━━≪ 1th day PM 3:17 ≫━━ 
 
 銭湯や温泉、あるいは恋人同士とかならともかく、 
 たとえ同性とでも「赤の他人と二人っきりで入浴」だなんて体験無かったから。 
『それでは次の部屋の脇に置いてある籠に脱いだ物を全て入れて、 
その後に更に次の部屋に進んでください、そこが小浴場になっていますから』 
 緊張するべくして緊張したわね。 
 
 …? 何よ、そりゃ私は確かにネコで、今年で160にもなりますけどね。 
 それでも平凡な人生を送ってきた方だって自分でも自信持ってるんですからね。 
 
『ポケットの中のお財布や小物、指輪ブローチといったアクセサリー類は、 
よろしければ今この場で、こちらの貴重品入れにて先にお預かりします』 
 変に見栄を張って「副主任である私が一番最初に行くからね」なんて 
 言わなきゃ良かったと、そうポケットから財布を引っ張り出しながら後悔する。 
 ラスキと一緒に仕事する内に、どーも影響されたみたいで。 
 …ここは素直にレティシアちゃんに最初に生贄になってもらえば良かったかな、 
 とか考えて、でも次の瞬間心の中で頬を叩いて自分を引き締めた。 
 
 いけないいけない、何よその負けイヌならぬ負けネコ根性は。 
 強い女、デキる女なんてのは見栄張ってなんぼ、意地張ってなんぼなのよ。 
 
 憤りと発奮のままに、勢いよく扉を開けて中に踊り込み、 
 そのまま皺が寄るのも構わずに乱暴に服を脱ぎ捨てて籠の中に投げ込んだ。 
 どうせクリーニングされて返って来るらしいしこの際うんと乱暴にしてやる。 
 猪突猛進、ネコまっしぐら。 
 こういうのはヤケよ、もうヤケと勢いとその場のノリなのよ。 
 なにせ直前まで猛吹雪の中、加えて24日間にも及ぶ長期旅行の後だったから、 
 化粧をしてなかったのも良い方向に働いた。 
 勢いを殺さないまま全裸になって、ヤケクソパワーで浴室に踏み込む。 
 どりゃー。 
『あらあら元気がいい方ですね、それでは早速――』 
 ぎゃー! ウサギー!? 
 
 ……ビビビ、ビックリした。 
 さっきの入り口の女の子が付き添うんでなくて、浴室にも個別に待機してたのね。 
 ちょうど扉の死角、こっち側の隅っこに当たる部分に居たから分かんなかったわ。 
 …あー心臓に悪い。 
 
『――早速ですが、まずは丁寧に掛け湯してくださいな』 
 
 ……心臓に悪いついでに、ちょっと冷静になっちゃったじゃないの。 
 自然、というか普通は誰でもそうすると思うんだけど、 
 今や何一つ覆うものがない胸元や局部を隠そうと無意識に身体が動いて。 
『あらあら、隠さなくてもいいんですのよ』 
 ふふふ、と(仮面で隠してるのに)口元に手を持ってって笑う仮面白ローブ何号かめ。 
 
 ……ああ、ちょっと今のカチンと来たな。 
 私は大人の女だからそんな事しないけど、ヒースだったら間違いなく怒ってる所。 
 
 大体二人っきりでの入浴は入浴でも、何よこの異常なシチュエーションは。 
 同性同士で、私は全裸なのに向こうはローブ着て仮面被って手に棒まで持ってて、 
 しかも向こうは一挙一動つぶさにこっちの動きを観察してくるのよ? 
 お風呂に入れられるペットっていうか、それこそヒト奴隷にでもなった気分、 
 変な羞恥心だってこみ上げて来るわよ、 
 まぁよくあるご都合主義的な話みたく、それだけで濡れてなんかやらないけどね! 
 
『十分お湯を被りましたら、まずはそっちの透明なお湯の湯船に浸かって』 
 やや乱暴に手桶を置いて、言われたままに片方の湯船に足を入れる。 
 
 小さめの浴場の中には、 
 ネコの国の一般家庭向けと比べてはやや大きめな埋め込み型浴槽が二つ。 
 無理すれば四人なんとか浸かれそうなそれぞれの湯船には、 
 片方には透明なお湯が、もう片方には何か緑色に濁ったどろどろの湯が。 
 
『完全に潜っていただけると嬉しいんですが、耳に水が入るのはお嫌いで?』 
『……嫌いね、やらなくていいならそれに越した事はないかしら?』 
『では顎まで浸かって10数えてくださいな』 
 
 言われるままに浸かったお湯は、温泉というよりは猫肌くらいのぬるめの湯で。 
 …そうして微妙にしょっぱいというか、湯質が硬く、 
 気のせいでなく、何だか浸かってて肌がチリチリして来るような感覚さえする。 
 いかにも消毒液って感じの、あまり好きじゃないお湯。 
 たぶんあんまり長い間浸かってると肌が荒れたり赤くなったりしてしまう、 
 それくらい薬成分が強いお湯なんだろうと察しがついた。 
 
『はい、それじゃ髪と身体を洗ってもらいますね』 
 そうして上がりがけにスポンジを手渡されて、 
 そこで始めて、無意識に身を隠そうと思うのも無理は無い、 
 バスタオルどころかタオルさえ与えてもらってなかった事に気がついた。 
 ……同時に、ひょっとしてこれも目的?とも。 
 
 この国に暗殺者や特殊訓練者が入るのは、きっと途方も無く大変だろう。 
 何しろ身包み剥がされて、裸体晒さないといけないんですもん。 
 毒とか武器とか暗器とか、取り上げられるのは避けられないんじゃと。 
 
『はーい、もっとケチケチしないでたっぷり泡々ゴシゴシー』 
 …そう思ってしまった反面で、 
 同時に真面目にそんな事考えてた自分がバカらしくなってしまった。 
『なんでしたら後ろ、手伝ってあげましょうか?』 
 横からの親切な申し出を、だけど私はブンブンと首を横に振って丁重に断る。 
 子供じゃあるまいし冗談じゃない、 
 というか妙に視線が艶かしいような気がしてすごいイヤ。 
 
『あー、うーん』 
 でも。 
『そうねぇ、ちょっと言いにくいんだけど』 
 これだけ、まるでネコがヒツジになるくらいに全身泡だらけにして洗ってるのに、 
 一体何がまだ問題なのよ、と。 
『あのね』 
『……なんですか?』 
『これは万が一の念の為というか、私のお仕事がそういうものなんであって、 
あなたみたいな綺麗好きなネコの女の人に言うのは失礼なのも判ってるんだけど』 
 妙にまだるっこしい前置きに、怪訝そうな視線を私が返す前で。 
 
『――股の間、特に陰毛も、髪の毛と同じくらい丁寧に洗ってね?』 
 
 …………。 
『本当にごめんなさいね、…でも中にはやっぱり、特に傭兵さん達に多いんだけど』 
 ――……ガシ―― 
『怖いのよぉ、シラミに、ダニに、白癬に』 
 ――ガシガシガシガシ―― 
『特にシラミとダニは、ノミと同じで痒いだけでなく怖い伝染病も運んでくるものね』 
 ――ガシガシガシガシガシガシガシガシ!―― 
『そういう人に限って、こんなに寒いからシラミもダニも死んじゃっただろうって 
無頓着なんだけど、でも人間の身体にくっついてる以上はそう簡単に死な――…』 
 ――ガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシ!!―― 
 
 バシン、と。 
 毛質が痛むのも気にしないでガシガシガシガシと 
 力の限りそこを洗ってやった後、 
 私はスポンジを思いっきり洗い場の上に叩き付けていた。 
 横からのほえほえとした声を聞き流しながら、ゼーゼーと肩で荒い息を吐く。 
 顔が赤いのは、もう鏡を見なくても分かってる事。 
 
 別に相手が心配しているよう、「そういう侮辱」を怒っていたんじゃない。 
 むしろ頭の中では「そういう心配」をするのが正当な事だとは分かってた。 
 頭の中では分かってはいたけど。 
 ……でも、実際に本気でやらかすとなると、話は別だ。 
 
 性に対しておおらかだって言われるネコでも、ここまでのはそうそう居ないわよ。 
 
 ただの下ネタ会話の方がまだマシな、そのまま「性病」についての直接の指摘。 
 この場、この状況、このシチュエーションで。 
 「ケジラミ怖いから陰毛は特に丁寧に洗ってね」なんて、 
 同性に面と向かって臆面も無く言えるような、肝の太い女傑だなんてネコにも。 
 
 ……そしてそんな遠慮のないフレンドリーさが、同時に堪らなく怖い。 
 頭の中で反響していたのは、出がけに局長から脅かし半分で聞かされた【例の噂】。 
 何度も聞いた、『最も淫乱な』『手の早い』『レズが多い』という巷の風評。 
 思ったのは、「やだ、どうしよう」という不安と恐慌。 
 ――恐怖。 
 
 ……私はネコだけど、でもだからって百合とかアナルとかの趣味はない。 
 可愛い女の子を眺めたりからかったりする程度なら好きだけど、 
 本当にあそこを擦り合せたりとか、ペニスバンドまで行っちゃうのは勘弁だった。 
 私は、普通のネコなのだ。 
 もう400歳500歳まで生きてるのに見た目が100歳程度で若いままのネコとか、 
 ヒト奴隷を買える程の余裕がある、退廃趣味のお金持ちネコとは違う。 
 普通の。 
 
『さあ、それじゃ綺麗になったし泡々も流しましょ――』 
『触らないでッ!』 
 あまりにも何気なく伸ばされた手が、だけど怖くて。 
 気がついたら身を竦めて、尾の毛を逆立てながらあとじさっていた。 
 無意識に、喉の奥から威嚇音も漏れる。 
 
 どうして急に、そんな風に叫んでしまったのかは分からない。 
 いつもの私らしくない、でも。 
 ……見栄って名前の強さは。 
 ……私の『見栄』は、私の『女のプライド』は、私の『デキる女のプライド』は。 
 ……張り合う相手が、誇示する相手がいないと。 
 
『わ、私はそんな、レズとか百合とか女の子同士だなんて趣味はないもの!』 
『あら? …………まあ!』 
 叫んで怯える私に、少女というよりは熟年の婦人といった雰囲気の 
 この仮面白ローブウサギは、少しだけ首を傾げ。 
『もう、失礼しちゃう! 確かに私は貴女みたいな女の子は好みですけど、 
でもそんな、そこまで見境無しなんかじゃありませんよ?』 
 ……でも次の瞬間、それ以前までのおっとりした様子からは想像もつかない、 
 打って変わっての憤慨した様子での声を上げた。 
 
『幾らなんでも出会い頭にそんな、行きずりの人としたりなんてしません!』 
 
 ――それに、少しだけ冷静になる。 
『……ご、ごめんなさい』 
 バツが悪い。 
 らしくもなく取り乱して、情けなくも怯えてヒステリックに叫びまでして。 
 先入観に、偏見。 
 「ネコは誰もが強欲で自分勝手だ」とか、「イヌは誰もが規則にうるさくで石頭だ」とか。 
 …派遣記者として、ジャーナリストとして、 
 そういうものに囚われた穿った見方を持ってはいけないと分かってたはずなのに。 
 
『…ああ、いえ、気になさらないで』 
 泡を掛け流しにかかられながらの、穏当な調子を取り戻した言葉に慰められる。 
 俯いた先で、双丘の上を滑り落ちていく水の玉。 
『なにしろこんな仕事ですし、私達ウサギが外の世界の人達にどのように見られて 
呼ばれているかは、もう十分承知していますから』 
 流石に髪くらいは自分で洗い流したが。 
『貴女みたいな怖がりさんも珍しくはないですわ。これで結構いましてよ?』 
 こういう事態への対処にも手馴れてるんだろうなと思いつつ、 
 一つ疑問に思った事。 
 
 
『……ねぇ』 
『はい?』 
 
 もう片方、緑色に濁ってどろどろした方の湯船。 
 同じ薬臭いのは薬臭いのでも、 
 なんというか青臭くて香草臭い匂いのする湯船に顎まで身を沈めながら。 
 
『…まさかと思うけど、イヌやトラの国の領主や貴族とか、ネコの国のお姫様達とか、 
そういう人達にも例外なしの問答無用でこういう事させたりしてないわよね?』 
『え? …ああ、いえいえ、そんなまさか!』 
 思うべくして思った疑問をぶつけたのだが、 
 このウサギの女性は(だから仮面なのに)口元に手を当てころころと笑って。 
 
