前へ前へと只走る。
何度も後方を振り向きながら。
「一体なんなのよ此処はッ!」
私の『人間』としての人生はこの言葉で終わり、
私の『ヒト』としての人生はこの言葉から始まった――
見渡せば愴然と広がる穢れ無き純白の雪。
まるで凍っているかの様に聳え立つ木々はそれを纏っていた。
凍える大地に息する者は居らず、ただ存在を否定されていて。
だが、私はそんな場所に居る。
厳密に言うと、私――ではなく、私達、であったが。
私を一心不乱に追いかけてくるそれは。
灰褐色の――犬、ではなくて多分、狼。
その狼は比喩でも何でもなく、私を追っていたのだ。
只、狼は狼でも、私たちの言う狼ではなく、その筋肉隆々とした手足は四足ではなく、二足歩行であって。
それ特有の突き出した口(鼻、と呼ぶべきなのだろうか)からは私が理解できるであろう言葉を吐き出して。
言葉の内容は聞かない。いや、聞けない。
そんな暇なんて無いのだから。
――ハッ、ハッ
動物特有の息遣いが聞こえる。
その声をだしているのは、紛れも無く私だったが。
きつい・・・けど頑張らないと・・・・あの狼に・・・・・。
「―――――――――――!!!」
後方から狼の叫び声が聞こえる。
さすがに距離が開いているためか、やはり内容は聞き取れないが。
でも、その声量と足音から狼がどれだけ私に近づいてきているのかが分かった。
まだ距離はある――多分、結構・・。
このまま走れば大丈夫、逃げ切れる!
いや、根拠は無いんだけどね。
でもそう思わなければ、走らなければ――
あの狼に、喰われてしまう。
「そんなのは絶対に、嫌!」
私はそう叫び、更に足を速めた。
だいたい始まりは何だったのか。
いつもと変わらずに、朝のまだ日が昇る前に起きて。
いつもと変わらずに、まだ回転しない頭を振起し、身支度をして。
いつもと変わらずに、簡単な朝食を作り食べて。
いつもと変わらずに、家を出たはずだった。
でも、目を覚ましたら此処に、異世界にいた。
異世界と私がはっきりと決め付ける理由は2つ。
1つは二足歩行し、人語と思しき言葉を話す狼で。
二つ目はあの双月が――あれ?
余所見したのが悪かったか、雪に足をすくわれて派手に転倒する。
顔から行った。視界を染める、白。
でもこけたからと言って立ち止まるわけにはいかない。
もう限界を迎えている足を、無理矢理に起こす。
速く、遠くへと逃げないとあいつに――――
「やっと捕まえた。」
・・・・・・・・・・・・・追いつかれちゃった。
とか考えてる場合じゃなくて逃げなきゃ!
今すぐに足を動かして遠く、遠くへと。
しかしそう思い前を見据えた瞬間には、もう私は狼の腕の中に収まっていた。
「あうっ。」
いきなりの抱擁に、情けない声がでた。
罵声の1つでも浴びせたくなったが、
狼に抱きしめられているという事実が背筋に恐怖を走らせ、声が出ず。
変わりに口から出る、白い吐息。
がしり、と掴まれたから多分密着状態なのだろう
私たち人間とは違う獣特有のふわふわとした毛が私の服に体温を伝えてくる。
まるで、小動物を保護したかのようにその抱擁は優しくて。
それでも理性がこの狼と離れろと言っているのだが。
正直言うとこの毛皮がとても暖かくて・・・離れられなくなって。
いや、私が逃げたくないとかそんなこと言ってるんじゃなくて!
もう暖かいならこの狼に喰われても良いなんて思ってるわけじゃないんですよ、決して!
まぁ・・・つまり理性は本能に勝てないっていうことですねぇ。
それもそうだ。私の世界での今の季節はまだ夏。
秋を知らせるものなんて何も無かった。寧ろ春の名残がある、そんな初夏だったのに。
もちろん来ている服もそれに合わせた、いかにも涼しげにうっすらと蒼を帯びた半袖の制服で。
唯一救われたのは私の学校の下の服がスカートじゃなかったことかナー・・
いやー・・・・それにしても毛皮って暖かいですよねぇ。
ってそんなこと考えてる場合じゃない!
この状況は、なんていうか激ヤバイですよ!
本能を理性で押さえ込み、なんとか体を動かす。
この狼から逃れる為に、必死に手を振り、足では地面を蹴っている・・・つもりなのに。
手はまるで蝶を捕まえる時の様にジタバタとふれ。
足は地面を蹴る前以前に、宙に浮いている。
理由は簡単で、狼の身長が高すぎるだけ。
あー、やっぱり遠近法とかそんなんじゃなかったんだ・・おかしいとは思ってたんだけどね。
それでも抵抗を止めるわけにはいかない。
このまま捕まっていたら何されるか全く分からない。
そう思うと、再び恐怖が戻ってくる。
自分は何も出来なくて、相手にされるがままの状態が。
相手は逃げる自分を、捕まえるために追いかけてきたという過程が。
そして、自分はその相手に――見たこともない種族に抱きしめられているという事実が。
きっと私は此処でこの狼に・・・
そう思った時だった。
狼の口が、開いたのは。
「大丈夫だよ、何もしないから、ね。」
――――――――――え?
そう言うと狼は私をそっと地面に降ろし、抱きしめる力をより一層強くする。
それに比例して背中に感じる、狼が贈ってくる体温であろう暖かさもだんだんと上がってきて。
「寒いんでしょ?ほらもっと僕の腕の中に・・。」
その狼の猫なで声に、私の体は毛皮ににうずまっていく。
状況とか過程とか事実ということは、どうでもよくなっていって。
考えれることは唯一つ。
なんか・・・もふもふしてて気持ちいい。
何時の間にか抵抗をやめていた。
手はだらしなく垂れ、足は立つ為だけの最低限の力しか出していなかった。
今は只、この暖かさを感じていたい。
背中が暖まってきたのは狼の所為ではなく、私自身が熱くなっているのだろう。
この狼に何かを感じて。
それは此処に来てから今まで求めていた「暖かさ」なのだろう。
だからこんなことされても平気なのだと。
そしてこの狼は、良い『人』なんだと。
心からそう思ったのに。