=―<<1-7 : the bell of closing time : 5th day PM 5:00 >>─────────────= 
 
 
 ――――ラーー……ン……    ――――ローー……ン…… 
 
           ――――ラーー……ン……    ――――ローー……ン…… 
 
 
 ふと、鈍い、鈍い重低音が聞こえてくる。 
 
 この街に来た最初の日こそ正体不明で違和感の対象だったけど、 
 もう滞在五日目となれば、いい加減馴染みも深いもの。 
 
 
 ――――ラーー……ン……    ――――ローー……ン…… 
 
           ――――ラーー……ン……    ――――ローー……ン…… 
 
 
 兎の王城の敷地内、大聖堂の鐘楼にて鳴らされる、国で一番大きな鐘の金属音。 
 鐘のくせに「カンコン」とか「カラーンコローン」なんていう生易しい音でなく、 
 もはや何か怪物の唸り声みたいな重低音になってしまっているのが笑いの種で。 
 ……そうしてそれが鳴り終わると、今度は近くの教会のものなのだろう、 
 こちらは澄んだ鐘の音が2つ3つ、やや重なりながらも鳴り響き始めた。 
 …国中に刻の移り変わりを告げる為に。 
 
「あらやだいけない、もうこんな時間」 
 ハッとしたように奥さんが洩らす。 
 今の鐘は……確か午後5時の、『終業の鐘』か。 
 耳の良いウサギ達の国で、その隅々にまで響き渡るこの鐘の音を契機に、 
 人々は今日の仕事をやめて家路につく準備をし始める。 
 子供は友達と別れて家へと走り、主婦(主夫)達は晩御飯の支度に手をつけるのだ。 
 残業や片付けられなかった仕事に追われる人でも、 
 次に鳴り響く7時の『夕餉の鐘』を耳にしては帰り支度をするのが常であり、 
 9時の『就寝の鐘』が鳴る頃には民家の明かりはほぼ一斉に消える。 
 それくらいこの王城の大鐘楼の鐘音は、ウサギの民の生活に深く根ざしていた。 
 
「ごめんなさいね、なんか世間話や余計な話ばかり多くなっちゃって…」 
「い、いえ、そんな事無いです。……気にしてませんから」 
 そうだ、気にしていない。 
 今日聞けた話は、なにせウサギの生活に密着した非常に貴重な生の声だった。 
 あれから15分近く、延々他人が入り込めない世界を作り上げて、 
 人前でいちゃつき続けられた事とかも、それに比べては些細な事だと思う。 
 うん気にしてない。 
 ……これっぽっちも気にしてませんよーだ。 
 
「それより、そろそろ晩御飯の支度の時間ですね。おいとましませんと」 
「ふむ。…良かったら一緒に夕食をご一緒にどうですか?」 
 席を辞しかけて、ご主人の申し出がそれを遮った。 
 ……同時に奥さんには見えないようにこっそりとやってみせる手の動きは、 
 さっき話していた酒の……「一杯引っ掛けて生きませんか」という誘いを表している。 
 気持ちは嬉しいのだが、 
 押しかけの取材記者の身でそこまで厄介になるのは気が引けたし、なにより、 
 
「ご好意は嬉しいんですが、ホテルにクルーを待たせていますんで」 
 
 そうなのだ。 
「あら? お仲間もいらっしゃるんですか?」 
「仲間と言えば仲間ですが、立場上は部下ですね。僕が今回の取材のチーフなので」 
 そんな僕が一人だけ賓客と招かれて食事に預かるなんてのは、 
 上に立つ者としては問題のある行為だと思う。 
 …そもそも夕食は食べてくるだなんて連絡して無いし、心配させちゃうよ。 
 
「でも困ったわぁ。そうするとレシーラ教についてもお話しする予定だったのを、 
私達二人の馴れ初めを話したりで結局お時間を潰しちゃったんですもの」 
 それに関しても、問題ない。 
 レシーラ教は「宗教」だとは言っても、そんな過剰な儀式や強制要素を伴わない、 
 生活の指針や日々のあり方を説くだけの地域密着型宗教だと聞いている。 
 …である以上、普通のウサギの生活態度や『三つに禁忌』に対する考え方を 
 聞けた今回のインタビューで、一般庶民への影響の仕方なんかは大体理解できた。 
 ……『羞恥』を払って前に進み出る『勇気』と、『嫉妬』を否とする『献身』の心。 
「そこら辺は教会の方にも行って込み入ったお話を聞く予定でしたし、 
そんなお気になさらないでください」 
 これも嘘ではない話で、ウサギ式葬儀の特徴である月下火葬やウサギの生死観、 
 (なんでも死んだウサギの魂は火葬の煙を伝って月に帰る、らしい。 
 灰は土に蒔いてお墓は作らない。これは輪廻転生思想があるからだとか) 
 冠婚葬祭のやり方についても、改めて教会で聞く予定を立てていたから平気なのだ。 
 ……平気なのだけど…… 
 
「うん、では、こうしましょう」 
 ふいにご主人の方が、何か思いついたという感じてポンと手を叩く。 
「お詫びの穴埋めと言ってはなんなんですが、 
実はうちの一人目の息子はイナバの近衛騎士団に勤めていましてね」 
「……イナバのコノエキシダン?」 
 耳慣れない単語だ。 
 護衛の“彼女”までつけられた関係上、黒騎士セニア・ディミオン率いる 
 アリアンロッドの虎の子、アトシャーマ魔法騎士団については 
 僕の方でもそれとなく聞き込みで情報を集めていたんだけど。 
 ……イナバ。イナバか。 
「ええ、それで明日はほら、休日前の午前勤務の日ですから。 
帰ってきて家族四人で昼食を取る事になっているんです」 
 にこやかに良き家庭の夫そのものなほがらかさを見せるご主人に対して、 
 僕は表向きはあいまいな表情を取りながらも、 
 その裏では怜悧と言えるくらいに頭をフル回転させて利害を考えている。 
 記者として、仕事のうえで、それが益であるか、害であるか。 
 
「ウサギ式の昼食もご馳走いたしますから、是非ともご同席願いますよ」 
「いや、ですがそんな家族水入らずの場に自分が……」 
「そこをなんとか」 
 ――『表の月』、今の王家であるアリアンロッド家に関してなら 
 (深く立ち入った情報はともかく)それなりに信頼度の高い情報が公開されている。 
 まがりなりにもウサギの国の統治者、名代なんだからそれも当然、 
 【二人の魔女】と【十三人の姫君】についての情報も、 
 (まぁこの国の国民なら当然知ってるレベルの範囲内で)手に入れる事ができた。 
 