『流石にそんな事をしたら、不敬罪とか外交問題になってしまいますわ。 
ここまで乱暴、十把一絡げに扱えるのは一般旅行者の方だけでしてよ』 
『……だったら、どうしているの?』 
 言う事は一々もっとも、まさしく不敬罪や外交問題にもなってしまうだろうけど。 
 …でも「病を入れない」事にここまで厳格かつ徹底したこの国が、 
 それで妥協するとは思えない。 
 大商人であろうと、大臣であろうと、分け隔てなく「殺菌」を試みに来るはず。 
 死病の前には王も貧民も関係ない、病は煌びやかな王宮の中にさえあるんだもの。 
 
『それはね、迎賓館の方にお招き入れした後、「旅の疲れをお流しします」って』 
 それをこの人は、まるで内緒話を友達にバラすみたいな感覚で。 
『もうちょっと人数と時間、手間隙をかけて、それとは分からないようにさりげなくね』 
『……「あざとい」のね』 
 呆れた声を洩らしつつ薬草臭いお湯から上がりながら、 
 でも私はまた一つウサギに対する認識を改めた。 
 
 もう少し平和ボケした、危機感のない、ほえほえ種族、ボケボケ種族かと思ってた。 
 日がな一日盛ってばかりの、見境ない種族かと思っていた。 
 『世界中の皆がもっと仲良くなれますように』なんて世間知らずの夢を見ながら、 
 でもこの「地理条件」があるからこそ安定と平和と保っていられる、 
 一人ではロクに生きてもいけない弱くて儚い優しい種族だとばかり考えていた。 
 それこそオオカミに、ただ捕食される為だけに存在しているような。 
 ……でも。 
 
『あら、』 
 ……でも、違う。 
 
『別に私達、本当に誰にも哀しんで欲しくない、誰にも傷ついて欲しくない。 
 
誰にも不幸になってもらいたくない、諍って欲しくないだけですわ、ただ』 
 したたかで狡賢い種族にはネコやキツネがよく挙がるけど、でも。 
 純白の良い子ぶりっ子の裏に、自分が可愛い事を自覚してるような、黒いもの。 
 同じ臆病でも、ネズミなんかとは180度違う。 
 
『……ただその為なら、「どんな事でもする」というだけの話であって』 
 
 ――ゾッとするほどの、強烈な何か。 
 凶暴ささえ、感じた。 
 世界中の誰も哀しまず、誰も傷つかず、誰も犠牲にならず、諍わなくて済むなら―― 
 ――「どんな手を使っても、何をやったっていいじゃない」という、強烈な意志。 
 
 
『…さ、では次の部屋にタオルと仮の着替えが用意してありますので、 
それに着替えたら赤い矢印に従って通路を進んでくださいな』 
 
 最後に丁寧にお湯を掛けられた後、実ににこやかな雰囲気で送り出されながらも。 
 ……でも私がそんな風なウサギに対する「黒い」イメージを持ってしまったのは、 
 やっぱり私自身、実際にそれを「直に」感じたからなのよね。 
 
 いわゆる邪悪というか、邪笑というか。 
 ……腹黒さ、っていうのかしら。 
 
 先入観から来たついついの自分の非礼な態度、情けなくも取り乱した醜態に、 
 目を塞がれてそのままうやむやにされてしまった感があったけど。 
 ……でも。 
 ……後から思い返せば、「視線が艶かしかった」のは本当だった。 
 気のせいじゃなくて、本当に艶かしかったのだ。 
 ……そう思うと私がらしくもなくあそこまで取り乱したのは、ネコとしての「第六感」、 
 動物的直感から危機を覚えた、恐怖を感じたからだとも取り直す事ができる。 
 …自分の「勘」を信じ切れなかったのが、後から思い返せば痛恨だ。 
 
 ……うん、私は、気がついてなかった。 
 あの、『私はそこまで見境無しなんかじゃありません!』という言葉は、 
 でも「出会ったばかりの人と即ヤる程に淫乱じゃない」って意味じゃない。 
 ……「何の病気や性病を持ってるかもまだ分からないような相手と、 
 無思慮にコトに及ぶほど無知ではないし無分別ではない」っていう、そういう意味。 
 倫理面を完全に飛び越した、衛生面に限っての憤慨だった。 
 
 だから。もし。 
 ……私があの時、既に「なんの病気も持っていない健康な身体」だと判別されて 
 太鼓判を押されていたような状態だったなら。 
 っていうかさりげなく言ってたじゃないの、 
 『確かに私は貴女みたいな女の子は好みですけど〜〜』なんて。 
 
 誰も哀しまず、傷つかず、不幸にならず、犠牲にならず、諍わなくて済むのなら。 
 「じゃあ別にいいじゃない」と、どんな「とんでもない事」でもやらかしてくれる。 
 …この時私は間違いなく、そんなウサギの怖さの一端に触れていたはずだったのだ。 
 
 
 
━━≪ 1th day PM 3:32 ≫━━ 
 
 浴室から出た先に用意されていたのは、 
 頭からすっぽり被ってくるぶしまで裾が来るような貫頭衣が一枚とサンダルだけ。 
 肌着どころか、上下の下着さえ用意されてないのには正直ちょっと引いたけど、 
 でも今更こんなので怯んでもられないというのも率直な気持ちだ。 
 
 ごわごわとした厚手の貫頭衣は、 
 おかげさまで白いけど濡れたら透けて見えるなんて事は全然ありえそうになく、 
 その点だけはちょっと安心して身に着けられた。 
 ……エロい思惑があったら、ここで薄手のものを用意する所なんでしょうけど。 
 
 廊下に出たら、やはり延々と続く白塗りの壁と廊下、 
 そうしてその所々につく、言われた通りの赤い矢印プレートの姿が見えた。 
 …怖い位にしん、と静まり返ってるのは、 
 ここが建物の地下部分だからと、今使っているのが私達だけだから? 
 注意すると白い壁のそこかしこに刻まれてる紋様や幾何学線は、 
 ウサギの記述刻印式魔法――魔法式や魔法陣なんだろうとは分かるけど、 
 でも一体何の効果の魔法式なのかは、私にもちょっと分からない。 
 
 ぺたぺたと、長い廊下をサンダルで歩く。 
 外から見ただけでも思ったけど、やはり相当大きな建物みたい。 
 大きな公民館…というか、大きな病院みたいな感じ。 
 
 翼を広げたワイバーンが軽々と潜れそうな城門といい、 
 城壁の外側、天候も安定して積雪も浅くなった空間の、まるでちょっとした宿場町。 
 …せわしなく行き交う人々に、次々に下ろされる荷物、 
 立ち並ぶ雪原横断用のソリに、それらの牽引役である雪獣のための厩舎。 
 夏場と違って来訪者の少ない今でさえこれだけの賑わいなのは、 
 やっぱりここがアトシャーマの四門でも一番人の出入りが多い南門だからなのかしら。 
 …そう考えるとこの建物も、 
 やっぱりその中で一番大きな『そのための施設』なのかもしれないわね。 
 
 夏場であったらきっとフル活用もされるのだろうけど、 
 でもそのほとんどが使われていない、ずらっと並んだ小浴場からの扉は、 
 明かりも消され締め切られて寂しいもの。 
 ……何でも郵便や銀行の手紙や手形を届けるだけの人は門の前で引き返すし、 
 そうじゃない人間でも出入りの業者や馴染みの商人なら、 
 あらかじめ定期的な検査を受けるという条件付で 
 15分程度の簡易検疫だけですんなり街の中に入れてもらえるらしくて。 
 
 ……それでも最初は皆私と同じ想いでここを通ったんだと思うと、 
 ちょっとおかしな気分というか、自然に顔も綻んできた。 
 あのネコの商人も、あのイヌの交易人も、 
 ちらちらと混じるトラやトリ、カモシカ、クマの人夫や業者、男や女も全員みんな。 
 あるいはうろたえ、あるいは困惑し、そしてあるいは怒りながら、 
 この恥ずかしい洗礼と何一つ隠しようの無い精査を受けたわけなのよね、 
 外で見る限りは全員何気なく、澄ました顔で通っていたけどさ。 
 
 そう考えたら妙な親近感が湧いて来て。 
 思わず一人でニヤニヤしながらも廊下を延々道なりに歩いていたら、 
 どうやら目的地に辿り着いたらしかった。 
 また雰囲気の違うドアの数々。 
 
『あ、まずは女性の方ですね、はいどうぞこちらへ』 
 すぐ傍に控えていた何人かの仮面白ローブに先導されて、 
 幾つか並んだドアの中の一つに案内される。 
 ……当たり前なのかもしれないけど、この人も女性ね。 
 さっきのウサギさんとはまた別の、声の感じから推察するにだいぶ若いかしら。 
 
 今度は何だと思いながら入った部屋は、やっぱり小部屋。 
 ……ただし今度の部屋は浴室ではなくて、 
 部屋の中央に一段高くなる形で敷かれた厚さ20cmほどの金属プレートの上には、 
 なにやら今まで見てきた代物とは段違いの、凄い魔法陣が刻まれていた。 
 周辺を見渡しても、魔法陣の中央に立った人間を映し出すためのものなのだろう、 
 部屋の四方、十字型に配置された、高さ3mはありそうな巨大な合わせ鏡に、 
 床を走る何本かの銀のパス、金属板の四隅の細いポール。 
 ……部屋の隅、机の傍に置かれた水晶球に銀パスが全て集約してるのを見る限り、 
 あれがこの部屋の設備の制御装置なのかしら? 
 
 魔科学の発展での魔洸家電や機械設備の浸透のせいで、 
 ネコの王都なんかではもう久しく見かけなくなったアナクロな魔法儀式設備。 
 ……でもアナクロなりに相当にハイレベルなものだというのは、 
 どういう種別の魔法陣なのかは判別できないネコの私にだって理解できた。 
 そもそも部屋内の魔力密度からして尋常じゃない。 
 これほど高度な魔力制御技術が、でもこの国では普通一般なのかしら?、と。 
 
『はい、それでは脱いでください〜』 
 
 唸ったところでの間伸びしたそんな声に、『って、またなの!?』と。 
 
『……それは強制?』 
 腕組みして睨みつけてやっても。 
『いえ〜脱がなくても大丈夫って言えば大丈夫なんですが。 
余分なものを身に着けてない方が検査の精度も上がるので、出来ればご協力を〜』 
 …………。 
 ……ああ、はいはい! 
 分かりました! 分かったわよもう! 
 脱げばいいんでしょ脱げば、オールヌードでストリップしろと! 
 
 ヤケクソになりながらダボダボの貫頭衣を脱ぎ捨てて、 
 生まれたままの姿で指示されるがままに魔法陣の中央に立つ。 
 
 ……って、うわ、何これ魔力濃い?! 
 外側もだいぶ凄かったけど、魔法陣の中はもっととんでもないじゃないのよ。 
 カモシカとかトラとか、魔力に鈍感な連中なら気がつかないでしょうけど、 
 これはちょっと洒落にならない、何のの霊穴(マナスポット)で龍穴(レイポイント)よ? 
 
