Feldwebel  
 
 <1>  
 
 オーバル・ブラントは全く生きた心地がしなかった。  
 ヴェルダンやソンム、東部戦線以上に彼はこれ程の絶望を経験した事はない。むしろ今の  
彼は、自分の身に起こっている出来事と比べれば、二度の世界大戦など些事に過ぎなかった。  
 悲しみに耐え切れない、と生体が判断した時、人間の心や記憶は一時的に飛ばされる事が  
あるらしい。今のブラントがまさにその状態にあった。  
 何があっても常に自信と余裕に満ち溢れた灰色の瞳に生気はなく、四十代後半になるとい  
うのに一切の衰えを感じさせない程にまで鍛え込まれた上背のある肉体は弛緩し切っている。  
 しっかりとした足腰で、どんな重装備を身に付けていても戦場を機敏に動き回る彼は誰か  
らも頼りにされる最古参の兵士だが、今はその見る影もなく、力なく項垂れている。  
 破壊され尽くした伯林の街並みは戦前の面影を全く残していない。とは言っても、一九四  
三年十一月十八日と十九日の両日で、独逸民族の首都はその殆どを廃墟にされた。伯林の受  
難の日々は今に始まった事ではない。  
 ブラントは破壊され瓦礫でほぼ埋め尽くされた道路上に放置されたW号戦車の車体側面の  
転輪に背を預け、地面に足を投げ出して座っていた。彼は二人の若い兵士を両脇に抱えてい  
たが、どちらも顔は蝋燭の様に青白く、事切れていた。  
 既に息絶えている二人の兵士はまだ子供といっても差し支えない年齢だ。あどけない容姿  
に与えられた草臥れた軍装が似合わなかった。  
 大き過ぎる軍服に貧弱な火器を与えられ、戦場に送り出された彼らは少年兵だった。まだ  
年の頃は十代半ばで、決して死ぬ為に生まれてきた訳ではない。やりたい事が一杯あっただ  
ろうし、夢だってあった筈だ。なのに彼らは大人達が勝手に始めた戦争で若い命を散らして  
しまった。そして今はこうして、その幼くして天に召された御魂を慰める様に、ブラントが  
その冷たくなった身体を両脇に抱えていた。  
 ヒュルヒュルという榴弾の不吉な飛翔音が聞こえたか思うと、次の瞬間、彼の直ぐ近くに  
落下し、轟音と共に火柱が空高く吹きあがった。  
 大量の土砂と破片が降り注ぎ、軍服の裾が爆風に煽られるが、ブラントは無関心だった。  
その間にも砲弾の嵐は一層強まり、周囲には鉄の雨が降り注いでいた。  
 一体どれぐらい続いたのだろうか。周囲一帯は完全に砲弾で掘り起こされ、焼き尽くされ、  
破壊され尽くしていた。だが彼は全くの無傷だった。目深に被っているヘルメットも山岳帽さ  
えも飛ばされなかった。  
 奇跡、だろうか。それとも単に彼の悪運が強いだけなのかもしれない。やがて煙の向うか  
ら圧倒的な質量を持った鉄の塊が、五月蝿い排気音と履帯の音を響かせてやってきた。  
 ソ連軍のT34中戦車だった。単体の強さはY号戦車ティーガーには劣るが、生身の歩兵  
には途轍もない脅威だ。それがブラントの存在に気付かず瓦礫を踏み拉きながら進んで来る。  
 