 ……ただ『裏の月』、もう片方の【魔女】の家系であるイナバ家に関しては、 
 その『裏』という文字が示すように公式の場を退いて隠遁、 
 国政の裏方に徹しているらしいせいもあって、なかなか正確な情報が入手し辛い。 
 噂も聞いたが、どうも公式の情報が出てない分人によって声に差がある。 
 ウサギの有力者と言えば「アリアンロッドとイナバ」という位他国では有名なのに、 
 ここまで集められる情報に差があるのは、僕としてもちょっといただけない。 
 
 イナバの近衛騎士団……って事は、つまりイナバ家の私設警護団か。 
 これは……願っても無いチャンスかもしれないし、 
「しかしですね、僕はその、あくまで異邦人の部外者という身ですしね」 
「いいんですよいいんです! それだからお話も弾むんじゃあないですか!」 
 ……何より、ここまで薦められたら。 
 
 目上の者が目下の者を自分の家のパーティーに招待した場合、 
 基本的に一度目は丁重に断るのがイヌの国では礼儀正しいとされている。 
 それでもなお誘われた場合(二度目)、親しい間柄であれば喜んで受け、 
 そうして三度目まで誘われたら、これはもう特別な事情が無い限り受けないとダメ。 
 なぜならそこまで誘われて尚断るのは、相手の面子を潰す事になるからだ。 
 『三顧の礼を施され、尚断るはそれこそ非礼』ってわけだね。 
 
「……そこまで言われては。では謹んでお受けさしていただきます」 
「わぁ良かった♪」 
「それじゃあ明日の昼時の鐘(=11時)が鳴る前辺りまでに来てくだされば」 
 丁重に礼して受けると、まるで子供のようにはしゃいでお二人が喜ぶ。 
 そういうのを見ていると、仕事の都合で断るか受けるかを考えていた 
 自分の酷薄さにちょっと心がチクリとも痛むんだけど、 
 でもアトシャーマの一般家庭の昼食風景についてはそういえば調べていなかったし、 
 ひょっとするとかなり実のある収穫になるんじゃないかな。 
 ……教会に関してはアポがまだなんで、 
 明日の午後でも明後日の午前でも都合がつくじゃないかと適当に言い訳もする。 
 ……決して食い物に釣られたわけじゃあない。 
 
「うふふふ、やっぱり他国の人とお話しすると新鮮ですもんね」 
「ははは、ウサギ同士の場合と違ってやっぱり反応が初々しくていいからねっ」 
 
 …………。 
 …あるいは「単にノロケ相手に飢えてるだけなんじゃ」と穿った見方も 
 してしまったけれど、まぁそれはそれ。 
 
 ――ここまで好意的に歓待されるのは、やっぱり珍しい。 
 一年の半分をあちこち飛び回る身の上、色々な国へも取材に行ったけど、 
 でも機械嫌いの国、ネコが嫌いな国、イヌが嫌いな国、余所者に排他的な国。 
 『テレビのドキュメンタリー番組のための取材です』なんて名刺を出しても、 
 当然理解してもらえない事が多く、 
 中には間諜やスパイだと疑われ捕まってしまった事さえ2,3度あった。 
 ……まぁこんな撮影や記録の為のいかにも怪しい機械類を 
 ごてごてと携えてあちこちで質問とかしてればそれも当然なのかもしれないけど、 
 それでもやっぱり敵意の目、警戒の目、疑りの目の連続は辛い。 
 特に閉鎖的な土地なんかでは、どこの家を訪ねて行っても戸口で追い返され、 
 酷い時には出て行けと落書きをされたり石を投げられる事さえあるのだ。 
 それに比べてのこのご夫婦の親切な応対と来たら、なんて恵まれている事か。 
 
(……むしろノロケを聞くくらい、ぶしつけの異邦人として当然の義務だよな) 
 そう思いながら、僕はコートを羽織ってマフラーを巻き、カバンを手に取る。 
 
 そうして玄関まで見送ろうとする夫婦の申し出を丁寧に断って、 
 そのまま暖かな居間を後にし…… 
 
 
 
=―<<1-8 : knights of the Arianrhod : 5th day PM 5:03 >>────────────= 
 
 
 
 ……青年が玄関まで来ると、珍妙な光景がそこにあった。 
 
「すー」 
「…………」 
 
 土間になっている部分に一つ、 
 下足入れに寄り掛かるようにして置かれた背もたれのない丸椅子に一人、 
 黒い騎士装束に身を包んだ黒ウサギの女の子が一羽。 
 
 国内総暖房国家のアトシャーマとは言え、市街地の外気温は一桁ないし零下。 
 家の中とは言え、玄関や廊下にまでは当然屋内暖房が行き届くべくもない。 
 刺すまではいかずとも、肌に染み入るような寒さ。 
「すー」 
 だというのにこのウサギの少女は寒さを気にするわけでもなくぐっすりと寝こけ、 
 時々ぐらぐらとバランスを崩しそうになる身体を 
 杖代わりについた鞘入りの騎士剣でもって器用にバランスを取っていた。 
 …つまりバランスを取りつつ、座って熟睡。 
(……器用だなぁ……) 
 感嘆と呆れ、…そして多少の罪悪感が混じった心で青年はそう思う。 
 
 彼女は、正規手続きを踏んでの外国人滞留者である彼に対してつけられた、 
 アトシャーマ魔法騎士団派遣の警護役である。 
 警護役と言っても、護衛や身辺警護というのはあくまで目的の半分で、 
 残りのもう半分は彼が不審な行動や犯罪行為に及んだ時の監視役 
 というのが正しいのではないかと、当の怪しまれる本人は考えている。 
 
 そののん気さを平和ボケと揶揄される事も多いウサギの国だが、 
 流石にテロや犯罪行為、他国のスパイ行為に関して全くの無防備というわけでも 
 ないらしく、要警戒人物に対しては最低限の監視や抑制要員をつけてくる。 
 「テレビ番組作成のための撮影取材」という名目で 
 アトシャーマに入国した彼らのチームに対してもそれらはきっちり働いたようで、 
 猫井TVの主任記者であり今回の撮影チームのリーダーである彼と、 
 もう一人副リーダーに相当するネコの女性主任記者に対しての計二人、 
 外出に際しての魔法騎士団からの監視要員がつけられたのだった。 
 