 尻尾の先の毛がゾワゾワと逆立ち、耳毛がピリピリと震える。 
 外とは打って変わって温暖に保たれた施設内のはずなのに、 
 素肌の上を、何が冷たくてキリリとした空気が這い上がっていくのを感じた。 
 吐き気や眩暈までこそ至らないけど、正直あまりいい気分じゃない。 
 私みたいに感度だけはいいけど、魔力抵抗はからっきしなネコには特別に。 
 
 …いや、ここまで魔力が濃いと、もう半分ちょっと毒になりかけの域よこれ。 
 本職の魔法使いや、対魔法使いに鍛えてる魔法使いキラーの人とかならともかく、 
 私みたいな一般ピーポーのネコには冗談きついってのよマジで。 
 こんな魔力濃い所に好んで留まって瞑想したがる常識外れもそりゃあいるけど、 
 普通のネコはこんな魔力濃い中にいたら数日でおかしくなっちゃう。 
 …何も視えないし感じない鈍感種族には言ったって一生分かんないんでしょうけど、 
 でも本当にまいっちゃうのよ、重すぎて、息苦しすぎて。 
 
『はい、もういいですよ〜』 
 
 幸い30秒ほどでオッケーが出たのを良いことに、急いでそこから飛び降りる。 
 突っかけたサンダルの感触の中にも、 
 ひんやり冷え切った――ように感じる足の裏の錯覚が抜けなかった。 
 早いところ服を着てしまおうと手を伸ばして。 
 
『では〜、この後これと同じような部屋があと四部屋ほどありますので〜』 
 
 …………。 
 
 
 
━━≪ 1th day PM 4:25 ≫━━ 
 
 私は苛立っていた。 
 散々不愉快な思いを五度も、しかも全裸で強要されたとあればそれも当然だ。 
 特に三度目、どういうわけか『あれあれあれあれ〜』と 
 間抜けな声を上げて手をもたつかせる担当員の彼女に遮られ、 
 2分間近くも魔法陣の中に拘束されていた事が不快を一層増大させていた。 
 とにかくイラつく。 
 …おそらくあまりにも魔力が濃い場所に居続けたせいでの精神昂揚も手伝って、 
 とにかくもうわけも無くイライラが込み上げてきて止まらなかったのだ。 
 ――魔法的な感覚に敏感(=過敏)というのも、こんな風な事があるから困りものだ。 
 
『あのぉ、キャロさん?』 
『……何!?』 
 だから横から何やら手に持った仮面ローブが近づいてきた時は、 
 思わず大きな声も張り上げてしまった。 
 …それにビクリ、と同じように隣で腰掛けていたティルちゃんが身を強張らせ、 
 更にその隣、表立っての愚痴や泣き言こそ言わなかったものの、 
 それでも流石にやや疲れた面持ちのレティシアちゃんが重たい動作で頭をもたげた。 
 二人とも同じような足首までの白い貫頭衣だけを素肌に直接纏っていて、 
 同じような目にも合って来たのが嫌でも目に見て取れる。 
 ……特に、私やレティシアちゃんはともかく、ティルちゃんが可哀想だったわよ。 
 こんなに気の弱くて奥手で恥ずかしがり屋な女の子に、 
 私にしたのと同じような事をしたんだわ、この極悪腹黒ウサギ共は。 
 いくら検疫の為だろうと、人権侵害で訴えてやろうかと息巻いている私に対し、 
 
『そのぉ、ちょっと皆さんの前ではお話し辛い事ですので……』 
 
 とっさに不安なものが篭った眼差しが私に対して集中される。 
 もちろんティルちゃんとレティシアちゃんの視線であり、 
 そうしてそんな心配そうな視線が私の何を心配しているのかはすぐに伺い知れた。 
 
『……ッ! 分かったわよ! ついていけばいいんでしょう!?』 
 
 その視線にも、二人にこれ以上心配を掛ける事にも耐えかねて、 
 私は苛立ちと共に床を蹴って長椅子から立ち上がる。 
 
『…で、何よ? どんな問題が見つかったわけ?』 
『いえ、あの……』 
 適当な物陰まで移動して、相手がするであろう残酷な宣告をこちらから促した。 
 こういう場所で、こういう風に呼び出されたら、 
 いったいどんな宣告が待っているか、今時子供でも分かるでしょうに。 
『……あの、お寿司とかお刺身とか、好きですか?』 
『は?』 
 なのにそんな的外れな事を唐突に言われて。 
『…………あ・の・ね・え?』 
『あっ!? いえいえいえいえ、あの、そのですね』 
 この期に及んでのこのズレっぷり、流石にプッツンの限界。 
 キラリ、と光らせたツメにものを言わせて、ちょっと脅しをかけてやったら。 
 
『…まことに残念なんですが、その、第三番目の精査過程において 
時間がかかったわけですけど、キャロさんの身体に関し異常が見つかりまして』 
 
 ――告げられた言葉に、嘆息を零してツメを収める。 
 薄々覚悟はしていたんだけれども、ここまで率直に言われると強い無力感が。 
 …不治の病を宣告された人の気持ちってのはこんなものなのかしらね、と、 
 そんな想いにも囚われながらも口を開いて。 
 
『…で、だから私はアトシャーマへの入国は認められないって事に――』 
『あ、いえいえ、それは大丈夫です。入国はできますよ』 
 
 再び、「は?」と。 
 
『入国を許可できない程に酷い病気が見つかったとかじゃないんですけど、 
でも見つかった以上、報告しておいた方がいいと思いまして、やっぱり』 
『…………そりゃどうも』 
 
 それはまた何とも律儀なんですのね、と。 
 怒ったらいいのか、呆れたらいいのか、良い機会、得したと喜ぶべきなのか。 
 イライラは消えなかったけど、そういうのが入り混じった複雑な気持ち、 
 でも「入国が出来ない程酷い病でない」という言葉からも、 
 どこか安心感というか、試験に受かった学生特有の安堵感みたいなものがあり。 
『……で、その私の身体にある異常ってやつは具体的に何なの?』 
 胃炎か、虫歯か、肩こりか、腰痛か、内臓の衰弱か――… 
 
『寄生虫です』 
 
 きせ 
 
『…ああ、寄生虫と言っても、申し上げた通り命に関わったり重態になったりとかの 
そこまで危険なものじゃありません、条虫ですよ、条虫』 
 
 ジョウ 
 
 
『分かり易い言い方をすると、サナダ虫ですね、サナダ虫』 
 
 
 …衝撃に次ぐ衝撃だったその日の中でも、それが最高最大級の衝撃だった。 
 パリン、と頭の中で何かが砕け散る音を聞きながら、 
 私はよろよろと壁に手をついてもたれかかるより他に無い。 
 
『三番目の魔法陣は、あれは対象生命体の内部にある異波長の別個生命体… 
…つまり寄生虫や寄生生命体、あるいは妊娠検査なんかにも使われる陣でして』 
 ショックで真っ白になる頭の中に、 
 無慈悲にも目の前のウサギの女の子の言葉が聞こえてくる。 
『あ、そんな珍しい事じゃない、ネコの方には多いんですよ、女性にも男性にも。 
やっぱり皆さんお好きですものね、生魚』 
 ……身に覚えがありすぎてちょっと原因が特定できない。 
 ……というか、一体いつから私のお腹の中には虫がいたの? 
 いつから? 何年前から? 何十年前から? 
『そういうわけでサナダ虫、なんだかむしろ身体にいい、ダイエットに抜群って話も 
聞くんですけれど。……どうします? 下しちゃいますか? 放っておきますか?』 
 
 残酷なくらいの女神の微笑と共に差し出された手の中には、 
 何かの透明な液体が揺れる、一本の茶色の小瓶が握られていた。 
 言われるまでのなくの【虫下し】。 
 
 
 
 だから私は苛立っていた。 
 
『……おぅ、キャロ』 
 ばったりとトイレ前の廊下で鉢合わせたのは、他でもないヒース。 
 
 私と同じように足首までの白の貫頭衣を纏ったままの姿は、 
 まるでどっかの病院に入院させられた危険な伝染病の隔離患者みたい。 
 ……向こうにも私がそういう風に見えてるのかもしれないけど。 
 見れば気のせいかその燃えるように赤い赤茶の毛並みには艶がなく、 
 普段はぴんと張っているヒゲもなんだかしょんぼりとうな垂れているようにも思える。 
 ……ううん、見えるというか、多分本当にうな垂れてたのよね。 
 
『……そっちも色々されたの?』 
『……まぁな』 
 お互いネコ同士、双方の味わった屈辱を悟って、思わず同時に顔も背ける。 
 多分私も、今のヒースと同じくげんなりとした表情をしているのだろう。 
 
 ……うん。…なんか、さっきも言ったけどね。 
 ネコはヤギと並んで、ウサギに次ぐ淫乱、淫蕩と指差される事が多いけど、 
 でもそれは正確に言うならちょっと違うのよね。 
 
 ネコは確かに、「好きな相手」や、「気に入った相手」、「よく知ってる相手」には、 
 どこまでも性に関して豪放かつ、簡単に裸になれる部分も持ってるけど。 
 ……でも、あのヤギだってそうなみたく、 
 「嫌いな相手」、「気に食わない相手」、「知らない相手」に対してまで 
 裸を晒して乱れる事ができるほど、そこまで酷い種族じゃない。 
 ……むしろそれは、はっきり言ってストレスよ。 
 
 興味を持ったものにはとことん興味を持つけど、どうでもいいものはとことん無視。 
 好きなものはそれこそ大好きだけど、どうでもいいものは邪魔なだけ。 
 薄情なくらい温度差が激しい。つれない。感情の起伏が激しすぎる。 
 ……私達へのそういう評価は、おおむね間違ってないんだろうと自分でも思う。 
 
 私自身、嫌いだ。 
 嫌いなものは、とことん嫌いだ、嫌だ、我慢できない。 
 多くのネコがまずは「無視」や「関わらない」という手立てでもって『それ』に対して応対し、 
 それでも相手がズケズケとこちらの領域に侵犯して来た時は 
 容赦なくツメを引っかき立てる事でもって、『それ』を拒絶し排斥する。 
 
 イヌみたく『我慢』や『妥協』だなんて、する気ない。 
 それは私達の――私のプライドが、そんな情けないマネを許さない。 
 ネコは確かに怠惰で怠け者な種族であるかもしれないけど、 
 でも同じくらいに身近にある嫌いなものを嫌いなまま、 
 隣の不快なものを不快なままに放置しておく事ができない種族なのだ。 
 
 …嫌いなものと我慢して一緒に暮らさないとダメだなんて、ゾッとする。 
 …知らない人と、知らない物と、同じ空間で過ごすだなんて、耐えられない。 
 
 だから私は、少なくとも私は彼女達が――ウサギの事が嫌い。 
 
 …ううん、淫乱種族同士の同族嫌悪とかじゃない。 
 理解できないのよ、本当に。 
 似ているようで、彼女達は私達ネコとは根っこの部分で本質を異にしてる。 
 どうしてあんな……「無防備」なのか。 
 そして「無防備」なままで……ごくごく普通に【こっちの縄張り】に入ってくるのか。 
 私達と仲の悪いイヌだって、あそこまではしない。 
 まだイヌの方が分別があるわよ、だって彼らは【そこ】までは入ってこないもの。 
 お行儀良しの飼い犬根性かもしれないけど、だから【そこ】まで踏み込んで来ない。 
 イヌだけでなく、ウサギ以外のほとんどの種族が【そこ】まではしない。 
 
 知らない相手に裸を見せる事に、何のためらいも感じなかったり。 
 会ったばかりの相手に、ただの猥談ならまだしも性病とか寄生虫とか聞いてきたり。 
 …幾ら公衆衛生上の、仕事の上で必要不可避な措置だからって、 
 でもあそこまでにこやかに、普通に、対等の存在に対して引け目も躊躇いも見せずに。 
 
 おか……しいわよあんなの。 
 私達ネコだって、あそこまで。 
 …どうしてあんなに、無遠慮なの? 
 ……どうしてあんなに、無神経なの? 
 
 …なんであそこまで、【壁】がないの? 
 何で嫉妬しないの? 何で恥ずかしくないの? 何でそこまで勇気があるの? 
 ……どうしてそこまでそれを抑えて、人の縄張りまで入ってこれるの? 
 プライベートって名前の、他人の絶対領域に。 
 
 止めて欲しい。本当に。嫌よ。入って来ないで。 
 ずかずか。人の裸の心の所まで。赤の他人の癖に。今日知り合ったばかりなのに。 
 
 ――いかなる『哀しみ』をも生み出さないのなら。 
 ――いかなる『傷』をも生み出さないのなら。 
 ――いかなる『犠牲』や『不幸』をも生み出さないのなら。 
 ――いかなる『諍い』を生み出す物事ではないのなら。 
 
 本当に 何 を し た っ て い い って思ってるの? 
 どこまで土足で踏み込んでもいいって本気で思ってるの? 
 