 このまま死んだ振りをしていれば彼らは気付かずに過ぎ去ってしまうだろう。だが、ブラ  
ントの身体は鋼鉄の獣の接近を感知すると、今までの虚脱状態から嘘の様に立ち直っていた。  
 絶望のどん底にある彼は死のうと思っていた。その思いは今も変らないが、方法を少しだ  
け変える事にしただけだ。近くに置いてあった三個の三kg爆薬が詰まった二つの工兵用の  
バッグを無造作に手繰り寄せると襷掛けにし、皿型対戦車地雷を胸に抱いて立ち上がった  
 今まで死体だとばかり思っていた独逸兵がむくりと立ち上がると、T34の車体前面の機  
銃が慌てて火を吹いたが、少しばかり遅かった。  
 立ち上がったブラントは既にT34に向って突進していた。機銃弾が掠めるが、今の彼は  
恐怖を微塵も感じていない。顔には出さないが、むしろ狂喜さえしていた。  
 憎むべきは勝算のない戦争を全世界に向けて吹っ掛けたヒトラーだろうか。それとも彼を  
権力の座に押し上げてしまった無能な大衆だろうか。勿論、その大衆の中にはブラント自身  
も含まれている。戦争に駆り出される者、駆り出す者、どちらも被害者であって加害者だ。  
 ヒトラーも加害者でありながら被害者だ。彼も凄惨な第一次大戦を経験した戦争世代の人  
間であり、あの何時終るとも知れない塹壕戦で青春を散らしたのだ。若きアドルフの人生を  
変えたのは墺太利・洪牙利ニ重帝国が起こした戦争だ。そして老いたオーバルと、その妻と  
六人の息子と二人の娘の人生を変えたのも独逸第三帝国が起こした戦争だ。  
 誰が善で、誰が悪だとかが問題なのではない。誰が始め、誰が終らすのかが問題ではない。  
戦争にも問題がある訳ではない。既にこれは人間の長い歴史が実証する様に、自然現象の様  
なものなのだ。避けられないのである。人間が生きる限り、避けられない問題なのである。  
 本当に憎むべきは争わずにはいられない人間の生物としての性(さが)である。だがその  
性がある故に人間は生物として成り立っているのである。  
 この大いなる矛盾が、この老兵を遣る瀬無さの淵に追いやっていた。彼にとってはもう全  
てが如何でも良くなっていた。だから死こそが彼に残された最期の癒しだった。  
 ブラントはT34の車体側面に回り込むと、後部エンジングリルの上に攀じ登った。そし  
て胸に抱いた対戦車地雷の信管を切った。信管がジューッという音を立てて燃焼し始める。  
 あと数秒で爆発するだろう。砲塔ハッチが開いて、戦車長らしきソ連兵が拳銃を片手に顔  
を覗かせた。自分の戦車に攀じ登った不届き者の独逸兵を排除しようというのだろう。  
 だが手遅れだった。彼が顔を覗かせた瞬間、老兵が胸に抱いていた地雷が爆発した。貧弱  
なエンジングリルの上で起こった爆発は、この鉄の怪物を黙らせるには充分過ぎた。  
 爆発はエンジングリルを突き破ってエンジンそのものを破壊した。そして燃料に瞬く間に  
燃え移り、搭載している砲弾をも巻き込んだ。  
 死にたがりの老兵共々、鉄の化物は爆発四散し、廃墟と化した伯林にまた瓦礫が増えた。  
 