 ……もっとも。 
「くー」 
「…………」 
 そこじゃ寒いだろうからと一緒に居間までついて来た方が、という 
 彼の申し出を顔を真っ赤にして断り、 
 自分は騎士であるからと警戒警護の目的でこうやって玄関に陣取ったはいいが、 
 いざ戻って来てみれば眠りこけている彼女を見ては、 
 どうも監視役というか、身辺警護役としてすら有能な騎士には見受けられない。 
 かくんかくん動く頭の、朱色の唇からつつっ、と一筋涎まで垂れて。 
 
 ――というか、大丈夫なのか魔法騎士団?、とも。 
 それが目的では無いからこそ、実際彼もしないのだけれど、 
 でもこんな調子ではそれこそ相手が悪意を持って出し抜こうとしたり、 
 ちょっとした策謀を巡らせて相手の目を誤魔化そうとしたら、 
 すぐに引っかかって監視の意味もなくなってしまうんじゃないかと考えてしまう。 
 
 そもそもにして、どこか抜けてる感じがする頼りのない子である。 
 むしろ、監視相手が意図的に尾行をまこうとしたら 
 すぐにターゲットを見失ってオロオロしてしまいそうなトロ臭さが凄い不安だ。 
 それが立場逆転だとは思うのだがどうにも彼を心配性にさせて…… 
 ……同時にイヌであるが故の保護欲、奉仕欲を喚起させる。 
 
 
「ほら、もう終わったから。こんな所で寝てると風邪を引くよ?」 
「んん……」 
 土間に降りてブーツを履いた後、なるべく優しくぺちぺちと頬を叩く。 
 イヌに限らずほとんどの種族にとっての女性がそうなよう、 
 彼女の頬もまた無骨で硬質・毛むくじゃらである男性のそれとは違い、 
 まるで餅かマシュマロのように柔らかだった。 
 …ツメを立てたなら、すぐに傷ついて跡が残ってしまいそうな程に。 
 
「ん…う…?…………………!!!」 
 叩かれて、ぼんやりと夢見心地、焦点が定まらず虚空を泳いでいた視線が、 
 それでも腐っても訓練を受けた騎士ということか、 
 刹那急速に意志の色を取り戻し、驚愕を伴って瞳孔を収縮させ。 
 
 ――ガタタンッ!! 
 ウサギの強靭な足腰を遺憾なく発揮して椅子から立ち上がったその身体は。 
 
 
 ――ゴッ 
 
「ぐおっ!?」 
「あうぅっ」 
 突っ込むべくして、屈み込んでいた彼の突き出た顎にミサイルが如く突っ込んだ。 
 
 
 
「あっ、あのっ、あのっ、あのっ!!」 
 頭部は耳の間に走るズキズキとした鈍痛に涙目で頭を抱えながら。 
「す、すみま、すみ、すみません、すみま――」 
 消え入りそうなか細い声で、おたおたと可哀想なくらい取り乱す少女に。 
 
「……い、いや……ひひんだ、いいんだ、うん……」 
 より深刻なダメージを受けたはずの彼の方が、どういうわけか冷静に対応。 
 ていうか、よりにもよってイヌの弱点であるその尖がった鼻先に当たったので、 
 猛烈に痛い。品の無い言い方をすると「もうすんげぇ痛ぇ」のだが、 
 でもここまで相手にうろたえられると逆にこっちが悲鳴ものたうちもできない、 
 脳天に突き抜けるような痛みの中で紳士を心がけるより他なかった。 
 
「で、ですがっ、ですがっ! ですけど、でも……」 
「……それより、もう用事は済んだから……は、早く外に出よう」 
「……!! は、はいっ!」 
 促されて、痛みにしょげていた耳をピンと背筋と同じく伸ばして見せると、 
 ウサギの少女騎士はオタオタと周囲を見回して―― 
 ――気がつけば踏んづけていた騎士剣を拾い上げると、やおら腰へと差し直した。 
 
 ……騎士にとっての剣とは、場合によっては命よりも大切なものだったりとか 
 するという話も聞いた気がするのだが、このぞんざいな扱いはハテどうなんだろう? 
 
 いそいそと身だしなみの緩みを整えている彼女を傍に、 
 片方の手では鼻を押さえつつも、もう片方で扉を開けてエスコートする彼。 
 …普通、幾ら相手が国賓や公賓ではない一般人だからと言っても、 
 こういう場合はまず警護役の人間の方が率先して先に立ち、 
 護衛対象のためにドアや道などを開けてみせるものなのでもあるが。 
 …顔を真っ赤にしながら慌てて開けてもらったドアを潜る少女を見る限りでは、 
 あまりそういった細かい事を気にするのは明らかに無理であるらしかった。 
 
「…………」 
 ついでに倒れてしまった丸椅子やら蹴散らされてしまった靴などを直して、 
 然る後に玄関を出て扉を閉める客分であり警護対象のはずであるイヌの男性。 
 嫌がる様子すらなく無意識レベルでやってるのが、別の意味で少し悲哀。 
 なんともちぐはくな光景だったが、 
 これが『種族が違う』という事がもたらす、この世界故の風景の一つでもあった。 
 
 
 
=―<<1-9 : a night view in : 5th day PM 5:08 >>────────────────= 
 
 
 まだ5時過ぎだというのに空はすっかり真っ暗。 
 これが夏の間なら白夜現象によって薄暗くも白じんだ空が広がるのだろうが、 
 秋分を過ぎて秋も深まりつつある今の時期は、急速に夜が増える時分。 
 長い長いといわれる北国の夏の昼間が、見る間に削られ夜に侵蝕されていく、 
 ちょうどその最中に位置する時節である。 
 
 早過ぎる夜の帳を照らし上げるのは、大通りの両脇に位置した店々の明かり。 
 オイルランプや魔洸灯、明滅するネオンの明かりであって、 
 あるいはせいぜい早歩き程度の速さでもって、 
 ゆっくりとレールの上を走っていく小型の路面電車の照明だった。 
 
 ネコの国の積極的な売り込みによる技術導入の結果は、 
 さながらそこだけ見ればシュバルツカッツェの夜の町並みを連想させるが、 
 けれど決定的に違ったのは、先刻も示唆されたその静穏。 
 不夜城、とも呼ばれる程の日の沈まぬシュバルツカッツェの繁華街とは違って、 
 この街はとにかく静かで、穏やかで、幻想的だ。 
 冷え冷えとした夜気を切り裂くのは、 
 通りに面した商店から聞こえてくる音楽や、 
 澄んだ空気に響く路面電車のチンチンという静かなベル音だけ。 
 
