十二
「あれ、ヒルダのやつは?」
「いや、今しがたトイレに……」
――ぴちゃっ、れるっ、れろろっ。
テラスにあるボックスシート。
幸村をそこに待たせ、クララはトレイに二人分の紅茶を乗せて持って来た。
無論ドリンクバーにあるのは、紅茶だけではない。
種々のコーヒーのブレンド、紅茶の茶葉、さらには日本茶の類いまで、合わせて数十種類の飲料が完備されている。
普通なら、そこからドリンクを注いでくるのは、当然召使いの役目なのだが、クララは、自分自身で選ぶ。
その日の気分で、色々と選択の幅を広げるのが好きだったからだ。
――はぐっ、じゅぷぷぷっ。
「ふ〜ん。ま、いいや。もともとアイツ、邪魔だったしね?」
そう言いながらクララは、幸村に、意味ありげなウインクをする。
「……は、はは……、お嬢様って、ロコツっすね」
「なぁによ、その引きつった笑顔は? ボクとしては、キミと二人でランチを楽しみたかったって言ったら、そんなにおかしいかい?」
――じゅぷっ、じゅぷっ、じゅっくっ。
「たはは……、照れますな御主人様……」
「だぁめだよユキ、ボクの事をゴシュジンサマなんて呼んじゃあ。前にも言ったじゃない、ボク、その呼び名キライなんだよ」
そう言いながらクララはテーブルにトレイを置き、幸村の向かいに座った。
――はむはむっ、ちゅうううううっ。
(あれ……?)
心なしか、彼の顔色が悪い気がする。
妙な汗もかいているようだし、指先も若干震えているようだ。
「どうしたのユキ? 何か気分でも悪いの?」
――ちゅちゅっ、ちゅっ、ちゅっ、……あむっ。
「あっ、いえっ、別にっ!」
「まあ、だったらいいんだけどね。――じゃ、いただこうか?」
「そう、ですね。せっかく淹れていただいたお茶が冷めないうちに」
「じゃ、いっただっきまぁす」
そう言うと、クララは弁当に箸をつけ始めた。
幸村も、購買部で買った焼きそばパンに手をつける。
――ちゅばばばっ、ちゅびびっ。
「ねえねえ、ユキ、さっき窓から見てたんだけどさ、キミの腕って、随分上達したんじゃない?」
「そんな……とんでもありませんよ。まだまだですよ」
「うん、まだまだだよ。このボクに比べれば全然だね」
「それはそれで、ひどいっすね」
幸村は思わず苦笑いする。
――じゅぽぽっ、じゅぷっ、じゅぷっ、……かりっ!
その瞬間、彼の眉間に、何かをこらえるような縦じわが走った。
しかし、クララはそれに気付かなかった。彼女は自分の話に夢中になっていたからだ。
「でも全然って言っても、かなりマシになってることは確かだね。だからさ、後でこのボクが、上達の程を確認してあげよっかな〜〜なんてさ。…いや、かな…?」
上目遣いにクララが幸村を見上げる。が、その瞬間――。
――かりっ、かりっ!
「っはぁっ!」
「ちょっとユキ、どうしたの!? さっきから何か変だよ?」
「……いやっ、そのっ、お嬢様にお相手してもらえるなんて、下手すりゃ大ケガだな、なんて……」
「なぁんだ。だから、そんなに青い顔しちゃってるんだ。大丈夫だよ、何もコロしゃしないからね〜」
「…はっ、はははっ…」
「あれっ、何だよユキ、さっきからパンに全然手を付けてないじゃないか?」
「いや、その、あの、……何か、食欲がわかなくて……」
――れるるるる〜〜〜〜、ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ。
「ふーん、そういや、やっぱり顔色悪いよね。大丈夫?」
そう言うとクララは、自分の額に手を当て、同じように幸村の額にも掌を当てた。
「ん〜〜、熱は無いようだけど…イマイチよく分からないな」
そう言うとクララは、席を立ち、幸村の傍までやってきた。
幸村は相変わらず、顔を真っ赤にして、切なげに何かをこらえる表情をしている。
テーブルクロスに隠された彼の下半身が、ふるふると震えているようだが、クララは当然見ていなかった。
「あの、お嬢様、何を…?」
「決まってるじゃないか。キミのお熱を診るんだよ」
クララは、幸村の後頭部を片手で抑えると、己の額を彼の額に、そっと押し当てた。
「おっ、おじょうさまっ!」
――どぴゅっ、どぴゅぴゅっ! どくん、どくん、どくん、どくん!
――ごくん! ごくん、ごくん、ごくん、ごくん!
「!!!!」
その瞬間、クララはユキに抱き寄せられていた。
「ゆっ、ユキっ!?」
「……じょうさま……おじょうさ……」
彼の心臓が破れんばかりに上下しているのが分かる。
その全身はマラリアのように震え、歯の根が合わず、ガチガチと音がする。
「ユキ、一体どうしたの?」
「…し訳ありません……申し訳ありません……申し訳……くぅっ!」
そのうめき声と同時に、幸村の身体から力が抜けるのがわかった。
クララの背中に回した手を離し、テーブルに突っ伏した幸村は、半ば涙声になっているようだった。
クララにはわけが分からない。さっきまであんなに元気に剣を振り回していたこの男に、一体何が起こったのか。
「ユキ、取り敢えず、今日はもう帰りなさい。キミは今、すっごく疲れてるんだよ」
「すみません……すみません……本当に、すみません……」
「いいさいいさ、たまには早く帰って骨を休めなよ。何なら今晩の“お勤め”もオフにしようか?」
「いえっ、あのっ、そんなっ!」
「うんっ、そうだね、それかいい。じゃ、気をつけて帰るんだよ!」
そう言うと、クララは慰めるような笑顔を残して、テラスを去っていった。
「……お嬢様……」
「んふっ! 本当にいい子ですよねえ、あのお嬢様ったら」
幸村は思わず声のした方を睨みつける。
ボックスシートに座った、彼の下半身を覆うテーブルクロス。
それが、そっとめくり上げられ、そこには、ファスナーから引っ張り出された幸村のペニスと、それに舌を這わす銀髪の女の瞳が、淫蕩な光に輝いていた。