ケーキが美味しいと巷で評判の欧風喫茶『Noel』の営業時間は、午後9時まで。  
しかし、キリスト教徒の特別な日はであるクリスマス前後は少し営業時間が延長され、午後11時までとなる。  
つまり後片づけをする従業員の帰宅時間は、  
「12時10分か……」  
疲労と共にため息を吐き出す。  
まぁ、稼ぎ時なんだから仕方ないのだろうが、変わってしまった日付を見ると、やはり少々陰鬱な気分にならざるを得ない。  
「じゃ、お疲れでーすっ!」  
まだ店の奥で会計処理に泣いているであろう店長に聞こえるように大きめの声を掛けて、俺はバイト先を出た。  
帰り道を一歩踏み出した途端に容赦なく吹き付けられた風に、身を震わせる。  
こんな時は出来るだけ皮膚の露出面積を少なくしておきたいのだが、右手に紙の箱をぶら下げているため、それも不可能だった。  
どうしろっつーんだ、これ。  
独白と共に箱を見下ろす。中には店長が売れ残ったからとくれたケーキが1ホール丸々入っていた。  
賞味期限は明日。ちなみに俺は一人暮らし。  
繰り返そう。どうしろと? 三食ケーキで済ませろと? 冗談じゃねぇ。  
「いざとなったらあいつにやるか」  
そう呟いたときだった。  
従業員用出入り口がバン! という激しい音と共に開かれ、白い弾丸が飛び出してきたのは。  
「先輩センパイ桂木せんぱーいっ! 今上がりですか奇遇ですね偶然ですね必然ですね運命ですねっ!   
実は私も上がるところなんですっ。一緒に帰りません?」  
弾丸は恐ろしい勢いで捲したててきながら、器用に俺のちょうど目の前でキキッと急ブレーキで止まった。  
まぁ……そろそろだろうと思っていたのだ。こいつも今日終了までバイトに入ってたし。  
この白いコートに身を包んだ少女の名は望月雪穂。  
俺より2歳年下で、やはり俺と同じく『Noel』のアルバイトスタッフである。  
しかしこいつ、俺と同じく3時からラストまで9時間勤務だってのに、平然としてるとは。  
もちろん忙しさは平常時と比べものにならないのに。  
「望月……お前ってタフだよな」  
「せんぱ〜い。花も裸足で逃げ出す大和撫子に向かって『タフ』はあんまりじゃありませんか?   
私的にはもっと可愛らしい表現を希望します」  
「大和撫子? んなもんどこにいるんだ、どこに」  
「ほらほら、目の前にいるじゃありませんか。私、望月雪穂は大和撫子道を全力爆走中でございます〜」  
とぼけてやっても望月はまるでへこたれず、コートの端をつまんで西洋風のお辞儀をした。  
何故大和撫子のくせに舞踏会風の礼をするんだ。つーか、大和撫子は全力爆走しねぇ。  
そんなツッコミを入れるのも面倒くさくなって、髪をガシガシと掻く。  
と、そんな俺の様子をめざとく見逃さなかった望月が、小さく小首を傾げながら尋ねてきた。  
 
「どうしたんですかセンパイ、ツッコミにいつものキレがありませんよ。  
どこか悪いんですか? どこが悪いんです? 頭ですか? 態度ですか? 目つきですか?」  
「ははははは〜。そうだ望月、クリスマスは過ぎてしまったが、お前にプレゼントをやろう。  
受け取ってくれるか?」  
「ええっ! センパイが私にプレゼントですかっ? もちろん受け取ります受け取りますっ。  
それで何をくれるんですか? プラダのバッグ? ヴィトンのバッグ? それともエルメスのティーカップ?」  
「ははははは〜。食らえ、顔面矯正手術っ」  
頬を両手で思いっきり引っ張ってやった。  
「ひ、ひひゃいれふ、ひひゃいれふセンファイっ」  
「おお望月、なんか痛そうだな。どこが悪いんだ、頭か? 態度か? 目つきか?」  
「ひゅいみゃふぇんひゅいみゃふぇん。わふぁふぃのくふぃがわるふぁっふぁれふ〜」  
ちなみに日本語変換すると、『すいませんすいません。私の口が悪かったです〜』となる。  
うむ、反省しているようなので、許してやるか。ふっ、甘いな、俺も。  
「ほーら、もう捕まるんじゃないぞー」  
「ひゃうっ」  