 行き交う雑踏は賑やかで、常に喧騒と活気に満ち溢れるネコのそれと違い、 
 この街の往来は、帰宅ラッシュの時間であっても静かそのもの。 
 行き交うウサギの数自体は多いのだが、誰もが黙々と道を通り過ぎていく。 
 気候操作の効果を持つ、アトシャーマの代名詞たる国内総暖房魔法陣も、 
 でも氷点下10〜20度の暴風地帯を辛うじて人が住める気候に変えるに過ぎず、 
 口を開けば乾燥した冷気が口唇を焼き、吐き出す息は目に見えて真白い。 
 自然、誰もが口に巻いたマフラーをずり上げて口の部分を多い、 
 少しでも肌の露出を少なくしようと帽子に耳掛けで武装する。 
 
 黙々と行き交う人の群れ。 
 ……ただ、それでもこの街が陰鬱な空気を纏わないのは。 
 訪れた人間が、冷たい印象を抱かないのは。 
 
 
 
「……『譲り合い』、『分け合い』、か…」 
 ポツリと呟いた言葉。 
「……?」 
「…あ、いや、何でもないんだ」 
 背後から向けられた不思議そうな視線に、 
 僕は慌てて呟いてしまった独り言を打ち消した。 
 
 パッと見目に付くのは、 
 通りの両側に並んだ石造り、あるいは赤レンガ造りの小洒落た建物の数々。 
 あるいはそんな中にやや異彩ながらも際立って目立つ、 
 ネコの国の魔洸燈や魔洸ネオンといった明るい照明の数々だ。 
 ……『街の中心部ほど気温が低い』という旦那さんの言葉は正しいようで、 
 いつの間にか辺りにはちらちらと粉雪が舞い始め、 
 そして街の外縁部に比べると建築物にも歴史の重みを感じさせるような、 
 古ぼけて古風のものが多くなり始める。 
 外側の新興住宅街にあったような緑の街路樹も、流石にこの辺まで来ると無い。 
 あるのは寒い地方でも育っていける、 
 ある種のやや黄色がかった背の低い植え込みぐらいなもの。 
 ちらちらと頼りなく落ちる細雪が、街路の魔洸の光に反射してとても綺麗で―― 
 
「…………」 
「……?」 
 
 だけど手をついた建物の壁。 
 一見目立たずなんの変哲もないそれにしかと目を凝らしてよく見てみると。 
 幾つもの不思議な紋様。 
 幾何学的な線。 
 建物の壁だけじゃない。 
 歩道にも。 
 馬車道にも。 
 屋根にも。植え込みの石段にも。路地裏にまで。 
 びっしりと刻み込まれた刻印と、そこに流し込まれた銀とも水銀ともつかない金属。 
 おそらくは刻んだ印が雨風による侵蝕や風化を受けるのを防ぐと同時に、 
 魔力の伝達を良くするためのものなのだろうが。 
 
 模様や線の意味は分からない。 
 ウサギの魔法は大陸各国の魔法体系の中でも特に難解な事で有名で、 
 中退したとは言え犬国の高等魔導院まで行った僕にとっても人知及ばぬ領域だ。 
 領域だが、でもこれが魔法的な意味合いを持つルーンだというのは察しがつく。 
 ルーン。刻印。物に文字や模様を刻み記す方式での魔法の顕現。 
 
 見回せば、そのルーンがそこら中に走っている。 
 至る所に走っているというのはさっきも言ったけど、でも真に驚愕すべきなのは、 
 それが道路から道路へ、家から家へ、店から店へ――…… 
 ……――他人の家から他人の店へ、公共の道路から私人の店舗にまで、 
 途切れる事なく跨って、普通に連結し、一つの魔法式を作り上げているという事実。 
 
 
――何せウサギ全国民の、種族ぐるみ、国挙げての一大プロジェクトでしたから。 
――『良いもの』なら喜んで皆と、分け合い、共有しあうのがウサギの常。 
――『恋』のように甘くて素晴らしい蜜は、皆で分け合ってこその美味しさでしょう? 
 
 
 ウサギの国の不動産に関するちょっと変わった法律に、 
 勝手に不動産を売り買いできない、 
 勝手に建物を建てたり壊したり、改築増築ができないというものがある。 
 貸すか、借りるか、譲るか、譲られるか。 
 都市計画および建築計画は全て王家――アリアンロッド本家の一手に任され、 
 たとえネコの商人であろうと望む土地に望む建物は建てられない、 
 既に王家が建てた建物の中から希望に適合する物件を見つけるか、 
 あるいは既にある物件に限って、前の持ち主から譲り受けるしかないんだという。 
 おまけに勝手に建物を改修する事は許されず、 
 分譲形式で『購入』したはずなのに『補修費』という名目の家賃を王家に取られると、 
 そう一昨日取材したネコの商店経営者がぼやいていたのを思いだした。 
 
 譲り合いをよしとするウサギが、どうしてこんな、奇妙なことをするのか? 
 なぜ勝手に建物を壊したり、土地を完全に私有したりしてはいけないのか? 
 建物の改修や改築すら許されず、『補修費』なんてものが取られるのか? 
 
「…眩暈がするな……」 
 
 そう、眩暈がしてくる。 
 『アトシャーマという国は、国自体が一つの魔法陣』 
 そう聞いて、でもその意味は、 
 この都市国家がこの極寒の気候に適合する為に気候操作の魔法陣を用い、 
 それを敷いた上に家や道路を建ててきたからと、 
 そういう風につい数日前まで僕も考えていた、そう認識していた。 
 『アトシャーマは、大きな魔法陣の上に建ってる国』だと。 
 
 ……でも、違った。 
 
――分け合う、助け合うという事 
――過酷な環境に囲まれての都市国家という特殊な立地条件 
――皆で協力しないと、助け合わないと暮らしていけない 
――物的資源に乏しく、限りある敷地は有効に使わなければいけないから 
――仲良し、友愛、共有 
――共有共有共有共有共有、文化の共有、社会の共有、人の心の壁の撤廃 
――家族にあっては財産を共有し、友達同時での互助や援助も盛んである 
――貴重な財産は、皆で仲良く…… 
 
