
 なんだか口元に牙が見えているのは気のせい、だよな。  
 んで、あの頭にぴょこんと見えてる、茶色い耳みたいのも、気のせいだよな。  
 警戒しているのか、女達は棒を手に構えて俺の周囲を囲んだ。  
 気のせいか、今、くるりと背中が一瞬見えた時、尻尾があったような……。  
「耳を見てごらんよ」  
 無遠慮に横から太い腕が伸びてきて、短い髪から覗く俺の耳をとらえようとする。  
 身をよじって避けようにも、投網が髪にからまる。  
「確かにヒトだ」  
 包囲が狭まった。身動きが取れない。  
 みんな高く突き出た鼻を寄せてきて、思い思いに俺の臭いを嗅いでいる。  
 俺は、頭の飾りと思い込もうとしていたそれが、実にリアルにぴくぴくと動くのを見た。  
「……ここは誰の縄張りだい」  
 女達がそれぞれ目配せしあった。  
「あたしのだよ」  
「アタイのさ」  
 なんだか、騒がしい。  
 ここはどこなんだ?  
 で、こいつらは何なんだ?  
 騒ぎながら女達は俺を投網ごと担ぎ上げる。  
 まったく訳がわからないまま、俺は虜囚となった。  
 
 
 林と畑の合間に、小さな家が点在する集落。  
 その中でもひときわ大きな屋敷。  
 その土間に座らされた俺は、縄で繋がれて非常に不快だった。  
 投網から出られただけまし、とするにも腹が立って仕方ない。  
 周りを囲むのは見知らぬオバサンばかり。  
 さっきから陰でこそこそ俺を値踏みするような目で見ている。  
「おまえが里外れで見付かったヒトか」  
 家中に響く、良く通る声。  
 俺は理性の響きを感じ取って、奥の間に目を向けた。  
 羽織を着た、着流しの女性がいた。  
 他の奴等よりも、ややすらりとした感じの、でも男と見間違えそうな肩幅の女性。  
「わたしが、この里の長だ。里長ということになる」  
 里長だと名乗ったその女性にも、纏めた黒褐色の髪から覗く耳と、尻尾があった。その形には見覚えがある。パーツで見ると気付かなかったが、あれは、確かイノシシだ。  
 里長は女達の中では一番すっきりと整った顔立ちをしていた。年はいってそうだが、一応ウエストのくびれもありそうだ。  
「ここはおまえが元いた世界ではない」  
 元から俺の返事なんか気にしてないのか、無言の俺には構わずに、里長は言い切る。  
 はあ、そうですか。  
「帰る術もない」  
 なんか変な夢を見てるな、俺。  
 女しかいないし、なんか田舎の屋敷だし。  
 そんなに都会から離れてない山に登ったのに、随分ずれた展開だ。  
「ここにいる者達が全員、主人は自分だとうるさくてな。検分を行う」  
 俺を連れてきた女達が、口々に自分の物だと主張し始める。  
 主人とはどういうことでしょうね。  
 俺は、醒めた眼で観察する。  
 俺を連れてきた女達は、そろいもそろって筋肉太りのプロレスラー体形。あるべき場所に耳がなくて、あるはずのない場所にケモノ耳がある。  
 囲まれていると暑苦しい。  
 得物はすべて屋敷の外に置いてある。ここでは武器携帯は禁じられているようだ。  
 女達の足の間から、奥の座敷が見える。  
 なんだか今うりぼうのような毛並みのまるっこいものがちらっと見えてすぐに姿を消したけど、あれはなんだろう。  
「ヒトよ、ここで最初に見たものはなんだ」  
 考えに耽っていた俺を、里長の声が引き戻す。  
「……何って……石碑」  
 そう、あのイノシシ頭の神様。  
「石碑?」  
 里長が女の一人から耳打ちされて頷く。  
「シシ神の祠か。里と山との境だな……。ヒトよ、その石碑のどちら側に『落ちた』?」  
 どちらって…。  
「崖から落ちたんだから山からだろ」  
 そう答えると、里長が顔をしかめた。  
「ならば里の物ではないではないか……」  
 女達が不平不満の声を上げる。  
「静まれ。このヒトはヌシの物だ。捧げ物にでもしておけ」  
 はい?  
 女達はまた俺を担ぎ上げた。  
 投網から解放されて、縄、その次はあっさりと簀巻きにされ、運ばれていく。  
 座敷の物陰から、やっぱりちょろっとうりぼうの様な毛並みが覗いたような気がした。  
 