解放された望月は、両頬をさすりながら恨みがましそうな目で俺を睨んできた。  
「うう、顔は乙女の命なのに。ひどいです、センパイ」  
「お前がいらん事を言うからだ」  
こんな阿呆なやり取りをしていても、当然自宅は近づかない。つーか、まだ一歩も歩いてねぇし。  
俺はずれかけた鞄を肩にかけ直すと、まだ頬をさすっている望月に声を掛ける。  
「ほら、とっとと帰るぞ」  
「あっ、はいっ」  
歩き出した俺の隣に、望月が並ぶ。  
同じ町に住み、バイトもラストまで残ることが多いので、いつの間にか俺と望月はこうやって一緒に帰るようになっていた。  
あまりにもそれが定着しすぎて、たまに一人で帰るとき違和感を覚えるくらいである。  
「はぁ〜、クリスマスですねぇ」  
望月の呟きに顔を上げ、彼女と同じ方向に目を向ける。  
12月26日に日付が変わったばかりなので、商店街の飾り付けはまだクリスマス一色だった。  
「そうだな。俺としては客が多い迷惑な日だったが。あー、疲れた」  
俺のため息に賛同するように、望月もようやく疲労の色を見せる。  
「ホント、多かったですよねぇ〜。それもカップルばっかり。  
憧れますよね〜うらやましいですよね〜呪い殺したくなりますよね〜」  
「何気なく不穏な言葉が混じっていたような気がするが」  
「いいんです。クリスマスに恋人のいない人には、愚痴を言う権利を神様が与えてくれてるんですよ」  
ふん、とそっぽを向いた望月に、俺はふと尋ねてみる。  
 
「そういやお前、彼氏とかいないのか?」  
それが地雷だと知らずに。  
「せんぱぁぁぁぁぁぁぁぁい」  
呪詛のような声だった。  
「彼氏のいる女の子が、22、23、24、25とバイト漬けすると思います〜〜〜〜?」  
地獄の鐘の音のような声だった。  
俺が迫力負けして目を逸らしてしまっても、臆病者とそしる人間はいないに違いない。そう思わせる声だった。  
「ああ、言われてみれば確かにそうだった。すまん謝る」  
だからその呪い殺しそうな目はやめてくれ。  
俺の願いが通じたのか、望月が近づけていた体を離す。  
俺は危機が去ったことにほっと胸をなで下ろしたが、一度覚醒した望月の心はまだ収まっていないらしい。  
今は子供のみたいに道の小石を蹴っていた。いじけモード絶賛進行中である。  
「うう、麻美も里子も彼氏いるし、みーちゃんとしのりんは好きな人といい感じなのに、私だけ、私だけ……」  
恐ろしいくらいの落ち込みようだ。  
地雷を踏んだ自分が、ものすごく悪いことをしたような気になってくる。  
「あー、私も一度でいいから彼氏と素敵なクリスマスを過ごしてみたいなぁ……」  
「何だ、お前彼氏いたこと無いのか?」  
「えっ? ああっ!」  
何気なく返した言葉だったのだが、望月はそれまでの様子から一変、慌てた様子で、  
「そ、それはですね、実質恋人というものがいたという記録は公式には残っていませんが、  
やっぱり実質的にもいない――じゃなくてっ、その、あの」  
何とか誤魔化そうとしたが、誤魔化しきれずに、  
「……………………はい」  
ついには観念したらしく、首肯した。  
「別に隠すことでもないだろ。お前の歳なら、今まで一度も恋人を作ったことが無くても不思議じゃない」  
「しかしですねセンパイ、私のそういった噂が世間に広まってしまうと大人の女としての魅力がですね」  
「寝言は寝てから言えボケ」  
「センパイ、いつになくツッコミが厳しいです」  
「忠告だ。大人の魅力とやらが欲しいのなら、まずその口を閉じることから始めろ」  
「それは無理なので私の魅力を醸し出す方法は別のプランを考えましょう。  
えーと、まぁそれでですね、私の周りにいる友達はみんな彼氏持ちか恋愛順調進行中なんですよ。  
毎日のろけ話や経過報告を聞かされると、やっぱり落ち込むわけでして……」  
「焦って好きでもない奴と付き合ってもつまらんぞ。気長に待て」  
励ましてやろうとうつむいた望月の頭にポンと手を乗せたが、  