 ……不快なの。 
 哀しまなくても、傷つかなくても、犠牲や不幸がなくても、諍いにさえならない事でも。 
 【私の縄張り】、【私の世界】。 
 くだらない拘り。1センタにさえならないプライド。ただの自己満足。空虚な見栄。 
 
 永遠に他人には理解されない、『諍い』さえ起こらない私一人だけの世界だけど。 
 『哀しみ』さえ生まれない、誰も『傷』つけようとさえ思わない程に価値のない、 
 そもそも『犠牲』や『不幸』の天秤に上がる重ささえない、取るに足らない塵芥だけど。 
 
 ――でも私だけの世界なのよ、誰にも入って来られたくないの。 
 
 
 それだから、私は苛立っていた。 
『……あいつら怖ぇよ』 
 沈黙を破って、ぼそりとヒースが呟く。 
 ……大陸最富裕国、大陸最長の寿命を誇るネコにだって、怖いものはある。 
 
『…ラスキの大将は何か感銘受けてたみてーだけどな』 
『…レティシアちゃんも、そう言えば何でだか感心してたみたいだけど……』 
 あるいは理解できる人もいるのだろうけど、 
 でも私達にとっては、…とても怖い。 
 
『…ニコニコ笑ってるんだよあいつら、まるでなんでもねーみたく』 
 こっちは裸なのに。完全な赤の他人同士なのに。 
『せめて目ぇ背けたり、顔赤くしたり、でなきゃ超機械的にとか、超事務的にとか。 
……いっその事家畜やヒト奴隷でも追い立てるみたいに冷たくとかさ、 
そーいう風な反応してくれるんだったらまだ分かるんだよ、【普通】だからな』 
 いっそ自分は人間で相手は家畜とか、これは機械的な事務だとか、 
 そういう風に割り切った対応を見せてくれれば、納得もできるのに。 
『…なのにほやほや笑ってんだよな、こっちは裸なのに、【人間同士】のままで』 
 人間対人間、対等な存在同士の対話という姿勢を保ちながら、 
 なのに「あるべきもの」が存在しない。…【羞恥】が完全に欠落してる。 
『……ありえねーよ』 
 
 …そう言って拗ねたように斜め下を向いて舌打ちするヒースを、 
 私は素直に可愛らしいと、羨ましいとさえ思った。 
 彼は、バカだけど素直だ。 
 短慮だけど、純粋だ。 
 だから怖いと思ったものを、素直に怖いと人前で洩らす事ができる。 
 …同じネコでも、『見栄』やら『意地張り』やらを積み上げすぎてしまった私と違って。 
 …だから私みたく、こんな風に心の中で醜い葛藤をぐるぐるさせなくて済む。 
 
 …ただ――…… 
 
『…そういやお前、なんでこんなところでいつまでも突っ立って…………』 
 そこまで言って、はた、と止まったヒースの視線。 
 その釘付けになった視線の意味に、奇しくも私もまた気がついてしまった。 
 トイレ前の廊下。 
 私の手の中にある小瓶と、彼が手の中でもてあそぶ小瓶が、 
 まったく同じ形で同じ色の、「同種のもの」だという事に。 
『……ははぁん』 
 やがて上げたヒースの顔の中にあったのは。 
 暗さの中の光明、「仲間を見つけた」と言わんばかりな露骨なまでの歓喜。 
『俺カイチュウ♪ お前は?』 
 
 ……――ただ。 
 バカなんだけど素直で、短慮であっても純粋なのかもしれなくても。 
『なーなー、お前は? お前は?』 
 …やっぱりバカだわこいつ。 
 
『なーなーなーなー、俺だけ言ったのにズルいぞなーオイ』 
 
 私は、苛立っていた。 
 
『ズル…… 『『 条虫よ 』』 
 
 苛立っていた。 
 
『え? ジョウチュウ…って、あれ、もしかしてアレ、サナダ虫? …サナダ虫!!? 
…えーーーー!? マジマジマジマジサナダ虫お前!!? サナダレディなの!?』 
 
 苛立って…… 
 
『ぶははははははははははははは! マジ!? マジお前みたいな完璧仕事女が 
サナダキャリアなの!? お、鬼のキャロ副主任が、お腹にサナダーーっ♪♪♪』 
 
 苛立っていたのだ。 
 
『な、何メートル!? 何メートルのサナ――』 
 ――《アイアンクロー》―― 
『ぎゃあああああああああああああああああああああああ!!!!?!?』 
 
 ネコの女の身体能力は、それでもヒトの男と比べたら倍近くだとかなんとか。 
 ……その身体能力から繰り出される握力でもって、 
 メキメキとかミシミシとか音がするくらいこのジャリネコの顔面を締め上げる。 
 
『いだいでいでいだだだあだあだみぎみぎゃみぎみぎゅみぎいぃぃぃっ!!!』 
 じたばたジタバタもがきながら、涙目になって鳴き声をあげるヒース。 
 ……ああ、いい悲鳴。 
『ず、ずみっ、ずみまぜっ! ごめ、ごめんな、ごめんなざっ――』 
 ちゃんと謝れたところで離してあげる事にする寛大な私。 
 とたんにペタンとその場に座り込んで、 
 顔を抑えたままうぐっひぐっ、とか、ぐすっえぐっ、とか泣き出してしまう。 
 女の子みたいなその様子に自然と私の顔もニヤニヤと綻び―― 
 
 ――いつの間にか、あの苛立ちは消え失せていた。 
 
 
 
━━≪ 1th day PM 5:34 ≫━━ 
 
 最後の一悶着は、保安部からの護衛二人に関してだった。 
『渡せねぇってのはどういう事だよ!?』 
『はい、ですから、あくまでお預かりさせて頂くというだけですので…』 
 全員の検疫が終了し、衣類を返してもらい、荷物や機材も返してもらった時には、 
 すでに城門を潜ってから三時間近く、窓の外はすっかり夕闇に包まれていた。 
 ……これでも比較的平均的な方で、夏季の混雑期や、 
 50名100名といった団体さんの来訪になると、六時間とか掛かる事もあるみたい。 
 …おかげさまで内部には仮の宿泊設備まで整ってて、 
 検疫が深夜まで及ぶような場合には一泊止めてもらえさえするんだとか。 
 ……よく出来てるわよね、ほんと。 
 
 ――で、幸い全員特にヤバい性病やら伝染病が見つかったわけでもなく、 
 (私とヒースに寄生虫、あとは鳳也の翼にノミが見つかったとかで 
 なんか大量にバフバフ粉を浴びせられて彼が泣きそうになってたけど) 
 見事に入国許可が降りたんだけれども。 
 
『私の剣もダメなのか……?』 
『はい、アトシャーマで刃渡り20cm以上の刃物を帯刀あるいは取り扱う際には、 
たとえウサギ以外の他国人の方であっても免許が必要になっておりますので』 
 
 幾つか、持ち込みを制限されたものもあった。 
 こういう時まっ先に 
 スパイの疑いとか機密漏洩防止とかの理由で持ち込みを渋られるはずの 
 手紙や文書類、撮影機材、収録機材に関しては全部オッケーだったんだけど、 
 反面で武器や護身用マジックアイテムの類はほぼ全て取り上げられた。 
 
 武器はもちろん、爆弾や攻撃用の魔導器、火薬や幾つかの種類の油、 
 果ては銃や魔法科学の兵器といった最新のものまで、 
 すべからく『人の殺傷を目的とした物品』の持ち込みは禁止なみたいなのよね。 
 火薬・油みたいな生活必需の危険物、あるいは観賞用の芸術的な刀剣類なら、 
 審査をクリアして許可を貰えば輸入品目としてなら持ち込み可能らしいけど、 
 その審査自体も相当厳しい、よっぽど信用がないとさせてもらえないとの話だった。 
 
 護身用は護身用でも、害になる機能を持たない回復や防衛の効用を持つ魔導器、 
 あるいはライターや火打ち石、ナイフぐらいなら返してもらえたけど、 
 私達も全員が全員、自分の身を守るための武器魔導器の類は取り上げられちゃって。 
 ……でも収まらないのが、ラウ君とレティシアちゃん。 
 まぁ二人みたいな職種の人達にとって、 
 自分の愛剣愛武器は魂の半分みたいなものだものね。 
 
『ですので、こちらの方できちんと保管し、ご帰国の際にお返し致しますので…』 
『〜〜〜〜〜!!』 
 中でも特に憤慨が激しかったのは、ラウ君の方だ。 
 彼、元々大柄で屈強なオオカミの男なだけあって、ナイフ代わりに使ってた 
 短剣でさえ刃渡り25cm超の規定に収まらない大型品だったから、 
 愛用のハルバードも、クロスボウも、ショートソードも、ナイフも、 
 ……全部取り上げられちゃって、完璧な丸腰になっちゃったのよね。 
 あれじゃあ抗議するのも無理ないわよ、 
 レティシアちゃんはまだ短剣だけは返してもらえてたから良かったものの。 
 
『一応、己の名誉や身分上の理由から形式だけでもの帯刀をご所望の方には、 
竹光や棍、模造刀としての軍刀や模造槍なども用意しておりますが……』 
『…チッ、いるかよそんなオモチャ!』 
『……私は貰おうか』 
 結局ラウ君は何も貰わずに、レティシアちゃんは幾つかの模造刀の中から 
 適当な一本を借りて腰に差させてもらう事で決着がついた。 
『……騎士のサガなのか、どうも腰に何か差していないと落ち着かなくてな…』 
 ふてくされて機嫌を悪くするラウ君と、 
 違和感を覚えながらも腰の得物を確かめているレティシアちゃんの言葉。 
 
 
『どれどれ……ほぅ、「暴飲暴食、古傷多し。今は若さで何とか誤魔化しているが 
老化に従って肝臓の疾患や神経痛に悩まされる恐れあり。 
深酒はなるべく控えましょう」か。…ふっ、散々な言われようだな』 
『……うるせぇなぁ』 
 そうしてまたニヤニヤしながらラウ君の背中側から覗き込む彼女と、 
 やはり不機嫌そうに顔を顰めている彼の姿が特に印象に残っている。 
『お前だって「古傷多し、老後の神経痛注意」って書いてあるだろうがよ』 
『それは戦場に立つものの宿命だろう。そうではなく、お前は食生活が不規則な上に 
酒を飲み過ぎなのだ。傭兵だからといって荒んだ生活をしていい訳ではあるまいに』 
『ほっとけ!』 
 
 何の話をしていたかというと、例の恥ずかしい検疫検査の結果が返って来てたのだ。 
 ご丁寧にも専用の用紙に記して、本人自身に公表配布までしてくれている。 
 商工業者の業務用とかならともかく、一般旅行者に対してここまでしてくれるのは 
 あるいはかなり評価してあげても良いのかもしれない。 
 調べるだけ調べた後「通って良し」だけで済ます城塞都市や独立都市なんて 
 ざらではないのに、ここまで親身なのは大陸でも相当珍しい。 
 
 用紙のチェック項目を見てみると、黒斑病、梅毒、血便熱症、白癬、サナトス咳、 
 ネコ風邪、エゼル熱、ヘルペス、砂漠熱、コンジローム、疹炭熱、トラオタフク、 
 ノミシラミ、各種寄生虫、バーサク症候群、クラミジア、淋病etcetc…… 
 
 ……やけに性病や接触感染症が多いような気がしたけど、 
 よくもまぁあるわあるわ、怖い伝染病・感染症は軒並み項目に入ってたっけ。 
 この点は大したものね、と素直に唸ったかな。 
 ネコの王都シュバルツカッツェの中でも、本格的な大病院クラス。 
 それ並の検疫能力だ、これほどまでの規模にもなると。 
 アナクロアナクロ、なんで裸なの裸、不快不快と文句は言ってたが、 
 これほどまでの結果を出されたら、もはや誰も文句は言えないに違いない。 
 現に私だってそうだ。 
 
 ……最後のコメント欄に真新しいインクで記された、 
 「そろそろ若さだけでの無茶が辛くなってきた肉体年齢、健康に気を配りましょう♪」 
 なんていう余計なコメントだけが、すごいムカついたけど。 
 
『……「消化器官の荒れ。神経性胃炎の疑い有。ストレスの溜め過ぎは良くないぞぅ☆」』 
 ちなみにラスキは横で途方に暮れたような顔をしていて。 
『……「羽根の手入れは念入り小まめに。確かにトリノミはトリ以外の身体には 
住みつきませんけど、そんなんじゃ同族の女の子から嫌われちゃうぞぉ♪」…』 
 鳳也がまだ全身を粉っぽくしながら激しく肩を落として落ち込んでいた。 
 
 向こうでは「若い盛り。健康そのもの」と太鼓判を押された若者三人(含む回虫)が 
 カイチュウ野郎約1名の一方的な音頭でこれ見よがしに盛り上がっていた。 
 ……しかもちらちらこっちを見てくるカイチュウ馬鹿。明らかに故意。 
 うわームカつく。超当てつけがましい。 
 まだアイアンクローされ足りないらしいわねあの馬鹿は。 
 あとで再制裁しておこっと。 
 
『はーい皆さんおめでとうございまーす』 
 そう思った所で、出口の受付に座っていたウサギの女の子が間延びした声を上げた。 
 ここまで来るともう隔離領域ではないらしく、屋内の内装も普通、 
 目の前にいる少女もあの仮面白ローブではなく普通の服装で佇んでいる。 
『皆さん全員が揃ってアトシャーマへの入国資格をパーフェクトクリアしましたー。 
後はもう思う存分、ごゆっくり当国でのご観光および滞在をお楽しみくださいー』 
 肌着の上から、貫頭衣は貫頭衣でもこちらは薄手でカラフルな、 
 いわゆるポンチョみたいなのをふわりと羽織り、腰部を布紐で括った格好。 
 ……これがウサギの国の女性の一般的な普段着かしらね? 
 