<2>  
 
 微かに香る刺激臭。これは、消毒液か何かだろう。  
 深淵に沈んでいたブラントの意識はその匂いによって急速に浮上していった。  
 目覚めたブラントは、見知らぬ部屋で寝かされていた。  
 白い天井、白い壁、白いシーツ、白一色で埋め尽くされた部屋が病院の一室であると気付  
くのにそう掛からなかった。  
 対戦車地雷を抱いて自爆した筈なのに生きているとは、一体自分の悪運はどれだけ強いの  
だろうか。縦しんば生きていたとしても、戦車を破壊するだけの威力を秘めている対戦車地  
雷の爆発に巻き込まれたのだから、手足の一本は確実に吹き飛ぶ筈だ。なのに自分の身体は  
外傷らしい外傷を負ってはいなくて、右腕に点滴が刺されているだけだった。  
 訳が判らなかった。だが、何故、自分が生きているのかという疑問を抱く前に、自分が生  
きているという事実にブラントは絶望していた。  
 全てを終わりにしたかった。なのに終われずにいる。本気で自らの死を願ったのはあれが  
最初で最期だった。薬莢に残った不完全燃焼の炸薬の様に燻っているこの想いを何処にぶつ  
ければ良いのだろうか。  
 ただ呆然と、ブラントは白い天井を見詰めていた。今の彼の魂は肉体から乖離していた。  
だから近付く誰かの気配に気付かなかった。  
「具合は如何かね?」  
 いきなり目の前に現れたのは、犬の顔だった。それも典型的なジャーマン・シェパードだ。  
ブラントは愛犬家で、特に黄褐色と茶褐色のニ枚毛のシェパードが好きだったが、この時の  
彼は全くの無反応だった。  
 ただ、ぼんやりとした目でシェパードの顔を眺めていた。  
「おや、私の顔を見ても驚かないとは……変っているな」  
 そう言ってシェパードの顔は視界外に引っ込んだ。ブラントは何気なくそれを目で追った。  
 ベッドの傍に白衣の男が佇んでいるのが見えた。恐らく医者だろう。しかし、先程のシェパードは  
一体何だろうか。そもそも病院へペットを連れ込むのは禁止されている筈だ。  
 視線を上にずらすと、その医者がかなりの変り者である事が判ると同時に、シェパードの  
謎も解けた。彼は如何いう訳か、シェパードの被り物を頭に被っていた。  
 初めは犬が喋っているのではないかと思ったが、それは単に馬鹿げた錯覚に過ぎなかった。  
犬が言葉を喋る筈がない。ましてや訛りのない、高い教養の片鱗を窺わせる様な完璧な発音  
の独逸語を、犬が喋る筈がないのだ。  
 だがブラントにそう錯覚させるだけ、その医者が被っているシェパードの被り物はよく作  
られていた。毛並みの質感や黒く湿った鼻、瞳の輝きなどは本物そっくりだ。  
「まぁ、落ち着いているのは良い事だ。これが小娘のヒトだったらギャーギャー騒いで、五  
月蝿くてかなわんからね。君が成熟した男のヒトで、診る方としては助かったよ」  
 シェパードの被り物をした医者は、そう言って白い絹の手袋を嵌めた手に持っていたファ  
イルケースを捲り出した。  
「身体の何処かが痛むとか、気分が余り良くなかったりするかね?」  
 簡単な質問をされたので、ブラントは首を横に微かに振る事で答えた。  
「うむ、結構結構。これなら落愕病の可能性も無い……明日には退院出来るな」  
 満足そうに頷き、一頻りカルテに何か書き込むと、シェパードの医者はケースを脇に挟んだ。  
 
「それでは、私はこれで失礼する。何かあったら其処に置いてあるベルを鳴らしてくれ給え」  
 シェパードの医者は足早に病室を立ち去ろうとしたが、ブラントは彼を呼び止めていた。  
「…………待ってくれ」  
 シェパードの医者は立ち止まり、振り返った。勿論、その被り物をした顔からは何の表情も  
読み取れなかった  
「何だね?」  
 一瞬、犬の被り物が怪訝そうな表情をしたのは気の所為だろうか。ブラントは構わず続けた。  
「何故、ジャーマン・シェパードなんだ? 別に被るならば他の犬でも良いだろう?」  
 自分の好きな犬種の被り物をしているこの奇妙な医者に、ブラントは少なからず興味を覚え  
ていた。精巧に作られた犬の被り物をするぐらいならば、彼は犬が好きなのかもしれない。ま  
さか犬という単語を聞いただけでも嫌悪する様な人間でもないだろう。少しは関心がある筈だ。  
「アンタはジャーマン・シェパードが好きなのか?」  
「……やはり君も他のヒトと同様だな」  
 医者は何かに呆れた様子で、『やれやれ』と肩を竦める素振りを見せると、ベッドに引き返  
した。ブラントは何事かと思ったが、彼はベッドの傍で跪いた。  
「触ってみ給え」  
 何を、と聞こうと思ったが、如何やら彼はこの犬の被り物を自慢したい様だ。余りにも精巧  
に作られているので、その出来栄えの素晴らしさを直に触らせる事で教えようというのだろう。  
 やはり彼は犬が好きな様だ。特にジャーマン・シェパードが。  
 ブラントはそっと被り物の長い吻に触れた。毛並みは滑々としていて温かかった。鼻もちゃ  
んと湿っており、健康的な犬の見本の様だった。瞳も綺麗に澄んでいて、年若い犬だと判った。  
髭も綺麗に切り揃えられていて大変上品でよろしい。  
「驚いた……よく出来ているな」  
 余りの出来栄えの良さにブラントは感嘆しながらも被り物を触る手を休めない。一頻り長い  
吻を撫でると、唇を捲り、その下の鋭く尖れた白い牙と桜色の歯茎を確かめた。虫歯は一本も  
ないし、歯周病などの歯茎の病気もない。この被り物を製作するにあたって、如何やら余程優  
れたシェパードを見本にしたのだろう。  
 被り物だけでこれだけの熱意を感じ取れるのだ。この医者は無類のジャーマン・シェパード  
好きと見做して間違いない。首筋まで作られており、其処も柔らかな毛並みに覆われていた。  
「君は私の顔が被り物だと思っているのかね?」  
 医者が言葉を発するのに合わせてシェパードの口が動いた。凄い、としか言い様がない。  
「生憎と私のこの顔は被り物ではない。それが証拠に……」  
 シェパードの口が大きく開いた。上顎と下顎にびっしりと綺麗に生え揃った真っ白な牙、垂  
れ下がる赤い口蓋垂とその置くまで作り込まれているのだな、と思ったが、此処で大きな違和  
感に気付くと、生温かい吐息が顔に吹き掛かった。  
「………これで判ってくれたかな?」  
 医者はすっと立ち上がると、白衣の襟元を正した。ブラントは信じられないといった表情を  
浮かべており、『犬の顔をした医者』はそんな彼の様子を見て満足そうに唇の端を釣り上げた。  
 