「そうですね」  
返ってきたのはいつもとは違う、弱々しい微笑だった。  
くそっ、んな顔するんじゃねーよ。こっちまで調子狂うだろうが。  
あー、仕方ねぇか。地雷踏んだのは俺だしな。詫びというわけじゃないが、俺の恋愛遍歴も暴露してやるか。  
「焦らなくても、お前と同じ立場で2年先輩の奴が目の前にいるんだからな」  
「そうなんですかー。…………えっ! 桂木センパイ、今まで彼女いたことないんですかっ?」  
「……そうだ。悪いか」  
苦々しく頷く。くっ、出来るならこいつには弱みを知られたくなかった。  
「なるほどなるほどー。センパイも彼女いたことないんですかー。いいこと聞いちゃいました。えへへ〜」  
心なしか、いや、ものすごく嬉しそうだ。自分と同じ境遇の寂しい人間がいたことが喜ばしいのだろう。  
 
「………………よかった」  
小さな、ほんの小さな声だったが、その声は俺の耳に届いた。さすがにここまで喜ばれると、面白くない。  
こいつを調子に乗らせるのもここまででいいだろうと判断し、反撃開始。  
「ほほう、『よかった』だと? 尊敬する桂木景樹くんが生まれてこの方恋人のいない寂しい人生を送っていることが、そんなに喜ばしいのかね?」  
「えっ? あ、いや、違うんです違うんですよセンパイ」  
最後の台詞は聞かれていなかったと思っていたのだろう、望月は手を振りながら慌てて弁明する。  
「何が違うんだ? それ以外の意図があるのなら是非にも聞きたいんだが」  
「あ、えーとですね、センパイの激ツッコミは私以外の女性にやってしまうとドメスティックバイオレンスの領域に達してしまうと思うので、  
初めの優しい素振りに騙されてうっかりセンパイと付き合ってしまって不幸になる人がいなくてよかったな〜と」  
「ははははは〜。望月、お前は正直者だなぁ。それ、ご褒美をやろう」  
「ひひゃい、ひひゃいれふセンファイっ」  
「おお、どんどん伸びるぞ」  
「ひゅいみゃふぇんひゅいみゃふぇん。わふぁふぃがわるふぁっふぁれふ〜」  
声に泣きが混じってきたところで解放してやる。うむ、なかなか柔らかい頬だった。もう少し楽しめばよかったかもしれん。  
満足した俺とは対照的に、望月は両頬をさすりながら、恨みがましそうに呟いてくる。  
「うう、ひどいですセンパイ。口裂け女になっちゃうかと思いましたよ」  
「よかったな。お前の大好きなケーキが2個同時に食べられるじゃないか」  
「一個ずつ食べるから小さな口でいたいです……」  
まぁそうだろうな。  
「うう。センパイ、私も女の子だってこと忘れてません? 他の子だったら今頃訴えられて刺されてますよ?」  
「お前がいらん事を言うからだろうが。それに、お前以外にはこんな肉体的ツッコミはしねぇ」  
俺の言葉に望月はしばし考えるように動きを止めていたが、  
「なるほど、センパイにとって私は代替え不可能なかけがえのない存在なんですね」  
「どこをどう捉えたらそんな結論が導き出せるんだ、お前は」  
「センパイのオンリーワン。悪くない響きですねぇ〜」  
聞いちゃいねぇ。望月は何が嬉しいのか、鼻歌交じりで足取り軽く歩み出す。まったく、わけわかんねぇ。  
しかし……望月に彼氏がいないどころか、恋愛経験もゼロだとは。正直以外だった。  
望月の容姿は悪くない。肩まで伸ばした髪に、くるくるとよく動く表情。騒がしいのが難点といえば難点だが、空気の読めない奴じゃない。  
認めるのは癪だが、俺から見ても魅力的な女の子だと思う。  
「センパイ、どうしました?」  
俺の視線を感じたのか、望月が振り向く。こんな何気ない動作でも、目を引く何かがある。  
まぁ、こいつがホールでウェイトレスをやってるだけで、雰囲気が違うからなぁ。望月目当ての客も多いって噂だし。  
「いや、お前って男からの人気高そうなのにな」  
俺の正直な感想に、望月はさらりと答える。  
「う〜ん、ぶっちゃけ言うと、結構モテます」  
「謙遜しねぇのかよ」  