『ふむ。やっぱり検査で引っかかってしまっても入国は出来ないものなのかな?』 
 そんなウサギの女性の宣言に、 
 さっきの今、こんな所でも探究心旺盛に質問するのは例によってラスキだ。 
 …というか、気がつけばしっかり右手で音封石を光らせている。 
 あんな事やこんな事とかされたばっかりだってのに、仕事熱心よねぇホント。 
 
『ええ。ただその場合でも、他のお仲間の方のご用事が済むまで当施設内にて 
逗留できるように、小規模ですけど宿泊生活設備が用意されていますよー。 
病院も兼ねてますから、多少の重病でも隔離入院・治療療養だって大丈夫ですー』 
『!? 治療まで行っているんですか?』 
 ラスキが驚いた声を上げる。 
 まぁ検疫局が治療施設も兼ねるだなんてこれ以上無い位の理想なんでしょうけど、 
 にしたって器用で多芸よね。ついでに至りつくせり。 
『はいー。もっとも無償奉仕というわけにはいかないんですけどねー』 
 ………あ、でもしっかり金取るんだ。 
 お人好しかと見せかけて、そういうとこはしっかりしてるのね。 
 
『もっとも治療費が払えないという方の為に、別の対価方法も用意してありますがー』 
『例えば?』 
『物納という手もありますし、元気になった後、知識や技術、労働力で返してもらう 
事もありますねー。長期滞在して働く予定の方には1割増で長期分割という方法も。 
特殊な所では、旅芸人や楽師、劇団の方には芸で返してもらうという手立てもー』 
『……その全ての治療費代替を断った場合は?』 
『その場合は残念ですが「去る者拒まず」ですねー。滅多にないですけどー』 
 
 ほややんとした口調から飛び出る、優しいようで意外と冷たい言葉。 
 代替手段と支払猶予を多めに取る代わりに、でもきっちり返してもらうって事ね。 
 ……まぁ酒代や博打代と違って、薬代や医者代の借金を踏み倒す人間は 
 少ないでしょうから、ある意味成り立ってるって言える悠長な返済待機体勢かしら。 
 浪費家や散財家、遊び人が多いネコの国では、こうはいかない。 
 
『それにうちの国はですねー。流石に黒斑病や石化病とかは治せませんけど、 
それでも「性病治療」でだったら、知る人ぞ知るの専門の大家なんですよー?』 
 クスクスとほがらかに笑ってみせるウサギの女性。 
 …………。 
 ……ま、そりゃそうでしょうね、ちょっと考えれば誰にでも想像がつく事かしら。 
 さすが世界一の淫乱種族、淫乱大国として噂されるだけはありまして。 
『南の方々はともかく、イヌの国の北部やオオカミの国の王都、クマやカモシカ、 
あとはヤギの旅団の辺りからは、わざわざその為に来られる方もいるくらいで』 
 160年生きてて知らなかった……のも無理はないか。 
 盛大に喧伝されるような事じゃないもんねこれ。言葉通りの「知る人ぞ知る」。 
 ……『遊び』が過ぎて、こそこそとウサギの国までお忍びで出かける 
 イヌやオオカミ、カモシカ辺りの高貴なお偉いさん達の姿を脳裏に浮かべて、 
 なんともはやと言った感じで溜め息が洩れた。 
 …もしかするとこれ自体、ウサギの国の貴重な「特産物」の一つなのかもね。 
 
『……というわけで、では――』 
 
 
『まさか金払えとか言わないわよね!?』 
『キャッ、キャロ??』 
 さて。 
 びくりとするラスキを押しのけて、私はずずいと彼女の目の前に躍り出る。 
 来ると思ってたわ。 
 思ってたのよ、さっきからずーっとその事を考えてたんですからね。 
 
『頼んでもないのに勝手にあれこれしといて、しかも有無を言わさずの強制で、 
そのくせお金を取るだなんてちょっとムシが良すぎるんじゃないかしら?』 
 これだけの設備、これだけの念入りな検査。 
 絶対金が掛かってないわけじゃない、きっとそう来るだろうと踏んでいた。 
 ふふん、こんな場合によっては半詐欺紛いな、 
 あざとい商法になって引っかかってやるもんですか。 
 ……値切る、いえ、踏み倒してみせる! 
 
『こういうのは国営事業でしょう? 国民の税金でまかなうべき必要なお仕事でしょう? 
それを旅行者から金を巻き上げようだなんて、ちょっと性根が歪―― 
『はいぃ、ですから検査代は要りませーん』 
 
 ――コケた。 
 隣でラスキが呆れたような目で見てるけど、それでもコケた。 
『い、要らない? 1センタも!?』 
『はいー。皆さんが健康になってくれればぁ、私達も嬉しい限りですからー』 
 にこにこと笑顔でそう伝えてくるウサ耳少女、もといウサギ。 
 ええ? うそ? マジで無料? 
『ただしぃ』 
 …………ただし? 
 
『じゃあーん♪ にゅーこくきょかしょー♪』 
 パパパパーンとか自分で可愛らしく効果音を入れながら(恥ずかしくないのかしら?) 
 机の下から引っ張ってきたのは八枚の紙切れ。 
 パピルス(植物紙)ではない、ハンコとサインが記された上質のヴェラム(羊皮紙)。 
 
『8名様の発行で34800センタでぇす♪ お薬代も含めて』 
 
        ※34800センタ=34セパタ800センタ=日本円換算で69600円 (チーン) 
 
『たっか!?』『たっけぇ!!』 
 同時に叫んだのはヒースだ。……さすがネコ同士、感じる事は一緒ね。 
 検査のみ+虫下し2ヶ+ノミ駆除で約35セパタ。これは高い。 
『っていうか何よ薬代って!? 結局検査代取るんじゃないの!!』 
『うふふふふふぅ〜〜。何の事でしょうか〜〜?』 
 胸倉を掴んでガクガク揺さぶっても、にこにこ笑顔を崩さないこのウサギのアマ。 
 でも何故か目は合わせようとしない辺りが確信犯だ。 
 
『さあーどうします〜? 払わないとこの建物から外には出れませんよー? 
入国許可証持ってなかったらふほーにゅーこくしゃになっちゃいますよー? 
魔法騎士団に捕まって、あーんな事やこーんな事も……』 
『わ、分かった、払 『『 ラスキ(大将)は黙ってて(ろ)!! 』』 
 反射的に財布を取り出そうとしたラスキは一喝して黙らせておく。 
 他はともかく、この時ばかりは彼は全く役に立たない、 
 すぐに相手の言い値で手を打とうとする。……だからイヌは馬鹿だってのよ! 
 
『いえー、代金を払って頂けないんでしたら別にそれでも構いませんですよー』 
 対してこの目前のウサギはぱたぱたと手を振りながらにこやかに笑って。 
 ……でも騙されないわよ。 
 もう騙されない。 
 そんな事言ってまた「でも」とか「代わりに」とか「本当は」とか――… 
 
 
『……払って頂けるまで街から出しませんけど』 
 
 
 …………。 
 ……うわっ、黒っ!? 
 ウサギ黒っ!? 白いのは外見だけでお腹真っ黒なのねぇちょっと? 
 ていうか今一瞬この子目ぇ据わったわよ!? 
 声のトーンも一瞬落ちた! 
 誰も気がついてないけど、目の前に居た私にだけは分かった! 
 
『払えない方にはもれなく肉体労働をご紹介♪ 荷物運びから果樹園の水撒き、 
払いのいい仕事では多少寒い目には遭いますけど、北の雪原での粘土掘り作業や 
それを運んで混ぜて焼いてのレンガ職人のお手伝いなんかがお奨めです。 
三食休憩寝床完備ですから、宿に止まるお金すらないという人にもご安心ー♪』 
 
『それは実に見事に整備された雇よ――『『 いいからラスキ(大将)は口開かない! 』』 
 簡単に感心して乗せられそうになるラスキをシャラップさせて私は怒鳴る。 
 ていうか何よその北限労働ツアー! 
 北の雪原って事は、あの猛吹雪の中での作業じゃないのよ!? 
 気がついたらタコ部屋送りにされてましたとか、冷静に考えるとそういう話じゃない! 
 
『そもそも、34800センタ、34セパタ800センタって考えるからダメなんですよー』 
 それをこの白い悪魔は、ネコでもないのに甘言を弄し。 
 
『一人分、8で割って考えて見れば、一人頭4350センタ。ほぉらやすーい』 
『本当だ、安いなぁ』 
『安いですー』 
 
 …………。 
 とうとうラスキに加えてティルちゃんまで安いとか言い出したのに、 
 げんなりした顔で一緒に後ろを顧みる私とヒース。 
 …なんでイヌってこんな騙され易いの? 
 8で割っただけで合計金額変わってないじゃん。それ錯覚効果っていうのよ? 
 
『それにー、アトシャーマでは王城が主導する医療政策に関しては、費用の2/3を 
王城側が負担くれるんです。それは外国人である皆さんに対しても同じですから、 
つまり本当は104400センタの所を69600センタも得してるって事になるんですよー?』 
『そりゃ気前がいいこった』 
『うむ、確かにそれはお買い得だな』 
『…………』 
『ふとっぱらだなですねー』 
 
 …………。 
 ……ネコが守銭奴、ネコががめついんじゃないわ。 
 単に他の種族が ど い つ も こ い つ も バカばっかりなのよ!!! 
 国が何割負担しようが、34800センタは34800センタじゃないの! 
 イヌも、オオカミも、カモシカも、ヘビも、タカも、どうしてそこに騙されるの!? 
 
 34800センタって言ったらね! 
 大安売りの中古魔洸テレビが買えちゃうくらいの金額なのよ!? 
 400センタのとんかつ弁当が87個も買えるのよ!!? 
 やや裕福な社会人一人の、ほぼ三ヶ月分の昼食代金分よ!!!? 
 三ヶ月って言ったら一年の四分の一、一季節、一期分の昼食代金よ!!!? 
 超大金じゃない!!!! 
 