「王城も……教会も……」 
 ホテルも、商店も、名家の家も、庶民の家も、迎賓館や他国の大使館ですら。 
「道路や……路地、上下水道までか?」 
 全部、全部、全部全部全部全部全部全部全部全部全部。 
 
 クルーの一人が買ってきた、地図を見た時からおかしいと思ってたんだ。 
 でもこんな。 
 こんな有り得ない、気違いじみた、ここまでの大それた事。 
 風水とか、ラッキーカラーとか、これに比べたら全然子供騙しの児戯に等しい。 
 
 全てが魔法的に意味がある配置だ。 
 
 あの背の高い塔が特徴の教会が、あそこにああして立っているのも。 
 あの道路があんな風に走ってるのも、その下を上水道があんな風に走ってるのも。 
 あの大きな建物、あの小さな建物、あの三角屋根の建物、あの四角い建物、 
 あの赤い色の建物、あの黄色い色の建物、建物の高さ、道路の幅に至るまで。 
 
 全てが魔法的に意味がある配置、全てが『記号』で、『模様』で、『刻印』だ。 
 そしてそんな『記号』の一つ一つに、更に無数の『魔法式』が刻み込まれている。 
 煉瓦や石組みの継ぎ目み見せかけて、銀色の線が走っている。 
 
 『魔法陣の上に建っている』んじゃない、『この街自体が一つの魔法陣』なんだ。 
 土地だけでなく、建物や道路、各種公共設備に、地下の上下水道まで含めて全て。 
 小は中に内包され、中は大に内包され、大は特大に内包され。 
 ムーンストーン城という中枢(コア)に相当する大魔法陣を基点としての、 
 大小無数の魔法陣が多方連結した、何層にも渡る多重複合立体魔法陣。 
 万で千を。千で百を。百で十を。十で一に。 
 世界最大の都市国家は、けれど同時に世界最大の魔法陣国家だった。 
 冗談なんじゃと笑い飛ばしたくなるが、 
 けれど本当、正真正銘、半径20km近くにもなる、桁違いとも呼べる大きさの。 
 
「…………」 
 
 …今でこそ、魔洸燈の明かりやネオンの眩しさに勝っているから分からないが。 
 でも夜も12時を過ぎた頃、ほとんどの街の明かりが消えた後、 
 この街は深夜だというのに光り輝く。 
 それこそ薄ぼんやりと、1〜2m先は闇、せいぜい自分の手元足元が確認できる程度の 
 光ではあるものの、しかし緑とも青ともつかない淡い蛍光の色にだ。 
 ウサギが尊ぶ月の光を受け止めて、 
 魔法式に伝導された魔力が励起、燐光現象を引き起こす。 
 そんな街中――国中を循環する膨大な魔力の照り返しを受けて、 
 月光に、魔力に、ムーンストーンの王城の白い外壁は、 
 今夜も青とも緑ともつかない暗緑色の光を帯びて神秘的に輝くのだろう。 
 
 馬鹿馬鹿しくなるほどの、スケールの大きな話。 
 都市建設に風水とか縁起の良し悪しとかの魔法的な要素が用いられる事自体は 
 別に珍しくも無い、大都市を作る際には普通によくある話だけれど、 
 でもせいぜい方角や地形的な良し悪しに留まる程度なのが常、 
 ここまで厳格かつ厳密に、本式正確の魔法陣に街を仕立て上げるなんて――… 
 
 
「――くしゅんっ!」 
 
 
 …――唐突に思考を遮ったのは、そんな可愛らしいくしゃみの音と、 
 その後に続く、「ずびびー」という間の抜けた鼻を啜り上げる音だった。 
 
 ……音のした方向を見やったら、 
 件のウサギの少女騎士がぷるぷるしながら何をするでもなく立ち尽くしてた。 
 黒い瞳に黒髪と黒耳、そして黒を基調とした騎士団の礼装。 
 ……なんでも彼女の上司に当たる人物、 
 敬愛する『あの』黒騎士セニア・ディミオンを真似ての装束なのだそうだけど、 
 いかんせん『色』だけは似ていても『容姿』は別物。 
 
 可哀想だがちんまい、ちっこい、ボディも貧相、 
 どこか間の抜けた可愛らしい容姿は、お世辞にも凛々しいとは言いがたく、 
 ウサギにあって『オオカミのような』『暴君(タイラント)』とも呼ばれるあの黒騎士とは、 
 比べようも無いほど似ても似つかぬ、どうしようもないおトボケ騎士。 
 …いや、うん、僕自身酷い言い草だなって思うけど、 
 ……でもホント騎士に向いてないよこの子。 
 素直に実家帰って親の稼業でも継いだ方がいいんじゃない 
 
「…あ? ……え? …ずびっ、ぐしゅ」 
 ようやく僕の注意が自分の方に向いたのに気がついたのか、 
 目をぱちぱちしながら鼻水を啜り、 
「……ああ、いえっ! おかまいなくっ! さぁどうぞどうぞ!」 
 ……何が『おかまいなく』なんだか『どうぞ』なんだか知らないが、 
 おもむろに『どうぞどうぞ』のモーションをした後、 
 『自分は気にしてませんから』とばかりに大またでちょこんと道の壁際に寄り、 
 両手で身体を抱きかかえながら直立不動で立ち続ける。 
 ……顔を真っ赤に、耳までぷるぷる震えながら。 
 
 と。 
 
 ずびび。と一際大きく鼻を啜り上げた後、ふいに体中をタッチし始める彼女。 
 ……いや、タッチというか、ポケットの中をまさぐったり胸当ての中を覗いたり、 
 終いには傍から見ると奇怪な踊りとしか見えない動作で全身をバタバタと。 
「…………」 
 ため息をついて、懐からハンカチを取り出す。 
 そうして折り目を広げて片手に持つと、 
 ちょいちょいともう片方の手で奇怪な動作を繰り返す彼女を手招きし。 
「…あ゙。…ず、ずびばぜん」 
 そうしてちょこちょこと近づいて来た少女が、おもむろに僕のハンカチに顔を埋めた。 
 
 たちまち響くのは『ヂーン!』という炸裂音。 
 そうして僕はというと、そんな彼女の姿が通りを行き交う人々からは見えないよう、 
 こういう時こそ無駄に大きな身体を生かして彼女の姿を隠す事を忘れない。 
 ううん、紳士だ。 
 これこそ紳士のあるべき姿。 
 紳士。 
 紳士。 
 ……紳士、……だけど。 
 