「今月だけでも2回ほど別のクラスの男子生徒に告白されましたし」  
「しかもさり気に自慢話か」  
「やはり私の大和撫子的魅力にみんなメロメロなんでしょうか?」  
「無い。それは無い。つーかメロメロって表現古いなオイ!」  
「それじゃあ私の大和撫子的魅力にみんなクラクラ?」  
「たいして変わってねぇし! つーか大和撫子ならもっと控えめにしろっ」  
「いえ、私は控えめさとノリのよさを兼ね備えたスーパー大和撫子を目指しているので」  
「スーパーって時点で大和撫子じゃねぇっ!」  
「さすがセンパイ、ツッコミ所は逃しませんね。ぐっじょぶですっ!」  
望月がビシッと親指を突き立てて俺に向かってウィンクしてくる。  
一瞬その指をあり得ない方向にねじ曲げてやりたい欲求に駆られたが、何とか自粛した。  
「どうしたんですか〜センパイ? 難しい顔でこめかみを押さえて?」  
「何故お前のボケに丁寧に付き合ってやってるのか、自分に真剣に問いかけていたところだ」  
「相性がいいんじゃないでしょうか? 私の知る限り、センパイほどのツッコミ上手は他にいませんよ?」  
「んなことで褒められても嬉しくねぇよ」  
盛大にため息を吐くと、白い霞が宙に浮かぶ。  
白煙が夜の闇に消えるのを見届けてから、俺はいつの間にか止まっていた足を動かし始めた。  
 
「で、好みじゃなかったのか?」  
「え? 何がです?」  
聞き返す望月に、俺は足りなかった言葉を継ぎ足す。  
「告白してきた連中。まだ彼氏いたことないんなら、振ったんだろ?」  
「――ええ、はい、まぁ。好みじゃなかったというか、その人達と付き合うって言う選択肢は最初から頭になかったので」  
「オトモダチから始めるってのもありだったんじゃないか? 人間、相手を異性として意識すると今まで見えなかった一面が見られるって言うぞ」  
俺の言葉に望月は頬を膨らませ、  
「焦って好きでもない人と付き合ってもつまらないって言ったのセンパイじゃないですか」  
「まぁ……そうだけどな」  
そこで望月は足を止めた。つられた足を止めた俺に、望月の顔が向けられる。  
「それに――」  
望月の表情がはにかんだような、笑顔になる。それはきっと――  
「好きな人が、いますから」  
恋する女の子の、表情だ。  
「そうか……」  
「片思い、ですけどね」  
でもその顔は、完全無欠に幸せそうな顔じゃなくて、どこか寂しげなものが混じっていた。  
だが望月はそれを一瞬で消すと、いつものような明るい笑顔に戻る。  
「もちろん片思いのままで終わらせる気はさらさらありませんよ? いつかはこの乙女の魅力で彼のハートをゲットですっ。」  
「……ゲットって……微妙に古くないか? ……まぁいいか。それで、相手はどんな奴なんだ?」  
「えっとー、ぶっきらぼうで意地悪ですけど、本当はすごく優しい人です」  
「そんな一昔前の少女漫画の登場人物みたいな奴、いるのか?」  
「あはははは〜。案外近くにいるものですよ〜」  
いつもの望月。いつものように見える、望月。  
「好きになってからもう二年くらい経つんですけどー、なかなか進展しなくて」  
二年前っていうと、俺と望月が出会ったときぐらいだな。  
二年間で俺も望月もすっかり『Noel』に馴染んで、馬鹿なやり取りをするようになって――そんな長い月日の間、こいつはその相手への想いを抱き続けていたのか。  
もしかしたら届かないかもしれない想いを、大事に、大事に、自分だけの宝石箱にしまって。  
 
「届くと、いいな」  
「え?」  
突限投げ掛けられた言葉にきょとんとした望月に、俺は出来る限りの気持ちを込めて、  
「届くといいな。その想いが」  
彼女の願いが叶ったらいいと、祈る。だけど――  
「――そう、ですね」  
望月の顔が、泣き出す寸前の子供のように歪んだような気がした。  
しかし瞬きをした後、もう一度見ると、そこにあるのは普段の望月の笑顔。  
……気のせいだったのか?  