 
 長い階段を上った山の中腹。  
 俺は担がれて運ばれ、祭壇らしき白木の台にくくりつけられた。  
 簀巻きにされたまま、何故か白い紙まで縄目の間にくくりつけられ、ご丁寧に足首まで縄でくくられている。  
 まわりには山と積まれた饅頭と、餅。台の横には瓶が沢山置かれていた。  
 しかも、奴等は祭壇の準備が終わると、とっとと帰りやがった。  
 虜囚から供物。ありがたくない展開だ。  
 お約束的にはこの山のヌシってやつを拝んでから死ぬしかない。そうすればこの夢も覚めるだろう。  
 そういえば、目が覚めた当初から擦り傷は痛かった。  
 夢でも痛んだりするのだろうか。  
 今頃、頬の擦り傷が痛むのが、夢にしてはリアルすぎる。  
 夜風が冷たい。  
 風に揺られて松明が消えかかってきた。  
 台の上でもぞもぞと丸くなったり、足を伸ばしたり、蠢いて数時間。やっと足首の縄が緩んできた。  
 これから片足でも抜けられれば、なんとかこの台の上から逃れられる。  
 動いている間に饅頭が体の上に落ちてきたり、餅の山を崩して体が埋もれたり、多少のアクシデントはあったが。  
 ヌシとやらが現れるまでに、この体勢を脱出しておきたかった。  
 林の間に、月が昇る。  
 ……俺は、瞬きした。  
 月が、ふたつある。  
 ……もう一度目をつぶって。  
 目を開ける。  
 変わらず月はふたつ。  
 ……俺の想像力はこんなに豊かだっただろうか。  
 
 その時、一陣の風が、松明を掻き消した。  
 月明かりに、黒い影。  
 林の中から飛びだして、俺の上へとダイブ。  
「ムゲッ」  
 なんか妙な声が口から漏れ出る。  
 きゅ、急所に入った……。  
 しかもそのまま上に乗っかってる。  
 俺は首を振って、その影から逃れようとした。  
 だが、まったく影は動かない。  
 どっしりと俺の上に腰を下ろし、何かくちゃくちゃと食しているような音が……。  
 上に乗ってるのが何か確かめようにも、いまいちなことに月に雲がかかっている。  
 お、俺も食われる?  
 簀巻きの下から、膝を曲げて、アタックを試みる。  
 が、それを影の片手が制した。  
 あっさりと押さえ込まれる。  
「なんらら、えくろよいえもろらな」  
 影が喋った。  
 女の声だ。  
 明らかに何か口に物を入れて喋っている。  
 ……俺の上に散らばっている食べ物。=餅・饅頭。  
 それを食べに来る奴。=多分ヌシ。  
 ヌシ?  
 これが?  
 この女が?  
 雲から月が顔を出す。  
 月明かりに女の輪郭が浮かび上がる。  
 一見寝癖のように奔放に跳ねた髪。  
 髪と同じ色合いの焦げ茶の耳。  
 日に焼けた素肌。  
 短い着物から伸びた、手足。  
 筋肉質だけど、けして筋肉太りという感じは受けない肢体。  
 むっちりとした太股の感触が、簀巻き越しに、俺の腹筋へ伝わる。  
 下から見つめる俺の顔が、月明かりに照らされたのか、ヌシもこちらを覗き込んでいた。  
 黒々とした瞳。  
 その喉が口に頬張った最後の食べ物を嚥下し終わると、ごくりと動いた。  
 
「……ヒトか?」  
 むにいっと俺の頬をつまんで引っ張る。  
「いりゃい」  
 抗議を示すと、ヌシは残念そうに肩を落とした。  
「これは食えないのう」  
 ええ? そういう理由?  
「里長も妙なものを押し付けよって」  
 饅頭をまた口に放り込み、俺の上から降りる。  
 着地の瞬間、少し台が揺れた。  
 その後、下からごそごそと音がする。  
「ちょっち待って」  
 俺は慌てて声を掛けた。  
「なんじゃ?」  
 ヌシは大儀そうに顔を上げる。  
 鈍い音がした。  
 ……目の前で頭を抱えている。  
 どうやら台の下に頭を突っ込んで、顔を上げる時にぶつけたらしい。  
「ごめん」  
 俺はとりあえず謝った。  
「なんじゃ」  
 ヌシは俺の下に置いてあった瓶を引きずり出し、封を破っている。  
 酒の匂いが周囲に漂った。  
「縄、ほどいてくれませんか」  
 ここは下手に出てみる。  
「なんでじゃ」  
 ああ、瓶を片手で持ち上げてぐびぐびと。  
 やっぱ見た目、他のイノシシ女より若干細目でも、油断は禁物だ。  
「日暮れ前からこうされてていい加減、縛られたところが痛いんです」  
「それは大儀じゃのう」  
 ぐびぐび。  
 零れた酒が口元から喉へと零れて、ちょっと色っぽい。  
「あのう……ヌシさま?」  
 ああ、一気呑みで瓶の半分いってるよ。  
 酒豪だな。  
 