(…ん? あれ?) 
 ふと、何かが疑問に引っかかる。 
 右手の先を見れば、ぐりぐりと顔を押し付けるようにして僕の手の中のハンカチに 
 鼻水を搾り出す彼女の姿と、それによりかかって来る負荷を支えてやる僕の姿。 
 実に紳士的な対応のはずだが、心のどこかで何かが引っかかるのだ。 
 …例えば、『別にここまでする必要は無かったんじゃないのか』、とか。 
 『失恋を慰めるわけでもなし、ハンカチを渡すだけで済んだんじゃないのか』、とか。 
 …そういう事も考えてしまったのだが、 
 でもそれも彼女のあまりにも見事な鼻のかみっぷりを見ていると 
 次第にどうでも良くなって来てしまう。 
 ……うん、というか、これ以上ないってくらいの見事な鼻のかみっぷりだ。 
 『ずびびずびぢーん』という爆音は寒気を切り裂いて響き渡り、 
 ハンカチの中に広がるのはサファイア色の青っぱな。 
 思わず惚れ惚れもしてしまう。 
 漢の中の漢と言わんばかりな、惚れてしまいそうなくらいの兄貴噛み。 
 
 …………。 
 …何を言ってるんだ僕は。 
 
「はひ、はひ…」 
 やがて鼻の頭を真っ赤にするまで鼻をかみ終わった彼女が。 
「ども、ありがとごじました!!」 
 びしり、と、どこで覚えたのかイヌの国の軍隊形式の敬礼をしてみせる。 
「……いやぁ」 
 どうしてなのか激しい脱力感に包まれて、 
 僕はベトベトのズルズルになったハンカチを綺麗に畳み直してポケットにしまった。 
 
 ……もう少しこの興味深くも驚嘆すべき魔法陣都市アトシャーマに対して 
 畏怖と敬意を抱いていても良かったのだけれど、 
 どういうわけかその、なんかもう、そんな気が起こらなくなってしまう。 
 ……まぁどうせ、魔法の業だという事は分かっても、 
 それが何の魔法陣かまでは分からない以上、僕みたいなのが眺めてたって 
 何の得があるわけでもないんだけどさ。 
 
 ……それに比べれば、イヌの国の軍隊での敬礼は『右手』でやるのが普通なのに、 
 してやったりのご満悦顔で『左手』でやってる彼女にその事を注意してやるべきか、 
 そっちの方がまだ今の僕にとっての大いなる難問になっていた。 
 
 困惑しながら彼女を見て――…… 
 
 ……――でもふと気がつく。 
 
 魔法騎士団の礼装を纏う彼女は、 
 どう見ても行き交う他の人々よりも薄手の寒々しい出で立ちじゃないだろうか? 
 礼装自体がこの街仕様の厚手で保温性の高いものだとは言え、 
 それでも上からコートや耳当てをつけているわけでもないし、 
 最低限に留められているとはいえの胸当てや肩当て肘当て脛当て、 
 騎士剣の鞘といった金属部分は外気を吸って容赦なく冷え冷えと凍えきっている。 
 手袋に至っては剣が握り易いように指先が出た、革製の薄く頼りのないものだ。 
 
「…そんな格好で、寒くないのかい?」 
 周りを見渡せば、行き交う男女の誰もが薄手のロングコートを5枚も6枚も羽織り、 
 あるいは保温性のよさそうなポンチョを着こんで厚着している。 
 耳掛けやマフラー、暖かそうな毛糸の手袋なんかは誰もが例外なしの常備だ。 
「え? いえ! 大丈夫ですよ、お仕事ですから! …すん」 
 大げさに両手を振って大丈夫と……言う割にはまた鼻の奥を鳴らしている。 
 …このままじゃまた青っぱなを垂らすのも時間の問題じゃないかな? 
「そもそも魔法騎士団の修練場は、広いしお城の中にあるしで暖房がなかなか 
効きませんからいっつも寒くって、お陰で私、寒いのにはもう慣れっこで……。 
あっ、いえっ! 別にセニア様が酷いとかフェイ様がケチだとかそのような事はっ!」 
 その上、 
 例によってぷるぷる震えながらニコニコとそう言う彼女を見るに及び。 
 
「……ひゃっ?」 
 いたたまれなくなって、思わず僕の首にかかっていたマフラーを取ると 
 そのまま彼女の首へと巻いてあげていた。 
「あ、あのっ?! …い、いけま、ダメです! わたしは、これはお仕事で――…」 
「仕事でも、寒いものは寒いさ」 
 ぐるぐると二回三回巻いてあげて、 
 最後に赤くなった鼻を隠すようにしてマフラーを掛ける。 
「それに僕にはご覧の通り、うっとおしいくらいの毛があるからね」 
 キザかな、とも思ったけど。 
 でも僕らイヌの男が、とりわけ慧芒種の中でも特に体毛の長い僕みたいな男が 
 彼女ら女の子と比べて遥かに寒さに強いというのは本当だ。 
 ……まぁ首筋がスースーして正直全然寒くないってのは真っ赤に嘘にしても、 
 とにかく素肌の出た彼女の方にこそこのマフラーが相応しいのは事実。 
 
「さて、後は……」 
「きゃあ!?」 
 彼女の指が剥き出しの手を両手で包んで、きょろきょろと辺りを見回す。 
 するとちょうどいい具合に、通りの四軒ほど向こうの店先で「ちょうどいいもの」が 
 売られているのが目に入った。 
「あ、あのっ、あのっ!?!?」 
 ビックリするくらいの冷たくかじかんでしまった彼女の手を握って、 
 ここは多少強引に手を引かせて貰う。 
 …仕事上の経験則、彼女みたいな性格の子はこちらがリードしてあげない限り 
 自分から何かを要求するという事をしないのは分かり切っていたからね。 
 
 
「親父さん、タイヤキ3ヶ貰えるかな?」 
「へい毎度!」 
 威勢良く答えたキジネコの親父さんが、餡子を乗せたタイヤキプレートをひっくり返す。 
「おいちゃんついでにタコ焼きも一箱買っていかないかい? 
隣のカノジョの分も爪楊枝二本つけて、なんならマヨネーズオマケするよ!?」 
「ははは…折角だけど、ご飯前ですし遠慮しておきます」 
 さりげなく売り込みを忘れない親父さんのヨイショは、もう慣れたもので右から左へ。 
 これが普通のイヌやウサギだったら、ついつい乗せられて買っちゃうのだろうが、 
 生憎と僕は猫井の社員で、おまけに『あの』局長にもう20年近く鍛えられてる身だ。 
 親父さんには悪いけど、相手が悪いと言うしかない。 
 