「うう、今年のクリスマスこそはって思ってたんですけどねー。一ヶ月前の計画では、今頃いちゃいちゃのらぶらぶだったのに〜」  
気のせいだったらしい。どこをどう見てもいつもの望月だ。  
「つーか告ればいいんじゃねーか?」  
俺の提案を望月は慌てて両手を振って却下する。  
「自分から言い出すなんてそんなそんな! お淑やかで臆病で可憐な乙女である私には百年経っても出来そうにありません」  
「さり気に自分を誉めてんじゃねぇ」  
「アプローチは積極的なものから消極的なものまでよりどりみどりでしてるんですけどねー。あんまり効果がないみたいです。  
っていうかその人、基本的に鈍感なんですよー」  
望月が「はぁぁぁぁ」と盛大にため息を吐く。俺はそれを見て、こいつもため息を吐くこともあるんだなーと何だか妙な感想を抱いてしまった。しかし、いつも猪突猛進が信条の望月がここまで弱気になるとは。どんな奴なんだ、そいつ。  
「そんな奴いるのか? 鈍感なフリしてるだけじゃねーの?」  
俺の問いに、望月は恐ろしいほど真剣な顔で首を振る。  
「いえ、天然です。間違いなく天然です。スーパーウルトラハイパーグレート天然記念物的超絶級の、すっっっっっっっっっっっっっっっっごい鈍感です」  
「そ、そこまでなのか………」  
望月がここまで断言するのだから、相当な朴念仁なのだろう。  
一昔前の少女漫画に出てくるような奴だと思っていたが、少年漫画のラブコメ主人公要素も兼ね備えている人物らしい。  
しかし……そんな人間が実在するとは……。  
「一度会ってみたいもんだな」  
そう俺が口に出したとき、  
「………………ほんと、鈍感です」  
「ん? 何か言ったか?」  
「いっ、いえいえ。気のせいですよきっと。月が囁いたんじゃないですか?」  
「38万キロ離れた無機物が喋るか」  
ま、どこかで流しているテレビの音声でも聞こえたんだろう。そう納得して、いつの間にか止まっていた足を再び動かし始める。  
もうそろそろ、自宅と望月の帰り道との分岐点だった。  
 
しかし、なぁ……。  
チラリ、と俺の後ろを歩く望月に目をやる。  
いつもうるさいくらいにやかましくて、怖いものなんて何もないようなフリして、無駄に明るくて――そんな望月に、二年も片思いするような相手がいるなんてな。  
もちろん望月だって普通の女の子だから、落ち込むときもあれば、泣きたいときだってあるだろう。  
振られるのが怖くて気持ちを言い出せないのかもしれないし、自分の気持ちが相手に届いてないのを感じて、やりきれなくなる日もあるだろう。  
でも、それでもこいつは諦めないで、明るく振る舞って、泣いている姿を誰にも見せないんだな。  
「なぁ望月、ひとつ良いアイデアがあるんだが」  
「何のアイデアなんですか?」  
人差し指を一本たてた俺に、興味津々で食いついてくる望月。  
「その好きな相手、『この鈍感野郎っ』って言って一発殴ってやれ。ストレス解消にもなるし、もしかしたらそれが切っ掛けで気持ちが通じるかもしれんぞ」  
「こんな風にですか? この鈍感野郎っっっっっっっっ!」  
「ぐはっ!」  
望月の体重を込めたストレートが見事、俺の脇腹を直撃。  
肝臓にダメージを追った俺は思わず冷たいコンクリートの大地に膝を突いた。  
「…………て、てめぇ……誰が……俺を殴れと……」  
「ああっ、すいませんすいませんっ! 思わず手が出てしまいましたっ。大丈夫ですかセンパイ?   