「ぷはぁ……。うむ、良い気分じゃ」  
 ふたつの月を背景に踊りだすヌシ。  
 かなり着物が短い。  
 むっちりした太股からすらりと伸びるふくらはぎ。  
 しまった足首の下は、裸足だ。  
 酒のこぼれた胸元は、盛り上がった双つの丘が寄せられて、すぐ下で帯が締められている。  
 ああやると胸が強調されるなあ。帯の上に乗ってるよ。  
「……さて、ヒトよ。里長はなんといっていた?」  
 ふいにこちらを見据えたヌシに、俺はどぎまぎする。  
 ちょっと前までの邪な考え、見透かされてなきゃいいけど……。  
「俺は捧げ物だそうですけど」  
「捧げ物か……ふむ」  
 ヌシが顎に手をやって考え込む。  
「山から落っこちてきたから、ヌシの物なんだと」  
 俺は里長の言葉を補足した。  
 ヌシが瓶を置く。  
「山から『落ちてきた』……か。では、おまえの身はこのヌシが預かる」  
「はあ、どうも」  
 なんだか俺はこの夢が当分覚めないような気がしてきた。  
 ヌシは、おれに近づくと、まず丁寧に餅と饅頭を仕分ける。それから簀巻きと、縄をほどいてくれた。  
 ようやく自由になった俺は、ぽきぽきと体中を慣らしながらストレッチをする。  
「助かりましたよ」  
 礼を述べると、ヌシは不思議そうに俺を見上げていた。  
 そういえば立つとやはり俺の方が断然背が高い。  
 それでもって、胴体には俺とヌシにあまり差がない。  
 これは……俺が痩せ形、と言うべきか。  
「おまえ……」  
 ヌシが俺を爪先から頭のてっぺんまで舐め回すように見つめて言った。  
「ウドみたいにひょろ長いな」  
 こけた。  
「人を呼ぶのにそりゃないでしょう」  
 ヌシは俺の周りを回って、鼻を突きだし、臭いをかぐ。  
 これ、そういえば他の女達もやっていたような……。  
「ふむ」  
 いきなり、ヌシが俺の背中をぶっ叩いた。  
 俺は痛みにうずくまる。  
「なんですか、いきなり」  
「ウドじゃないな。ゴボウにしておこう」  
 それって、アダナですか。  
「いくぞ、ゴボウ」  
 ヌシがまだ封を開けていない酒瓶を片手でひょいひょい持ち上げ、ふたつほど抱え上げた。  
「ゴボウって……俺そんな名前じゃないですよ」  
 俺の名前は、と言いかけて、無理矢理片手で簀巻きの中に餅と饅頭を包み始めたヌシに慌てる。  
 汚いですってば。  
 かわりに包むのを手伝いながら、問い掛ける。  
「そういえばそちらこそ、どう呼べばいいんです? ヌシって名前じゃないんでしょう?」  
 ヌシは少し悩んでいた。  
「そうだな、ではネコ風に呼ばれるとするか」  
 猫風? 小悪魔とかそんな感じ?  
「ゴシュジンサマと呼べ」  
 はい?  
 俺は顎をあんぐりと開けてしまう。  
 一応、餅と饅頭は土に落とさずに死守した。  
 ご主人様デスカ?  
 そうこうする間に、俺はヌシの姿を見失いそうになった。  
 ここで見失っては今日の宿がなくなってしまう。  
 慌てて後を追いかける。  
「待ってくださいよ、ご主人様」   
 ヌシよりはご主人様の方がわかりやすい。  
 こうして俺は、ご主人様の供物ならぬ下僕となった。  
 
 
ヒト編 壱 (了)  
 
 

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