 …しかし、猫の王都でのタイヤキ大ブレイクの特集を組んだのは 
 ほんのつい最近の事なのに。 
 もうこんな北の外れ、それも半閉鎖国家であるウサギの国でタイヤキ屋が 
 開店してるあたり、つくづくネコの商魂たくましさには頭の下がる。 
 
「でもどうなの親父さん? ウサギの国でも売れるもんなのタイヤキ?」 
 まぁネタになりそうなものを見ると、もう芸として仕込まれたかの如く 
 条件反射的に聞き込みをしてしまう僕の記者根性も似たようなもんか。 
「ははは、タイヤキやオヤキは売れるんだがねぇ、どうもやっこさん肉は食わねえ 
もんだから、タコ焼きやお好み焼きの方はさっぱりなんだわ」 
 それでイヌの僕にタコ焼きを売り込もうとしたのか、なんて納得をしている間に、 
 見事な手つきでちょうど今焼かれていたタイヤキが焼きあがった。 
「ホラおいちゃん、焼きたてだよ」 
「ありがと。…えーと、お代はセパタで大丈夫だよね?」 
「はいはい、3ヶで300センタだよ」 
 ――ちょっと高いな、と思って手が止まったけど、まぁこんな吹雪に囲まれた街、 
 需要と供給の均衡点の関係だろうと思ってそのまま流す事にする。 
 (ちなみにイヌの王都では1ヶ70センタ) 
 
 それで焼きたてのタイヤキを紙袋に入れてもらって振り向くと、 
 なぜか黒ウサギの彼女がタコ焼きのタコみたいに顔を真っ赤にして俯いている。 
「……? どうしたんだい?」 
「あっ? あの、あの、あのっ、あの、あの」 
 寒さのせいもあるだろうけど、火が出るというのはまさしくこんな感じかと 
 言わんばかりの顔の赤らめぶりで、 
「か、カノ、カノジョ、カノジョだなんてそんな……」 
「……ああ」 
 でもそんな初々しい反応に、思わず口の端からクスリという笑みも洩れた。 
「気にしない気にしない。ネコのああいうヨイショやお世辞は話半分に聞いてれば 
いいんだよ。慣れない人は変に真面目に取り合ったりなんかもするけどね」 
「そ、そうなんですか……」 
 
 ――全てのウサギが、そうだというわけじゃないだろう。 
 ネコにも善人と悪人がいるように、オオカミにも善人と悪人がいるように。 
 ウサギの中にも淫乱とは呼べない女の子が居たって、おかしくは無い。 
 言うじゃないか、『何事にも例外はある』って。 
 
「それよりも、ほら」 
「へ?」 
 ポン、と少女騎士の胸にタイヤキの紙袋を押し付けると、軽いはずのそれに 
 ほんの少しよろけさえしながら彼女がすっとんきょうな声を上げた。 
「かじかんだ手は、それで暖めるといい」 
「…………」 
 金色に輝く稲穂色の毛に覆われた彼の手と違い 
 彼女ら女性の手はむき出しで、すぐに霜焼けやあかぎれになってしまう。 
 流石に手袋を買うまでいくのは職務の分相応を違えての便宜、 
 下手するとワイロになってしまうが、…だけどまぁこれくらいなら許されるはずだ。 
 
「……今はご飯時だからあれだけどね。でもタイヤキは、 
冷めた後でそのまま食べても、あるいは冷めたのをストーブの端っこに乗せて 
ちょっと焦げ目がつく位に焼き直してから食べてもそれはそれで美味しいんだ」 
 報道に携わるものとして培った雑学を、こんな所で披露する。 
 事実僕は、タイヤキは熱々のよりも冷えて少し身が硬くなったのの方が好きだった。 
 部下や同僚の中には『邪道だ!』と激しく非難する子も1〜2名いるけど、 
 これはまぁ仕方ないというものだろう、好きなんだからしょうがない。 
 
「………あぅ」 
 しょうがないとは思うのだが。 
「? ひょっとしてタイヤキは嫌いだったかな? …それともダイエット中とか?」 
「…!! い、いえっ、そ、そんな、甘い物は大好き…なん、です…が……」 
「……???」 
 甘い物は好きと言いつつ、紙袋を抱きかかえたまま顔を赤くして俯いてしまう、 
 そんな彼女の態度だけがほんの僅かに、気になった。 
「おじさーん、おやき白餡4つくださーい」 
「あいよーぅ」 
 振り返った先、仲のよさそうな若ウサギのカップルがさっきの親父さんの店で 
 おやきを買い求めているのを見つけては、 
 それもいつの間にか記憶の彼方に溶けてあやふやになってしまいはしたが。 
 
 
 
 黙々と行き交う人の群れ。 
 ……ただ、それでもこの街が陰鬱な空気を纏わないのは。 
 訪れた人間が、冷たい印象を抱かないのは。 
 
 それはこの街が。 
 シンとした大通りに溢れる柔らかな光が。 
 行き交う恋人同士や家族連れの微笑み合うその表情が。 
 家庭の窓から洩れる暖かな光と談笑が。 
 帰宅の途につく父親の顔が、家が待ち遠しいとばかりに綻んでいるのが。 
 とてもとても温かいから、 
 暖かいからに違いなかった。 
 
 
 ――まぁ高齢独身の人間や、「彼女居ない暦=年齢」の人間にとっては、 
     死にたくなるくらい冷たい街だというのを差し引くにしても。 
 
 
 
=―<<1-10 : a dog and a rabbit : 5th day PM 5:20 >>──────────────= 
 
 
 粉雪が舞い落ちるアトシャーマの大通り。 
 コツコツ、コツコツと、周りのウサギの男達よりも頭半分ほど背の高い、 
 ウールのロングコートの大柄なイヌの男性が歩いていく。 
 