『……貴女、芸や労働での支払いも認めるって言ったわよね?』 
『え? え、ええ、言いましたけどー…』 
『大将、機材持ってこよーぜ。写真撮るかカメラ回すかでマケてもらうぞ』 
『ええぇ!?』 
 心底嫌そうな声を上げるのは、もちろんラスキだ。 
 なんかこう、顔の全てで「払えばいいじゃんそれくらい」っていう顔をしている。 
 …分かってないのね、これだからイヌは。 
 こうい時外面とか体面とか、周囲の人々の視線ばっか気にするからダメなのに。 
 
『…現像設備も再生設備もスタンバってないのに、何をやるつもりなんだ…』 
『つめこべ言わない! ジャーナリストとして無芸な自分が恥ずかしくないの!?』 
『…無芸も何も、実際ヤギの一座よりも無芸だろうがテレビクルーなんてのは。 
そもそもテレビって存在自体がまだあまり世間に認知されてないのに――』 
『うっせーなー、猫井の貴重な取材だぞ!? そんくれーの価値はあるだろーが!』 
 ……「うへぇ」と。 
 こんだけ言ってるのにそんな表情をして迷惑そうな顔を顰めるだけなラスキを見て、 
 私とヒースは同時に悟った。 
 ――「「もうこいつは当てに出来ない」」、と。 
 
 
 ちょこちょこと部屋の隅っこに移動して、スクラムを組んで密談開始。 
 ――私達はネコだ。 
『刻みはこれか?』 
 ヒースが指を一本立てれば。 
『ううん、これで刻む』 
 私は五本の指を全て立てる。 
 ……言われなくても、分かる事。 
 分からない人用に説明すると、 
 刻むというのはどれ位の単位で値を釣り上げるかという意味合いであって、 
 この場合ヒースのしてみせた指一本は1000センタ、 
 私の指五本だと500センタを示す。 
 …50や5000単位じゃない事は、お互い改めて言わなくたって分かる事。 
『始値は?』 
『割って切り上げ(=二で割って切り上げ=18000センタ)でどうよ?』 
『刻みが五なら二万の大台(=20000センタ)からの方が押しが利かねーか?』 
『じゃあそれで行きましょ』 
 何せ私達はネコ同士なので、こういう事に関してはツーカーの仲だ。 
 ガキんちょヒースも、この時ばかりはラスキより遥かに頼もしい。 
 
 …ほんと、誰が守銭奴だってのよ、皆が無頓着すぎるだけじゃない。 
 値切れるところでは値切れる限界まで値切らなければ。 
 お金で命は買えなくても、お金で買えるものの方が世の中には遥かに多い。 
 【タイムイズマネー、マネーイズタイム】 
 
『そうだ、あんた立会い員のウサギの男にセクハラされたってゴネなさい』 
『ええー!? なんで俺がなんだよ、お前の方が適任だろそれ』 
『相手は女よ? 女の私が嘘ついたってバレる確率高いに決まってるじゃないの』 
『……言われてみればそれもそうだな。じゃあ俺が適当に泣いておくから 
お前は「訴えるから」とか「国際問題よ」とか言って潰しかけてくれな』 
『ばっちこい』 
 ラスキが居たら顔を引き攣らせ、 
 他のメンバーが居たらお前らそれでいいのかよと呆れた顔をするのだろうが。 
 …でも適当でいいのよこんなの、重要なのは勢いと剣幕。 
 あとは適当にある事ない事でっちあげて、相手が混乱してる間に畳み掛ける。 
 
 事実、そうやって私達はいつも、取材中の必要経費削減に貢献してきた。 
 現地住民のガイド量を値切り、宿代を値切り、情報量を値切り。 
 ラスキがボーゼンする横で、相手の言い値を叩いて叩いて叩いてきたのだ。 
 特派取材中の班の財布を管理してるのはラスキだが、 
 金銭交渉を任されているのは副主任である私(+ヒース)の方。 
 
『トドメは蛸足(=8割=28000ライン)!』 
『削れるならラッキーセブン(=7割=24000ライン)まで削り込んでみせるぜ!』 
『ゴー、ゴー、ファイ、オー!』 
『イエスマイステディ、グットラック、ファイアスタート!!』 
 この仕事ばかりは譲れない。 
 二人円陣を組んで勝利のための誓いを交わし。 
 
『よし行く―― 『『 はい、これで34800センタ 』』 
『確かに34800センタちょうど頂きました、それでは改めまして――…』 
『『――ってラスキ(大将)! 貴方(あんた)なにやってんのよ(だよ)?!!』』 
 
 
 
『…――ようこそウサギの国アトシャーマへ。外国(とつくに)よりの客人(まれびと)様』 
 
 
 それが、私達がウサギの国アトシャーマに、正式に入国した瞬間だった。 
 
 
 
=―<<2-5 : Calorine still talked : 5th day PM 6:46 >>──────────────‐= 
 
 
「レシーラ教においては他者に刃物を向ける事そのものが禁じられている以上、 
外科医療がお粗末、ウサギの医学水準は低いって一般には言われてるけど…」 
 ぺらり、と次のページを捲りながら私は報告を続ける。 
「…とんでもない、その分内科に関しては方向こそ魔法寄りだけど先進国並。 
特に元々風紀が乱れててセックスが半ばコミュニケーション化さえしてるだけあって、 
性病・性感染症の予防・対策・治療に関してだけならネコ以上でしょうね」 
 ……反面で外科に関してはてんでダメダメというのは本当の話で、 
 盲腸や腹膜炎で倒れるウサギが出たらどうしようもなく、 
 数少ない切開治療の免許持ちであるネコの医師の所に、 
 ウサギの医者本人がオロオロしながら担ぎ込むような光景も見られるってのが、 
 まぁアンバランスというか、極端な話だとも感じたけど。 
 ……でもそれでも尚この街を、「医療レベルが低い」とするのは相応しくない。 
 
「他にも凄いのが、ラスキもチラッと説明してくれた通りに産婦人科方面の技術、 
後は意外なところで、耳鼻科や歯科医、肛門科医の技術が物凄いみたい」 
「『歯』ぁ? 『耳』はともかくか?」 
「ええ」 
 すっとんきょうな声を上げるラウ君に対して、私は一拍頷いてみせる。 
 ……肛門科医の技術がどうして凄いのかについては、誰も突っ込まないらしい。 
 まぁその方が私としても助かるんだけどさ。 
 
「私達と違ってウサギやリスの歯って永久歯に生え変わっても 
一生伸び続けるらしいのよ、それこそ老年に差し掛かるまで際限なくね」 
「…ってオイ、だったらどーすんだよ?」 
 信じられないといった様子でヒースが両手を上げて肩を竦めるが、 
「その話が本当なら、その内上の歯と下の歯が口ん中突き破っちまうだろ?」 
 この様子では、彼もまたその事を知らなかったらしい。 
 ……どこの種族も案外みんな、自分以外の種族に対しては無関心なもの。 
 
「だから齧れるんじゃないの、あんな生のニンジンとかカボチャとか。 
ドングリやヒマワリみたいな木の実木の種、…木の皮まで料理に使うのよ?」 
 そう言って思い出してしまって、ちょっと顔を顰めた。 
 レタスのサラダや生のニンジンの千切りのドレッシング和えとかならまだ判るけど、 
 でも「おやつ代わり」と言ってガジガジ木の皮(甘いらしい)を齧るウサギの子供に、 
 丸ごと生のニンジンやサツマイモをバリバリ食べてる可愛らしい女の子。 
 …あれはちょっとマネできない、向こうも生の肉や生の魚は食べられないみたくに。 
 
「そういったものを齧る事で、自然に伸びた分の歯が磨耗してちょうどいい大きさに 
保たれる、そういう風な仕組みをしているんだね、ウサギやリスの歯は」 
 横からのラスキの補足。 
 ……もっとも、最近では文化レベルが上昇し食生活が豊かになった所に、 
 他所の国から流入してきた「柔らかい食べ物」の影響もあって、 
 歯の伸びすぎや虫歯の増加なんかも地味〜に社会問題になってるらしいけどさ。 
 
「で、そんな風に人生を通しての歯との付き合いが大事だからでしょうね。 
歯医者の技術が物凄くて、すごい儲かっててね」 
 歯が丈夫で滅多に虫歯なんてないイヌやオオカミからすれば、 
 ある意味信じられない光景かもしれない、このそこら中の歯科専門医の多さは。 
「おまけにウサギって、女はともかく男の口がこれでしょ? だから――」 
 
「――? ウサギやネズミはオスにも歯があんのかですか?」 
 
 ――鳳也。 
 バッと全員の目が集中して、ちょっとビビッたように目をしばたかせる。 
 
「…な、なんだよですか皆? なんでそんな目で俺を見んだよです」 
 ……そうだった。 
 舌はあるみたいだから、味覚自体はちゃんとあるみたいなのよね、 
 舌切りスズメ、なんて言うくらいだし。 
 ……ただ、鳳也、っていうかマダラでないトリの男には…… 
 
「……いいから黙ってろよ砂肝野郎」 
 目頭に手を当てて背もたれに身を沈め、疲れたようにラウ君が呟く。 
「なっ!? 何言ってんだよです! ラウさんや師匠にだって、砂肝はあるじゃ―― 
「はい! だから歯の治療が難しいのよね! 男はイヌネコと違って口狭いし!」 
 話がこじれそうな気配を感じて、強引に話の筋をメインに戻す。 
 …ウサギだけでも手一杯なのに、トリのややこしい問題まで抱えたくないってのよ。 
 
「切開を禁止してるだけあって、口内麻酔の技術も相当なもんだったわ! 
…なんでそれを腹を切るのやら胸を切るのやらには使えないのかが疑問なんだけど」 
 そうして切開はダメなのに、やっとこで歯を引っこ抜くのはOKっていう、 
 そこら辺の判断基準もまた微妙に判らなかったりする。 
 …傷害行為じゃないの? どっちも? 
 
 ……脳裏に浮かぶのは、取材先に響き渡っていた、ウサギの子供の泣き声。 
 口の中の感覚が無くなってても怖いのだろう、バタバタ大暴れする子供を、 
 にこにこ笑顔を保ちつつギリギリと全力で押さえつけているウサギの看護婦さん。 
 そうして同じくニコニコ笑いながら、 
 でっかいやっとこを見せつけるみたく閉じたり開いたりするウサギの先生。 
 ……あれは、トラウマになるわよね。 
 ……人を傷つけるのはいけない事とか禁じておきつつ、ナイーブな子供の心を 
 思いっきり傷つけてるような気がしたんだけど、そこら辺どうなのかしら。 
 ……謎だわ。 
 
 
「後は産婦人科方面についてのは話だけど……」 
 話を切り替えかけて、ほんの僅かに言いよどむ。 
「……これはまぁ、出産育児は普通だけど、避妊中絶の方が凄いわけね」 
 チラッと横の方を見ると、フロントから覗いたままのウサギの耳。 
 ……やっぱりやりにくい事この上ない。 
 
「そもそもウサギは、外で淫乱淫乱言われる割には、それほど子沢山じゃないの」 
 ラスキも言ったよう、 
 見境なくも野放図無責任に、ぽんぽん子供を産んでしまうわけじゃない。 
 ――というかそんな事をしようものなら、『こんな狭い街』だ。 
 
「男性用のコンドームに、女性用の経口避妊薬、万が一の時の事後用の殺精剤。 
そして初期堕胎剤が、処方箋なしでも普通にそこら辺の雑貨屋や薬屋で買えるわ」 
「…ショキ、ダタイ、ザイ?」 
 ヒースが耳に慣れない様子で聞き返すけど、まぁそれも無理がないわね。 
 
「…最初期限定だけど、医者に行かなくてもいい、『おうちでできる中絶』よ」 
 本当は経口避妊薬でもまとめ飲みで似たような効果は得られるはずなんだけど、 
 ただし当然そんな『本来』の用法とは違う無茶な使い方をすれば、 
 身体への拒絶反応や副作用は大きいし、身体に及ぶ害や後遺症の危険も多い。 
 だから。 
 
「危険日近くなのに避妊要素なしでやっちゃった時で、 
殺精剤を使うのが遅れた時や、遅れてないけど心配だって時に使うの」 
 初期堕胎剤というのは、聞けば『その方向性』をより肉体負担や副作用がなく、 
 より後遺症の危険もなく安全なように追求して作られた薬なのだという。 
 ――早い話が『最初からその為に作られた』、 
 既に受精してしまった受精卵を、着床前ないし直後の時点で殺す為の薬。 
 
「問題の日から2〜3日内に飲み始めて、7日間。…服用期間中は多少の体調不良や 
熱っぽい感じはするらしいけど、副作用は極小、効果と安全性も確認済みの一品ね」 
 『最初からその為に作られた』だけあり、負担は最小かつ効果は最大。 
 ネコやイヌの国の富裕層に多い人工中絶反対論者からすれば、 
 これはもう殺人云々とか以前に完全に『命を弄ぶ行為』と映るかもしれないけど。 
 …でも倫理とか道徳、生命観の問題を抜きにすれば、 
 確かに万が一の緊急回避の為に、手元にあったならとても安心の薬だと思う。 
 まだまだ子供を作る気はない、一人のキャリアウーマンとして。 
 
「妊娠検査薬の常備を『王城側が公式に推奨』してるあたり、まぁ徹底してるわよね」 
 チロリと舌先を嘗めて、また手帳の次のページをめくる。 
「中絶は外科手術が禁止されてるだけあって、妊娠三ヶ月目までの場合の、 
それも投薬や服薬による形での中絶しか許されてないみたいね。 
四ヶ月以降になっちゃった子を、腹割いてまで中絶するのは違法みたいよ」 
 …こういう話題になると、女の側である私達よりもむしろ 
 男の方が動揺して居心地悪そうにソワソワするのが何とも妙な話だと思う。 
 我ながら酷いなぁと思う反面、でも人生がかかってるだけに思考も自然ドライになるし、 
 ……『母は強し、されど女は酷し』とでも言うべきなんだろうか? 
 