「私の名前はランディ・メイジャー。ヒト専門の『獣医』だ。君がジャーマン・シェパードと  
呼ぶこの私の顔は、シュティファニッツ種独特のものだよ。覚えておき給え」  
 ブラントは聞きたい事が山ほどあったが、ランディ・メイジャーと名乗る『犬の顔をした医  
者』は颯爽と長身に纏った白衣を翻して病室から去ろうとした。  
「そうそう。君に一つだけ忠告しておこう。この世界は君らヒトにとっては大変辛いものだ。  
もし、この世界で生活するのが嫌ならば其処の引き出しを開けてみ給え。中には物凄く気持ち  
良く眠れる薬が入っている。それを飲んで寝れば、君は永遠の心地良い眠りを楽しめるだろう」  
 病室の扉を開け、閉める間際にそう言った。そして扉が閉まった。その閉まる音は意外と重  
いものだった。多分、分厚い鉄製の扉なのだろう。人間の目線の高さ辺りに覗き窓らしきもの  
と、下には小さな隙間が設けられていた。其処から食器などを出し入れしたりするに違いない。  
メイジャーが出て直ぐ、鍵の掛かる様な音が聞こえた。  
 ふと、窓辺に目をやった。白いレースのカーテンの向こうには、見るからに頑丈そうな太い  
鉄格子が嵌っているのが見えた。  
 それらからブラントは一つの結論に至った。此処は紛れもない病室だが、刑務所の医療病棟  
か精神に何らかの異常を来たしている患者を隔離する為の特別なものに似ている。  
 生憎と自分には自殺願望があるが、それは身も心も張り裂けんばかりの深い悲しみに襲われ  
たからであって、自分の身に起こった出来事が他の誰かに起これば、必ずその誰かも自分の様  
に死を熱烈に望むと思う。それ程の悲しい出来事があったのだ。断じて自分は精神を病んでい  
る訳ではない。  
 だから此処は精神病患者の為の病室ではない。ならば、負傷した捕虜を収容する為の病院だ  
ろうか。だが連合国のみならず、世界中のどこを探してもあの様な『犬の顔をした』医者がいるとは  
思えない。もしいたとしても、医者になるよりもサーカス団員になっているだろう。  
 考えても答は出るものではなかった。結論を導き出すだけの諸要素が圧倒的に不足している。  
それでは無理だ。アインシュタインだって零から相対性理論を考えついた訳ではない。  
「……何が如何なっているんだ?」  
 ブラントは溜め息をつくと、枕に頭を預け、瞼を閉じた。  
 取り敢えず考えるのは後だ。今は色んな事で何も考えられない。直ぐに彼は微睡み、深い眠  
りに落ちていった。  
 既に彼は先程の奇妙なメイジャーの言葉を忘れ、つい先程まであった死への欲望が薄れてい  
た。それに気が付く事なく、彼の意識は暗闇に霧散していった。  
 それが果たして彼にとっては幸福なのかは誰も判らない。メイジャーの言葉を忘れる事無く、  
素直にベッドの傍にある小さな机の上に置かれている小物入れの引き出しの中から、彼の言葉  
通りの薬を飲んでから眠りに就いた方が良かったのかもしれない。  
 その安らかな永遠の眠りに就く機会を逃した事を、オーバル・ブラントが後悔する日がやが  
て来るかもしれないが、それは彼自身にも、誰にも判らない。  
 

Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!