 茶と黄金色の長毛に彩られ、半折れの耳が特徴的な、ケダマと見紛う程の優男。 
 顎の尖った柔和な顔つきに、茶褐色の知的な瞳、美形と呼んでも差し支えない。 
 
 チョコチョコ、チョコチョコと、そんな男性のすぐ真後ろをついていくのは、 
 小柄な黒ウサギの女性騎士。 
 ……本来護衛者に先導して道を行くはずの騎士団員が、 
 どうしてそんな護衛者の背中に隠れるようなマネをしてついてってるかというと、 
 理屈は簡単、おっきな彼の後ろに回っていると、 
 道行く人とぶつかったりせずにうまく避けられて便利だからだ。 
 地味に雪避け、風除けにもなる。 
 紙袋を持っていない方の手ではっしと男のコートを掴んでしまったりもしているが、 
 男の方は別にそれを気に留めた様子もなく、させるがままでいる状態で。 
 
 …誰が見たって、護衛の騎士とその監視対象という風には見えなかっただろう。 
 むしろ優しいお兄さんと、そのお兄さんに道案内をしてもらっている 
 迷子の女の子というのが客観的に見た場合の二人の正しい位置関係。 
 せめてコートの裾さえ掴んでなかったら違ったのかもしれないが、 
 少なくとも今の少女に、かの高名なるアトシャーマ魔法騎士団の騎士としての 
 風格は微塵も感じられない、可哀想だが騎士には見えない。 
 
 
 そしてそんなコートの裾を掴んだ彼女を背後に感じながら、 
 「何が淫乱の国だ」と内心独りごちるのが男の方。 
 出立する前に聞かされた例の話、「何が『世界一淫らな街アトシャーマ』だ」と。 
 
 別に絞りつくされて道端に転がるヒト召使いの姿もなければ、 
 すれ違う側から外国人が目の色を変えて粉を掛けられるなんて事もない。 
 仮に夜間に出歩くのが昼間に出歩くより危険だとしても、 
 それはネコの王都でもイヌの王都でもどこでも同じ共通の事項であって、 
 むしろそれら二都に比べればこの街の方がずっと穏やかで安全だった。 
 なにより、何が『アトシャーマの白い悪魔共』だというのか、 
 この街には灰色兎も、黒兎も、茶兎も、縞兎も、長毛兎も暮らしてる。 
 
 確かに性に関してこの街の住民が非常に開放的なのは認めるが、 
 でもそれだって最低限常識の範囲内を逸脱するものではない。 
 性犯罪者の街アトシャーマというのは、 
 おそらく『ウサギは淫乱』という噂だけが勝手に一人歩きした結果の、 
 背ヒレ尾ヒレがついての大げさな言い回しに間違いなかった。 
 なまじ人や情報の出入りが少なく、他国に出てくるウサギの数も少なめなせいで、 
 このような偏見や先入観が半一般化してしまうような事にもなったのだろう。 
 
 …となるともう、これはもうラスキ・グリノール率いる第四特派取材班と、 
 大陸の新しいメディアの一番星たる猫井TVの出番というもの。 
 
 文章に依らない、音声と映像による情報の伝達。 
 誤解や誤認を与え易い文字による情報と違い、よりリアルに、より正確な情報を、 
 生のままで各家庭に届ける事ができる、それが魔洸テレビの最大の利点。 
 現時点ではネコの国や、あとはせいぜいイヌの国の都市部中〜上流階級相手に 
 というのが関の山であろうが、しかしそれらの階層だけにではあっても 
 ウサギの国に対する誤った偏見や思い込みを払拭できるのは大きな一歩だ。 
 なによりそれこそが彼の、報道に携わる者として本懐でもある。 
 
 ――凍て付くような空気の中を歩きながら、やってやるぞと決意を固める、 
 ――ラスキ・グリノールこと猫井TVのラスキ主任記者、今年65歳の秋。 
 
 
「…うんそうだ、君にもこの寒い中だいぶお世話になってるしね。もし良かったら 
明日か明後日の晩にでも、美味しいレストランで食事でもおごらせて貰おうかな」 
「ええっ!? そ、そんな、ダメですよ、やめてくださいもう」 
 
 だから彼は知らない。 
 
「…ん〜、それなら護衛の最終日ならどうかな? 『仕事』が終わった後だったら、 
別に職務の範疇を越えてとか、公私の境目のあやふやを問われもしないだろ?」 
「そ、そういう意味じゃなくて、そんな、その……」 
 
 この静謐極まりないウサギの国の、その裏側。 
 
「……そんな…親切にされたら……私……」 
「……??」 
 
 ウサギという種族の、本当の意味での恐ろしさ。 
 
「……セニア様や……フェイ様からも……られてるのに……」 
 
 月の裏側の紅色を。 
 
「………っちゃうじゃないですか」 
 
 
 
「????」 
 最後の呟きは路面電車のチンチンという軽快な音にかき消され、 
 ラスキの耳には届かなかった。 
 
 五日目の夜。 
 彼が宿泊滞在しているホテルは、もうすぐ目の前という場所での出来事である。 
 
 
 
=―<<1-11 : interrupt in : 5th day PM 5:45 >>─────────────────= 
 
 
──『表』と『裏』。 
──『白』と『黒』。 
──『銀』と『赤』。 
 
 
 ウサギの眼というと『赤色』を思い浮かべる人間が多いようだが、 
 実はこれは誤りであり、【例の噂】と同じく間違って定着した思い込みの一つ。 
 現実には灰眼、茶眼、青眼の三色が大多数を占め、 
 赤眼はウサギの中でも数が少なく、割合は全人口の中でも2〜3%に満たない。 
 その眼色は、希少なのだ。 
 
 
──『表』と『裏』。 
──『白』と『黒』。 
──『銀』と『赤』。 
 
 
 夫婦が居た。 
 妻の方は我が子を胸に抱いた白ウサギで、夫の方はやや耳の短い灰色ウサギ。 
 微笑みながら何事かを話し合っていたが、 
 やがて双方立ち上がって暖房制御のための魔法装置に手を伸ばした。 
 ひとしきり窓の鍵や戸締りを確認してからカーテンを閉めると、 
 そのままコート掛けの防寒具に手を伸ばし、 
 最後に室内の照明を落として、真っ暗になった部屋の中から退室する。 
 間を置いて、ガチャリ、と玄関の鍵を掛ける音。 
 ……もうすぐ夕飯時だという時間帯での出来事だ。 
 
 
──『表』と『裏』。 
──『白』と『黒』。 
──『銀』と『赤』。 
 
──『アリアンロッド』と『イナバ』。 
 
 
 部屋のドアを閉める際、暗闇の中で夫婦の瞳は、それは鮮やかに輝いていた。 
 
 
 
=────────────────────―<Chapter 1 『C.E.S.』 out >───= 
 
 
 
 
 
 

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