大丈夫なら可愛い後輩のいたずらと思ってお仕置きは勘弁してくださるとありがたいのですけど」  
「どさくさに紛れて……都合のいいことを……」  
痛みが治まってきたところで、俺はゆっくりと立ち上がる。  
それを見て、望月は両頬をガードしてから二、三歩後ずさる。  
「ごめんなさいごめんなさいっ。せめてほっぺは許してくださいこれ以上伸びたらおたふくになっちゃいます〜」  
「ていっ」  
「ひゃうっ……って、あれ?」  
俺は望月の頭にチョップを喰らわすと、地面に転がっていた鞄を肩にかけ直した。  
雪が積もってなくてよかった。積もってたら今頃服も鞄も悲惨だったろうし。  
「あの……センパイ?」  
「あ? 何呆けてんだお前」  
俺は服に着いているかもしれない汚れを払いながら、望月に目を向ける。ま、少しは溜まっていた鬱憤も、晴れたかな。  
あんまり無理するんじゃねーぞ、望月。愚痴ぐらいなら聞いてやるからさ。  
心の中でそう呟いて、歩き出す。だが、その俺を呼び止めたのは、  
「あの……センパイ」  
いつもとは違う、望月の声だった。  
「あ? どうした?」  
「…………ありがとうございます、センパイ」  
浮かべていたのは先程までの寂しげなものとも違う、優しげな微笑み。  
「やっぱりセンパイは優しいです」  
その全てを包み込むような笑みは、照らし出す月が作り出す幻想的な雰囲気と相まって、望月を幾分大人びたものに見せる。  
全てを見透かされたようで、俺は急に照れくさくなって、彼女から目を逸らす。  
何故か心音が高鳴っていた。  
「お前用の優しさなんて持ってねぇよ。それよりほら、お前こっちだろ」  
赤くなりそうな顔を誤魔化すため、いつの間にか辿り着いていた十字路を、これ幸いに指し示す。  
「あ、着いちゃいましたねー」  
俺の側に駆け寄ってきた望月は、やっぱりいつもの望月だった。  
ていうか何でこいつ相手に赤くなってんだ、俺は。くそっ、なんだか負けた気がする。  
さっきの大人びた望月はきっと月が生み出した幻だ幻影だ錯覚だ。そうだそうに違いない。  
呪文のように念じたことが功を奏したのか、心臓の鼓動も徐々に収まってくる。  
俺が心の中で冷や汗を拭っていることも知らず、望月は普段通りの底抜けの笑みで、俺に挨拶を送ってきた。  
 
「ではセンパイ、また明日」  
「お前明日バイト休みだろうが」  
「あ、そうでしたそうでした。確かセンパイもお休みでしたよね?」  
こいつは何で俺のシフトまで覚えてるんだ。  
「それではセンパイ、またあさってに〜」  
「あ、望月、ちょっと待て」  
小学生のように手を大きく振って去りかけた望月を呼び止める。そして、目の前に白い箱をつきだした。  
「やる。持って帰れ」  
簡潔な文章で用件を済ませた俺に、望月は困ったような表情を浮かべながら、  
「センパイ、そのケーキ、私も店長に貰ってるんですけど……」  
まったく同じ箱を持ち上げる。  
「お前ケーキ好きだっただろ? 二個なら軽いとか言ってたじゃないか」  
「二個なら軽いんですが、2ホールはさすがに無理があります。賞味期限明日なのに」  
「あ? それじゃあ何か? お前は尊敬する桂木景樹くんに、三食ケーキで済ませろと?」  
「うわ。お聞きになりましたか皆さん。脅迫ですよ脅迫。先輩という権限と縦社会の構造を利用して可憐でか弱い乙女にパワーハラスメント炸裂です。最悪ですねこのヒト」  
「人聞きの悪い言い方するんじゃねぇ」  