「ウサギの社会には夫婦関係とは別に親友関係に近い緩やかな『互助関係』が 
広く張り巡らされてるってのはラスキも説明してくれた通り。 
だからそんなに堕ろせなくなっちゃって産んじゃった子でも、ある程の援助の下で 
自力で育てていけるってんなら、別に未婚の母でも特に問題は無いんだけど…」 
 そう。 
 別にちゃんと育てていけるんだったら、未婚の母でも非難はされないのだが。 
「…問題は、もう完全に自力で子供を育てていける資力も友人関係もない子が 
妊娠しちゃった、あるいはさせちゃったで、産むしかなくなっちゃった場合ね」 
 これは。 
 
「…これは非難される行為よ。ウサギの社会の中でも、凄い白い目で見られる」 
 
 【無責任な優しさ】、【実力の伴わない優しさ】。 
 …ラスキがしてくれた報告と照らし合わせるに、同じ優しさは優しさでも、 
 ウサギの社会において非難されるのはそういった行為だ。 
 助け上げられもしないのに、相手に向かって手を伸ばすような行為。 
 絶対に育てられないのが分かってて、でも現実を見ないで可哀想だからと産む。 
 ……そんな優しさは優しさなんかじゃない、ただの驕りと弱さだから、 
 相手だけでなく自分をも不幸にしてしまって、更に周りに迷惑までかける事だから、 
 だからした側も、させちゃった側も、等しく激しく非難される。 
 
「そもそもラスキの話の中にもあった通り、この国の父親判定技術は凄いからね。 
特殊な魔力探知波を浴びせて、母親と子供の魔力波長から割り出す方式なんだけど、 
これ、胚の時点、妊娠検査薬で反応が出た時点でもう父親が分かるから」 
 分かるから、父親が分からないなんて事はまずほとんど有り得ない。 
 有り得ない以上、ほぼ確実に男も女と一緒に非難と白い目の対象になる。 
 対象になる以上、男も自然と軽い気持ちでは居られなくなる、 
 女と同等か、それ以上に相手の妊娠の可能性に気を配る必要が生まれ、 
 それが必然的に『無責任な遊び人』が生まれ出る事を抑止していて。 
 
「でもだからそこまで行くのは、本当にほとんど、本当に滅多に居ないのね」 
 だからそんな『育てられない子』は、まず滅多には生まれない。 
「そこまで友達居ない嫌われ者のウサギで、かつ子供育ててけるだけの資力も 
ないってウサギがそもそも居ないし、居ても今度は大抵相手がゼロだから」 
 不思議な事にウサギという種族では、どれだけ見目が良くても容姿が美しくても、 
 でも性格が悪いウサギ、乱暴なウサギ、無責任でワガママなウサギは、 
 自然周囲から人が遠のく、男も女も寄って来ない。…たとえ絶世の美人でもだ。 
 むしろ多少見目は悪くても、性格や気立てが良くて避妊もしっかりする、 
 そんなウサギの方がよっぽどモテモテで周囲に人も寄って来るのはどこも同じ。 
 
「……でもまぁ、『例外』ってのはやっぱりウサギの中にもいるみたいで」 
 ただ万が一ってのは、だけど一万回の試行の中に一回の発生確率を持つという事。 
「そういう『育てられない子』が生まれちゃった場合は……」 
「ど、どうなるのだ!? ……まさか!」 
 何を想像したのかは察しがつくけど、ごくりと息を飲んだレティシアちゃんに対して。 
 
「いえ、子供の方は普通に養子として引き取られるわよ」 
 ホッとした様子で胸を撫でおろすカモシカの女騎士。 
 まぁ彼女、これでは実は大の子供好きだものね、それも無理はない反応かしら。 
 生まれて来た子供に罪はないって考え方は、どこの国でも同じらしくて。 
「ただ、両親の方にはそれでペナルティが付与されて……」 
「……ペナルティ?」 
 
 ――スパッ、と、手刀で首を切る動作をしてみせる。 
 
「し、ししし、死刑ですか!?」 
「んーん、違うけど、…でもまぁ人によってはある意味それに等しい事かな?」 
 慌てる鳳也に余裕を見せつつひらひらと手をかざして見せながら。 
 
「――【血統断絶刑】。……まぁ要するに不妊処置、種無・石女措置ね」 
 
 イヌやオオカミにとってはある意味『死刑』よりも屈辱的な刑なのだろう、 
 目に見えて眉を寄せるラスキやラウ君の方を向く。 
「…と言ってもまぁ、去勢や子宮摘出でなく薬を使ってなのは例によってだけど」 
 
 でも薬というよりは、毒が正しいのかしらね。 
 拘留されてから28日間、新月がまた新月に戻るまで。 
 毎日少しずつそれを飲まされて、その結果種が死に絶える、月のものが止まる。 
 ……つまり微弱な毒を飲み続ける事で、意図的に無精子症や閉経を呼び起こすわけ。 
 ちなみに養子に出された子がどこに引き取られたのかは教えてもらえないし、 
 親だと名乗り出る事も許されない以上は、まぁ実質の子孫断絶。 
 
「養子に出された子はね? 両親を病気や事故、警護中の殉職で亡くしたような 
子達と一緒に、裕福な上流階級に引き取られるのが常なんですって」 
 そうしてそれが上流階級の、名家や有力家の義務だともされているらしくて、 
 より力があり高い資力を持つ家ほど多くの孤児や養子を受け入れる。 
「だからアリアンロッドとイナバの二大名家はもちろん、両家の分家筋に当たる家の 
幾つかは、大抵は『教会』と兼ねる形で私設の『孤児院』の経営しているみたい」 
 余裕のある者が余裕のない者を援助するのが、ウサギの美徳観念だから。 
 
 …そして、こういった政治の表舞台には立たない宗教的な側面がイナバの管轄。 
 教会運営や冠婚葬祭はイナバ筋の人間がやってる部分が多いんだけど、 
 でもこれはアリアンロッドの方はアリアンロッドの方で、都市計画やインフラ整備、 
 福祉厚生の推進といった公共事業に多く労苦を割いてる関係での『分担』みたいね。 
 『政』と『教』の対立の話は、あまり聞かない。 
 ……まぁ私が取材した範囲ではの話で、もしかしたらあるのかもしれないけどさ。 
 
「実に理想的な体制ではないか」 
 憧憬すら滲ませて、感心した面持ちを隠さないレティシアちゃん。 
 まぁ、一面でそれも正しいかもね。 
 大陸最富裕国であるネコの国にでさえいるホームレスやストリートチルドレンが、 
 この国にはいない。 
 ……いないって言うか、そもそも幾ら暖房魔法陣で生活環境整えてるからといって 
 外気温が寒いこの国じゃ路上生活なんて不可能なんだけど、とにかく居ない。 
 
 避妊の徹底に、カモシカやヘビ、ネコ⇔イヌやイヌ⇔オオカミみたく 
 内乱や紛争も発生していない事が手伝って、孤児の完全保護に成功している。 
 それがひいては治安の向上(子供のスリとか窃盗も減るわけだし)や、 
 公衆衛生の向上(浮浪者は伝染病や性病の温床になりがちだしね)にも繋がってる。 
 一石二鳥三鳥、まさに相乗効果のスパイラルだけど。 
 
「……でも言い換えれば【牧場】、【管理された狭い箱庭】とも見れるわよ?」 
 クスリ、と意味深に笑っていって見せれば。 
「……そんな言い方はないだろう」 
 ムッとした様子でラスキが嗜めるような口調を洩らす。 
 確かに彼からすればこの街は理想、実に素晴らしい街に思えるかもしれないけど。 
「じゃあ―― 
 
――じゃあさっき言った種無・石女にするための生殖能力喪失薬の服用を、 
王城が一般庶民に対しても推奨奨励してるって言ったらどうする?」 
 
 
「……!?」 
「へ?」 
「…な…に…?」 
 
 ああ、やっぱりこれには皆驚いてる驚いてる。 
 ラスキさえも掴んでなかったみたいで、目を丸くして驚いてるわね。 
 …無理もない話よ、私だって在住のネコの薬剤師から聞き出した時は驚いたもん。 
 男娼とか女娼とか、あるいは奴隷身分に対してそれを施すとかならまだしも、 
 一般市民が普通にそれを「自分から」してる国なんてね。 
 
「ラスキがウサギの一般身分の女性における子供の数は2〜4人って説明して 
くれたけど、あれは正確にはちょっと違うわね、『5人以上は産めない』のよ」 
 具体的には予防接種や医療費、社会保険、養育費に関しての、 
 国側が負担する要素が5人目からゼロになり、税金免除も受けられなくなる。 
 たったそれだけだけど、でも『助け合い』を主とするこの国にあっては、 
 それは間接的にではあってもの実質的な強制事項だ。 
「四人前までは成人するまでほとんどの税徴収が免除してもらえるのに、 
五人目からは0歳だろうと容赦なくそれが徴収されるとなったら、ね」 
 途中の子供が病死、事故死した場合は勘定に入れられないらしいけど、 
 ともかく既に四人子供を持っちゃったウサギの女性は…… 
「……率先して不妊体質になるわけよ、これ以上子供は増やさない為に」 
 中には三人目を産んだ時点でそれを選択する女性さえ居るくらいだ。 
 大昔には推奨ではなく法まで作られての強制だったり、 
 過去何度かあった伝染病大流行の後に一時解除された事等はあったけど、 
 でもここ300年程は特に目立った動きもなく、 
 国民全員が進んでそうするような、半ば慣習化してしまった趣のある風潮だと、 
 私が話を聞いたネコのおばあさんはしゃべっていた。 
 
「…どうして、そんな――」 
「どうして? 決まってるじゃない?」 
 理解できない、と言った様子で呆然とする鳳也に対して私は断じる。 
 
 
「……【人口抑制政策】よ」 
 
 
 アトシャーマという街は、狭い。 
 都市機能を高密度化・高集積化して、結果ハイレベルな生活環境を保ってるけど、 
 人間が生活可能な土地の総面積自体は狭い。 
 流石にあのヤギよりは大きいけど、 
 それこそネコ、イヌ、クマ、トラ、カモシカなんかと比べたら『猫の額』ほどだ。 
 1000年以上をかけて、じわじわと魔法陣を外側に広げてきた、 
 今でこそ世界最大な半径20kmの巨大都市、生活可能面積を拡大してきたけど、 
 でもそれでもたったそれだけが人の住める土地だ、半径20kmぽっちの極小国。 
 
 …そんな国で、無計画に人口を増やしていったらどうなるか。 
 じわじわ広がる暖房魔法陣の、それ以上の速さで人が増えてしまったらどうなるか。 
 理想の楽園の外側は、氷点下20℃はザラの猛吹雪地帯。 
 さながら強酸の海に囲まれてそびえる唯一の足場、象牙のテーブルかしらね。 
 ……こぼれたら、あふれたら、死ぬしかない。 
 
 それがアトシャーマという国家の本質であり、 
 故にこそ王家が1000年以上もかけて取り組んできた命題でもあったのだろう。 
 安定した雇用、整然とした都市計画、公衆衛生・厚生福祉の徹底に、 
 孤児の完全保護と浮浪者の撲滅、でありながら破綻しない国庫、 
 完璧に把握された戸籍・血縁・住所・婚姻・出産記録と、それらに基づいた税徴収。 
 
 ――『その全て』が、まず第一にの【完璧な人口抑制政策】に起因したもの。 
 災害や伝染病による激減こそあっても、無秩序な急増はありえない。 
 厳しい出産管理に基づいた、数百年以上も続く『常に微増』。 
 アトシャーマがここまで安定した街である理由には、それが一番絡んでいた。 
 