「大丈夫ですセンパイ。私はセンパイが邪悪でも、そのことを誰かに言いふらしたりはしませんとも。思う存分善人の仮面をかぶっててください」  
「そういう言い方されるとむかつくなオイ」  
「その代わり、今度駅前にある『New Year』っていう喫茶店でデラックスストロベリーパフェを奢ってくださいね」  
「逆脅迫っ!?」  
ふと、この寒空の下で何やってるんだろうという素朴な疑問が胸の内に沸き上がってきた。  
…………いかん。いつの間にかミニコントになってきているぞ。  
「……いい加減話を戻すぞ、望月。俺ではこれだけの量を食いきるのは無理だ。  
ほら、お前の所、4人家族だっただろ? 何とかならないか?」  
最初からこういう風に素直に頼めば良かったのかもしれない。  
つーかこいつと話すといつも話が脱線しているような気がするな。  
「う〜ん。実はその中で甘いものが好きなのって、私だけなんですよー」  
「確かにそれだと厳しいな」  
冬空の下、二人揃ってうんうん唸りながら知恵を絞る。  
「センパイの胃腸の頑丈さに期待して、賞味期限を無視してみるというのはどうでしょう?」  
「それより俺は一度コントでよく見るケーキ投げを実践してみたいな。お前相手に」  
「いえいえいえいえっ。私には本格的なコントは無理ですので全力で遠慮しておきますっ。  
それより基本に戻りましょう。もったいないけど、捨てるというのは?」  
「駄目だ。このケーキの飾り付けは俺も手伝ったんだからな。血と汗と涙の結晶体を燃えるゴミに直行させるなど断じて許さん」  
「血と汗と涙の結晶体だったのに、売れ残っちゃったんですねー」  
「……禁句を口にしやがって。貴様、よっぽどおたふくになりたいと見える」  
「ああっ。嘘です冗談ですごめんなさいすいません許してください〜。だからほっぺはやめて〜」  
望月の両手と一進一退の攻防を繰り広げている途中に、ふと我に返る。  
いかんいかん、またずれてきている。  
俺は長いため息をひとつ吐くと、今晩の食事を諦める決心をした。  
 
「仕方ない。二人で食うか」  
「えっ! ……二人で、ですか?」  
俺の提案に望月が驚いた声を上げる。  
「ああ。俺が出来るだけ食うから、すまんが残りは頼む」  
俺の言葉にも望月はすぐに応えず、落ち着き無く視線をさまよわせたり髪を手で弄ったりしている。  
何をそんなに動揺してるんだ?  
「どうした、顔赤いぞ?」  
「ひゃうっ! あ、あの……」  
声まで震えている望月は、焦ったようにわたわたと手を動かしながら、  
「二人きりで……ですか?」  
「まぁそうだな」  
俺の応えに、望月は更に赤くなる。おいおい、本当にどうしたんだ?  
「せ、センパイの家で?」  
「こんな夜中に家族と住んでいる女の子の家に行けるか。その点、俺は一人暮らしだからな」  
望月はついに赤くなったまま黙りこくってしまう。身体はもうカチカチだ。頭にヤカンを置いたら瞬間沸騰するんじゃないかというくらい。  
俺は訳が分からず、望月に再度問いかける。  
「おい、どうしたんだ? 体調悪いのか?」  
しかし望月はそれには応えず、俺を上目遣いに見上げ、まったく予期しなかったセリフを投げ掛けてきた。  
「せ、センパイ…………もしかして………………誘ってます?」  
………………………………………………………………………………。  
「……………………は?」  
時間が止まった。何を言われたのかさっぱりわからない。混乱している。え? 確かに誘ってるって言えば誘ってるんだけど。そういう意味っすか?  
望月はなおももじもじと人差し指を絡めながら、言い訳するように言葉を紡ぐ。  
「だ、だってこんな時間に、一人暮らしの部屋に女の子を呼ぶってことは…………」  
えーと、落ち着け俺。もう日付も変わった午前0時。一人暮らしの若い男の部屋に、女の子を招き入れます。  
普通に考えて、その後の展開は恋人同士がするあれに持ち込まれますね? 少なくとも、相手はそう受け取るでしょう。いえー。  
「…………なわけあるかアホゥっっっっ!!!」  
全力で怒鳴った。海に届けとばかりに怒鳴った。  
「は、恥ずかしい勘違いするんじゃねぇっ! こっちまで恥ずかしいだろうがっ!」  
叫びながら、どんどん顔面の温度が上がっていくのは抑えきれない。  
「だ、だってっ! 誤解させるようなこと言ったのセンパイじゃないですかっ」  
「やかましいっ! 俺は夜中に後輩連れ込んで無理矢理悪さするほど落ちぶれちゃいねぇっ!」  
「わ、私センパイなら構いませんよ? もう既に心の準備はオオカミさんに食べられる前の赤ずきんですっ」  
「さ、このケーキ近所の犬に出もやるかっ!」  
「ああ〜嘘です嘘です待ってください〜」  
二人顔を赤くしたまま、照れ隠しのように、いつもの調子で、馬鹿みたいに騒ぎ続ける。  
本当、何やってんだか、俺達。  
 
 
 
さて、結局どうしたかというと……。  
一人暮らしの男の部屋に年頃の娘を呼ぶのはさすがにまずい時間なので、近くの公園でケーキを胃袋に収めることにした。  
コンビニで貰ったプラスチックのスプーンを二つ用意して、寒空の下、ケーキのお披露目をする。  
「それじゃあお疲れさまでーす。かんぱーいっ」  
と、望月が自販機で買った紅茶の缶を掲げてくる。  
「このクソ寒い中、何でそんなにハイテンションなんだ、お前……」  
「あれー? センパイ、ノリが悪いですよ? しっかりして下さい、センパイからノリを取ったらただの目つきの悪いヤンキーさんなんですから」  
「ヤンキーじゃねぇっつーの。俺は生まれてこの方、停学をくらったことが無いのが自慢なんだぞ」  
「それ普通だと思いますけど……。まぁそんなのどっちだっていいから、乾杯しましょうよ。かんぱ〜いっ。いえーっ」  
「いえー」  
恐ろしくやる気のない声でカンパイに応じたのだが、それでも彼女は満足したらしい。嬉々とした様子でケーキを口に運び、その味に舌鼓を打っている。  
「う〜ん、やっぱり『Noel』のケーキは絶品ですねぇ〜」  
「お前、こんなに寒いのにそんな冷たいものよく食えるな」  
「何言ってるんですか、センパイ。クリスマスですよクリスマスッ。やっぱりケーキがないと、真のクリスマスと呼べないじゃないですか〜」  
「もう過ぎたけどな。それにあるのはケーキだけで、プレゼントも何もないだろ」  
素っ気なく返した俺に、しかし望月は柔らかく微笑して、  
「いいんです。――プレゼントなら、神様にもう貰っちゃいましたから」  
本当に嬉しそうに、その表情を俺に向ける。  
「あ? 何だそりゃ」  
「秘密です。えへへ〜」  
この寒空の下、日付もとうに変わって。  
「ね、センパイセンパイ、メリークリスマースッ」  
人気のない公園で、二人でケーキを食べて。  
「だからもうクリスマスは過ぎただろ」  
いつもみたいに馬鹿やって、普段と何も変わらなくて。  
「それじゃあ、メリーアフタークリスマースッ」  
「何だそりゃ」  
本当、何やってんだか。  
「メリークリスマスの後だからメリーアフタークリスマスですよ」  
「んな言葉はないだろ」  
それでも、こいつの笑顔を見ていたら。  
「いいじゃないですか。ほらセンパイ、メリーアフタークリスマスっ」  
それもいいんじゃないかって、思った。  
「……メリーアフタークリスマス」  
「はいっ。メリーアフタークリスマスですっ」  
望月が、こんなに楽しそうに笑っているんだから。  
 
 
空から、雪が降り始めていた。  
たぶん、それはきっと。  
鈍感な青年を好きになった少女への、神様からのささやかな贈り物。  
 
 
 
 
(おわり)  
 

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