 
 ――イヌは死ぬ。年中ネコやオオカミと小競り合いをしてるような国だし、 
 辺境部の貧困地域での飢饉や疫病は酷いからだ。 
 ネコも死ぬ。都市部と辺境部の社会格差、貧富の差の激しさはイヌと同じだ。 
 この辺はお金持ちでも、イヌと違って社会福祉の未整備さが災いしてる。 
 オオカミも死ぬ。南のイヌとの喧嘩があるけど、辺境部族同士での争いもあるし。 
 サカナは……これはもう現に狭い海の中で散々殺しあって減ってしまった後だ。 
 今でこそ安定してるけど、昔と比べて多くの氏族が死に絶えたらしい。 
 ヘビやカモシカも大量に死ぬ。言う間でもなく、身内で年中争ってばかりだからだ。 
 
 どこもかしこも皆死んでるのよ、生まれた分だけ死ぬ要素がある。 
 戦争。疫病。飢餓。凍死。盗賊に殺されたり、間抜けにも性病で死んだりして。 
 
 でも、ウサギには『そういった類の死』が一つもない。 
 国内に野盗や犯罪者の影はなく、見ての通り外からの疫病も徹底的に跳ね返す。 
 治安が良い、公衆衛生が整っているという事は、 
 すなわち理不尽な死の影に怯えなくてもいいという素晴らしい事でもあるけれど… 
 …同時に『ただ生まれるだけ』、増加の一方で減る要素がないという事でも。 
 
 そうしてそこで無作為に増やしてしまったら、すぐにこの安定も壊れた事だろう。 
 命の誕生は素晴らしい事だけど、『産めよ増やせよ』にも限度があるもの。 
 柵の中にギュウギュウ詰めまでに増えちゃったら、結局また『不衛生』が生まれだす。 
 牧草を食い尽くしてしまうまで増えちゃったら、結局また『飢餓』が生まれだす。 
 一定の資源、一定の土地の中で、許容範囲量以上に人口密度が高まるからこそ、 
 その配分を巡っても諍いや争いが生まれだす、結果『治安も下がる』だろう。 
 
 だからウサギは、他の種族とは明らかに異なった手法を取った。 
 『適当に死ぬ分適当に増やす』んじゃなく、『そもそも最初から増やさない』って手を。 
 …他の種族から見たら明らかに奇異と移るくらいに、そっちの方面に特化した。 
 
 
「――というわけよ」 
 その辺を私が説明してみせると、案の定その場の全員が黙り込む。 
 反発に顔を顰める子、素直に困惑してる子、深く考え込んでしまう子。 
 …色々いるけど、でもここら辺の賛否は正直『人それぞれ』な領域だと思うわね。 
 ラスキの言葉を借りれば、「理解はできるけど実行には移せない」。 
 ……「そういう考え方もなるほどあるだろうな」までは思えても、 
 でも「実生活レベルで実行する」となると話は別になってくる、そういう問題だ。 
 
「……ハッ、去勢されたイヌの楽園かよ」 
 案の定吐き捨てるのはラウ君。 
 吐かれた言葉にかすかにラスキが反応するけど、彼は大人だから声を荒げないし、 
 そもそもラウ君自身もラスキに当てつけていってるのではないはずだ。 
 弱肉強食や自然による淘汰、誇りと言ったものに重きを置くオオカミにとっては、 
 やはりこの考え方は受け入れ難いものらしいみたい。 
 
「…そうだろうか?」 
 反面、そんなラウ君に対して異を唱えるのはレティシアちゃん。 
「少なくとも延々飽きる事なく身内で争い、産んだはいいが育てられずに捨て、 
二親の居ない子を次々に生み出してる国よりは遥かにマシだと思うがな」 
 そう言う彼女は、でも経歴が経歴だから。 
 …それがもう嫌になって国を出て来たカモシカの彼女には、この国のあり方は 
 自分の国のそれよりも遥かに立派なものと映るのかもしれなかった。 
 虚空を見つめる灰色の瞳は、どこか虚無というか空しさみたいなものを孕んでいる。 
 
「…………」 
 ラスキも似たような面持ち。 
 詳しい経緯は私でさえ聞けた事がないけれど、彼も色々出自が複雑なんだとか。 
 …彼も、レティシアちゃんも、だからつまりはそういう人種なんだろう。 
 ――もう「争い」や「諍い」に疲れてしまったタイプの。 
 
「……俺には……分かんねーですね」 
 鳳也は、これは困惑型。 
 イェスパーやティルちゃんも、この場に居たら彼と同じ反応だったと思うわね。 
 ……まだ若いからね、この子達の場合。 
 自分というものを確立するには、嘗めた辛酸と人生経験が足りない。 
 
「別にどうだっていーだろ、俺らが関わるわけじゃねーんだし」 
 そしてヒースは。 
「向こうは向こう、他所は他所だろ?」 
 ……私と同じ、無関心型かしら。 
 
 私も基本ヒースと同じ考え、だからここまでドライに客観視を保つ事ができる。 
 どこの誰が、どんな考えでk何をしようと私には関係ない、人の勝手。 
 こっちにまで迷惑が掛からない範囲でだったら、何をやろうとお構いなしよ、私達は。 
 ……強要されたり、火の粉がこっちまで飛んできたりすれば、話は別だけど。 
 
 
「ただ、そういうわけで言えば、子作りってのはウサギにとっては貴重な事でね」 
 ま、あまり暗くなり過ぎないよう、救いを入れておく事は忘れない。 
「成人しちゃうと親子の概念は薄くなるけど、どの女性も子育てに関しては慎重よ。 
よっぽど踏ん切りがつかないと妊娠までは行かない分、どの子も大切に育てるわ」 
 親子の関係は薄くなるって言っても、血縁自体はしっかり管理されてる、 
 近親婚や近親出産が禁忌事項なのも付記して置こうかしら。 
 流石にその辺の常識はある……と見せかけておいて、 
 でも「同性だったら」親子や兄弟姉妹でも結婚できる、性交渉していいってのが、 
 やっぱりこの国がぶっ飛んでる事の表れかとも思う。 
 「遺伝学的に欠陥のある子供が生まれやすいからダメ」ってだけの話な以上、 
 「その心配さえ無いなら別にオッケー」なんですって。 
 …なんだかなぁ。 
 
「……だからさっきラスキが言ったみたいなウサギの旦那さんみたいな例は、 
本気で凄い稀有って言えるかもね。どこまでモテモテなのよ、八児の父って」 
 そうしてやっぱり、それも珍しい。 
 …単にたくさんの女性と関係を持ってるだけなら珍しくもないにしても、 
 子作りに対して慎重な女性が多い以上、 
 「子種だけでもいいので下さい〜」なんて群がられるウサギは、 
 アトシャーマの中にあっても相当珍しい部類のはずだ。 
 モテモテならぬ、超モテだろう。モテモテのウサギが尚羨ましがるぐらいに。 
 よっぽど人格が優れてるのか、あるいは魔技師の腕が優秀なのか。 
 
 
「……報告は、それで終わりかな?」 
 一区切りついた間を締めるようにして、ラスキが取りまとめの采配をする。 
 こうやって良き司会役を務めながらも、 
 きっと彼の頭の中は既に今の私の報告を組み入れた上での、 
 明日の取材予定や質問内容、情報収集の方向や方針に関しての変更に転換、 
 それらを踏まえた新たなスケジュールを組み立て直しているんだろう。 
 とにかく仕事一筋で行動に無駄がなく、そうして「仕事しか」ない奴なのだ、この男は。 
 
「ううん、本当はあと一つ二つあるんだけれど――」 
 ページを捲り、言いかけたところで、 
 
 
 
=―<<2-6 : the bell of dinner time : 5th day PM 7:00 >>─────────────= 
 
 
 ――――ラーー……ン…… 
 
 聞き覚えのある、金属質の重低音。 
 
                      ――――ローー……ン…… 
 
         ――――ラーー……ン……    ――――ローー……ン…… 
 
「……飯の鐘か」 
 フン、と鼻を鳴らしてラウ君が言う。 
 正確には『夕餉の鐘』なんだけど、多分言っても無駄よね、この子の性格じゃ。 
 
「……あと一つ二つあるんだけど、まぁ今日は止めておくわ」 
 パタン、と手帳を閉じてポケットにしまい。 
「まだちょっと調査が不十分なところもあるから、明日の晩に回しましょう」 
 …――そうして、考える。 
 
 
 
 二つ、言えなかった事、言えるわけがない事。 
 
 ただでさえこの街、普通そうに見えて、でもどっかおかしいのに。 
 セックスという行為の捉え方、同性愛に対する構え方、 
 中絶や不妊に対する考え方で、既に他の種族比べて大幅に食い違ってるのに、 
 更にそこに間髪置かず巨石を投げ込むような事、できるわけがない。 
 混乱を招くだけだ。 
 
 ラスキはともかく、他のメンバーは仰天して理解が追いつかないはず。 
 二つの内の一つ―― 
 
 ――【自殺や安楽死が法的にも世間的にも許容されてる】だなんて。 
 
 
 【エウタナシア】とウサギ達は呼んでいた。 
 【エウタナシア(良き死)】と。 
 ペインクリニック、…麻酔科とかの「苦痛を取り除く為の医療技術」は 
 ネコの国でも認知されて発達しているけど、でもここまでは。 
 …ましてや自殺、自死を国で公認だなんて、ウサギ以外の何処がしてるだろう。 
 
 そして二つの内のもう一つ、分からないのが【プシュケセラピア】。 
 
 ……これは、正直【エウタナシア】以上に理解不能だわ。 
 職業…っていうか、病院の一種らしいんだけど、共用語にも対応する語句がない。 
 表札代わりの看板に書かれた言葉の意味が分からなくて、 
 道行くウサギにその意味を尋ねてみたら、『心の病院』『心のお医者さん』だと。 
 …確かに直訳すれば、プシュケ=心/魂、セラピア=癒し/治療で、 
 ……心医?……心科治療?……みたいな意味になるんでしょうけど、でも。 
 
 ――でも心は病気にならないわよね? 病気になるのは身体でしょ? 
 
 心や魂の強い弱いはあっても、『病気』ってのは、無いわよね? 
 ネコの私でも、猫井社員の私でも、聞いた覚えが無い。 
 
 ――悩み相談所みたいなものかと思ったら、『きちんとした病院だ』って言うし。 
 
 ――気の触れた人間や狂人の隔離所かと思ったら、それも違うみたい。 
 
 ――『でも心は体みたいに怪我をしたり病を負ったりはしませんよね』って聞いたら、 
 相手は『そんな事はありませんよ、心だって病気になるじゃないですか』って。 
 
 ……レシーラ教の教義とかも関わって来てるのかもしれないけど、 
 自殺や安楽死が許容容認されているのといい、このプシュケセラピアといい、 
 避妊や中絶に関する考え方以上によく分からない、理解できない。 
 大陸一の淫乱種族だとか見境無しだとか、もうちょっと簡単に考えてたけど。 
 …でもひょっとしたらもっと根深いところ、根本的なところで、 
 ウサギという種族はイヌやネコなんかとは違ったものを持ってるのかもしれなかった。 
 …『人生観』とか『生死観』で、何か決定的なズレがあるというか。 
 
 
 
「ああ、イェスパーとティル君も降りてきたね。それじゃ行こうか」 
 湧き上がる疑念は尽きず。 
 ラスキの言葉に、 
 だけどそんな疑問の雲を、私は自分の頭の中から追い出していた。 
 
 仕事の時間は、今はこれでおしまい。 
 ご飯の時間は、ご飯の時間。 
 
 …気にならないって言えば嘘になるけど、でも今の時点で悩んでも答えはでないし。 
 …全ては明日改めてそっち方面で取材して、もっと情報を集めてからの話。 
 悩んでもどうしようもない事を悩むのは、私達ネコの主義に反する。 
 だって落ちモノの映画でも女の主人公が言ってたじゃない? 
 
 ――『明日は明日の風が吹く ( Tomorrow is another day. ) 』って。 
 
 
 めいめい椅子から腰を上げる中、やおら騒がしくなりはじめたロビー内を、 
 現金な私は早くもウキウキとした足取りで横断し始めていた。 
 
 うん、楽しくないわけないじゃないの、こんな素敵なホテルでの豪華な食事。 
 ……経費で落ちると思えば、尚更によ。 
 
 
 
=―────────────────────<Chapter 2 『Q.E.D.』 out >───= 
 
 
 
 
 
 

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